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長弓寺・伊弉諾(登彌)神社・真弓塚

65)長弓寺・真弓塚の位置・・・右地図(→クリックで拡大)ご参照/古蹟地図ご参照

 

長弓寺の紹介記事wikipedia<長弓寺>  

 

谷川健一「白鳥伝説」より引用

凡例:(上P.17)=「小学館ライブラリー版」上巻の17ページ  

・・・・・は省略部分  文中の太字部分と小文字のふりがなは引用者による。( )内のふりがなは原文の通り。 

引用者がを付した古蹟の位置は、このページの地図をご参照

物部・ナガスネヒコ連合軍の敗北(上P.204) 

 ・・・・・鳥見という地名については、『和名抄』に添下そうのしも郡に鳥貝郷があることから、その関連が問題にされねばならない

 式内社(引用者:『延喜式』「神名帳」に記載された神社) の「添下郡登弥(とみ)神社」は古代の鳥見荘の中心である。生駒市の長弓寺に祀られている牛頭(ごず)天王社(現在イザナギ神社<引用者:伊弉諾神社 )がかつての登弥神社であるとする『大和志料』の見解はあとに述べる・・・・・。

ニギハヤヒと妻ミカシキヤヒメの廟社(上P.231)

 『旧事本紀』の「天神本紀」に記載されたニギハヤヒの降臨伝承をもう一度みてみよう。

 「饒速日尊、天つ神の御祖の詔みことのりを稟(う)け、天磐船(あめのいはふね)に乗りて、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降りまし、則ち大倭国(おおやまとのくに)の鳥見(とみ)の白庭山(しらにはのやま)に遷ります。いはゆる天磐船に乗りて、大虚空(おほぞら)を翔(かけ)りゆき、この郷(くに)を巡りみて天降ります。いはゆる虚空(そら)見つ日本国(やまとのくに)というは是か。饒速日尊すなはち、長髄彦の妹御炊屋(みかしきや)姫を娶り、妃と為して妊胎(はらまし)めたまふ。いまだ産(うむ)時に及ばざるに、饒速日尊既に神殯去(かむさり)まして復天にのぼりたまはず」

 ニギハヤヒは河内の哮峯に降臨したが、そのあと、大和国の鳥見の白庭山に移った。そうして、ナガスネヒコの妹を娶ったが、子の誕生をみないで、亡くなった。という内容で、これは、物部一族が河内から大和の西北部の鳥見地方に進出した歴史を伝えていると思われる。鳥見地方は、『和名抄』にいう添下(そうのしも)郡鳥貝(とりかい)郷である。そこに富雄(とみお)の地名がある。現在は生駒市に属する(引用者:富雄は現在奈良市に属しており、鳥見地方は生駒市と奈良市に属している)
 では白庭山はどこを指すのであろうか。

 『大和志料』(引用者:P.523<コマ番号283>)には添下郡の条に真弓塚(まゆみつか)の名をあげて次のように説明している。

 真弓塚は長弓寺の東がわ(引用者:東約1㎞/地図)にあって弓塚とも呼んでいる。鳥見(とみ)郷(『和名抄』の鳥貝郷)にふくまれている地域で、南田原、高山とともに今なお鳥見谷と称せられる(概念地図)。有名な鳥見小河(富小川)は源を高山の竜王山(引用者:竜王山は行政区としては交野市にある/地図)に発し、鳥見谷、鳥見庄を経て南流する。長弓寺は河の東辺にあり、塚は寺の東にある。塚の形は穹窿(きゅうりゅう)であって、墳壟(ふんろう/土を盛り上げた丘)のようであり、丘陵のようでもある。寺号を真弓山長弓寺と称しているのはこの塚に因んだ名である。ニギハヤヒの遺物である弓矢などを納めたところという伝説にもとづくものらしい。

