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梅原猛 『神々の流竄』  

               (文中の太字は引用者による。)

出雲神話の舞台は出雲ではない

 ・・・・・真理の発見は、仮説の提出によって行なわれるというのが、ポアンカレ(一八五四-一九一二)の説である。

出雲大社の完成は記紀の成立に重なる

 ・・・・・専ら大きな建造物として古墳のみをつくった日本人の造形意志が、寺院や、神社や、宮殿へと向ったのは、むしろ七世紀以後なのである。七世紀以前に、出雲大社のような建物が、杵築地方に建てられるという可能性は、地理的にも歴史的にもはなはだ少ない。

鏡の祭祀に征服された銅鐸の祭

 こうしたスサノオの性格は、一言にしていえば、二重スパイである。彼は天孫族と出雲族の間をウロウロして、あるときはこちらに、あるときはあちらにつく。このような人間は、じっさい、歴史上、多くいたにちがいない。歴史上にこれを求めると、どういうことになるのか。

 古事記においてニギハヤヒノミコト、日本書紀ではクシタマニギハヤヒノミコトといわれる人間がいる。彼は天孫族であるが、神武帝より早く大和へ来て、ナガスネヒコと共に大和地方を統治していた。そしてナガスネヒコの妹、ミカシキヤヒメをめとっていた。このニギハヤヒノミコトが、ナガスネヒコと神武帝の戦いにおいて、戦局利あらざるを見て、ついにナガスネヒコを殺し、神武帝の下に帰順したというのである。書紀には次のようにある。

 「且夫(またか)の長髄彦の稟性愎性佷(ひととなりいすかしまにもと)りて、教ふるに天人(きたたみ)の際(あひだ)を以てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。其の衆(もろびと)を帥(ひき)ゐて帰順(まつろ)ふ」

 古事記では、何故かこのことは、はっきり書かれていない。

 「故爾(かれここ)に邇芸速日命参赴(まゐおもむ)きて、天つ神の御子に白ししく、『天つ神の御子天降り坐(ま)しつと聞けり。故、追ひて参降(まゐくだ)り来つ。』とまをして、即ち天津瑞(あまつしるし)を献(たてまつ)りて仕へ奉りき」

 ここでは、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺したことははぶかれている。そして「天津瑞」を献ったというが、それが何であるか分らない。しかし、この事件が神武帝の大和政権にとって、決定的な事件であったことはたしかである。(引用者:決定的な事件でありながら、あやふやな記述しかされていないことが注目される)古事記はこの言葉の後に、実はこのニギハヤヒが、物部氏や穂積氏などの祖であることを語って次のようにいう。

 「如此荒夫琉神等(かくあらぶるかみども)を言向(ことむ)け平和(はや)し、伏(まつろ)はぬ人等(ひとども)を退(そ)け撥(はら)ひて、畝火(うねび)の白檮原(かしはらの)宮に坐しまして、天(あま)の下治(したし)らしめしき」

 つまり、このニギハヤヒのナガスネヒコ殺害によって、長期にわたる天孫族と出雲族との戦いは終結したのである。荒ぶる神はかくて退治されたのである。

 もう少し大胆な推理が許されるならば、スサノオはニギハヤヒのイメージであり、オロチはオオクニヌシのイメージであった。そしてかのナガスネヒコこそ、正にオオクニヌシノミコトの正当な後継者として、神武帝の侵入以前の大和の支配者であった のである。このナガスネヒコを、ニギハヤヒが、二重スパイに似た天孫族のニギハヤヒが、計略を用いて殺したのである。そしてこの殺害によって、正に天下は治まり、出雲族は敗北したのである。それは、単なる一人の人間による一人の人間の殺害ではない。それは同時に神の殺害なのである。オオクニヌシノミコトの殺害なのである。オオクニヌシノミコトを信ずる出雲族から支配権を奪うことは、オオクニヌシという神の殺害に外ならない。

 このように考えるとき、三種の神器の秘密をとくことも出来ると思う。鏡が、神器の第一であったのは当然である。それは、天孫族の皇位継承のしるしである。考古学の成果は、北九州にいた種族が、いかに鏡を大切にしていたかを、明らかに示す。立岩(たていわ)や平原(ひらばる)の鏡を伴った墓が、いったい何世紀のものかは分らないが、九州地方には、早くから鏡を宝とする種族がいたのであろう。私は、津田左右吉のように神武東征の説を全くの架空のものと考えず、歴史的事実を反映していると思うものであるが、そういう鏡を宝とし、それを皇位継承のしるしとする北九州の天孫族が、銅鐸の祭をしていた出雲族の故郷なる大和に、なぐりこみをかけたのであろう。そして九州政権、天孫族の勝利が、記紀の語る神武帝の東征の話と考えられる。

 こうして正に、鏡は天孫族の皇位継承のしるしである。そして剣は何か。この剣は、ヤマタノオロチの尾から出たのである。私の以上の説によれば、ヤマタノオロチは三輪山であり、従ってその剣は、三輪山のふもとにいた出雲族の長であるナガスネヒコが、出雲政権の後継者のしるしとして持っていたものであろう。この剣は、草薙の剣として、今も熱田神宮にあるものであるが、徳川時代の神主が内緒で見たところ、次のようであったという。

 「御神体は長さ二尺七八寸許り、刃先は菖蒲の葉なりにして、中程はむくりと厚みあり、本の方六寸許りは節立て、魚など背骨の如く、色は全体白し」

 どうもこれを読むと、やはり銅の剣であったようである。つまり、ナガスネヒコは、大和地方を支配する王位のしるしとして、銅剣を持っていたのであろう。そしてナガスネヒコは、二重スパイ、ニギハヤヒに殺され、ニギハヤヒは、その王位のしるしを、神武帝に奉ったというのであろう。神武帝は、その剣をうることによって、大和地方の王者のしるしを得たのである。彼は、鏡によって天孫族の王位継承者であることを示し、剣によって、出雲族の王位継承者であることを示すものであろう。こうして、二つの神器を所有することによって、彼は名実ともに日本全国の支配者になることが出来たのである。

 玉についてはどうか。私は『古語拾遺』の、神器はむかしは二種であったという説の方をとりたいが、玉は日本民族にとって、さまざまな意味をもつ宝であった。それは一つには、もちろん装飾品であった。そしてその王の産地は、越の国の小滝川(おたきがわ)の下流(新潟県)であったらしい。その硬玉がどんなに古代民族にとって大切にされたか。越の国の重要性は、主としてこの硬玉と関係をもつらしい。しかもこの玉は、古代人にとって、一つの宗教的シンボルでもあった。王は魂とも関係をもつのである。特に勾玉(まがたま)は、もっとも神秘な形をした玉であった。この玉の崇拝はかなり古いのであろう。いずれにしても、玉は、三種の神器の三番目の神器である。それは鏡や剣とは少しちがった意味をもつ神器であろう。

 このように考えると、われわれの仮説によって、三種の神器の秘密も解けたようである。尚もう一つ、つけ加えよう。ヤマタノオロチを切った剣は、その後どうなったのか。それは、書紀によれば、今、石上神宮にあるという。石上神宮は、物部氏の根拠地である。そしてその神宮は、フツの神を祭るという。フツは、剣の振りをいうのである。このことは、私の仮説をいっそう強めるであろう。ニギハヤヒがナガスネヒコを斬った剣が、ニギハヤヒの子孫である物部氏のところにあり、そこで宝物として貴ばれているのである。それは、まことに筋が通っている話である。

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