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森浩一 『日本神話の考古学』

(文中の太字は、強調のため引用者がそうしました。) 

 

<はじめに>

▲考古学はそれぞれの地域での大地に密着した学問であり、大地に刻まれ、だき抱えられた遺跡が主たる対象である。遺跡をこわしてしまって、大地から切り離した遺物だけからでは、真実は探りにくい。しかもその大地はどこでも同じではなく、一つ山や川を越したり、海を渡ると様相ががらりと変わることがある

▲ときには、『古事記』や『日本書紀』(以下、『記』『紀』と略す)、さらに『風土記』や『万葉集』についての現代人の注釈のほうが、対象としている土地のようす、とくに土地の変遷についての知識不足で、見当はずれの解釈をしていることがある。そして、そのことが古典の内容は概して曖昧だという先入観を与え、いつしか考古学では神話や伝説とは一線を画し、それについては言及しないことが、“科学的”だという逃避的な現象をも起こさせている遠因の一つとなっている。

第1章 国生み物語と海上交通

<海上交通の拠点>

▲・・・・・『紀』の内容によって先に進もう。男女二神が、(1)淡路洲あわじしま(2)オオヤマト豊秋津洲とよあきづしま(3)伊予二名洲いよのふたなのしま(4)筑紫洲つくしのしま(5)双子の億岐洲おきにしまと佐渡洲さどのしま(6)越洲こしのしま(7)大洲おおしま(8)吉備子洲きぴのこしまの順に生んだのが大八洲国である。このほか対馬嶋や壱岐嶋などの小嶋は、潮や水の泡が固まったもので、二神のまぐわいで生まれたものではない。『記』では、大八島のなかにイキとツシマが入り、さらにオキとサドも別々に扱ったので、越洲が消え、吉備児島と大島は、大八島の後で二神が生んだものとなっている。

▲大八洲あるいは大八洲国とは、漠然と日本列島の主要部とか西日本の大半を指すものだと理解している人もいるだろう。そこで先ほどみた『紀』の本文をもう一度、反芻してほしい。(1)は兵庫県のごく一部の淡路島、(2)は奈良県の主要部、拡大解釈すると、この場合は近畿の主要部(のちの畿内)<引用者:この地図によれば、弥生時代以前、のちの畿内の大部分は海で、陸地はほとんど生駒だけであった(3)は四国島、(4)は全域かどうかは別として九州島とみておこう。残りの四つの洲のうち、(5)は島根県の隠岐諸島と新潟県の佐渡島、(6)はすぐ後で取りあげる越(古志)であって、古代の地域呼称としてはたいへん広大で、福井県東部(越前)にはじまり、石川、富山、新潟、山形の諸県、さらに時代によっては秋田県の南部まで含む大地域である。もちろん今日の地図では、近畿とは地続きであるが、これもこれからしばしば述べるように、古代には船で行けるところは途中が地続きでも、洲(島)として意識されるときがあった。いずれにしても、(5)双子の億岐洲と佐渡洲と(6)越洲とは海上交通を重視しての日本海地域であるが、出雲世界が含まれていないことを奇妙に感じる。ところで一つ、小さなことだが見逃せないことがある。それは越洲、つまり越が『紀』では重要な扱いをうけているのに、『記』にはまったく登場しないことである。すでに述べたように、そのほかの地域では順位は違っても『紀』と『記』の両方にあらわれていて、私にはそれなりの理由があるように思う。いうまでもなく、越とは『紀』に詳しく書かれている継体勢力の発動の地であり、『記』にはそれについての記述のないことはよく知られている。大和政権の王統は武烈でとだえ、そのあと越前の三国(福井県)にいた男大迹おほどが南下して河内の樟葉くずはで即位したのが継体であり、それを新王朝とみる説もある。継体が少しでもそれ以前の大王家の血脈につながるのか否かはともかく、越で勢力をたくわえた、言い換えれば日本海地域にあって新しい国際感覚を身につけた大王だとみてよかろう。つまり『紀』では継体の出自などについて詳しく記述したため、大王になる以前の地盤である越を重視したのであり、それについてはふれなかった『記』では、越の誕生には言及しなかったと考えられる。

