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日の本(ヒノモト)・日本/日高見(ひだかみ)/日の丸  

(1)長髄彦の移住と共に、大和の国の呼称であった日の本や日高見(日が高々と見える良い国)も安日彦あびひこ(長髄彦の兄、または義兄弟)の故国(現在の東北)に運ばれ、やがてそこで住む人々は、自分たちの住む地域をヒノモト・日高見と呼ぶようになった、との伝承がある。

(2)大祓詞おおはらえのことばでは、大和の国を「大倭日高見国おおやまとひだかみのくに」と呼んでいる。また、古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされている、古史古伝「東日流外三郡誌つがるそとさんぐんしご参照)の、「東日流つがる」とは「日の本が東に流れた」という意である。

(3)対外的な意味で「日本」という国号が定まったのは、白村江の戦い(663年)の40年後の703年である。

(4)<日の丸について(考察)>日の丸の旗の赤い太陽はなぜ、空や海の「青地」を背景とせず、雪の「白地」を背景としているのでしょうか。それは、日の丸はもともとは日高見(ひだかみ)の国(東北にあった蝦夷の国/別名は日本・日の本)の旗だったからです。8世紀まで、日本列島には、西に渡来人と土着の民融合の国「倭」、東に土着の民の国「日本」という2つの国があり、倭の統治者が802年にアテルイ(小辞典ご参照)を処刑して日本を併合したとき、自分たちも元から日本列島に居た(土着していた)ことにしようと、「日本」 という国号も簒奪しました。そのとき、その国号に雪の白地に赤の太陽の日の丸がついてきました。そして、その後、日本人は、国の印が必要な場合、規格を規定せず日の丸を様々なデザインで使用してきました。

 こうして、日本人は日の丸を受け入れていきました、つまり、好きになっていきました(その理由は、それが列島土着の蝦夷の国、つまり日高見国に起源があるからと考えられています<ご参照>)。

 しかし、明治になって、陸軍と海軍が、それぞれ独自のデザインの日の丸を作成し、やがてそれは、軍国主義推進(戦争遂行)の道具とされていき、その旗の下で300万人強の日本人、3000万人強の諸国民が戦争で亡くなりました。もともと非戦・避戦の精神を本然の性とする土着の民がつくった日の丸が変質させられてしまったのです。

 戦前、日の丸は、陸軍・海軍が勝手に独自の日の丸を作成(共に明治3年)したため、何回かの法制化の試みはすべて失敗に終わりました。

 戦後、政府は、日の丸が戦争遂行の道具にされてしまったことを反省することで、それを元の日の丸(非戦・避戦の精神を本然の性とする人々がつくった、戦争道具ではない旗)に戻そうとはしませんでした。それをすると、旧日本軍を批判することになるからです(A級戦犯が戦後日本の最高指導者になるような戦後日本の政治状況では、そんなことは不可能でした)。

 政府がやろうとしない中で、海外で日本人が途上国支援や難民支援等の活動をおこなう中で、日の丸が元の日の丸に戻りつつありました。日の丸の旗に下に行けば、食べ物、薬、医療、学校、技術、育児支援、安全な居場所、などなどがある。こうして、日の丸は、戦争道具から安全・安心をもたらすものへと戻りつつありました。しかし、15年9月15日、国会が戦争法を制定したことで、海外でも、日本人の活動努力は水の泡となり、日の丸が再び、戦争という殺戮をもたらす旗となりつつあります。

 戦争法制定に先立つ99年8月に「国旗及び国歌に関する法律」が公布・施行されると、この法律はわずか18文字(句読点除く)で、政府は「国旗・国歌を強制するものではない」としながらも、日の丸を初めて国旗として法制化したことをてこに学校を主対象にした強制を強行し(ご参照)、日の丸を君が代と共に国民統合、必要あれば戦争動員の政治的道具として使用することを開始・実行しています。このことは、初代天皇以来天皇に付与されてきた和魂(非戦・避戦の精神)<和魂については、この記事の後半の「和魂とは」の部分をご参照> に抵触することとなりました。それを見える化したのがこの場面でした(左場面の解説記事.pdf)。

    

 

 

 

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