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関裕二 諸著作    

 「神武東征とヤマト建国の謎」.pdf

 「ここまで解けた!『古代史』残された謎」.pdf

『縄文人国家=出雲王朝の謎』

 結論から先に言っておくと、縄文人は、他人の縄張りを侵さず、むしろ平和裏に暮らしていたのに対し、稲作民族が他の縄張りを侵さなければならぬ宿命を背負った民族だったということなのだ。・・・・・

 普通常識で考えれば、弓矢をもち、野原を駆けめぐり、獲物を追いまわしていた狩猟民族と、田圃に苗を植え、刈り取り暮らしていた稲作民族と比べてみれば、狩猟民族の方が好戦的と思うであろうが、これが逆なのだ。狩猟民族は平和主義者で、稲作民族は好戦的なのである。

 なぜこのような差ができたのか。ひとつには、狩猟民族の場合、食料を生産するのではなく、あくまで自然界からおこぼれを頂戴しているという意識があった。すなわち、自分たちの採り分を守ってさえいれば、生活を維持することはできた。だから、人々は縄張りを設定し、お互いにそれを侵そうとはしなかった。この原理に背くことは、すなわち自滅への道を歩むことを、彼らは本能で知っていたのである。

 一方、稲作民族の場合、まず前提がちがった。つまり、彼らは何もないところから土地を耕し、作物を栽培しなければならなかった。だから、彼らは、まず、出来る限りの土地を必要としたのである。さらに、農耕を進めるにつれ、食料事情は向上し、子孫が増える。するとまた土地を耕す。するとまた子が増える……。といったように、膨張することが宿命であるかのように、農地を広げていかざるをえないのが、稲作民族であった。そこで土地の奪い合いがおきるのは、むしろ当然のことなのである。

 縄張りを維持し、必要以上に食料を採取しなければ永遠の安住を約束された縄文人にとって、海を四方に囲まれ、豊かな森林に覆われる日本は、楽園そのものであった。

 ところが、稲作民族の登場とともに、縄文人は苦境に立たされる。縄文人がいかにバランスのとれた高度な文明をもっていようとも、新たに登場した稲作民族に圧倒されてしまったのである。この事実は、縄文人が稲作民族の文明に負けたということではなく、組織力に負けたのである。

 二千数百年前に九州北部に形の整った水田が登場し、またたく間に稲作技術は広がった。まず西日本を席捲し、ほぼ同時に日本海沿岸を北上していった。

 稲作民族の宿命は、終わることのない膨張であることはすでに述べたところだ。そして、もうひとつ、稲作民族の宿命がある。それは、食料採集(狩猟)民族にはけっしてみられなかった強大な組織力のなかに、否応なしに組み込まれていくということなのだ。

 稲作をはじめるには、まず膨大な土地を必要とする。そこで、この土地をどのように分配するかという問題がもちあがる。個人が勝手に線引きをしていては、いたるところで紛争が起きるのは当然だ。だから、これを裁定する人物が必要となり、強大な権力をもった人物、「王」が誕生する。

 さらに、水田を開墾するにも組織力を要し、農作業においても、当然同様のことがいえるのである。

 このような組織が出来あがったところで、稲作民族は組織ぐるみで土地を奪いとる方法を見出していった。日本に無数の小国が乱立し、そのなかでも強い者だけが生き残り、次第に小国は大国へと変化してゆく。このような流れのなかにあって、縄文人たちは、組織力の弱い狩猟民族としての辛酸をなめていたのである。

 ただ、縄文人にも、集落や縄張りを維持し、統率する首長と呼べるべき者は存在した。・・・・・だからといって、日本全土を束ねるような強大な権力を有した支配者を、彼らは必要としなかったのである。・・・・・

 このような稲作民族による狩猟民族の駆逐を端的に表わしているのは、『書紀』の「豊葦原」という言葉である。

 神代紀第四段一書第一には、

 「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みつほ)の地(ちくに)有り。汝往(いましゆ)きて脩(しら)すべし」

