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矢田丘陵(記紀・万葉では「平群の山」)のこと  

矢田丘陵地理など

 ①生駒の地理ご参照  

 ➁矢田丘陵(wikipedia)は、生駒山地(生駒山脈)と並立していることから、以前は、後生駒山脈と呼ばれることもありました。また、生駒山第1ヴァイオリン、平群の山は第2ヴァイオリンといえます。

 ③古くは、「斑鳩いかるが三十六峰」、「いかるかみねつづき」といわれました。そのゆえんは、法隆寺が立地する矢田丘陵南端付近は斑鳩と呼ばれ、矢田丘陵は、そこから北へ伸びる、36の峰続きであるからです。 

 矢田丘陵を越えて生駒谷・平群谷と鳥見谷とを結んでいたのが平群の山越(矢田丘陵越)の道で、それと結ばれていたのが、生駒山地を越えて生駒谷・平群谷と河内(現大阪府)とを結んでいた生駒山越の峠道です

 ⑤3D矢田丘陵全山縦走路ヤマレコさん<16. 2.28>より)

  3D矢田丘陵全山縦走路一覧・・・各縦走路を3D画面に切り替えることができます。

 ⑥この画面の山岳マップから生駒山地・矢田丘陵の航空写真をみることが出来ます。

 ⑦写真地図基準点(三角点等)地図 ←画面中央の山地が矢田丘陵です。

 

)矢田丘陵も生駒山とともに、生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)の舞台

長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵

神武東征の当初の目的地は、矢田丘陵北端に位する白谷を中心とする生駒四河川源流・分水嶺地域と思われます(神武東征の目的地は移行したご参照)。

 

)矢田丘陵の山中や麓には生駒神話ゆかりの古蹟があります

 北から順に、「鳥見白庭山」の碑、「長髄彦本拠」の碑、ひのくぼやま<桧窪山・檜の窪山・日の窪山>、住吉神社夫婦塚王龍寺神武峰矢田坐久志玉比古神社 <これらについては、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照>

 

矢田丘陵東麓には日本最大の円墳である富雄丸山古墳もあります。

 

矢田丘陵の城・・・生駒の城塞ご参照

 

日本書紀<景行紀>に登場 

(・・・・・は省略部分)

 天皇は・・・・・子湯県こゆのあがた(現宮崎県児湯郡)においでになり・・・・・そのとき東方を望まれて、お側のものにいわれるのに、「この国は真直に日の出る方に向いているなあ」と。それでその国を名付けて日向ひむかという。この日、野中の大石にのぼって、都をしのんで歌をよまれた。

   愛しきよし 従吾わぎへの家方かたゆ 雲くもち来も   やまとは 国の真区まほらば 畳たたなづく 青垣あをがき 山やまこもれる 倭やまとし 麗うるはし   命いのちの 全またけむ人ひとは 畳たたみ 平群の山の 白しらがしを 髻華うずに挿せ※ 此子このこ

   (歌の現代文訳)なつかしいなあ、我が家の方から、雲が湧いて流れてくるよ。  大和は最もすぐれた国。青々とした山が重なって、垣のように包んでいる。大和の国は美しいなあ。  命の満ち溢れた人は、平群の山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿しなさい。この子よ。

 と、これを国しのびの歌という(以上、歌部分は修正して講談社学術文庫版より引用/太字は引用者による)

      ※命の全けむ人・・・生命の完全な(命の満ち溢れた)人の意で、(生命力の衰えた高齢者でなく)若者のこと。       

      ※愛しきよし・・・「よ」は詠嘆、「し」は強調の序詞。なつかしいの意。従吾を修飾。

      畳薦も・・・まこもの葉を編んだ敷物を「一重」「二重」と数えるので、「重」から「平群」にかけた枕詞

      髻華に挿す・・・花や青葉の枝を髪に挿すこと。簪かんざしの起源と思われる。

      ※此子・・・その場にいる者に向かって、皆の者よとよびかける語。 

 

古事記<景行記> に登場

(・・・・・は省略部分)

