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小林達雄 『縄文の思考』

人類史第二段階としての縄文文化

 ・・・・・縄文文化が第一段階の旧石器文化に続く第二段階であるという紛れもない本質的な事実をこそ、まず認める必要がある。つまり、縄文文化は、新石器文化と全く同様に人類史上の第二段階なのであり、両者がともに第二段階という点で同格であることを理解すべきなのだ。

 縄文文化も大陸側の新石器文化もともに第二段階であるということは、第二段階には本格的な農業をもつ文化と農業をもたない文化の、相異なる文化があることを物語る。換言すれば、人類史における第二段階には、少なくとも農業の有無の違いによる対照的な二つの文化があるということである。このごく当たり前の事実が等閑視されてきたのは、ひとえに新石器文化すなわち農業という図式にとらわれ、引きずられてきたせいにはかならない。ここにおいて、ようやく日本列島の縄文文化は、中国大陸やヨーロッハ地域の新石器文化とともに第二段階に正しく位置付けられることとなるのである。

ヤキモノ世界の中の縄文土器

 ・・・・・突起こそが縄文土器をらしめている必須の属性である・・・・・

 ・・・・・容器の本命が容積にあることが間違いないものとすれば、縄文土器の突起は容積を決定する形態外のものであって、疑いもなく余計な代物である。だから、土器の口縁に突起を敢えて取って付けるようなことは通常はしないのであり、古今東西のヤキモノに絶えて例をみないのは当然の成り行きであることがわかる。その突起を縄文土器は目縁に大きく立ち上がらせて泰然自若としている。ヤキモノの世界で孤立するのもけだし当然であろう。さらに、突起は容器には不要というよりも、かえってあること自体がモノの出し入れに邪魔にさえなっていることは一目瞭然ではないか。にもかかわらず、突起を前面に押し立てて毫も迷わず確信犯を装うのである。

 ・・・・・縄文土器が底から口を結ぶ器壁に文字通り不必要なほどに変化をみせるプロポーションは、もう一つの際立った特徴である。その理由は容易には理解できない。とにかく小さめの底にもかかわらず、大きく立ち上がる胴本体をのせたりするものだから、安置させるのさえ、困難を覚えるほどであり、目を離したスキに倒れんばかりである。その上、胴で一旦くびれながら、さらに思い直したように大きく口を開いたりする、重心が上方にずり上がるのはこれまた当然の成り行きで、それだけでも不安定極まりない。これではすぐに倒れて、せっかくの内容物が外にこぼれ出てしまいかねないと取り越し苦労させられてしまう。まるで容器としての本分を度外視しているのだ。

 それに輪をかけて、これでもかと言わんばかりの大仰な突起をかぶせる。なかでも中期の勝坂式や曾利(そり)式、火焔(かえん)土器の各様式はもう常軌を逸している。そうでなくても本体の重心が上方にあって不安定なのに、それを解消する思いやりを毫もみせず、堂々と身構えている。

 縄文土器は、この粘土造形の特色を最も良く発揮させ、ヤキモノとしての土器の造形において、とくに世界に冠たる独自で個性豊かな展開をみせたのだ。改めてこの事実に目をとめたのは岡本太郎であり、「ここに日本がある」と叫ばしめたのであった。それまでは、縄文土器は考古学研究上の恰好な対象にしか過ぎなかったのだったが、ついに造形あるいは美学的・芸術的分野でも高く評価され、気を吐くに至ったのである。

 つまり、器の形態全体のプロポーションの異常なまでのバラエティーも、その大仰な突起とともに、ヤキモノとしての容れ物の域を超えているのだ。古今東西のヤキモノは、たまさか過剰ともみえるほどの独特な形態を発達させることがたとえあっても、ヤキモノとしての容器の本分とは不即不離の関係を維持しているのである。

 ところがどっこい、縄文土器はそうではない。容器の使命に背を向けて、あまりに独り善がりだ。言うなれば、容器として作られ、たしかにある程度の働きをしているものの「容器放れ」した性格を矯正しようとする素振りさえ見せようともしないで平然としている。縄文土器とは、そもそもそういう性格のものなのである。しからは、何故に容器本末の使命に忠実ではなく、「容器放れ」を指向するのであろうか。

 「容器放れ」は形態だけの問題ではない。縄文土器の器面に展開する文様とも密接に関係する。その縄文土器の文様はいかにも装飾的であるというのが世間一般の評判である。しかし、装飾的とは、縄文土器文様が醸し出す効果が観る者の眼に映ずる印象なのであり、縄文土器が自ら備えた性格とは別である。実は縄文土器の文様は、縄文人の世界観を表現するものであることについて、かつて論じたことがある。いわば装飾性とは無関係に、世界観の中から紡ぎ出された物語であり、文様を構成する単位モチーフはそれぞれ特定の意味、概念に対応する記号なのである。

