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留意点   

(8)神武東征神話は、狗奴国東遷(狗奴国東遷説.pdfご参照)の歴史的記憶の反映ではないか。

(7)人名・地名は、必ずしも特定の1人・1箇所を指すものではない。

<2>語部かたりべの物語に現れる神名・人名は、真の名を伝えることが少く、多くはその地の主ぬし或は有力者なるがために、地名に直に性別を表す語尾(ヒコ・ヒメ)をつけることが多い(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」.pdfの「鳥見彦・長髄彦」の項をご参照)。

<1>例

  ①長髄彦」とは 「長洲根(ながすね)彦」 という、やはり地形詞(引用者注:地形を示す名詞)なのである。あるいは、河内湾の湾入部(大阪城から南方まで、突出した 「長洲」になっていた。)や筑紫の志賀島のつけ根のところ(現在、つながっている)など、「長洲根」と称さるべき地形は、決して少なしとしないのである。その地の 勇者たちをしめす名称、それが「ながすねひこ」なのである。従って各地に生じうる名だ。<古田武彦「真実の東北王朝」> →長髄彦は、大和・河内にも日高見にもいた。筑紫にもいたかもしれない。

  ②鳥見という地名は各地にある。大和ではこの地のほか磯城郡外山や宇陀郡中富などがあり、櫻井町・藤原町附近である。神武天皇傅承には鳥見の地は鳥見山中の霊畤と鵄邑との二つが見える。・・・・・鳥見地方は古くはかなり廣地域であったことがしれる。・・・・・鵄邑は北倭・富雄地方、鳥見山中の霊畤の設けられた鳥見山は櫻井町外山としたのは、現在断案し得る最も妥当なものといわねばならない。<以上、富雄町史より> 大和盆地の西北部と東南部に二つのトミと呼ばれる地域があったことはたしかである(引用者:この地図.jpgご参照)。私の考えでは、大和盆地の西北部にいたナガスネヒコが大和盆地の東南部でも勢力をつよめていって、神武の軍を防いだのだろうと思う。<以上、谷川健一「白鳥伝説」より> →長髄彦・ニギハヤヒの本拠地は白谷(奈良湖北西)、長髄彦とイワレヒコの決戦地は外山付近(奈良湖南東)、金鵄は白谷付近より飛び立ち奈良湖上空を飛翔して決戦地に急行した。

  ③そこで、この系譜と大国主の別名を対応させてみると
一代目大国主は ヤシマジヌミノカミ…………………タケミナカタA
二代目大国主は フワノモジクヌスヌノカミ…………オオナムチノカミ
三代目大国主は フカブチノミズヤレハナノカミ……アシハラシコオノカミ
四代目大国士は オミズヌノカミ………………………ウツシクニタマノカミ
五代目大国主は アメノフユキヌノカミ………………ヤチホコノカミ
六代目大国主は オオクニヌシノカミ…………………ナガスネビコ
となります。これを念頭に置いて『古事記』の大国主の物語を読み直してみると、出雲神話はスサノオからいきなり六世の孫の話に飛んでしまっているのではなく、順番を追って書いてあることが分かりました。<嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf

  ④邪馬台国の女王・卑弥呼を特定の個人にあてはめるには無理がある。卑弥呼は北九州にも、大和にも、またその他の地方にもいていいのである。卑弥呼は、特定の個人を指す固有名詞ではなく、「ヒメミコ」を意味する普通名詞なのである。ヒメは女性、ミコは巫女である。<樋口清之「逆・日本史 3」.pdf

(6)弓矢は古代人にとって特別の意味を持つ

(5)①・②→縄文人は「強いが戦わない」。それゆえ、敵であるイワレヒコ軍でさえも「敬意を表せざるを得ない」人々である。『日本書紀』はこのように言っているかのようにとれる。

 ①『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。  詩烏(えみしを)毘利(ひだり)毛毛那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず) 「ひだり」は“一人。「ももなひと」は”百(もの)な人。岩波『日本古典文学大系』本による。二〇五ページ)  この「愛詩」は、神武の軍の相手方、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、「夷(えみし)を」という“文字”を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の“天子中心の夷蛮称呼”の文字だ。・・・・・第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという“差別文字”を当てていない。「愛詩」という、まことに麗わしい文字が用いられている。これは、決して″軽蔑語″ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「」は“水の盛なさま”。彼等は“尊敬”されているのだ。  さらに、内容も、そうだ。“この「えみし」は、一人で百人に当るほど強い”といって、その武勇をはめたたえているのだ。もちろん、その結論は、“そんなに強い、といわれる彼等さえ、わたしたち(神武の軍)には、全く抵抗さえしなかったという、自己賛美、いわゆる“手前味噌”に終わっている。しかし、その前提をなす「えみし」観、それは、以上のようだ。「軽蔑」でなく、「敬意」なのである。――これは、何か。<古田武彦「真実の東北王朝」より>

