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「生駒の神話」のストーリー(その骨子)【解説付版】<2020.4/その後、随時添削>

【解説付版】でない方

(図版はクリックで拡大できます。)

生駒の神話が生まれた時代とその舞台

 ①この神話が生まれた時代は、弥生時代、つまり、海の向こうからやってきた渡来人がもたらした水田耕作が西から東に伝 播した、縄文(狩猟採集漁労)から弥生(水田耕作が主業で狩猟採集漁労は副業)への移行期。

04  ② その舞台⇒右地図ご参照

   ・大阪(河内)平野・・・弥生時代の中頃(2000年前ごろ)までまだ海(河内湾)でした。淀川と大和川が土砂を運ぶことで潟化(外海との隔離化)が進み(河内潟)、弥生時代の後期の1700年前ごろにはまだ海と繋がる湖(河内湖)となり、その後も湿地化・乾地化が徐々に進行し、江戸時代には湖は池(深野池ふこうのいけ)となりました(河内湾・河内潟・河内湖 ご参照)。

   ・奈良盆地・・・大阪(河内)平野が河内湾であったころは奈良盆地は海と繋がる奈良湖(海水湖)でしたが、大阪(河内)平野の湿地化・乾地化に歩調を合わせて、海水湖→海ときり切り離された淡水湖→湿原盆地→乾地盆地と姿を変えていきました(奈良湖ご参照)。

   ・日本神話の「国生み神話」においてイザナギ・イザナミが産んだ豊秋津洲とは生駒のこと(豊秋津洲とは、まだ島・半島であったときの生駒のことご参照)で、ここが生駒の神話の舞台となりました。

「生駒の神話」のストーリー(その骨子) 

~ <※>が解説部分 ~  

海の向こうからやってきて日向(ひむか/現宮崎県)の国を治めていたイワレ彦<※1>は、九州を征したのち、内つ国(うちつくに/国の中心/生駒山の東側/現在の生駒~奈良盆地周辺)を征服せんと瀬戸内海を東進して難波(なにわ/現77_20200121170801 大阪平野右写真/大阪平野は、生駒の神話が生まれた弥生時代に、海湾から海と繋がる湖へ)にいたり、そこより生駒山を越えようとした<※2>。

   <※1-1>神話のイワレヒコは、歴史的には「遅い時期にやって来た渡来人」

   ※1-2神話では、イワレヒコは、日向に「天あま降り(降臨)」してきたニニギノミコトという神のひ孫となっているが、神話で「天(あま)から降りてきた」とは、歴史的には「海(あま)の向こうから渡来してきた」こと。神話を歴史であるかのように教えさせられていた戦前の小学校では、教師は生徒から「天から降りるって落っこちはしませんか」と質問されて答えに窮したという(ご参照.jpg)。

       神話系図 天照大神天忍穂耳尊アメノオシホミミノミコト瓊瓊杵尊ニニギノミコト 火折尊ホオリノミコト(彦火火出見尊ヒコホホデミノミコト鸕鶿草葺不合ウガヤフキアエズノミコトイワレヒコ(実名は、火折尊の別名と同じ彦火火出見尊/即位して神武天皇

   <※2>神話の「神武東遷」は、歴史的には「邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征 」に記載されている出来事。

このとき、内つ国ではナガスネ彦<※1>が、イワレヒコより先に海の向こうから内つ国にやってきたニギハヤヒ<※2>と共に、戦う(人間を殺す)ことのない平和なクニづくりをしており、狩猟採集漁労に生きるナガスネヒコたちは、武器でない狩猟用の弓矢しか持たなかったが、侵攻軍を撃退するため、雨のように矢を放った。侵攻軍を射抜くためではなく、前進してくる侵攻軍の眼前に天から降ってくる矢で鉄壁の壁をつくることで、侵攻を許さない意思を突きつけ、侵攻を阻むために。ナガスネヒコたちは、投石や落岩等も駆使して、侵攻軍を殺すことなく撃退した(クサカの戦い)<※3>。

