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原田常治 『古代日本正史』    

<ここの文章は、すべてWebPage平成操練所さんから引用させていただきました>

『古代日本正史』から抜粋

 この本を世に出すについて、一応皇室の立場でも考える必要があると思った。その結果が、やはりこれは絶対出さなければいけない。日本書紀、古事記のウソのままにしておくために『天照大神は弟の素佐之男の子を生んでいる』とか『七代までの天皇は実在しなかった』とか、その他、皇室に対して面白くないことが、だんだん多く言いふらされてきた。日本武尊(ヤマトタケルノミコトや神功皇后まで、歴史から抹殺されてしまうかもしれない。このまま放っておいたらどんなことになってゆくか心配である。この際、はっきりとわかったことは、発表したほうが、皇室のほうでも、モヤモヤいわれることがなくなって、すっきりするのではないかと思う。天照大神の称号にしても、昔はそうでなかったのなら、それでいいのではないか、無理にウソを押し通さないほうが、将来の皇室のためにもよいのではないか。神武天皇が、大和へ養子に来られたことも、それが事実であれば、この際はっきりさせておいたほうがよいのではないか。現実に、今でも皇居で、11月22日の夜、神武天皇の舅である歴史から消された天照国照大神饒速日尊の鎮魂祭を行っておられる。(中略)また瓊々杵尊、日子火々出見尊,鵜茅草葺不合尊等の御陵には、現在、宮内庁詰所があって、制服の役人をおいているし、西都の天照大神、豊受姫の二大古墳も、柵をし、拝殿をつくって宮内庁でキチンと管理されている。そのように現在皇室では、神話でない本当の正しい歴史で一切の行事をおやりになっていられるのだから、それを発表して悪い理由は何もないと思う。・・・・・

 日本書紀は天武天皇の時、編集長一人、編集者十二人、書記一人の十四人に命じて勅令で書かせたで、38年かかってできた。その日本書紀が応神天皇の項までを書き上げた持統天皇のときに、ウソ八百の創作の歴史を書いて、それでもどうしてもごまかしきれないところはお伽噺のような、神話形式にしてごまかした。そのウソ八百ででっち上げたもののばれることを恐れて、神社の古文書を二社取り上げ、あるいは、ほんとうのことを書いてあったと思われる系図を十六家取り上げて没収した。691年のことである。それが残っていたら自分たちの書いたウソがばれるということで、二社、十六家の系図を没収して抹殺してしまったという資料をつかんだ。・・・・・

 いまの天照大神は、もちろん古事記、日本書紀、少なくとも持統天皇以前には天照大神ではなかった。その以前の天照大神は男の人であった。素佐之男尊の五番目の子供で、天照国照大神(アマテラスクニテラスオオカミ)という諡号(おくりな)〔死後に、その行状などによっておくる名〕になっている。これが持統天皇の時までの天照大神で、いまの天照大神は九州でお生まれになって九州で亡くなられているから、日本を照らすという「天照らす」という諡号はついていなかった。これは、伊勢の皇大神宮にもどういう諡号でまつられているか、調べてみたら天照大神とは書いていなかった。それ以前のほんとうの天照国照大神を抹殺するためにつくった、それが目的でつくったと思われるほど、この人をわからなくするための細工がしてあった。(中略)特に日本書紀には、素佐之男尊が天照大神の弟のように書いてあるが、実際は素佐之男尊が122年ごろ生まれ、いまの天照大神は153年か4年頃の出生である。・・・・・

 それならなぜ、これだけ偉かった、あらゆる信仰の的だった天照国照大神を、苦心惨憺して、おとぎ話(神話)まで作って、歴史から消したのか。日本書紀、古事記を書いて、二神社、十六家の系図を没収抹殺して、日本の古代を塗り変えたのか。どこにそんな必要があったか。原因はやはり仏教の渡来にあった。宗教とは恐ろしいものである。仏教が渡来して、風の吹きまくるように広まった。その時、この饒速日大王の直系の子孫、物部氏は、この仏教に反対した。特に物部守屋は、寺をこわし、仏像を棄てさせた。一つには、日本伝来の神様信仰から仏教信仰に移り変わることに我慢ができなかったのであろう。神、仏の対立は海石榴市(ツバイチ)の善信尼の尻叩き刑で極点に達した。仏教徒はついに物部氏打倒ののろしをあげた。この情勢に便乗したのが蘇我稲目、馬子で仏教徒をせん動して、物部守屋討伐戦を起こし、これが成功して、神武天皇以来権力の座にあった物部氏に代わって、蘇我氏が天下をとることになった。そして、仏教は勢いに乗って神社を侵蝕し、大神(オオミワ)神社に大三輪寺を併せ、その他全国の主なる神社に仏教の寺院を併用して建てさせ、神仏混淆政策をとった。神様の力をうすめるためである。しかし流石に饒速日大王の宗廟、石上(イソノカミ) 神宮だけは、寺院を建てさせなかった。また、代々の天皇も仏教に帰依した。物部守屋没落後、仏教勢力が燃え上がるにつれて、天皇の祖先が、その仏教反対をした物部氏の直系の先祖であるのはどうしても具合が悪くなってきた。幸い、神武天皇は、日向の系統である。そこで出雲の系統を何とか抹殺できないかと考え、だんだんその機が熟し、とうとう日本の歴史書き替えの決心をされたのが、第四十代天武天皇の時だった。物部氏没落から約百年の後である。・・・・・