▲このように国生み神話では、豊かにして広大な農耕地の広がる平野単位ではなく、ひとまず豊秋津洲を別にすると海上交通によって結ばれ海上交通の拠点となった洲(島)を対象にしていることは明らかである・・・・・。

第2章 黄泉の国の世界

<海船の遡る川>

▲イザナキ・イザナミ男女二神は大八洲国おおやしまのくにを生んだ後、海・川・山の順で生み続け、さらに木と草を生み、そののちに日の神オオヒルメ(天照大神アマテラスオオミカミ)、月読尊ツクヨミノミコトさらにスサノヲ尊ミコトのいわゆる三貴子を生んだ。・・・・・『記』では二神が生んだ島は百十四になっている。現在の日本列島には六千八百五十二(海上保安庁調べ)の島があって、このうち四百二十五の島々に人びとが住んでいる(国土庁調べ)。これには沖縄県や北海道など、『記・紀』の対象外の島々も含んでいるから、百十四の島というのは、古代における主要な人間の舞台となった島の数であろう。なんでもないことだが、大八洲国の後で海・川・山の順で生み続け、国土が彩られていくことは注目に値する。つまり普通ならば、海・山・その後で川、あるいは山・川・海の順で記述しそうなものであるが、どうして海・川・山の順になったのであろうか。前章で繰り返し述べたように、国生みの神話には、海人の目と頭、いわば海人の常識が前提となって展開した部分がさまざまあったけれども、海・川・山の記述の順もその例になると思う。明治時代以後の鉄道網が整備されてからの地理的感覚とは追って、古代、中世さらには近世においても各地の海の港(津)が拠点になり、その海の港の付近に河口をもつ河川を利用して、内陸の奥深くまで船運が開かれていた。紀貫之の『土佐日記』をみても、土佐(高知)から太平洋岸ぞいに大阪湾に入った海船がそのまま淀川を遡り山崎まで到達しているし、戦後の文献史上の大収穫といわれている『兵庫北関入船納帳ひょうごきたせきいりふねのうちちょう』をみても、瀬戸内海各地から兵庫北関(神戸港)を経て難波津に至る船のかなりの数は、そのまま淀川を遡って淀(与等)まで至っている。淀は、南山城の木津川(古代の泉河)、上流は瀬田川として近江に至る宇治川、上流は丹波に至る桂川の合流地にあって、桂川を隔てて山崎がある(引用者:Kodaikinaimiyako1右の地図<クリックで拡大>ご参照)。このことは、弥生土器に描かれているの絵、形埴輪、円筒埴輪や古墳の壁に描かれたの線刻画なども、海岸ぞいの遺跡よりむしろ内陸の河川ぞいの遺跡のほうに多いことからも、うかがうことができる。代表的な例をあげるならば、初瀬川と寺川にはさまれた奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡の弥生土器や円筒埴輪、桂川流域の京都府長岡京市の雁子岳古墳の円筒埴輪、大和川を見下ろす大阪府柏原市の高井田横穴の壁画、あるいは竹野川ぞいの京都府弥栄町のニゴレ古墳の船形埴輪などの船が名高い。つまり古代人にとって、海と川とは切り離すことのできないほど、交通手段としては連動したものであった。

第9章 “神代三陵”と隼人文化

<南九州と天皇家の遠い祖先>

 ・・・・・大和の天皇や皇后たちは、わずかの例外を除くと、海を越えない人たちであった。その意味では、ウガヤフキアエズノ尊と海神の娘・玉依姫との間に生まれた四人の男子のうち、長子(五瀬命)はいずれ扱うことではあるけれども大阪湾で命を失い、次男(稲氷命/いないのみこと)は「妣(はは)の国として海原に入り」、三男(御毛沼命/みけぬのみこと)は「海の穂、つまり波を踏んで常世の国に渡る」などの行動をしている。これらの海原や常世の国についてはさまざまな解釈があるけれども、新羅や南中国(華南)とみる説があり、私も異郷の地説が妥当であると考えている。つまり彼らは、航海者であったり、ときには海戦の指揮者として登場しているのである。

