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谷川健一 『隠された物部王国「日本(ひのもと)」』

▲中国の西晋(二六五~三一六年)の時代に書かれた、通常『魏志倭人伝』と呼ばれている、『魏志』「東夷伝」の「倭人の条」に、いわゆる「倭」が初めて登場します。

 当時の「日本」の呼称は「倭=わ」ですね。「倭」はのちに「ヤマト」と読むようになりますが、私は「倭」から「日本」へと呼称が変遷するその間には、大変重要な問題が存在していると思うのです。

 中国から「倭」と呼ばれていた弥生時代でも、すでに「ヒノモト」という、日本国号の基礎になる呼称があったと考えております。

 では、当時「倭国」とは、日本列島のどのあたりを指していたのかが大切なポイントになります。・・・・・

 「ヒノモト」と「日本」の国号の関係を調べるには、いくつかに問題点を絞ってみる必要があります。それに関連して言いますと、

  (1)「日本」という国号が使用されはしめた時期はいつ頃からか?

  (2)わが国で「日本」と号するのは自称か他称か?

  (3)「日本」という文字は何に由来するのか?

 を問わねばなりません。

 (1)に関していえばわが国の存在が対外的に知られるようになるのは、有名な「邪馬台国」が三世紀後半に中国の歴史書に初めて登場して以来のことです。先ほど申しました『魏志倭人伝』に「倭国」と紹介されています。「倭人」というのは「倭国」に住んでいると書かれております。「邪馬台国」はその傘下の九州の小国から盛んに使者を派遣していたようです。

 中国では、その後、いろいろな時代の「東夷伝」で東のほうの蛮族である「倭」について書かれております。たとえば、宋の時代の『宋書倭国伝』、隋の時代の『隋書倭国伝』というふうに、いずれも「倭国」という言葉を使っているのです。

 統一国家として正式に中国に参るのが、「遣隋使」「遣唐使」でおなじみの「隋」や「唐」の時代です。推古時代に聖徳太子が隋に始めて使節を派遣したのが六〇〇(推古八)年です。『隋書』(隋の歴史書)の記述のみで、このことは『日本書紀』には記載されていません・・・・・

 先の(I)(2)に関して説明を加えますと、隋が滅んだあと、七〇二(大宝―)年に派遣された「遣唐押使」の粟田朝臣真人が初めて「日本」という呼称を用いた結果、『唐書』の「東夷伝」では「倭国日本伝」となったといいます。「倭国」の下に「日本」がくっついている。つまり、「倭国」と「日本」が併記された、これまでになかった特徴をもっています。・・・・・

 じつは、国内で初めて「日本」が登場するのはずっとあとの『続日本紀』(七九七年編纂)ですが、七世紀後半から八世紀前半にかけてすでに日本の支配者層には使われていたとみて間違いないでしょうね。

 「唐書」の「東夷伝」というのは二つあります。古いほうを『旧唐書』、新しいほうを『新唐書』といっております。その『旧唐書』というのは、九世紀の後半から十世紀の前半に作られたといわれていて、『新唐書』はそれから数十年たってできたものです。

 この『旧唐書』では先ほど述べたように「倭国日本伝」ですが、次の「新唐書」から先はずっと「日本伝」になるわけです。

 ですから、『魏志倭人伝』から始まり、隋までは「倭人伝」、あるいは「倭国伝」ですが、「旧唐書』になって初めて「倭国日本伝」という名前で登場します。その数十年後の『新唐書』では今度は「日本伝」になりまして、「倭人」とか「倭国」という名前が消えていきます。

 『日本書紀』には「日本」という文字を書いて「ヤマト」と読ませることがありますが、これは『日本書紀』を撰するときに、「日本」と書き改めたものであって、もとの文字ではない。『古事記』には、「日本」を「ヤマト」と読ませる事例はありません。・・・・・

 先ほど述べたように、正式には七〇二年に呼称変更を宣言するわけですが、「大化の改新」(六四五年)の翌年、詔が発せられます。その前後の皇極―天智―天武天皇の間に“日本という国号”が決まったのではないかと推測されます。七世紀の終わりから八世紀の始まりにかけてですね。・・・・・

