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「富雄丸山古墳=卑弥呼の墓」説

前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説 より> (参考:富雄丸山古墳「邪馬台国=富雄川流域」説

                    (太字は引用者による)

6「卑弥呼の墓」を探そう。

 「卑弥呼の墓」は、少なくとも魏の明帝より賜った「親魏倭王」の印よりは見つけやすいでしょうが、しかし、(引用者: 魏志倭人伝が卑弥呼が葬られた墓の大きさとする)「径百余歩」のこの女王にふさわしい墓が、私たちの探索地域である生駒山周縁に存在するのでしょうか。わずかに残る考古学的物的証拠を手がかりに、この探索の旅に出かけてみましょう。

 近鉄奈良線で大阪難波から三〇分ほど、準急列車に乗ります。大阪と奈良の県境、生駒トンネルをくぐると、ほどなく富雄駅に到着します。駅から徒歩で富雄川沿いに10分ほど北に行くと、バス停「出垣内(でかいと)」があります。その横一帯の影蒼とした小高い丘の中に、戦前の学者たちが定めた「神武聖蹟」があります。神武天皇が東征の最終局面において「本陣」を張ったところと言うのです。「聖林研究所」という私有地の中に苔むした小さな石碑と小規模の墳墓があります。

 ここが「日本書紀」『巻三』における「神武東征」の最終戦争勝利の地として定められました。なるほど、地形的に見ると、「日本書紀」の記述にたいそうかなっています。

 神武天皇は生駒山の大阪寄りの地「孔舎衛坂(くさえさか)」で緒戦を行いましたが、これが激戦で、総司令官でしょうか、長兄である五瀬彦を失う大敗北となります。その敗戦に懲りて、その後の戦いは常に敵軍の東に陣取ろうとします。東に陣を取るのが神意であると考えたので奈良盆地でも東側に陣を張り、三輪山を神体とし、「纏向遺跡」あたりを神域としたのです。この富雄川岸の「神武聖蹟」も敵陣の東岸であり「日本書紀」の記述にかなっています。

 そして生駒山を背にして最後まで抵抗する敵将の長髄彦、ついに「決戦」に臨む侵攻軍。大和盆地を挟んで生駒の西軍と三輪の東軍が対峙したのです。

 「決戦」はこの地で行われたと推理する戦前の学者の慧眼に、謙虚に敬意を表したいと思います。富雄川を挟んで西側にも小高い丘があり、そこが「まつろわぬ」最後の人物、長髄彦の軍陣と見た学者たちの判断は、地形上からも非常に納得できます。饒速日命の裏切りにあって、あえない最後となった敵将、長髄彦の伝承墓地がその丘の上にありますが、彼には源義経のように北に逃亡したという伝承もあり、今後とも、長髄彦の行方は見逃せません

 攻める神武天皇軍、すなわち「大和朝廷」と、守る長髄彦軍の決戦場は、「生駒市田原」つまり近鉄学研都市線の「白庭台訳」周辺から「奈良市富雄」、近鉄奈良線「富雄駅」周辺だったのです。

「日本書紀」にいう神武天皇がついに攻略した「中洲(うちつくに)」は、広く見て、「魏志倭人伝」の「伊支馬=生駒」の中心地で、この地域が最もふさわしいのです。

 「中洲」、この奈良県北西部の地域は「水運」、「水利」、「防衛」の上で極めて有利な地形であることが畿内全体を俯瞰して見ると一目瞭然に理解できます。このあたり一帯は、私市から交野そして淀川へ下り出る北水路の天野川の水源であり、かつまた大和川から河内湖に出る南水路の始点、富雄川の水源でもあります。すなわち北出口と南出口の始発・終点の好位置であり、比較的ながらかな丘に囲まれた周辺地形を鑑みますと、「邪馬台国」首都域として絶好の地域ではないか、正しく「登美の地」は、「美し国」です。

 私は戦前の学者たちの歴史的嗅覚のようなものに敬意を表します。それは、多分、戦後世代のわれわれよりも、より切実に「戦争」を前提にして地形を考察した点で、「邪馬台国」の時代と共通するものがあると思われるからです。近世になって、平地に城が作られるようになるまで、国家防衛の基本、すなわち首都造作は、まず、水利、次に、丘陵という自然地形の盾を主眼に計画されます。その発想をもって「邪馬台国」の首都を考察することが重要だと考えます。