 倭健命やまとたけるのみこと、・・・・・能煩野のぼのに到りまししとき、国を思しのいて歌曰うたひたまはく、

   倭やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山隠やまごもれる 倭しうるはし

 また歌曰うたひたまはく、

   いのちの 全またけむ人は たたみこも 平群の山の くま白檮(かし)※が葉を うずに挿せ その子

 この歌は国思歌くにしのひうたなり。

      くま檮(かし)・・・くま(熊)は「神」に通じる接頭語で、神聖なの意を添えたもの。

 (現代語訳)倭健命・・・・・能煩野のぼの(現鈴鹿山脈の野登山ののぼりやまの麓においでになった時、故郷の大和国をしのんでお歌いになった歌は、  大和国やまとのくには国々の中で最もよい国だ。重なり合って、青い垣をめぐらしたような山々、その山々に囲まれた大和は美しい国だ。 またお歌いになった歌は、 命の完全な人は、平群の山のくま樫の葉を髪に挿して、生命を謳歌するがよい。みなの者よ。 この二首は国思歌くにしのひうたという歌である(以上、講談社学術文庫版より引用 )

 

国思歌(国しのびの歌)になぜ平群山が詠われるのか 

 (5)の景行天皇が歌った3首と(6)の倭健命が歌った2首は、国思歌です(両者はほどんど同じ小異歌)。それは故郷を偲ぶ歌で、上代歌謡の1つです。上代歌謡とは、上代(ここでは、奈良時代以前)の歌謡のことです。歌謡とは、のちに和歌として整えられていく和歌の原型といえる、作者不明の、人々に親しまれた歌で、多くは文字に記されることなく失われてしまいましたが、その1部が古事記、日本書紀 、風土記、万葉集、古語拾遺、琴歌譜、仏足跡歌碑などに収録されており、古事記と日本書紀に収録されているそれは「記紀歌謡」と呼ばれています。

 歌謡は、なんらかの集つどいの時に歌われました。(5)の3首は景行天皇が、(6)の2首はその子ヤマトタケルノミコト(古事記では倭健命、日本書紀では日本武尊)が、それぞれ皆を集めて故郷を偲んだ集いのときのものです。この親子は、故郷を偲んだときにどちらも、「倭やまとは国のまほろ(ら)ば・・・・・」の歌謡を選んで歌い、続いて、故郷の青垣をなす山々の代表・象徴と思う平群山を詠んだ歌謡である「平群の山の・・・・・ 」の歌謡を歌ったのです。この親子にとって平群山はそれほど大切な山でした。 

 平群山は国思歌に詠われるほど、また、景行天皇・倭健命親子がそれを詠う歌謡を歌うほど、なぜ大切な山だったのでしょうか。

 その答え⇒平群山を詠んだ歌には必ずといってよいほどに「樫」(白樫しらかしまたは一位樫いちいがし)がでてきます。(5)・(6)の歌、(8)の歌、(9)の(1)の①の歌、すべてそうです。樫は、堅くて強く長もちし実(どんぐり)が沢山なる常緑の生命力あふれる長寿・豊穣を象徴する吉木で、その感化を受ければ霊力や生命力を授かると尊ばれていました。現在でも、カシ類を正月の門松や墓 ・神棚の供花としたり、田の水口や畑に立てたりして、家の繁盛や豊作を祈る習俗があちこちに残っています。平群山は、かかる樫が繁茂する山でした。 また、平群山は、(9)の(1)の①の歌に「藥獵くすりがり」がでてくるように、薬草摘みや狩猟が盛んな場所でした。このように平群山は、弥生時代になっても、弥生文化(自然に働きかけて自らが生命を育てる農耕文化で、それゆえ、飢饉と裏表の、欲望に歯止めをかけるのが難しい、土地と水を取り合う争いの文化。季節が替れば生命力が失われるかのように葉を落とす落葉広葉樹林文化)でない縄文文化(自然から生命を授かる狩猟採集文化で、それゆえ、飢饉のリスクの少ない、過度の欲望が生じない、土地と水を私有する必要がないので争いの必要ない文化。季節の変動に生命力を左右されないかのような常緑広葉樹林文化)が息づく、生命力を与えてくれる山だったからです。

