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古田武彦 『古代通史』

                       (文中の太字は引用者による

▲・・・・・この説話が生まれた社会にはまだ弓矢がなかった。弓矢がない時代に説話が作られたら、そこの登場人物も弓矢を使っていません。当然使えるのは石を投げるという動作だけです。だから、その動作によって説話が作られているわけです。・・・・・

 縄文時代なんてものは日本の歴史をやっていればいつもお目にかかるわけですけど、従来、そこではもう弓矢があるのはあたり前という観念があった。なにも疑わずにそういう頭で縄文時代を考えて別に不便はなかったんです。ところが・・・・・

 ・・・・・弓矢以前の時間帯が存在して、それは何十万年という長い年代が経っている「投石時代」です。・・・・・

 やがて弓矢が発明された。私は人類史上最大の事件をあげろといわれたら、まずこの弓矢の発明が入るだろうと思うんです。・・・・・

 ・・・・・投石時代には人類は非常に不幸であった。一人よがりな言い方なんですが、不幸であったであろう。なぜかといえば、ほかの動物と人類を比べてみて、人類より能力が優れている動物はたくさんいますでしょう。走る能力では人間より速く走れる動物もいるし、力だって人間より強い力の動物がいくらもいるじゃないですか。遠くをみる力も人間よりずっと遠くをみることのできる動物がいるじゃないですか。だから人間というのは劣等生、どの能力でもたいしたことはないお猿さんの一族だった。こういってもそんなにまちかってはいないと思うんですね。いいかえれば、たえずおどおどびくびくしながら、ほかの動物のあいだでかろうじて生きのびていた何十万年が過ぎていた。

 ところがある日、短絡して申しますが、ある日弓矢を発明した。

 この場合も、私の考えでは弓矢の前にパチンコ――と言ってもあのチンジャラジャラというあれじゃなく、われわれが子ども時代にやりました、本の股にゴムをつけてバーンとトンボなんか落としたりしてたあのパチンコです――の時代があったと思います。あれが最初の飛び道具じゃないかと思うんです。もちろんゴムは当時ありませんけど、しかし竹はあるでしょう。竹はしなうじゃないですか。石をのせてパンとやれば小さな動物だったらあてて落としたり倒したりできるじゃないですか。ああいう飛び道具が弓矢の始まりじゃないかと思うんです。そのパチンコが器具として完成して弓矢になるのに何千年だか何万年だかかかっていると思うんです。これは完全な飛び道具です。そうするといままで指をくわえてみているより仕方なかった鳥を落とすことができる。あるいは人間よりずっと速い狐や鹿を倒すことができる。こうなってきて、人間とほかの動物との力関係は一変してきたわけです。・・・・・

 そういう時代に入った分かれ目が弓矢の発明という事件であろう。そういいますと、皆さん思いあたることかありませんか。神社のお祭りで弓矢を使うお祭りというのがたいへん多い。神事で弓矢を射るのがよくあるでしょう。なんであんなことするの、と思われた方もあるでしょうね。あれには深い意味があると思うんです。なぜかなれば、弓矢の発明というのは、人類の歴史を、弓矢前と後に分かつ大きな事件です。その場合、われわれ現代人のいい方だったら、あれは人間が発明した、と簡単にいいますよね。

 しかし古代人はそうはいわなかったと思うんです。どう思ったかというと、神様が弓矢を与え給うたと。そりゃあんなにしなう竹なんていう存在、人間が作ったものじゃないですから。なんか知らんが人間がこの地上に生まれてみたら竹があった、っていうようなもんでしょう。そういう意味じゃ、まさに神から賜わったものであると考えたでしょう。そして弓矢によって、極端ないい方をすれば、いままでの悲しみの時代が喜びの時代に変わった。これは神様が弓矢をわれわれに給うたおかげである。これが古代人の考え方だと思うんです。

 だから、あれは神様にそれを感謝する儀式なんですね。ただみて喜んで、かっこういいだろうと自慢してみせているような、そんな安っぽいものじゃなくて、それが神社で行われるということは、神への感謝の行事である。それはまさに人類史の大きなエポックを記念したものである、ということに、私も気がついてきたわけでございます。

 いまのお話の中で皆さんはお気づきだと思うんですが、われわれの身のまわりの神社などに残っている儀式、平凡にみえる儀式、それが実は深い意味を持っている、という問題に、ここでもぶつかったわけでございます。

     <引用者:弓矢もご参照ください。>

長髄彦・・・・・銅鐸国家側の中心人物

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