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古事記(現代語訳)  

 <『古事記 全訳注』(講談社学術文庫)より引用>

上卷 天照大御神と須佐之男命

三 天あめの石屋戸いはやど

 これを見て、天照大御神は恐れて、天の石屋の戸を開いて中におこもりになった。そのために高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて暗闇となった。こうして永遠の暗闇がつづいた。そしてあらゆる邪神の騒ぐ声は、夏の蠅のように世界に満ち、あらゆる禍がいっせいに発生
した。このような状態となったので、ありとあらゆる神々が、天の安河やすのかわの河原に会合して、タカミムスヒノ神の子のオモヒカネノ神に、善後策を考えさせた。そしてまず常世とこよの国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、次に・・・・・。

 <注>常世 永遠の世界の意で、海の彼方にある、生命の根源世界とされた異郷。 長鳴き鳥 声を長く引いて鳴く鶏のこと。息の長い鳥であるから、常世の鳥としたのである。鶏の声は、邪気を祓はらい太陽を呼ぶとされた。

○中巻 神武天皇

一 東遷

 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト/のちの神武天皇)は、その同母兄の五瀬命(イツセノミコト)と二柱で高千穂宮におられてご相談になって、「どこの地にいたならば、安らかに天下の政を執り行なうことができるだろう。やはり東の方に都の地を求めて行こうと思う」と仰せられて、ただちに日向(日向・大隈・薩摩の三国にあたる)から出発して筑紫国においでになった。そして豊国の宇沙に到着された時、その国の住民の、名を宇沙都日比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)という二人が、足一謄宮(あしひとつあがりのみや)を作って御食膳を献(たてまつ)った。そこからお遷(うつ)りになって、筑紫の岡田宮に一年間滞在された。またその国からお上りになって、安芸国の多ケ理宮に七年間おいでになった。さらにその国から遷り上られて、吉備の高島宮に八年間おいでになった。

 そしてその国から上って来られたとき、亀の甲に乗って釣りをしながら、両袖を振ってやって来る人に、速水門(はやすいのと/豊予海峡)で逢われた。そこで呼び寄せて、「お前はだれか」とお尋ねになると、「私は国つ神です」とお答え申しあげた。また「お前は海路を知っているか」とお尋ねになると、「よく存じています」とお答え申しあげた。また「私に従ってお仕えするか」とお尋ねになると、「お仕えいたしましょう」とお答えした。そこで棹をさし渡し、その御船に引き入れて、槁根津日子(サヲネツヒコ)という名をお与えになった。この人は大和国造らの祖先である。

 さてその国から上って行かれたとき、浪速渡(なみはやのわたり)をへて白肩津(しろかたのつ/現在の東大阪市日下町付近にあった船着場)に船をお停めになった。このとき、登美<トミ/古代の鳥見郷(とりみのさと)、すなわち現在の奈良市富雄町あたりの古名>の那賀須泥毘古(ナガスネビコ)が軍勢を起こして、待ちうけて戦った。そこで、御船に入れてあった楯を取って船から下り立たれた。それで、その地を楯津といった。今も日下の蓼津とよんでいる。こうして登美毘古(トミビコ/登美の那賀須泥毘古のこと)と戦われたとき、五瀬(命は、御手に登美毘古の手痛い矢をお受けになった。そこで五瀬命が仰せられるには、「私は日の神の御子として、日に向かって戦うのは良くなかった。それで、賤しい奴の矢で重傷を負ったのだ。今からは遠回りをして、日を背に負うて敵を撃とう」と誓い、南の方から回ってお進みになったとき、血沼海(ちぬみのうみ/和泉の国和泉郡の海)に至って、その御手の血をお洗いになった。それでその海を血沼海という。そこからさらに回って進まれ、紀伊国の男之水門(おのみなと/現在の大阪府泉南市の船着場)に至って仰せられるには、「賤しい奴のために手傷を負うて死ぬことか」と雄々しくふるまって、お亡くなりになった。それで、その水門を名づけて男の水門という。御陵(みはか)は紀伊の国の竃山(かまやま)にある。

二 布都御魂(ふとのみたま)と八咫烏(やたがらす)/兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)

 

 <引用者:伊波礼毘古命の戦いが記述されている。その相手の居住地と名は次の通り。>

   熊野の山の荒ぶる神、宇陀の兄宇迦斯・弟宇迦斯の兄弟

四 久米歌※

      ※大嘗会(だいじょうえ/天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭)などの宮廷儀礼の際に、久米舞を奏するときに楽師の歌った歌である。しかしもともとこの歌は、久米氏の集団が歌い伝えた戦いの歌であって、戦いの前後の酒宴でうたわれたものであろう。