 という、天神がイザナギ・イザナミ両神に対し、日本の国を支配しろ、と命令する言葉がみえる。「豊葦原」という言葉には、『書紀』を記した九州王朝の稲作民族としての記憶が生々しく伝えられていたことを、如実に物語っている。

 大陸からやってきた稲作民族は、稲作にもっとも適した湿地帯が、葦の茂る原野として手つかずに残っていた宝の国・日本をはじめて見たとき、さぞかし飛びあがらんばかりに喜んだにちがいない。この興奮が、数世紀の時空を越えて、『書紀』の作者まで届いたのである。

 ただ小魚が泳ぎまわり、鳥が舞い降りるだけで、人がなかなか入れぬ原野に宝の山があろうなどとは思いもしなかった縄文人にすれば、稲作民族の喜々たる働きぶりは、むしろ滑稽でさえあったのではないか。ところが、はじめは好奇心でながめていたこの光景も、やがて、ただ傍観しているだけでは済まされない状況に立ち入っていることに気付きだした。

 稲作民族の人口が増えはじめたのである。

 彼らは湿地帯のほとんどを水田に変えてしまったあと、縄文人の住む高台にまで食指をのばしてきた。これは当然のことで、働けば働くほど人目が増えてゆくのが稲作であった。縄文人にすれば、これは狂気にしかみえなかったであろう。

 縄文人は、自分の縄張りを侵されることを許さない。しかし、それでは稲作民族は飢える。ここに、当然紛争が起こる。

 だが、この紛争に縄文人が勝つ見込みは、ほとんどなかった。何度もくり返すようだが、組織力の差が歴然としていたからであり、けっして縄文人が野蛮であったからではない。

 こうして、稲作は広がった。この事実は、のちに蝦夷と呼ばれる縄文人の末裔たちが、朝廷の組織化された軍隊に敗れ去ってゆくときも、まったく同様の状況があったにちがいない。いわば、縄文人の衰弱は、歴史の必然ですらあった。

▲少なくとも「エビス様」がけっして農業の神ではなかったことは、特筆すべきことといってよい。つまり、文字通り、「エビス様」は、日本全国にちらばった、採集・漁撈民族「蝦夷」(山人・非農耕民)によって祭られていたことは確かなことなのである。そして、「蝦夷」の祭る神が、出雲系の神と同一視されたことも、意味のないことではないはずだ。

 『パンツをはいたサル』のなかで、栗本慎一郎氏は、興味深いことを述べられている。

 「この山人-非農耕民は、日本の文化を考えるうえで、たいへん興味深い存在である。民俗学者の柳田国男氏などによれば、おそらく山人は、日本の古代においてなんらかのかたちでかなりの勢力を持っていた先住民であり、平地民-農耕民は、その後に現われた支配勢力の支持層であったと考えられている。

 そして、この異種の文化を持つふたつの集団は、一方が他方を滅ぼすということができず、あるいはなんらかの理由でわざとせず、この日本列島のなかに二重に重なり合ったかたちで存在した。

 私は、この対立的文化の緊張感、そして両者のかかわりのダイナミズムが、中国や朝鮮に発達しえなかった近代社会、すなわち経済人類学でいう市場社会を、近世から日本に出現させてきた推進力になったと考えている。

 なぜなら、日本の交易-商業は、山人と平地民の関係から発生し、日本の近代商業を最終的に担ったのは、ほとんど山人から出てきた集団だからである。

 近代商社は、その源流をほとんど近江商人に持つ。

 この近江商人の大部分が、山人系の出自である。近代商社のはしりである小野組は、小野小町伝説を持つ山人の中心集団であったし、住友や古河、大倉といった大商社はそこから発生している。(中略)

 いずれにしても、天津罪・国津罪の時代から連綿と続いた対立措抗するふたつの異種文化の存在が、日本の文化、経済を考えるカギであることは、まちがいないだろう」

 この異文化間の対立こそが、大陸から渡来した弥生人(稲作民・平地民)・天津神と、日本の原住民であった縄文人(狩猟民・山の民)・国津神の対立であり、九州王朝と出雲王朝の対立なのである。

