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立脚点     

<この物語の背景> について

立脚点(1)⇒この物語の背景.pdf

  参考資料 

    ①「縄紋文化は、植物性食料の採集を基礎にし、狩猟と漁撈を組み合わせた獲得経済であった。そして・・・・・弓矢や釣針など、食料を獲得するための発明、また土器のように生活に役立てられるいくつかの発明はあったけれども、自然の働きを大幅に変革することは少なかった。そして、みずからの労働やその果実が他人に搾取されるという関係はなく、平等性の原理に貫かれた国家なき社会であった。弥生文化は水田稲作をはじめ、鉄器の鍛造(たんぞう)、青銅器・ガラスの鋳造、機織りなど、大いなる技術革新をともなったが、それらは水田造成に代表されるように、自然に働きかけ、その環境を大きく変質させていく。また首長墓の成立、環濠集落や武器の発達などに見られるように、階級分化や戦争も始まった。それらは文明社会のもっている、いわば正と負の側面でもあった。つまり文明社会の嚆矢(こうし)ともなる弥生時代は、最初から相反する二つの要素をもっていたのだ」(金関恕+大阪府弥生文化博物館 『弥生文化の成立』 

    ②「水田稲作や金属器、大陸系磨製石器や大型壷、農耕祭祀や環濠集落などは、列島で自生したものではなく、南部朝鮮から持ちこまれたものであった。これら渡来してきた要素と、甕や打製石器、あるいは竪穴住居や木器や漆器など、縄紋時代から引き継がれたたくさんの要素とが組み合わさって弥生文化が形成される。もちろん、二つの文化はそれぞれの担い手がいたのであって、いまそれを縄紋人と渡来人・外来人とよぶとすれば、北部九州とその周縁地域では、玄界灘を越えて渡来してきた人びとの数や回数とその時期によって、弥生文化の質や方向性が決定されるだろうし、瀬戸内や大阪湾沿岸の地域では、外来の人びとの故郷や持ちこまれた文化の程度によって、どのような弥生文化が誕生するかが決まってくる。もっと東方の地域では、外来の人びとが移住してきた段階、新しい文化を構成する〈ものや情報〉だけが伝わってきた段階など、いろいろなケースが考えられよう」(金関恕+大阪府弥生文化博物館 『弥生文化の成立』 

    ③「蝦夷は・・・・・和人(わじん)の入植によって混血するものもあったが、本来狩猟民であった彼らは、定住して田を耕す習俗になじめなかった。獣皮や木皮を衣服の料に当てていた彼らは、坐して糸を紡ぎ、機を織る仕事にいつまでも不熟であった。言語習慣のちがう彼らは、自由に呼吸できる天地を求めて、奥羽山脈や北上山地など、川の上流の山間や沢地に逃亡し生きのびたものがすくなくなかった」(谷川健一『白鳥伝説』 

    ④四世紀初頭の邪馬台国東遷説は、当時の社会変動もしくは文化変動を説明するためのもっとも合理的な解釈である。・・・・・私か主張するように、さきに物部氏の東遷がおこなわれ、ついで邪馬台国の東遷があったとするならば、神武東征説話は具体的な歴史の把握がいっそう可能である。(谷川健一『白鳥伝説』 

    ⑤「銅鐸祭祀のおこなわれた地方は物部王国と称すべきものがあり、蝦夷と協同した統治形態があった。・・・・・蝦夷の兵士は勇敢で敵を散々なやましたが、物部氏の主力は邪馬台国に屈服した。・・・・・蝦夷の勢力は東国への後退を余儀なくされた。一方、物部氏の傍流もまたヤマト政権の中核に参加することなく蝦夷と行動を共にし・・・・・蝦夷と共存したがいに協力しあったとみられるふしがある。・・・・・彼らはヒノモトもしくは日高見(ひたかみ)の呼称をも、東へともちはこんでいった」(谷川健一『白鳥伝説』 

    ⑥「・・・・・『日本書紀』以来、代々の日本の歴史書には、蝦夷が登場する。蝦夷は古くは蝦夷(えみし)とよばれ、後に蝦夷(えぞ)とよばれるが、それはほば同じものと考えてよいであろう。・・・・・稲作農業文明をもってきた倭人(わじん)の到来によって土着日本人は蝦夷となり、また、この渡来人たちの国家建設と、日本征服の結果、蝦夷の住処(すみか)はだんだんと少なくなり、ついに北海道の一角に追いやられた者がアイヌになったと考えて、さしつかえないのではなかろうか。」(梅原猛『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』 