 一方、しばしば縄文土器と対比される弥生土器は、これまで装飾性は低いと評価されてきたが、その弥生文様こそが装飾を目的とするものであり、物語性の縄文文様と全く対極にあるのだ。弥生土器の文様は器面を飾るのであり、ちょうど我々の身辺にあるヤキモノの器面や壁を飾る壁紙と相同ではなく、相似の関係である。つまり、ともに文様の装飾的効果において外見上同様に見えるが、弥生の装飾性と縄文の物語性という二つは互いに動機を全く異にする。このことが、弥生土器や壁紙の文様が土器面や壁面から容易に剥がして分離できるのに対して、縄文土器においては文様としての独立性はなく、それが故にしばしは土器本体から分離することはできないのである。縄文土器の文様は、本体からの分離独立が適わず、文様を剥取しようとすれば、たちまち本体自体が毀れてしまうのだ。換言すれば、底から口を結ぶプロポーションそして突起は、ともに文様とは独立して存在するのではなく、一体化した存在なのである。

 この意味において、縄文文様は縄文土器本体とスクラムを組んで「容器放れ」を敢行しているのだ。容器放れというのは、容器としては非能率的であり、不便極まりない。出し入れ口にどっかと突起が居座ったりすれば、障害になるのは一目瞭然なのに取り除くこともせずに、好んで容認している。それが「容器放れ」を招いているのは承知の土だから確信犯というわけだ。例えてみれば、劇場ホールなど大勢の人が集まる建物の非常口に障害物を据え付けるようなものである。たちどころに消防署の検査にひっかかるに違いない。公共的な集会用の建物としては不合格に決まっている。だから縄文土器が「容器放れ」を続けて改善しないのは、容器としての資格に欠陥を招くこととなる理屈だ。

 ここに至って、容器としては不合格品に認定される程度の土器を作り続けて改めようとしない縄文人の責任が問われることになるのは当然である。現代の通常の思考からすれば、たしかに日常的なさまざまな場面で使用しているのに、敢えて使用するのに不便で、非能率的な形態の実現を旨とするのはまことにおかしなことではないか。そこが縄文人特有の哲学なのであり、我々とは一致しないところというわけである。端的に言えば、容器に使い勝手の良さを求めるのではなく、使い勝手を犠牲にしてまで容器にどうしても付託せねばならぬナエカがあったのだ。そのナニカが突起を呼びこんだり、ときには不安定極まりない形態をとらせたり、物語性の縄文土器文様となるのである。これこそが縄文人による縄文デザインの真骨頂なのだ。

 かくして縄文デザインは、具体的な道具なのに使い易さに背馳する。容器デザインの普遍性、現代風に言えば機能デザインと対極にあることが判る。容器であれば、容器の機能を全うするに適った形態をとらねばならぬはずなのに、そうではなかった。機能デザインの精神に則って弥生土器を生み出した弥生デザインと対極に位置づけられる理由である。縄文デザインは、世界観を表現することを第一義とするのである。言うなれば、現代人が心情を吐露する詩あるいは画家がキャンバスに描く絵に相当するものとも例えることができる。だから、縄文土器は容器であって、かつ縄文人の詩情が表現されているものなのである。

 こうして、縄文土器は古今東西のヤキモノ世界で、比類のない個性を誇り、断固とした主体性を確立した理由は、縄文デザインを体していたからであることがわかる。

煮炊き用土器の効果

 縄文土器は、飾って、眺めるために作られたのでは勿論ない。土器の内外面には、しばしば、食物の残り滓が焦げついて薄膜状に付着したり、煤の付着あるいは火熱による二次的な変色が底部にみられたりする。容器の形態をしてはいるか、単なるモノを一時的あるいは長期にわたって貯えたりしたものではなく、ほとんど全てが食物の煮炊き用に供されたことを物語っている。それ故、こうした事実を十分踏まえて縄文土器の製作、使用の実際と、それによってもたらされた歴史的意義について、考える必要がある。・・・・・

 食物は、生で食べる、焼いて食べる、そして煮て食べるの三種の調理法に区別される。これらは食物の摂取方法だけでなく、社会学的、呪術的意味の上で、重要な特色と意義がある。レヴィ=ストロース(「料理の三角形」)はこの問題について論じている。

 土器との関係で問題となるのは、煮炊き料理であり、その意義の検討が必要とされる。そもそも自然界にある食料には、火を通さずに口にすることのできるものは限られている。獣類、魚貝類の大部分は生で食され美味でもあることはよく知られている。しかし、植物性の多くは、生食には適さず火熱を通して初めて食物となるものが多い。火で柔かくなるから口にし易くなる、喉ごしが良いと説いたのは佐原真である。筆者は賛同者の一人として紹介されたが、若干の誤解がある。かねてより主張してきたのは、生のままだと人間の消化器官が受けつけない種類でも、火を通すと、嘔吐も下痢も心配なくなるのであり、モノによっては、口に馴染む美味に変わる。つまり、火熱によって植物の成分は科学的変化をおこし消化可能な物質になるのだ。決して硬軟の問題ではないのであり、この点か決定的に重要なのである。例えば、満腹するほどの生米を食べるとすれば、不味いというばかりでは済まず、たちまち下痢症状を招き、脱水症を招きかねない。消化器が受け付けようとしないのだ。しかし、加熱すると、一転してβデンプンがαデンプンに変化し、容易に消化され、美味に変わるのである。