 ・・・・・漢字の「倭」は「曲がった」とか「顔が醜い」、「普通じゃない」、「まっすぐじゃない」といった散々な意味をもっている・・・・・。別の解釈では「倭」を分解すると、「人偏に禾(のぎ)、つまり稲と女性」、女がかがんで稲を刈り取る姿をさし「曲がる」。これは決していい意味ではない。

 そういう経緯でわが国では「倭」という名を非常に嫌っていた。中国や朝鮮南部にも同じ倭名地名があったようです。他国を蔑視する中華思想の表れですね。

 そこで、わが国では「倭」を訓読みした「ヤマト」が一般化していたようです。

 この後で紹介する『日本書紀』のニギハヤヒの条に出てきます。広く使われるようになるのは、大化の改新以降からだと考えられています。・・・・・

『魏志倭人伝』のあとに『末書倭国伝』というのが出てきます。その中に「倭」の王の「武」、これは雄略天皇と比定されていますが、その「武」が「東は毛人を征すること五十五国」という報告を中国に出しています。

 「毛人を征すること五十五国」、ここに出てまいります毛人が『旧唐書』の「毛人の国」と一致します。私は、この「毛人の国」が「蝦夷(えみし)」であろうと考えるわけです。

 そこで、日本列島には、九州を中心とした「倭国」、近畿を中心とした「日本」と、それからまた東北を中心とした「毛人の国」と、少なく見積もっても三つの国があったと考えられます。それはおそらく日本列島がまだ十分に統一されていなかった時代の話に違いありません。『魏志倭人伝』は、弥生時代後期(三世紀後半)の頃です。『末書倭国伝』の時代は雄略帝、五世紀後半の古墳時代の頃です。

▲ニギハヤヒが天降ったときに乗っていた天磐船の乗務員が、『旧事本紀』に記されています。・・・・・

 天磐船(あまのいわふね)は空から降ってきたとなっているのに、そこに船長や梶取の名がみえるのは、奇異に思われるかもしれません。しかし、天磐船という言葉からして明らかなように、天磐船というのは誇張であって「天磐樟船(あめのいわくすぶね)」を省略したものです。「磐」はかたいという意味で、波浪に耐える堅牢な樟船が、磐樟船にほかなりません。ニギハヤヒー行は水路を使い大阪湾から大和川を上って草香江へ向かったのです。

銅鐸は物部氏を代表する祭祀道具で畿内の弥生社会を象徴するものであり、物部氏は銅鐸祭祀をとおしてゆるやかな連合体を結成していたのではないかと推測されます。

 ところが、そこへ外来勢力の侵入、すなわち「邪馬台国=倭国」の軍隊が攻め込んできた。物部氏と同盟を結んだ蝦夷の兵士は勇敢で敵を散々なやましたが、物部氏の主力は屈服した。これは「ヒノモト」王国の終焉を意味するものでした。『新唐書』に「倭国」が「日本」を併合したとあるのは、このときの戦闘による「日本=ヒノモト」の敗北を述べていると思われます。

 整理すると、神武東征説話の第一の特徴は、ことごとく物部氏に関係していることです。そして第二の特徴は、金属の精錬にかかわる記事がすこぶる多いことです。・・・・・

 「ヒノモト」の国の村々では、祭器である銅鐸を破砕するか人知れぬ丘かげに埋納するかして敵の目から隠した。銅鐸は物部王国のシンボルであって、王国が崩壊した以上、それらを祭祀のために使用することは許されるはずもなかったのでしょう。

 神武東征は弥生文化の終焉を告げるとともに、これ以降、古墳文化の時代が始まるのです。

▲・・・・・『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。<ご参考(引用者): クサカ(日下・草香・孔舎衙)

直越の道(ただごえのみち)


▲・・・・・「難波の海」の難波には枕詞が二つございまして、一つは「葦が散る難波」というものです。もう一つは「押し照る難波」というのです。「押し照る」という言葉はどう考えましても、太陽が照るということ以外に考えられません。そういたしますと、難波も何か太陽を意味する言葉でなくてはならない。それでは、この「押し照る」という枕詞をつけた難波の「なにわ」というのは何に由来する言葉であろうかということになるのです。

 「なにわ」の由来を考える上では、まず古代の渡来人の存在を考えなくてはなりません。二世紀から四世紀にわたる中国王朝の分裂とその余波によって、朝鮮半島の政治の混乱を避けて半島からたくさんの渡来人がやってまいります。