    ⑦「おそらく長髄彦は、縄文土着の民であり、饒連日は弥生渡来の民であったにちがいない。おそらく弥生中期ごろまで、このような土着縄文民と渡来弥生民との協力からなる権力が、この地を治めていたのであろう。しかしこの権力は、南九州からやってきたはなはだ武力の優れた弥生民によって征服された。ここに、大和朝廷の基礎がつくられるわけである。」(梅原猛『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』 

    ⑧「古事記においてニギハヤヒノミコト、日本書紀ではクシタマニギハヤヒノミコトといわれる人間がいる。彼は天孫族であるが、(引用者:書紀によると)神武帝より早く大和へ来て、ナガスネヒコと共に大和地方を統治していた。そしてナガスネヒコの妹、ミカシキヤヒメをめとっていた」(梅原猛『神々の流竄』 

    ⑨「考古学的にみても、弥生時代には北部九州から南九州、日本海方面、瀬戸内海から近畿地方などへ、稲作の技術とか銅鏡や銅銭など、さまざまの文物が伝播する。このような伝播は一度におこなわれたのではなく、いくつもの波があった。もちろん、技術や文物の伝播と表現する陰に、人間の移住・移動があったことはいうまでもない。ニギハヤヒとイワレ彦の物語にも、このような時を隔てての広義の同族の移動がうかがえる。」(森浩一『日本神話の考古学』 

    ⑩「新しい土地への移住が行われたとき、その祖先はその土地へ降臨したという伝承で神格化され、またそこから系譜がはじまる。物部氏の大和への渡来を、祖先の饒連日命が河内国哮峰(たけるのみね)に降臨したと伝えている・・・・・。」(鳥越憲三郎『神々と天皇の間 

<この物語の枠組み(パラダイム)> について

立脚点(2)⇒この物語の枠組み(パラダイム)

<日本列島先住民族=狩猟採集民族=縄文人> について

疑問点(1)縄文人とはどのような人々か。 

 ↓ 

その答えが、立脚点(3)・(4)・(5)・(6)

立脚点(3)縄文人は、狩猟採集民族であり無駄な殺戮はしない。狩猟採集民族は、自ら食料をつくることはせず自然(神)が授けたものを受け取るのみであり、食料は他者=自然(神)のものであり、自分のものではないからである(自然から恵まれた食糧をアイヌ語で「ハル」という)。そもそも、無駄に殺戮することは、自らの生命を維持するに不可欠な食料を無駄にすることである。また、最小限の殺戮により授かった生命を食べることにより、その生命を自らの心身に取り入れる。そのことで、殺戮されたものは生き続けるのである。<殺すのは自らと他者を生かすため=(自らの心身に取り入れることのない生命は)殺さない・殺せない>これが狩猟採集民族=縄文人の本然の性である。縄文人にとって「食べるため以外のために殺す」ことは悪どころか、不可能なもの である。この本然の性が失われようとしたとき、どうなるか。それは、この物語の中で示される。守り神は本然の性が失われないように見守る神であり、<本然の性が失われる=そのものがそのものでなくなる>危機のときに立ち現れる。

  (注)戮りくにははずかしめという意があり、殺戮とは、命の尊厳を踏みにじる殺し方をいう。「食べるため以外のために殺す」ことは殺戮であり、縄文人にとってそれは不可能なものだったのである。  

立脚点(4)縄文人は、地球上の誰人(たれびと)に相対しても不屈の魂をもち、他方で、この世に生れた何人(なんびと)に対しても決して蔑視せぬ人間の魂を持つ。 

  参考資料 

  「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)・・・・・わたしは、ふかく、心に銘じた。これほどの「名品」を生み出す力、その独創のエネルギーが、ここには、かつて、実在したのだ。・・・・・地球上の誰人(たれびと)に相対しても、不屈の魂をもち、他方で、この世に生れた何人(なんびと)に対しても、決して蔑視せぬ、人間の魂。それが稀薄となった現代とは、何か異質の文化、独自の文明が、そこに存在していたこと。――その一事を、わたしはこのとき、信ぜざるをえなかったのである」(古田武彦『真実の東北王朝』 