 ②『日本書紀』の神武東征の条をみると、天皇の軍隊の中核をなしていたのは大伴氏と、それにひきいられた久米部であったことが分かる。・・・・・『古事記』には、久米部がナガスネヒコを撃破したときの歌が、幾首か載っている。その一つに、   神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石(おひし)に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這(は)ひ廻(もとほり)り 撃ちてし止まむ   という歌がある。『古事記伝』をはじめとして、従来の解釈は、ナガスネヒコの軍隊を隙間もなくとりかこむ形容に、シタダミという貝が大きい石の上をはいまわる格好をもち出しかのだ、としている。すなわちシタダミは天皇の軍のたとえとしてもち出したものと理解されている。しかし実際はそうではなく、シタダミは逃げ足の早い敵の形容と解すべきである。私は先年、能登半島に旅行したとき、七尾湾の海岸で岩をはっているシタダミをとっている老人に出会った。その老人から、シタダミは、天候に敏感で、嵐などの悪天候になりそうなときは、それを予知していちはやく岩の裏面にかくれるという話を聞いた。シタダミのこうした習性を逃げ足の早い敵になぞらえたものであることがそのとき分った。・・・・・その久米歌の一つに、   夷(えみし)を 一人(ひだり) 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たたかい)もぜず   という歌かある。この歌についてはさきにも触れたが、夷は『日本書紀』の原文では、「愛瀰詩(えみし)」となっている。この歌の意は、蝦夷は一人で百人に当たることのできる強い兵士だと人は言うけれども、自分たち来目(くめ)部に対してはなんの抵抗もしない、というのである。<谷川健一「白鳥伝説」より

(4)①・②・③→長髄彦・ニギハヤヒの本拠地は白谷(奈良湖北西)、長髄彦とイワレヒコの決戦地は外山付近(奈良湖南東)、金鵄は白谷付近より飛び立ち奈良湖上空を飛翔して決戦地に急行した。

 ③長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところと推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし/(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。<生駒市誌より>

 ②鳥見地方は古くはかなり廣地域であったことがしれる。かくてこれらを綜合考証して、昭和十五年に神武天皇聖蹟調査委員会が、邑は北倭・富雄地方、鳥見山中の霊畤の設けられた鳥見山は櫻井町外山としたのは、現在断案し得る最も妥当なものといわねばならない。<富雄町史より>

 ①大和盆地の西北部と東南部に二つのトミと呼ばれる地域があったことはたしかである。私の考えでは、大和盆地の西北部にいたナガスネヒコが大和盆地の東南部でも勢力をつよめていって、神武の軍を防いだのだろうと思う。<谷川健一「白鳥伝説」より

(3)スサノオは出雲に降臨(神話用語の「降臨」は歴史用語では「渡来」という)し、各地に稲作技術を広めた。その子、ニギハヤヒも父に協力して大和に降臨し、稲作技術を広めた。彼らを1次降臨勢力(出雲勢力)という。その後、アマテラスニニギを日向に降臨させた。そのひ孫がイワレヒコである。彼らを第2次降臨勢力(日向勢力)という。この第2次降臨勢力の子孫は、第1次降臨勢力の業績を隠すために、「記紀」の中で、スサノオは稲作の敵対勢力であるかのように描いた。しかし、稲作技術を広めたスサノオとニギハヤヒへの人々の感謝の心を消し去ることは出来ず、彼らは全国各地の神社で稲作技術を伝来した福の神あるいは村の鎮守として祭られ、信仰を集めている。

(2)「長髄彦」とは 「長洲根(ながすね)彦」 という、やはり地形詞(引用者注:地形を示す名詞)なのである。あるいは、河内湾の湾入部(大阪城から南方まで、突出した 「長洲」になっていた。)や筑紫の志賀島のつけ根のところ(現在、つながっている)など、 「長洲根」と称さるべき地形は、決して少なしとしないのである。その地の 勇者たちをしめす名称、それが「ながすねひこ」なのである。従って各地に生じうる名だ。<古田武彦「真実の東北王朝」より

(1)弥生時代、陸地を歩くには、尾根筋か、けものみちしかなかった。見通しは利かず、どんな危険が待ち伏せしているかも分からなかった。そこで当時の旅行は、第一次的には海や川や湖沼などの水路を利用して、目的地に達したと思われる。陸地を通ることは第二次的であった。それはアイヌはもちろん、明治になって北海道の入植開拓者がもっぱら川を交通路として、舟で移動していたことからも分かる。<谷川健一「白鳥伝説」より

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