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梅原猛『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』

「縄魂弥才」ということ

 日本の支配者は、この稲作農業民の子孫であり、彼らは土着の縄文人と混血したとはいえ、「自分は外来者である」という意識を失わなかった。それが『記紀』において「天ツ神か国ツ神を征服する」という思想になるわけである。

 このようにみると、日本の文明は、縄文的なものと弥生的なものの二つから成り立っているように思われる。政治的に日本の支配者になったのは、弥生の稲作農耕民の子孫であり、彼らは外来者としての、おのれの血の意識の上に立って外来文明を尊重した。弥生時代以来、彼らは権力の印を、むしろ外来文明のシンボルである銅鐸や銅鏡に求めたのである。彼らの才能はたしかに弥生的であり、外来的である。しかし彼らの魂の根底には、縄文的なものがあると思われる。「魏志倭人伝」は、三世紀の日本の姿を語るが、他の国には類例を見ない、中国本土では思いもよらない政治形態を語っている。それは女王卑弥呼による、まったく呪術をもとにした政治形態である。日本の多くのところで出土する魏の鏡が示すように、当時の日本は、魏の国から多くの知識を学び、その魏の製品を権力のシンボルにしながら、その宗教は、その魂は中国的ではなく、まったく土着的であったのである。この土着的なものこそ、むしろ縄文の魂ではないであろうか。

アイヌ文化と縄文文化

 ・・・・・『日本書紀』以来、代々の日本の歴史書には、蝦夷が登場する。蝦夷は古くは蝦夷(えみし)とよばれ、後に蝦夷(えぞ)とよばれるが、それはほば同じものと考えてよいであろう。・・・・・稲作農業文明をもってきた倭人(わじん)の到来によって土着日本人は蝦夷となり、また、この渡来人たちの国家建設と、日本征服の結果、蝦夷の住処(すみか)はだんだんと少なくなり、ついに北海道の一角に追いやられた者がアイヌになったと考えて、さしつかえないのではなかろうか。

奥州の中心地・平泉

 ・・・・・ついに十世紀ごろになると、団結ということがはなはだ苦手な蝦夷が、安倍頼時のもとで一大勢力に結集されるのである。そこで朝廷は、源頼義を陸奥守鎮守府将軍に任じ、安倍一族を滅ばすことを命じるのである。ついに義家は康平五年(一〇六二年)に、出羽の豪族清原武則の助けによって、安倍頼時の子、貞任、宗任を撃ち破った。これは、日本史における画期的な事件であると私は思う。蝦夷文化の最後の代弁者、安倍氏は滅んだのである。

俘囚の民

 安倍氏が滅んだ後にも、その一族は十三湊に逃げて、安東(あんどう)氏を名乗る。安東氏は鎌倉時代には、執権北条氏の直轄領である得宗領の代官となり、蝦夷管領と称した。また、この安東氏の一族が秋田氏を名乗った。この安倍氏の系図のひとつである『藤崎系図』なるものには、安倍氏は『新撰姓氏録』の語るように、大毘古(おおひこ)命の子、建沼河別(たけぬなかわわけ)命の子孫ということになっているが、同時にそれとちがう伝承を記している。神武天皇東征に手向かい、そして滅ぼされた長髄彦の兄に、安日王(あびおう)という者があり、その安日王の子孫が安倍氏になり、秋田氏になったという。また、新井白石の『藩翰譜(はんかんふ)』には、この二つの系図の矛盾を解消しようとするかのように、安倍氏の祖先は長髄彦の兄、安比王(あんぴおう)であり、安比王は津軽に流罪されたが、その子孫の安東氏が建沼河別の東征に功績があり、安倍の姓を許されたとされている。『藤崎系図』や『藩翰譜』に書かれている安倍氏の系譜伝承は実に興味深いのである。この中世の日本列島の最北端に覇をとなえた安倍氏や安東氏は、こともあろうに、自分は長髄彦の血を継ぐ者と宣言していたのである。