『古代日本正史』の簡単まとめ

 原田氏の『古代日本正史』は、ひとつの歴史物語として読んでも大変面白いものです。それをここに要約するのは少々無理があるんですが、しかし、不備を承知で簡単にまとめてみましょう。

 素佐之男尊は西暦122年頃、出雲国沼田郷で生まれました。現在の島根県平田市平田町です。素佐之男尊の父の名はフツ(布都)と言いました。フツというのは蒙古満州系の名前で、素佐之男尊の本名はフツシ(布都斯)といい、素佐之男は通称でした。原田氏は、出雲は北方系モンゴロイドに属し、日向は南方系モンゴロイドに属していたと言っています。ですから素佐之男尊の子や孫たちは、みな日本名とは別に蒙古満州系の名前を持っていました。(かつて話題になった江上波夫氏の『騎馬民族国家』という書物の価値を、ただ妄説にすぎないと言って切り捨てるのではなく、再び考えてみる必要があるのではないでしょうか。)

 日本建国の祖である出雲の素佐之男尊は、五男の饒速日尊(蒙古名フル)を連れて九州遠征に向かいました。日向の大日霊女貴尊(卑弥呼)らは素佐之男尊の進軍の勢いを伝え聞いていたので、むしろ進んで国を素佐之男尊らの騎馬軍団に明け渡しました。素佐之男尊は日向の占領軍指令長官として約10年間とどまり、卑弥呼との間に三人の娘を儲けます。息子の饒速日尊は九州平定の後、大和へ向かい、それまで大和を支配していた長髄彦(ナガスネヒコ)の妹の三炊屋姫(ミカシギヒメ)を娶り、長髄彦は戦わずして饒速日尊の客分として従属しました。いわゆる政略結婚による無血開城です。

 当時の西日本は、日向、出雲、大和と大まかにみて三極構造を構成していました。出雲の素佐之男尊が亡くなり、その後大和の饒速日尊も亡くなると、政治的なバランスに変化が生じました。大和の饒速日尊と三炊屋姫との間には何人かの子供が生まれましたが、当時は末子相続が慣例でしたから、いずれ大和は、末子である伊須気依姫(イスケヨリヒメ)に養子を迎えねばなりません。まさにこのような時期に、日向、出雲、大和の三つの国が次世代の支配者を巡って政治的に激突します。まず出雲が日向の軍門に下りました。日向はさらに大和地方を自分たちの勢力下に置きたいと考えます。しかし、できるなら戦争は避けたい。

 大和の相続人伊須気依姫の代理ですでに20年もの間、この地方を仕切っていた饒速日尊の長子宇摩志麻治尊(ウマシマチノミコト)は、日向側からの提案を受け入れます。すなわち解決策として大和は日向の国の大日霊女貴尊、つまり邪馬台国の女王卑弥呼の孫である伊波礼彦尊(イワレヒコノミコト)を伊須気依姫の養子としたのです。そのため、日向ですでに結婚していた伊波礼彦尊は、日向に妻子を残して大和へ旅立たねばなりませんでした。政略結婚によって、両地方は戦闘を回避したのです。ところが、伊須気依姫の伯父にあたる長髄彦は、日向との養子縁組に対して反対派に回ります。原田氏は、その長髄彦についてこのように語っています。

 「あるいは、鈴鹿山脈を越して、大和へ入り込んでいたアイヌ民族だったのかも知れない。アイヌには末子相続の習慣がなかったので、よけいにこの養子縁組が納得できなかったのかも知れない。しかしこれについては確証はない。……(神武天皇の行路について)当時はほとんどが水路交通時代だったから、大和川を上って行ったと考えるのが常識である。大和川を上り下りした古い記録はたくさんある。長髄彦としては、日向から養子を貰うことには、伯父としてあくまで反対だった。そこで伊波礼彦の一行がのこのこと上ってきたから、カッとなって追い返したのは当然である。」

 ちなみに、魏志倭人伝に「卑弥呼が亡くなった後、男王を立てたが国が乱れた。そこで卑弥呼の宗女台与(トヨ)という十三歳の娘を王として立てると国中がそれに服した」と出てくる台与とは、卑弥呼のひ孫、すなわち卑弥呼の孫たる伊波礼彦尊の娘豊受姫その人に他なりません。

