« 「日本書紀」は「非戦の書」でもある。 | トップページ | 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征  »

日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」(戦い・殺戮・暴力を否定する精神) 

このページの文書は、「日本書紀」は「非戦の書」でもある。を踏まえて作成いたしました。

このページは、非武装・非戦の論理に所収されています。

「非戦・避戦の精神」は、大分岐時代を切り開く思想課題のプラットフォームに参加しています。

PDF版.pdfもご参照

縄文人は、「食べるため以外のために殺す」(これを殺戮という)ことは不可能な人々でした この記事の中の「<日本列島先住民族=狩猟採集民族=縄文人> について」をご参照)

】そのため、1万年にわたる縄文時代に、日本人には、「殺戮しない・できない精神」が形成され、列島先住民(縄文人)と半島からの渡来人(弥生人)とが出会い衝突した縄文時代から弥生時代への移行の時代に「国譲り」<注1>が行われる中で形成された日本民族にも、それは「非戦・避戦の精神」(殺戮をおこなう「戦争=武力」と、それを引き起こす「強制力=有無を言わさない無理やりの力=暴力=実力」に頼る愚劣さ、を忌避する精神) として継承され、集団的無意識注2 として今日に至るまで受け継がれてきました。なお、「非戦・避戦の精神」は今日では、最大の基本的人権侵害たる戦争への道を掃き清めるあらゆる基本的人権侵害をも忌避するものとなっています。

  <注1>国譲り・・・縄文人が弥生人を受け入れ、両者が共存・融合することで、里山()がひろがる日本国土が形成されていったこと(更に詳しくは国譲りへ)

    ()里山・・・お花見に象徴される弥生的な要素と紅葉狩りに象徴される縄文的な要素とが共存・融合した生産様式・生活・文化・景観のある地域(詳しくは里山とはへ)

  <注2>集団的無意識・・・集合的無意識・普遍的無意識ともいう。無意識のうち、個人を越えて、集団・民族・人類の心に普遍的に、祖先の経験した行動様式や考え方が遺伝的・本能的に受継がれてきたもの。消滅することのない基層文化異文化との接触,被征服などによる外来文化の受容や内在的な文化的発展などの変動にもかかわらず,長期にわたって持続しその地域や民族の文化の固有性の中核になっている文化と言い換えることも可能。また、ほとんど遺伝子のようになった文化ともいえる。なお、文化とは、遺伝子が運びきれない知恵(長い時間の中で見つけられ育くまれ伝えられてきた人の命を守るしくみ)を運ぶもの 。

縄文人の即自(=否定されるという試練をまだ受けていない状態/独りよがりかも知れない普遍性を持たない状態/テーゼ)として形成された本然の性(=非戦・避戦の精神)は、縄文時代から弥生時代への移行時に、渡来人による国家(=権力/支配抑圧機構)建設という対自=自己を否定されるという試練/独りよがりか否かが試された状況/アンチテーゼ)を受けました。しかし、それを克服する(=止揚する/即自且つ対自に至る/いかなる時代・地域・民族にも通じる普遍性を持つに至った/ジンテーぜ)ことで、縄文人と渡来人が出合うことで形成された日本人の集合的無意識(抑え込まれることはあっても消滅することはない精神・基層文化)となりました。このような、日本人が非戦・避戦の精神を持つ民族として形成され、その精神が日本人のアイデンティティとなるために経なければならなかった試練を今に伝えているのが生駒の神話です。なお、その精神は、国家の時代(弥生時代以降)に入ると抑え込まれてきましたが、消滅することなく、後述のような系譜をたどり、他国には見られない、自民族をも絶滅に導かんとした日本国家の未曽有の殺戮(アジア太平洋戦争)を機に、つまり、非戦・避戦の精神への抑圧を許してしまったことが大量殺戮を招いてしまった反省・悲しみ・苦しみをばねに、あるいは、殺戮による死者に叱咤されて(ご参照1/ご参照2)、国家による殺戮を禁止する日本国憲法を成立させました<> 。

   ご参照1権力への歯止め、主体は死者ご参照  (ご参照2)・・・・・日本には・・・・・死者に対して恥ずべき行いを自戒する、というような倫理観も生み出された・・・・・。<「魂」はそこにあるミラーより>  

   <>このように日本国憲法は、反省・悲しみ・苦しみと叱咤により日本人が主体的に制定したのです。にもかかわらず改憲勢力は「日本国憲法は押し付けられたもの」と言い張りますが、手続き的にも日本国憲法は次のように、日本国民が自主的に制定したものです。