 そこからお進みになって、忍坂(おさか/現在の桜井市忍坂)の大室(おおむろ)にお着きになったとき、尾の生えた土雲(つちぐも/「土蜘蛛」とも記す/大和朝廷に従わなかった地方の土豪・首長を賤しんで呼ぶ)という大勢のつわものが、そのが、その岩屋の中で待ち受けて、うなり声をあげていた。そこで天つ神の御子(伊波礼毘古命)のご命令で、御馳走を大勢のつわものに賜わった。このとき、多くのつわものに当てて多くの料理人を用意して、一人一人に大刀をはかせ、その料理人たちに教えて、「歌を聞いたら、いっせいに斬りつけよ」と仰せになった。そこで、その土雲を討とうとすることを示した歌は、

   忍坂の大きな土室に、人が数多く集まってはいっている。どんなに多くの人がはいっていても、勢い盛ん久米部の兵士が、頭椎(くぶつち/柄頭が槌の形をしている大刀/「い」は接尾語)の大刀や石槌の大刀でもって、今撃ったらよいぞ。

 このように歌って、大刀を抜いていっせいに打ち殺してしまった。

 その後、登美毘古を討とうとされたとき、歌われた歌は、

   久米部の者たちの作っている粟畑には、臭気の強い韮(にら)が一本生えている。そいつの根と芽といっしよに引き抜くように、数珠つなぎに敵を捕えて、撃ち取ってしまうぞ。

 またお歌いになった歌は、

   久米部の者たちが垣のほとりに植えた山椒の実は辛くて、口がひりひりする。われわれは、敵から受けた痛手を忘れまい。敵を撃ち取ってしまうぞ。

 またお歌いになった歌は、

   伊勢の海の生い立つ石に這いまつわっている細螺(しただみ/小型の巻貝)のように、敵のまわりを這い回って撃ち滅ぼしてしまうぞ。

 また兄師木・弟師木(エシキ・オトシキ/現在の奈良県磯城地方の豪族の兄弟)をお討ちになったとき、命の軍勢はしばし疲れた。そこでお歌いになった歌は、

   伊那佐の山(現在の榛原町の南の伊奈佐山のこととされている)の山の間を通って行きながら、敵の様子を見守って戦ったので、われわれは腹がへった。鳥養部(うかいべ)の者どもよ、今すぐに助けに来てくれ。

 さて、ここに邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)が、伊波礼毘古命のもとに参上して、天つ神の御子に申しあげるには、「天つ神の御子が天降って来られたと聞きましたので、あとを追って天降って参りました」と申して、やがて天つ神の子であるしるしの宝物を献って、お仕え申しあげた。そして邇藝速日命は、トミビコの妹の登美夜毘売(トミヤビメ)と結婚して生んだ子が宇麻志麻遅命(ウマシマヂノミコト)で、この人は物部連(もののべのむらじ)・穂積臣(ほずみのおみ)・うねめの臣の祖先である。さて、このようにして伊波礼毘古命は、荒ぶる神たちを平定し和らげ(引用者:この部分は原文では「言向(ことむけ)平和(やわし)」)、服従しない人たちをを撃退して、畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや/畝傍山の東南の橿原に営まれた宮殿)において天下をお治めになった。

〇中巻 仲哀天皇

二 神功皇后の神がかりと神託

 皇后が神がかりして、神託で教えさとして仰せられるには、「西の方に国がある。その国には、金や銀をはじめとして、目のくらむようないろいろの珍しい宝物がたくさんある。私は今、その国を服属させてあげようと思う」と仰せになった。ところが天皇がこれに答えて申されるには、「高い所に登って西の方を見ると、国土は見えないで、ただ大海があるだけだ」と申されて、いつわりを言われる神だとお思いになって、お琴を押しやってお弾きにならず、黙っておられた。するとその神がひどく怒って仰せられるには、「だいたいこの天下は、そなたが統治すべき国ではない。そなたは黄泉国よみのくにへの一道ひとみちに向かいない」と仰せになった。そこでタケシウチノ宿禰すくねの大臣が申すには「おそれ多いことです。わが天皇様よ、やはりそのお琴をお弾きなさいませ」と申し上げた。そこで天皇がそろそろとそのお琴を引き寄せて、しぶしぶお弾きになっていた。ところがまもなくお琴の音が聞こえなくなった。すぐに火を点ともして見ると、天皇はすでにお亡くなりになっていた


三 神功皇后の新羅遠征

 そこで皇后は、すべて神が教えおさとしになったとおりにして、軍勢を整・え船を並べて海を渡って行かれたとき、海原の魚はその大小を問わずことごとく御船を背負って渡った。そのとき追い風が盛んに吹いて、御船は波に従って進んでいった。そしてその御船の立てる波は、新羅の国に押し上かって、すでに国の半分にまで達した。そこで新羅の国王が畏れをなして申すには、「今後は天皇の御命令のとおりに従い、妙が球となって、毎年船を並べて、船の腹を娠かすことなく、棹や揖を乾かすことなく、天地のつづく限り怠ることなく、貢ぎ物を献ってお仕え申しましょう」と申し上げた。
 こういうわけで、新羅国は馬飼とお定めになり、百済国は海を渡った地の屯倉とお定めになった。そこで皇后は御杖を新羅の国王の家の門に突き立て、そして住吉三神の荒御魂を、国をお守りになる守護神として鎮め祭って、海を渡ってお還かえりになった。