立脚点(5)縄文人は、一人で百人に当るほど強いのみならず、敵であるイワレヒコ東征軍でさえ思わず敬意を表せざる得ないような人々だった。 

  参考資料 

    「『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。愛瀰詩烏(えみしを)毘利(ひだり)毛毛那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)〈「ひだり」は“一人”。「ももなひと」は“百(もの)な人”。岩波『日本古典文学大系』本による。二〇五ページ〉 この「愛瀰詩」は、神武の軍の相手方、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、「夷(えみし)を」という“文字”を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の“天子中心の夷蛮称呼”の文字だ。このさいの“神武たち”は、外米のインベーダー(侵入者)だ。「天子」はもちろん、「天皇」でもなかった(「神武天皇」は、後代〈八世紀末~九世紀〉に付加された称号)。第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという“差別文字”を当てていない。「愛瀰詩」という、まことに麗わしい文字が用いられている。これは、決して″軽蔑語″ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「瀰」は“水の盛なさま”。彼等は“尊敬”されているのだ。さらに、内容も、そうだ。“この「えみし」は、一人で百人に当るほど強い”といって、その武勇をはめたたえているのだ。・・・・・その・・・・・「えみし」観、それは、・・・・・「軽蔑」でなく、「敬意」なのである」(古田武彦『真実の東北王朝』

立脚点(6)縄文人は戦いを回避する人々であった。

  参考資料 

   「『古事記』には、久米部がナガスネヒコを撃破したときの歌が、幾首か載っている。その一つに、

   神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石(おひし)に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這(は)ひ廻(もとほり)り 撃ちてし止まむ

という歌がある。『古事記伝』をはじめとして、従来の解釈は、ナガスネヒコの軍隊を隙間もなくとりかこむ形容に、シタダミという貝が大きい石の上をはいまわる格好をもち出したのだ、としている。すなわちシタダミは天皇の軍のたとえとしてもち出したものと理解されている。しかし実際はそうではなく、シタダミは逃げ足の早い敵の形容と解すべきである。私は先年、能登半島に旅行したとき、七尾湾の海岸で岩をはっているシタダミをとっている老人に出会った。その老人から、シタダミは、天候に敏感で、嵐などの悪天候になりそうなときは、それを予知していちはやく岩の裏面にかくれるという話を聞いた。シタダミのこうした習性を逃げ足の早い敵になぞらえたものであることがそのとき分かった。・・・・・

 その久米歌の一つに、

   夷(えみし)を 一人(ひだり)百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たたかい)もせず

という歌かある。この歌についてはさきにも触れたが、夷は『日本書紀』の原文では、「愛瀰詩(えみし)」となっている。この歌の意は、蝦夷は一人で百人に当たることのできる強い兵士だと人は言うけれども、自分たち来目(くめ)部に対してはなんの抵抗もしない、というのである。」(谷川健一「白鳥伝説」 

   <「逃げ足の早い敵」「なんの抵抗もしない」⇒殺戮ができない人々は、弓矢が人にあたらないように有効活用しながら(「弓矢の人」ともいうべき縄文人ならそんなことはあたりまえにできた)殺戮なきゲリラ戦法殺戮とは)で相手をかく乱・消耗させ、戦意を消失させることで撃退するやり方をとった、と認識できる。

   なお、この戦法が有効であったことは、皇軍の戦いを賛美すべき日本書紀が「皇軍は戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった」と書かざるを得なかったこと、「昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた」と書きながら、天皇は長髄彦を討ったとはついに書けなかった(「饒速日命が長髄彦を殺害した」と書いた)ことで明らかである。>

 

立脚点(3)・(4)・(5)・(6)をまとめると

  縄文人は、一人で百人に当るほど強い(弓矢を使えば、「弥生人=海洋農耕民」の兵士など一人で一瞬にして100人でも倒せる)にもかかわらず、兵士になることはできない(殺戮するのは不可能である)ゆえ戦いはしない・できない人々である。


<長髄彦>
 について

疑問点(2)長髄彦は何者か。 

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その答えが、立脚点(7) 

