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この物語の枠組み(パラダイム)

 下記のような資料を踏まえた上で、これをこの物語の枠組み(パラダイム)とします。

(1)原住民族(長髄彦)等を支配した銅器文明の支持者(饒速日命)もやがて、鉄器によって更に強く武装した民族(天孫民族)の征服にあって消えて行った。生駒市誌より>

(2)銅鐸祭祀のおこなわれた地方は物部王国と称すべきものがあり、蝦夷と協同した統治形態があった。谷川健一「白鳥伝説」 より>

(3)おそらく長髄彦は、縄文土着の民であり、饒連日は弥生渡来の民であったにちがいない。おそらく弥生中期ごろまで、このような土着縄文民と渡来弥生民との協力からなる権力が、この地を治めていたのであろう。しかしこの権力は、南九州からやってきたはなはだ武力の優れた弥生民によって征服された。梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」より>

(4)く三世紀末か四世紀の初めごろに、九州北部から新しい朝鮮からの渡来集団が畿内に強引に入ってきた。それはまさに割り込みであった。この北部九州からの新来集団は、それまでの「北九州国家」ではない。むしろ従来の「北九州国家」はこの半島からの新鋭集団に包含され、「女王国」の性格も新来者の性格に同化されたであろう。おそらく「倭人伝」にみえる女王国の強敵「狗奴国」もその新勢力の前に敗退したにちがいない。そうしてこれが九州北部に一世紀ぐらいいて勢力を増大させ、五世紀末ごろに畿内にむかって東進を問始したのであろう。これが天皇家の祖先勢力であり、いわゆる「天孫民族」と呼ばれるものであろう。その部族の小首長たちが『記・紀』でいう「天つ神」である。これに対して先住の在地部族の首長たちはすべて「国つ神」となる。<松本清張「古代探求」.pdfより>

(5-1)近畿の先住者(銅鐸圏の住民)に対しては“敬意”ある表現をなした「侵入者」だった。しかし、その近畿の地ですでに“偉大な成長”をとげるにつれ、東北地方周辺の勇者に対し、「蝦夷」と呼び、彼等に対し、さまざまの「差別用語」を累積し尽くすまでに堕落したのであった。古田武彦「真実の東北王朝」より>

(5-2)第一。日本列島内の関東及び西日本の人々、つまり一般庶民は、この東北地方周辺の人々を「えみし」と呼び、敬意を隠さなかった。これは、旧石器・縄文以来の「先進文明の地帯」がこの地帯であったから、当然であった。 第二。ところが、弥生期以降、中国大陸・朝鮮半島から金属器文明が流入するに及んで、情勢は一変した。先ず、九州王朝、つづいて近畿天皇家(分王朝)が成立し、そこを新しき「文明中枢」として、かつての「先進文明地帯」に対する。差別主義の病”が発生した。中国の“発明”した文字(「蝦夷」)と共に、差別思想をもまた、浅はかに「輸入」し、無法に「模倣」することとなった。これが、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』等に“満ちあふれた”「蝦夷」字使用の歴史的意義なのである。古田武彦「真実の東北王朝」より>

(6)水田稲作や金属器、大陸系磨製石器や大型壷、農耕祭祀や環濠集落などは、列島で自生したものではなく、南部朝鮮から持ちこまれたものであった。これら渡来してきた要素と、甕や打製石器、あるいは竪穴住居や木器や漆器など、縄紋時代から引き継がれたたくさんの要素とが組み合わさって弥生文化が形成される。もちろん、二つの文化はそれぞれの担い手がいたのであって、いまそれを縄紋人と渡来人・外来人とよぶとすれば、北部九州とその周縁地域では、玄界灘を越えて渡来してきた人びとの数や回数とその時期によって、弥生文化の質や方向性が決定されるだろうし、瀬戸内や大阪湾沿岸の地域では、外来の人びとの故郷や持ちこまれた文化の程度によって、どのような弥生文化が誕生するかが決まってくる。もっと東方の地域では、外来の人びとが移住してきた段階、新しい文化を構成する〈ものや情報〉だけが伝わってきた段階など、いろいろなケースが考えられよう。金関恕+大阪府弥生文化博物館 「弥生文化の成立」より>

(7)<より>

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