第10章 船団による移動

 <九州より大和へ>

 ▲『古事記』や『日本書紀』の全体の構成のなかで、南九州にいた天皇家の先祖だちと、いわゆる大和朝廷時代の天皇家の先祖だちとをつなぐ事件として重要なのが、「神武東征」とか「神武東遷」と上ばれている大移動の物語である。この大移動の物語では、宮崎、大分、福岡、広島、岡山、大阪、和歌山、三重などの府県の地名がつぎつぎにあらわれ、最後に大和を平定し、建国したストーリーになっている。・・・・・この南九州から近畿への東征の物語がなければ、『記・紀』の構成上では、大和での朝廷は生まれ得ないのである。太平洋戦争後の考古学では「神武東征」についてほんのわずかでもふれる研究者があると、「科学的でない」として非難の雨が集中した。そのため、しだいに事件としての「神武東征」だけではなく、考古学的な資料の整理の結果として導きだされた「九州の勢力あるいは文化の、大和など近畿への東伝あるいは東進」についてふれようとすることにも、ためらいがみられるようになった。・・・・・しかし、そういうためらいを捨てて、虚心に神話・伝説と考古学の接点を探るべき時期であろう。イワレ彦の物語について、まず私か重要と思う項目は次の点てある。・・・・・(3)天皇の違い先祖の物語が主として展開するのは、南九州でも鹿児島県、とくに薩摩半島南部であった。だが、イワレ彦勢力が「東に美うまき地がある。(そこは)青山が四周する」として船団を率いて出発したのは、その後の寄港地からみて、東シナ海に面した薩摩半島ではなく、太平洋に面した日向国とみられる。・・・・・

 

第12章 河内の“湾岸戦争”から熊野への迂回

<河内平野の古地図>

 吉備の高島で最後の準備を整え、大和の攻略に向かった神武天皇(以下、イワレ彦という)の軍勢が、最初に大和のナガスネ(長髄)彦の軍勢と戦うのは、生駒山の西のふもとのクサカ(草香)、今日流にいえば河内平野東部の東大阪市日下町である。 

 現在の地形では、瀬戸内海を東に進んで大阪湾に入ると、大阪港があり、あとは延々と陸地が続いて生駒山のふもとに至っているので、イワレ彦の物語を読むさいに、イワレ彦の軍勢は船を降りて陸路をとり、クサカで大和の軍勢と戦った状況と思いがちである。だが物語のうえでは、そうではない。 

 『記』では、ナニワ(浪速)の渡を経てさらに船で進み、ナガスネ彦の軍勢と遭遇したとき、「船につんでいた盾を取り出したので、その地を盾津と呼んだ」という。『紀』では地形の描写はもっと細かく、難波の碕に至ると急流に出遣い、浪が速いというので浪速とよぶようになり、難波という別の表現もできたといっている。イワレ彦の軍勢は、この急流を遡って河内のクサカに至り、戦っている。 

 このように『記・紀』のいずれもが、今日の大阪市北部のあたりから、そのまま船に乗って生駒山麓に至ったと述べている共通点がある。このことは、これから述べる河内平野の地形復元の成果と一致しており、イワレ彦の物語は、少なくとも古地形と矛盾しない形で展開している。 

 永禄八年(一五六五)、ポルトガルの宣教師ルイス・デ・アルメイダが生駒山のふもとを旅行した。目的はキリシタン大名三箇殿(さんがどの)の居城を訪れるためである。アルメイダは、ここに南北約一〇キロ、幅約二・五キロの湖があって、その湖のなかに島があり、そこに三箇殿の城と教会があると述べている。

 アルメイダの旅より百年あまり後の元禄二年(十六八九)に、生駒山のふもとを旅行した貝原益軒は、深野池という南北二里(八キロ)、東西半里~一里(二~四キロ)の湖状の地形があり、三ケという村には七、八十戸の漁家があり、さまざまな淡水魚をとって大坂に売っている。またハス、ヒシなどの湖の植物をも食用にしていることなどを述べている(『南遊紀行』)。 

 河内平野にあったこの湖が完全に姿を消すのは、太平洋戦争後の埋め立てによってであり、時代をさかのぼればさかのぼるほど湖の範囲は広く、今日の新大阪駅の北方に大阪湾へ通ずる水路があった。この湖は、縄文時代晩期か弥生時代前期には一部に海水がまじる潟であり、さらに「縄文海進」の言葉で知られている、海域が大きく陸地にくいこんだ縄文時代前期には、湾といえる状況であった。これらのいまはもうなくなった水域を、地理学では河内湾河内潟河内湖と呼んでいる。 