▲・・・・・『風土記』は各地方ごとの数々の伝承を残すが、これらの伝承には、奇妙な法則がある。それは、神代の話を多く伝えるにもかかわらず、神武天皇以降の伝承は省略され、いきなりヤマトタケルや神功(じんぐう)皇后の時代に飛ぶのだ。そのうえこの両者の伝承ばかりが目立つのである。東国の『風土記』のなかではヤマトタケルが、そして西国の『風土記』のなかでは神功皇后が、いたるところに登場する。

 しかも、この奇妙な現象が、なにも『風土記』に限ったことではないから意味をもってくるのである。つまり、『書紀』や『古事記』のなかでも、神代から神武とつづいたあと、ヤマトタケルや神功皇后の活躍する時代に近づくまで、ほとんど歴史らしい歴史を語っていないのが実情なのだ。

▲出雲王朝の本宗家物部氏は、九州王朝によって滅ぼされたのち、物部氏の真の歴史を残すために、独白の歴史書を残した。これが『旧事本紀』である。彼らは朝廷の弾圧をのがれるために、わざと『書紀』の記述に忠実であるかのように装いながら、ほんのささいなところで異伝を載せ、たった一言の真実でも後世に残そうとしたのである。

 だとすれば、『書紀』とほとんど同じ内容でありながら、細かい所で異見を示す『古事記』でさえも、第二の『旧事本紀』と捉えても、根本的な間違いはないのである。・・・・・

 ・・・・・『書紀』と『古事記』の間には、ヤマトタケルをめぐって、異なる見解があった。さらに、『古事記』は重大な異伝を残している。「言向(ことむ)け和平(やわ)す」である。この言葉こそが、まさにヤマトタケルが東国に行った目的を明確に示すものであり、ニギハヤヒの行動と重なる大きな証拠となるのである。

 『書紀』はヤマトタケルの東征目的を、景行天皇の言葉のなかで、次のように語っている。

 「願はくは深く謀(はか)り遠く慮(はか)りて、姦(かだま)しきを探(さぐ)り變(そむ)くを伺ひて、示すに威(いきほい)を以てし、懷(なつ)くるに徳を以てして、兵甲(つはもの)を煩さずして自づからに臣隷(まうしたが)はしめよ。ち言(こと)を巧みて暴(あら)ぶる神を調(ととの)へ、武(たけきこと)を振ひて姦(かだま)しき鬼を攘(はら)へ」

 これによると、まったく王化に従わない蝦夷たちに対し、深謀遠慮をもって威を示したうえで、従う者は徳をもって接して、臣従させなさい。そして、言葉を巧みにあやつって暴ぶる神をしずめ、もし従わなければ武力でもって悪がしこい鬼をうちはらえ、というのである。

 この天皇の言葉に対し、ヤマトタケルは次のように悟っている。

 「往きて其の境に臨みて、示すに徳教(うつくしび)を以てせむに、猶服(まつろ)はざること有らば、ち兵(つはもの)を擧(あ)げて撃たむ」

 つまり、辺境の蝦夷たちに対し、徳をもって接するが、もしこれに従わないのなら、兵をあげてこれを打ち討りましょう、と述べている。

 これに対し『古事記』は、

「東の方十二道(とをまりふたみち)の荒夫琉(あらぶる)神、及(また)摩都樓波奴人等(まつろはぬひとども)を言向け和平せ」

 という景行天皇の言葉と、

 「悉(ことごとく)に荒夫琉蝦夷等(あらぶるえみしども)を言向け、亦(また)山河の荒ぶる神等(ども)を和平して」

 という一節を示している。この問題の「言向け和平せ」について、岩波書店『古事記祝詞』の注釈は「服従しない人々を平定せよ」(下線筆者)とするし、他の『古事記』注釈本も同様の訳をのせる。しかし、「平定」には武力をもって乱を制圧する意味をふくみ、「言向け和平せ」の訳としては不適切である。ここはすなおに、「説得工作をし、和平協定を結んでこい」と訳すべきであろう。事実、ヤマトタケルは『古事記』のなかでは単身東国に向かったのであって、武力平定などできようはずもない。それにもかかわらず、多くの学者が「言向け和平す」を「平定」と訳すのは、『書紀』の記述を意識しているからである。しかし、『書紀』と『古事記』はまったく別の文献である以上、『古事記』に書かれている異伝を、『書紀』にわざわざあわせて訳す必要はない。これはむしろ『古事記』作者の意図するところを、まったく無視することにつながるのである。

