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直越(ただごえ)の道/饒速日山(草香山)

直越の道は「日下くさか(の)直越(の道)」「草香くさか(の)直越(の道)」ともいう。河内国と大和国とを結ぶ古代の道。最短ルートではあるが生駒山地を横切ることになり、かなり険しい道筋であった。

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              地図<日下の直越・草香山(このページより)クリックすると拡大されます。


)以下、 谷川健一「白鳥伝説」(1986)」 より引用

 勝井(純)は「日下の直越」を実地に踏査している(下に引用者注)。それによると、日下の直越の路は現在の東大敗市善根寺の春日神社の前を東北にむかって、尊上山の中腹を斜めにのぽり、その頂上から東南に走る低い尾根伝いの道をたどる。

 そこから八幡山の頂上である旧神社のあたりを通って、恵比須山から厄山にいたる。厄山から国見山方面に通じている道に饒速日山がある。それは生駒山の北にそばだっていて、その頂上には、底無しの井戸と称するものが八つある。その饒速日山から生駒市の俵口にいたる道路を、現地では直越と呼んでいる。

 饒速日山は一名草香山ともいわれている。先述の万葉歌の中で、草香山が重要な意味をもつのは、そこが太陽信仰の対象となっていたためである。饒速日山は神体山として礼拝されていた。もとは社殿もなかった。おそらくそれは天照御魂(あまてるみたま)神社の原型であった。つまり草香山にのばる太陽が礼拝されていたのではないか。

 勝井によれば(下に引用者注)、のちにニギハヤヒを祀る上ノ社が饒速日山の頂上にもうけられ、それに対して、奈良県生駒郡富雄村(現在生駒市上町)の長弓寺にある登弥神社と、東大阪市の石切剣箭(つるぎや)神社を下ノ社と呼んだのだという。そのあと、物部氏がほろぶと、山上のニギハヤヒの神霊はそれぞれ下ノ社に移されたのだという。

 饒速日山に源を発し、西北に流れて、善根寺の車谷を下って、春日神社の付近を通り、旧の日下池にそそぐ川を今日でも「日の川」と称している。このことは、「日の御前」という呼称とともに、そこが太陽信仰とふかい関連をもつことを如実に示している。

       (引用者注)勝井純『神武天皇御東遷聖蹟考』をご参照

)以下、谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用

 

 いまの東大阪市の「日下」といいますと、生駒山脈の西側にあります。

 『万葉集』の巻六には、草香山を通るときに、神社忌寸老麿(かみこそのいみきおゆまろ)という人が読んだつぎのような歌があります。

    「直越(ただごえ)のこの道にてし押し照るや

     難波の海と名づけけらしも」

 「直越」とは、「草香の直越」と言われていまして、大和から河内へ抜ける道です。大和から難波へ越える直越の道を草香山までのぼってみると、難波潟に日の光が照り付けているのが見える。「この道にてし」の「し」は強意で、この道でこそ、押し照る難波の海と名づけた理由がよくわかる、という歌であります。

 これだけではたんなる叙景の歌にすぎないように思われますが、それ以上の意味が含まれています。「直越」というのは『古事記』で雄略帝が「日下の直越の道より河内に幸行でましき」と歌ったその「日下の直越」のことです。大和から河内に出るのはこの道が一番近道であったので、「直越の道」と呼ばれ、その道の頂上が草香山と称せられていたのです。

 現在も、生駒山地のその山を「草香山」と申します。それは、いまの東大阪市の「日下町」の東側にありまして、「饒速日山」とも申します。その「草香」の「直越」と申すところの道にやってきてはじめて、「押し照るや難波の海」と名づけられた意味がわかったというわけです。要するに、「草香山」つまり饒速日山を過ぎるときに、その難波潟をみながら詠んだ歌なのであります。

 

生駒市誌には次の記述がある。

「生駒山越の峠道は数多くあって、北から順にみると清滝越・越中垣内・竜(龍)間越・八丁門越・善根寺越・日下越・逗子越・暗越・鳴川越・十三越・信貴越・立石越となっている。上鳥見越(岩船越)もある。竜(龍)間越か逗子越を生駒直越という。

日下の直越・草香山の地図

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