        「第90回帝国議会(1946年)で国民の代表を通じ、現行憲法が可決された事実は、国民が戦後日本の基本原理を国民主権、基本的人権、平和主義とすることに同意したことを示す。その後、国民に定着した事実も同意を裏付けている」<この記事ミラーより>

       そして、「現行憲法は、あの血みどろの戦争、何白万人もの命、戦禍にあえいだ人びとの苦しみや悲しみの中から生まれました。その憲法をないがしろにすることは史実や人々の思いまで踏みにじる行為です」<同上> 

     上記した、国民の日本国憲法への同意がいかに強力なものかは、戦後一貫して改憲を許してこなかった国民の姿勢に示されています(改憲政党は選挙で、改憲を声にすると必敗するので声にできない)。かかる国民の強力な同意は、「非戦・避戦の精神 」 に裏打ちされたものです。      

非戦・避戦の精神の系譜は次の通りです。なお、文中で「説話」としているのは、記紀に記載されていることは史実であるかどうかが不明なものが多く、史実か否かにかかわらず言い伝えられてきた話か史実を基にしたつくり話なので、そのようにしました。

(1)縄文時代から弥生時代への移行期につくられた生駒の神話は非戦・避戦の精神に貫かれている・・・「生駒検定<全国版>」の <問1>の解答・解説/問題文生駒の神話のストーリーの骨子 ご参照。それらは、生駒の神話についての新情報を反映した改訂はなく、作成当時のままですので、新情報を反映した改訂を随時に行なって最新の情報を反映した記載がある生駒の神話のストーリー(骨子)【解説付版】 もご参照ください。

(2)(神武)天皇がお隱れになってから、その庶兄ままあにのタギシミミの命が、皇后のイスケヨリ姫と結婚した時に、三人の弟たちを殺そうとして謀はかったので、(略)御子たちが(略)、驚いてタギシミミを殺そうとなさいました時に、カムヌナカハミミの命が、兄君のカムヤイミミの命に、「あなたは武器を持ってはいってタギシミミをお殺しなさいませ」と申しました。そこで武器を持つて殺そうとされた時に、手足が震えて殺すことができませんでした。そこで弟のカムヌナカハミミの命が兄君の持っておられる武器を乞い取って、はいってタギシミミを殺しました。(古事記 神武記/青空文庫より引用)<カムヤイミミの命の殺戮否定説話

(3)景行天皇は子のヤマトタケルノミコト(記では倭健命、紀では日本武尊) に、東方十二ヵ国を「言こと向け和平やはせ(話し合いで和平を結べ)」と命じ、兵をつけずにお供1人のみを付けて東に向かわせ、父は自分に死ねと仰せなのかという不審と不安を抱きながらも東に赴いたヤマトタケルノミコトは、見事に東方十二ヵ国と言向け和平す(話し合いで和平を結ぶ)ことに成功した(古事記 景行記)<(景行天皇父子の)「言向和平」説話>。 

(4)景行天皇・ヤマトタケルノミコト親子は、争う原因が生じた弥生時代になっても、争いの必要ない縄文文化が息づく平群の山を詠った歌謡を、故郷を偲ぶ集いで歌った<(景行天皇父子の)争いのない文化希求説話>・・・矢田丘陵(記紀では「平群の山」)の「国思歌くにしのひうた(国しのびの歌)になぜ平群山が詠われるのか」ご参照 

(5)天皇が東国征討をしようとしたとき、日本武尊が兄弟の大碓皇子おおうすのみこを遣わすよう進言したが、皇子は驚いて草の中隠れた(日本書紀 景行紀)<大碓皇子の征討拒否説話>。

(6)神功じんぐう皇后に神託された(つまり、神がかりとなった神功皇后の)戦争せよということばを否定しようという動きがあったことを今に伝える記紀説話⇒戦争に反対した仲哀ちゅうあい天皇が急死した(日本書紀 仲哀紀/古事記 仲哀記)との仲哀天皇の非戦説話や「軍卒が集まりにくく、戦う国も見えない」(日本書紀 神功紀) との戦争否定説話が記紀に記録されている・・・「生駒検定<全国版>」の <問21>の問題文と解説の(1)ご参照 

(7)神功じんぐう皇后がやろうとした戦争を神が否定するという、生駒に伝承されてきた2つの 説話(神功皇后と鶏」と「生駒の産土神の鶏追とりおい) 