▲・・・・・スサノオの乱暴狼籍に怒ったアマアラスが天岩屋戸に籠もってしまった話はあまりに有名であるが、その原因となったスサノオの過失は、すべて稲作に対する妨害行為であった。・・・・・

 ・・・・・稲作を生活の基盤とするアマテラスらの天津神にとって、田を荒らされることは、安定した生活を奪われる最大の罪となったのである。この罪を犯した者がスサノオであった・・・・・

 ところが不思議なことに、全国に散らばる出雲系の神社において、スサノオをはじめ大国主命らは、稲作技術を伝来した福の神として祭られる例が多いのである。

▲このような裏日本の特性を考えてみたとき、朝鮮半島東部や南部(新羅・加耶)に近い出雲の地が、北九州地域にもおとらず、大陸との交流を進める上での一大基地になりうる可能性を秘めていたのである。特に、宍道湖と美保湾との間に内海をもっていたことは、出雲が船着き場としての、最高の立地条件を備えていたといっても過言ではない。

『消された王権・物部氏の謎』

▲たしかに四世紀、東国は激的変化を果たしたが、武力によって制圧された痕跡がなく、それどころか、新たな移住者と先住民のみごとなまでの棲み分けがなされ、この移住者たちの手で、それまで開拓されず手つかずに残っていた場所が、農耕地へと変わっていったのである。

 つまり四世紀、ヤマトと東国は、混乱なき共存を突如はじめたことになる。

 興味深いのは、このような東国の変化について、古代社会のなかで二つの見方がすでに出ていたことである。

 たとえば、『日本書紀』の東国観は、つねに武力支配の対象でしかなかった。ところが、『古事記』の場合、かならずしもそうとはかぎらない。

 最もわかりやすいのは、崇神天皇の孫に当たる第十二代景行天皇が、ヤマトタケルを東国に遣わす場面であろう。

 『日本書紀』によれば、景行天皇は東国に向かうヤマトタケルに対して、次のように諭したという。

 「王化に従おうとしない蝦夷たちに対し、深慮遠謀をもって威を示したうえで、従う者は徳をもって接して臣従させなさい。そして、言葉を巧みに操って暴(あら)ぶる神を鎮め、もし従わなければ、武力をもって悪賢い鬼どもを討ち払え」

 この父の言葉にこたえ、ヤマトタケルは、

 「辺境の蝦夷たちに対し徳をもって接しますが、もしこれに従わないのであれば、兵を挙げて討ち取りましょう」

 と語ったという。

 つまり二人のやりとりは、武力による東国鎮圧もやむをえぬこととしている。

 反対に、『古事記』には、次のような景行天皇の言葉がある。

 「東国の荒ぶる神、またまつろわぬ人々を、言向け和平せ」

 すなわち、東国のまつろわぬ人々を説得し、和平協定を結んでこいと、まったく武力侵攻のにおいを感じさせないのである。

 この二つの文書の異なる見解のどちらが正しかったのか、それは考古学的にはすでに実証されている。

 関東各地の遺跡は、ヤマト朝廷が東国との対決を避け、懐柔と同化によって取り込んでいた事実を物語っているのである。

 しかしここで、一つの疑問が浮上する。

 これまで、ヤマト朝廷の誕生は天皇家の東進、ヤマトの征服であったと考えられてきた。そして、この延長線上にヤマトから先、東国征伐と支配が推理されてきたのである。もちろん、このような考え方は、『日本書紀』が示した図式であり、疑

