« TOP PAGEへ | トップページ | 射目立てて 跡見の岳辺の 瞿麥の花 總手折り 吾は去きなむ 寧樂人のため(万葉集1549) »

小山 和「長弓寺」<『秘宝のある寺〈奈良〉』(保育社)より>

<文中の太字と(  )内は引用者によります。> 
 射目いめ立てて 跡見とみの岳辺おかべの 瞿麦なでしこの花 総ふさ手折たおり われは行きなむ 奈良人ならびとのため――万葉にうたわれた紀鹿人きのかひと(奈良時代の官人・歌人)のおおらかな旋頭歌せどうか(五七七、五七七を二回繰り返す三十八音からなる歌)である(この歌について)。その跡見の岳辺(丘陵のほとり)が富の小川とみのおがわと呼ばれた今の富雄川の上游じょうゆう(上流)、美しい山あいの富雄(奈良市)から真弓(生駒市)のあたり(富雄川上流の東側、北から生駒市真弓小学校区の大部分・奈良市富雄地区東半分・大和郡山市最北部東半分に丘陵をなすのが西之京丘陵で、万葉歌人はこれを跡見の岳と詠んだ)。この清麗な里に長弓寺(ご参照)がある。神武天皇東征(ご参照 )の時、その軍を孔舎衛くさえ坂に破った長髄彦ながすねひこご参照)の故地、神話の里である。
 昔、小野真弓長弓が、子の長麻呂と共に聖武帝の供をして鳥見とみの丘(跡見の岳)に遊猟した。その時、飛び立つ異鳥を追って放った長麻呂の矢が、あやまって父にあたり、真弓長弓は落命した。子の悲嘆、父の不運を深くあわれんだ聖武帝が行基に命じ、悲劇の地へ一寺を建立された。行基は白檀の十一面観音(十一面観音とは)を造り、聖武帝の弓で本尊頭上の仏面を刻んだという。長弓寺草創縁起である。
 今、長弓寺は丘の根のゆるやかな斜面を占め、鎌倉時代の軽快、典雅な国宝本堂を四院の塔頭たっちゅう(寺院を護持している僧侶や家族が住む庵)が守っている。その姿はのどかな一集落のように見える。
 64 本堂(右写真<クリックで拡大>)は弘安二年(1279)上棟、入母屋造り桧皮葺ひわだぶきに瓦棟をのせ、緩勾配の屋根が軽やかな反りを見せる美堂。奈良地方密教仏殿の一代表作である。
 内部は広い外陣をとり、結界を設けた内陣須弥壇中央へ重文黒漆厨子を据えて、伝説の十一面観音立像を安置する。重い威厳と優美さを一つに備えたお姿がまことに美しい。左右に皆金半丈六の弥陀・釈迦仏座像、四天を配して荘厳な雰囲気。拝観者には丁寧な説明がある。
 四搭頭は精進料理も宿泊もでき、春は桜が美しい。隠れ里の閑雅な秘宝の寺である。
<追記>この本は、公立や大学の図書館で貸し出しやその予約受付をしていますが、
どの公立・大学図書館が貸し出ししているかを調べたり、公立図書館で貸し出し予約をしたいとき⇒カーリルへ 

« TOP PAGEへ | トップページ | 射目立てて 跡見の岳辺の 瞿麥の花 總手折り 吾は去きなむ 寧樂人のため(万葉集1549) »