『古代日本正史』にかかる解説

 原田氏が疑問を持ったのは、現在の伊勢皇大神宮は、日本書紀以前にはあまり参拝された形跡がないという事実でした。どうして天皇は大和におられるのに、皇大神宮を大和に祀らなかったのか。日本書紀以前に天皇家が参拝していたのは、大和の石神(イソノカミ)神宮、大神(オオミワ) 神社、大和(オオヤマト) 神社、それから和歌山県の熊野本宮、京都の加茂別雷(カモワケイカズチ)神社、大津の日吉神社の六つでした。そこで原田氏はこう言います。

 「この皇城の地大和を中心にした六大神社には一体、誰を祀っているあるのか。天照大神ではないもっと偉い人が居たらしい。どうも代々の天皇が参拝されるほど特別に偉い人が歴史から隠されているらしい。この人を掘り出し、探し出すことが日本歴史解明の鍵である。その手ががりがこの六大神社である。ここに誰が祀られているか、それが判明すれば、日本古代の歴史が解明できる。そういう考えで調べはじめた。」

 実際私たちが神社にいっても、その祭神名が本当は何を意味しているのか一般の人には分からないでしょう。ここでその六大神社の祭神名をあげてみます。

  1大神神社(奈良県桜井市三輪町)

    大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)

    大己貴大神(オオアナムチノオオカミ)

    少彦名神(スクナヒコナノカミ)

  2石上神社(奈良県天理市布留町)

    布都御魂大神(フツノミタマノオオカミ)

    布都斯御魂大神(フツシミタマノオオカミ)

    布留御魂大神(フルノミタマノオオカミ)

    五十瓊敷入彦大神(イニシキイリヒコノオオカミ)

    宇摩志麻治命(ウマシマチノミコト)

    白河天皇

    市川臣命(イチカワノオミノミコト)

  3大和神社(天理市新泉町)

    日本大国魂大神(ヤマトオオクニタマノオオカミ)

    八千矛大神(ヤチホコノオオカミ)

    御年大神(ミトシノオオカミ)

  4熊野本宮(和歌山県本宮町)

    家都御子大神(ケチミコノオオカ)

  5加茂別雷神社(京都市北区上加茂本山町)

    加茂別雷神(カモワケイカズチノカミ)

  6日吉神社(大津市坂本本町)

    大山咋大神(オオヤマクイノオオカミ)

    大己貴大神(オオアナムチノオオカミ)

 ご覧の通り、代々の天皇が一体誰を参拝してきたのか名前を見ただけでは分かりません。意図的な操作改変がこれらの神名のほどこされているからです。そこで原田氏は日本中の神社を調べてまわりました。この経緯については実際の本にあたっていただきたいのですが、その結果何が分かったか、もう一度六大神社の祭神名に直して載せたいと思います。

  1大神神社(奈良県桜井市三輪町)

    大物主大神=饒速日尊

    大己貴大神=大国主尊

    少彦名神

  2石上神社(奈良県天理市布留町)

    布都御魂大神=素佐之男尊の父

    布都斯御魂大神=素佐之男尊

    布留御魂大神=饒速日尊

    五十瓊敷入彦大神(イニシキイリヒコオオオカミ)

    宇摩志麻治命=饒速日尊の長男(物部氏の祖)

    白河天皇

    市川臣命

  3大和神社(天理市新泉町)

    日本大国魂大神=饒速日尊

    八千矛大神=素佐之男

    御年大神=伊須気依姫(饒速日尊の末子相続者)

  4熊野本宮(和歌山県本宮町)

    家都御子大神=饒速日尊(他に=別雷神=雷大神=大雷公)

  5加茂別雷神社(京都市北区上加茂本山町)

    加茂別雷神=饒速日尊

  6日吉神社(大津市坂本本町)

    大山咋大神=全国の日吉神社の祭神が饒速日尊と差し替えられた

    大己貴大神=大国主尊

 このように六大神社に共通して祀られていた偉大な大和の大神の祭神名が判明しました。それは饒速日尊だったのです。出雲から大和に入り、最初の大和の大王になった人です。この神様が、7、8世紀の政治的宗教的激動によって、日向の女王だった卑弥呼(大日霊女貴尊)に天照大神という名前を譲り渡すことになったのでした。

    天照大御神(アマテラスオオミカミ)=大日霊女貴尊

    天照大神(アマテラスオオカミ) =饒速日尊

 二柱の祭神名をよく見比べてみましょう。のちの時代になって「大」と「神」の間に挿入されて用いられるようになった「御(み)」の文字こそ、女性神として、饒速日尊から大日霊女貴尊を区別するために用いられるようになった符牒だったのではないでしょうか。

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