(8)天皇は舎人に猛たけきシシを射てと命じたが、舎人は恐れおののいて射ることができず、シシは直進して天皇に食いつこうとしたので、天皇は自らシシを射ち、自分を危機に陥れた舎人を斬り殺そうとしたが、皇后は天皇に味方しないで舎人のことを大事に思って天皇を諫めて「陛下がシシのことで舎人を斬られたら、陛下はオオカミに異なりません。」と進言したので、天皇は殺すのをやめ、帰る途中、「万歳よろずよ」と叫んで、「楽しいことだな。人はみな鳥や獣を獲物とするのだが、自分は狩りをして、良い言葉を獲物として帰るのだから。」といった(日本書紀 雄略紀)<雄略天皇の皇后の殺戮否定説話>。

(9)百済の王に仕えた倭系(日系)官僚の日羅が帰国し、「天皇が天下を治め給う政治は、必ず人民を養うことであり、にわかに兵を興して、民力を失い滅ぼすようなことをすべきではない」と天皇に進言した(日本書紀 敏達びたつ紀)<日羅の非戦説話

(10)日本書紀に記された聖徳太子が発表した争うことを諫めた「憲法十七条」 <・・・・・は省略部分/(  )内は引用者補足部分>

   ①和を持って貴しとし、争いをせぬようにせよ・・・・・人は(「強制力=争い」などなくとも)よく教えれば従うもの・・・・・。 ②篤く三宝を敬え(縁起の法を説く仏教を貴べ)。 ➂(争いのない大いなる和の国を治める魂を付与されている)天皇の詔みことのりをうけたまわったのならば、謹んで受けること・・・・・。 ④民を治める根本は(「強制力=争い」ではなく)礼にある・・・・・。 ⑤(争いが起こらないよう)訴訟を公明に裁きなさい・・・・・。 ⑥(争いをもたらす)悪を懲らしめ、善を勧めるのは古くからの良い教え・・・・・。 ➆事は大小となく人を得れば(争うを引き起こすことなく)必ず治まる・・・・・。 ⑧(争いの種となる苦情が生じないよう)公務はゆるがせにしてはならない・・・・・。 ⑨(争いを防ぐ)信まことは人の道の根本・・・・・。 ⑩(争いをもたらす)忿ふん(思い通りにならない事に怒ること)や瞋しん思い通りにならない者に怒ること)を絶ち、衆人の意見も尊重しなさい・・・・・。 ⑪(争いが起こらないよう)賞罰は必ず正当にしなさい・・・・・。 ⑫(争いが起こらないよう)国司・国造は百姓から勝手に税を取ってはならない・・・・・。 ⑬(争いの種となる苦情が生じないよう)官に任じられたものは、自分の職務内容を良く知っておくこと・・・・・。 ⑭(争いが起こらないよう)群臣百僚(臣下や役人)は妬んだり羨んだりしてはならない・・・・・。 ⑮(争いの原因となる)私心を去って公につくすのが臣下の道・・・・・。 ⑯(争いが起こらないよう)民を使うのに時節を考慮するのは古くからの良い教え・・・・・。 ⑰(争いが起こらないよう)大事なことは独断でおこなってならず、必ず衆と論じ合うようにすること・・・・・。

   ※・・・・・明日香という地名は、古代インドのアショーカ王に由来する・・・・・前半生は戦争に明け暮れ、10万人を殺し10万人以上を捕虜にしたことを虚(むな)しく思い、後半生は仏教によって国を治めて、平和をもたらしたという伝説のある王・・・・・アショーカを訳すと「無憂(むゆう)」。明日香という地名には、憂いなき地を願った古代の人びとの思いがこめられています。仏教を平和実現の手段として掲げた聖徳太子の十七条憲法は、アショーカ王の思想によってつくられたのです・・・・・。<この記事ミラーより>

   ※・・・・・私の一番の親友は、今月亡くなった作家の半藤一利さんでした。東京新聞の依頼で「親友対談」をした際、彼は目の前で多くの人が焼き殺された東京大空襲の惨状を生々しく語りました。彼も私も、平和憲法のありがたみを身をもって知っています。「戦争をやめよ」と説いた聖徳太子の十七条憲法の精神の尊さを私が話すと、彼は「まったく同意するが一つだけ。聖徳太子はいなかったと思う」と。ユーモアで場を盛り上げる優しさですね。私はたとえ実在しなかったとしても、後世の人びとが聖徳太子のイメージをつくり上げたことにも意味があると考えます・・・・・。<この記事ミラーより>

(11)山背大兄王やましろのおおえのおう戦って勝ったからといって丈夫ますらおと言えようか。おのが身を捨てて国を固められたら、また丈夫と言える 」「人民を死傷させることを欲しない。 」(日本書紀 皇極紀 古代生駒も舞台とする山背大兄王の非戦説話)・・・「生駒検定<全国版>」の <問24>の(13)の問題文/解答・解説ご参照