   <※1>神話のナガスネヒコは、歴史的には「列島先住民(縄文人)」

          このページ<日本列島先住民族=狩猟採集民族=縄文人> についてご参照   縄文と弥生ご参照 

   <※2-1神話のニギハヤヒは、歴史的には「早い時期にやって来た渡来人」。

           この渡来人たちは、水田耕作民であり、狩猟採集漁労民の列島先住民(縄文人)と衝突したものの、「遅い時期にやって来た渡来人」 とは異なって、住み分け(狩猟採集漁労の妨げにならない範囲で水田耕作をさせてほしいこと)と友好を懇願するという態度を崩さなかったため、衝突は戦いにまで発展せず、両者は住み分け・共存・融和してクニづくりをしていった。かかる歴史を神話は、「イワレヒコの妹のミカシキヤ姫とニギハヤヒは婚姻しウマシマジを産んだ」と物語っています。

   <※2-2>神話では、イワレ彦は東征開始前に東征する動機を次のように語っています。

        (海の神である)塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと「東の方に美(うま)し(良い)土地がある。青い山が四方を囲んでいる。その中に天磐船(あめのいわふね)に乗って飛び降って来た者がいる」とのこと。思うに、その土地は大業を広め、天下を治めるのち良い場所だろう。きっとこの国の中心だろう。その飛び降って来た者とは饒速日(ニギハヤヒ)というものだろう。その土地に行って、都をつくろうではないか。

          これは、「遅い時期にやって来た渡来人」が列島の中心であった内つ国に進出しようとする前に、すでに「早い時期にやって来た渡来人」は内つ国に住まいしていたことを物語っています。

   <※2-3> なお、ニギハヤヒは磐船に乗って哮峰たけるがみねご参照)に飛び降り、〔鳥見とみ〕白庭山はくていざんご参照)に遷ったとの神話もあります。これは弥生時代の早い時期にはまだ、天野川上流まで内海(ないかい)となっており(これは、海の神を祀る住吉神社<ご参照>が天野川源流に建立されていることでも分かります)、「早い時期にやって来た渡来人」が、船に乗って天野川上流までやってきて、白庭山の候補地である住吉神社付近に上陸したことを物語っています。  

   <※3「殺戮」 は悪というより不可能なものというのが縄文人の本然の性であった(このページの「縄文人の本然の性とは何か」ご参照)ため、ナガスネ彦は侵攻軍を撃退するためには「戦わず(「殺戮」せず)して勝つ」ことをしました。これは、前6~5世紀の孫子の「戦わずして勝つ」兵法(1つ目は外交交渉、2つ目は智略活動、3つ目は相手の戦意を喪失させる構え)の3つ目の兵法であったといえます。   

 ただ、イワレヒコの兄である五瀬命(いつせのみこと)は、流れ矢に当たってひじを負傷した が、他者の幸せを祈って執着を絶つことで回復力を高めることをせず、逆に、他者に報復するとの執着を捨てなかったことで体力を低下させ、重傷ではない傷が原因となってのちに死亡した。

   五瀬命のエピソード

      ①五瀬命 は「ナガスネ彦の放った矢に当たって壮絶な死を遂げられた」とした方が、侵攻軍の報復心を高めることになるのに、わざわざ、「(司令官でありながら)流れ矢に当たってひじを負傷(するというお粗末な行為を)し、(更にお粗末なことに傷の手当てが不十分だったので、重傷ではない傷が原因で)1か月後に死亡し(て報復できなかったというお粗末な結果に終わっ)た」というような侵攻軍の士気を低下させる、または、侵攻軍がお粗末な軍隊であることを印象付けるようなエピソードが挿入されていることが、書紀の謎の1つとなっていますが、その答えは、「日本書紀」は「非戦の書」でもあるからです。

      ➁このエピソードは、「他者の幸せを願うことで自己の執着を絶つことをしないこと」または「執着(この場合は、他者に報復することに執着)を保持すること」は「心身の力を低下させる」または「生きることの苦しみから自己を解放させ得ない」ことを教えています。このことは、生駒の神話が、前5世紀前後にブッダが唱えた縁起の法の影響を受けているのではないかとの指摘がある理由の1つとなっています。      