 人間の消化器官が生理学的に受け入れない代物を火熱によって化学変化を誘発して消化可能にする作用は、さらに重要な分野に好影響をもたらした。つまり、渋みやアク抜きあるいは解毒作用にも絶大なる効果をもたらした。ドングリ類がやがて縄文人の主食の一つに格付けされ、食料事情が安定するのは、まさに土器による加熱処理のお蔭である。さらにキノコの多くには毒があるが、テングタケ、ツキョタケなどの猛毒の一部を除けば、煮て、その湯をこぼせば全く安全とは言えないまでも、生命を脅かすはどのものではなくなる。

 熱を加えさえすれば良いのであれば、焼いてもほとんど同じ効果が期待できるはずである。しかし、動物や魚貝類は別として、植物食のうち、とりわけ葉ものや茎ものは、火加減が難しく、うっかりすると炭になったり、燃料に同化して食べる前に燃え尽きてしまう懼(おそ)れがある。せっかくの食物が台なしである。ところが具を土器の中に入れて煮炊きすれば、沸騰した湯の中でたとえ形状は変化しても、溶けたり、消えて元も子もなくなるということはない。栄養分も汁の中にがっちり確保される。煮炊き料理の効用がここにあり、眼をつけた縄文人のしたたかさをみる。しかも、貝を煮れば、固く閉ざした殼を開かせるのにも容易となるなど、土器による煮炊きが食事の主座を占めるに至った理由がこれで十分合点がゆくのである。

 ところで、煮炊き料理によって、植物食のリストが大幅に増加したのは確かに重要である。動物性蛋白質の摂取に偏っていた食生活のバランスは栄養学的にも向上した。その上、植物性食料は、動物と異なって逃げ足があるわけでもないので、旬の時期を見計らい、場所さえ突きとめれば容易に採集が出来る。窮鼠猫を噛むのたとえにあるごとく、追いつめられた動物の反撃に油断は禁物、大怪我の危険性さえもある。こうした事情はイノシシ狩りなどで深傷を負ったとみられるビッコを引いていたイヌの埋葬例などにも表われている。その点植物採集は安全だ。とにかくこれまでは遺跡出土の食用植物の遺存体は六〇種ほどであり、未発見ながらきっと食していたに違いないウド、タラノメ、ワラビなどの多数を加えれるとすれば、五倍以上の三〇〇種をはるかに超える数になると思われる。因みに山芋のムカゴが発見されたのはつい最近のことである。

 こうした植物食の拡大充実は、縄文人の食生活の安定に大いに寄与するところとなった。北海道はサケやアザラシ、トドなどの海獣に恵まれた土地柄もあって動物性蛋白質の摂取量は約七割にも達するが、関東地方で貝塚を残した集団でさえ動・植物は五分五分である。中部山岳地帯にあっては長野県北村遺跡例のように、植物食が六割を超えている。このように、人骨に残された窒素や炭素同位体の比率の分析によって生前の食料事情が手に取るように判るのである。改めて狩人一辺倒としての縄文人のイメージを拭い去る必要がある。ただし、肉類の摂取を低くみてはならないし、狩人としての活動は縄文社会の中では極めて重要な位置を占めていたのだ。狩猟漁労用の弓矢の石鏃(せきぞく)や釣針、銛(もり)の発達が当時の事情をよく物語っている。さらに陥穴(おとしあな)をムラの周辺はじめあちこちに設けており、川底には棒杭を立てた獣もみつかっている。

 それにしても、植物食の開発と利用の促進によって食料事情は旧石器時代の第一段階当時とは較べものにならないほどに安定した。まさに第二段階の縄文社会が、大陸における農業を基盤とする新石器社会の連中にも負けをとることなく、堂々と肩を並べるほどの、文化の充実を保障した有力な要因は、煮炊き料理の普及にあったのである。土器の絶大なる歴史的意義は高く評価されねばならない。

ムラの生活

 この定住的生活への第一歩こそ、人類文化の第一段階から第二段階へと飛躍する、人類史における最初の歴史的大事件である。一箇所に定住することで、身体を動かすことが大幅に減った。つまり、朝目覚めるや直ちに、自分の肉体を維持するためのカロリーを摂取する食物探しにとりかかり、そのことだけにほとんど一日中費やしていた時間にとって代わって、精神を働かす方に時間を振り向けられることになったのだ。縄文人の知性がいよいよ活発な動きを開始する契機となったのである。