(12)乙巳の変で入鹿が殺害されたとき、その現場にいた古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこは、私邸に走り帰って、人々に「心痛む」といい、寝所に入ってとざして出ようとせず、その後、即位することを勧められたが、出家して吉野へ隠退するといって断り、腰の大刀を解いて地に投げ出し、舎人(家来)らに命じて、大刀を捨てさせた(日本書紀 皇極紀/同 孝徳紀)<古人大兄皇子の殺戮否定説話 

(13)ある人が有間皇子ありまのみこを諫めて「武力行使は徳のない行為です。徳をつけるべきです。」といったので皇子は武力行使をしなかった(日本書紀 斉明記)との、古代生駒を舞台とする有間皇子の避戦説話・・・「生駒検定<全国版>」の <問24>の(11)の問題文/解答・解説ご参照

(14)以下の文の通り、自らも殺戮をおこない、暴力の連鎖をもたらした中大兄皇子は天皇になる資格はありませんでした。そのため、彼が即位できたのは、645年の乙巳の変(いつしのへん)の23年後であり、しかも在位は、わずか4年足らずでした。非戦・避戦の精神が、天皇になる資格の無い者を即位させようという権力の動きを妨げたと考えられます。

 実力(=武力)によって山背大兄王(やましろのおおえのおう)を倒した入鹿は、その1年半後の6457月の乙巳の変(いつしのへん)で34代天皇舒明と35代天皇皇極の子の中大兄皇子に実力(=暗殺)で倒されます。その中大兄皇子(6682月に38代天皇天智として即位)は更に645年9月に異母兄の古人大兄皇子を謀殺し、入鹿暗殺の加担者でありながら邪魔になった蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)を649年に殺害したが、663年10月に白村江の戦い(大量殺りく)を断行したのち、672年1月に同母弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)側に暗殺されたとの説があり、子の大友皇子(おおとものおうじ)も母の身分が低い(伊賀の采女うねめ)ためなかなか即位の儀式を挙げることが出来ない(そのため1870年になってからやっと明治政府によって39代天皇弘文として歴代天皇に列せられた)まま672年8月に大海人皇子(673年3月に40代天皇天武として即位)に実力(=武力)で倒されました(壬申の乱)。その天武天皇は、おのれの死が、自らがおこなった壬申の乱のような「実力(暴力)」=「武力・暗殺・謀略死等何らかの強制力」による皇位継承争いが再現されるのを心配をしながら68610月に死去しましたが、やはり、その3人の皇子みこ(父は同じだが母はいずれも異なる/第1子高市皇子・2子草壁皇子・3子大津皇子)はすべて、実力を行使されての死、または、その疑いがある状態での死を余儀なくされ(天武天皇の3人の皇子ご参照)、次いで、高市皇子の子も軍を差し向けられて自害に追い込まれました。 実力(=暴力)を用いてことを運ぶことを拒否する精神(非戦・避戦の精神)を持つ山背大兄王が即位していたら、その後の暴力の連鎖はなかったのです。(生駒検定<全国版><問24>生駒ゆかりの諸群像より)

(15)万葉集の乞食者(ほかひびと)が鹿・蟹のために痛みを述べて作れし長歌二首殺戮を諌める歌 

(16)聖武天皇

   ➀死刑禁止の詔みことのり(725年)「死者不可生 刑者不可息(中略)死罪宜降従流 流罪宣従徒」(続日本紀)<読み下し:死者は生きるべからず。刑者は息(いこう)べからず。(中略)死罪は宜(よろ)しく降ろし流に従え。流罪は徒に従う宜し。 現代語訳:刑死した者は生きることが出来ない。刑を科せられた者は息(憩う)ことが出来ない。(中略)死罪の者は流罪に降ろすので、これに従い、流罪の者は徒刑(懲役刑)に従え。>

   ➁大仏造立の詔(743年)

(17)
行基縁起の法<すべてのものは支え合っている(ので殺戮などありえない)という教え>を根本の教えとする仏教を民衆に広め、「和魂」と「権力」の狭間で苦悩した聖武天皇は縁起の法を根本の教えとする仏教に救いを求め 、行基に命じて、大仏を建立し、各地に仏教寺院を建てた。

   ・それまで貴族の独占物であった仏教が行基の尽力で民衆にも広まっていったのは、仏教の根本の教えである縁起の法 が「日本人の集団的無意識たる『非戦・避戦の精神』」と同調するものであったからと考えられる。 

