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「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」

(1)新天皇が、新しく天皇の位についたことを公に告げる5つの儀式を総じて「即位の礼」といいます。それは、平成の天皇が令和の天皇に交代した際(2019年5月1日)は、次のような日程で行われます。

 「剣璽等継承 (けんじとうけいしょう)の儀」(5月1日/祝日/10分間/宮内庁担当の国事行為)→「即位後朝見(そくいごちょうけん)の儀(5月1日/祝日/10分間/宮内庁担当の国事行為)→「即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀 」(10月22日/祝日/内閣府担当の国事行為)→「祝賀御列(しゅくがおんれつ)の儀(10月22日/祝日/内閣府担当の国事行為) →「饗宴(きょうえん)の儀 」(10月22日<祝日>・10月25日・10月29日・10月31日/内閣府担当の国事行為)

  以上で、天皇即位にかかる“法的”・“政治的”な手続きは完了します。にもかかわらず、11月14日~15日には、国事行為ではなく皇室の祭祀である「大嘗だいじょう」が予定されています。

  これは、新天皇の身体に天皇霊を付ける儀式です。天皇霊とは、外来魂(身体に内在する魂ではなく外から来る魂/用例)、つまり天つ国からの外来神まれびとのエッセンス(=「稲の魂」とする説が有力)で、天皇の権威の源泉です。天皇の権威の源泉は、万世一系の天皇家の祖霊ではないのです(「大嘗祭の本義」の解説.jpg ご参照 )。以上のように天皇の権威は外付けであって先天的なものではないということを周知させることは、神の子孫である (がゆえに「生まれながらにして=国民の意思に関係なく先天的に」国を治める権威を持つ)天皇のために団結するのが日本人のいいところ」などというカルト的言説を唱える人々が 改憲(=壊憲)運動を強めてきている中にあって、日本国民統合の象徴という地位は日本国民の総意に基づくという外付けによって天皇に付与されると規定する日本国憲法を守ることに役立ちます。

  折口信夫の「大嘗祭の本義」のこの部分を読むと、大嘗祭によって天皇は「倭やまとを治める資格」を得ることになります。このことは、縄文時代から弥生時代への交代期に生まれた長髄彦伝承を基に成立したと思われる生駒の神話長髄彦ながすねひこ物語 )を理解するうえで押さえておいてよいことです。

(2)折口信夫の言によれば、もともと、天つ国(海の向こうを体現)からの外来神まれびと(=にぎはやひの命みこと~縄文人と住み分け・共存してきた先発渡来人を体現~)のエッセンスを付与されて「やまとを治める資格」をもっていたのは登美の長髄ながすね(単に長髄彦または登美彦ともいう/生駒の神話の主人公/縄文人を体現)でしたが、外来神まれびとのエッセンスがいわれひこの命(後発渡来人を体現)に移ることによりいわれひこの命 は「倭やまとを治める資格」を得て即位して神武天皇となったことになります。そして、長髄彦といわれひこの命が戦ったとき、現在の生駒市北部の富雄川流域地域<かつてトビが変化してトミ(鳥見・登美)と呼ばれていた(ご参照)>を飛び立ちいわれひこの命の弓の先にとまって雷光のように光り輝いて長髄彦(登美彦)に力戦させないようにした 「金鵄きんし(金のとび)」は、 「倭やまとを治める資格」をいわれひこの命に移す(国譲りする)ことで戦い(殺戮)を止めるためににぎはやひの命が遣わした使者、もしくはにぎはやひの命自身であり、縄文人であるがゆえに殺戮を知らなかった長髄彦が、「戦い=殺戮」することで堕落することから長髄彦を守る守護神でもあったのです。(縄文時代に「殺戮=戦争」がなかったことについてはこのページの記事をご参照) 

(3)にぎはやひの命の子孫は物部(もののべ/モノノフ)氏と呼ばれ、「大嘗祭の本義」のこの部分によれば天皇に権威(=倭を治める資格)を付与する任務を司りました(ご参照)。のち、物部氏は武士(もののふ)となったと言い伝えられるようになり、やがて、その最高指導者たる鎌倉幕府3代執権・北条泰時は「(日本史上唯一の)革命」、つまり「朝廷=天皇権力」の打倒を断行し(かつて自分たちの先祖であるにぎはやひの命が戦いを回避するために国譲りした国を奪い返し)、現在に至る象徴天皇制(武士や国民など何らからの後ろ盾やお墨付きによって日本の象徴的な地位が維持される制)を創出しました(日本唯一の「革命家」とは 既存権力と戦った北条泰時 ご参照)。

(4)北条泰時が創始した象徴天皇制は、民衆から忘れ去られていた天皇を担ぎ出した明治維新政府と大日本帝国政府によって停止させられ、疑似天皇独裁という形で天皇が政治的に利用されることで日本の破滅がもたらされました。その反省から、戦後、天皇が政治利用されないよう 、象徴という天皇の地位は国民の総意によって与えられるのだということが見える化されるよう憲法で象徴天皇制が成文化されたのです。 

(5)大嘗祭は、「倭やまとを治める資格」が長髄彦(登美彦 )からいわれひこの命(即位して神武天皇)に移って以来(もちろんこれは神話上のことで、史実は、欠史八代等の架空の天皇時代を経た第10代天皇の崇神天皇あたり以後)、天皇に倭を治める権威を与えるものとして行われてきましたが、北条泰時の革命により、天皇に倭を治める権威を与えるというのは形式的なものとなり実質的には天皇家(皇室)の 祭祀に過ぎなくなり、戦後は(日本国憲法の下では)単なる宗教的な家内伝統行事となり、そんなものに税金を使用するのが可なのかが当然に問題となっています(大嘗祭に税金使うのは「違憲」政教分離原則に反すると提訴ミラーご参照 )。 

☆この記事の相互補完記事⇒ 生駒の神話と天皇制

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