立脚点(7)長髄彦は愛瀰詩(えみし/蝦夷)である。 

  参考資料 

    「邪馬台国東遷を支持する論者のなかには、その事実の反映を『記紀』の神武東征説話に求める者がすくなくない。この点についても私は賛成である。これらの論者がただ一点見逃しているのは、神武東征のさいに河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先往者がいったい何者であったか、ということである。この点を不問に付しているために、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている」(谷川健一『白鳥伝説』 

疑問点(3)長髄彦は東北へ移住したか。 

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その答えが、立脚点(8) 

立脚点(8)長髄彦は東北へ移住したことも考えられる。少なくとも、そのように伝える文献が少なからずある。 

  参考資料 

   ①「喜田貞吉(1871-1939/歴史学者)はつぎのように説明を行っております。“・・・・・安日をもって長髄彦の兄となすゆえんのものは、長髄彦は神武天皇に抗して大和で誅戮せられ、したがってその子孫の奥州にありとすることが実(まこと)らしからぬがために、その姓名を分かって兄弟の二人となし、もって合理的説明を下すに至ったものであろう・・・・・”」(谷川健一『隠された物部王国「日本(ひのもと)」』

   ②「夷の源流をたどれば、中央の歴史においては異族の元祖ともいうべきナガスネヒコに辿りつきます。正史の『日本書紀』にもナガスネヒコの妹は、物部氏の祖神のニギハヤヒと婚を通じたと記されています。ここに“安日”なる人物を創作して、ナガスネヒコの兄とすれば、物部氏の祖神と奥州安部氏の始祖は外戚の関係で結ばれることになります。奥州安部氏はそうした細工を施すことで、自分の地歩を有利にしようと計った。この安日なる人物は奥六郡の物部氏との接触なしに生まれ得なかったと思われます。ところが、その名前の“アビ”までは創作ではなかった。すなわち、四世紀前半にみられた物部氏と異族のナガスネヒコとの連合関係はきわめて古い伝承として、みちのくの蝦夷の中にもながく生き残ったのです。そうしたことが、安日なる人物を誕生させたのです谷川健一『隠された物部王国「日本(ひのもと)」』


③「この中世の日本列島の最北端に覇をとなえた安倍氏や安東氏は、こともあろうに、自分は長髄彦の血を継ぐ者と宣言していたのである」(梅原猛『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』 

<イワレヒコの東征(東遷)> について

疑問点(4)イワレヒコ軍の戦った相手が次のようにどんな民族なのかがはっきりしない。 

  ①書紀:「女賊」「県の人々」「敵」「夷」「土賊」「土蜘蛛(つちぐも)」「賊軍」「凶徒」 

  ②古事記:「賤しき奴(やっこ)」「土雲(つちぐも)」「荒ぶる神ども」「伏(まつろ)はぬ人ども」 

 ③旧事紀:「敵」「県の人々」「残党」「逆賊」「凶徒」 

  

答:彼らは、押し並べて日本列島先住民族=縄文人だったのだろう。 

疑問点(5)古事記には「言向平和(ことむけやわせ/話し合いで和平する)」との言葉があることはどう理解すべきか。 

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その答えが、立脚点(9) 

立脚点(9)東征軍の側にも和平を指向することがあった。 

 

<ニギハヤヒ> について

疑問点(6)旧事記では豪壮な降臨が描かれているのに、古事記ではイワレヒコ東征の最終局面に1回、書紀では同東征の開始局面と最終局面、イワレヒコ即位後にそれぞれ1回顔を出すのみなのはなぜか。

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その答えが、立脚点(10) 

