« 今も東北に生きる「ナガスネヒコの精神=愛瀰詩(エミシ)の精神」とは  。  | トップページ | 子らも知る 文化の源 »

前田一武 『邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説 』 

第一部「日本書紀」から謎を解く。

一「日本書紀」の成立

 ・・・・・。

 あらかじめ「日本書紀」『巻三』「神武東征」の要点をまとめておくと、次のようになるでしょう。

 ① 東方に「美(うま)し国」があると、九州に根拠を持っていた天孫族が知ったこと。

 ② その「美し国」には名前の知られた「饒速目命」という同族が、すでに「降臨」していること。

 ③ 日向出身の四人の天孫族の兄弟が、倭の国家を支配するために、よき地を求めて、「美し国」に東征を開始したこと。

 ④ 途中、兵姑と徴兵のために、あるいは何らかの理由があって三年の歳月を吉備国、高島宮で過ごしたこと。その地を戊午の年の二月一一目に出陣したところ、河内国から敵将、「長髄彦」が、東征軍を「国を奪う侵略者」とみて、防戦を始めたこと。

 ⑤ 当初、「龍田」から侵入を試みたが、道が険しいため引き返し、中央突破を計画して生駒山麓から直接に敵陣「中洲」を攻略しようと考えたこと。

 ⑥ 緒戦、「孔舎衛坂」において激戦になり、苦戦のうえ敗退し、長兄の「五瀬彦」が負傷したこと。

 ⑦ 戦略として日の出る「東」にむかって戦うことは神意に反すると考えたこと。

 ⑧ 長兄「五瀬彦」は戦傷で死に、紀の国に埋葬したこと。

 ⑨ 東征軍はいわば敗残軍となり、結局、最も若い四番目の弟「若御毛沼」が最後まで戦うこととなったこと。

 ⑩ 河内を大きく「東」に迂回し、熊野方面から大和を目指したこと。後に神武天皇となる「若御毛沼」の上の二人の兄は、紀伊半島の大迂回中に発生した海難に嫌気がさして、「東征」から離脱したこと。

 ⑪ 紀伊半島に上陸し、歎難辛苦の末、大和の宇陀郡に潜入する東征軍は、ほとんど壊滅状態であったこと。

 ⑫ 謀略と説得によって、次第に大和の豪族を自陣に引き込んでいったこと。

 ⑬ やがて奈良盆地の「東」、三輪山を背に陣を構え、生駒山周辺の敵陣を西にすえたこと。

 ⑭ 東征軍は、敵将「長髄彦」には、戦闘では勝利できなかったこと。

 ⑮敵本陣の「中洲」は、「鳥見」と呼ばれる地域にあって、そこで最終戦があったこと。

 ⑯敵将「長髄彦」が、東征軍が仕掛けている戦闘の「正当性」を疑い、「論戦」を什掛けたこと。

 ⑰ 神武天皇は、「長髄彦」が見せる天孫支配の象徴、「天羽羽矢」と「歩靫」を「本物」だと認めたこと。

 ⑱ すなわち、「長髄彦」は単に一地域のまつろわぬ豪族ではなく、正統な王であること、つまり国家支配の正統性が「日本書紀」の作者から彼に与えられていること。

 ⑲ 「饒速日命」は「長髄彦」の妹婿であったが、天孫族であり、義兄が頑固で支配者の分際でないことを理解し、義兄を殺して東征軍に帰順し、物部氏の祖先となったこと。

 ⑳ 神武天皇はそののち、残党を平らげ、辛酉の年、橿原で即位したこと。

 以上がおおよそ「神武東征」の概略であり、また、「日本書紀」巻三の内容なのです。次章でこれを分析しながら、詳しく見て行きます。この中に「邪馬台国」の謎が隠されているに違いないのです。

 

二 神武東征

1 東の美(うま)し国へ

 ・・・・・。

 先代旧事本紀』は、この「饒速日命」が「河内国の哮峰」に降臨したと言いますが、この哮峰(いがるがのみね)は二箇所が考えられます。一つは地名に現存する奈良県生駒郡斑鳩町周辺です。もう一箇所は、大阪府交野市の「磐船神社」周辺です。「交野市」周辺には、物部氏ゆかりの小古墳が数多く存在します。いずれも、生駒山を取り囲む南北の比較的近い位置にあります。

 しかし、ここで重要なことは、本書のキーパーソンである彼が「天孫族」として、生駒山周縁に領地を保持し根付いていたということです。

 神武天皇の言う「東にある美しい国」とは、生駒山の周縁一体をさしているのです。それが「神武東征」の目的地であり、「日本書紀」の言う「東有美地 青山四周 其中亦有乗天磐船而飛降者」なのです。

 神武天皇の本格的な軍事侵攻の前に、「天孫」族が倭国の支配に深く関与していたということ、その中心地は生駒山の周縁であったということは、見逃すことができないポイントです。

 その政治形態は、「饒速日命」とその妻の兄「長髄彦」との二重支配であったことが次章で窺えます。祭祀は「天孫」族、饒速日命であり、政治権力は長髄彦でした。この権力の二重構造性は「魏志倭人伝」に描かれる卑弥呼と弟王の関係、「邪馬台国」の政治構造を想起させます。

 「美し国」とは「長髄彦」の国だったのです。

 

2我が国を奪う者

 東征軍は、途中、兵の募集や食料、兵器の調達などいわゆる兵姑のために、三年間、岡山県、吉備の国、高島宮で過ごします。三年はあるいは長く感じられるかも知れません。何らかの理由があって、攻勢に手間がかかったのです。この三年間は、出雲との連合軍編成の交渉期間ではなかったのかと推理します。「大和朝廷」と「出雲国」との、その後の深い関係を照らして考えると、この期間は「関係構築」の時間のように感じます。薩摩と長州が連合に至るのにも、それはどの「手間」がかかりました。

 そしていよいよ、戊午年の二月十一日に高島宮を出陣します。当然、河内国から「敵将・長髄彦」が、東征軍を「国を奪う侵略者」として、防戦を開始します。河内国が「美し国」の最前線であることがわかります。

 

   時長髄彦聞之曰、「夫天神子等所以来者、必将奪我國」

 

 「長髄彦」の主張を記述しているところは、「神武東征」が聖戦と言えるかという、「記紀」の著者の公平を期す配慮が見えます。「必将奪我國」という時点で、少なくとも「長髄彦」側は東征軍が侵略軍であると認識しています。国防上の正義は、「長髄彦」側にあります。

 「日本書紀」の著者は、神武天皇の東征が、国際法上「侵略戦争である」と考えられる可能性を示唆しているのです。これは相当に譲った姿勢でしょう。

 この点に関して、「古事記」の制作意図は、国内の情宜が主たる目的と考えられるゆえに、「長髄彦」の立場と東征軍との関係については、深入りをさけて、神託を受けた出来事であるとほとんど略述しているのです。従って「古事記」では「ナガスネヒコ王」は、単に「まつろわぬ」田舎の豪族でしかありません。

 「日本書紀」は、「古事記」と違って、漢文体で表現され、東アジア全域及びシルクロードの国々に、日本の歴史書として公表される『建国紀』です。倭国の事情はすでに中国史書によって知られているわけですから、当然、その歴史事情に詳しい「歴史家」も多数存在するでしょう。従って、「日本書紀」の編著者たりとも、この「長髄彦」側の「必将奪我國」の主

張を落とすわけにはゆかなかったのではないでしょうか。

 八世紀の日本の歴史家が、この「神武東征」を『侵略戦争』と見ることの出来る東アジアの視線を無視することが出来なかったというべきでしょうか。「長髄彦」は、最終決戦において、神武天皇と「統治権の正当性」を争うのです。

 「なぜ、あなたに私の国を奪う権利があるのですか」

 それは、「美し国」の王の悲痛な叫びでしょう。

 河内から望んで生駒山の西山麓の向こう側に、「長髄彦」の国の首都域、すなわち「中洲」があって、そこが侵攻軍の攻略目的地であったということは、大きな情報ですが、八世紀になっても忘れがたく残存し伝承された「国王」がそこにいて、「倭国全体の統治権」を持っていたのです。このことは、「邪馬台国」の存在を想起させます。

 しかし、「長髄彦」の統治権が「倭国全体の統治権」だったとなぜ言えるのか。それをこれから見ていきます。私たちが検証しなければならないことは、「長髄彦」が生駒山周縁の国王であったとしても、彼が王である国が「邪馬台国」であったとどうして言えるのかということです。私たちは、この点を考えなければなりません。

 国際的に認知された国家が何の理由もなく自然消滅するということは、普通は考えられない

ことです。「邪馬台国」も滅亡しましたが、それは、何らかの力が加わって滅亡したのです。

 この点を考察するために、私たちは東アジアの政治状況について、いくつかの場面ごとに検証していかなければなりません。「邪馬台国」の滅亡や「大和朝廷」の誕生は、単に国内的な問題ではなく、東アジア全域に関わる状況の下で発生しているのです。

 この「長髄彦」の国、「美し国」にもっと迫らなければならないということになってきました。

 

3 戊午(つちのえうま)とは西暦何年か。

 (略)

 

4 生駒山の向うの「中洲(うちつくに)」

 少し戻って、「東征軍」と「長髄彦」の戦闘経過を見て行きましょう。その描写は非常に具体的ですし、「邪馬台国とは何か」を考えるうえで、さらに大きなヒントを手に入れることができます。

 

   三月丁卯朔丙子 遡流而上 徑至河内國草香邑青雲白肩之津 夏四月丙申朔甲辰 皇師勒兵 歩趣龍田 而其路狭嶮 人不得並行 乃還更欲東喩謄駒山 而人中洲

 