   ・行基については、生駒検定<全国版><問3>の問題文/解答・解説ご参照

   ・聖武天皇が、「和魂」と「権力」の狭間で苦悩したことについては、「生駒の神話」のストーリー(その骨子)【解説付版】の当該箇所をご参照

(18)アテルイの悲劇アテルイは同士モレと共に、大和王権と日高見ひだかみ(現東北)の国が戦わずして講和するために敵の心臓部である京都の都まで出かけましたが、802年に河内国杜山もりやまで無残にも斬刑に処されてしまいました。 )・・・生駒の神話と現在の(2)ご参照   アテルイについてよく知るための参考.pdf   「火怨 北の燿星アテルイ」ミラー

(19)保元の乱(1156年7月1日)・平治の乱(1160年1~4月)を通じて武士が台頭し、1167年頃~1179年にかけての平氏政権が成立していく時期を経て、1180~1185年の源平合戦(治承・寿永の乱が起こり、それに勝利していく源氏が、関東御料関東御分国関東御口入地という広大な荘園・国衙領を財源とする武士の権力機構として1180年~1192年にかけて鎌倉幕府を成立させ、公(朝廷・貴族・大社寺)と武(武士)の2権力が並立することとなったが、公武2権力並立は長くは続かず、公(上皇)が武(幕府)に仕掛けた1221年の戦争(承久の乱)で敗北した公の側は、厳しく処分され、その貴族とそれに加担した武士の所領約3000か所が、幕府の任命する地頭(荘園内の年貢徴収と荘園の管理)の設置により幕府の支配下となり、武士の政治権力独裁が実現し、以後、武(幕府)は公(朝廷)を従属下においた。しかし、天皇制は廃止せず、その後も、歴代の幕府の長は天皇より征夷大将軍に任命された。「非戦・避戦の精神」(武力=暴力=権力の否定)という日本人の本然の性は、国家(「武力=暴力=権力」の機構)を許さない。そこで、国家というものが歴史的必然(人類の歴史上においてある期間は存在せざるを得ない)である中において、「武力=暴力=権力 」を持たないもの(これを「女性性」と表現する説もあり)から国家の長が任命されるという形をとって、武(幕府)の権力に正当性をもたさざるを得なかった。これが、武(幕府) が天皇制を廃止しなかった理由であり、「非戦・避戦の精神」の顕現化の事例である。

 なお、この記事ミラーによると「武士たちはなぜ無力な天皇を必要としたのか」への答を「<女>としての天皇」という本は「ただの武力を超えた正統の感覚を、武力を持たない天皇が満たすことになる」からとしています。なお、この本の内容を簡潔に述べたのがこの文ミラー

(20)承久の乱(1221年)の際、栂尾高山寺の明恵上人は、上皇方の兵士や女子供ら落人を寺領に匿ったため、京都六波羅の北条泰時の前に引き立てられたが、我が身に害が及ぶからと逃げてきた者を敵方に渡すことはできない、政道に反すると思うならこの首をはねよと語った。かかる明恵上人の不殺生と慈悲の心に感化されて北条泰時は情と道理の政治をおこなった。<ご参照ミラー

(21)対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務に携わった雨森芳洲(1668‐1755) の外交方針「互いに欺かず、争わず、真実を以もって交わること」  朝鮮通信使を教育にミラー

(22)・・・・・国家権力はいつでも国内外の脅威に対して軍事的開発を続けるものだけれど、徳川はしていない・・・・・国内を統一してもなお、国外の敵に対しては備えるはずなのに、そうしていない。あれは徳川の思想だ・・・・・東アジア全体に秩序が回復したせいでもあるけれど、むしろそれができた理由の一つが徳川の体制・・・・・朝鮮王朝も秀吉以後の「戦後」体制に安心した・・・・・朝鮮通信使の一人が帰国して、日本はもう大丈夫だ、攻めてきたりすることはない、と書いている・・・・・・絶えず日本を警戒していた朝鮮王朝の学者が、もう大丈夫だと確信した。その理由は日本で武士が儒学を勉強しているからだという・・・・・儒教というのは、荀子以後は別としても、本来は平和思想・・・・・詩と礼と楽で社会を治めよう、世界を変えようという思想・・・・・孔子は戦乱の世にあらわれた平和思想家だった・・・・・徳川時代には、武士は人を殺さなかった。武士の大多数が生涯一度も刀を抜いたことがなかった・・・・・。この文より>