われることはなかった。

 ところが、東国武力制圧という『日本書紀』の証言が偽証であった可能性が高くなった・・・・・。

行基

『いま蘇る縄文王国の全貌』

▲実際、『古事記』「日本書紀」以前にあった文書が自然に消滅していったのではなく、朝廷の圧力によって没収され抹殺されていったらしいことは、『続日本紀』に残された記事からもうかがえることなのである。

 元明天皇慶雲四年(七〇七)七月、和銅元年(七〇八)正月の条を引用する。

    「山沢に亡命し、軍器を挟蔵(けふざう)して、百日(ももか)首(まう)さぬは、復罪(またつみな)ふこと初(はじめ)の如くせよ」

    「山沢に亡命し、禁書を挟蔵(けふざう)して、百日(ももか)首(まう)さぬは、復罪(またつみな)ふこと初(はじめ)の如くせよ」

 これらの記事は、どちらも恩赦記事とともに登場してくる。

 山や沢に武器を携えて逃げ込み、禁じられた文書を隠し持つ者が百日たっても出頭しない場合は、恩赦のかぎりではない、という脅し文句である。

 慶雲四年、和銅元年といえば、『日本書紀』の撰進される十年ほど前の話なのである。この時期、朝廷から禁じられた文書が実在したこと、しかも朝廷の命に反発し武装して山に落ちのびた人々がいたことに、重大な意味を見出さざるをえないのである。

▲詩人の宗左近氏は、『日本美 縄文の系譜』(新潮選書)のなかで、富士山と『日本書紀』の奇妙な関係を指摘された。すなわち、八世紀初頭に成立した『古事記』や『日本書紀』に“富士山”がまったく登場しないこと、それにもかかわらず、七五九年頃に集成された『万葉集』には、富士が霊峰として華々しく登場しているのはなぜか、と詩人らしい素直な疑問を持たれたのである。

 たしかに奇妙な話で、富士山はアマアラス(天照大神)が祀られる伊勢の海岸線からも見ることのできる山であり、大和朝廷がその存在を知らぬはずはなかったのである。

 たとえば、ヤマトタケル(日本武尊)は大和から東方に蝦夷征伐に向かうが、富士山を左回りにめぐるように歩きながら、富士山についてひと言も触れていない。

 ところが『万葉集』のなかで、富士山は突然。日本の神”とたたえられるのである。・・・・・

 宗氏は、この事態に対し、「・・・・・なぜ、こうなのであろうか。四十年たらずの間に、いったい何か起ったので

あろうか。じつに、謎である」

 としたうえで、ひとつの推理を働かされる。

 すなわち、富士山は東国蝦夷の信奉する山であり、大和朝廷の山ではなかったのではないかというのである。

 そして、・・・・・『万葉集』に詠われた“富士山”の歌は、朝廷の御用歌人が蝦夷の歓心をかうためにつくった老檜な文化工作であったと推理されたのである。

 ・・・・・縄文人の宗教観に注目した場合、富士山の東国に占める重要性は増すばかりである。

 生きとし生けるもの、万物に神が宿るというアニミズム的発想に貫かれた縄文人の宗教観・宇宙観は、やがて多神教という形で神道や日本人に多大な影響を与えたが、元来彼らは自然の驚異におののき、これを厚く祀ってきたといういきさつがある。そのなかでも、彼らは山や巨岩を信仰の対象にしてきたのである。

 山を御神体とし、磐座(いわくら)に注連(しめなわ)を張って神聖視する神道の風習は、遠く縄文人の信仰と深いつながりがあったと考えられるが、この山岳信仰という点にしぽっても、富士山は興味深い。

 この並はずれた秀美な山容を誇る巨大な活火山は、太古の昔から日本に存在したように思われがちだが、地球規模でみたとき、その歴史は意外に浅い。

 今日みられる三千メートルを超える高さと均等のとれた円錐形が完成したのは、今から五千年ほど前、あるいは、最大限に見積っても一万年は下らないとされている。仮に五千年前とすると、まさに縄文時代真っ只中の珍事であり、一万年前としても、縄文時代の初頭ということになる。