 (戊午<つちのえうま>)三月、「丁卯(ひのとう)朔丙子(ひのえね)」は、「丁卯」の日を「朔(つきたち)」すなわち、第一日として「丙子」の日、一〇日目です。すなわち、三月一〇日ということですが、この日に難波から河内湖岸、「白肩之津」に至ります。そして四月九日、侵攻軍は龍田まで行軍しましたが、道が険しく兵隊が並んで行くことが出来ないので、いったん引き返し、生駒山を東に登り、直接、「中洲」に突入することにしました。

 ここで言う「中洲」は、生駒山を越えた東側の奈良県北西部の生駒郡から奈良市西部、すなわち富雄川一帯を指しています。そこが侵攻軍の攻略すべき「長髄彦」の国の中心地、首都城です。そこにむけて、いよいよ侵攻軍は敵本陣の直撃を試みます。

 ところが、生駒山の登り口で、犬苦戦するのです。それが「孔舎衛坂(くさえさか)」の激戦です。

 

   時長髄彦聞之曰 「夫天神子等所以来者 必将奪我國」則盡起屬兵 徼之於孔舎衛坂 與之會戰 有流矢 中五瀬命肱脛 皇師不能進戦 天皇憂之 乃運神策於冲衿日 今我是日神子孫 而向日征虜 此逆天道也

 

 緒戦、生駒山麓「孔舎衛坂」の戦いは、神武天皇の一番上の兄、「五瀬命(いつせのみこと)」が傷つき、やがて戦死するほどの激戦でした。長髄彦が「必将奪我國」と首都防衛の檄を発するほど必死の防戦だったのです。

 今、石切神社の北側、近鉄奈良線生駒トンネル付近に「日下」の地名が残っていますが、確かに、このあたりの地形が、一番生駒山を奈良方面に向かって縦断しやすいように観察できます。この戦闘の時、兄の将軍五瀬命の肱脛に流れ矢が当たり、侵攻車は前進することが出来なくなりました。

 神武天皇はこの苦戦の原因を「東」に陣を取る敵と戦ったからであると考えます。日の神の子孫である自分が日に向かって戦うのは、天の道に逆らうものであるとして、一旦退却します。その後、神武天皇はこの信念を徹底し、熊野から大和入りする大迂回路をとることになります。というのも、敵陣の「東」に自陣を据えるためには、大和にあってはその方法しがないからです。日本の戦闘では、地形・陣形と並んで、方位は重要な勝利の要因になります。太陽の光をどのように戦闘条件の中に用いるか、また、同時に季節風をどう利用して風上に立つか、などは戦略家の基本だったでしょう。それが神意でした。神意がそのように神武天皇に下ったというべきでしょうか。

 神武天皇は、信念を持って、紀伊半島を大きく迂回する艱難辛苦の道を選びます。兄を失ったこの「孔舎衛坂」の痛い経験から学んだのです。

 やがて、まさしく波乱万丈の末、大和南部の攻略に成功し、「長髄彦」との決戦にあっても、富雄川の東岸に陣を置きます。大和盆地を平定してもその東、三輪山を背後に本陣を構えることになりますが、それは、この緒戦の敗戦の教訓なのです。

 

5 鳥見の決戦

 

   十有二月癸巳朔丙申 皇師遂繋長髄 連戦不能取勝 時忽然天陰而雨冰 乃有金色靈鴟飛来 止于皇弓之弭 其鴟光曄煜 如流電 由是長髄彦軍卒 皆迷眩不復力戦 長髄是邑之本號焉 因亦以為人名 及皇軍之得瑞鵄也 時人仍號鴟邑 今云鳥見 是訛也

 

 十二月癸巳(みずのとみ)朔丙申(ひのえさる)。十二月四日(癸巳の日を朔すなわち第一日とし、丙申の日すなわちその四日目)決戦の時が来ました。「神武天皇」と「長髄彦」との決戦は、「鳥見」で行われます。有名な金色の霊鳥の飛来したところです。現在、近鉄富雄駅周辺の富雄川西岸に鳥見、東岸に三碓(みつがらす)などの地名が残っています。「鳥見」は「鴟邑(とびむら)」の訛であると伝承されてきました。

 日本の政治史上、最も重大な謎を秘めた戦いになるとは、多分、この時、誰も考えなかったでしょう。皇軍はそれまで何度も戦いましたが、長髄彦を討ち取ることができませんでした。しかし、この日は、戦場に金色の靈鴟(れいし)が飛来したのです。「長髄彦」の軍兵は、電気が流れる如く、痺(しび)れて戦う力を失ってしまいます。皇軍はめでたい鴟(を得たのですが、やはり戦闘にあってば、決定的な勝利を得ることができませんでした。

 

6 統治権は誰に

 戦闘による決着は見られず、状況は膠着します。そこで、最後の頂上会談が設定されました。

 いよいよ決定的なポイントにさしかかったのです。それは、誰がこの倭国の正当な王なのかという「統治権問題」です。そのことが、この副ト会談で明らかにされていきます。

   時長髄乃遣行人言於天皇曰「嘗有天神之子乗天磐船自天降止 號曰櫛玉饒速日命 饒速日是娶吾妹三炊屋媛亦名長髄媛亦名鳥見屋媛 遂有兒息 名曰可美真手命 可美真手 故吾以饒速日命為君而奉焉 夫天神之子 豊有兩種乎 奈何更稱天神子以奪人地乎 吾心推之未必為信」

 

 「日本書紀」『巻三』にあって、「邪馬台国」を考える上でこの部分ほど重視しなければならないところはないと思います。いまだかつて、その重要性はクローズアップされてこなかったようですが、間違いなく「邪馬台国」と「大和朝廷」を繋いでいる決定的な部分であると、私は考えます。

 長髄彦は伝令を遺わし天皇に直言します。彼の論理は次のようです。

 「わが国には、以前、天の磐船によって天下った『饒速日命』がいらっしゃる。そして、わが妹、三炊屋媛を娶り、子息可美真手(うましまでの)命をもうけている。『饒速日命』を我らの君主として仰ぐのは天神の子であるが故である。どうして天神の子が二人、この国にあるというのか。それとも天神を名乗り、この国の人と地を奪おうとしているのではないか。私か信じられないのはその点てある」

 この論理はまことにもっともではないでしょうか。長髄彦の主張は、自らの主権が正統な手続きを経たものであることを訴えています。「古事記」が言うように単なる地方豪族ではなく、「天神」を仰ぐいわば国際的に領有権が認められた国家の王なのです。

 しかし、また、よく考えてみると、この論理は侵攻軍にとっても都合のよい仕組みにはなっています。すなわち、「天神」一族ならば、この国の支配者になる資格かあるという暗黙の前提です。国家の統合理論が「天孫族」を軸とするものであると、「日本書紀」の著者は暗に示唆しているのです。

 八世紀の記述者が見ていた「長髄彦の国」とは、地元の一地域の狭い国家ではないことは、ここからも明白です。「古事記」が言うように長髄彦が一地方の豪族でしかないとするならば、「日本書紀」にあって、わざわざこのような統治権の正統性を争う記述は必要はないでしょう。

 長髄彦の治める国もまた、神武天皇ら侵攻軍が掲げる「神託の論理」にかなう国家であることを、ここから理解できるのです。

 その神託によって成立している四世紀以前の国家、しかも国際的に認知されている国家とは、まさしく「魏志倭人伝」に知られる「邪馬台国」だけしか存在しないのではないでしょうか。三世紀に、女王卑弥呼、台与が従えていた連合国を継ぐ長髄彦だけが、倭にあって統治権の正当性を保持していたのです。だからこそ、長髄彦を打倒することによって初めて、九州・中国連合の東征軍が、大和を平定し、邪馬台国が保持していた倭全体の統治権を継承することが出来たというわけなのです。

 四世紀以前の倭にあって、「魏志倭人伝」に記述される「邪馬台国」以外に、「日本書紀」で言う「天孫」の統合体を考えることは不可能です。

 そして、その長髄彦と侵攻軍が最終決戦を行った「時と場所」こそば、記憶され伝承されたのです。「日本書紀」の制作者にとって、国家権力の構造の正当性を内外に認知させるためには、国家誕生の「時と場所」という点だけは、明確にしなければならないし、そればかりでなく、いわば国際的な衆人環視の中で、「時と場所」だけは、御都合主義によって虚偽記載の出来ない部分なのではないでしょうか。

 私たちが確認したことは、それが「戊午(つちのえ)の年、すなわち西暦三五八年一二月、奈良県北西部、富雄川流域、鳥見の里」で発生し、そこで旧体制軍と侵攻軍が最終決戦を行ったという点なのです。

 侵攻軍はさまざまな謀殺と裏切りによって勝利し、権力を確立した、それだけは動かせない出来事として伝承されていたということです。私たちがこの事象を信頼できないとするなら、「日本書紀」そのものの価値を疑うことになりますし、「神武東征」は永遠に御伽噺のようになってしまいます。

 神武天皇は長髄彦の明快な主張に、苦しい言い訳をしています。それは「日本書紀」の制作者が、「神武東征」の明確な正当性を打ち出せないでいることを意味しています。

 神武天皇は、長髄彦に問い詰められてこう答えます。

 「天神の子は他にもいる」

 これはやはり苦しい言い逃れです。その場面をもう少し詳しく見ていきます。

 

7 本物である。

 

   「天神子亦多耳 汝所為君 是實天神之子者 必有表物 可相示之」長髄彦即取饒速日命之天羽羽矢一隻及歩靫以奉示天皇 天皇覧之日「事不虚也」還以所御天羽羽矢一隻及歩靫賜示於長髄彦

 