 日本の地名の中にも、彼らの古代朝解語でつけられた地名がままあります。「難波」の「難」は古代朝鮮語の「奈勿=nar」という言葉で、「太陽」をあらわします。一日、二日という「日」もあらわすといわれています。・・・・・

 この「nar」というのが朝鮮語で「太陽」をあらわすというなら、上に「押し照る」という言葉がついていてもいっこうにおかしくありません。「ニワ」という言葉は朝鮮語で「口、門、窓、出口」の意ですから、ナルニハは「日の出」「日の門」、あるいは「日の庭」のことであり、「日の出る聖なる場所」だと解釈する韓国学者もおります。それがつづまって「なにわ」となったと考えられます。つまり、「ナニワ」の地名を太陽の降り注ぐ生成の土地だと解釈できると思われます。

 大阪市に西成区、東成区という地区があります。これらの地名は非常に古い地名でして、すでに奈良時代にその地名がつけられ、郡を設けた。そうしますと、この「成」もまた太陽に関係するのではないか。そこで、「押し照る」が「難波」の枕詞であるという理由も正しく理解されると思われます。

 不思議なことに、この「ナル」は沖縄の言葉にも入っておりまして、伊是名(いぜな)島と伊平屋(いへや)島に「ナルコ」「テルコ」という神様がいます。・・・・・

 古代東アジアでは、西から東へと大きな民族移動が行われました。その中に、朝鮮半島から北九州に渡来して、さらに瀬戸内海、あるいは出雲の山陰道を通って、いまの近畿地方にやってきた渡来人たちもたくさんいただろうと思うのです。その人たちはこの「難波」を太陽の出るところだと考えたに違いありません。・・・・・

 瀬戸内海を通って東へむかった渡来人たちは、「難波」を日本列島の水路の東の果てだと考え、「太陽が出る庭」と呼び、生駒山脈の西のふもとにあるもっとも東に位置するところを「日下」、太陽の出るところであると考えたのではないかと思うのです。

 中国や朝鮮からみますと、日本列島は東に位置しておりますが、日下はさらにその東の果てになります。そういうことから「日の下(ヒノモト)の「くさか」、すなわち「日の下」という枕詞をつけた「くさか」という地名が誕生いたしました。それがやがて「日下」と書いて「くさか」と詠ませるようになったのではないでしょうか。「ヒノモト」は河内の日下の付近、また「ヤマト」は大和国原というように局限された土地を指したものが次第にその呼称の範囲を拡大し、ついには「日本国」を指すものになったと思われます。はじめは小地域につけられた地名が、大地域の呼称となっていくのはごくふつうのことといっていいと思われます。

「日の下(ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるようになった。「日の下(ヒノモ上)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。

▲ニギハヤヒという神様ですが、大和地方の「登美(とみ)」におりました豪族、ナガスネヒコの妹を妻としたということも『日本書紀』に書かれています。そういうことから考えますと、ニギハヤヒとナガスネヒコとは何らかの関係を結んでいたように思われます。

 ナガスネヒコというのは「スネの長い」異族の形容詞であったと思われます。「なかすね」、「中洲根」とも表現されており、日本列島の真ん中の美しい地味の肥えた大和を支配していた。

 そして、ニギハヤヒの神を先祖とする氏族は物部氏です。物部氏がニギハヤヒを奉斎しながら九州から東へ移った。そして大和に住みついたという歴史的な事実が、『日本書紀』の中のニギハヤヒの「天磐船」による降臨という説話に反映しているのではないでしょうか。

▲・・・・・四世紀の初頭、「邪馬台国」の東遷によって、それまで河内、大和にわだかまっていた物部氏族の一派が、近江を経て東海地方に東進を余儀なくさせられたのではないかということです。物部氏の一部は、おそらくナガスネヒコに代表される蝦夷と共に東を目指したと考えられるのです。

▲・・・・・阿倍氏とはいかなる出自なのでしょうか。

 ずばり、「邪馬台国」が東征して河内、大和を掌握する以前、畿内に先住していた蝦夷と、物部氏に代表される倭種とが婚姻を通じて形成された氏族、それが阿倍氏であったと私は推定しております。