 縄文人たちは、大噴火とともに突然出現した巨大で美しいこの富士山という“現象”を、神の仕業以外の何物でもないと考えたであろう。

 事実、富士信仰のメッカ、富士山本宮浅間大社のある静岡県富士宮市には縄文中期の遺跡が残され、富士山を望む台地に環状列石があり、その中心に富士山を型どった石が祀られている。この様子をみても、縄文人にとっての富士山という驚きは、長く語り継がれ信仰の対象になっていたことは明らかであろう。

 まさに富士山は縄文人が“発見”した山であり、縄文人が恐れ敬った山であった。そして、縄文人の末裔=蝦夷たちでさえ、時に火を吹き災害をもたらすこの山を、常に神としてたたえることで、怒りを鎮めようと躍起になったにちがいない。

▲・・・・・『日本書紀』と『古事記』に描かれたヤマトタケル像の差に注目すると、大和朝廷の真の東国政策が垣間見えてくるのである。

 ・・・・・『日本書紀』はヤマトタケルの東国行きを、明らかな武力侵攻であったとする。だが、この『日本書紀』の言い分を素直に受けとめることはできない。なぜなら、征服された東国で、憎いはずのヤマトタケルが神とたたえられ祀られているという不可解な現象が目につくからである。

 ・・・・・謎に対する答えは、どうやら『古事記』に記されたヤマトタケル東征の記述に隠されているように思われる。ここには、『日本書紀』にはみられなかったもうひとつの東国政策が残されていたのである。

 「東国の荒ぶる神、またまつろわぬ人どもを言向け和平せ」や、「ことごとく荒ぶる蝦夷どもを言向け、また山や川の荒ぶる神どもを和平して」といった景行天皇の言葉である。

 ここでは『日本書紀』にあったような武力侵攻の匂いはかけらもない。説得工作を繰り返し、和平協定を結んでこいという穏やかな表現が収録されているのみである。

 一体、『日本書紀』と『古事記』のどちらを信じたらよいのだろうか。一般的には『古事記』に残された“言向け和平す”は正史『日本書紀』の記事を意識して“平定”と訳され、武力支配の要素を捨て去ってはいないが、考古学上の発見と照らしあわせれば、疑わしきは『日本書紀』の記述のほうであることは明瞭なのである。

 逆にいえば、四世紀東国の突発的で混乱なき大和化という謎を解くには、『古事記』の示した東国政策“言向け和平す”こそ、もっとも可能性を秘めたヒントであることに気づかされ、ヤマトタケルが東国の神になった理由も氷解するのである。

▲・・・・・なぜ東国社会は“出雲”と共に“大和”となったのか――。“物部”が“天皇家”と同族であったからではなく、長髄彦と同様“蝦夷”に近い一族であったからではなかったか……。・・・・・

 ただそうはいっても、出雲や大和だけではなく、九州にも深いかかわりを持っていた物部氏を、東国的で蝦夷(縄文)的な人々と捉えることに抵抗を感じる方も少なくないであろう。もちろん、物部氏が純粋な縄文人の末裔であったと断言するつもりはない。しかし、彼らが縄文的な信仰を濃厚に受け継いだ人々であり、より蝦夷的な体質を待った人々だったのではないかと考えるのである。

 たとえば、もっとも早い段階で弥生化か進んだとされる西日本でさえ、弥生人がこの地域の縄文社会を乗っ取ったのではなく、むしろ土着の縄文人が“弥生”を積極的に受け入れ、共存と融合の道を選び取っていたことが、考古学的にも証明されている(『弥生文化の成立』金閣恕/角川選書)。しかも、この過程で、信仰という精神的な営みが、土着的な要素を強く引き継いでいったことなども明らかにされているのである。

 つまり、激しく混血が進む畿内周辺にあって、土着の縄文信仰を守りつつ積極的な“弥生化”受け入れの“核”になったのが物部であったとするならば、大陸的な道教を信奉していたとされる渡来人グループ“倭人”を率いる天皇家からみて、物部氏は東方の蝦夷以外の何者でもなかったはずなのである。