 天の神の子が他にいるとでも言うのかという長髄彦の問いかけに、神武天皇は、

 「他にも多くいる。お前が君主とする饒速日命が本当に天の神の子なら、必ずその証拠となるものがある。それを示すことができるのか」

 と、逆に詰問します。ここで「天孫族」である物的証拠が求められますが、長髄彦は、饒速日命が持つ「天羽羽矢」と矢を背中に収納する「歩靫」を天皇に示します。天皇はこれを見て、

 「事不虚也」

 「嘘ではない」とあっさり認めるのですが、しかし、この「四文字」ほど、重大な記述はないと私は思います。

 この「四文字」こそが、「邪馬台国」の謎の全てを解き明かす重大な鍵のように感じられるのです。

 すなわち、この時点で、「長髄彦」は「神武天皇」と同格なのです。

 「嘘ではない」とあっさり認めることは、少なくとも「統治権」の認証において、長髄彦は神武天皇と同格であるという極めて重大なポイントを示唆するのです。

 神武天皇がこのように長髄彦の言うことを嘘ではないと認めるならば、神武天皇自身がこの東征を、「聖戦」すなわち唯一の神意に基づく侵攻であることを否定したことになるばかりではありません。少なくともこの時点で、天の神の子が支配する権力が「神武東征」以前に、地上に存在していたことを「日本書紀」の制作者は認知していることにもなります。やはり、長髄彦は正統な倭の支配者だったのです。長髄彦が正統な神託に基づく支配権力者であったことを「事不虚也」の言葉から確認できます。

 つまり、大和朝廷が成立する前に、この麗しい大和の地に、天孫族が統治する国家と体制が存在したことを「日本書紀」は明示しているのですが、ここが「古事記」の記述と決定的に違うところであるのは、国際的にも周知された「邪馬台国」滅亡の事実を、しっかり「事実」として書かない限り、体裁が国際的であっても、その歴史書は日本の「正史」と認められなかったからだと、私は推理します。

 そして、両者の会談の後、統治権の根拠とでも言うべき「天羽羽矢一隻及歩靫」はそのまま長髄彦に還されます。

 そして、神武天皇は……。そのまますごすごと九州に引き上げたのでしょうか。

 もちろん、そうではありません。

 ならば、神武天皇は「統治権」をどのように引き継いだのか。

 ここにキーパーソン「饒速日命」の働きがあります。彼の使命は義兄の謀殺です。人間ドラマ風にいえば、彼は新旧のリーダーを「天秤」にかけて、義兄長髄彦を裏切り、同族の侵攻者、神武天皇に靡いたのです。そして、神武天皇の橿原での即位を「神託」として、即位の儀式の全てを取り仕切りました。そのように『先代旧事本紀』は伝えます。

 「謀殺と裏切り」は恥すべきことで「神託」を受けた軍隊のなすべきことではありません。しかし、体制の転覆や革命がそのような恥すべき行為を抜きにして成立すると考える方がかえってむつかしいのではないでしょうか。「大和朝廷」がそのような「謀殺と裏切り」の結果、ついに誕生したという事実は、なるべく迷彩されなければならないでしょう。「歴史」の制作者はそう考えるかも知れないのです。なぜなら、新しい支配者もまた、「道徳」を説かなければならないからです。この権力者の自己矛盾は、多くの政権交代の事件に見られます。

 だとすれば、彼の「報酬」は何だったのでしょうか。

 彼が義兄を殺害し、神武天皇に恭順したのは、東征軍の「大義」のためであったことは認めますが、しかし、それだけでは彼の政治的利害が看過されているような感じが残ります。「邪馬台国の滅亡」には、何か表には書き表せない驚くべき事実が裏に潜んでいるような雰囲気があります。

 謀略には個人の利害が孕んでいます。

 この場合、推理できることが二つあります。「饒速日命」に与えられる報酬の一つは、「ナガスネヒコ王の国」の遺領の継承です。

 生駒山周辺の多くの神社にあって、「饒速日命」が祭られているのは、彼が「ナガスネヒコ王の国」の中心地を継承したことを示しているのではないでしょうか。

 もう一つは軍事大権を収納し、次の大王に就任すること、生駒から入って、神武創業に恭順したご褒美として新しい大王となることです。

 八世紀の紀記制作者にとってこれは、皇統に関する重大事です。これをどうして表ざたに出来るでしょう。

 この事実をどのように隠蔽するか……。

 この二つが「邪馬台国」の滅亡と引き換えに、侵攻軍から与えられた「饒速日命」の報酬ではないかと推理します。その状況証拠は、実はいたるところから見つけることが出来るので、稿を改めて第三部で述べたいと思っています。

 もう一度重要な点を確認してまとめますが、もし、神武天皇が長髄彦の言うことを嘘ではないと認めるならば、神武天皇自身がこの東征を、唯一の神意に基づく侵攻、すなわち「聖戦」であることを自ら否定したことになるばかりではなく、その時点で天の神の子が支配する権力が「神武東征」以前に、地上に存在していたことを「日本書紀」の制作者は認知していたことにもなるわけで、長髄彦がそれまでの倭の支配者だったことを明らかにしているのです。

 そして、長髄彦が正統な神託に基づく支配権力者だったことを「事不虚也」の言葉によって示しだのは、国際的にも周知された「邪馬台国」滅亡の過去を、しっかり「事実」として書かない限り、「日本書紀」は「正史」と、国際的に認められなかったからだと推察できるのでした。

 ならば、神武天皇はどういう理由を立てて、ついには「統治権」の奪取を行ったのでしょうか。そのことを次に見ていきましょう。

 

8 「天人の際」とは何か。

 

   饒速日命本知天神 慇懃唯天孫是與 且見夫長髄彦 稟性愎佷 不可教以天人之際 乃殺之帥其衆而歸順焉 天皇素聞饒速日命是自天降者 而今果 立忠效 則褒而寵之 此物部氏之遠祖也

  (訳)

   饒速日命は、もとから、天の神が深い思いで、ただ「天孫族」だけに味方しなさるということを知っていた。かつまた、その長髄彦の稟性はねじ曲がっており、「天人の際」を教えることもできない様子を見て、それで、長髄彦を殺して、その民衆を率いて帰順した。天皇は、もとより饒速日命が天より降っている者ということをお聞きになっていて、今、まさにその忠誠を明かしたので、褒めてこれを寵愛なさった。饒遠日命は、物部氏の遠祖である。

 ここで、神武天皇が「旧政権」の国王から「統治権」を略奪する理由は、統治上の「公的問題」ではなく、ただ長髄彦の「稟性」の問題だけでしかなかったということがわかります。

 長髄彦が殺される理由は、国主、長髄彦がいわば頑固で「天人の為すべき道」を教えることもできない曲がった性質だからだと記述されますが、ここで言う「天人の為すべき道」とは一体何だったのでしょうか。そして、饒速日命の報酬を先に見てしまいましたが、彼が義兄を裏切らなければならなかった根本的理由を私たちはどう考えればいいのでしょうか。

 歴史を動かした「天人の際にあらず」という論理をもう一度検証してみなければなりません。神武天皇がどのような「大義」で権力の交代に成功し、東征を完了したのか。

 そのために、この時期の東アジアの状況を見なければなりません。今まさに「国家体制」の変換を画策しなければならない緊急的条件が東アジアにあり、それが倭国を取り巻いていました。つまり、「帯方郡炎上」です。それは東アジア全域に風雲急を告げる大変動でした。

 それにも関わらず、長髄彦は、旧体制的倭国統治法とても言うべき「地方分権的な連合体制」に固執したのではないでしょうか。

 そこに侵攻軍が、彼を誅殺しなければならない理由を見たいと思います。中央の支配者に危険な外圧を感知できない当事者能力の欠如があると、大きな被害を受けるのは、朝鮮半島に近い九州・中国地方の国々だからです。

 したがって、今、「天人の為すべき道」とは、高句麗の強大化に対抗するために、国家の骨組みを「中央集権的な軍事体制」に変えていく、そのりリーダーダシップを意味していたと考えられるのです。

 「饒速日命」は「天孫族」であるがゆえに、国家の存亡の機微が見えていました。少なくとも「日本書紀」の制作者はそう言いたいに違いありません。現に「饒速日命」の忠義は天皇に愛され、やがて大連、物部氏の遠祖となりました。

 「邪馬台国」滅亡後、倭国は大和に確立された大王を中心とする朝廷の方針で、即座に外征に転じ、朝鮮半島に出兵します。「征韓論」を掲げて朝鮮半島に出兵する明治政府の外交と同じですし、豊臣秀吉も戦国統一のエネルギーを朝鮮半島の攻略にむけました。

 「中央集権的な軍事体制」の確立を急ぐ、これが神武天皇の変革の「大義」であったのでしょう。また、「饒速日命」を動かした理由、権力交代の「論理」なのではなかったでしょうか。

 そして、「長髄彦」謀殺の個人的報酬をさらに大胆に推理してみます。

 生駒山周辺の様ざまな伝承や史跡が物語っているように、長髄彦の旧領はすべて饒速日命に譲渡されています。

 神武天皇は、「生駒王」としての待遇を約束します。生駒山を神体として祭る儀礼をも許しますが、それだけでは義兄を殺すことができないでしょう。饒速日命は、この怒涛のように、また執念深く攻撃の手を緩めない同族の力を恐れ裏切りに踏み切ったのでしょうか。それだけでもないでしょう。

 神武天皇は同じ天孫族として、ともに倭国を作り変える力として働くように、「大義」につくように、真摯に誘ったに違いありません。

 しかし、また、それだけでもないでしょう。彼の妻である鳥見姫は、兄長髄彦を慕っています。兄と共に戦火をくぐることを望みます。彼は決して兄を裏切りたくないと考えます。