 「生駒市田原」から富雄川をやや南に「大和郡山市」方面に下ると、生駒山を西北に仰ぐ鬱蒼とした小高い森に「登禰神社」があります。この周辺地域も「邪馬台国」の首都城であると見ます。「登禰神社」の祭神はもちろん「饒速日命」ですが、そればかりでなく神武天皇がともに祭られています。「登禰神社」が「登美彦」といわれた「長髄彦」を祭神としているのではなく、「神武天皇」と「饒速日命」を祭神としていることは、「邪馬台国」の謎を考察する上で、きわめて意味深長なポイントであることを発見しました。包括的に「邪馬台国」を語るために、このことは記憶にとどめていただきたいと思います。

 さらに富雄川に沿って、やや南に下ると大和郡山市に「矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社」かあります

が、ここもまた「饒速日命」が祭神です。

 この周辺が「邪馬台国」であると述べられたのは、大阪教育大学の名誉教授であった故鳥越憲三郎氏です。先生は「物部氏」を探求する中から、そのように論じられましたが、惜しくも先年他界されました。

 卑弥呼の墓は「径百余歩」の形状をもって、この「中洲」のどこに存在するのでしょうか。

 「径百余歩」は相当な規模ですので、消滅することなく具体的に存在しているはずです。

 私は、今見るように「邪馬台国」の中心の首都城を富雄川流域に推定しました。それは、神武東征軍が「中洲」として攻略した地域ですし、「魏志倭人伝」の「伊支馬」地方そのものだからですが、顕著な古墳が非常に少ない地域です。しかし、それがかえって「古墳時代」の大和朝廷との断絶を感じさせます。「往馬大社」の権禰宜の方が、「この生駒山周辺は、考古学的にまったく地味な地域です」と嘆いていらっしゃいましたが、それはむしろ自然なことではないでしょうか。

 確かに、この富雄川流域は、「纏向遺跡」や伝神功皇后陵などが含まれる「佐紀古墳群」のように、考古学者にとっては、あまり魅力的な地域ではないかもしれませんが、しかし、私はいわゆる「前方後円墳」を「邪馬台国」と同時代の墳墓とする考えにはなじめないので、「卑弥呼の墓」の探索は、むしろ巨大な前方後円墳のない地域に魅力を感じるのです。

 そもそも卑弥呼のような祭祀を司る人物に、権威の象徴として、墳墓の巨大性を求めていいものでしょうか。私が「箸墓」の被葬者が卑弥呼であるという考えに同意できないのはその点で、「前方後円墳」のような巨大な墳墓がふさわしいのは、卑弥呼のような鬼道によってヒトをまとめる司祭的人物ではなく、人民を十分に駆使できる巨大権力を手中にした武人的な大王なのだというのが常識的な判断ではないでしょうか。

 卑弥呼が死んで作られたのは「径百余歩」の塚です。

 当時、魏において「単位」として利用されていた「歩」は1.4メートルでした。この数値を当てはめると、百数十メートの直径となります。しかし、卑弥呼の墓を円墳と考えると、一〇〇メートル級の円墳というのは日本最大級です。

 あるいは、普遍的な距離判断値としての「歩」すなわち成人の歩幅なのでしょうか。そしてまた、単位としての「歩」は、時代と国によって違いが見られます。日本の律令制度下では「歩」は面積単位となっており、六尺約一八〇センチ平方で、「一歩」は、すなわち「一坪」と同じです。

 また、「径百余歩」を「直径が歩いて百歩余」と、取れるかもしれません。あるいは、「余」という使い方から、陳寿に100メートル前後の「それほど巨大な」という蓋然的な意識があったのかもしれません。

 「径百余歩」の卑弥呼の墓は、奈良県内に数多く存在する大型の「前方後円墳」よりも、一四〇~八〇メートル級の円墳が求められるのではないでしょうか。それでも「前方後円墳」が発生する以前の、佐賀県「吉野ヶ里遺跡」に存在する弥生の墳丘墓が、約四〇メートルであるのに比較すると、八〇数メートルでも随分大きいのです。八〇メートル程の円墳となると近畿最大級、あるいはひょっとすると西日本最大級となるかもしれません。私たちはそれをこの「中洲」に求めなければならないのです。

 さて、私たちは大阪と奈良を結ぶ高速道路を横切り、やや南に富雄川を下ります。最初の丸山橋を矢田丘陵方面に渡って、奈良の三人梅林の一つ「追分梅林」に向かい、緩やかな坂道をのぼると、その住宅街の中に「丸山古墳」と呼ばれる小さい森が見えて来ます。