(23)「この国は、江戸時代には、ただの一度も国家として対外戦争を体験していないという、世界に冠たる名誉を持っていた。・・・・・朝廷は、江戸時代には戦争と縁遠い存在であった。その余韻もあって、明治天皇が日清戦争時には当初、いわば、「これは朕(ちん)の戦争ではなく、政府の戦争だ」と述べたのは有名な話である。日露戦争の時も、感情を表さず、推移を見ていたという。・・・・・大正天皇にしても、むしろ「武」よりも「文」の天皇であった。その漢詩は、近代日本では最高峰に位置しているともされるほどだ。大正天皇は大正7(1918)年頃に詩作をやめたが、それは第一次大戦などでの人々の苦労を実感していたからであろう。昭和天皇も、戦争に当初は極めて臆病であった。しかし大元帥としての教育を受け、軍事上は神格化した存在となって、見事に戦争へ取り込まれたのである。昭和天皇を反戦とか平和の天皇だと言いたいわけではない。歴代の天皇は、江戸時代の歴史を踏まえて見ると、戦争に懐疑的だったと分かるのである。・・・・・NHKが探し出したとされる海軍側の2・26事件についての記録などからも、天皇がこの種の事件に本能的な恐怖感を持っていたことがうかがえる。・・・・・。」<・・・・・は中略部分/この記事ミラーより>

(24)明治時代以降、日本は全力で西洋文明を取り入れたが、その根底にあるヘブライズム(キリスト教)はさほど普及しなかった(日本ではキリスト教があまり普及しない理由ご参照)。

(25)明治から戦前・戦中にかけての「非戦・避戦の精神」の顕現

(26)日本国憲法「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 

 日本国憲法は、非戦・避戦の精神を上記のように文字化した。

以下、この憲法の下での非戦・避戦の精神の顕現例

  ➀この憲法の下で、初代天皇より天皇が受け継いできた「和魂」(=非戦・避戦の精神)<和魂については、この記事に掲載されている和魂をご参照> が「見える化」したとき

     ○・・・・・明仁天皇は即位式で、「・・・・・日本国憲法を遵守し、・・・・」と述べた。この発言は宮内庁の用意した原文に自らが加筆したものだと言われています。「憲法を遵守し」というのは・・・・・九条のこと・・・・・・。<この文より>

     ○・・・・・天皇・・・・・は・・・・・2001年の天皇誕生日に先立って記者会見し『桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています』と語った(下に<注>)・・・・・さらに10年にも、やはり桓武天皇に触れながら『多くの国から渡来人が移住し、我が国の文化や技術の発展に大きく寄与してきました』と。最初の発言は小泉政権下。日韓関係が冷え込んでいました。2度目の発言は尖閣諸島沖で中国漁船による衝突問題が起きた1ヵ月後です・・・・・。<この記事ミラーより>

        <>この発言の全文・・・私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています、武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解することが大切と考えます。両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っています。

     ○この場面・・・この場面についてはこの記事ご参照

     〇美智子様 陛下との「平和の祈り」に込められた改憲への「無言の抵抗」.pdf・・・この記事について(皇后と天皇の動向から護憲を訴える「女性自身」の“骨太記事”

      ◯戦後天皇家の「約束」を果たす努力>生駒の神話によれば、 イワレヒコは、「和(「殺戮」 がない=平和)の国をつくる」との「約束」を交わすことでナガスネヒコ・ニギハヤヒから国を譲られ、天皇として即位できた。そして、歴代の天皇候補者は「大嘗祭」においてニギハヤヒにその「約束」を確認するというかたちをとった上で天皇として即位した。だが、実際上は、国家権力(「武力に裏付けされた強制力」=有無を言わさない無理やりの力=暴力=実力)の担い手であった、もしくは、国家権力の側にあった天皇は、「約束」を実行することはほとんど不可能であった。その結果、日本は、アジア太平洋戦争によって未曾有の大量の死者を出す「殺戮」の国となってしまった。その死者たちの無念の想いと願いを裏付けに日本国憲法が生成し、日本が再び「殺戮」の国に舞い戻ることのないよう権力者が拘束されるようになる中で、戦後天皇家は、「約束」を果たす努力を続けてきた。すなわち、折にふれては上記のような「和魂の見える化」をおこない、継続的には戦後天皇家の「生命・環境・人権よりも経済・軍事・統制を優先する」動きとの闘いを進めてきた。その戦いは、国民の武力行使なき内戦と共にある。

  ➁反戦条文(4条)を持つ財政法が制定・施行された(1947年)。

     「財政法逐条解説」(1949年出版/平井平治大蔵省主計局法規課長著)の財政法4条についての解説「・・・・・戦争危険の防止については、戦争と公債がいかに密接不離の関係にあるかは、各国の歴史をひもとくまでもなく、わが国の歴史をみても公債なくして戦争の計画遂行の不可能であったことを考察すれば明らかである・・・・・公債のないところに戦争はないと断言しうるのである、従って、本条はまた憲法の戦争放棄の規定を裏書き保証せんとするものである・・・・・。」