 「日本書紀」『巻六』で、垂仁天皇と佐保姫の物語に代表されるように、兄妹と義弟の相克のモチーフは「記紀」において何度も繰り返されます。

 「饒速日命」は人間として悩んだのではないでしょうか。ここで義兄一族とともに、侵攻者に徹底抗戦することが倭国の民人にとって大の声なのか。九州からの侵攻軍に徹底抗戦し、「倭国大乱」を再現させるものなのか。

 しかし、敵将の使いはさらに饒速日命に伝えたものと、私は想像を巡らせます。

 「饒速日命をもってすれば、大和のみならず倭国全域が治まる。国家全体の改革は急務となっている。ここで頑迷な長髄彦だけを排除し、帰順すれば、天皇の皇太子として立てることを約束する。また一族には倭国の全軍を委ねる」

 となれば、いよいよ「饒速日命」は決断を迫られます。

 「妻から裏切り者の汚名を浴びても、兄の首一つでこの国が安らい、守られるなら……。皇太子となって国の民人を養えるなら……」

 そもそも「邪馬台国」は、倭国大乱を収めるために女性を王としてまとまったいわば「平和国家」でした。ですから「天人の際」とは、私情を捨てて、ヒトを養い守るために戦うリーダーシップのことだったのです。「長髄彦」にはそれがなかった、すなわち「邪馬台国」の国家の理念には、外圧と戦うというものがなかったのです。すくなくとも、「日本書紀」からは「邪馬台国」の盛衰をその上うに読み取ることが出来ます。

 

第二部 「魏志倭人伝」から謎を解く。

一 位置の論議

1 方向の持つ誤謬姓

 (略)

2 距離の確実性

 (略)

3 「邪馬台国」の四官

 (略)

4 「邪馬台国」の人口を考える。

 

二 女王卑弥呼

1 倭国大乱

 (略)

2 卑弥呼は、公孫氏か。

 (略)

3 「公孫氏」は司馬仲達が滅ぼした。

 (略)

4 三角縁神獣鏡の紐の穴

 (略)

5 「箸墓」は「卑弥呼の墓」だろうか。

 (略)

 

6「卑弥呼の墓」を探そう。

 「卑弥呼の墓」は、少なくとも魏の明帝より賜った「親魏倭王」の印よりは見つけやすいでしょうが、しかし、「径百余歩」のこの女王にふさわしい墓が、私たちの探索地域である生駒山周縁に存在するのでしょうか。わずかに残る考古学的物的証拠を手がかりに、この探索の旅に出かけてみましょう。

 近鉄奈良線で大阪難波から三〇分ほど、準急列車に乗ります。大阪と奈良の県境、生駒トンネルをくぐると、ほどなく富雄駅に到着します。駅から徒歩で富雄川沿いに10分ほど北に行くと、バス停「出垣内(でかいと)」があります。その横一帯の影蒼とした小高い丘の中に、戦前の学者たちが定めた「神武聖蹟」があります。神武天皇が東征の最終局面において「本陣」を張ったところと言うのです。「聖林研究所」という私有地の中に苔むした小さな石碑と小規模の墳墓があります。

 ここが「日本書紀」『巻三』における「神武東征」の最終戦争勝利の地として定められました。なるほど、地形的に見ると、「日本書紀」の記述にたいそうかなっています。

 神武天皇は生駒山の大阪寄りの地「孔舎衛坂(くさえさか)」で緒戦を行いましたが、これが激戦で、総司令官でしょうか、長兄である五瀬彦を失う大敗北となります。その敗戦に懲りて、その後の戦いは常に敵軍の東に陣取ろうとします。東に陣を取るのが神意であると考えたので奈良盆地でも東側に陣を張り、三輪山を神体とし、「纏向遺跡」あたりを神域としたのです。この富雄川岸の「神武聖蹟」も敵陣の東岸であり「日本書紀」の記述にかなっています。

 そして生駒山を背にして最後まで抵抗する敵将の長髄彦、ついに「決戦」に臨む侵攻軍。大和盆地を挟んで生駒の西軍と三輪の東軍が対峙したのです。

 「決戦」はこの地で行われたと推理する戦前の学者の慧眼に、謙虚に敬意を表したいと思います。富雄川を挟んで西側にも小高い丘があり、そこが「まつろわぬ」最後の人物、長髄彦の軍陣と見た学者たちの判断は、地形上からも非常に納得できます。饒速日命の裏切りにあって、あえない最後となった敵将、長髄彦の伝承墓地がその丘の上にありますが、彼には源義経のように北に逃亡したという伝承もあり、今後とも、長髄彦の行方は見逃せません

 攻める神武天皇軍、すなわち「大和朝廷」と、守る長髄彦軍の決戦場は、「生駒市田原」つまり近鉄学研都市線の「白庭台訳」周辺から「奈良市富雄」、近鉄奈良線「富雄駅」周辺だったのです。

「日本書紀」にいう神武天皇がついに攻略した「中洲(うちつくに)」は、広く見て、「魏志倭人伝」の「伊支馬=生駒」の中心地で、この地域が最もふさわしいのです。

 「中洲」、この奈良県北西部の地域は「水運」、「水利」、「防衛」の上で極めて有利な地形であることが畿内全体を俯瞰して見ると一目瞭然に理解できます。このあたり一帯は、私市から交野そして淀川へ下り出る北水路の天野川の水源であり、かつまた大和川から河内湖に出る南水路の始点、富雄川の水源でもあります。すなわち北出口と南出口の始発・終点の好位置であり、比較的ながらかな丘に囲まれた周辺地形を鑑みますと、「邪馬台国」首都域として絶好の地域ではないか、正しく「登美の地」は、「美し国」です。

 私は戦前の学者たちの歴史的嗅覚のようなものに敬意を表します。それは、多分、戦後世代のわれわれよりも、より切実に「戦争」を前提にして地形を考察した点で、「邪馬台国」の時代と共通するものがあると思われるからです。近世になって、平地に城が作られるようになるまで、国家防衛の基本、すなわち首都造作は、まず、水利、次に、丘陵という自然地形の盾を主眼に計画されます。その発想をもって「邪馬台国」の首都を考察することが重要だと考えます。

 「生駒市田原」から富雄川をやや南に「大和郡山市」方面に下ると、生駒山を西北に仰ぐ鬱蒼とした小高い森に「登禰神社」があります。この周辺地域も「邪馬台国」の首都城であると見ます。「登禰神社」の祭神はもちろん「饒速日命」ですが、そればかりでなく神武天皇がともに祭られています。「登禰神社」が「登美彦」といわれた「長髄彦」を祭神としているのではなく、「神武天皇」と「饒速日命」を祭神としていることは、「邪馬台国」の謎を考察する上で、きわめて意味深長なポイントであることを発見しました。包括的に「邪馬台国」を語るために、このことは記憶にとどめていただきたいと思います。

 さらに富雄川に沿って、やや南に下ると大和郡山市に「矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社」かあります

が、ここもまた「饒速日命」が祭神です。

 この周辺が「邪馬台国」であると述べられたのは、大阪教育大学の名誉教授であった故鳥越憲三郎氏です。先生は「物部氏」を探求する中から、そのように論じられましたが、惜しくも先年他界されました。

 卑弥呼の墓は「径百余歩」の形状をもって、この「中洲」のどこに存在するのでしょうか。

 「径百余歩」は相当な規模ですので、消滅することなく具体的に存在しているはずです。

 私は、今見るように「邪馬台国」の中心の首都城を富雄川流域に推定しました。それは、神武東征軍が「中洲」として攻略した地域ですし、「魏志倭人伝」の「伊支馬」地方そのものだからですが、顕著な古墳が非常に少ない地域です。しかし、それがかえって「古墳時代」の大和朝廷との断絶を感じさせます。「往馬大社」の権禰宜の方が、「この生駒山周辺は、考古学的にまったく地味な地域です」と嘆いていらっしゃいましたが、それはむしろ自然なことではないでしょうか。

 確かに、この富雄川流域は、「纏向遺跡」や伝神功皇后陵などが含まれる「佐紀古墳群」のように、考古学者にとっては、あまり魅力的な地域ではないかもしれませんが、しかし、私はいわゆる「前方後円墳」を「邪馬台国」と同時代の墳墓とする考えにはなじめないので、「卑弥呼の墓」の探索は、むしろ巨大な前方後円墳のない地域に魅力を感じるのです。

 そもそも卑弥呼のような祭祀を司る人物に、権威の象徴として、墳墓の巨大性を求めていいものでしょうか。私が「箸墓」の被葬者が卑弥呼であるという考えに同意できないのはその点で、「前方後円墳」のような巨大な墳墓がふさわしいのは、卑弥呼のような鬼道によってヒトをまとめる司祭的人物ではなく、人民を十分に駆使できる巨大権力を手中にした武人的な大王なのだというのが常識的な判断ではないでしょうか。

 卑弥呼が死んで作られたのは「径百余歩」の塚です。

 当時、魏において「単位」として利用されていた「歩」は1.4メートルでした。この数値を当てはめると、百数十メートの直径となります。しかし、卑弥呼の墓を円墳と考えると、一〇〇メートル級の円墳というのは日本最大級です。

 あるいは、普遍的な距離判断値としての「歩」すなわち成人の歩幅なのでしょうか。そしてまた、単位としての「歩」は、時代と国によって違いが見られます。日本の律令制度下では「歩」は面積単位となっており、六尺約一八〇センチ平方で、「一歩」は、すなわち「一坪」と同じです。

 また、「径百余歩」を「直径が歩いて百歩余」と、取れるかもしれません。あるいは、「余」という使い方から、陳寿に100メートル前後の「それほど巨大な」という蓋然的な意識があったのかもしれません。