 これを逆に時代を追っていえば、河内湾の時代から河内潟の時代があり、ほぼ弥生時代以後は河内湖の時代が続き、古墳時代後期ごろには、湖から海への直接の出口がなくなって、江戸時代には深野池と呼ばれていたのである。

Morikawachiko

5~6世紀ごろの河内平野 

 日下雅義「大地の変貌と古代人の造営」(『日本の古代 5 前方後円墳の世紀』中央公論社)をもとに作成。 

 上の地図でわかるように、堺市の北部から北方へと長~約一二キロの上町台地が細長く延びている。この台地の上に住吉神社、四天王寺、難波宮、のちの時代でいえば石山本願寺や大坂(阪)城などがあり、政治・軍事・信仰などできわめて重要な土地であることがわかる。この台地は、高いところで海抜二五メートルにすぎないが、地層が固く、東方に展開する河内湖(それ以前は潟や湾)の水は、ここを突破して大阪湾に排出されることはなく、台地の北端、千里丘陵との間にある幅二キロ前後の水道によって、大阪湾に注いでいたのである。 

 上町台地の北端は、地上ではほぼ大阪城のあたりで終わっているけれども、固い地層はさらに延び、その上に砂州か形成され、前述のように新大阪駅付近にまで達している。実際、新幹線の工事にさいして、新大阪駅の地点で古代の土器が出土している。弥生時代から古墳時代にかけては、時代によって多少地形は異なるが、このあたりを難波の碕とよんだのであろう。 

 河内湖には、河内に降った雨水のすべてが集まるだけではなく、近江と山城のすべての水、そして丹波・伊賀・大和・摂津の水の一部も集まるから、たいへんな水量である(現在の大和川は江戸時代の掘削である)。したがって大雨にさいしては、しばしば湖の周辺が被害を受け、東大阪市の瓜生堂や八尾市の亀井にある弥生遺跡などは、洪水で大きな被害を受けた状況がみられた。 

 このように河内湖に集まるのは、近畿地方全体の三分の一くらいの面積が受ける雨水であるが、それを排出する海への出口は、先ほど述べたように上町台地によって狭められており、さらにこの部分に土砂が堆積しやすいから、川でいえば瀬の状態に近く、渇水の時期は別にして、『紀』が述べていたような急流となり、浪が迷いという実感を与えたのであろう。『記・紀』が描くその情景は、明らかに現在の大阪湾のものではない。 

  このようにイワレ彦の物語は、河内平野の古地形に即して展開していることがわかる。これについては、『記・紀』の編者たちが古地形やそれについての伝承に留意すれば、このような描写も可能になるという見方も、当然生まれるであろう。だが、そう考えるになお一つの問題がある。河内平野の古地形の研究に精力的に取り組んだ梶山彦太郎、市原実の両氏は、古代の河内湖の時代をIとⅡに分けた。両者を分けるのは、大川(淀川)の形成である。 

 今日、大阪市の中央を流れる大川は、自然の流路ではなく、人工的に掘削されたか、あるいはよほどの洪水のときに一時的に水の流出した跡を、人工的に水路として整えたものと推定されている。この大川の出現によって、河内湖の水が安定して大阪湾へ排出できるようになった。梶山・市原両氏が河内湖を前後の時期(Ⅰ期・Ⅱ期)に分けたのは、この大川の出現の重要性を考えたからである。 

 上町台地を東西に開削したこの工事は、両氏によって五~六世紀ころにおこなわれたと推定されている。古墳時代に河内平野の南方で、誉田山古墳や大山古墳などの、代表的な巨大前方後円墳が造営されるが、それを支えた上木技術は、このような長年にわたる水との戦いによって、鍛えられたのかもしれない。 