 一方、弥生受け入れに消極的だった東国社会からみて、物部氏は完璧な同族とは思えなかったかもしれない。しかし、縄文の信仰を捨てなかった物部氏に対して親近感は持っていたであろうし、四世紀東国が“大和”を抵抗なく受け入れた理由も、同じ信仰を持つ者の信頼関係であったと考えられるのである。

 つまり物部とは、二つの文化の融合と土着信仰の継承という弥生から大和への歴史の流れの中心に位置していたのであり、彼らのアイデンティティが、日本の土着の風土に根ざしていた可能性は高いのである。だからこそ、彼らが国津神と称され、大和の蝦夷に支えられていたこと、天皇家が彼らを蝦夷とみなしていたことも、自然に納得できてくるのである。

『ヤマトは荒人神の国だった』

▲縄文時代末ごろから弥生時代にかけて北部九州に上陸した渡来人は、在来の人々と混血を重ね、水田稲作文化とともに、東へ向けて移動して行った。

 この結果、日本には、西から東に向かって、なだらかな人種差の地理的勾配が存在することが判明している。それは、特定の肝炎などのウイルスの感染率や、耳垢が乾いているか、湿っているか、血液型のA遺伝子の分布頻度などを科学的に調査する過程で明らかになったことであった。そして、人まかにいうと、西日本が渡来人的で、東日本を奥に進むほど、縄文人的体質をもっていたのである。・・・・・

 このように、西目本に渡来人的体質がより強く残り、逆に東日本では縄文人的体質が強く残って人種差の地理的勾配ができたとしたら、どれくらいの人々が海の向こうからやって来たのかが問題となってくる。

 これを明確な数字で表わしたのが、埴原和郎氏であった。埴原氏は、まず、縄文時代から古墳時代にいたる遺跡の数から割り出される各時代の人口推計をもとに、世界の標準的な農耕民族の人口増加率を当てはめ、縄文人系の集団にどれほどの渡来人が加われば、七世紀の列島の人口、五百四十万人に達するかを試算したのである。

 その結果、縄文人と渡来人の比率は、最大で一対二十五、最小で一対〇・七という数字がはじき出された。そして、この約一千年の間に、少なくとも数十万から百万人程度の渡来人がやって来たというのである。この計算が合っていれば、平均して年に数百万人、多いときで千人単位の人々がやって来て、土着の縄文人と混血を重ねていったことになる。

 この埴原氏の机上の計算が、現実の日本列島の移り変わりを正確に映し出しているかどうか、断言はできない。基礎となった縄文時代の人口の推計が、こののちの発掘の進展で大きく変わる可能性が残されていること、縄文人の数が少し変わるだけで、渡来人との比率が大きく動くからである。

▲・・・・・じつのところ、考古学者の多くは、土着の縄文人が稲作文化を選びとり、弥生という時代を築いていったと考えているのである。

 このことは、考古学的にはっきりわかってきていて、とくに、西日本の縄文人が、自発的に渡来文化を受け入れ、積極的に活勤しないかぎり、西日本の稲作技術の普及の速さは、とても説明ができないからである。

 そして、西日本の縄文人は、渡来文化のおいしいところ、生活文化だけを受け継ぎ、その一方で、アイデンティティーにかかわる伝統を捨てることなく、かなりしたたかに生きていたようなのである。

縄文人にとって、山や川、路傍の石、木や草、生きとし生けるもの、すべてが神であった(アニミズム)。この、「物質にも神が宿る」という発想は、“モノノケ”といえば化け物、幽霊をさすように、“モノ”が霊や神と同義語になっていったことからも察しがつく。そして、このような霊と物という神の両義性は、一方で善と悪の両義性をも内包していたのである。神は人間に恵みをもたらすと同時に、災害や天変地異をもたらす恐ろしい存在でもあった。したがって古代人は、神の崇りを恐れ、その怒りを鎮める祭りを繰り広げたのである。