  ③日本社会党は「非武装・中立」を掲げながら戦後の平和・民主主義運動を主導した。

  ➃アジア太平洋戦争を背景とするNHK朝ドラが高視聴率を続け、これを見ないと1日が始まらないという人も多い。よりによって戦争が影を落とすかかるドラマ<ご参照ミラー>を朝から受け入れる、つまり、このドラマを反日的とつぶやいているネトウヨを除いて、朝っぱらからこんなドラマをするなという国民は皆無、なのは、「非戦・避戦の精神」が日本人の集団的無意識となっていることを見える化しています。1番人気朝ドラの「おしん」は、ずばり戦争責任を問うドラマでした(ご参照ミラー)。朝ドラにも戦争を正しく描いているとはいえないときもあります(ご参照ミラー)が、次のように、やはり、戦争の凄惨さを伝えています。

     朝ご飯を食べながら読んでいる方もいるだろうと思いながらいつも(新聞朝刊の<引用者>)コラムを書いている。残酷な描写はできるだけ避けているが、あえて書く場合もある。戦争の悲惨さを伝えたいときだ。NHK連続テレビ小説「エール」の作り手も同じことを考えたのではないか。今週放映された太平洋戦争の戦闘場面はあまりに凄惨(せいさん)だった。主人公の作曲家、古山(こやま)裕一が慰問先のビルマで銃撃に巻き込まれ、兵士たちの死を目の当たりにする・・・・・。<この記事ミラーより/強調引用者>

  集団的自衛権行使は、交戦勢力(与党)推薦の参考人までも「違憲」と主張<ご参照ミラー

  官民に広がる多くの組織を支持勢力としたがゆえに戦後最強で最長であった第2次安倍内閣(2012.12.26~2020.9.3)が最大目標にして総力戦安定多数の議席、与党でのライバル不在、官僚機構の統制、経済界との蜜月、友達メディア・友達芸能人からの熱烈な支持)で取り組んできた改憲がついに実現できなかった。

  ➆・・・・・なかにし礼さん・・・・・「エロスがなければ平和はない。戦争がないからこそ軟派で不良な時間を楽しめる」。歌詞や私生活がときに議論を呼んでも意に介さなかった。いまの憲法を「世界に誇れる芸術」と評し、自らの創作の原動力は「戦争への甘美なる復讐(ふくしゅう)」だと語った・・・・・。<この記事ミラーより>

  ⑧賢人凡人問答の()・()・(

  ⑨・・・・・戦争体験者が減るのは日本が長年戦争をしていないからで、それ自体は良いことだ。マスメディアがお盆の時期に「あの戦争」を取り上げる伝統は、先祖供養の一環のようになっている・・・・・反戦意識は、反核意識同様、「広く薄く」でも社会の底流に染みついて、もはや消去できない・・・・・日本は米中対立のはざまにある。中国の膨張主義を「昔の私たちと同じですよ」とたしなめられる国は、アジアに日本だけだ。反核・反戦意識に侵略や植民地支配の反省を加えて練り直せば、ソフトパワー外交の重要なコンテンツになるはずだ。<この記事ミラーより/太字は引用者による>   

】縄文時代に形成された「非戦・避戦の精神 」は、日本民族にも受け継がれましたが、弥生時代に入って、「強制力(有無を言わさない無理やりの力)=暴力=実力、この最たるものが戦争=武力」を属性とする 「国家」(人民を支配するための機構・機関)が成立し始めると、押え込まれていきました。しかし、武士(天皇・貴族のように「権威や特権に頼る」のでなく、「<自力=実力(武力)>に頼って」人民を支配するもの )の時代に入るまでは、(3)ー➀~⑤のように、その系譜は見える化されていました。鎌倉時代当初は公(朝廷=天皇・貴族)武(幕府=武士)2元体制でしたが、ほどなく武の力が公を上回るようになり戦国時代末期・江戸時代当初には武の完全支配体制が確立しました。このような武力(実力)がものをいう時代に「非戦・避戦の精神 」は、まったく押え込まれてしまいました。しかし、明治維新で武士の時代が終わると、「非戦・避戦の精神」の顕現(見える化)は盛んとなり、 薩長土肥といった旧武士勢力が作った大日本帝国がアジア太平洋戦争をおこなって多くの人々を犬死させたことで崩壊すると、「非戦・避戦の精神 」 は一気に力を回復し、その精神を柱とする日本国憲法を成立させました。この憲法は、➀平和主義・②基本的人権尊重・③人民主権を主たる内容とするものです。➀はもちろん「非戦・避戦の精神 」 に立脚するものです。最大の基本的人権侵害は戦争であり、②を保障する最大の力も「非戦・避戦の精神 」 です。そして、みんなで政治を動かすとの③は、 統治者の実力(強制力)行使によって壊される脆弱性をもっていますが、それを防ぐのが「非戦・避戦の精神(実力を頼みに事を運ぶことを許さない精神) 」です。