 「丸山古墳」は、昭和四七年に、近隣が「若草台住宅」として開発されることにともなって、「橿原考古学研究所」が発掘調査したところです。その調査報告書はこの周辺の伝承に結びつけて、物部氏に近い人物ではないかと考察していますが、それ以上の研究が進んでいるわけではありません。どうやら明治十二年ころに盗掘されているらしいことが分かりました。)

 この「丸山古墳」から魏の「三角縁神獣鏡」が四枚、すなわち画文(もん)帯神獣鏡、三角縁五神神獣鏡、三角縁四神神獣鏡、三角縁(ぶち)盤龍鏡(すべて天理大学蔵)が出土しています。また、装身具の管玉、碧玉製の腕飾(鍬<くわ>形石)、銅製の腕飾(銅釧<どうせん>)、その他斧頭形<ふとうけい>石製品(京都国立博物館蔵)などが多数出土しました。これらは大部分が祭祀用品や装身具であり、弥生時代の「呪術的副葬品」と言われるものです。現在、重要文化財に指定され、京都国立博物館と天理大学参考館に分かれて蔵品となっています。男性の呪術者は一般的に考えにくいのでこの「丸山古墳」は、副葬品から見て、弥生時代末期の王級の女性の墓と言えるのではないでしょうか。

 そして、この「丸山古墳」は近畿最大級八六メートルの円墳ですが、私たちが探し求めている「径百余歩」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。この円墳に「卑弥呼」が埋葬されていたと言えないでしょうか。

 私が「古事記は神話ではない」に衝撃を受けて、「邪馬台国」を研究し始めた頃、三一書房から「邪馬台国を探る」という書物が出版されました。大山峻峰先生の労作です。先生は、長く三重県の教育委員長をなされていた在野の研究者ですが、その書物で、大山先生は、この「丸山古墳」を含んで、奈良県桜井市や黄金塚古墳の存在する奈良市山町の奈良北西部を「邪馬台国」と位置づけられました。犬山先生は「三角縁神獣鏡」の出土状況を根拠になされているものです。

 ともあれ、丸山古墳が実は「卑弥呼の墓」だったのではないかと着想したときには、大きな衝撃がありました。それは、不思議と誰にも言えない発見のように感じられました。十分な確信が得られるまでは、書物にして説を立ててはならないと固く決意したことを覚えています。

 この丸山古墳から出土した「三角縁神獣鏡」はきめの細かいと言われる舶製鏡で、同じ鋳型から作られた「同範鏡」ではないオリジナルな魏鏡です。

 「三角縁神獣鏡」は、奈良県天理市の「纏向遺跡」にある「黒塚古墳」から三三面、京都府山城町の「椿井大塚山古墳」から三二面出土しましたが、いずれもその他の副葬品には「甲冑、刀剣、鉄鏃」が多く出土し、女性の被葬者が想定しにくくなっています。

 もちろん鏡が多く出土するだけで卑弥呼の墓と関連付けることは出来ませんし、一度に、あまりに多数の鏡が出土するは、むしろ「大和朝廷」の権力構造を連想させ、「邪馬台国」にふさわしくないように思います。

 「丸山古墳」の真横にはやや小ぶりの「茶臼山古墳」があって、姿は目立つけれども、現在は荒れています。現在、考古学界では、この「丸山古墳」の被葬者を「物部氏」の関係者とまでしか判断していません。

 私は「邪馬台国」の首都圏が富雄川流域だと特定しました。

 そして、「丸山古墳」が近畿地方最大の円墳であること、またその位置的な整合性、副葬品から判断して、「卑弥呼の墓」の有力な候補地ではないかと考えています。

 この「丸山古墳」から富雄川を挟んで、東真向かいに、先ほど訪れた「登禰神社」の森が見えます。そして「丸山古墳」の西の背後は、矢田丘陵、追分梅林を抜けて、「往馬大社」、そこから生駒山を越えて、大阪側の枚岡、日下、石切周辺に抜ける古代の直線峠道「暗がり峠」につながっていきます。

 また、逆方向に「丸山古墳」から、東方面すなわち奈良市内に向かうと、「イクメイリヒコイサチ」の陵、第一一代垂仁天皇陵に至ります。この垂仁天皇も「邪馬台国とは何か」を考える上で、大いに想像力の働く存在です。

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