      ③すべての自然に神は宿り、人間に恵みを授けてくれる。しかし、自然=神はときに人間にとって他者となって怒り、災難=祟りをももたらす。それを鎮めるためにも「他者への感謝」を捧げなければならない。「感謝することで災難を回避する」というのが縄文人の発想である。この発想の大切さを後世に伝えるために、このエピソードは、わざわざ神話に挿入された。

内つ国征服に執着する侵攻軍は、太陽に向かって進んだので撃退された<>と思い、迂回して南東方向から太陽を背に内つ国を攻撃しようと考えた。

   <>生駒の神話は何らかの 太陽信仰とのかかわりがあったとされています。

侵攻軍は迂回ルートを進む途上、その先々で、食糧・寝所・休養所等を得るために、ナガスネヒコたちと同様にこれまで戦う(人間を殺す)ことのない世界に生きてきて戦うということなど知らなかった人々<>を一方的な攻撃や謀略によって殺戮(食べるため以外の目的で殺すこと)した。

   >神話上のこれらの人々も、歴史的にはナガスネヒコたちと同じ「列島先住民(縄文人)」。彼らはなぜ団結して戦わなかったのかという疑問も湧きますが、そもそも戦うという概念がなかったということの他に、これまで外敵と戦うことがなかったので、団結して生きていくという概念はあったものの、団結して戦う必要がなかったため、その概念をもっていなかったのです。このことも神話は伝えています。  

侵攻軍が殺戮しているという知らせを受けて怒りをたぎらせたナガスネヒコたちは、再び侵攻軍と会い見まえた時(トミの戦い)、侵攻軍をせん滅(殺戮)せんとして、狩猟(食べるために動物の命をいただくこと)のために神から授けられた弓矢 を武器に変え、彼らは軍隊に変質した。

   >弓矢については、弓矢ご参照

ナガスネヒコ軍が、侵攻軍をせん滅するため矢を一斉に放とうとしたまさにそのとき、ナガスネ彦たちのトーテム(守護神)である金の鵄(金鵄)が突然に飛来し※1 、激烈な閃光を放ってナガスネヒコたちから弓矢を取り上げ全員を打ちのめして殺戮を阻止し、殺戮することで堕落することからナガスネヒコたちを守った※2 。侵攻軍もまた、命の尊厳をないがしろにする者を許さない金の鵄の激烈な畏敬・畏怖の力で全員が打ちのめされひれ伏し改心した※3>。金の鵄は、堕落していたイワレヒコたちをも救済したのである<※4>。

01    ※1>金の鵄は、北の鳥見(トミ)<奈良湖北西部/金鵄発祥の地>を発し、奈良湖上空を飛翔して、南の鳥見(トミ)<奈良湖南東部/金鵄飛来の地>のトミの戦いの地に飛来しました(2つのトミの位置は右地図ご参照)。なお、トミはトビが変化したもの<トミ(鳥見・登美・富)・トビ・富雄ご参照>。 

   <※2ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?ご参照

   <※3>このことを記紀は述べていません(隠している)。

   <※4>金の鵄はナガスネヒコたちの守護神ですが、イワレヒコたちをも救済したのです。これを、記紀の作者は、あたかも金の鵄はイワレヒコたちを援けて、賊軍たるナガスネヒコを戦わせなくした、というように改竄したのです。  

そののち、ナガスネ彦・イワレ彦・ニギハヤヒの三者は話し合いをした。それの内容は次のようであった。

 ①ナガスネ彦は、殺戮者は殺害されるべきであり、それを実行するためであれば、自らの、殺戮が 必要ない・できない、という本然の性(非戦・避戦の精神)を失ってもやむを得ない、という考えを改めなかった。

 ②イワレ彦は、これまでの自らの殺戮を心から反省し、先住民の本然の性を我がものとして殺戮の無い平和なクニづくりをしていくとの不退転の決意を述べた<※1> 。

 ③ニギハヤヒは、何度もナガスネ彦を説得したができず、涙を呑んでナガスネ彦を追放することを決意した。<※2>

   <※1>イワレ彦(渡来人を体現)がナガスネ彦(先住民を体現)との出合いの中で、先住民の本然の性を我がものとしたことは、先住民の本然の性(=非戦・避戦の精神)が、 先住民と渡来人の融合によって形成された日本人の集団集合の無意識となったことを神話的に表現したものです。  

