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「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)

       このパラダイムの根拠となった資料

(1)日本列島には、先住民(縄文人)が住んでいた。

    ①彼らの生業は、主が狩猟・採集・漁撈、従が簡易農耕(陸稲など)。

    ②奈良湖ならこ周辺地<生駒神話の舞台>の指導者はトミのナガスネヒコ(単に、ナガスネヒコ、または、トミヒコとも呼ばれる)である。「トミの」はトミ地域(奈良湖の北西部と南東部の2地域にある)を本貫ほんがん(出身地)・根拠地とするの意で、その名は、地形詞(地形を示す名詞)のナガスネにヒコ(指導者等の優れた男子の意)を付けたもの。奈良湖周辺地の指導者たるナガスネヒコが、そこでの「国譲り」ののち、東北(東日流つがる)に来て先住民(縄文人)の指導者となった(参考)。なお、阿弖流為アテルイは東北におけるナガスネヒコの子孫である。

   ③弓矢は彼らにとって特別の意味を持つ<留意点の(6)ご参照>。

 (2)早期(先発)渡来人(早い時期に渡来)が日本列島に

   ①彼らの主な生業は農耕(水田=水稲耕作)

    ②出雲に渡来したものの長は、神話・伝承ではスサノオ-ニギハヤヒ

   ③出雲に渡来したものが大和に進出したことを、記紀神話ではニギハヤヒの降臨という(記紀神話では、海の向こうから、あるいは、海路でやって来ることを降臨という)。彼らは、日本海・近淡海ちかつあわうみ(現琵琶湖)方面から南進してきた。だから、記紀神話ではニギハヤヒは、当時大阪湾に突き出た半島だった生駒山.jpgの北端(哮ヶ峯たけるがみね)に降臨したとなっている。現在、琵琶湖から大阪湾にそそぐ淀川の支流である天あまの川の源流(哮ヶ峯の近くにある)にある住吉神社には海・航海の神である住吉大神とともにニギハヤヒが祀られている。このことは、出雲から進出してきた人々は、当時入江であったこの付近で上陸したことを伝えている。

(3)先住民(縄文人)と先発渡来人

    ①両者は協力・協働、住み分け・共存から結合へ。

   ②先住民(縄文人)と渡来人の結合が進行すると、弥生人が形成されていった(ただし、日本列島の南北両端ではその結合・形成は行なわれなかった/または、弥生人との結合を避けた先住民は日本列島の南北端に移動した)。先住民(縄文人)と先発渡来人の結合を伝えるものが、記紀神話では、ナガスネヒコの妹(娘という説もあり)であるトミヤヒメとニギハヤヒの婚姻。

    ③出雲に渡来したものは、播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも進出<注>。出雲を本貫(出身地)とする彼らを出雲族(出雲勢力・出雲民族)という。この出雲族が先住民(縄文人)と協力・協同、住み分け・共存から結合する中で形成した地域小国家連合体を「出雲の国」という。

     <注>古代には、のちの平野部分はほとんど海水で覆われていて、内陸の川の幅も広く、その源流部分も入江となっていた古代日本の地形ご参照)。そのため出雲族は海運・水運をフルに活用して、日本海、現在流域を播但線や山陰本線などが走る川、日本海と繋がっていた琵琶湖・河内湾を通って播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも進出していった。  

   ④弥生人が水田(水稲)耕作を拡める過程で里山が形成されていった。 (参考)里山の形成とは、原生林(1次自然=照葉樹林)を切り開き(破壊し)て田畑をつくり、破壊された自然が2次自然=落葉広葉樹林として復活・再生することといえる(これを描いたのがもののけ姫)。

(4)後発渡来人(遅い時期に渡来)が日本列島に

   ①彼らの主な生業は前期渡来人と同様(本格的農耕)→早期(先発)渡来人との土地・水争い→先住者(先住民・早期渡来人)との協力・協同、住み分けはできず。

   ②(早期渡来人がすでに北九州にいたので)日向に渡来したものの長はニニギ-イワレヒコ

   ③後発渡来を記紀神話では天孫降臨という(ニギハヤヒの降臨を第1次天孫降臨、ニニギの降臨を第2次天孫降臨という場合もある)。

    ④日向に渡来したものは、薩摩にも進出。彼らを日向族(日向勢力・日向民族)、または天孫族、天津(天つ)族、天津(天つ)民族という。津つは「の」の意。

    ⑤記紀神話では、彼らの神を天津神(天つ神)といい、先住者(先住民・早期渡来人)の神を国津神(国つ神)という。

(5)(2)以後、日本列島各地に部族連合の国(地域小国家の連合体)が形成されていった。

    中国の史料では、そのうちのいくつかに名を与えている。邪馬台国・狗奴国など。

(6)各地に形成された国々の関係を次のように捉えるのが最も妥当的である。つまり、次のように捉えると、記紀神話、各地の神社伝承・民間伝承、郷土史料、海外の文献、そして各地の古代の地形・地名、遺跡・遺物と照らし合わせても、最も矛盾なく合理的に説明できる。

   ①「出雲の国」は日本列島の中央部を治めていた。

       日本列島の中央部とは、古代に海であった奈良盆地、それと繋がる河内(大阪)湾および古代に海であった京都盆地、それと繋がる琵琶湖(塩津海道により日本海と結ばれていた)<古代日本列島中央部の概念図.gif>。この地域は、北方日本海地域・西方瀬戸内海地域・南方太平洋地域・東方地域の結節点にあたり、ひと・モノ・情報の交流・流通の中心であった。

    ②辺境の地にあった日向勢力(天孫族)の国(=狗奴国)は、北九州の国(邪馬台国)を支配下に入れた(いわゆる「神武東征」はここまで)。のち、瀬戸内海を船団で東進し、ナガスネヒコニギハヤヒが指導者であった日本列島の中央部を中枢としていた「出雲の国」に迫って「国譲り」させた。これを記紀は「神武東征(東遷)」というが、史実は、神武東征(東遷)ではなく「崇神東征」で、崇神が東征により河内王朝を開いた。

       (参考)辺境の地にあった勢力が中央部に進出したり中央部を統治する例.pdfは多い。

    ③天孫族(天津族)は、中国に朝貢していた邪馬台ヤマタイ国を滅ぼしたことが不利益(邪馬台国から朝貢を受けていた中国に攻められるなど)にならないようにするため、それを隠すため、自らの国を邪馬台ヤマト国と称し、自らが作成した記紀には一切邪馬台国のことは記さなかった(これが、記紀に邪馬台国の記載がない謎の答である)。また、かつて出雲族が日本列島中央部を治めていたことも隠すため、記紀で、舞台を「地理上の出雲」に限定した出雲神話を描いている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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