 また、(5)・(6)の歌謡にある「平群の山の白がしが枝を髻華に挿せ」「平群の山の白檮(かし)が葉をうずに挿せ」というのは、人に生命力を授けると考えられていた樫の青葉の枝を髪に挿すことで生命力を充足する呪術的行為のことで、平群山では、国見(山に登り自分の居住地の方向を見て息災・繁栄を願う行為)などの何らかの集いのときにはそれがおこなわれていました。(5)・(6)の歌謡は、平群山での集いで生まれ、ひろまっていったと考えることもできます。 上代の大切な集いには歌垣wikipedia>もありました。それは、若い男女が山などに集まり、共同飲食しながら相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗です(歌謡をやり取りする集団お見合い・合コンといえば分かりやすいかも知れない)。平群山も歌垣が行われていた場所であり(具体的な場所は未確定)、景行天皇・倭健命親子が、(5)・(6)の歌謡を歌ったのは、平群山での、その歌謡を求愛相手に捧げた歌垣が懐なつかしかったからでもあったのでしょう。また、集いに参集してくれた、または、故郷にいる若い者たちに「生命力の強い樫を折りとって髻華にし、ますます健すこやかであれ」と呼びかけるためでもあったと思われます。

 なお、人間がつくったものでなく自然が人間に授けてくれた特定の植物が生命力を充足してくれるという縄文的な思考・行為は、現在もなお、葵祭あおいまつりで葵や桂、春日祭かすがさい日陰ひかげの蔓かずらを参加者が身につける風習や正月七日に七草粥ななくさがゆを食べる風習などに受け継がれています。

 以上のことを踏まえると、矢田丘陵と生駒谷という樫の繁茂地を持つ生駒市が、市の木として樫を選定した(ご参照)のは最良の選択であったといえます。生駒市の「市の木」が樫であることについては、生駒検定<全国版>問28「生駒市の木」に選ばれているのは何?!もご参照。

<追記>縄文時代、東日本はクリ・ウルシを利用する文化圏、西日本はカシを利用する文化圏であった、とされています。

古事記<雄略記>に登場

 初め大后日下くさかに坐いましし時、日下の直越ただごえの道より河内に幸行いでましき・・・・・ここをもちて宮に還り上がります時、その山の坂に行き立たして歌曰(うた)ひたまはく、「日下部くさかべの 此方こちの山と 畳薦たたみこも 平群の山の 此方此方こちこちの 山の峡かひに 立ち栄さかゆる  葉広熊くまかし 本もとには いくみ竹だけ生い 末すゑには たしみ竹だけ生ひ いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしみには率寝ず 後のちもくみ寝む その思ひ妻づま あはれ」と歌ひたまひき

      いくみ竹の「い」は接頭語で、「くみ」は「組み」。たしみ竹の「た」は接頭語で、「しむ」は密集している意。

 (現代語訳)始めのころ、皇后ワカサクサカベノ王が日下におられたとき、天皇は日下へまっすぐに越える道を通って河内においでになった・・・・・こういう次第で天皇は朝倉宮にお帰りになったが、あの山の峠に通じる坂の上にお立ちになって、日下部のこちらの山※と、平群の山の、あちらとこちらの山の峡谷※に、繁茂している葉の広い樫。その木の根元には、こんもり茂って枝をさしかわした竹が生え、こずえのほうの斜面には、枝葉に密集した竹が生えているが、根元のいくみ竹のように組んでは寝もせず、こずえのたしみ竹のようにたしかには共寝もしない。が、将来はきっと組み合って寝よう。そのいとしい妻よ。ああ。(以上、講談社学術文庫版より、現代語訳は一部修正して引用/太字は引用者による )

      「日下部のこちらの山」とは、生駒山生駒山地のことで、「あちらとこちらの山の峡谷」とは、生駒山地と矢田丘陵に挟まれた峡谷で、竜田川上流域の生駒谷、同下流域の平群谷のこと(冒頭掲載の地図ご参照)。

       竜田川・・・生駒検定<全国版><問20>生駒の川は神話や伝説、伝承に彩られているご参照

 

日本書紀<皇極紀>に登場か?

 この紀に記載されている「山背大兄王の非戦説話」(生駒検定<全国版><問24>生駒ゆかりの諸群像(13)ご参照)で、山背大兄王が隠れたとされる生駒山は実は矢田丘陵のこと、との説があります(ご参照ミラー)。

 

10万葉集の乞食者(ほかひびと)が鹿・蟹のために痛みを述べて作れし長歌二首

のうち鹿の歌に平群の山が詠われている

  

(11)このページを基に、

生駒検定<全国版><問2>古来、列島中央部にあってその存在感を示してきた「生駒山」、それに寄り添う「平群の山」(3)・(4)の問題を作成しました。

 