   <※2>この部分を日本書紀は、「饒速日命は・・・・・長髄彦は、性質がねじけたところがあり、・・・・・ということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。」という風に改竄している。また、ナガスネ彦の最後は、古文献によって異なる(このページご参照)。 

三者の話し合い後、 ニギハヤヒは、平和なクニづくりを行うという約束の下に※1 、殺戮を反省し改心して殺戮者から統治者に変身を遂げた<※2>イワレヒコに内つ国を国譲り※3>し、イワレヒコは神武天皇として即位でき、ニギハヤヒは即位した天皇に「の魂たま」<倭(わ・やまと/のちの日本)を治める魂(たま・モノ)>を付与する※4モノノベ(魂モノの部 )の祖となった。一方、金の鵄の守護がなければ殺戮することで堕落していたナガスネ彦は指導者の資格を失い内つ国を追われたニギハヤヒは本然の性を持ちながらこれを放棄したナガスネ彦ではなく、先住民の本然の性を我がものとしたイワレ彦に未来を切り開く希望を見出し、彼にそれを託したのである。

 ナガスネ彦は北方に去った。ニギハヤヒとその妻にしてナガスネ彦の妹であるミカシキヤ姫とその子のウマシマジをはじめ、ナガスネ彦を愛する人々に見守られて・・・・・。イワレ彦も高台から、家臣と共に、ナガスネ彦を姿が見えなくなってもいつまでも膝ま付き頭を垂れて見送った。イワレ彦ははっきりと理解していた。 これからの統治者になるものは、殺戮が「必要ない」「出来ない」人間ではなく、それを「決してやらない」 「許さない」人間だということを。ナガスネ彦は、自分がいなくても、そのような者が統治するクニづくりができるようにするため、自らは敢えて追放される状況・立場に身を置いたのだということを・・・・・。     。  

   <※1>神武以後の天皇はこの約束を守ったか⇒(景行天皇父子の)「言向和平」説話このページご参照)が古事記<景行記>に記載されていることを見ると、約束を守る努力はされていたことが分かります。 

   <※2>統治者とは、当初はクニを統(す)べり(争いなくまとめ)治める(ととのえる)者であった(※a)が、クニに国家(権力機構)が確立していく(※b)と、国家を統治する(「権力=強制力」でおさえととのえる)者となっていった。 

      (※a)クニを統(す)る(争いなくまとめる)尊者は、「皇(スラ)尊or命(ミコト)」と呼ばれましたた。もともと日本語では「寒い」を「さい」 とも「さい」 ともいうように、また、馬は「ば」(良馬など)とも「ま」(絵馬など) とも読むように、「は行」の濁点文字「ま行」の文字になることがあり、「すべる」が「すめる」になり、これに「皇」という漢字が当てられたと思われます。

      (※b)農耕・牧畜民である渡来人がクニで本格農業(農耕)を展開していく中で国家が成立していきましたが、「農業(農耕)」と「国家(の成立)」については、それに関する記事(その1ミラーその2.jpgその3.pdfその4ミラー)をご参照ください。なお、国家成立の世界史的図式はこれです⇒「狩猟採集時代から農耕と定住の時代に入ったときのは大きな価値観の転換があった。手に入るもので満足し、食料が手に入らなくなったら移動するというその日暮らしから、計画を立て努力して働く暮らしになった。それまで考えつきもしなかった、蓄財が可能になった。都市が生まれ、職業が分化し、貨幣で物やサービスのやり取りをするようになった。そして、権力と不平等と搾取が生まれた。」(この記事ミラーより)

   <※3-1 国譲りご参照。「改心し2度と「殺戮」 はせず平和なクニづくりを行うという約束をしたものに国譲りされた」という神話は、日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」が創り出したものでした。

   <※3-2 >イワレ彦をして改心させ統治者(クニを争いなくまとめととのえる者)たらしめたのは、これまで彼によって殺戮された死者でした。金の鵄が放った激烈な閃光は死者のエネルゲイア(正す力)だったのです。権力への歯止めの主体は死者であることを見える化しているのは、アジア太平洋戦争の死者(300万人以上の日本人と3000万人以上の諸国民)のエネルゲイアによって制定された日本国憲法第9条ですが、それは、神話のなかでもすでに表現されていたのです。権力への歯止めの主体に死者がなることで、その死は犬死(不本意な無念の死)の状態から救われるのです。

