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金関恕+大阪府弥生文化博物館 『弥生文化の成立』

はじめに

 

 〈縄紋から弥生〉、それは日本列島における大きな歴史の変換点であった。旧石器時代も含めると、数十万年にもおよんだ狩猟採集の経済と文化が、水田稲作を中心とした生産経済に移行するとともに、首長と農民層という階級分化が生じ、やがて首長相互における政治的な統合が進行していく。そしてその先には、巨大な前方後円墳を造営した古墳時代の展開が待っている。それはまた、自然に大きく依存し、その一部として存在していた人びとが、自然の再生産サイクルに関与するという、いわば自然を人間化していく過程でもあった。いいかえれば弥生時代は自然と人間の関係、人間と人間の関係、この二重の関係性が変質していく出発点であった。そういった意味では、縄紋時代から弥生時代への変換は、日本列島の歴史における最大の画期をなす。

 縄紋文化は、植物性食料の採集を基礎にし、狩猟と漁撈を組み合わせた獲得経済であった。そしてそれをスムーズに実現させるための呪術を盛行させた。土偶や石棒などの宗教的な道具のほかに、日常生活に使用される土器にも、現代のわたくしたちには解読できない紋様や装飾がほどこされる。つまり普段の生活と宗教活動とが密接不分離であって、宗教を独立した事象として扱う弥生時代以降とは、次元がまったく違っているように思える。弓矢や釣針など、食料を獲得するための発明、また土器のように生活に役立てられるいくつかの発明はあったけれども、自然の働きを大幅に変革することは少なかった。そして、みずからの労働やその果実が他人に搾取されるという関係はなく、平等性の原理に貫かれた国家なき社会であった。

 弥生文化は水田稲作をはじめ、鉄器の鍛造(たんぞう)、青銅器・ガラスの鋳造、機織りなど、大いなる技術革新をともなったが、それらは水田造成に代表されるように、自然に働きかけ、その環境を大きく変質させていく。また首長墓の成立、環濠集落や武器の発達などに見られるように、階級分化や戦争も始まった。それらは文明社会のもっている、いわば正と負の側面でもあった。つまり文明社会の嚆矢(こうし)ともなる弥生時代は、最初から相反する二つの要素をもっていたのだ。そしてそれらが、中国や朝鮮半島など、来アジア社会の国際的ダイナミズムのなかで展開しはじめたのである。

 水田稲作や金属器、大陸系磨製石器や大型壷、農耕祭祀や環濠集落などは、列島で自生したものではなく、南部朝鮮から持ちこまれたものであった。これら渡来してきた要素と、甕や打製石器、あるいは竪穴住居や木器や漆器など、縄紋時代から引き継がれたたくさんの要素とが組み合わさって弥生文化が形成される。もちろん、二つの文化はそれぞれの担い手がいたのであって、いまそれを縄紋人と渡来人・外来人とよぶとすれば、北部九州とその周縁地域では、玄界灘を越えて渡来してきた人びとの数や回数とその時期によって、弥生文化の質や方向性が決定されるだろうし、瀬戸内や大阪湾沿岸の地域では、外来の人びとの故郷や持ちこまれた文化の程度によって、どのような弥生文化が誕生するかが決まってくる。もっと東方の地域では、外来の人びとが移住してきた段階、新しい文化を構成する〈ものや情報〉だけが伝わってきた段階など、いろいろなケースが考えられよう。

 

 縄紋から弥生への転換は、「北部九州に渡来した稲作文化が、短時日のうちに一気に西日本を席巻し、伊勢湾周辺まで到達した」といった簡単なものではないことが、ここ数年の発掘調査の成果によって明らかになってきている。そして資料が急速に増えた結果、弥生文化という概念が、その成立期において、各地でさまざまなばらつきを見せはじめているのである。ことに縄紋時代におけるコメ資料の存在が、そうした事態に拍車をかけているようだ。

 既存の人びとがまったく消滅し、それに代わった全部の人びとが他の地域から移住でもしてこないかぎり、一つの地域における歴史の進行は連続的である。新しい技術や思想が持ちこまれ、たとえ経済制度や文化が一変しても、それを担う人びとが同じ系統にある以上、旧来の要素はかならず生きつづけている。したがって、歴史の進行のなかに〈伝統と革新〉のいずれを見いだすか、そしてどこに歴史の変換を認識するかは、わたくしたちの側の問題といえよう。

 縄紋から弥生への時代の変革、それは新たな農業社会の出発点という意味で、文明史的転換であったと思う。その歴史的実態――弥生文化はどのようにして始まったのか、それはいかなるプロセスをとって伝播し、変容していったのか、そして各地での展開はどうであっだのかなどを、地域ごとの豊富な資料を駆使して分析し、それをふまえて討論し、時代の変換のイメージを提出してみたいというのが、本書の基礎となった共同研究「縄紋から弥生へ」の目的であった。・・・・・。