 ・・・・・じっくり落ち着いて考えることが出来るのには、身体を動かさないで過ごす時間が必要とされたのであり、定住生活によってその状況が整い、縄文文化の形成を約束してくれたのだ。

 定住生活はまた、遊動生活における一日刻みの単位から少なくとも数力月あるいは数年単位以上の長期にわたる滞留を意味するのである。それだけ一つの場所空間を占拠し続け、さらに快適さを確保するために邪魔物(白然的要素)を排除し、自分に好都合な空間へと整備を進めてゆくこととなった。やがて、縄文人は縄文人用のためだけに、縄文人の独自の空間=ムラを作り出すに至ったのだ。・・・・・

ハラにおける自然との共存共生

 ハラは、単なるムラを取り囲む、漠然とした自然環境のひろがり、あるいはムラに居住する縄文人が目にする単なる景観ではない。定住的なムラ生活の日常的な行動圏、生活圏として自ずから限定された空間である。世界各地の自然民族の事例によれば、半径約五~一〇キロメートルの面積という見当である。ムラの定住生活以前の六〇〇万年以上の長きにわたる遊動的生活の広範な行動圏と比べれば、ごく狭く限定され、固定的である。いわはムラを出て、日帰りか、長びいてもせいぜい一、二泊でイエに帰ることができる程度ということになる。

 つまり、ハラはムラの周囲の、限定的な狭い空間で、しかも固定的であるが故に、ムラの住人との関係はより強く定着する。

 ハラこそは、活動エネルギー源としての食料庫であり、必要とする道具のさまざまな資材庫である。狭く限定されたハラの資源を効果的に使用するために、工夫を凝らし、知恵を働かせながら関係を深めてゆく。こうして多種多様な食料資源の開発を推進する「縄文姿勢」を可能として、食料事情を安定に導いた。幾度ともなく、ハラの中を動き回りながら、石鏃や石斧などの石器作り用の石材を発見したり、弓矢や石斧の柄や木製容器用の、より適当な樹種を選び出したりして、大いに効果を促進した。

 縄文人による、ハラが内包する自然資源の開発は、生態学的な調和を崩すことなく、あくまで共存共栄の趣旨に沿うものであった(引用者:のちに弥生人が作り出す里山も同趣旨のものである)。食物の味わい一つとっても、我々現代人と同様に好き嫌いがあったに相違ないのに、多種多様な利用を旨としたのは、グルメの舌が命ずる少数の種類に集中して枯渇を招く事態を回避する戦略に適うものであった。これは高邁な自然保護的思想に基づく思いやりというのではない。好みの食物を絶滅に追い込むことなく連鎖によって次々と他の種類に波及して、やがて食料だけでなく、ひいては自然を危うくするという事態を避けることにつながる。多種多様な利用によって、巧まずしてこのことが哲学に昇華して、カミの与えてくれた自然の恵みを有り難く頂戴させていただくという「縄文姿勢方針」の思想的根拠になったとみてよい。ハラそのものを食料庫とする縄文人の知恵であり、アメリカ大陸の先住民の語り口にも同様な事情を窺い知ることができる。

 同じ人類史第二段階でも、西アジア文明に連なるヨーロッパにおいて、ハラの主体性を認めず、農地拡大の対象と見なす思想とは対立的である。つまりこのことも、一万年以上に及ぶ長期にわたる縄文の歴史に根差す日本的心における自然との共存共生の思想に対して、土地を利用し、ひいては自然を征服するというような思想に根差すヨーロッパ近代以降の合理主義の発達との、際立った対照につながってくるのではなかろうか。

 ハラを舞台として、縄文人と自然とが共存共生の絆を強めてゆくのは、自然資源利用の戦略のレベルにとどまるのではない。利用したり、利用されたりという現実的な関係を超えて、思想の次元にまで止揚されたのである。一万五〇〇〇年前に始まり、一万年以上を超える縄文の長い歴史を通じて培われ、現代日本人の自然観を形成する中核となった(引用者:のちに弥生人はこの自然観を受けついで里山を作っていく)。

 日本人の自然観、自然との関係のしかたは、縄文時代に刷り込まれて以来、文明開化や太平洋戦争後の欧米文化の波及そして今日のグローバリゼーションなどの大革新をかいくぐって、依然として日常生活をはじめ年間民俗行事などに見え隠れしている。

 筆者は、北硫黄島の発掘調査に向かう船上で、小笠原の漁師が缶ジュースを開けて口に運ぶその前に、海に気前良くドバッーと注ぎ垂らしたのを目にしたことがある。歳の若さに似合わず、そのしぐさに根強い日本人の心を垣間みる思いがした。無事に舟を浮かべさせていただいている、そのことに感謝を表わしたのだ。相手は単なる物理的存在としての海ではなく、海と一体の海の精霊(海神)なのである。・・・・・

