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喜田貞吉 『本州における蝦夷の末路』

                         お断り:文中の太字部分は引用者がそうしました

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六 蝦夷と日本民族

 この津軽外が浜に近い頃まで残っていた蝦夷と、今の北海道のアイヌとが、同一系統の民族であったことには、いろいろの証拠があります。そしてこの外が浜の蝦夷と、歴史時代に奥羽地方に活躍していた蝦夷とが、また同一民族の引続きであったことも、十分これを連絡すべき事実があるのであります。これまで歴史の上に蝦夷という名称を以てはあらわされず、普通に日本人の如く思われていたほどの英雄豪傑の中にでも、その素性を調査してみたならば、立派に蝦夷の系統であることの明らかなものが甚だ多く、その関係は田村麻呂、綿麻呂の蝦夷征伐の時代から、極めてなだらかに後の時代にまで継続しているのであります。しかしそれが普通には、蝦夷として認められておらないが為に、ついそれに気がつかないでいるのでありますが、それ程にまで蝦夷と日本民族との間には、極めてなだらかな連絡が保たれて、いつとはなしに、気のつかぬ程の自然の移り変りを以て、彼らは日本人になってしまったのであります。

 その事実の中で最も著しいのは、前九年役の安倍氏、後三年役の清原氏、平泉で繁盛を極めた藤原氏から、遥かに時代が下って鎌倉室町時代の頃に、津軽地方に勢力を有して日の本将軍と呼ばれた安東氏などで、彼らの事蹟はこれを証明すべきものなのであります。

 安倍貞任、清原武則、藤原清衡、これらの人々の事を後世誰が蝦夷だと思うものがありましょう。系図の上から申しても、安倍氏は崇神天皇朝四道将軍の一人なる大彦命の後裔、清原氏は天武天皇の皇子舎人親王の後裔、藤原氏は申すまでもなく大織冠鎌足の子孫田原藤太秀郷の後裔ということになっているのです。彼らは日本語を使い、日本風の生活をなす。その生活の上から云っても、無論当時の上流日本人に劣らぬものであったでありましょう。さらに血の上から申しても、たびたび日本人の血を交えて、おそらく普通の日本民族とそう変ったものではなかったかもしれません。しかし当時の人々は、これを俘囚の長と云い、前九後三の役を征夷の軍と云い、源頼朝が征夷大将軍の官を頻りに希望致したのも、この征夷の官職を以て、夷狄藤原氏を討伐せん為であったと解せられます。ことに藤原清衡の如きは、自ら「東夷の遠酋」と云い、「俘囚の上頭」と云い、その配下を称して「蛮陬夷落(ばんすういらく)」、「虜陣戎庭」などと称し、京都の公家衆は清衡の子基衡を呼ぶに、「匈奴」の称を以てし、その子秀衡を呼ぶに、「奥州の夷狄」の語を以てしております。俘囚とはこれをエビスと読みまして、蝦夷の日本風に化したものを呼ぶ称でありました。彼らが系図の上でいかに言われておりましても、その当時の人々がこれを蝦夷の種と認め、自分らもまたこれを認めていたことは、他にもいろいろの証拠があって、到底疑いを容れるの余地は無いのであります。しかるに後世の人々が、どうしてもこれを蝦夷の種だと認めえない程にまで、彼らはすでに日本風になっておりました。否、すでに日本民族になってしまっていたと申してよいのでありましょう。されば立派な歴史家と言われる人々の中にも、俘囚は本来日本人であったなどと、史料の誤解から起った窮説を主張してまでも、彼らの蝦夷の種たることを否認せんとしたものが、近頃までもまだ少くありませんでした。歴史の研究が進歩し、その知識の普及した今日では、もはやこれを疑わんとする人もそうありは致しますまいが、二十数年前に私がその説を「歴史地理」の誌上に発表しました時には、これを以て古英雄を侮辱するものだとして、脅喝的の書面を寄せたものすらありました。これと申すもこれらの人々が、後人をしてそれ程の感じを起させる程までに、すでに日本民族に同化していたからであります。

 しかしながら、彼らが蝦夷の流れであったという説を聞いて、しいてそれを信ぜざらんとし、またはこれに対して一種の反感を催おすものすらあるということは、一面には世の人々が、日本民族なり、蝦夷なりについて、十分の知識を有しないが為であります。日本民族とは、前々からこの島国に居た先住の土人なり、後に海外から多数に移住して来た帰化人なりが、ことごとく天孫民族の暖い懐に抱擁せられて、完全に同化融合し、同一の国語を話し、同一の生活をなし、同一の思想を有して、ともに同一の国家を組織するところの、一つの新らしい人種であると私は解釈しております。多くの民族が融合して、その短処を遺伝したものは、自然淘汰の原則から漸次絶滅し、お互いの長所を採ったものが次第に繁延して、今日の日本民族を為しているものでありますから、この点において私は、日本民族の誇りがあるのだと信じているのであります。したがって仮りに先祖が蝦夷の流れを承けていたとしても、決して卑下してみたり、屈辱を感じたりする必要はありません。

七 日の本将軍

 この点については、さすがに日の本将軍とも言われた安東氏の態度は見上げたものです。安倍氏にしても、清原氏にしても、藤原氏にしても、皆それぞれに名家の姓を名乗っておりますが、安東氏のみはそれを致しません。彼は自ら土人の後裔たることを立派に認めております。その先祖は長髄彦(ながすねひこ)の兄安日(あび)というもので、神武天皇御東征以前の、大和の領主であったと云っております。長髄彦は神武天皇に反抗して殺されましたが、兄の安日は奥州外が浜へ流されて、子孫蝦夷の管領となったと云っております。その後裔なる秋田実季の如きは、自分の家が天地開闢以来の旧家だということを以て、家の誇りと致しているのであります。この系図は徳川時代になって、秋田実季が自身調査を重ねて編纂したもので、その安倍という本姓は、先祖の安日という名を取ったというのでありますが、しかしその説の由来はすこぶる古いもので、すでに津軽浪岡家の永禄日記十年の条に、同地岩木神社の祠官阿部氏が、やはり同様の系図を持っていた趣きに見えております。しかも一方に同じ安倍氏の流れでも、北海道松前の下国氏の伝うるところでは、先祖は安日長髄だとあって、そのアベという姓は、先祖長髄彦以来のものだという風になっております。その結果として、秋田家の方では、長髄彦の兄の子孫だと云い、松前下国(しものくに)家の方では、長髄彦その人が先祖だと云うことになり、その指すところが違って参りますが、いずれにしても長髄彦家に関係をつけ、日本最古の名家だとすることは同一であります。この系図が果して信ずべきものか否かは別問題として、奥州のこの一大豪族が、しいて名家の家柄に附会することなく、どこまでも土人の後裔を以て任じておりますことは、見上げた態度だと申さねばなりません。

 しかしながら、仮りに安東氏が土人の後裔であるとしましても、それは男系による系図の上だけの事で、血においてはつとに混淆してしまい、生活その他においても、勿論日本民族になってしまっているのであります。何人(なんぴと)かかの室町時代の大豪族たる日の本将軍安東氏を以て、仮りにも蝦夷というものがありましょう。徳川時代において三春五万六千石の大名たる秋田氏を以て、日本民族でないというものがありましょう。蝦夷と日本民族との関係の、極めてなだらかに推移して参りましたことは、この一例を以てしても思い半ばに過ぎるでありましょう。

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