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長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)について

Q1. 長髄彦は、『記紀』『先代旧事本紀せんだいくじほんぎ』『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』などに登場する<これらの文献については、参考文献等をご参照>ものの、Photo明治に入って“逆賊”だと再認定されて以来、最近までほとんど研究されることなく「何者であるか?」が謎であった※が、生駒の神話生駒を舞台とする日本神話)<映像で見る生駒の神話その一場面(左が長髄彦軍・右が神武軍/クリックで拡大)>の主人公である「長髄彦とは何者だろうか? <以下、信頼できる説>

   ※ これらの論者は、ただ一点重要なことを見逃しているのです。神武東征の際に河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先住民とは一体何者であったのか、ということです。この点を不問にしているため、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている。」<谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」 より>

 A1.「矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦(ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。」「長いすねの様な形-長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。」<生駒市誌

 A2.「鳥見谷にもいわば鳥見国ができ、その首長が神武天皇の頃では長髄彦」<富雄町史

 A3.「「生駒地域の首長だっただけでなく、饒速日命にぎはやひのみことの率いる邪馬台国連合の総大将であった」<村井康彦著『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』(岩波書店).pdf

 A4.「6代目にして最後の大国主」<嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」pdf

 A5.オオクニヌシノミコトの正当な後継者として、神武帝の侵入以前の大和の支配者」< 梅原猛「神々の流竄」> 「おそらく長髄彦は、縄文土着の民」<梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」

 A6.「原住民の首長のナガスネヒコ」<谷川健一「白鳥伝説」 > 「大和地方の「登美(とみ)」におりました豪族」「ナガスネヒコというのは「スネの長い」異族の形容詞であったと思われます。「なかすね」、「中洲根」とも表現されており、日本列島の真ん中の美しい地味の肥えた大和を支配していた。」<谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」 

 A7.銅鐸文化圏最大の豪族であり、同時に、銅鐸祭祀国最後の王(引用者:首長というべき)」<木村武俊「長髄彦の謎」.pdf

 A8.南北2つの鳥見とみ(登美とみ)は中洲なかす/ながす(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね(長髄ながすね/なかすね)彦であった。

    首長とは、「国家や政府というものをもたない人々の社会、つまり対称性の社会の指導者のこと<中沢新一「熊から王へ」.pdfの(P.136~)(P.193~)あたりをご参照>。

    なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。

 A9.「長髄彦・・・・・銅鐸国家側の中心人物」<「古田武彦「古代通史」

Q2長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)の意は?<諸説あり>

 ①日本の古語には清音と濁音の区別がなかったのでナガスネヒコともナガスネビコとも言う。ナガスネヒコの元の名は中洲根彦という。中洲根彦とは、中洲(ナカス・ナガス/なかつくに=中心の国/倭=現在の奈良県)の根(ネ/根本・基礎)をつくった彦(ヒコ・ビコ/おおいなるひと・すぐれたひと)という意味を持つ(従って、長髄彦は、長い髄(脛/スネ)の彦(男性)という意味ではない)。

 ②『日本書紀』には「長髄は是邑の本の号(な)なり。因りて亦以て人の名とす」とある。これについて池田(末規)氏はナガスネは中洲根であり、中洲は大和、ネは大和島根のネであろうと言っている(引用者注↓)。『日本書紀』に神武の軍隊が「胆駒山をこえて中洲(うちつくに)に入らむと欲す」とあるが、この中洲をナカスとすればその中心になるのが中洲根ということになる。そこにいた異族であるので長い髄の強敵という名を奉られたのである。谷川健一「白鳥伝説」

 (引用者注)大和島は大和の国または大和地方のことで、「根(ネ)」は、日本古語大辞典(刀江書院)に記載の「根」の意味.pdfによれば、「敬称」「発音を便にする(語調を整える)ための接尾語」です。<例>垣根・杵根・岩根など。

 (参考)日本書紀の神武天皇紀の一節

    皇師勒兵、歩趣龍田。而其路狭嶮、人不得並行。乃還更欲東踰膽駒山、而入中洲。 <読み下し>皇師みいくさは兵つわものを(ととのへて、歩かちより龍田に趣おもぶく。而して其の路狭く嶮さがしくして、人並み行くことを得ず。乃ち還かへりて更に東ひむがしの膽駒山いこまやまを踰えて、中洲(ナガス・ナカス/なかつくに・うちつくに)に入らむ。

 ③長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところと推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし/(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。<生駒市誌

 ④(「長髄彦」とは 「長洲根(ながすね)彦」 という、やはり地形詞(引用者注:地形を示す名詞)なのである。あるいは、河内湾の湾入部(大阪城から南方まで、突出した 「長洲」になっていた。)や筑紫の志賀島のつけ根のところ(現在、つながっている)など、「長洲根」と称さるべき地形は、決して少なしとしないのである。その地の 勇者たちをしめす名称、それが「ながすねひこ」なのである。従って各地に生じうる名だ。<古田武彦「真実の東北王朝」>→長髄彦は、大和・河内にも日高見にもいた。筑紫にもいたかもしれない。記紀に登場する長髄彦は「大和・河内の長髄彦」であった。

 ⑤『古地名の謎(近畿アイヌ地名の研究)』<畑中友次氏著/大阪市立大学新聞会/57(S32).8> : 長曽根(長髄彦)は現代語に直すと中州(大和)根(川)彦(男子、英雄)の意。