 「径百余歩」の卑弥呼の墓は、奈良県内に数多く存在する大型の「前方後円墳」よりも、一四〇~八〇メートル級の円墳が求められるのではないでしょうか。それでも「前方後円墳」が発生する以前の、佐賀県「吉野ヶ里遺跡」に存在する弥生の墳丘墓が、約四〇メートルであるのに比較すると、八〇数メートルでも随分大きいのです。八〇メートル程の円墳となると近畿最大級、あるいはひょっとすると西日本最大級となるかもしれません。私たちはそれをこの「中洲」に求めなければならないのです。

 さて、私たちは大阪と奈良を結ぶ高速道路を横切り、やや南に富雄川を下ります。最初の丸山橋を矢田丘陵方面に渡って、奈良の三人梅林の一つ「追分梅林」に向かい、緩やかな坂道をのぼると、その住宅街の中に「丸山古墳」と呼ばれる小さい森が見えて来ます。

 「丸山古墳」は、昭和四七年に、近隣が「若草台住宅」として開発されることにともなって、「橿原考古学研究所」が発掘調査したところです。その調査報告書はこの周辺の伝承に結びつけて、物部氏に近い人物ではないかと考察していますが、それ以上の研究が進んでいるわけではありません。どうやら明治十二年ころに盗掘されているらしいことが分かりました。)

 この「丸山古墳」から魏の「三角縁神獣鏡」が四枚、すなわち画文(もん)帯神獣鏡、三角縁五神神獣鏡、三角縁四神神獣鏡、三角縁(ぶち)盤龍鏡(すべて天理大学蔵)が出土しています。また、装身具の管玉、碧玉製の腕飾(鍬<くわ>形石)、銅製の腕飾(銅釧<どうせん>)、その他斧頭形<ふとうけい>石製品(京都国立博物館蔵)などが多数出土しました。これらは大部分が祭祀用品や装身具であり、弥生時代の「呪術的副葬品」と言われるものです。現在、重要文化財に指定され、京都国立博物館と天理大学参考館に分かれて蔵品となっています。男性の呪術者は一般的に考えにくいのでこの「丸山古墳」は、副葬品から見て、弥生時代末期の王級の女性の墓と言えるのではないでしょうか。

 そして、この「丸山古墳」は近畿最大級八六メートルの円墳ですが、私たちが探し求めている「径百余歩」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。この円墳に「卑弥呼」が埋葬されていたと言えないでしょうか。

 私が「古事記は神話ではない」に衝撃を受けて、「邪馬台国」を研究し始めた頃、三一書房から「邪馬台国を探る」という書物が出版されました。大山峻峰先生の労作です。先生は、長く三重県の教育委員長をなされていた在野の研究者ですが、その書物で、大山先生は、この「丸山古墳」を含んで、奈良県桜井市や黄金塚古墳の存在する奈良市山町の奈良北西部を「邪馬台国」と位置づけられました。犬山先生は「三角縁神獣鏡」の出土状況を根拠になされているものです。

 ともあれ、丸山古墳が実は「卑弥呼の墓」だったのではないかと着想したときには、大きな衝撃がありました。それは、不思議と誰にも言えない発見のように感じられました。十分な確信が得られるまでは、書物にして説を立ててはならないと固く決意したことを覚えています。

 この丸山古墳から出土した「三角縁神獣鏡」はきめの細かいと言われる舶製鏡で、同じ鋳型から作られた「同範鏡」ではないオリジナルな魏鏡です。

 「三角縁神獣鏡」は、奈良県天理市の「纏向遺跡」にある「黒塚古墳」から三三面、京都府山城町の「椿井大塚山古墳」から三二面出土しましたが、いずれもその他の副葬品には「甲冑、刀剣、鉄鏃」が多く出土し、女性の被葬者が想定しにくくなっています。

 もちろん鏡が多く出土するだけで卑弥呼の墓と関連付けることは出来ませんし、一度に、あまりに多数の鏡が出土するは、むしろ「大和朝廷」の権力構造を連想させ、「邪馬台国」にふさわしくないように思います。

 「丸山古墳」の真横にはやや小ぶりの「茶臼山古墳」があって、姿は目立つけれども、現在は荒れています。現在、考古学界では、この「丸山古墳」の被葬者を「物部氏」の関係者とまでしか判断していません。

 私は「邪馬台国」の首都圏が富雄川流域だと特定しました。

 そして、「丸山古墳」が近畿地方最大の円墳であること、またその位置的な整合性、副葬品から判断して、「卑弥呼の墓」の有力な候補地ではないかと考えています。

 この「丸山古墳」から富雄川を挟んで、東真向かいに、先ほど訪れた「登禰神社」の森が見えます。そして「丸山古墳」の西の背後は、矢田丘陵、追分梅林を抜けて、「往馬大社」、そこから生駒山を越えて、大阪側の枚岡、日下、石切周辺に抜ける古代の直線峠道「暗がり峠」につながっていきます。

 また、逆方向に「丸山古墳」から、東方面すなわち奈良市内に向かうと、「イクメイリヒコイサチ」の陵、第一一代垂仁天皇陵に至ります。この垂仁天皇も「邪馬台国とは何か」を考える上で、大いに想像力の働く存在です。

 

第3部「邪馬台国」の終焉

一 謎の四世紀

1 遼東半島

 ・・・・・・。

 「神武東征」は、国家の体制を大きく変えていく重要な出来事でしたが、「饒速日命」の針の一刺しのような裏切りで起こったのは、大変興味深いところです。歴史の大きな変化が、時として当事者には見えないということは、しばしばあるのではないでしょうか。

 西暦三六一年の「大和朝廷」の成立は、緒戦以外に、たいそうな激戦があちこちで発生したとは考えにくい政変です。むしろ「邪馬台国」成立前に発生した「倭国大乱」の方が長期的であったし、かつ深刻であったに違いありません。「日本書紀」が記載する神武創業の状況は、人間的で線か細く、あっけない印象が残ります。

 逆説的に言えば、「日本書紀」の記述における表面上の印象は、「神武東征」という歴史事象があまりにも重大な意味を持っていたことの証でもあるかもしれません。つまり、この歴史事象の中で動いたのは、もちろん倭の地における人間群像ですが、しかし、時代全体を見たとき、やはりそこに今見ているような東アジア全域を動かした四世紀のダイナミズムに注目しなければならないことを示唆しています。そのダイナミズムは、「邪馬台国」を滅ぼし、「大和朝廷」を生み出した真に巨大なうねりでした。

 「若御毛沼」を「神武天皇」に押し上げたのは、彼個人の意志であると考えるのは、むしろ簡単です。

 しかし、歴史的事象のもっと根底のところでは、変革の「機運」というものが存在します。それによって、アメリカ合衆国は四七歳の黒人大統領を生み出しました。その観点で言うと、東アジア全体の「時代」が、倭人たちの意識に訴え、「政治変革の指導者」を生みだしたと言うべきでしょう。もちろん、「饒速日命」の義兄裏切りは、第一部で推理したような個人的な理由でなされたのかもしれません。「日本書紀」の作者は、彼が大いに用いられ、軍事を司る物部氏の遠祖であるとし、「朝廷」の協力者の末裔の繁栄を示しているのですが、仮に「饒速日命」が兄の「長髄彦」とともに、最後まで東往軍に抵抗していれば、歴史は大きく変わっただろうという見方も出来ます。しかし、先ほども見たように、「神武東征軍」の行動原理すなわち「大義」には、時代の変化や状況を見通す知恵が存在していたのです。

 もし、彼らが九州の豪族の支配欲・私欲で動いていたとしたら、ほとんど壊滅状態であった「東征軍」が息を吹き返したり、やがて、敵の豪族側に兄を裏切るもの、義兄を殺すものが続出し、ごく少数の軍がついに大和平定に成功するなどという奇跡的な勝利が生まれたりすることはなかったでしょう。

 支配欲・私欲に基づいた戦闘には、「正当性」が存在しないと感じるのは、普遍的なヒトの感性です。戦闘には、多くの命とそれに関わる利害が存在し、不当な利益や死は、平和を作りだすことが出来ないのです。それまた、戦闘で死ぬ「ヒト」の視点から見る歴史認識です。

 どのように、戦争の大義を組み立てて、兵を動かすのか、それが将の時代を見る先見性なのですから、たとえ「饒速日命」たちの徹底抗戦があったとしても、「神武東征」という歴史的変革は、なされるべきものであったのです。

 つまり、彼らの大義には「正義」があった、すなわち国家を正しく治める意思と知恵があったのです。これを彼らが言う「神意」と見なければなりませんし、饒速日命が義兄を裏切ってでも神武天皇のビジョンに賭けた大きな理由だと考えたいのです。

 このような知恵の源泉は、どこから来ているのか、まことに興味深いところがあります。

 

2 邪馬壹国

 (略)

 

3 「邪馬台国」の首都は、富雄川流域

 今まで見てきたように、奈良県の霊峰の一つ、生駒山周辺には多くの神社が点在します。

 往馬大社(生駒市)、磐船神社(交野市)、登禰神社(奈良市)、矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市)、磐船神社(南河内郡河南町)、石切剱箭神社(東大阪市)、弓削神社(八尾市)など、生駒山を取り巻く著名な神社が今でも生駒山麓の地に息づいています。これらの神社には、全て「饒速日命」が祭られているのです。

 もちろん生駒山周辺の神社に限らず、どこの「神社」にも必ずその成り立ちに理由があります。すなわち縁起と祭神を持っています。いずれの神社の祭神も、その時々の権力者によって、適当に据えられるものばかりではありません。

 たとえば、哲学者梅原猛先生の「法隆寺再建論」における『たたり』神への鎮魂説からは、権力者に都合のよい神様ばかりを祭るわけにいかないことを教えられます。敬愛する先生の御説を援用させていただくと、私には生駒山麓の神社の隠された本当の願いは、「邪馬台国」の鎮魂ではないかと思えるのです。