立脚点(10)記紀は物部氏の祖であるニギハヤヒの存在を隠そうとしたが、隠し通せなかった。 

  参考資料 

   「物部王国と邪馬台国の対立の事実は、『日本書紀』の神武東征伝説に深い影を落としている。にもかかわらず、邪馬台国の東遷を神武東征にむすびつける史家が、そこに登場する二ギハヤヒの東遷について深く考えようとしないのが不審である。それではあまりに一方的であり恣意的ではないか。私は奇をてらって、物部氏の東遷を主張しているのでは毛頭ない。正史である『日本書紀』が物部氏の祖神であるニギハヤヒの降臨伝承を抹殺できなかったこと、また神武東征に先立って、ニギハヤヒが九州から大和へ移ったことを認めざるを得なかったこと、そこにはかならずや見落とせない深い仔細があるにちがいないと思い、それを物部氏と邪馬台国の二回にわたる東遷と結びつけて考えたのである。・・・・・わが国の「正史」の筆頭である『日本書紀』は「社史」のようなものである。そこでは皇祖が大和島根(引用者:日本を表す古語)の支配者であることがア・プリオリに宣せられている。つまり、ヤマト朝廷の主権が確立するまでの「前史」が欠落している。そこにはおのれの対立者を正当に扱い、対立者との葛藤を公平に叙するという姿勢は見当たらない。それにもかかわらず、抹消しそこなった部分があって、それが昼間の月のように残っている。それがニギハヤヒの東遷と、その後を追うようにしておこなわれた神武の東征であったと私は考えるのである。」谷川健一『白鳥伝説』

<東北のエミシ> について

立脚点(11)奥州藤原氏などは蝦夷の系統である。 

  参考資料 

   「これまで歴史の上に蝦夷という名称を以てはあらわされず、普通に日本人の如く思われていたほどの英雄豪傑の中にでも、その素性を調査してみたならば、立派に蝦夷の系統であることの明らかなものが甚だ多く、その関係は田村麻呂、綿麻呂の蝦夷征伐の時代から、極めてなだらかに後の時代にまで継続しているのであります。しかしそれが普通には、蝦夷として認められておらないが為に、ついそれに気がつかないでいるのでありますが、それ程にまで蝦夷と日本民族との間には、極めてなだらかな連絡が保たれて、いつとはなしに、気のつかぬ程の自然の移り変りを以て、彼らは日本人になってしまったのであります。その事実の中で最も著しいのは、前九年役の安倍氏、後三年役の清原氏、平泉で繁盛を極めた藤原氏から、遥かに時代が下って鎌倉室町時代の頃に、津軽地方に勢力を有して日の本将軍と呼ばれた安東氏などで、彼らの事蹟はこれを証明すべきものなのであります。・・・・・。藤原清衡の如きは、自ら「東夷の遠酋」と云い、「俘囚の上頭」と云い、その配下を称して「蛮陬夷落(ばんすういらく)」、「虜陣戎庭」などと称し、京都の公家衆は清衡の子基衡を呼ぶに、「匈奴」の称を以てし、その子秀衡を呼ぶに、「奥州の夷狄」の語を以てしております。俘囚とはこれをエビスと読みまして、蝦夷の日本風に化したものを呼ぶ称でありました。彼らが系図の上でいかに言われておりましても、その当時の人々がこれを蝦夷の種と認め、自分らもまたこれを認めていたことは、他にもいろいろの証拠があって、到底疑いを容れるの余地は無いのであります。しかるに後世の人々が、どうしてもこれを蝦夷の種だと認めえない程にまで、彼らはすでに日本風になっておりました。否、すでに日本民族になってしまっていたと申してよいのでありましょう。されば立派な歴史家と言われる人々の中にも、俘囚は本来日本人であったなどと、史料の誤解から起った窮説を主張してまでも、彼らの蝦夷の種たることを否認せんとしたものが、近頃までもまだ少くありませんでした。歴史の研究が進歩し、その知識の普及した今日では、もはやこれを疑わんとする人もそうありは致しますまいが、二十数年前に私がその説を「歴史地理」の誌上に発表しました時には、これを以て古英雄を侮辱するものだとして、脅喝的の書面を寄せたものすらありました。これと申すもこれらの人々が、後人をしてそれ程の感じを起させる程までに、すでに日本民族に同化していたからであります。しかしながら、彼らが蝦夷の流れであったという説を聞いて、しいてそれを信ぜざらんとし、またはこれに対して一種の反感を催おすものすらあるということは、一面には世の人々が、日本民族なり、蝦夷なりについて、十分の知識を有しないが為であります」(喜田貞吉『本州における蝦夷の末路』) 

<長髄彦とイワレヒコとの最後の決戦>について 

疑問点(7)金鵄(きんし/金色のトビ)は長髄彦(ナガスネヒコ)が率いる民族の守り神である※。しかし、敵方のイワレヒコ(神武天皇)の側に立って光を放って長髄彦軍の戦力を喪失させたのはなぜか(重要な謎)。

