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参考 : 行基 ~『消された王権・物部氏の謎』より~  

           関裕二 諸著作に『消された王権・物部氏の謎』の抜粋あ

▼鬼僧・行基の活躍

 そこで聖武と鬼の真の関係を知るために、少し行基について考えてみたい。

 行基は晩年、仏教界の最高位、大僧正にまでかけのぽるが、当初、朝廷は彼を徹底的に弾圧していた。

 平城遷都から七年後の養老元年(七一七)四月、行基に対する最初の禁圧が加えられている。『続日本紀』は、

    「官職を設け優秀な人材を登用するのは、愚民を教え導くためであり、法や制度を整備するのは、悪事を禁断するためだ」

 としたうえで、僧尼を統制するための話を記録している。

    「近頃、百姓たちは法律に反き、好き勝手に頭を丸め僧服を着ている。外見は僧侶に似ているが、心に盗人の気持ちをいだくから偽りを生むのであり、邪心が起こるのである。僧尼は本来、寺で静かに教えを受け道を伝えるものだ。乞食する者がいるならば正式な届け出をすませたうえで、午前中に托鉢して食物を乞え。食物以外は禁止する」

 として、いよいよ行基を名指しで責めている。

   「まさにいま、“小僧”行基と弟子どもは、巷に群れ集まり、みだりに因果応報、輪廻転生を説き、徒党を組んで、指に火をつけ臂(ひじ)の皮をはいで写経し、家を訪ねでたらめな説法をしては物を乞い、偽って聖道と称して百姓を惑わしている。この結果、僧も民衆も乱れ騒ぎ、人々は仕事をしようともしない。釈尊の教えに反き、一方で法を破っている」

 というのである。

 しかし、朝廷の脅迫に屈するような行基ではなかった。彼らは集団化し逆に朝廷を脅かす勢力へとのし上がっていったのである。

 天平二年(七三〇)九月二十九日、朝廷はたまりかねて次のようにいう。

    「平城京の東側の山に多くの人々を集めて妖言して人々を惑わす集団がある。多いときには一万人、少ないときでも数千人もいる。これは深く法に違反している。もしこれからも取り締まることなく逡巡していては害となるであろう。今後はそのようなことがないように」

 多いときで一万人、少なくとも数千人が平城京を見下ろす高台で徒党を組むさまは異様な光景である。

“モノ”との共闘を選んだ聖武天皇

 朝廷が行基の集団を弾圧したのは、たんに信徒の数がふくれ上がったという理由だけではない。行基らの集団が奈良王朝の根本・律令制度を否定するかのような行動をとっていたからであった。

 律令が民衆の定住、農地を耕すことを前提につくられ、彼らを“良民”と称し、非定着民を良民の範躊からふるい落としたことはすでにふれたが、行基らの集団こそ、まさに律令の精神を裏切る人々なのであった。

 重い税や労役にあえぎ、また苦しみながらも税を都に運ぶ人々のために、行基は各地に橋を架け布施屋とよばれる救護所をつくり、布教に努めたのであった。

 当然、民衆の支持は高まり、ついには、行基の集団は、朝廷にとって無視できぬ存在となっていった。律令国家の貴重な“資源”である良民たちは、勝手に僧形(そうぎょう/優婆塞〈うばそく〉)となり、農地を捨て漂泊するようになっていったからである。

 朝廷公認の正式な僧であれば、納税の義務は免除されるが、私度僧(しどそう)はそのかぎりではなく、彼らの僧形と漂泊は、朝廷に対する反抗とみなされていくことになる。つまり、彼らの運動が無限に広がれば、律令の根本どころか、国家自体が消滅しかねないほどの重大事だったのである。いわば、中世無縁の人々の発生はここに求められるかもしれない。

 ところが、ある時点を転機に、朝廷の行基らに対する態度は、逆転してしまうのである。

 『続日本紀』天平十三年(七四一)冬十月の条には、奈良の北方木津に橋を架けるのに、畿内と諸国の優婆塞たちを召集し使役したとあり、そこで、彼ら七百五人をすべて正式に僧として認めよう、という記述がある。