 大川の役割は、たんに河内湖の水を安定して排出するだけではない。人工的な運河をつくることによって、河口港の機能がここに集められたのである。江戸時代には、各藩の蔵屋敷が大川の川岸に密集しているし、大坂城や石山本願寺もこの南岸にある。学徳天皇(在位六四五~六五四年)の難波宮や、五~六世紀の大倉庫群(難波官下層遺跡)も南岸にあるし、縄文時代後期から弥生時代にかけての大遺跡として知られている森の宮貝塚も、難波宮と重複している。さらに、まだ若干の論争はあるにしても、奈良時代の難波津の位置は、大川の岸か、あるいは上町台地西方に形成された帯状の潟(横堀川として名残をとどめている)の、大川と交差するあたりと推定されている。 

 イワレ彦の物語では、河内平野の古地形が十分に把握されているにもかかわらず、大川はまったくあらわれない。もしイワレ彦の東征の伝承があったのであれば、河内湖Ⅱの時期のものではなく、それ以前の地形で語られているとしなければならない。

 

<クサカ争奪戦の意味>

 

 イワレ彦とナガスネ彦は、生駒山の西、クサカの地で戦った。クサカについて、『紀』では草香邑(くさかのむら)としている。町村合併で日下町となる以前の礼舎衛(くさえ)村には日下集落があり、ここには縄文晩期と古墳時代中期などの遺物を出す日下貝塚がある。付近には弥生時代の鬼虎川(きとらがわ)遺跡、西ノ辻遺跡、鬼塚遺跡などが散在し、生駒山脈西麓での遺跡の集中地帯の一つである。また、束に山越えをして大和に至る道(直越)の出発点であり、山麓の道を北にとると、継体大王の樟葉宮に至るなど、陸上交通の要地でもある。『紀』で地名のあとに「邑」がついている場合、そこにはしばしば弥生時代か、その前後の大遺跡がある。つまり草香邑の場合も、架空の土地が物語の舞台になったのではなく、そこで物語りが展開してもおかしくない土地が登場しているのである。・・・・・漢字で日下とある場合、ヒノモトと読める。中世の古文書では、ヒノモトについて日本と日下の両方の表記がある。難波宮のある上町台地から見ると、太陽が出るのは生駒山の上、つまり日下の方向である。イワレ彦の軍勢とナガスネ彦の軍勢が最初に争奪をするのが日下であることは、たんに交通の要地をめぐる争奪ではなく、太陽信仰の重要地の争奪だったと私はみている・・・・・。

 

<イワレ彦の上陸記念祭>

 

 ・・・・・『紀』では、丹敷浦での戦いののち、土地の神の毒気にあたって、人・物ことごとく瘁(お)えた、とある。気力と体力を失ってしまうことである。その後、さまざまな対策が講じられたあと、イワレ彦の軍勢は船を捨てて、険しい山道を行く徒歩の軍勢に変身をしている。常識的にいえば、熊野灘を北上し、伊勢湾に入って、さらに櫛田川などの河川を遡れば容易に大和に近づけるのに、どうして船を捨てたのであろうか。物語のうえでは、もちろん当時はまだ伊勢神宮はないけれども、のちにアマテラス大神を祀るべき上地としての伊勢を、戦いの舞台からはずしていると私は考えている・・・・・。

 

第13章 ウダでの山地戦から大和平定へ

 

<吉野の「尾のある人」>

 

 ・・・・・イワレ彦の行程が『記・紀』によってまったく逆になっていることがわかる。整理すると次のようになる。

 

  『記』 熊野→宇智→吉野→ウダ

 

  『紀』 熊野→ウダ→吉野→宇智

 

隈どりする久米びと

 

 ・・・・・私の推察によると、イワレ彦勢力には水戦を得意とする集団と、陸戦を得意とする集団とが存在していた・・・・・。

 

最後の決戦に迫力なし

 

 イワレ彦は、大和の南部を制圧した後、前に河内のクサカで大敗を喫したナガスネ彦と雌雄を決することになるはずである。ところが『記・紀』ともにナガスネ彦との戦いの場面よりも、他の豪族との戦いが詳しく述べられている。ウダのエウカシ、忍坂(おしさか)の大室(おおむろ)のヤソタケル(八十建)、磯城に勢力をはっていたと推定されるエシキなどとの戦いである。『記』は、トミ彦(登美毘古、ナガスネ彦の別名)を討とうとしたときにできたといわれる歌(これにも「久米の子等が」と、久米人が歌われている)は載せているけれども、トミ彦との戦いの場面はない。「紀」には、戦前よく紹介された金色のトビ(錫)があらわれ、イワレ彦の軍勢を勇気づけたという話はでてくるけれども、他の豪族との戦いに比べると、まるで臨場感がない。このように、イワレ彦の東征の物語の最後を飾るべきはずのナガスネ彦との戦いの状況があまり語られていないのは、不思議なことである。