 森には森の精霊がいる。

    『ここへ畑起してもいいかあ。』『いいぞお。』森が一斉にこたへました。みんなは又叫びました。『ここに家建ててもいいかあ。』『ようし。』森は一ペんにこたへました。みんなはまた声をそろへてたづねました。『ここで火たいてもいいかあ。』『いいぞお。』森は一ペんにこたへました。みんなはまた叫びました。『すこし木貰ってもいいかあ。』『ようし。』森は一コ斉にこたへました。(宮澤賢治「狼森と笊森、盗森」)。

 森には森の精霊がいる。縄文人がハラと共存共生するというのは、ハラにいるさまざま」な動物、虫、草本を利用するという現実的な関係にとどまるのではなく、それらと一体あるいはそこに宿るさまざまな精霊との交感を意味するのである。それはどちらかが主で、どちらかが従というのではなく、相互に認め合う関係である。だから礼を尽くし、ときには許しを乞うのだ。「草木皆もの言う」自然を人格化し、交渉を重ねることで、神ながらの道へと踏み込むのである。

 自然の人格化は、「自然を人間と対等にすることではない。自然の人格的存在は、人間以上の人格としてみなされる」(今村仁司『交易する人間』)。人間よりも大きい、超人間的人格なのである。獲物を贈与してくれたり、土器や石器や木の道具の材料を授けてくれるばかりでなく、いわば人間の生命的存在さえ与えてくれる事実に思い至るとき、神々を意識するのである。だから「すこし木貰っていいかあ」と許可を得なくてはならないのだ。軽い会釈では済ませない。神からハラの中で生存を保障されるという「負い目感情にみあう返しの行為」は、同じ価値をもつ物を返す程度で収まるものではなく、感謝の念をこめて、他にかけがえのない最上等のものでなければならない。それは「自らの生命をなくすことである。しかしこの世のなかで生き続ける限りは、自分に死を与えることは不可能であるから、代理の生命」を差し出すことになる。

 それが供儀(くぎ)である。アイヌのイオマンテにこめられた精一杯の恩返しに通ずる。遺跡から出土するイノシシなどの焼骨もそうした儀礼と関係するのかもしれない。

 人類史上の第二段階に入って、縄文人がムラの生活を軌道にのせるや、自ら周囲の自然=ハラに対する働きかけを強めることとなった。人類はそもそも自然との関係において、特徴的な二つの方向性があり、時代や地域や集団によってどちらかが選択された。一つは自然と共存共生を目指すものであり、二つは自然を従属させて、自然に対して主導権を握り、ときには積極的に征服を意識したりする。人類の流れからみれば、前者は伝統的、保守的であるのに対して、後者は革新的である。また後者が農耕を基盤とするのに対して、前者は本格的な農耕に背を向け、第一段階以来の狩猟漁労採集の三本柱を基盤とする。

 農耕民は、自然を自然のあるがままにしておくわけにはいかず、開墾に精出す農作物用の耕地を確保する方向に一途に邁進する。ムラを営むための空間を自然から切り取って、自然的要素を排除して、人工的空間を形成するにとどまらず、ムラの外に、もう一つの人工的空間としての農地すなわちノラを設けて、さらに拡大して止むことはない。そこからしばしば自然を征服する、克服するという意識と態度を鮮明にするのだ。自然を利用する効率が問題となり、投入した時間と労働力の見返りの最大効果を目論むにいたる。や産業革命を経て、ヨーロッパ流の近代合理主義発達の契機へと膨張し続け、現代の深刻な危機を演出する元凶ともなった。<引用者:ノラには、自然との対決型(西アジア文明に連なるヨーロッパ型)と自然との共存共生型(縄文世界観を受け継ぐ里山型)があり、ここでは自然との対決型について述べられている。>

 一方の縄文人の選択は、日常的生活の根拠地としてのムラの周囲=ハラを生活圏とし、自然と密接な関係を結ぶに至る。農耕民が自然を利用対象として干渉を強める姿勢をとり、容赦なく物理的侵略の挙に出るのと対照的である。縄文人は生活舞台としてのハラの自然に身勝手な干渉を加えたりして、ハラ自体の存亡に影響を与える事態を招くとすれば、縄文人白身の生活基盤の破壊につながりかねない。だからこそ共存共生共栄こそが自然の恵みを永続的に享受し得る保障につながるのである。

 こうして縄文人は、ハラの自然のさまざまなモノに対して人格を認め、主従関係というよりは、同格の同志として尊重する心をものにするにいたる。万物ことごとく、草木皆もの言うと認識するが故に、耳を傾け、聴くことができるのだ。こうして鳥虫獣魚草木の自然界にまとうカタチの奥に潜む精霊と付き合い、対話の緒は儀礼や呪いによって聞かれてゆく。縄文人が一万年以上こうした自然との関係を維持継承するなかから、縄文世界観が醸成され、次第に日本人的心の形成の基盤となったのである。