 この記事が、天平十二年の広嗣の乱と聖武天皇の関東行幸の翌年であることは注目に値しよう。反藤原を表明し、実権を握った聖武政権が、それまで弾圧していた行基らの活動を、逆に利用しようとしたことは明らかである。

 さらに天平十五年(七四三)十月には、

    「皇帝紫香楽宮(しがらきのみや)に御(おは)しまして、盧舎那の仏像を造り奉らむが為に始めて寺の地を開きたまふ。是に行基法師、弟子等を率ゐて衆庶(もろもろ)を勧め誘(みちび)く」

 とあって、聖武天皇は、大仏を建立するために紫香楽宮に土地を用意し、行基は弟子たちを率いて、人々にすすめ導いた、というのである。

 藤原を捨て、鬼を選んだ聖武天皇。

 五世紀、雄略天皇の登場にはじまった天皇家と“モノ”の一族の歴史は、七世紀に藤原氏の出現によって大きな曲がり角を迎えた。

 一党独裁を目論む藤原氏に反発した天皇家は、ここにいたり“モノ”の一族との共闘を選んだことになる。

 問題はこの転機が、“モノ”の一族や集団にも変化をもたらしていたことであった。

 物部氏や蘇我氏といった“モノ”を代表する大豪族が衰弱し、野に下り潜伏していったことによって“モノ”の闘争は民衆を巻き込んで新たな運動がはじまったと考えられる。そして、この画期的な潮流をつくり出しだのが行基だったのである。

鬼の山・葛城と天皇家の対立

 型武天皇と鬼どもがつくり出した新たな潮流。その真意を知るためのキーワードは、鬼の山・葛城である。 

 葛城と天皇家の歴史には一つの法則のようなものがあって、独裁指向や親百済政策、すなわち私見における二つの日本をつくっていた片割れの天皇家とはすこぶる仲が悪い、ということなのである。そして、このことが、行基と聖武の関係に大きなヒントを与えている。

 そこで、この葛城と天皇家をめぐる法則の例をいくつかあげてみよう。

 時代は五世紀にさかのぼる。独裁指向を目ざした雄略天皇は、多くの皇族を殺し皇位を簒奪するが、その過程で時の権力者・円大臣〈つぶらのおおおみ)を殺害していたことはすでにふれたところだ。円大臣は蘇我系葛城氏であり、名にあるとおり葛城に地盤をもった一族であった。

 こののち、雄略天皇は葛城山とは深い因縁でつながってゆく。

 葛城に狩猟に出かけた雄略は、天皇一行とまったくそっくりな隊列に出くわす。名を問えば、葛城山の神・一言主神(ひとことぬしのかみ)であるという。まるで天皇に対抗するかのような勢いに怒った雄略は、神を土佐の国に流竄(るざん)する。“葛城”受難のはじまりであった。

 七世紀、蘇我氏は天皇家を蔑(ないがろし)ろにし、中国では皇帝にのみ許された“八佾舞(やつらのま)い”をして朝廷を刺激した。この八佾舞いの行なわれたのが、葛城山の高宮であったとされている。蘇我氏の地盤は飛鳥であったが、彼らは本貫が葛城であったと主張している。この直後、蘇我入鹿は天智や鎌足に殺される。入鹿の霊魂が葛城山から飛び立ったとされるのも、理由のないことではなかったらしい。

 ちなみに、蘇我入鹿滅亡に際し、最後まで蘇我を守るうとしたことで知られる東漢(やまとのあや)氏は、壬申の乱に際し天武の武力として活躍しているが、彼らは鬼の国伽耶の小国・安耶(安羅)出身と考えられる。彼らの本拠地もまた、飛鳥檜隈(ひのくま)から葛城にかけての地域であった。

 さて、天武天皇は壬申の乱の直前、吉野に逃れるが、ここで天武を守った鬼が役小角とされている。この伝承が事実かどうか確かめるすべはないのだが、文武二年(六九八)に伊豆に流されてしまった役小角が、少なくとも天武天皇の時代には、朝廷から認められていたらしいことは、