   <※4-1 >これを行なう儀式を大嘗祭いじょうさいといい(これは、毎年おこなわれる単なる五穀豊穣を祈るだけの儀式ではなく、天皇即位後1回のみおこなわれる最重要な儀式)、これによって「倭の魂」を付与されなければ、即位の儀式をしただけでは日本を治める資格をもった天皇にはなれません。

   <※4-2大嘗祭はいわば強固な非戦・避戦の精神をもったもののみに天皇の資格を与える儀式ですが、象徴天皇制となった今日では、日本を治めるのは天皇ではないので、大嘗祭は必要なくなったにもかかわらず、天皇が日本を治めることになっていた戦前のやり方を見直すことなく踏襲して今日もなお、天皇の代替わり時に実施されています(「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」ご参照)。大嘗祭という決定的な儀式に触ることは、天皇陵とされている古墳に触る以上に権力者にとってリスクの大きいものだからです。 

   <※4-3の魂たま」は「和の魂たま」(和魂わこん)と言い換えることができます。「和魂」とは、「敵対するものを融和させる」「争いを治める」魂のことで敵対するものを融和させ、争いを治める英知」=非戦・避戦の精神と言い換えることができます。これは神話では、ニギハヤヒとして登場します。「和魂=ニギハヤヒ」はナガスネヒコと共にありましたが、ナガスネヒコが「殺戮」 の意思をもった瞬間にナガスネヒコを離れ、金の鵄を遣わして、または、自身が金の鵄に化身してナガスネヒコを打ちのめしました。そして改心した(つまり、2度と「殺戮」はしないと決意した)イワレヒコにつき、倭を治める資格を与えました。そして、歴代の天皇に付与されていきました。<以上は、この見解を参考にして記しました>

         「倭=和」は、穏やかで仲良くすることで、「大倭やまと=大和やまと」はみんなが仲良くすることであり、「大和の国=日本」は、「和魂」を付与された(身につけた)天皇が治めるクニです。神話でいう「和魂」を付与された(身につけた)イワレヒコが神武天皇として即位したことは、歴史的には「大和の国=日本」というクニがつくられたことを示しています。しかし、クニに、「武力=暴力=強制力」を属性とする国家が確立していくと、上記したように、当初はクニを統(す)べり(争いなくまとめ)治める(ととのえる)者であった統治者は、国家を統治する(「権力=強制力」でおさえととのえる)者となっていき、統治者としての天皇は「和魂」と「権力」とのはざまに置かれ苦悩することになります。

          その苦悩を最も見える化した天皇が聖武天皇です。彼が、縁起の法<全てのものは支え合っている(ので殺戮などありえない)という教え>を根本の教えとする仏教を信奉し、行基に命じて大仏を建立させ、各地に寺院を建てさせたことは、それを見える化させました。また、彼が遷都を繰り返した背景には、その苦悩があったという見方も可能です(遷都が繰り返されたことによる平城京の荒廃を嘆く声については、万葉集 巻6-1047の歌をご参照

          天皇の苦悩は思いがけないかたちで解消されます。鎌倉幕府3代執権・北条泰時が「(日本史上唯一の)革命」、つまり「朝廷=天皇権力」の打倒を断行し、現在に至る象徴天皇制(武士や国民など何らからの後ろ盾やお墨付きによって日本の象徴的な地位が維持される制)を創出することで天皇は「権力」から切り離され、「和魂」と「権力」とのはざまから解放されました。(北条泰時の「革命」については、これをご参照)

          「権力」と切り離され「象徴」となった天皇は、視覚的にも聴覚的にも人々の前に姿を現すことは許されず、権力者は天皇を隠しました。そのため、権力者を除いて人々は天皇の存在を忘れていきました。なのに、権力者は天皇を廃止しようとはせず、廃止せんとした権力者もついに廃止できませんでした。天皇を廃止することは、殺戮が行われる時代にあって、縄文時代に起源を持ち日本人の心の核心となってきた「和魂」(=日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」)を抹殺することであり、それはあまりにも恐れ(=祟り)多いことであったからです。