四 忍熊王おしくまのみこの反逆


五 気比大神けひのおほかみ


○中巻 応神天皇

六 百済の朝貢

 この天皇の御代に・・・・・また新羅の人々が渡米した。そこでタケシウチノ宿禰すくねノ命みことがこれらの人々を率いて、渡わたりの堤池つつみのいけ(引用者:渡来人用の貯水池)として百済池くだらのいけを作った。また百済の国王の照古王は、牡馬おすうま一頭と牝馬めすうま一頭をアチキシに託して献った。また昭古王は、大刀と大鏡とを献上した。また天皇は百済国に、「もし百済に賢人がいたら献るように」と仰せになった。そこで勅みことのりを受けて献った大の名はワニキシという。そしてただちに『論語』十巻と『千字文』 一巻と、合わせて十一巻をこの人に託してすぐに献上した。・・・・・また技術者の韓国系の鍛冶かじしの名は卓素たくそという人と、また呉国ごのくに系の機織はたおりめの西素さいその二人を献上した。
  また秦造はたのみやつこの祖先や漢直あやのあたいの祖先、および酒を醸かも技術を心得ている人で、名はニホという人、またの名はススコリという人たちが渡来した。そしてこのススコリはお酒を醸して天皇に献たてまつった。すると天皇は、この献上したお酒でよい気持に酔って、お歌に仰せられるには、
  ススコリが醸したこのお酒に、わたしはすっかり酔ってしまった。災いをはらう酒、心が楽しく、笑いたくなる酒に、わたしはすっかり酔ってしまった。(五〇)
このように歌って、お出かけになった・・・・・。
 
八 天之日矛あめのひほこの渡来

 また昔、新羅の国王くにぬしの子で、名はアメノヒホコという者がいた。この人がわが国に渡って来た。渡来したわけはこうである。新羅の国に一つの沼があって、名は阿具奴摩あぐぬまといった。この沼のほとりに一人の賤しずの女が昼寝をしていた。このとき太陽の輝きが、虹のように女の陰部を射した。また一人の賤の男がいて、その有様を不審に思って、いつもその女の行動をうかがっていた。するとこの女は、その昼寝をした時から妊娠して、赤い玉を生んだ。そこでその様子をうかがっていた賤の男は、その玉を所望してもらい受け、いつも包んで腰につけていた。
 この男は、田を谷間に作っていた。それで耕作する人夫たちの食料を一頭の牛に負わせて谷の中にはいって行くとき、その国王の子のアメノヒホコに出会った。するとヒホコがその
男に尋ねていうには、「どうしておまえは食料を牛に背負わせて谷にはいるのか。おまえはきっとこの牛を殺して食うつもりだろう」といって、すぐその男を捕えて牢屋に入れようと
した。その男が答えていうには、「私は牛を殺そうとするのではありません。ただ農夫の食料を運ぶだけです」といった。けれどもヒホコはやはり赦ゆるさなかった。そこで男は、その腰につけた赤玉の包みを解いて、その国王の子に贈った。
 それでアメノヒホコは、その賤の男を赦して、その赤王を持って来て、床のそばに置いて
おくと、玉はやがて美しい小女おとめに姿を変えた。それでヒホコは少女と結婚して正妻とした。そしてその少女は、常々いろいろのおいしい料理を用意して、いつもその夫に食べさせた。ところが、その国王の子は思いあがって妻をののしるので、その女が言うには、「だいたい私は、あなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます」といって、ただちにひそかに小船に乗って逃げ渡って来て、難波なにわに留とどまった。これは難波の比売碁曾ひめごそ神社に坐いますアカルヒメという神である。
  そこでアメノヒホコは、その妻の逃げたことを聞いて、ただちにその跡を追って海を渡って来て、難波に着こうとしたところ、その海峡の神が行くてをさえぎって難波に入れなかった。それで、またもどって、但馬国たじまのくにに停泊した。ヒホコはそのまま但馬国にとどまり、但馬のマタヲの女むすめのマヘツミという名の人と結婚して、生んだ子がタヂマモロスクである。この人の子はタヂマヒネであり、その子はタヂマヒナラキである。この人の子は、タヂマモリ、次にタヂマヒタカ、次にキヨヒコの三人である。このキヨヒコが、タギマノメヒと結婚して生んだ子が、スガノモロヲ、次に妹のスガクドユラドミである。そして上に述べたタヂマヒタカが、その姪のユラドミと結婚して生んだ子が、葛城かずらきのタカヌカヒメノ命である。この人はオキナガタラシヒメノ命みことの御母である。


○下巻 雄略天皇

二 若日下部王わかくさべのみこ 

 初め大后の日下に坐しし時、日下の直越の道より河内に幸行いでましき。こここに山の上に登りて国内くぬちを望めば、堅魚かつおを上げて舎屋(引用者:この2字で「や」と読む)を作れる家ありき。続き(リンク)

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