 『旧事本紀』にも天羽羽弓あめのははゆみ(神器の弓)や天羽羽矢あめのははや(神器の矢)を登美の白庭山に埋め、ニギハヤヒの墓としたとある。さきに述べたように、南田原や高山や上村かみむらを鳥見谷と称したが、白庭山は鳥見谷の上かみ(引用者:現生駒市の上町)にある。これは真弓岡(まゆみがおか)の旧名である。

 真弓岡を白庭山と比定するものとしては、諸書がある。石上神宮の神官の森氏の所蔵する『布留神宮旧記』、または『石上考』がそうである。また『大和国陳迫名鑑図』には鳥見の長弓寺の坊舎八坊は長髄彦の旧跡であり、ニギハヤヒとその妻の御炊屋姫の廟社があり、観音は型武天皇が建立したとなっている。ということから、長弓寺の場所は長髄彦の旧跡で、ニギハヤヒとその妻の御炊屋姫の霊廟もここにあったと考えられる。

 『延喜式』「神名帳」の「添下郡登弥(とみ)神社」は、『大和志』によると、木島(このしま)村に在り、近隣の六村とともに祭祀にあずかるとなっている。そこは富雄村の大字石木字木島(現在奈良市石木町/引用者:地図)にある村社とされている。石木もまた、いにしえの鳥見地方ではあるが、もともと鳥見の本拠は、南田原、高山、上村であって、河内の私市へ越える坂路、つまり岩船越えの道にそった山間の部分の総称である。だから昔は、岩船越えを上津鳥見路(かみつとみじ)と称した(引用者: 古道地図ご参照)のであることは、春日若宮の神主の千鳥家の古文書にみえている。そうであれば式内社の登弥神社はまさに鳥見の本拠の長弓寺あたりにあるのがとうぜんである 

 『布留神宮旧記』には「櫛玉饒速目尊は大和国鳥見明神河内国岩船明神是也」とある。これは、饒速日命を大和では鳥見明神として祀り、河内では岩船明神として祀ったということを示している。ところがいま、南田原(現在生駒市)に岩船神社と称するもの(引用者:現在は住吉神社と呼ばれている)はあるが、鳥見明神と称するものはない。おそらく南田原の岩船社はニギハヤヒがはじめて大和に入っだ旧跡を祀ったものであって、一方、鳥見明神というのは、さきに述べた長弓寺の場所に置かれたニギハヤヒ、御炊屋姫の廟社であって、武内社の登弥神社はそれである

 以上は『大和志料』の説をながながと紹介したのであるが、同書はその理由をさらにくわしく次のように述べている。

 今、長弓寺あたりをさがしても鳥見明神というのは見当たらないが、長弓寺の鎮守に牛頭(ごず)天王・八王子がある。牛頭天王は大宮と称し、八王子は若宮と称しており、古来、鳥見地方のもっとも尊崇した神社である。これらの神社は、天平十八年(七四六)、聖武天皇が行基に勅命を下して伽藍を遣らせたとき、その鎮守として牛頭天王と八王子をここに祀ったというが、信じるにたりない。第一、長弓寺の創立を聖武天皇の頃とするのも疑わしい。要するにそれは有名な神社に神宮寺をおき、僧侶を祭事にあずからしめたことから、ついには神社を天王と名づけ、八幡と称して寺の鎮守とさせたものにぽかならぬ。

 そこで、この大宮はニギハヤヒと御炊屋姫を祀る式内社の登弥神社を指し、若宮はその子のウマシマジを祀るところであったのが、中世に仏寺をこの神地に建て、行基が作ったと称する白檀の観音像を安置し、真弓塚にちなんで、真弓山長弓寺と称したために、ついに牛頭天王と称せられて、寺の鎮守神となるにいたったものであろう。