(12)資料

 平群の山(矢田丘陵)に おける松茸利用の歴史.pdf

山背大兄王が攻撃を逃れて生駒山中(矢田丘陵山中との説もあり)に隠れ、のち法隆寺に帰還しました<生駒検定 全国版 問24-(13)ご参照>。その際にたどったと推測されるルートをこの地図.jpgに青線で示しました。なお、宝山寺から法隆寺までの歩行時間は、矢田丘陵全山縦走(生駒白谷~法隆寺)の歩行時間が約4時間半であることを考えると5~6時間程度と思われます。

 

(13)歩行ルート

長距離自然歩道(環境省が計画を定め、各都道府県が整備管理運営)の近畿自然歩道(同じ長距離自然歩道で先行整備された東海道自然歩道と重複しないように整備された/ルート概要)の金剛生駒ふれあいルート (本線は<北から>ポンポン山~天王山~交野山~生駒山~高安山・信貴山~二上山~葛城山~金剛山)の枝線・・・信貴山から東北の方角へ~信貴畑~竜田川駅北~椿井つばい~白石畑しらいしばた~松尾寺・松尾山~矢田寺(金剛山寺)~東明寺~子どもの森~霊山寺/これは矢田丘陵を越えるみちと呼べる>

矢田丘陵遊歩道マップ掲載あり>(生駒市が整備管理運営)

 1)本ルート・・・(北から)生駒市総合公園(入口すぐにあすか野団地口バス停)~山中への入口~ドンデン池~展望広場~椚くぬぎ峠~神武峯(峰)下~榁木むろのき峠~小笹の辻~矢田峠

 2)下山ルート・・・ドンデン池少し南 ~小明寺垣内または図書会館付近/展望広場~東生駒1丁目/神武峯の北~福祉センター付近/神武峯の少し北~帝塚山住宅地(このルートは、奈良市側に下りるためマップでは矢田丘陵遊歩道の下山ルートになっていないが、事実上はそれである ) /榁木峠の北~きたやまスポーツ公園/榁木峠~南生駒駅(このルートは生駒市側に下りるにもかかわらずマップではなぜか矢田丘陵遊歩道の下山ルートになっていないが、事実上はそれである)/矢田峠~萩の台駅 

矢田山遊びの森ハイキングコース(奈良県が整備管理運営)・・・次の5コース(太字部分は矢田丘陵遊歩道と重複)

 1)子どもの森(横山口バス停から徒歩50分)~小笹の辻~矢田峠~松尾山・松尾寺(松尾寺口バス停まで徒歩30分)

 2)萩の台駅~矢田峠矢田寺(矢田寺前バス停まで徒歩10分)

 3)富雄駅~霊山寺~子どもの森~東明寺~矢田寺~国見台展望台~松尾山・松尾寺  

 4)竜田川駅(~椿井)または法隆寺駅(~矢田丘陵南端の法隆寺)~白石畑~松尾山・松尾寺(竜田川駅からのコースは金剛生駒ふれあいルートの枝線と重複)  

 5)椚峠~神武峯(峰)下~榁木峠~小笹の辻・・・1)と2)のコースも加味すると、結局、なぜか矢田丘陵遊歩道のうち椚峠~矢田峠~萩の台駅だけが矢田遊びの森ハイキングコースとされている(椚峠を越えて北側のコースはされていない)。  

自然散策うるおいの道(斑鳩町が整備管理運営する斑鳩町 歴史街道の1つ)・・・(矢田丘陵南端の)法隆寺発~天満池~松尾山・松尾寺~白石畑~天満池~法隆寺太字部分は矢田山遊びの森ハイキングコースと重複)

⑤非行政整備管理運営ルート・・・白谷(矢田丘陵北端)~生駒市総合公園

備考

①金剛生駒ふれあいルートの枝線には「近畿自然歩道」明示の道標、矢田丘陵遊歩道には「矢田丘陵遊歩道」明示の道標、矢田山遊びの森ハイキングコースには「矢田山遊びの森」明示の◇型看板とコース名不明示の道標、自然散策うるおいの道には「自然散策うるおいの道」明示の道標、がそれぞれ設置されています。

②非行政整備管理運営ルート(白谷~生駒市総合公園)、矢田丘陵遊歩道(生駒市総合公園~矢田峠)、矢田山遊びの森ハイキングコースのうち矢田峠~松尾山・松尾寺、矢田山遊びの森ハイキングコースまたは自然散策うるおいの道のうち松尾山・松尾寺~法隆寺、を結べば、矢田丘陵全山縦走(北端の白谷から南端の法隆寺までをたどる)コースとなります。これは、生駒の神話の主人公であるナガスネヒコが毎日のように駆け抜けた道です(長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵ご参照)。

ナガスネヒコは、矢田丘陵全山を2時間程度で駆け抜けていた!?