      ※「金色の鵄は、本来は長髄彦(また登美彦)の側のトーテム(神)ではなかったか。登美彦の登美(トミ・トビ)と、鵄(トビ)と通ずるようである。そしてこれは生駒の「山ノ神」であり、霊蛇神であったものであろう。さきの『宇佐宮託宣集』に八幡神の発現の記事としてみられた「霊蛇、化鳥」の図式すなわち「金色の蛇(トビ)→金色の鳥(トビ)」るが、まさにその原型をとどめる形でここに神武東征に明示されたものではないかと思われる」(生駒市誌より) 

 ↓ 

答えはこれ重要

疑問点(8)書紀・旧事紀によれば、金鵄の光によって長髄彦軍の戦力が喪失したのに、その後も戦いは続く。それならば、何のためにこの話があるのだろう。もっとも戦いは続くといっても、書紀では最後の決戦に迫力なく、旧事記では戦ったの一言で、古事記にいたっては「(長髄彦軍を)撃ちてしやまむ」という歌が3首も記されているものの金鵄の話を含めて戦いの記述がまったくないのは不思議である。 

 ↓ 

その答えが、立脚点(12) 

立脚点(12)東征軍と先住民とは戦い一辺倒ではなく、和平を結ぶこともあった〈立脚点(7)とあわせて考えると、金鵄の飛来ののち、東征軍と長髄彦軍は「言向平和(話し合いで和平する)」したものと思われる〉。 

  参考資料 

    「イワレ彦は、大和の南部を制圧した後、前に河内のクサカで大敗を喫したナガスネ彦と雌雄を決することになるはずである。ところが『記・紀』ともにナガスネ彦との戦いの場面よりも、他の豪族との戦いが詳しく述べられている。ウダのエウカシ、忍坂(おしさか)の大室(おおむろ)のヤソタケル(八十建)、磯城に勢力をはっていたと推定されるエシキなどとの戦いである。『記』は、トミ彦(登美毘古、ナガスネ彦の別名)を討とうとしたときにできたといわれる歌(これにも「久米の子等が」と、久米人が歌われている)は載せているけれども、トミ彦との戦いの場面はない。「紀」には、戦前よく紹介された金色のトビ(錫)があらわれ、イワレ彦の軍勢を勇気づけたという話はでてくるけれども、他の豪族との戦いに比べると、まるで臨場感がない。このように、イワレ彦の東征の物語の最後を飾るべきはずのナガスネ彦との戦いの状況があまり語られていないのは、不思議なことである。」(森浩一『日本神話の考古学』 

<長髄彦の最後> について

疑問点(9)次のように文献によってばらばらなのはなぜか(文献比較 事件.pdf参照)。 

  ①書紀:饒連日命が殺害 ②古事記:沈黙(記さず) ③旧事紀:宇摩志麻治命が殺害 ④他の複数文献:東北へ移住 

  

その答えが、立脚点(13) 

立脚点(13)長髄彦の最後は決定的な事件でありながら、書紀と旧事紀では食い違いがあり、古事記にいたってはまったく沈黙し、複数文献に東北へ移住とあるから、東北へ移住したとしても妥当性がある。 

  参考資料 

    ①「(引用者:書紀によると)ニギハヤヒノミコトが、ナガスネヒコと神武帝の戦いにおいて、戦局利あらざるを見て、ついにナガスネヒコを殺し、神武帝の下に帰順したというのである。・・・・・古事記では、何故かこのことは、はっきり書かれていない。・・・・・ここでは、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺したことははぶかれている。そして「天津瑞」を献ったというが、それが何であるか分らない。しかし、この事件が神武帝の大和政権にとって、決定的な事件であったことはたしかである・・・・・。つまり、このニギハヤヒのナガスネヒコ殺害によって、長期にわたる天孫族と出雲族との戦いは終結したのである。」(梅原猛『神々の流竄』 

    ②「・・・・・『書紀』では、饒速日命(邇芸速日命)が降伏するとき、長髄彦(登美毘古)を殺したとある。『古事記』だと、神武天皇にもっとも頑強に抵抗し、五瀬命を戦死させたほどの登美毘古の最後がはっきりしない。」(直木孝次郎 『日本神話と古代国家』 

<素盞嗚(スサノオ)> について

疑問点(10)記紀では稲作に対して乱暴狼藉を働くものとして描かれているが、全国各地の神社で稲作技術を伝来した福の神あるいは村の鎮守として祭られ、信仰を集めている(鹿畑の素盞嗚神社)のはなぜか。 