 この安日王の話が真実であるかどうかはわからない。そういうことがあったともいえないかもしれないが、なかったとも断言できないのである。『記紀』において、長髄彦ははっきりと大和の原住民であった。その長髄彦は、神武天皇すなわち神日本磐余彦(かんやまといわれびこ)よりいち早く大和にきていた物部氏の祖先である饒連日命とともに、この地方を統治していた。おそらく長髄彦は、縄文土着の民であり、饒連日は弥生渡来の民であったにちがいない。おそらく弥生中期ごろまで、このような土着縄文民と渡来弥生民との協力からなる権力が、この地を治めていたのであろう。しかしこの権力は、南九州からやってきたはなはだ武力の優れた弥生民によって征服された。ここに、大和朝廷の基礎がつくられるわけである。おそらく新たに渡来した農耕民は、同血のよしみゆえであろう、饒速日は許して家来にしたが、長髄彦は殺してしまう。しかし、長聡彦の仲間がすべて殺されたとは思わない。もしも長髄彦に兄があり、それが逃げたとすれば、やはり東へ逃げるより仕方がないのである。そしてその子孫が、大和朝廷の何度かの蝦夷征伐によって、東へ北へと逃げ、ついに北の果てまで逃げていったということがあったとしても、不思議ではないように私には思われる。

 この話は、まったくのつくり話かもしれない。しかしこの話は、北辺に住む人間の、ひとつのはっきりした自己主張を物語っているように思われる。自分たちは弥生渡来民によって征服された縄文土着民の血を引いている。そういう話は、おそらくこの北辺の地で、代々伝えられた伝承であり、この安東氏は表には『新撰姓氏録』によって、大毘古命の子孫といいながら、裏では長髄彦の子孫という伝承をもち続けたにちがいない。そして、このような二重の自己意識はひとり安東氏のものではなく、その祖の安倍氏のものでもあったにちがいない。

津軽人の自尊心

 『津軽』はやはりひとつの小説であり、大宰の故郷にたいする自己の態度表現の書であると思うが、大宰はここで津軽人について、まことに的確な指摘をしている。太宰によれば、津軽の人はどんなに勢い強き者にたいしても、「彼は卑しき者なのや、ただ時の運の強くして、時勢に誇ることにこそあれ」として、従わないというのである。この地方出身の陸軍大将の一戸兵衛閣下は、帰郷のときには必ず、和服にセルの袴をはいていたという。もし将軍の軍装で帰郷したならば、郷里の人たちは目をむき、肘をはり、「彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして……」などといって従わないからであるというのである。

 この津軽人の自尊心は、多かれ少なかれ東北大全体に存在するのかもしれない。それはいったい、なにからくるのか。大宰はそれを説明しないが、もしも私のここでの説が正しいとしたら、それは東北人、特に津軽人の胸に秘められた過去の素晴らしい縄文文化への無意識の記憶からくるということになる。

地にあるものたちへの共感

 ・・・・・アイヌでは、動物はもちろん植物すらも人間と同じものなのである。動物も植物も、本来その魂は天の彼方のどこかにいて、そこでは人間と同じような生活をしているのである。たまたま彼らの魂は、このわれわれの住む地上にやってきた。そこで彼らは、仮に動物や植物の形をとっているにすぎない。これは驚くべき思想であるように思われる。パンティズムというよりは、パンヒューマニズムというべきかもしれない。とすれば植物は、仮に植物の姿をとった人間といえるかもしれないし、人間は、仮に人間の姿をとった植物といえるかもしれない。この考え方は、地にあるもの、すなわちすべての生きとし生けるものの一方に植物をおき、その一方に人間をおく考え方であるように思われる。そして、その原初は自らの仲間であり、自らの祖でもある植物の生命力を崇拝し、そしてその力を借りようとするのである。

美意識と倫理の違い

 ・・・・・縄文人にとって、嘘は悪どころか、本来、それは不可能なものである。

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