 狩猟採集時代のヒトの運動量はサッカー選手や長距離ランナーに匹敵していた(ご参照)ことを踏まえ、現在でも大学のワンゲル部員なら六甲山全山縦走(塩屋から宝塚の約60㎞)を約10時間程度で駆け抜けることができること、走ることが禁止されている六甲全山縦走大会ですら須磨から宝塚までの約56㎞を速い人なら約12時間程度で歩き通すことができていること、下記のように矢田丘陵全山縦走(約13km/高低を算入すれば約17㎞程度か)の標準タイムは4時間40分であること、このトレイル大会では約25㎞を女子の最も足の遅い人でも4時間半以内で駆け抜けていること、等を考慮すると、ナガスネヒコに限らず縄文人は、矢田丘陵全山(北端から南端まで)を毎日のように2時間程度で駆け抜けていたと思われます。なお、長距離の主な移動手段は船で歩行ではなかった弥生人が、俊足で野山を駆け抜ける縄文人の登美彦を見て驚き、猛スピードで歩行・走行できるほどの長い髄を持つ彦(勇者)という意味で長髄彦と呼んだのが、長髄彦の名前の由来であるという説もあります。

 この記事中の「ハラにおける自然との共存共生」の表題の文には、「(縄文人の)定住的なムラ生活の日常的な行動圏、生活圏として自ずから限定された空間」は「半径約五~一〇キロメートルの面積という見当であ」り、「いわばムラを出て、日帰りか、長びいてもせいぜい一、二泊でイエに帰ることができる程度ということになる。 」とあります。 

 <追記>「ぽつんと一軒家」という番組で、片道8㎞の小学校に通学し、同じく18㎞の中学校に通学し(こちらはあまりできていなかったとのこと)、80㎏の木材を担いで山に上っていた、という人の話をやっていた、ということを聞きました。また、世界の果ての通学路という映画は、ケニアでは片道15㎞の学校へ2時間で草原地帯を徒歩(駆け足?)通学し、アルゼンチンでは片道18㎞の学校へ1時間半かけて山岳地帯を馬で通学し、モロッコでは片道22㎞の学校へ4時間かけて山岳地帯を徒歩通学する子どもがいることを知らせています。  

 ➂矢田丘陵のうち、大和郡山市部分のすべてと、なぜか、奈良市部分の一部(霊山寺・追分神社) と生駒市部分の一部(小笹の辻から矢田峠、そこより萩の台への下山道)のみ、を範囲に県立矢田自然公園となっています(ただし、その範囲は、正確なものは調べた限りでは広報されていないので、この地図より推察したものです)。

 ④松尾湿原は、ハッチョウトンボモウセンゴケなど、貴重な動植物の生育地。ここに行く道では、春から秋にかけてはマムシがいる恐れがあるとの情報があるので、この時期に訪れるときは注意が必要です。

 

14初めて矢田丘陵を歩くとき、

 ①矢田丘陵の歩行ルートは、北から順に、次の部分に分けることができます。

  A.北部北半分・・・白谷(最北端)~生駒市総合公園

  B.北部南半分・・・生駒市総合公園~椚くぬぎ峠~榁むろの木峠 

  C.南部北半分・・・榁の木峠~矢田峠 

  D.南部南半分・・・矢田峠~法隆寺東大門(最南端)

 ➁歩行ルートの説明とご注意

  Aは、非行政整備管理運営ルート(上記の生駒市・奈良県作成のマップには記載なし)なので、踏み固められた道であるにもかかわらず、道標がなく迷いやすいところもあるので、このページに記載の概念図(歩行ルートの概要を示す図)北部北半分(生駒白谷~市総合公園)と磁石を併用して道標代わりにしてください。 

  Bは、矢田丘陵遊歩道のページに掲載のハイキングマップが案内役になりますが、椚峠(県道との出合い)での出入り口がわかりにくいのでこのページに記載の「椚峠 案内」.pdfを活用してください。  