 阿倍氏が蝦夷と倭種との混血氏族であるとすれば、両者の間に並々ならぬ関係がつづいたとするのは無理からぬ想定であります。

▲ここにまことに興味深い資料があります。現在、奥州安倍氏とその一統に関する「秋田系図」と「藤崎系図」の二つが残されています。双方とも安倍氏の始祖は「安日(あび)」と称してはばかることがない。このうち、「秋田系図」には奇妙な始祖伝来が記されている。その経緯について喜田貞吉(1871-1939/歴史学者)はつぎのように説明を行っております。

 「安藤氏はみずから安倍貞任の後と称し、その遠祖を長髄彦の兄安日なるものに擬している。これは万治年間(一六五八~六一)、秋田実季編纂の『秋田系図』の有力に主張するところであるが、その説の由来はすこぶる古い。永禄十年の津軽館越北畠家の日記にその説を録している。さらに松前下国氏の系図によれば、その遠祖を安日長髄(あびのながすね)なるものに帰し、いわゆる安日をもって長髄彦の姓と見倣しているのである。けだし『永禄日記』以下のものに安日をもって長髄彦の兄となすゆえんのものは、長髄彦は神武天皇に抗して大和で誄戮せられ、したがってその子孫の奥州にありとすることが実らしからぬがために、その姓名を分かって兄弟の二人となし、もって合理的説明を下すに至ったものであろう。しからばその説の由来はさらにいっそう古きものとなる。

 後世奥州の一大名たる豪族秋田氏が、他の諸大名のそれぞれ立派な系図を有して、源氏と称し、藤原と号し、古代名家の因縁を語るものとは大いにその趣を異にして、みずから先住民の後裔をもって任ずる点は注目に値する」

 と喜田はいっております。

 ご周知のように、世の系図なるものは近世以降作られたものがほとんどで、また書き改められた例がおびただしい。その場合には、自分の家の先祖の出自を中央の貴姓むすびつけるのが常套であります。日本人に特有な貴種への憧憬がそうさせるのであって、先祖伝来の系図は信用できるかどうかを疑ってかかる必要があります。

 しかし、喜田の紹介した「秋田系図」では、秋田家の先祖は奥州安倍氏につながり、長髄彦の兄の「安日」を始祖とすると称している。そのことは永禄十(一五六七)年、すなわち信長入京前年の奥州北畠家の日記にたしかめることができる。さらにさかのぽって、松前下国家の列伝の系図には、「安日長髄」と記されており、「安日」は長髄の姓となっております。

 喜田は長髄彦が神武との戦いで死んだということから、その子孫が奥州にあるのはおかしいということになって、安日長髄の「安日」という姓を長髄彦の兄として作り上げたのだろうという。とすれば、奥州安倍氏の血脈をひくと称する安藤氏や秋田氏は、最初には長髄彦の末裔という意識をもっていたにちがいない。長髄彦は伝説中の人物とはいえ、神武の軍に敵対して殺された。いわばその朝敵を先祖と仰いで恥じないというのは、いったいどうしたことだろうか。ややもすれば中央の貴姓に自己の先祖の出自を結びつけたがる風潮のなかで、これは異例に属するといわねばならないでしょう。

▲・・・・・「安日」なる人物を創作した根拠はおそらく一つしか考えられない。

 それは奥州の安倍氏が権勢を誇っていた時代、神武帝の軍隊と勇敢に戦ったナガスネヒコの武勇にたいして、同じ蝦夷族としての共感と誇りをおぼえた。ナガスネヒコが蝦夷であったという伝承が古くから存在し、それをプライドとして待ち続けてきたからだと思われます。

 しかしそればかりでなく、ナガスネヒコの兄を創り出した心理の底には、物部氏とナガスネヒコが連合していたというかつての史実への親近感がひそんでいたのではないか。東国における物部氏と蝦夷の関係は親密なものであったと考えられますから、それが強調されたのではないだろうかと思われます。

 問題はそれだけにとどまりません。ナガスネヒコの兄なる人物を創作した際に、それを「安日」と命名したのはなぜか。たやすく考えられることは、「安日」=「安倍」という風につなげていくためであったということです。

 しかしここにも奇妙な事実があって、宣教師でアイヌ学者でもあるバチェラーの『アイヌ・英・日辞典』(第四版)を引くと、アイヌ語で「火」をあらわす単語は、「abe(アベ)」または「abi(アビ)」である。とすれば、「安日」も「安倍」もおなじく、アイヌ語の「火」をあらわしているようです。