 それの証拠に、長弓寺のかまえはふつうの寺と変わっていて、まず寺の惣門(そうもん)のまえに大鳥居がある(ご参照リンク)。この大鳥居はまさに大宮(牛頭天王)に属するもので、全境内を総括するものである。そして社殿は東のはしにあり、寺の堂塔や坊室はその道を開いた南方にある。そこで、すべてこの大鳥居を経由して寺に出入するのがふつうである。これは長弓寺のつくられるまえに大宮があり、境内がことごとく神地であった証拠である。ニギハヤヒと御炊屋姫の廟社が長弓寺にあると『大和国陳迹名鑑図』にあるが、大宮以外にそれをどこに求めることができよう。そこで今、天羽羽弓などを納めた場所は真弓塚であり、武内社の登弥神社も大宮牛頭天王であると考えられると、『大和志料』の著者は結んでいる。 

 これに対して『生駒市誌』(昭和四十六年〈一九七一〉発行)の中に収録された池田勝太郎の論文(引用者:生駒市誌の中の<資料六>)はまた別の説をとなえている。池田は大正十三年(一九二四)頃に北倭村(現在生駒市)に組織された金会鵄の代表者で、長弓寺の住職の依頼で鳥見の史跡をまとめた。それによると、*鳥見白庭山は、北倭村の白谷にあるとしている。白谷の名は白庭山の遺称であるという。さきに『大和志料』が、『大和国陳迹名鑑図』の記載を引用して、長弓寺の境内の外にある真弓塚をニギハヤヒの墳墓としているが、真弓塚というのは聖武天皇が神亀五年(七二八)三月に狩猟に出かけたとき、真弓長弓なるものを葬らせた墳墓であって、真弓山長弓寺は真弓長弓が非命に死んだのをあわれんで僧行基に勅命を下して開いた寺であるから、ニギハヤヒの事蹟と関係がない。ただ真弓塚という名称がニギハヤヒの遺物をおさめるという話と偶然に暗合しているのでそうした想像をしたにすぎない、としりぞけている。そうして、長弓寺から富雄川をこえた白谷のあたりにある*檜(ひ)の窪(くぼ)山をニギハヤヒの墳墓に比定している。 

 池田勝太郎が長弓寺の縁起を引きあいに出しているのはいかがわしい付会の説であって、とるにたりない。おそらく依頼された長弓寺の住職の言をそのまま受け入れたのであろう。ニギハヤヒ自体が神話の人物であるからその墓がどこにあるかをさだめるというのは土台むりな話である。しかしそれはともかくとして、真弓塚と白谷は直線距離にしてニキロくらいしかへだたってはいないことから、河内から侵入した物部氏がニギハヤヒを奉斎して大和に最初の根拠地をきずいたのがこのあたりであったことは疑うべくもない。したがって式内社の登弥神社の所在地を長弓寺の境内と比定する『大和志料』の説は妥当というべきである。

 私も昭和五十七年(一九八二)秋、大和に旅して、長弓寺の東がわをまわり、真弓塚を訪れてみた。そこはいま造成された団地の一角にある。石段をのぼっていくと、丘の頂上に出る。そこから見下ろすと近くには矢田丘陵とその背後の生駒山脈がのぞまれ、とおくには葛城の山々がかすんで見える。そこは大和、河内、山城の境目にあり、河内からはじめて大和平野に進出した物部一族がこの真弓塚にのぼって日神(ひのかみ)ニギハヤヒを祀ったと想像していっこうに差し支えないところである。いま背後は樹林に蔽われているが、その樹林がないとすれば、三百六十度の視野をもつ円丘が真弓塚である。それはあたかも円墳のごとく、平野の中に孤立した小丘で、高さは二〇〇メートルに足りないが、大和平野を一望のもとに納め得る。物部一族は、真弓塚の天頂に太陽がかがやくとき、日神ニギハヤヒが彼らの前に現れるような気持ちを抱いたであろう。・・・・・

)次の説がある。

 太陽信仰御神体は饒速日山であり、その頂上には上ノ社があった。東の下ノ社伊弉諾神社(かつての登弥神社)で、西の下ノ社石切劔箭(いしきりつるぎ)神社wikipedia>である。

 

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