 

 この問題にからんで見逃すことができないのは、ニギハヤヒ(饒速日または邇芸速日)命の存在である。ナガスネ彦側には、イワレ彦と前後するようにして(実際はかなり以前という印象を受ける)九州から天磐船に乗って移住してきた天神の子ニギハヤヒ命が加わっていた。ニギハヤヒは、ナガスネ彦の妹(ミカシキヤ〔三炊屋〕)姫またはトミヤ〔登美夜〕姫)を

 

めとり、子供をもうけていた。それがウマシマデ(可美真手)命である。『記・紀』によって表現は異なるが、これらの父子が物部氏の遠祖である。

 

 イワレ彦とナガスネ彦とのやりとりで注目されるのは、イワレ彦が「本当に天神の子であれば、それを証明する表物(しるしもの)があるだろう」と言うくだりである(『紀)。このとき、ナガスネ彦が天羽羽矢(あまのははや)一隻(ひとは)と歩靫(かちゆき)をイワレ彦に示すと、イワレ彦側も同じ種類の品物を見せ、同族であることを確認しあっている。この場面から推定すると、同じ天神族とはいえ、顔を合わせ言葉を交わしただけで同族とわかったわけではない。常識的な推定では、かなり以前に移住したのか、あるいは同じ邑の出身の人ではなく、同族としても離れた土地の人であったのであろう。

 

 物語の展開のうえでは不自然な部分もあるけれども、この場合は矢の入れ物である靫とそれに納めていたと推定される複数の矢とが、同じ集団に属していることを証明する品々であった。靫というのは矢の入れ物であるけれども、鋭い鏃を上にして矢を納める武具で、威嚇用の性格があったと推定されている。埴輪では、五世紀の大型古墳によく使われており、六

 

世紀にも各地の埴輪や福岡県八女市の岩戸山古墳の石入に見ることができる。置くこともできるし、背負うための幅の狭い帯状の布がついているので、武人が背負って歩くこともできる。

 

 『紀』では、イワレ彦とは別の天神族であるニギハヤヒ命に仕える(あるいは協力関係にある)ナガスネ彦の苦しい立場がよく描写されている。しかし、すでに戦闘状態に入ってしまったので、戦いを止めることはできなかった。結果的にはニギハヤヒ命の離反によって、ナガスネ彦は、今回は簡単に敗北し、中洲(なかつくに)、つまり大和の主要部が平定され、イワレ彦は、畝傍山の東南にあたる橿原(白檮原/かしはら)に都をひらいたという物語の展開になっている・・・・・。

 

<東征以来の“宿敵”物部>

 

 ・・・・・考古学的にみても、弥生時代には北部九州から南九州、日本海方面、瀬戸内海から近畿地方などへ、稲作の技術とか銅鏡や銅銭など、さまざまの文物が伝播する。このような伝播は一度におこなわれたのではなく、いくつもの波があった。もちろん、技術や文物の伝播と表現する陰に、人間の移住・移動があったことはいうまでもない。ニギハヤヒとイワレ彦の物語にも、このような時を隔てての広義の同族の移動がうかがえる・・・・・。

 

<おわりに>

 

▲・・・・・オホド(男大迹)王(のおおきみ)、つまり継体天皇は、・・・・・越前(『古事記』では近江)から河内と山背(やましろ)を経て、最後に大和の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)に都を定めている。イワレ彦は西から東へ、オホドは北から南へと行動の違いはあるけれども、畿内以外から出発をして、最後に大和に入った点が、イワレ彦の物語の骨格に通じるものがあると私は感じている。

 

▲本書では国生み神話に始まり、イワレ彦の東征までを扱ったけれども、六世紀前半の継体天皇の越からの河内・山背・大和入りの出来事やその人物像あるいは婚姻関係が、さかのぼってイワレ彦の物語の構成に影響を与えているのではないかと考えるにいたった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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