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先代旧事本紀(現代語訳)  

<『現代語訳 『先代旧事本紀』(Web site「天璽瑞宝〈あまつしるしのみずたから〉」)より引用させていただきました>

(*)序…(引用者:序は、後世に追記されたもの)

 大臣蘇我馬子宿祢らが、勅をうけたまわって撰修したてまつる。そもそも、『先代旧事本紀』は、聖徳太子がかつて撰ばれたものである。ときに小治田豊浦宮で天下を治められた推古天皇の治世二十八年春三月五日、摂政の上宮厩戸豊聡耳聖徳太子尊が編纂を命じた。大臣蘇我馬子宿祢らは、よく先代旧事、上古国記、神代本紀、神祇本紀、天孫本紀、天皇本紀、諸王本紀、臣連本紀、伴造・国造・百八十部の公民本紀を記せ、という勅をうけたまわって撰定した。つつしんで勅により、古い文献に従い、太子が導き手となって解釈と説明をしたが、記録し撰修することがいまだ終わらないうちに、太子はお亡くなりになった。編纂は中断し、続けることができなかった。このような経緯により、かつて撰定された神皇系図一巻、先代国記、神皇本紀、臣・連・伴造・国造本紀の十巻を、名づけて『先代旧事本紀』という。いわゆる『先代旧事本紀』は、天地開闢より当代までの過去について述べたものである。漏れた諸皇王子、百八十部の公民本紀は、さらに後の勅を待って編纂するべきである。ときに、推古三十年春二月二十六日のことである。・・・・・。

(1)巻第三 天神本紀
①饒速日尊、葦原の中国に降臨す

 天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。

 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。

 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。

 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。

 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」

これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。

 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」

 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

 天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連(おわりのむらじ)らの祖。天鈿売命(あまのうずめのみこと)猿女君(さるめのきみ)らの祖。天太玉命(あまのふとたまのみこと)忌部首(いむべのおびと)らの祖。天児屋命(あまのこやねのみこと)中臣連(なかとみむらじ)らの祖。天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。天道根命(あまのみちねのみこと)川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。天神玉命(あまのかむたまのみこと)三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。天椹野命(あまのくぬのみこと)中跡直(なかとのあたい)らの祖。天糠戸命(あまのぬかとのみこと)鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。天明玉命(あまのあかるたまのみこと)玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。天牟良雲命(あまのむらくものみこと)度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。天背男命(あまのせおのみこと)山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。天御陰命(あまのみかげのみこと)凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。天造日女命(あまのつくりひめのみこと)阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。天世平命(あまのよむけのみこと)久我直(くがのあたい)らの祖。天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。天背斗女命(あまのせとめのみこと)尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)間人連(はしひとのむらじ)らの祖。天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。天三降命(あまのみくだりのみこと)豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。天日神命(あまのひのかみのみこと)対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。乳速日命(ちはやひのみこと)広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。八坂彦命(やさかひこのみこと)伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。伊佐布魂命(いさふたまのみこと)倭文連(しどりのむらじ)らの祖。伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。活玉命(いくたまのみこと)新田部直(にいたべのあたい)の祖。少彦根命(すくなひこねのみこと)鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。事湯彦命(ことゆつひこのみこと)取尾連(とりおのむらじ)らの祖。八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。天下春命(あまのしたはるのみこと)武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。月神命(つきのかみのみこと)壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。

 また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。

 物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。

 五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。

 二田造(ふただのみやつこ)。大庭造(おおばのみやつこ)。舎人造(とねりのみやつこ)。勇蘇造(ゆそのみやつこ)。坂戸造(さかとのみやつこ)。

 天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

 二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

 船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。

 船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)。

船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)。

 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日尊は亡くなられた。その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)に仰せになった。「私の神の御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。だから、お前は天降って復命するように」このようにご命命になった。速飄神は勅を受けて天降り、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで、天に帰りのぼって復命して申しあげた。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄の神を遣わし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれた。そして天上で葬った。

②天の稚彦<略>

③国譲り<略>

④大国主神を封じ祀る<略>

⑤天忍穂耳尊、天降る準備をする

 <略>

 太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の娘の万幡豊秋津師姫命(よろずはたとよあきつしひめ)、またの名を栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)を妃として、二柱の男児をお生みになった。兄は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。弟は、天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)

(2)巻五 天孫本紀

①饒速日尊、葦原の中国に死す

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。またの名を天火明命(あめのほあかり)、またの名を天照国照彦天火明尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)、または饒速日命という。またの名を胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)

 天照孁貴(あまてらすひるめむち)の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊をお生みになった。天照太神と高皇産霊尊の、両方のご子孫としてお生まれになった。そのため、天孫といい、また皇孫という。

 天神の御祖神は、天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を饒速日尊にお授けになった。そうしてこの尊は、天神の御祖先神のご命令で、天の磐船に乗り、河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。さらに、大倭(やまと)国の鳥見(とみ)の白庭山へ遷った。天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。いわゆる、天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られ、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。

 これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば味間見命(うましまみのみこと)と名づけなさい。もし女子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけなさい」産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。

 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。

 饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。

②天の香語山命

 饒速日尊の子の天香語山命。[天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たかくらじのみこと)という]。この命は、父の天孫の尊に随従して天から降り、紀伊国の熊野邑にいらっしゃった。

 天孫・天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊(いわれひこのみこと)が、西の宮から出発して、みずから船軍を率いて東征されたとき、ご命令にそむくものが蜂のように起こり、いまだ服従しなかった。中つ国の豪雄・長髓彦(ながすねひこ)は、兵をととのえて磐余彦尊の軍をふせいだ。天孫(磐余彦)の軍はしきりに戦ったけれども、勝つことができなかった。

 先に紀伊国の熊野邑に至ったとき、悪神が毒気をはき、人々はみな病んだ。天孫はこれに困惑したが、よい方法がなかった。高倉下命はこの邑にいて、夜中に夢をみた。

 天照大神が武甕槌神(たけみかづちのかみ)へ仰せになった。「葦原の瑞穂国は、聞くところによるとなお騒がしいという。お前は出かけていって、これを討ちなさい」武甕槌神は答えて申しあげた。「私が出向かずとも、私が国を平らげたときの剣を下したならば、自然に平定されるでしょう」そうして高倉下命に語っていった。「我が剣の韴霊の剣を、いまお前の家の庫(くら)の内に置いておく。それをとって、天孫に献上するように」

 高倉下命は、このように夢をみて、「おお」といって目が覚めた。翌日、庫を開けてみると、はたして剣があって庫の底板に逆さまに立っていた。そこで、それをとって天孫に献じた。そのとき天孫はよく眠っておられたが、にわかに目覚めていわれた。「私はどうしてこんなに長く眠っていたのか」ついで毒気に当たっていた兵士達も、みな目覚めて起きあがった。

皇軍は中つ国に赴いた。天孫は神剣を得て、日に日に威光と軍の勢いが増した。高倉下に詔して褒め、侍臣とした。

③尾張氏の系譜

 天香語山命は、異腹の妹の穂屋姫(ほやひめ)を妻として、一男をお生みになった。

 <略>

④宇摩志麻治命

 天香語山命の弟、宇摩志麻治命。または味間見命といい、または可美真手命(うましまでのみこと)という。

 天孫天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊は、天下を治めようと思われて、軍をおこして東征されたが、所々にご命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中つ国の豪族・長髄彦は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴し、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、「天神の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない」といい、ついに兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍は連戦したが、勝つ事ができなかった。

 このとき、宇摩志麻治命は伯父の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。そうして衆を率いて帰順した。

 天孫は、宇摩志麻治命に仰せになった。「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」

 そして特にほめたたえ、神剣を与えることで、その大きな勲功にお応えになった。この神剣は、韴霊(ふつのみたま)剣、またの名は布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神というのがこれである。

 また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊にお授けになった天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれて、さらに寵愛を増された。また、宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて国内を平定して復命した。

 天孫磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮殿を造られた。辛酉年の一月一日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位につかれた。この年を、天皇の治世元年とする。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。

 宇摩志麻治命がまず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾を立てて斎き祭った。五十櫛という、または斎木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。そうして、天つしるしの瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。「殿内の近くに侍りなさい」(近く殿の内に宿せよ〈すくせよ〉)そのためこれを足尼(すくね)と名づけた。足尼という号は、ここから始まった。

 高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率い、天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。天児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申しあげた。宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾を立てて厳かでいかめしい様子をつくった。道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なことを伝えられた。

 ときに、皇子・大夫たちは、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。このように都を建てて即位され、年の初めに儀式をするのは、共にこのときから始まった。

 宇摩志麻治命は十一月一日の庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこのときに始まった。天皇は宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の亡父の饒速日尊が天から授けられてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りとせよ」いわゆる“御鎮祭”がこれである。

 およそ、その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と大きな声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことをいう。

 治世二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」

 この日、物部連らの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は、ともに食国の政事を行う大夫に任じられた。その天日方奇日方命は、皇后の兄である。食国の政事を行う大夫とは、今でいう大連・大臣にあたる。

 そうして宇摩志麻治命は、天つしるしの瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、石上の大神をお祀りした。詳しくは以下に述べる。

⑤物部氏の系譜(一世~七世孫) <略>

⑥物部氏の系譜(八世~十七世孫)<略>

(3)巻六 皇孫本紀

①瓊々杵尊降臨

 (略)天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)は天降って、筑紫の日向の襲の槵触二上峯にいらっしゃった。(略)

②木花開耶姫          <略>

③山幸彦と海幸彦

 彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)は、天孫・天津彦々火瓊々杵尊の第二子で、母は大山祇の娘の木花開姫である。(略)

