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クサカ(草香・日下)・孔舎衙(クサカ)の坂・草香山(饒速日山)

(1)クサカ理解には、古代の河内湾・河内潟・河内湖理解が必要。

(2)日下(くさか・ひのもと)という表記については、瀬戸内海・難波方面から見ると、東方の生駒山麓の草香から太陽が昇るように見えることから草香は「日下の草香(ひのもとのくさか)」と呼ばれるようになり、枕詞的に「日下」という表記で「くさか」と読ませるようになったといわれる。

   もともと草香(日下)は、現東大阪市日下町付近をいう(狭義の草香・日下)が、西方から見て太陽が昇るように見える場所(ひのもと)として、暗峠西側あたりまで含む現在の東大阪市北東部をいう場合もある(広義の草香・日下)。 

   なお、「クサカ」の言葉の由来については、「草が香るところ」、「アイヌ語(エミシ語)で渡船場(クサ=船で渡る・船を着ける/カ=岸)の意」、「日は草の簡体字だから、つまり、草の十の部分を省略したものだから「日下」は「くさか」と読める 」などの説がある。

   また、「日本(ひのもと・にほん)」という国号の由来は、日下(ひのもと)にある、との説がある。

(3)広義の草香山は、広義の草香から東方にある生駒山地北嶺(生駒山頂より北側の生駒山地)の西側(の山々)をいう。

   狭義の草香山(饒速日山ともいう)は生駒山北嶺にある、直越ただごえの道を上り切ったところの山など、いずれかの山(未確定)をいうが、谷川健一さんは、最短の直越ただごえの道である善根寺越の頂上にあるという<谷川健一さんの「草香・日下、草香山(饒速日山)」に関する説」ご参照>。ヤマレコさんは、ここだという。

   なお、饒速日山は哮峰(哮峯たけるがみねご参照)という説もある(ご参照)。

(4)次の説がある

  饒速日山は太陽信仰御神体であり、その頂上には上ノ社があった。東の下ノ社伊弉諾神社(かつての登弥神社)で、西の下ノ社石切劔箭(いしきりつるぎ)神社wikipedia>である。

(5)神武東征伝承に記載されている古戦場の「孔舎坂(クサエのさか)」の衛は衙の誤字といわれている。従って「孔舎坂(クサカのさか)」が正しく、駅名にはかつて孔舎衛坂駅はあったが、実際にはクサエの坂という地名は存在しない。<進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像」.pdfご参照>

   1211近畿日本鉄道も混乱していた⇒「孔舎坂」表記の切符<→(このページより引用)>と「孔舎坂」表記の切符<→(このページより引用)>の2つを発行していた(読みは、両方とも「くさえざか」)。

(5)「孔舎衙坂(クサカのさか)」は、クサカ(草香・日下)から生駒山を上る坂であるが、狭義のクサカを発する坂であれば、「日下越」<現東大阪市日下町(地図)から八丁門峠(この地図の中心十字線のあるところ) を越える。 日下町と八丁門峠の記載ある地図ご参照>がこれに当たり、広義のクサカを発する坂となれば、直越ただごえの道のいずれかとなる。  

 司馬遼太郎さんは、孔舎衙坂は、直越の1つである「龍(竜)間(中垣内)越」とみなし、その著「城塞」.pdfの中で、生駒神話の舞台の1つである孔舎衙坂には現在は阪奈道路が通っており、その途中で眼下にひらける摂河泉(摂津・河内・和泉の三国)の大眺望が「日本のどこよりもすき」と記していますが、そのビューポイントは、この阪奈道路の地図.jpgに「摂河泉の眺望」と印字したところ(その写真.jpg)でしょう<そこで撮影した摂河泉の大眺望.jpg>。

古代日本における生駒山の不思議と謎/太陽信仰 

(1)伊勢神宮の20年に1度の遷宮と出雲大社の60年ぶりの遷宮が重なった2013(H25)年にはこの2つの位置関係が注目され、この2つを結ぶ線は平城京の真上を通るという不思議が指摘されています(解説記事.pdf)。同様の古代日本における不思議は、以下のように生駒山についても存在します。

<1>「大和岩雄『日本の神々3』白水社」の中で指摘されているもの

 ①Kentei2ikomayama生駒山の最高峰地図.jpgから真西に難波宮地図.jpg解説)がある(いずれも北緯34度40分)。<右地図ご参照(クリックで拡大)>

     奈良・大阪 太陽の道

 ②磐船神社(太陽神の性格を持つ饒速日命にぎはやひのみことを祀る)は難波宮大極殿跡からみて、ちょうど夏至の日の出の位置にあたる。

 ③日本最古の神宮である石上神宮いそのかみじんぐう(饒速日命の子である宇摩志麻治命うましまじのみことなどを祀る)からみると、生駒山の山頂に、夏至の夕日が落ちる。

<2>「東アジアの古代文化」(第78号 '94年冬)大和書房で指摘されているもの

 ○大隅宮(応神天皇の宮)からは、生駒山が冬至の日の出線上にある。

<*>これらの不思議は、饒速日命と太陽信仰のかかわりに関係があるのではといわれており、生駒山は古代日本において特別な位置を占めていたようです。なお、次の説もあります。

  饒速日山太陽信仰の御神体であり、その頂上には上ノ社があった。東の下ノ社伊弉諾神社(かつての登弥神社)で、西の下ノ社石切劔箭(いしきりつるぎ)神社wikipedia>である。

Photo (2)古事記(記)は天皇の権力の正統性の確立を、日本書紀(紀)は皇室の歴史上での位置づけをそれぞれ目的として書かれたともいわれています。このような「記紀」がなぜ皇軍の栄光を貶おとしめるような生駒山(孔舎衛坂くさえのさか孔舎衙坂くさかのさか)の戦い(皇軍-即位して神武天皇となる磐余彦尊いわれひこのみことの軍-が長髄彦ながすねひこ軍に敗北)<右図:孔舎衛坂の戦場位置→(クリックで拡大)>を記載せざるを得なかったのかも生駒山をめぐる謎となっています。また、「記紀」では、皇軍が生駒山の戦いで敗北したのは、太陽が沈む西から太陽が昇る東にいる敵(長髄彦、その義弟は饒速日命)に立ち向ったためとしています。これも、生駒山と太陽信仰のかかわりを示唆しています。

(*)参考:生駒山のこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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