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井上光貞 『神話から歴史へ(日本の歴史1)』

書きかえられる歴史

 「歴史は書きかえられる」という有名なことばには、大きく分けて二つの意味がある。その一つは、それまで知られていなかった重要な事実が明らかになって、歴史の常識が大きくうち破られるばあいである。そのもっともよい例は、古代史でいえば、西アジアやエジプト、つまりオリエントと呼ばれる地域についての、一九世紀後半にはじまる研究の成果であろう。

 この荒涼とした砂漠と草原の地帯には、王宮の遺跡や記念碑のようなものが残っていて、古い時代に文化の栄えていたことはわかっていたが、それがいつの時代のもので、どのような歴史的意味をもっているかはわからなかった。ところが、岩に浮彫りされた鳥や人物の絵、粘上板に刻まれた複雑な視形の文様が、じつ文字であったことがわかり、その解読と考古学上の発掘によって、それまで最古の記録とされていた旧約聖書の世界より二千年以上も古い文化の存在が明らかになったのである。これは、純学問的研究によって歴史が書きかえられた一例である。

歴史が書きかえられるもう一つのばあいは、国家や宗教が歴史をどのように利用してきたか、というきびしい問題とかかわってくる。

 歴史をまとめるばあい、過去のことを記録しておきたいというすなおな動機もたしかにあるだろう。しかし国家や宗教の支配層に属する公の機関が歴史をまとめるばあい、そこに自分たちの支配体制を歴史的に肯定しようという意図がしばしば一本の筋となって貫かれている。つまり、自分たちが君臨しているのは偶然のことではなく、本来、当然そうあるべきだったのだ、ということを自他ともに示したい動機がひそんでいるのである。とすれば、どうしても、自分たちに都合のわるいことはタブーとしてなるべく書かないし、実際にはなかったことでも書きたくなるであろう。したがって、自分たちに都合のわるい事実を明らかにする者が出ると、世を惑わす者として処罰するといったことも起こってくる。そして、これらの支配体制が変革をうけると、たちまち歴史が書きかえられるのである。

 このような「歴史」のありかたは、古今東西に共通してみられることで、ここに例をあげるまでもないとおもう。しかし、このような「歴史」のありかたを克服したときに、はじめて近代的な文明国になったといえるのではないだろうか。

津田氏の著作

 日本においても、第二次大戦が終わるまでは、この本で書こうとする「神話から歴史へ」というような問題を、公然と言ったり書いたりすることは、ひじょうに困難であった。というのは、日本のなりたちを記した二つの貴重な文献、つまり『古事記』と『日本書紀』を論じようとすると、どうしてもその中心にある皇室の祖先に言及することになる。しかし明治憲法においては、天皇は神聖にして侵すべからずとされているので、この侵してはならないタブーにふれることになるからであった。そのもっとも象徴的な出来事が、一九四〇年(昭和十五)に起こった津田事件であった。

 津田左右吉氏は、早稲田大学教授として一九六一年に八十八歳の生涯を終わるまで、日本および東洋の思想史研究に広くかつ大きな業績を残した学者であるが、問題になったのは、その津田氏がまだ壮年の四十歳のとき、一九一三年(大正二)に出版した『神代史の折しい研究』、一九一九年(大正八)の『古事記及び日本書紀の新研究』の二つの本であった。

 この二つの本は、古くから神典とされていた『古事記』と『日本書紀』が、どのようにしてできあがったのであるか、つまり記紀の文献的批判をおこなったものである。ここで津田氏の明らかにしたことは、つぎの諸点であった。

古事記と日本書紀の基礎になったのは、皇室系図である「帝紀」と、宮廷でつくられ、または伝わってきたいろいろの物語である「旧辞」からなっていること。帝紀と旧辞がつくられたのは六世紀の継体-欽明朝ごろのことであること。帝紀に書かれているすべてのことが古くからの言い伝えではなく、四世紀末の応神天皇より以前は史実かどうか疑わしいこと。そして旧辞の、とくに神話の部分は、六世紀という時期の宮廷が、天皇は悠久の昔からこの国土をおさめていたことを説くために述作したものであって民族とともに伝わってきた歴史の伝承ではないこと、などであった。

 津田氏のこの仕事は、多くの学者がいだいていた常識的な見通しを、するどい直観力と実証的な手続きで具体的に、しかも綿密にあとづけたものであった。しかも、学者を相手とした純粋に学問的な労作であったから、出版されてから後も、とくにこれを政治的問題としてとりあげる者はなかった。

しかし津田氏の二つの著作は、客観的には、著者の意図するとしないとにかかわらず、神典の仮面を剥ぎとったものであり、天皇を絶対者として国家および国民教育の基本として据えた明治憲法における体制の教学の核心に、するどい学問的メスをいれたものであった。したがって、津田氏のこの業績を部分的にうけつぐ学者は多かったが、肝心のところを公にすることははばかられた。そして、やがて旧憲法を利用して擡頭した軍部や右翼勢力の運動がいちじるしくなると、かれらのあいだに、津田氏の著作は皇室の尊厳をおかすものだという批判の声がたかまってきた。

 自由主義的な言論にたいする圧迫が強くなったのは一九三一年(昭和六)の満州事変からであった。まず一九三三年(昭和八)には、京都帝国大学教授の瀧川幸辰氏が自由主義的な刑法学説のために休職処分をうけ、一九三五年(昭和十)には、東京帝国大学教授の美濃部達吉氏が天皇機関説といわれる憲法学説のために教壇を追われた。こうして、国体に違反するというかどで、自由主義的な学説をつぎつぎと槍玉にあげてきた超国家主義勢

力は、一九四〇年(昭和十五)、津田氏の著作もまた、皇室の尊厳を冒涜するものとして、津田氏および氏の著作をあらたにまとめて出版した岩波茂雄氏を公訴した。

 これにたいして津田氏は、膨大な上申書をつくり、自由主義的な学者たちも連署してその公訴の誤っていることを訴えた。そのため、津田氏らは罪をまぬがれはしたが、津田氏の著作は自発的に発売を停止することになった。

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