          その後、明治維新で天皇は再び「和魂」と「権力」とのはざまにおかれました。特に、昭和天皇は、帝国陸軍によって「和魂」(=非戦の意思)を踏みにじられ「権力」の行使(宣戦)を強制されました(ご参照ミラー)。

          天皇は、昭和の敗戦で日本国憲法が成立すると約80年ぶりに「権力」から切り離されました。日本国憲法成立まで「権力」を付与されることで苦悩した昭和天皇を間近で見ていた平成天皇は、「和魂」の発揮に注力することで「権力」からの独立に努め、象徴天皇制を守り固めました。そして、自分の死後も象徴天皇制が守られていくことを確信するために、違憲(第四条「天皇は国政に関する権能を有しない」違反 )を覚悟で、生前退位を断行しました。それに対し違憲との疑義があると唱える学者も激しく抗議はしませんでした。それは「権力」の行使ではなく、「和魂」の発揮だったからです。こうして、生前退位は事実上の大嘗祭(次期天皇に「和魂」を付与する儀式)となり、大嘗祭は不要となりました。これは、平成天皇、皇位継承者第一・二位の一致した考えで、それが、皇位継承者第二位(秋篠宮)による政府決定と異なる異例の発言(大嘗祭は、国費ではなく、天皇一家の私的活動費である「内廷費」でまかなう身の丈にあった儀式とすることが「本来の姿」 )の背景と思われます。おそらく、令和天皇もしかるべき時期に生前退位し、そのときは大嘗祭はおこなわれないか、「内定費」でまかなうささやかなものとなるでしょう。

          なお、平成天皇の「和魂」の発揮が見える化したのがこの場面でした(左場面の解説記事.pdf)。

   <※4-4> 歴史的には、ニギハヤヒは「早い時期にやってきた渡来人」のことで、先住民(縄文人/神話上はナガスネヒコ)と相対した際に、縄文人の本然の性ご参照)に畏怖・畏敬を受け、縄文人に教わりながら「敵対するものを融和させ、争いを治める英知」 を身につけ、先住民と共存・融合していきました。つまり、神話でいう「和魂=ニギハヤヒ 」は歴史的には「和魂(非戦・避戦の英知)=渡来人が先住民より学び会得した英知」のことです。そして、共存・融合を進めていた「早い時期にやってきた渡来人」と先住民は、 「殺戮 の体験がある※1、遅い時期にやってきた渡来人※2」がやってきたとき、「非戦・避戦の英知」を発揮して衝撃を与え、衝突・争いは最小限におさめようと努めながら彼らを受け入れ、縄文(狩猟採集漁労)と弥生(水田耕作)を融合させた里山をつくっていきました(これが、神話では国譲りと表現されています)※3。次第に形成された国家の力が強まるにつれ、その制御はむずかしくなっていきました(中国の歴史書がいう倭国大乱など)。しかし、一方、縄文人の本然の性は、縄文人と渡来人とが融合して形成されていった日本人(大和民族=大いなる和の民族)の「和の精神」(集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」)となりました。この精神は、日本において国家の権力を制御できない時代(今日まで2000年程度)には、押さえられてきましたが、今日では、逆に、この精神が国家の権力の暴走を抑えています(今のところは)。 

     ※1 遅い時期にやってきた渡来人の殺戮の体験を、神話では、イワレヒコ率いる侵攻軍の殺戮として語っています。 

     ※2 先住民と「早い時期にやってきた渡来人」との出会いは、「非所有」vs「所有」という形をとりましたが、先住民+「早い時期にやってきた渡来人」と「遅い時期にやってきた渡来人」との出会いは、「非所有」+「所有」vs「所有」という形をとりました。

     ※3 日本では、国譲り(先住民は移住民の土地所有を認め、共存・融合しながら、人と生き物が共に暮らす里山を形成していった)が行われたのに対し、北米・南米・オセアニアでは、移住民によって先住民(ネイティブ=アメリカン・アボリジニなど)や生き物(バッファロー・カンガルーなど)は絶滅させられ、または、大量殺戮された。この違いは、時代の違いから生じただけなのでしょうか