 今、遷都一三〇〇年の慶賀すべき時機なのですが、『東大寺大仏建立』の背景には、西暦七四三年の「大仏建立の詔」の数年前、七三七年に発生した大事件、藤原不比等の四子や数多くの高級官僚が『たたり』によって、わずかな間に死滅した「大惨事」への鎮魂を考えなければなりません。

 聖武天皇の狼狽たるや如何ばかりのものであったかを推量するに難くありませんが、少なくとも「神・仏」が祭られるには、単に勝者の政治的背景のみならず、人々の尊崇を継続して受けるために、歴史的時間の審判に耐えうるものとして、敗者や死者の鎮魂も含む包括的な多数のヒトの承認が必要なのです。

 その意味で、「神社」に伝承される縁起と祭神は、きわめて重要な歴史的価値を持っているわけで、「邪馬台国」の存在を明確に示す重大な遺産として、生駒山周縁に点在するこれらの神社を見なければならないのです。

 「饒速日命」は「神武天皇東征」に先立ち、高天原より「天の磐船」に乗って哮峰(いかるがのみね)に天下りました。

 卑弥呼の墓ではないかと推理する「丸山古墳」から車で10分ほど富雄川沿いに南下すると、「矢田坐久志玉比古神社」があるのですが、この神社は「饒速日命」が天磐船から降臨の際、三本の矢を射られ、二番目の矢が落ちたところだと云えていて、境内に二の矢塚があります。この周辺の「矢田」の地名はそこから来ているそうです。そして三番目の矢が落ちたところを住まいとされ、その地が「三の矢塚」として残り、地元では「宮所」呼ばれています。

 先に論じたように「邪馬台国」の首都防衛の関所とでも言うべき二つの「磐船神社」、そして河内に直面する「石切剱箭(つるぎや)神社」、地元では大変親しまれている「石切さん」も「饒速日命」と「長髄彦」の妹の子、「宇麻志麻治命」が祭神で、同じ境内のやや山手の「登美霊社」は、「饒速日命」の妃であり「宇麻志麻治命」の母、すなわち「長髄彦」の妹、「御炊屋媛」を祭るのでした。

 奈良県側の「登禰神社」の祭神は、「神武天皇」と「饒速日命」でした。

 大阪府八尾市の弓削神社には、奈良時代の法王、道鏡が物部に関連するということで、同じように「饒遠日命」が祭られています。

 このように生駒山をとりまく六つの高名な神社が、同一神「饒速日命」を祭るのは、生駒山周縁が「饒遠日命」の司祭の国、すなわち「邪馬台国」であることを如実に示しています。まさに「邪馬台国」の生きた「遺跡」なのです。

 

4「邪馬台国」の滅亡

 いよいよ滅亡の時がやってきます。「邪馬台国」の滅亡も「謎の四世紀」における出来事です。

 東アジアとの関連における一連の流れと、「日本書紀」にある「神武東征」の推移を重ねあわせて、「謎の四世紀」を明らかにしていきましょう。

 ① 邪馬台国末期、三世紀末から四世紀冒頭にかけて、晋の弱体化が始まり、同時に敵対している高句麗が強大化します。

 ② 晋の王族の内紛、「八王の乱」から傭兵異民族の「永嘉の乱」にかけて、中原が大騒乱状態に入ると、その間隙を狙って、西暦三一三年、高句麗が楽浪郡・帯方郡に侵攻し、完全支配下に組み入れます。「帯方郡の滅亡」です。

 ③ 「帯方郡の滅亡」によって、「邪馬台国」すなわち倭連合国家の宗主国の求心力が喪失し、国内の支配力が減退します。

 ④ 朝鮮半島では、高句麗の強大化に対抗するために、弥生的集落国家の馬韓から百済へ、辰韓から新羅への中央集権的軍事国家への政治変革が起こります。西暦三四〇年~三五〇年代の出来事です。

 ⑤ 東アジアのそのような状況に敏感な九州勢力、特に九州に定着した「公孫族」支流が、国家変革の大義を掲げて東上します。それは勤皇倒幕の薩長連合の大義と同様です。「日本書紀」に沿って言いますと、それが「神武東征」になります。彼らは自らを「公孫族」と同義性のある「天孫族」と名乗り、東征を「神託」と位置づけました。

 ⑥ 天孫族であった「饒速日命」がこの事件の鍵を握ります。彼は早い段階から、祭祀を司る神祇官として、「邪馬台国」に渡来していました。

 ⑦ 東征軍に「中洲」への中央突破の計画とその頓挫があります。

 ⑧ 「長髄彦」が登場しますが、彼が最後のこの地域の王です。彼は「饒遠日命」に妹を与え、生駒山東側周辺、「中洲」に居住していました。

 ⑨ 神武天皇は「長髄彦」の激しい抵抗を受けて、生駒山西側からの攻略を断念し、東に陣を取るため、熊野からの大迂回作戦をとりました。

 ⑩ 敷難辛苦の来、大和南部に潜入し、次々と謀略と知略によって、桜井、巻向を手に入れます。

 ⑪ ついに「長髄彦」の本陣、「中洲」、鳥見で決戦が行われますが、東征軍に戦闘上の勝利はありません。

 ⑫「長髄彦」は、自分の支配の正統性を主張します。それを神武天皇も認めます。つまり、「長髄彦」の治める国は、「天孫族」に公認された国家であって、この地域のみならず、倭地全域に正当な支配権を持っていると相互に認識しあっています。

 ⑬ ところが、「饒速日命」は、最後は東征軍の側に立って、義兄「長髄彦」を説得する側になり、ついには「天人の際」にあらずと殺害します。

 ⑭ 敗軍の将「長髄彦」こそが、最後の「邪馬台国」の正統な国王、すなわち卑弥呼の共立に始まり、台与に継がれ、やがて、「饒速日命」と名づけられた祭祀を司る一族を仰ぎながら、政治的には国をまとめ所有していた「邪馬台国」の最後の王でした。

 「邪馬台国」は、このように生駒山を神体と仰ぎながらその周縁地域に存在しました。その中心地が長髄彦のいた「登美」の地の「中洲」、すなわち「富雄川流域」一帯でした。

 

二 キーパーソンは誰か。

1「饒速日命」=垂仁天皇の構図

 「邪馬台国」の最期を看取った人物、「神武天皇」に政権のバトンを手渡した「饒速日命」について、さらに検証を続けます。

 「饒速日命」が生駒山周辺に数多く祭られる理由は、彼が「邪馬台国」の祭司であったというばかりでなく、「大和朝廷」に神託を与える儀式を行ったこと、「邪馬台国」の旧領をそのまま引継いだことでした。

 そればかりでなく、少し先述しましたが、第一〇代崇神天皇の次の大王、すなわち第一一代「垂仁天皇」として、大王に就任したのではないかと推理されるのでした。「饒速日命」こそが、「イクメイリヒコ」すなわち垂仁天皇ではないかと感じるのには、いくつか理由があります。

 政治権力の交代は、旧勢力の既得権の保証をする妥協策があればスムーズに運びます。まして、旧政権のナンバー2に、新体制確立の協力条件として、次のナンバー1の地位を約束すれば、たとえ義兄の政権国家であっても「裏切る」構図は考えられます。そして次の皇太子が旧体制の出身者であれば、他の諸豪族の協力も比較的すんなりと得られるのではないでしょうか。大きな政治変化は、その上うな野心を束ねることによって、道が開けることはよくあります。

 しかし、簡単にいかない一つの重要な問題が存在します。それは「ヒト」が神を祭る行為です。この「神」の問題は簡単に片付くものではないと思います。

 それまで「邪馬台国」の「神」に従っていた人々に、新しい侵攻者がもし別の祭祀すなわち信仰を強制するとすれば、それはまことに受け入れがたいものがあったでしょう。神を礼拝することは、「ヒト」の心にとって命の源泉だからです。

 ところが大和の新しい朝廷にとっては、この祭祀のシステムを変えて行かなければ、「大和朝廷」の下に人心は収まらないのです。

 そこで、「大和朝廷」は、崇神天皇と垂仁天皇の二代にわたって、従来の教義や「神々」を取り込みながら、世界の「神」の研究をし、それをまとめて、新体制の祭祀として、「日本の神」概念を確立したのではないかと推理するのです。すなわち「日本神道」の確立です。その意味で、「日本書紀」の成立は、「日本神道」の成立でもあったのです。

 まず、祭の中心を「大和」から「伊勢」に移動させることで政教分離を図りました。これが、「卑弥呼」と言わないで「天照大御神」とする女神が、伊勢に祭られるようになった起源であると考えます。その意味では、「邪馬台国」は祭祀においても「大和朝廷」に吸収されたと言えるかもしれません。

 「饒速日命」は、「邪馬台国」の旧領とともに、その祭祀を引き継ぎました。裏切り者の報酬と言っては、あまりに過酷な批評に過ぎるでしょう。なぜなら、彼の歴史的な大局観を軽視することは出来ないからです。時代は違っても、江戸幕府の人開でありながら、新時代に賭けた勝海舟、榎本武揚、徳川慶喜らの大局観を軽視する人はいないのです。

 「饒速日命」は、「先代旧事本記」に、天孫として降臨の際、天神の御祖より統治権の印として瑞宝十種を授かったとあります。

 そして「神武天皇」の即位の時には、彼の子、「宇摩志麻治」が大和統治権の印、瑞宝十種(みずのたからとくさ)を神武天皇に譲り、自らは即位式に際して神楯を立てて「天皇即位」を認めるという儀式を行ったと記されています。さらにはこの時、「天皇家」すなわち「大王家」のしきたりや即位の手順等が定められたとも記されていて、神武の天皇即位はすべて「饒速日命」の主導で行われたのです。