  報告者:この説によると「ナガスネヒコは、大和を流れる川である富雄川流域地方の指導者」の意となるでしょう。

 ⑥語部かたりべの物語に現れる神・人は、その地の主ヌシ或は有力者であり、その名は、地名に性別を表す語尾(ヒコ・ヒメ)をつける事が多い(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」.pdfの「鳥見彦・長髄彦」の項ご参照)ので、鳥見彦・長髄彦とは、鳥見(登美)・長髄(中洲根)の主・有力者の意であったのでは。

 ⑦「蛇神の呼称は数多くあり、トビ(トベ)・ナガ(ナガラ)のほかヤアタ(ヤワタ)・ミワ(ミイ)などが、後世になって混在したことも考えられる。長髄彦の名も、スネが長いというのが本来ではなくて、長=ナガ=蛇神の呼称であり、したがって古事記の登美彦(トミ・トビ)の名のほうか原型であったとおもわれる。妹をトミヤ姫とするのがその一証である。それが、トビもナガも、ともに蛇神の呼称であったゆえに混淆したのではなかろうか。」<生駒市誌

 ⑧日本の竜神信仰(竜を雨・水の神とする信仰)について述べた日本の竜神・竜王には「日本の竜神信仰においては中国伝来の竜と日本の水神・蛇信仰が習合しており」とあり、ここには「ナーガはインドで古くから信仰されていた蛇神」とあることから、古代の日本には「竜神=ナーガ(蛇神)」信仰があったと推測され、ナガスネヒコのナガの由来をそこに求めることもできる。「ナーガ(ナガ)=蛇神」については、トビ・トミ=ナガ=蛇神ご参照。

 ⑨中洲(ナカス・ナガス)とは水(海・川)の中に浮かぶようにして在る「洲しま=島」のことで、神世界と人間世界の境(中継地)であり、古代、海底であった大阪平野に浮かぶ島であった「生駒=豊秋津洲」もその1つであり、この地を中心とする一帯の指導者が「中洲根彦」であった。中洲根彦とは、中洲を中心とする一帯の彦(おおいなるひと=指導者)の意である。なお、根は、垣根・性根等の根とおなじく語調を整えるもので、中洲彦というより中洲根彦とした方が整った語調となるのでそうなった。そして、中洲根彦は表記されるときは長髄彦と表記された。

  参考:「もののけ姫」を読み解くでは次のように述べられている。「死にかけたアシタカをサンが連れていった場所、それは森の深部にある不思議な中洲(島)であった(引用者:シシ神の森の中洲.jpgのこと)。・・・・・そこは生と死の境目の島・・・・・。いわば、森の心臓部である。・・・・・中州は、水(神界)と地(俗界)のせめぎあう土地として神聖視されていた。中世に中州で市を開いた職人たちが多かったのもこのためと言われる。『古事記』のイザナギ・イザナミ神話でも、一面の泥海を矛でかき回して出来た中州島(オノゴロ島)に降り立って結婚したとある。天と地を結ぶ場所、生と死を司る場所の典型と解釈すべきではないか。」

Q3神武東征神話にも登場する金の鵄はナガスネヒコの守り神であるが、ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?答え

Q4.長髄彦神話(長髄彦物語/長髄彦伝説/長髄彦伝承)とは?/国譲り神話と長髄彦との関わりは?⇒答えは、国譲り神話と長髄彦神話.pdfに記載あり。

Q5.登美(トミ)の長髄彦(登美彦)の「トミ」とは⇒答えは、進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像」.pdfに記載あり。

参考

 ⑥長髄彦を祀る神社

  ・長髄彦の後裔とその奉斎神社に「二つの鳥見にはそれぞれ式内社があり、城上郡(現桜井市)の等弥神社、添下郡(現奈良市)の登弥神社があげられる。後者は富雄川東沿岸の奈良市石木町に鎮座するが、その祭神のなかの一人に登美建速日命という神があり、同社の他の祭神からみて、この神が本来の祭神で登美彦すなわち長髄彦にあたると考えられる。」との記述があり、登弥神社には「西社殿に、神皇産霊神・登美建速日命・天児屋根命を祀る。」との記述あり。

  ・村井康彦著『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfに「富雄川・・・・・流域には長髄彦の遺蹟が点在している・・・・・。とくに伊弉諾いざなぎ神社(生駒市上町、長弓寺内旧牛頭天王社)、添御県坐そうのみあがたにいます神社(奈良市三碓)および登弥とみ神社(奈良市石木町)はそれぞれ上鳥見かみとみ・中なか鳥見・下しも鳥見の鎮守とされ、富雄川流域の住民と深いつながりをもってきた。」との記述あり。

 ⑤オセドウ貝塚 : 安日彦・長髄彦の遺骸を再葬した墓地とされる。

 ④折口信夫の長髄彦論

 ③古史古伝「先代旧事本紀大成経」は陸奥国一之宮鹽竈しおがま神社の鹽竈大神をナガスネヒコであるとしている。

 ②金色の鵄は、長髄彦のトーテム(守り神)で、生駒の「山ノ神」であり、霊蛇神であった(トビ・トミ=ナガ=蛇神.pdf ご参照)。

 ①長髄彦の後裔とその奉斎神社

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