  Cは、矢田丘陵遊歩道のページに掲載のハイキングマップ歩く・ならのページに掲載のルートマップの両方に記載があり、この両方が案内役になりますが、矢田峠付近は道が入り組んでいるので、このページに記載の矢田峠に設置の道標に記載の案内図.pdf(19.12現在、道標は倒れて横たわっている) を活用してください。 

  Dは、歩く・ならのページに掲載のルートマップ(3分割されていますが、くっつけて1枚ものにすればぐっとわかりやすくなります)が案内役になりますが、松尾山・白石畑とその一帯は、道標があるところでもわかりにくく、道標がないところでは迷いやすいので、このページに記載の松尾山・白石畑の概念図 北.jpg同 南.jpgこの南北2つを合わせた概念図.jpgと磁石を併用して道標代わりにしてください。

    矢田丘陵の南の起終点は法隆寺東大門ですが、法隆寺は矢田丘陵の麓ではなく、丘陵部分に立地していることを検証したのが20(R2)年4月11日に放映されたNHK「ブラタモリ」でした(ご参照.pdf)。この番組でタモリさんは、聖徳太子が法隆寺の建立地に選んだ斑鳩の地の卓越性を理解するために、斑鳩近くの明神山からの360度展望を行ないます。その展望のVR動画を期せずして(?)20(R2)年3月に王寺町が作成していました(ご参照)。

    なお、白石畑はユニークな村です・・・①村の中心を通って2つの町の町境が通っています。つまり、戸数20ほど(このページの情報による)の小さな村が、平群町大字白石畑と斑鳩町大字法隆寺という2つの行政区に2分されています。このことを知らないと、法隆寺から遠くはなれた白石畑に法隆寺という地名が国土地理院等の地図になぜ記されているのかが疑問となります。なお、ネット情報では、前者は、白石畑の西半分を含め40ヘクタールもある(地図)のに6世帯・15~17人、後者は、白石畑の東半分を含め430ヘクタールもある(地図)のに24世帯・157人(1世帯平均6.5人?)しか住まいしていません。②村の中心にあった安楽寺が廃寺となって公民館となっています。このことを知らないで、安楽寺がまだ載っている国土地理院等の地図を持って初めて白石畑を訪れたとき、自分がどこにいるのかがわからなくなります。③舗装車道が完備されているのに車がほとんで通っていません。それを前提としているのか、人や車が通れば警音が鳴り響く害獣よけのラインが車道沿いにまで設置されています。このことを知らないで、初めて白石畑を訪れたとき、突然に警音を浴びてびっくりしてしまいます。なお、車がほとんで通らない山中の白石畑の村を通る道路はMTBの人気コースです。④この村には、車道とよく踏み固められた良好な徒歩道という四方の遠隔地と結ばれた道が合計8つも通じています。これだけの道を通じさせるほどの力がどこにある、または、あったのでしょうか。

 ➂次の」矢田丘陵全山縦走の標準タイム(普通のハイカーが迷うこともなく道草も食わずにスムーズに歩けた場合の実動時間の目安を参考にしてください。

     (奈良交通白谷バス停西すぐの)丘陵入口<15分>饒速日命墳墓<15分>生駒市総合公園<10分>山中への入口<15分>ドンデン池<15分>阪奈道路<20分>椚峠<30分>福祉センターへの分岐<8分>神武峯の下<17分>きたやまスポーツ公園への分岐<5分>榁木峠<15分>小笹の辻<17分>矢田山頂上<3分>頂上展望台<5分>矢田峠<5分>東山駅への分岐<15分>国見台展望台<10分>松尾山への分岐<5分>松尾山三角点<10分>松尾寺<25分>ゴルフ場との出会い<5分>白石畑への車道との出会い(毛無池のほとりの案内図)<15分>法隆寺東大門

      上記の太字地点を起終点とする4行程のそれぞれのタイム(丘陵入口<70分>阪奈道路<80分>榁木峠<75分>松尾山三角点<55分>法隆寺東大門)を合算すると⇒合計280分(4時間40分)

     上記のタイムは、南下の場合のものですが、北上の場合は、法隆寺東大門(標高55m程度)→松尾山三角点(標高315m)の行程は高低差が2百数十mあるのでタイムは何割増かになるものの、他の行程はさほど変わらないと思われます。

 

 





 

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