炉辺の語りから神話へ

 壁で四周を囲まれて閉じられた住居は、縄文人が創り出した縄文人独自の空間である。その性質は他のいかなるものとも画然と区別され、固有の装置によって象徴的意味をもたらした。聖性を備え、家族の身と心を安堵させるイエ観念をはっきりと意識させたのだ。

 炉は、そうした装置の一つとしての重要な役割をになったが、さらに炉と炉端から縄文哲学が次第に姿を現わした。炉は、住居の床のほぼ中心にもうけられた。正真正銘の中心というよりはむしろ、炉の場所が住居の中心であり、家の拠り所となったのだ。炉の求心性が働いて炉の周りに家族が集まり、お互いに最も顔を近づけるところとなった。家族全員が向き合って顔の動き、口や目の動きをやりとりすることで、誰一人として隠し立てすることなく、家族の心が一つになってゆく。

 火を囲んでただ座っているとお互いに息苦しくもなるから、場をなごますためにあれこれおしゃべりが口をついて出るようになり、そこから団らんというものが生じたと藤森照信も述べていた。

 さても朝から身に起こったあれこれの話を交わし、耳をそば立て、目元をのぞきこむその中心に炉がある。

 それにしても、その日現実に起こった一回だけの体験は平凡にすぎるきらいがある。だから一度だけなら、耳を傾けてくれても、二度三度の繰り返しは飽きられる。人間心理における「飽き」を克服することは到底出来るものではない。さりとて話すに足るほどの体験が毎日毎日あるわけではない。そこで実際の体験を元手に粉飾され脚色されることになる。脚色の方法には、まず第一にそれまでに耳にした他人の体験の一部を拝借して、話の内容を膨らませる。第二は、ささいな事を大袈裟にする。たとえば、あっけない勝負を長時間にわたる死闘にすり変えたり、実際の身に覚えのない死の危険をかろうじて免れたとする。第三はありもしない事をでっちあげる。たとえば、風の音にびっくりしたことが、見も知らぬ人がぬっと出てきたという話になる。とくにその得体の知れぬ怪物が異形あるいはこの世の人とは思えないとなれば、効果百倍となる。第四はあることないことを混ぜ合わせて話の辻棲を合わせて、衝撃性あるいは面白味を演出する。そのためには、起承転結、序破急といった事の顚末の流れをつくり、ヤマ場を設定する。こうして、血湧き肉躍る物語になる。

 こうして、平凡な体験談も幾度となく繰り返されるうちに、形を整え、筋書きが固定して立派な物語に仕上がってゆくのだ。同時に、その内容は自分の身に起こった具体的な体験から次第に遊離する方向をたどる。もはや自分で語りながらも、自分個人の話ではなくなる。

 こうして個人の体験やイメージを土台にして、物語が誕生する。実際に発した体験談の無生物化である。具体的内容から飛躍した架空の出来事で粉飾され、それが故に個人の死と共に消滅するのではなく、仲間内に語り継がれてゆくだけの普遍性を備えることとなる。物語の共有化、社会化である。

 やがて、個人的実体験にルーツをもつ物語はムラの中のあちこちに蓄積されてゆく。個人が経験することのできない事柄も、物語を通して仲間と共有できるのだ。物語が不断に再生産されてゆく一方で、淘汰も進み、ある一定数の許容限度がほぼ保たれてゆく。従って、ムラの中の物語は、入れ替わり、立ち替わり、新旧入り混じる。そうした物語群の中に生きる人々全員が合意する共同幻想が醸成される。共同幻想とは現実世界の具体的な事件を超えた、抽象的世界である。

 物語の大部分は、短期的で消えてゆく運命にあるが、比較的長期にわたり、あるいは世代を越えて語り継がれるものもある。大方の支持の得られた物語は、脚色に成功したものであり、共同幻想の中に組み込まれる。むしろ共同幻想そのものの象徴的存在として位置づけられる。一世代はもとより、幾世代も継承されてゆくうちに、さらなる抽象化が進み、伝説化する。しかし依然として伝説は体験談の延長線上にあり、具体的な現実世界の関係は維持されるのである。

 体験談が個人と密接に関係するのに対して、伝説は、ムラの仲間全員の共有財産であり、その財産としての伝説の保持が共同幻想と関係する。換言すれば、集団の意思が伝説の存在を規制するのである。伝説のあるものは、現実の具体的事柄から遊離の傾向を強めるほどに、現実離れした論理すなわち共同幻想によって存続を保証しなくてはならなくなる。

 現実を離れた架空の世界とは、生身の人間に替って人間の精霊が表にでてきたりする。そして、草や木や虫や動物の精霊と対話したり、交感したりしながら、自然界に自らの存在を位置付け、関係付け、組み込むのであり、「草本皆もの言う」の世界につながってきているのだ。関係づける論理は、現実的な根拠を必要とするわけでなく、現実離れした飛躍がある、思いつきの理屈を貫き通そうとする説明である。