旧来のパラダイム

  ・・・・・これまではおもに、弥生時代でも古い時期に属する土器の分布や、弥生時代の遺跡から出土した人骨の形質人類学的な研究成果に基づいて、九州、中国、四国、近畿地方などのいわゆる西日本と、相対する東日本とでは、水田稲作農業が違った形で伝わったであろうと考えられていた。従来の考え方をごく簡単に要約するならば、次のようにまとめることができるであろう。

 北部九州や本州西部の弥生人の主流は、地域的にいくらかの形質差がありながらも、渡来系の人々であり、一方、東日本の弥生人は縄紋系の人々である。水稲耕作を主要な生業とする渡来人が、その農業文化複合をもってまず北部九州に定着し、在地の縄紋人と混血し、文化的にも影響を与えあって、弥生人と弥生文化を生み出した。彼らの子孫は海岸平野を開拓し、おそらくは人口も爆発的に増大し、新しい土地を求めながら、西日本の全域に水稲農業という新生業を伝えて広かって行った。しかしその移住の範囲は中部日本以東には及ばなかった。東日本の縄紋人たちは、やや遅れて水田稲作農業を自ら受け容れ、弥生人に変身していった。

 こうした考え方は、もちろん、それまで知られていた第Ⅰ様式、あるいは遠賀川(おんががわ)式土器を最古の弥生土器とし、その分布の調査成果とも矛盾するものではなかった。

文化の習合と伝播

 ・・・・・ある文化の系が外からの影響を受けて変化をおこす場合、二つの状況が考えられる。第一は、違った文化をもつ二つ以上の集団がある程度の期間にわたって接触し、一方または双方の文化体系に変化を生じた、いわゆる文化習合(シンクレティズム)である。第二は、ある文化に属する集団が、人の介在なしに、他の文化から一つまたは幾つかの文化要素を借用したり模倣したりして摂取し、自らの文化を変えて行くような文化の変化であり、ここでは文化人類学の定義により、これを文化伝播的な変化と呼ぶことにしよう。もちろん実際には、はっきり二つの型に分けられるようなものでないかも知れない。
 縄紋文化のような、もともとは採集経済に依拠していた社会が、弥生文化のような生産経済の社会に変わっていった場合も、これら二つの変化の型に照らして考えることができる。つまり西日本は、渡来集団の文化と在地の縄紋集団の文化が接触して、文化習合を生じた場である。この文化変容の過程で、渡来文化のような、より大きな影響力をもった文化が、いくらかの強制をともなって縄紋文化を圧倒したとしても、その後に主として精神文化の面で一種の土着化現象(リヴァイタリゼイション)が見られることは興味深い。例えば、弥生土器を飾る幾何学的な紋様の出現などは、その制作者が縄紋系土器文化の継承者であったことを暗示している。付言するならば、武器や工具の生産を鉄鍛冶があずかるようになってから、それまでの青銅製の武器が儀器化していく現象なども、弱者の反動が呪術化、宗教化して現れた普遍的な土着化現象の一例だと考えてよいかも知れない・・・・・。

新しいパラダイムの試案

  時代も、地域的な性格やさまざまな条件も、全く異なった地中海世界における農耕社会形成のモデルが、縄紋から弥生への移り変わりを説明するうえに、何ほどの参考になるか疑わしいと思われるかも知れない。しかし、地中海北岸地域でも、各地で精密な調査が行われれば行われるほど、各地区における歴史的発展の自律性をより重視しなければならないという傾向を読み取ることができる。日本列島でも、水稲農耕文化社会成立の説明について同様の考え方が強調され始めたことは興味深い。

 縄紋から弥生への移り変わりを説明する古いパラダイムに換え、最近の調査・研究成果を取り入れながら、私なりの新しいパラダイムを試作して提示してみよう。

(一)稲は、他の畑作物と共に、遅くとも縄紋時代の後期ごろには伝えられ、おそらくは陸稲として採捕生活者たちの間で永い期間栽培されていた。

(二)水田農耕文化は朝鮮半島南部から伝来したであろうが、そのころ北部九州との間には相当密接な交流があり、縄紋の人々は新しい生活を始めるに当たって、必要な文化要素を選択的に採用した。

(三)日本列島内における水稲農耕文化の広がりも、従来考えられていたような、新移住者による急速な文化移植現象ではなく、むしろ在地の縄紋人が主体的に受容したものである。しかし地域的には、弥生時代I期のおわりごろ、コロニー形成現象もみられる。その場合、縄紋人と弥生人の間に一種の住み分け的現象もあったであろう。あるいは、住居跡などを考える場合、ブライオニー・オームが引用しているイバン族の移動例のように、考古学的証跡だけではなく民族学の成果を参照すべきであるかも知れない。

(四)弥生時代以降、日本列島の住民の形質には相当大きな渡来系の人々の影響があるという。弥生時代についていうならば、最初期(先I期)ではなく、おそらくそのI期になって、海外からある程度の数の移住者を迎えたものであろう。

 水稲農耕文化の始まりが、かつて考えられていたよりもはるかにさかのぼる年代が与えられるだけに、採捕的生活から農耕生活への移り変わりについても、従来よりはより長い、そして徐々たる過程を考えなければならないことは、当然だといえないことはないであろう。

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