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神武天皇聖蹟調査報告(編集:文部省/1942年)<抜粋>  

18.鵄(とび)の邑(むら)

 神武天皇聖跡鵄の邑は、奈良県生駒郡にあって、その地域は北倭(きたやまと)村および富雄(とみお)村にわたる地方と認められる。

 「日本書紀」によれば、鵄の邑はもと邑の名を長髄(ながすね)といい、神武天皇はすでに諸族を平定し、ついに戊午年(つちのえうまのとし/即位前三年、紀元前六六三)十二月皇軍を率いて先に孔舎衛(くさえ)の坂において天皇を拒んだ長髄彦(ながすねひこ)の軍を討伐したところである。はじめ皇軍は苦戦を重ねたが、ときにたちまち天が曇って氷雨(ひさめ/雹)がふり、金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて天皇の弓の弭(はず)にとまった。その鵄の光は稲妻のように照り輝いたので、賊軍はみな目がくらんで戦うことができなくなってしまった。こうして時の人は皇軍が鵄の瑞兆を得たことにちなんで、長髄の邑の名をあらためて鵄の邑と名付けたが、後に訛って鳥見というようになったとある。 

 「日本書紀」によれば、鵄の邑(鳥見邑)はもと長髄といい、長髄彦は長髄邑、すなわち後の鵄の邑に磐踞(ばんきょ)していたものであって、神武天皇はこれをその根拠地で撃ったと考えられる。

 大和国内で古く「トミ」と言われた地は、今の磯城(しき)郡と生駒郡との二カ所にある。前者は大和平野の東南隅に、後者はその西北隅に位置し、整然と対称的な位置を占めている。いま磯城郡についてみると、城島(しきしま)村大字外山(とび/旧外山村)付近は江戸時代以来鵄の邑の故地として注意されてきたが、戊午年(つちのえうまのとし)十二月長髄彦の軍討伐のさいには、天皇はすでに今の宇陀郡、吉野郡地方から磯城郡地方を平定していたのであるから、長髄邑(鵄の邑)を外山付近とする事は不当である。したがって鵄の邑は生駒郡内の「トミ」の地にこれをあてるべきであろう。またこれより先、天皇が難波の崎を経て河内の国の盾津(たてつ)に上陸し、胆駒(いこま)山をこえて中州(なかつくに)に入ろうとしたとき、長髄彦が孔舎衛の坂において阻止したことからみても、大和国の西北部、河内国に接するこの地方に鵄の邑をもとめるのは至当である。

 「万葉集注釈」に引かれた「伊勢国風土記」に、「はじめ天日別(あめのひわけ)の命は、神倭磐余彦(かむやまといわれひこ)の天皇(すめらみこと/神武天皇)が、あの西の宮からこの東の洲(くに)を征したとき、天皇にしたがって紀伊の国熊野の村にいたった。ときに金の烏(からす)の導きにしたがって中州に入り、菟田の下県(しもつあがた)にいたった。天皇は大部(おおとも)の日臣命(ひおみのみこと)に「逆賊、胆駒の長隋を早く征ちころせ」と命じた。」とあるのは、その傍証とすることができるであろう。

 生駒郡中、旧添下(そうのしも)郡の地内に属するおよそ北倭(きたやまと)村、富雄村の両村にわたる地方は、古来鳥見、登美といわれたところであって、「続日本記」和銅七年(714)十一月の条に、「大倭(やまと)の国添下郡の人、大倭忌寸果安(やまとのいみきはたやす)、添上(そうのかみ)郡の人、奈良許知麻呂(ならのこちまろ)、有智(うち)郡(宇智郡)の女、日比(四比(しひ)の誤りか)信紗(しなさ)に対し、それぞれ終身その租税負担を免除した。それによって孝行と節操を表彰したのである。果安は父母に孝行をつくし、兄弟に親しみ、もし病気や飢餓で苦しんでいる人があれば、自分で食料を用意して訪ねて行って、これらの人々を看病したり食事を与えたりした。登美(とみ)・箭田(やた)二郷の人々は、ことごとくその恩義に感じて、果安を敬愛することが親に対するようである。」とあるのをはじめとし、以後平安、鎌倉、室町、安土、桃山、江戸の各時代を通じて、鳥見庄或いは鳥見谷など、「トミ」ととなえられた証拠があり、その地内を貫流する富雄川も、もと富河または鳥見川とよばれていたのである。

 すなわちこの地方は皇軍が兇族の首長長髄彦の軍を撃破した古戦場として、由緒のきわめて深いところといわなければならない。なおこの地域の中で、金の鵄の印があらわれた地点については、近年北倭村大字上のとび山をあげるものもあるが、地名にもとづく憶測にすぎない。

 地は大和の国の西北部に位置し、東は大和平野との間に丘陵地帯が横たわっている。西は松尾山脈によって天野川、生駒川の流域の地と接している。南は郡山町付近においてわずかに大和平野につらなる。北倭村北部の山間に源を発する富雄川は両村のだいたい中央部を南へ貫流して、その流域に狭長な平地がつづき、おのずから南北に長い一境地を画している。

 古くこの域方はいつに鳥見谷ともよばれていたが、よく地形の特徴をあらわしている。そして生駒山脈は天野川、生駒川の流域の地を隔てて南北に連なり、その山容を望むことができる。生駒山脈を越えて河内の国に通ずる山路のうち「直越(ただごえ)」は古来著名である。天皇がはじめ胆駒山を越えて中洲(なかつくに)に入ろうとした意図もしかるべきことと察せられる。

備考

 つぎの地は、神武天皇聖跡鵄の邑として調査の結果、その証拠が十分でなく、聖跡の箇所と決定しがたかったものである。

一、奈良県磯城(しき)郡城島(しきしま)村

  大字外山(とび/旧外山村)付近は、古く「トミ」といわれた地であって、元禄年間に記された貝原益軒の「和州巡覧記」に「昔の名長須根(ながすね)村は、長髄彦の住んだところという」とある。また「神武巻藻塩草」などにおいて、その地名にもとづき鵄の邑に擬されたが、すでに述べたように、「日本書記」によれば、このとき天皇はすでにこの地方に拠っていた兄磯城らを誅伐しており、この地一帯は皇軍の手中にあったのであるから、鵄の邑の地となすのは適当ではない。

保存顕彰施設

 神武天皇聖跡鵄の邑の保存顕彰施設については、その実施箇所として、奈良県生駒郡北倭村において、富雄村との村境に近い大字上(かみ)字峰ノ浦にある富雄川左岸の高所を選定し、そこに顕彰碑を建設して、碑の表面には、「神武天皇聖跡鵄邑顕彰碑」 裏面には、「神武天皇戊午年(西暦紀元前六六三)十二月皇軍ヲ率ひきヰテ長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラレタリ時ニ金鵄ノ瑞ヲ得サセ給ヒシニ因リ時人其ノ邑ヲ鵄邑ト称セリ聖跡ハ此ノ地方ナルベシ」(戊午年・つちのえうまのとし(西暦紀元前六六三)瑞・みず)と刻することとし、その意見を紀元二千六百年奉祝会に回付した。よって同会は、これにもとづきその地に西南に面して標準型顕彰碑のやや縮小したるものを建設する事を決定し、工事はその施工を同会から奈良県に委嘱し、昭和十五年(1940)十二月着工、翌十六年四月に竣工した。

(『季刊邪馬台国』82号より)

歴史倶楽部・ANNEX「饒速日尊墳墓を探して」ご注意:クリックするとサウンドが流れます)より転載

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