 このため、モノ=神は、鬼と同義語となり、後世“モノ”といえば鬼そのものをさしていくようになったのである。

▲・・・・・ヤマト入りしたのちの天皇家は、“征服王朝”らしくない。

 ヤマトを守るうえで最もたいせつな軍事拠点で、流通の要である盆地西方の葛城から生駒にかけての山岳地帯を、豪族たちに牛耳られたまま手を出せなかったこと、また、のちに詳述するが、ヤマトを手に入れるほんとうの目的、河内(ナニワ)という古代最大級の“貿易港”を、やはり物部氏が独占していた事実は重大である。

 ・・・・・王を談合によって決めるという穏やかな政治手段は、どうやら日本列島の伝統となっていた気配がないわけではない。

 『魏志』倭人伝は、二世紀末、倭国の王卑弥呼が、多くの国々(国家ではない)の首長たちの手で“共立”、選ばれたのだと証言する。

 したがって、ヤマトの大王・神武も、国津神らの手で“共立”された可能性は否定できないし、のちにふれるように、考古学的にも、神武天皇の武力制圧の線は薄く、“ヤマト”がいくつかの地域の合体であったことが証明されつつある。・・・・・

 『魏志』倭人伝によれば、倭国・西日本の騒乱は、卑弥呼が倭国の王として共立される以前にはじまっているらしいことがわかる。

    その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年とある。また『後漢書』倭伝には、

    桓(かん/後漢第十一代の桓帝)霊(れい/おなじく第十二代の霊帝)の間、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐し、暦年主なし

 とあって、両帝の存在期間は、西暦一四七年から一八八年のことだから、二世紀紀半ばから後半にかけての倭国の騒乱を二つの文書が記録していたことになる。

 こののち、三世紀に入ると卑弥呼が共立され、さらに数十年後、ヤマトを中心にまとまった国が誕生するのだが、その直前、関東地方では、西日本の争乱に遅れるかたちで混乱の時代に突入していたらしい。

 農耕に不便な高台の集落、防御用の諸施設や戦闘の痕跡等が発掘されて、関東は多数の政治・文化圏に分かれて抗争が繰り広げられていたことが明らかになってきた。

 ところが、三世紀後半、ヤマトに王国らしきものが誕生し、四世紀に入ると、関東の姿は激変している。なぜか混乱がおさまり、これと同時にヤマト的な文化・風習が瞬く間に広がっていったのである。

 この関東の変化を考古学では、

    (1)前方後円墳や前方後方墳が出現した。

    (2)土器の地域的特色の影がうすれ、近畿地方に起源をもつものへと斉一(せいいつ)化か進んだ。

    (3)膨大な遺跡の発掘調査によって、三世紀に北陸・東海地方から多くの入植があり、これに続くように、四世紀近畿の人々の大量入植のあったことが判明していること。(『東国と大和王権』原島礼二・金井塚良一編 吉川弘文館)

 の三点に集約している。

 あらためていうと、弥生時代の関東地方では、独自の再葬墓文化をかたくなに守り、また縄文色の強い土器を使用していた。とくに北関東は西日本とは異質の文化圏にあった。

 この、縄文的な関東の激変と急速なヤマト化こそ、ヤマト建国の最も謎めいた部分といっても過言でないのは、ヤマトが関東地方を武力制圧した証拠がどこにも残っていないからなのである。

 それどころか、関東のヤマト化のプロセスは、じつに平和的であったことが明らかになってきている。というのも、関東地方に入植した人々の定住地にはある一つの法則らしきものがあって、それがとても征服とは考えられないのである。

 すなわち、先住民の開拓した地域には手をふれず、それまでの技術では(すでにふれたように、関東地方は稲作技術の後進地であった)開墾できなかった場所に新たな田や畑を設けて棲み着き、棲み分けを果たしていた。しかも、その先進技術が、関東地方に繁栄をもたらすきっかけさえつくっていったというのである。

▲・・・・・スサノオが高天原から下りて来たにもかかわらず、出雲神が天津神ではなく、国津神とみなされるようになったのは、国津神を娶り同化し、国土をいち早く造成していったことと無縁ではあるまい。

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