 ナガスネヒコが蝦夷であったとすれば、その兄として創作された「安日」もまた蝦夷とみなすのはとうぜんでしょう。そうすればその「安日」という名がアイヌ語の「火」に由来するのも、まことに合点がいくのであります。

 また「秋田系図」によると、「安日」は胆駒岳に住んでいたのでそのあたりを安日野と呼んだ。神武帝が日向の国から中洲(大和)に入ろうとしたとき、「安日」とナガスネヒコは、中洲はわがウマシマジ(物部氏の祖)の国と主張して、胆駒岳のあたりで十数年戦った、とある。つまり、今日でも大阪市にその名の残っている「阿倍野」はそこに「安日」なる人物が住んでいて、一帯を支配していたからつけられた地名であるということになります(阿倍野を「安日野」と記した伝承記録もある)。

▲安部氏が蝦夷の首長とみなされたのはたしかです。それはまぎれもない事実で安部氏としても否定しようがなかった。夷の源流をたどれば、中央の歴史においては異族の元祖ともいうべきナガスネヒコに辿りつきます。正史の『日本書紀』にもナガスネヒコの妹は、物部氏の祖神のニギハヤヒと婚を通じたと記されています。ここに「安日」なる人物を創作して、ナガスネヒコの兄とすれば、物部氏の祖神と奥州安部氏の始祖は外戚の関係で結ばれることになります。奥州安部氏はそうした細工を施すことで、自分の地歩を有利にしようと計った。この安日なる人物は奥六郡の物部氏との接触なしに生まれ得なかったと思われます。

 ところが、その名前の「アビ」までは創作ではなかった。すなわち、四世紀前半にみられた物部氏と異族のナガスネヒコとの連合関係はきわめて古い伝承として、みちのくの蝦夷の中にもながく生き残ったのです。そうしたことが、安日なる人物を誕生させたのです。

 だが、神武東征の際にナガスネヒコは殺され、その兄の安日は津軽の安東浦に流されたという伝承の部分は、奥州の安部氏が前九年の役に敗退して、奥六郡から一掃され、その残党が津軽に落ち延びていったあとに作られた話に相違ないでしょう。

▲『唐書』の最後の一節が、非常に大切なことをいっている・・・・・。東の方に「日本」があって、西の九州の方に「倭国」があった。東の「日本」は小さな国であったが、この「倭国」を併呑してしまった、というのです。これは、『旧唐書』の記述ですが、数十年後の『新唐書』では、逆に「倭」の方が「日本」を併呑した、となっています。

 この記述については、二世紀の大乱のときに東遷した物部王国は「日本」を称し、その後、四世紀初頭に東遷した邪馬台国は「倭国」を名乗っていた、そして、その邪馬台国が物部王国を併呑した、と理解していいのではないかと思います。

 和辻をはじめとする論者が認める四世紀の「邪馬台国東遷」説は当時の社会変動、もしくは文化変動を説明するのにもっとも合理的な解釈であると思われます。

 しかし、私か不満に思うのは、これらの論者は、ただ一点重要なことを見逃しているのです。神武東征の際に河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先住民とは一体何者であったのか、ということです。この点を不問にしているため、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている。

 私か主張するように、さきに物部氏の東遷が行われ、ついで「邪馬台国」の東遷があったとするならば、神武東征説話から具体的な歴史の把握がいっそう可能になると考えております。

▲七世紀半ば頃が、一つの変わり目といえます。たとえば、「日本」という国号が中国に対して初めて用いられたのも、遣随使・遣唐使を送っていた頃だと思います。しかしまだ、東北地方や西南日本は、日本の版図に入っていません。とくに勇猛なのは蝦夷と隼人で、この両者は「異人雑類(いじんぞうるい)」と、『令義解(りょうのぎげ)』(養老令の公定注釈書/833年成立)に書かれています。「雑類」とは、日本の中央に強制的に移住させられた蝦夷や隼人をいいます。彼らはなかなか朝廷のいうことを聞かない。・・・・・水田耕作についてはなかなか実行できない。蝦夷も隼人も縄文時代以来、狩猟をもっぱら生業としていますから、水田耕作はもちろん、蚕を飼ってマユをつむいで糸をとり、それではたを織る、ということは非常に苦手なのです。そのため、律令体制下の租庸調をかけようとしても、律令制度に従わない。

     <ご参考(引用者):日の本(ヒノモト)/日高見(ひだかみ)

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