】非戦・避戦の精神の系譜の今日的到達点が、日本国憲法です。しかし、その憲法制定直後より、日本の統治者は、日本国憲法を改悪(というより憲法を破壊)せんとする施策をおこなってきました(古くは鳩山一郎内閣が、近くは安倍内閣が、憲法改定を主たる政策に掲げるなど)。しかし、その目論見は、憲法公布から約75年もたった現在(2019年8月)も成功していません。その理由は、戦後日本人の戦争忌避精神は、300万人強の日本人と3000万人強の諸外国人の殺戮をもたらしたアジア太平洋戦争によってより強固となった 集団的無意識になっているからです(ご参照)。従って、 現在、日本の統治者は、憲法を改悪(破壊)せんとシャカリキになっていますが、それは、悪行成就せずのモデルケースとして不成功に終わるでしょう。万一成功しても、集団的無意識は、意識とは違って押え込むことはできても消滅させることはできませんので、自衛隊員や市民が何人か犬死した時点で、その力は復活し、統治者を粉砕することになります。しかし、それを待っていたり、何人犬死すれば統治者は粉砕されるのかを思案したりするのは不正義なことです。犠牲者がでないように、武力行使なき内戦の最大決戦として憲法破壊に打ち勝つ努力が行われています。

】 権力とは「強制力(有無を言わせない無理やりの力)=暴力=実力」です。これを規制するものがなければ、非戦・避戦の精神の発揮は(3)の精神の系譜で記されているように悲劇をもたらし 、また、戦前(大日本帝国)のように権力は暴走を続け、究極は自国民に全員玉砕(自民族皆殺し)を強制するものとなってしまいます(日本型ファシズムと改憲をめぐる武力行使なき内戦ご参照)。権力を規制するものとは、大日本国憲法のような、あたかも日本が近代国家であるように見せかけるためのアクセサリー憲法ではない民主憲法たる日本国憲法です。特に日本国憲法は「非戦・避戦の精神=暴力を許さない精神」が貫く憲法であり「権力=暴力」を強力に規制・抑制する力をもっています。 しかし、現在の日本では、日本国憲法が十分に実行されていないため、戦争法・特定秘密法・共謀罪法・カジノ法といった違憲法が制定され、基本的人権侵害行為が横行しています。今、なされなければならないのは、憲法を完全に実行することであるにもかかわらず、その真反対のこと、数々の違憲法や基本的人権侵害行為が合憲となるように憲法改悪(憲法破壊)をせんとする動きが進められています(改憲問題については生駒の神話と現在もご参照)。

 改憲を阻止しながら、憲法を完全実行できるようにする戦いが武力行使なき内戦として闘われています。

】狩猟採集漁労で生きる縄文人には(食べ物は自然から与えられるものであり、また、狩猟採集漁労では土地等を私有する必要がなかったので)私有する(私有財産)という観念はありませんでした。そのため、国家(有産階級が無産階級を統治する)を形成する必要はありませんでした。一方、農耕で生きる弥生人には(食べ物は自分で生産するものであり、土地・水といった生産に必要なものを私有することが必要であったので)私有する(私有財産)という観念を持ち、それは、人々を、より良い生産に必要なものがある場所での国家の形成に向かわせました。こうして、縄文人と弥生人が出会うとき、非私有=非国家と私有=国家との衝突が起きました。この衝突を平和的=非武力的に解決しようとした努力を今に伝えているのが生駒の神話です。

非戦・避戦の精神が日本人のアイデンティティとなるために経なければならなかった試練を今に伝えている生駒の神話 縁起の法の神話化とも考えられます⇒このページの当該部分ご参照。

10非戦・避戦の精神は消滅することはないが、権力によって抑え込まれることはある・・・ご参照.jpg

11非戦・避戦の精神<(すべての存在はたがいに支え合っているから)戦ってはならない>は、縁起の法<すべての存在はたがいに支え合っている(から戦ってはならない >である。

 ご 参 考 : 生駒の歴史
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

« 「日本書紀」は「非戦の書」でもある。 | トップページ | 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征  »