    「初め小角、葛木山(かつらぎのやま)に住みて、呪術を以て称(ほ)めらる」

 と、『続日本紀』にあることで明らかであろう。役小角は持統の登場によって、危険視されていった可能性は高いのである。 

 役小角という修験道の祖が、いったい何者であったのかは定説となるものはない。しかし、葛城を根城に活躍していたこと、土着の賀茂氏と強い関係で結ばれていたことは確かであろう。この賀茂氏は、大物主神の末裔で、三輪氏と同族、物部氏の遠縁に当たっていることを忘れてはなるまい。

 ところで、役小角は鬼神を自在に操った鬼の親分であったが、この葛城の修験道は、神道、道教、仏教などが渾然一体となって成立した宗教で、国家が管理していたわけでもなく、自然発生的に雑草のような力強さで長い間日本に多大な影響を及ぼしてゆくのである。それはまるで、藤原氏によって抹殺された真の神々の呪いのようで、あるいは藤原の築いた苛酷な律令制度に対する民衆の怨嗟の声が、そのまま神に乗り移ったかのようなおどろおどろしさを感じさせる宗教でもある。

 行基が受戒したのは、この葛城の高宮寺で、道鏡もこの地で修行、禅行していたとされ、あるいは玄防もこの流れを汲むのかもしれない。ちなみに、葛城の“高宮”は蘇我氏が八佾舞いをし、祖廟をつくった場所で、いねば、高宮は葛城の鬼の故郷であり、この地で行基が修行し受戒した意味は大きい。

 このような鬼の城で修行した彼らに共通するのは強力な呪験(じゅげん)力であり、この魔力を駆使し、行基は民衆を動かし、玄防、道鏡は権力に近づこうとした。藤原という権力が彼らを警戒したのは当然であったし、つまり、葛城でつながる彼らは、時に権力から弾圧され、権力と闘いつづけたという共通点かある。

鬼が権力者から天皇家を守った!? 

 こうして見てくれば、“葛城”が明確な意志をもって雄略的な天皇家と対立し、藤原氏と対峙したことが判明するのである。

 そして、聖武が大抜擢した行基が、鬼の山・葛城で修行を積んだこと、また同じように、一度は権力の座から引きずり下ろされた物部の末裔・道鏡が葛城を経て復活したことに、深い意味が隠されていたのである。

 民衆は行基の教えに従い、みずからも漂泊することで、藤原律令体制に反旗を翻したのであろう。彼らの活動は、やがて朝廷を震憾させるほどの力をもっていったのである。

 一方、藤原政権に反発するもう一つの鬼・物部は、権力中枢にもぐり込むことで、野望を達成しようとした。彼らの呪験力は、やがて宮中で華開き、道鏡は称徳天皇の病気を治すことで信頼を得、権力の頂点にのぽりつめていったのであった。

 聖武が、行基、玄防、吉備真備という鬼を選んで東大寺を建立し、娘の称徳が道鏡を引き立てたのは、鬼どものつくり上げた反藤原、反権力という大きな潮流を利用したいがためであっただろう。鬼を擁立しようとした宇佐八幡託宣事件の真相は、ほぽこの図式で解明できるはずである。

 ただし、聖武や称徳の目論みや、玄防や道鏡といった物部の末裔の野望は、藤原の壁を乗り越えることなく、失敗し潰え去る。

 しかし、権力と対峙し、身を守るすべを鬼に求めた聖武の発想や、葛城で芽生えた新たな鬼の潮流は、こののちの歴史に重大な影響を落としていったのではあるまいか。すなわち、永続する天皇家を、この鬼たちがつくったのではないか、という疑いである。

 藤原は天皇家の外戚になることで権力を得だのだから、彼らに天皇位をねらう意志はなかったと一般には考えられている。しかし、藤原の子・聖武や称徳の暴走は、彼らに危機感をもたらしたはずである。仮に帝が藤原の子であっても、藤原氏の力が衰えれば、帝は他の勢力に利用されていくこと、天皇が意志をもったとき、藤原には手に負えなくなる場面もありうることを、身をもって思い知らされたからである。

<引用者:行基については、「生駒検定<問3>生駒を愛し今も生駒に眠る偉人」の問題文と解答・解説もご参照ください。>

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