 「先代旧事本紀」からもまた、「饒速日命」の義兄、敗者、「長髄彦」が先代の国王たったことが明確になります。

 長髄彦こそ、倭国の大権を維持していた国王だったのです。つまり、神武天皇が創業する前の国家の正統な国王、すなわち「邪馬台国」の最後の王であると、「先代旧事本紀」も伝えているのです。

 「イコマ」あるいは「イクメ」に関して、さらにもう一つ押さえておきたいことかあります。御陵、すなわち彼の墓の位置です。第一一代「垂仁天皇」の御陵は、生駒山から奈良に向かう阪奈道路の右脇に存在しています。御陵からは、西に生駒山がほんとうにすっきりと美しく望めて、「イクメイリヒコ」と言われる彼が、ここに葬られたわけがよくわかります。

 第一〇代の「崇神天皇」と第十二代の「景行天皇」の墳墓は、奈良県天理市の纏向遺跡の中に存在するというのに、「垂仁天皇」陵だけは、ぽつんとこの奈良市尼辻西町にあります。

 私には長い間、不思議な問題でした。古墳の比定に誤りがあるのではないかと考えた時期もありましたが、しかし、「邪馬台国とは何か」を探求していく中で、この比定と伝承の確かさを教えられました。

 垂仁天皇は「イクメ・イリヒコ・イサチ」と呼ばれましたが、これは「生駒から入った王で座ったまま幸を受けた人」と意味が取れます。彼は、生駒から即位した人で、初めて国を治められた第一〇代崇神天皇の後、何かの理由で労せず大和朝廷の王位という幸福にあずかった大物であるという理解です。

 これは後世に何を伝えようとした謐号、名前なのでしょうか。

 「神武天皇」の東征に決定的な役割を果たした「饒速日命」は、生駒山を取り巻く多くの神社に祭られていますが、すると、「饒速日命」と「垂仁天皇」=「イクメイリヒコイサチ」の関係をどう推論すれば、「日本書紀」の中から、「邪馬台国」が浮かび上がるのか。

 その答を求めて「日本書紀」の巻六『垂仁天皇紀』を調べましょう。

 「日本書紀」の表記では、「活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)」で、生駒とは直接関係がないかのように書かれていますが、先ほど述べたように、「いくめ」は「往馬」、「いりひこ」は「入城した王」、「いさち」は「いながらの幸」と理解できますから、今まで見てきたように「生駒から皇室に入城していながら王となった」人物です。

 本書、巻頭の写真のように、「垂仁天皇陵」は、生駒山がしっかり全景として美しく見ることができる位置にあり、奈良盆地のいくつかの古墳群から全く孤立して、平城京の西側に存在していますが、「日本書紀」にあって父とされる第一〇代「崇神天皇陵」と「垂仁天皇」の子とされる第十二代「景行天皇陵」が「纏向古墳群」にありながら、「垂仁天皇」だけがこの位置に葬られたのは、その名が示す通り生駒から皇室に入城した大王だからでしょう。現地に立って、この陵から生駒方面を望みますと、古墳の比定かまことに的を得たものであることをご理解いただけると思います。

 私がこの「垂仁天皇」(イクメイリヒコイサチ)に着目するのは、「神武東征」に絶大な役割を果たした「饒速日命」が生駒地方と密接に関わっていて、「饒速日命」と「垂仁天皇」は同一人物であると言える可能性が大きいからなのです。同じ人物の業績を二分割したのではないかと思われるふしが多々あります。

 そして、「垂仁天皇」が「饒速日命」と同一人物であると考えるとき、「神武東征」が成功する意味や「邪馬台国」が滅亡するその状況、また、「垂仁天皇」陵が生駒山麓に存在する理由が本当にすっきりと理解できるのです。

 「国譲り」とは、軍事権と支配権の委譲を意味しますが、「饒速日命」は「神武天皇」へ国を譲りました。どうやら「崇神天皇」と「垂仁天皇」の関係も、いったん、「イコマ王」が「ミマキ王」に政権を委譲し、その後、「イコマ王」が朝廷に入って次の大王に就任したと推理されるのです。

 「垂仁天皇」は「崇神天皇」二九年一月一日に誕生しました。「夢の前兆」により皇太子に立てられ、「垂仁天皇」元年一月に即位します。

 「垂仁天皇」二年に「狭穂(さほ)姫」を立后しますが、狭穂姫の登場あたりから、がぜんリアリティが生まれて来ます。このサホヒメとのエピソードとその間に生まれた皇子の記述が「日本書紀」『巻六』の大略です。

 「垂仁天皇」三年三月、サホヒメの兄の狭徳彦(サホヒコ)が叛乱を起こします。「義兄」の「反乱」の構造です。皇后は兄に従って焼死します。

 ちなみに「サホ」は「トミ」の東隣の地名で、今でも奈良市内に「佐保」の地名を残し、やや小ぶりの「佐保川」が「富雄川」に並んで流れます。

 そして、読者の皆さんにはもうおわかりでしょうが、「神武東征」における「義兄」長髄彦の不服従を「反乱」と見ると、「饒速日命」の運命は、「垂仁天皇」の運命と見事に一致します。すなわち「佐保姫」とは、『巻三』「神武東征」の「長髄彦」の妹「鳥見屋姫」なのです。そして、サホヒコは「長髄彦」です。名前こそ違え、事件の構造はまったく同じです。すなわち「日本書紀」『巻三』の「饒速日命」の人間関係図は、『巻六』の垂仁天皇のそれとぴったり重なるのです。

 「垂仁天皇」の二五年の三月になりますと、「天照大神」の祭祀を皇女の倭姫命に託し「大和追放」を企てます。倭姫は、笠縫、菟田・近江国・美濃を経て伊勢国に至り、五十鈴川の辺に祠を建てて、「伊勢神宮」を創建しますが、先述したとおり、「祭祀」を「大和」から遠ざけるようにという「崇神天皇」の遺命あるいは、両者の盟約が感じられます。

 「古事記」では、サホヒコの反乱を相当、文学的に描写しています。天皇妃であるサホヒメと兄サホヒコが反乱を起こし、天皇との間に生まれたホムチワケは火中で出生したことが記述されています。また、後半は成長して言葉を発しなかったホムチワケが話をするようになるまでの構成になっています。

 そして、「垂仁天皇」治世の事績の一つとして、「出雲大社」を造営したということが、さらりと記述されますが、これもまた重大な問題です。

 なぜ、生駒王「イクメイリヒコ」が「出雲大社」を創建したのでしょうか。生駒から入った王がどうして出雲大社を創建したのか。

 なぜ、「崇神天皇」は、「出雲重視」を遺命として、垂仁天皇に残したのか。それを解く鍵は、実は従来からある一つの説にありました。それは次の章で見ましょう。

 先に見たように、「神武東征」のおり、吉備高島宮で、三年の年月を送りますが、それが兵姑と徴兵のためであるばかりでなく、その延長線上に考えられるのは、「出雲勢力」との連合軍形成でした。そして、その指揮権及び勝利後の体制作りの交渉です。中央集権国家への変革は急務ですし、新生の国家は、大王を中心とする軍事力の集中がなければ、国際的な状況に対応出来ないという「大義」を時間を費やして訴えたのが、「神武天皇」の「高島宮」の三年だったと推理しました。

 出雲の大国主命が国譲りの条件として、自分を祭ることと出雲に神社を建立することだったことは「日本書紀」の神代編からも知ることが出来ます。

 「饒速日命」も「神武天皇」へ国を譲りました。「饒速日命」が「義兄」を裏切った理由は、神武天皇の大義が時代を洞察していたからでした。

 そして、「垂仁天皇」=「饒速日命」の構図において、さらに具体的に「邪馬台国」の滅亡の姿が明らかになり、「大和朝廷」の成立が確かな姿をとって「謎の四世紀」が解明されるのです。

 

2 崇神天皇、「伊勢遷宮」の理由

 「饒速日命」が政治的取引によって、生駒から入って労せずして大王になったのではないか、すなわち彼は、「イクメイリヒコ」、第一一代垂仁天皇であるというのなら、「饒速日命」から国譲りをうけた「神武天皇、ハツクニシラス」はまた当然、第一〇代「崇神天皇」ということになり、「神武天皇」と「崇神天皇」は、同一人物であるという従来の説に繋がっていきます。

 従って、「垂仁天皇」=「饒速日命」から「邪馬台国の滅亡」=「神武東征」までの構図は、神武と崇神、同一人物説の傍証になります。というべきか、この同一人物説が、「垂仁天皇」=「饒速日命」から「邪馬台国の滅亡」=「神武東征」という構図の傍証になるのです。

 そこで、従来の「神武」=「崇神」、同一人物説について、「日本書紀」『巻五』を検証して、探っていきましょう。

 ・・・・・・。

 「記紀」の制作者にとって、彼らの『古代史』の最大の難関は、「邪馬台国」をどのように説明するか、そこに尽きたのではないでしょうか。「三国志」という重要な歴史書の中に、二千字にわたって記述される「邪馬台国」を全く存在しなかったかのように扱う「歴史書」など、日本の正史としてはその意味すらなかったでしょうから、迷彩、改竄とも言うべき苦心が生まれたのではないでしょうか。

 「日本書紀」は国家の事業であり、正史の魁(さきがけ)と呼ばれるものですから、「古事記」のように国内の豪族が納得すればよいという性質のものではありませんでした。皆が証明できない遥か昔のことなら、諸外国の連中も関与できないでしょうが、国際的に知られた事実に関して虚偽は許されないでしょうし、しかも、「邪馬台国」は「三国志」『魏書』を初めいくつかの正史にはっきり登場してます。

 まず、「邪馬台国」、これをどう「表記」するかということから悩みの種が始まりました。当時の「万葉仮名」使用の例にならって、同音の異字を使用して、「八島国」とすれば、思ったほどに苦労は生まれず、伝承は日本の古い話として「神話の世界」に送りこんでおけば、周囲も納得できます。