   <※4-5>イワレヒコを殺戮せんとして「縄文人の本然の性」(ご参照)を捨て去ろうとしたナガスネヒコが打ちのめされ指導者の資格を失い内つ国を去らざるを得なかったことは、縄文人が渡来人と融合して日本人を形成しても、「縄文人の本然の性」は失われることはないことを伝えています。また、殺戮してきたイワレヒコが改心して「縄文人の本然の性」を受け入れたことで天皇に即位できたことは、渡来人が縄文人と融合して日本人を形成するのは「縄文人の本然の性」 を受けついでいくことを伝えています。つまり、ナガスネヒコとイワレヒコの神話(物語)は、日本人が形成されたとき、「縄文人の本然の性」が日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」 となったことを伝えています。  

全体の解説> 

)生駒の神話は、縄文人の本然の性ご参照)が、日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」 となった過程を示す物語りであるといえます。その過程を図式化すれば次のようになるでしょう。

  ①ナガスネヒコの本然の性(縄文人の「非戦・避戦の精神」)は、未否定(否定されるという試練を受けたことのない状態=即自)だった。

  ②ナガスネヒコの本然の性は、イワレヒコ(遅くに渡来した弥生人)の「武力=実力=暴力=強制力」によって否定されそうになるという試練を受けた(対自)

  ③ニギハヤヒ(早くに渡来していた弥生人で縄文人との住み分け共存を実現していた)が、本然の性の否定を否定した。それによって、ナガスネヒコの本然の性は、いかなる試練があろうとも(強制力を属性とする国家の権力によって抑え込まれることはあっても)滅ぶことのない、(縄文人と弥生人の融合によって形成された)日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神 」となった(否定を否定することで否定されざる次元へと引き上げられた=止揚)。

)(1)の図式は、次の図式とパラレルになっています。

  ①縄文人は、一次自然(原生林等の手つかずの自然)にて生きていた。

  ②渡来人=弥生人は、水田耕作をするため一次自然(原生林等)を否定(破壊)した。

  ③間もなく、一次自然(原生林等)の否定(破壊)の否定(自然の再生)により、縄文人と弥生人が融合して形成された日本人が生きる「縄文と弥生の要素が融合した、人と生き物が共に暮らす命響き合う美しい自然の世界」=「里山二次自然)」が広がっていった。 

)神武東征の最後の記述が、日本書紀と古事記とで大きく異なっています。前者では、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺害して戦いを終わらせてイワレヒコに帰順(国譲り)した、とあり、後者では、イワレヒコは戦い前に「撃ちてしやまむ」と歌って気勢をあげたが、そのあと、戦いの描写はなく、いきなり、ニギハヤヒの帰順の話に移り、ナガスネヒコがどうなったのかの記述がありません。ただ、いずれも「イワレヒコはナガスネヒコに勝利した」との記述がないことは共通しています。

 記紀の記述が全く異なっており、いずれも「イワレヒコはナガスネヒコに勝利した」と記述ができなかった、との記紀の謎に対する答は、国家統治の必要性から作成された記紀ともに次のことを隠しているから、です。

 イワレヒコ(遅くに渡来した人々/国家形成意欲強し)は、ニギハヤヒ(早くに渡来し、先住の人々と融合・共存していた人々/国家形成意欲弱し)の介添え・忠告・助言を受けて、 ナガスネヒコ(先住の人々=縄文人/国家形成の必要がないので、その意欲なし)の気高さの畏敬・畏怖の力に打たれ、殺戮を反省して改心し、みんなが融合・共存していくクニをつくっていくことを約束することで、受け入れられた(クニづくりを許された)。そして、その約束を守ることが、大和(大なる和)の国の原点となり、それを確認する儀式として大嘗祭(ご参照)が、天皇が即位する際に行われることが慣習となった。

 記紀の作者は、クニの原点に、国家統治者の祖先が戦いで勝てないながら、もしくは、敗北しながら、「反省して改心した」ことで受け入れられた(クニづくりを許された/国譲りされた) ということは書けなかったのです。

 こうして、イワレヒコ(遅くに渡来した人々)が受け入れられたのちも、彼らが統治する国家が形成されるまでには相当の時間を要しました。このことを反映した記述が「欠史八代」です。

  

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