 この伝説の暴走が行きつくところに神話の世界がある。もはや地に足のついた具体的な裏付けのない抽象的な次元だ。神話の中では、天に上ったり、降りたり、動物や植物に変身したり、まさに破天荒な所業が展開される。

 神話は、しばしば自分達人間の出自を説明する。しばしば動物植物との交流を物語る。人間と自然との有機的関係の来歴を物語る。あるいは森羅万象のあり様に解釈を与えるのである。とりわけ、目で見てそれを確認できない裏の裏まで理解しようとする姿勢が、独自の理屈をひねり出すのである。その理屈が論理性を欠くが故に、物語の中に位置付け、粉飾することになる。それが単なる日常性に根差した体験談ではなく、ただの伝説でもなく、まさに神話でなければならない理由である。そして逆に神話によって、森羅万象の存在が保障される。神話の神話たる所以がここにある。共同幻想の究極である。

縄文人、山に登る

 ・・・・・倉石忠彦は、山の存在が生活に深くかかわりながら、生活文化の形成に大きく影響を与えてきていることに視座を据えて、山の名称・呼称を分析している。ヤマ(サン・山)・タケ(嶽・岳)以外にモリ(森・盛)・マル(丸)・トウ(塔)・タイ(平)・セン(山・仙)、さらにクラ(倉・鞍・蔵)・ミネ(峯・峰)などが地域的に特色ある分布を示すことを明らかにしている。また、ヤマ・タケの先後関係は依然として不明であるけれども、モリが古く、さらにマルが、それよりもトウが古いであろうと推測している。遡って、縄文人は山をどう呼んでいたのであろうか。

山の神から田の神へ

 縄文人が仰ぎ、ときには登ることもあった山は、眼に映る単なる景観の一部ではなく、縄文人によって発見された精霊の宿る特別な山であった。この想いは縄文時代の終幕とともに忘却の彼方に押しやられたのではなく、縄文人の心から弥生人の心にも継承された。

 民問信仰にみられる田の神は、春のはじめに山から降りてきて、田畑や周辺を守ると信じられている。ネリー・ナウマン(『山の神』)の優れた研究がある。山の神は田の神であり、季節によって名称とともに性格が交替すると解釈する。現象としてはそうかもしれないが、もともと縄文人が永らく意識の中に組みこんでいた精霊の宿る山、神のおわします山から新たに開始された農耕の庇護、・育成のために勧請されたものとみられる。山の神と田の神の二神があって、単純な交替と解するのでは先後の関係があいまいになる。縄文時代以来の山の神が弥生時代以降農耕とともに二義的に田の神に分派したとみるべきと考える。本地垂迹(ほんちすいじゃく)の関係と相似するのである。つまり、山の神が本地とすれば、田の神は垂迹

に当たる、というわけである。

結びにかえて

 縄文文化の研究が進むほどに、その充実ぶりは世界的にも注目されるようになってきた。つまり、狩猟漁撈採集の三本柱を基盤とする世界各地の文化では、抜きんでて他の追随を許さないのである。

 ・・・・・近年の低湿地遺跡の発掘調査が進むにつれて、水漬け状態で運よく保存されてきた繊維工芸品や木製品などが続々と明らかになる・・・・・。

 ・・・・・改めて、縄文文化の水準と充実のほどがよくわかる。

 縄文文化が農耕と無縁でいながら、まさか、それほどの実績をあげ得るとは到底信じられない。大方の見方はそうである。だから一部研究者は、縄文人がすでに農耕に従事していたという証拠を掴もうとやっきである。その努力の甲斐あってか、ついに岡山の高橋護は、縄文晩期、後期からさらに中期の壁を突破して、瀬戸内の朝寝鼻(あさねばな)貝塚で前期のイネのプラントオパール(イネ科の葉に含まれる珪酸体)を探り出して、大々的に発表した。

 

 かたや福岡の山崎純男は縄文土器の内外面や割れ口を丹念に観察し、電子顕微鏡を駆使しながら、イネモミをはじめとする雑穀やコクゾウムシなどの圧痕を見つけ出している。

 その真摯な取り組みは、敬服に値する。しかし、私には、また別の言い分かある。つまり、イネモミ痕やコクゾウムシが、よしんば正真正銘期待通りにそうであるとしても、それをもって直ちに農耕と断じてはならないという立場をとる。

 農耕とは、ただなにかを栽培していたかどうかの事実の有無だけにかかかる問題ではない。そうした農耕的技術だけでなく、社会的経済的文化的な効果あるいはおよび農耕に関係する儀礼や世界観などの総合的なあり方が重要なのである。栽培ということであれば、縄文人も十分に心得ていた。クリ林の管理育成、ムラの周辺にはエゴマ、ヒョウタン、ソバからニワトコなどがまるで寄生するかのように群生していた光景が容易に目に浮かぶ。少年時代の田舎の家回りにも、フキノトウ、ミョウガ、シソ、ホウキ草などがいくら引っこ抜いても根絶やしできないほど我物顔にのさばっていたものである。けれどもこれを農耕と断じてはならない。

