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ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?

<答>縄文人(ナガスネヒコ)の本然の性が失われるのを阻止するためである。

<解説>縄文人の本然の性とは何か。

 長髄彦(ナガスネヒコ)は縄文人の指導者である。

 縄文人は、狩猟採集民族であり無駄な殺し(殺戮)はしない。狩猟採集民族は、自ら食料をつくることはせず自然(神)が授けたものを受け取るのみであり、食料は他者=自然(神)のものであり、自分のものではないからである(自然から恵まれた食糧をアイヌ語で「ハル」という)。そもそも、無駄に殺すことは、自らの生命を維持するに不可欠な食料を無駄にすることである。また、最小限の殺しにより授かった生命を食べることにより、その生命を自らの心身に取り入れる。そのことで、殺されたものは生き続けるのである。<殺すのは自らと他者を生かすため=(自らの心身に取り入れることのない生命は)殺さない・殺せない>これが狩猟採集民族=縄文人の本然の性である。縄文人にとって食べるため以外のために殺すことは悪というより、不可能なものである。この本然の性が失われようとしたとき、どうなるか。それが、この物語の中で示されたのである。守り神は本然の性が失われないように見守る神であり、<本然の性が失われる=そのものがそのものでなくなる>危機のときに立ち現れる。

 神=自然は、縄文人が本然の性(「自然に=生まれながらに」持っている性質)を失わないことを約束に、食を獲得し命を維持するための道具として弓矢を縄文人に与えた。これにより縄文人は喜びの時代を手に入れた(留意点の(6)<弓矢は古代人にとって特別の意味を持つ>ご参照>。

 従って、ナガスネヒコが弓矢(弓矢は古代人にとって特別の意味を持つ)を用いて戦う(食べるため以外のために殺す)ことは、縄文人の「本然の性を失わさせる」(=そのものがそのものでなくならせる=存在価値のないものに転落させる)行為である。そのため、ナガスネヒコ率いる縄文人を守る(本然の性を失わさせない=そのものがそのものでなくならせない=存在価値のないものに転落させない)ために守り神(「神=自然」の化身)たる「金の鵄」がナガスネヒコ軍の戦闘を止めたのである。

 補足:遊動的な日本列島先住の狩猟採集民「山人やまびと」(縄文人)は、土地の共同所有や生産の協同自助の生活をしていた(殺戮を惹起する契機を孕む闘争・抗争が不要な生き方をしていた)。かかる生き方に、現代の抑圧の世界構造(「資本=ネーション=国家」)に対抗し、それを乗り越える未来の可能性を見出すことができるとの見方(「山人」に見る未来の可能性.pdfご参照)は卓見である。

ご参照:国譲り神話と長髄彦神話.pdf

*。これに対抗し、乗り越える未来の可能性を

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