 しかし、「正史」に求められる重要な問題は、「政権交代」がどのような実情で行われたのかということで、これをどう表現するか。遼東半島で滅亡した「公孫一族」とも深い関係にあった「邪馬台国」を攻略し、その最後の王、「長髄彦」を「謀殺」して権力を奪取したとは書けばよかったのですが、いくら生駒地方の「伝承」が語ろうが、「史跡」があろうが、「物部氏」が何を言おうが、記紀の制作者にとって、「邪馬台国」は神話の世界に送り込まなければならない存在なのでした。「政権交代」の真実を語ることは、藤原不比等の目が光っている限りタブーでした。

 ならば、この「神武」と命名すべき人物が打倒した「長髄彦」は愚かで頑迷な、単なる一地方の豪族であればよいということになり、事実、「古事記」ではそのようにあっさり片付けられていますが、しかし、「日本書紀」では、上手の手から水が漏れています。それが最後の「統治権」の正統性のやり取りに思わず現れたことは、まことに興味深いことでした。

 「神武天皇」と「崇神天皇」を分断された同一人物にせざるを得なかったのは、『邪馬台国』を歴史上から消滅させるためでした。「邪馬台国滅亡」事件を相当な過去に送り込んで「神武東征」とするためでした。

 また、「日本書紀」の記述では、「神武天皇」が即位後は、畿内周辺の狭い領域のことしか出てこなくて、「崇神天皇」の代になって初めて、日本の広範囲の出来事の記述が出てくることから、「神武天皇」から第九代「開化天皇」までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではないかと考える説もありますが、私はこの説には同意出来ません。倭全体の連合政権である「邪馬台国」の統治構造を継承している限り、「畿内の地方政権」という発想は考えにくいと思います。また、四世紀の朝鮮出兵や全国に広がる前方後円墳を考えると、その上うな狭い地域の政権と見ることに無理かあるように感じます。

 「ハツクニシラススメラミコト」との称が、神武天皇は『日本書紀』では「始馭天下之天皇」と贈られており、初めて天下を治めた天皇という意味であり、「天下」という抽象的な語は、「崇神」の称号にみえる「国」という具体的な語より上位の観念であり、また、後に出来た新しい観念でもあるので、むしろ「神武」は「崇神」より後に、「帝紀」「旧辞」の編者らによって建国者として創作されたと考えられ、国をはじめて治めたのは、「崇神天皇」であると言われることがあり、この説にはかなり同意できます。「崇神天皇」の業績の一部が分割され、創作された「神武天皇」に与えられたと言えるからです。

 また和風謐号の問題は、次に重要な一件です。「崇神天皇」の和風謐号は「ミマキイリヒコ」、次の垂仁天皇の和風謐号は「イクメイリヒコ」で、共にイリヒコが共通しています。「イリヒコ」「イリヒメ」は当時の大王・王族名に現れる特定呼称ですが、「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族が実在した可能性を示していて、「崇神天皇」を始祖とする「イリ王朝」あるいは「三輪王朝」説なども提唱されています。

 「日本書紀」『巻五』には、「崇神天皇」が即位して、まもなく疫病が流行り、多くの人民が死に絶えたという記述があります。「疫病」とはなんでしょうか。戦争によって、「疫病」がはやることは、歴史上常にあります。「崇神天皇」が即位して、まもなく多くの人民が死に絶えたので「日本書紀」は、「これを鎮めるべく、従来宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した」と説明します。

 「天照大神」を当初、大和の「笠縫(かさぬい)」に移し、その後、各地を転々と移動して、ようやく、次の帝の垂仁天皇二五年に、現在の「伊勢神宮内宮」に鎮座したのです。

 皇室の「祖先神」であるはずの「天照大神」を大和から伊勢に遠ざけたわけですが、この事象をさらに考えてみます。

 「記紀」の制作者にとって、「邪馬台国」をどう表現するかという難問の次の難問は何だったのでしょうか。それは「卑弥呼」の扱いです。「卑弥呼」をどう表現するのか。「大神」として祭りながら、消去するにはどうすればよいのか。

 「崇神天皇(ミマキイリヒコ)」は外部から入って大和を治めましたが、もともとこの「大和」には、女性の大神が存在していたのです。それが「邪馬台国女王」の「卑弥呼」です。

 この征服地の「大神」=卑弥呼を、侵略者である「ミマキイリヒコ」が継続して祭祀するのは気持ちのいいことではありません。従って、「崇神天皇」の時代に「天照大御神」として、伊勢に移されたという記述は、彼が外部の侵攻者であることの傍証であろうと考えます。

 なぜなら外部者でない限り、自身の祖先が信仰してきた神を地元から遠ざけることなどということは、到底できないと判断するからです。

 また、それは同時に九州から東征した「神武天皇」と「崇神天皇」が外部者であり、同一人物であることを示す根拠であるとも言えます。

 「日本書紀」では、この疫病が大物主命の崇りと判明したため、大物主の子孫に当たる太田田根子に託して祭らせ、三輪山を御神体とする「大神(おおみわ)神社」としたとあります。「大物主命」は出雲の国譲りをした「大国主命」と同一神とされ、そこに、「東征軍」は中国・出雲と九州の連合を見ましたが、「崇神天皇」は、古くから大和に存在した「神」を「伊勢」に遠ざけ、自陣の守り神として、新たに出雲から神を迎えました。それが「出雲国」と軍事的に連合する条件だったりでしょう。神武天皇が吉備国の高島宮で、三年閲兵姑の準備をしたのですが、それは、もちろん出雲に「大義」を説いた期間として見ることもできます。そして、神武と崇神が同一人物であるとき初めて、「大和」の神が「出雲系」であることにも納得が出来るのです。

 「日本書紀」は、「ミマキイリヒコ」の九州からの侵攻を『神武東征』という創作で『三巻』に詳述し、「伊勢神宮」の遷宮を「崇神天皇」の時代として『五巻』に記述する構成をとったのではないでしょうか。この同一人物の業績を二人の天皇に分割したという可能性は極めて高いということです。

 すると、次の一一代、「垂仁天皇」はどのような役回りをした人物なのか。「崇神天皇」と後日呼ばれるようになる人物が、「神武天皇」と同一人物なのだとすると、「垂仁天皇」とは誰なのかは、前章で見た通りで、もう言うまでもないでしょう。

 

2 実証主義と本居先生の励まし

 (略)

 

結論 邪馬台国とは何か。

一 邪馬台国の一六〇年

1 西暦一四七年~一八九年ころ。連合成立前夜

 (略)

2 「邪馬台国・前期」、卑弥呼の共立

 (略)

3 「邪馬台国・中期」、卑弥呼の死と晋の成立まで

 (略)

4 「邪馬台国・後期」、晋との関係

 (略)

5 「邪馬台国滅亡」「神武東征」まで

 ・・・・・・

 すなわち、東アジアの歴史から判断して、「神武東征」が行われた時期は、「神武天皇」の「長髄彦」の打倒の年が「戊午(つちのえうま)」の年、西暦三五八年、大和平定が翌年の「己未(つちのひつじ)」三五九年、天皇即位による「大和朝廷」の成立は「辛酉(かのととり)」三六一年、であり、それはすなわち「邪馬台国」連合の解体と「邪馬台国」の滅亡した年であると推理しました。

 つまり、「邪馬台国」は、「帯方郡」の設置される西暦二〇四年の直前に成立し、「辛酉」西暦三六一年に滅亡した「国家」でした。この地上に一六〇余年の間存在した政権国家の形態です。

 ・・・・・。

 

二 結びに

 ・・・・・。

 古代「邪馬台国」の時代にあって、生駒山は大いなる存在でした。

 生駒山は、神奈備山として、「邪馬台国」の人々の尊崇を受けていました。

 もちろん、そればかりでなく、生駒山は山上から西方の関西方面か全貌でき、首都城の富雄川流域は、生駒山からの狼煙、鏡の反射による通信連絡がもっとも送信しやすい地形になっています。生駒山は国家防衛上の見張り台であり、また「邪馬台国」の城壁でもありました。

 そして最後に「川」の存在意義を考えて、本書を終わります。奈良県北西部、富雄川流域には、今まで見てきたように、現在でも多くの神社や由緒正しい史跡が数多くありますが、最近の富雄川は、護岸が整備されて、いつも水量は一定ですし、生活排水が流れる、平凡でありふれた川でしかありません。

 しかし、私が「邪馬台国とは何か」を考察するきっかけになったのは、「富雄川」という現存して生きている遺跡でした。この「遺跡」は今も私たちにいくつかの表情をもって語りかけています。

 「川」がなければ、ヒトは生きていけません。

 一定の人口が集中して生存するためには、それ相応の水量を持つ河川の存在が絶対条件となることは自明です。「大和朝廷」が奈良県南部に拠点を築いて中央集権的な全国統一に乗り出す前、日本の弥生連合国家の盟主「邪馬台国」は生駒山周縁にあり、その中心地は奈良県北西部に存在しました。そこは富雄川流域です。

 人は川によって生かされてきました。「邪馬台国」は水道や下水のある時代にあったわけではありません。普遍的に言えば、文明の母は「川」であると言えます。

 「川」は、私たちにとって永遠の遺跡である、という結びの言葉で本書の筆を置かせていただきます。

 本当に数多くのみなさんの励ましによって、この謎に満ちた「邪馬台国」考察の長い道のりを終えること出来ました。ありがとうございました。

 

あとがき

 (略)

« 今も東北に生きる「ナガスネヒコの精神=愛瀰詩(エミシ)の精神」とは  。  | トップページ | 子らも知る 文化の源 »