 農耕ともなれば、その程度の状況とは画然と区別される。これはと決めた二、三のごく少数の栽培作物に手間をかけ、時間をかけて育て上げ、食うに困らないだけの収穫の確保を目的とするのが農耕である。そのためには片手間ではおるか、少しの手抜きも許されない。うっかり油断して、水遣りを怠れば、作物はたちまち萎れたり、枯れたりする。期待通りの収穫を望むには、明けても暮れても作物にかかりきりとなる。だから、ゆったりと時間の流れる縄文時代に比べて、かえってゆとりもなくあくせくすることになる。換言すれば、ごく少数の限定された作物に全面的に依存し、脇目もふらずに頼りきるのだ。首尾がよければ、望み通りに、努力によっては予想以上の増収をもたらしてくれもする。

 かたや、縄文時代の狩猟漁撈採集は、文字通り山海の恵みを専ら享受する構えをとる。貝塚などに残された貝の種類三〇〇、魚類七〇、獣類六〇、鳥類三〇種ほどをそれぞれに超え、その他にカメやヘビや海獣を食料としていた。骨格や殻のない植物は残りにくいが、それでも約六〇種知られており、実際はその五倍の三〇〇以上と見積もっても大袈裟ではない。白井光太郎が『食用植物』で挙げているのは、キノコ類を除いて四五〇種に上る。地下の根茎、球根にはじまって、茎、葉、若芽、花、つぼみ、果肉、種子など多彩である。とにかく縄文人が食用とした動・植物のバラエティーは尋常ではない。この事実に感嘆してばかりいては駄目だ。ましてや、これを手当たり次第に口にしたなどと早とちりしては、縄文人の思いや精神をいつまでたっても理解できない。

 とにかく、「縄文姿勢方針」は何よりも食料事情の安定にそのままつながる理想的な戦略であった。つまり、食料を極端に少ない特定種に偏ることなく、可能な限り分散して万遍なく利用することで、いつでも、どこでも、食べるものに事欠かない状態を維持できるのだ。まさに「縄文姿勢方針」の真骨頂がここにある。

 このように好き嫌いの我儒を一切言わず、多種多様な利用を心がける「縄文姿勢方針」は、食料事情の盤石の安定を保障するにとどまらず、それがそのまま巧まずして自然との調和をいささかも乱すことなく、生態学的な調和をしっかりと維持する効果につながっているのだ。まさに、自然の秩序の中の一員として生きた縄文人の生き方の重要な意味がここにある。

 一方の農耕はごく少数の栽培作物に集中するが故に、冷害旱魅などの異常気象で不作ともなると、それに代わるべき用意がないだけに、たちまち食料不足を招き、餓死者続出ともなる。その危険を避けるために、あくなき増収を目指して、耕作用の田畑を拡大し、一方的に自然の領域を侵し続ける方針を決して曲げることなく、貫き通してきたのだ。「自然の克服」という介言葉は、やがて地下資源に手を出し、大気をも汚染し、オゾン層すら破壊しながら依然として止むところがない。しかも、この期に及んでなおかつ真剣な反省がみられない。歴史を振り返ることもなく、未来を見据えた哲学すら生まれていない現状は深刻である。

 ・・・・・それにしても「縄文姿勢方針」を貫くことは並大抵なことではない。まず第一は、食用に適さないものとの区別、場合によっては毒に当たって死さえも招きかねないものとの、正しい識別が必要とされる。あるいは、入手できる場所が種類によってまちまちであるから、ただがむしやらに犬も歩けば棒に当たるというわけにはいかないのだ。季節的にも旬があり、はずしたら一年間食いっぱぐれと相成る。

 ・・・・・実は、ここにコトバが力を発揮するのだ。

 つまり、コトバによる名づけによって、個々を区別し、食用と非食用の混同を避けるのである。それぞれにつけられた名前コトバによって、外見上の形状や大小や色具合はもとより、コトバでは言い尽くせない、可憐なとか雄々しいとか、モノの風情や雰囲気をも含んだ総体として、対象を特定するのである。こうして対象物は他と区別された固有の名前コトバによって主体性を確立し、初めて文化的要素の一つとしての存在を保障されることとなる。名前コトバがもつ最も基本的な機能である。・・・・・

 縄文人こそは、縄文語に基づく史上稀有な博物学的知識の保侍者であったのである。

 しかも、その知の体系たるや決して出来合いではなく、自然との共存共生の自らの実体験を通して構築されるものであって、何よりも自然と人間との不即不離の関係を象徴するのだ。・・・・・

 いま改めて、日本文化を遡り、自然と対話した、文字通り地に足のついた縄文日本語の知的世界に立ち戻る必要性を思うのである。

     <ご参考:縄文と弥生

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