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その答えが、立脚点(14) 

立脚点(14)スサノオは出雲に降臨(神話用語の「降臨」は歴史用語では「渡来」という)し、各地に稲作技術を広めた。その子、ニギハヤヒも父に協力して大和に降臨し、稲作技術を広めた。彼らを第1次降臨勢力(出雲勢力)という。その後、アマテラスはニニギを日向に降臨させた。そのひ孫がイワレヒコである。彼らを第2次降臨勢力(日向勢力)という。この第2次降臨勢力の子孫は、第1次降臨勢力の業績を隠すために、「記紀」の中で、スサノオは稲作の敵対勢力であるかのように描いた。しかし、稲作技術を広めたスサノオとニギハヤヒへの人々の感謝の心を消し去ることは出来なかったのである。


総合立脚点

 縄文人が弥生人の渡来に対していかなる態度をとったか。第1次渡来人は友好的であったたため当初より平和的に受け入れた。しかし、第2次渡来人は非友好的であったため、これを撃退せんとした。縄文人は殺戮できない文化に生きてきた者であったため、撃退戦法は、戦いといっても武力行使なきゲリラ戦(弓矢が敵にあたらないように有効活用しながら相手をかく乱・翻弄させて消耗させ、戦意を消失させることで撃退、敵・味方に負傷者は出ても死者はでない)を展開した。

 この殺戮せずして勝つという戦いは有効であった。しかし、第2次渡来人の侵攻は時をおいて続いた。

 ここに至って、縄文人は殺戮できない文化を打ち捨てて弓矢を武器に転換して相手を殺戮することを決意し、敵に向かって進撃した。だが、逆に殲滅される危機におちいった。味方に犠牲者が出る前に、国土を譲るという条件で和睦した。その後、縄文人は自らの文化を保持しつつ弥生人の文化を受け入れていった。弥生の文化を受け入れたくないものは、山奥や日本列島の南北に居住・活動場所を移していった。

 これでよかったのか。よかったのである。その後を見ればわかる。

 その後、原生林(1次自然)は切り開かれ、一部は農耕のための水田・畑・畦・水路・溜池等とされ、残りは建築材・燃料・肥料・食材(野草・木の実等)などを入手するための雑木林・草原・茅原(2次自然)とされた。里山の誕生である。里山誕生の過程で、縄文人と弥生人の融合が進み、豊かで平和な日本の原風景が形成されていった。「春は花見、秋は紅葉狩り」の言葉のなかに、弥生(花=桜=水田のある里に咲く)と縄文(紅葉=山に咲く/狩り=狩猟採集)の平和的融合の姿が示されている。

 「いかなることがあっても殺戮はしない」ーこれが、未来を切り開く。生駒の神話の真意はここにある。


 生駒の神話の真意は、現代においても生きている。


(1)現代においても、自国を守る戦い方は2通りある。①武力使用の戦い(殺戮する戦い)、と②武力不使用の戦い(いかなることがあっても殺戮はしない戦い)をである。

 ①で勝つためには、相手に勝る武力を持たねばならない。日本が戦うとすれば、中国だが、この国の武力に優ろうとすれば核兵器を持たねばならない。もし、日本が核兵器を持っても使用不可能。なぜなら、日本が使えば中国も使い狭い国土の日本は全滅する。日本が中国を核兵器攻撃しても中国は広大、全滅させることはできない。核迎撃も不可能が常識。通常戦争に限定しても、中国軍が日本に上陸して原発の1つでも破壊すれば日本の戦意は喪失。日本軍が中国に上陸しても、中国は広大、致命的な打撃を与えることはとても不可能。戦前、半植民地状態にあった中国ですら12年かかっても結局屈服させることができなかったことを忘れてはならない。現在、日本政府は日本を「戦争ができる国」に変えようとしているが、それはアメリカと一緒になって戦争することが前提だから、そんな無謀なことをしようとしている。

 結局②でいくしかないのである。②とは、「相手が攻撃してこないようにする戦い」といえる。この戦いには、相手国との友好関係を維持していく知恵がいる。(続く)

(2)(1)の(続く)に代えて

   この文書.pdfの「(12)日本を守る道」と「(14)参考」をご参照ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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