④ウガヤフキアエズノミコト誕生

 (略)彦波瀲武鸕草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、天孫・彦火々出見尊[また火折尊ともいう]の第三子である。母を豊玉姫命という。海神の上の娘である。豊玉姫命の妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)を立てて皇妃とされた。すなわち、海神の下の娘で、鸕草葺不合尊の叔母にあたる。四人の御子をお生みになった。子の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)[賊の矢にあたって亡くなった]。次に、稲飯命(いなひのみこと)[海に没して鋤持神となった]。次に、三毛野命(みけいりぬのみこと)[常世の郷に行かれた]。次に、磐余彦命(いわれひこのみこと)。

⑤東征の開始と草香の戦い

 磐余彦尊は、天孫・彦波瀲武鸕草葺不合尊の第四子である。母は玉依姫命といい、海神(わだつみ)の下の娘である。天孫・磐余彦尊は、生まれながらに賢い人で、気性がしっかりとしておられた。十五歳で太子となられた。成長されたのち、日向国の吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あびらつひめ)を妃とされた。妃との間に、手研耳命(たぎしみみのみこと)、次に研耳命(きすみみのみこと)がをお生みになった。

 四十五歳になられたとき、兄や御子たちに仰せられた。「昔、高皇産霊尊と大日孁尊が、この葦原の瑞穂国を我が祖先の彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊々杵尊(ににぎのみこと)は天の戸を押し開き、雲路を押し分け先払いを走らせて降臨された。このとき、世は未開で、まだ明るさも十分ではなかった。その暗い中にありながら、正しい道を開き、この西のほとりを治められた。皇室の祖先は神であり、また聖であったので、人々によろこびをもたらし、光をなげかけ、多くの年月を経た。天祖が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし、遠いところの国では、まだ帝王の恵みが及ばず、邑々はそれぞれの長があり村々に長があって、土地に境を設けて相争っている。ところで、また塩土老翁(しおつちのおじ)に聞くと、“東のほうに良い土地があり、青々とした山が取りまいている。その中へ、天の磐船に乗ってとび降ってきた者がある”という。思うにその土地は、広く統治をおこない、天下を治めるのにふさわしいであろう。きっとこの国の中心だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)という者であろうか。そこに行って、都をつくるにかぎる」

 諸皇子たちも答えて申しあげた。「そのとおりです。私たちもそう思うところです。すみやかに実行しましょう」この年は大歳の甲寅である。

 その年の冬十月五日に、天孫は自ら諸皇子・船軍を率いて、東征に向かわれた。

 速吸(はやすい)の門においでになると、一人の漁人(あま)がいて、小舟に乗ってやってきた。天孫は、呼び寄せ尋ねて仰せられた。「お前は誰か」答えて申しあげた。「私は国津神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦で釣りをしており、天神の御子がおいでになると聞いたので、お迎えに参りました」また、天孫は尋ねて仰せられた。「私のために、水先案内をするつもりはないか」珍彦は答えて申しあげた。「ご案内しましょう」天孫は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差し出し、つかまらせて船の中に引き入れ、水先案内とされた。そこで、とくに名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直部(やまとのあたいら)の始祖である。

 進んで、筑紫の莵狭(うさ)に着いた。すると、莵狭の国造の先祖で、莵狭津彦(うさつひこ)・莵狭津姫という者があった。莵狭の川上に、足一つあがりの宮を造っておもてなしをした。このときに命じて、莵狭津姫を侍臣の天種子命(あまのたねこのみこと)に娶あわされた。天種子命は、中臣氏(なかとみし)の遠祖である。

 十一月九日、天孫は、筑紫国の岡水門(おかのみなと)に着かれた。十二月二十七日、安芸国に着いて、埃宮(えのみや)においでになった。乙卯年の春三月六日、吉備国に移られ、行宮(かりみや)を造ってお入りになった。これを、高嶋宮(たかしまのみや)という。三年のうちに船舶をそろえ、兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

 戊午年の春二月十一日、皇軍はついに東に向かった。船はたがいに接するほどであった。まさに難波碕(なにわのみさき)に到ろうとするとき、速い潮流があって、大変早く着いた。よって、浪速国(なみはやのくに)と名づけた。また浪花(なみはな)ともいう。今、難波というのはなまったものである。

 三月三十日、川をさかのぼって、河内国草香邑(くさかのむら)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

 夏四月九日、皇軍は兵をととのえ、龍田に向かった。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことはできなかった。そこで引き返して、さらに東のほうの胆駒山を越えて内つ国に入ろうとした。

 そのときに、長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞いていった。「天神の子たちがやってくるわけは、きっと我が国を奪おうとするのだろう」そうして、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。流れ矢が当たって、天孫の兄の五瀬命(いつせのみこと)の肘脛(ひじはぎ)に当たった。

 皇軍は、進み戦うことが出来なかった。天孫はこれを憂いて、計りごとをめぐらして仰せになった。「いま、自分は日神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは天道にさからっている。一度退却して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背に太陽を負い、日神の威光をかりて敵に襲いかかるのがよいだろう。そうすれば、刃に血ぬらずして、敵はきっとおのずから敗れるだろう」皆は申しあげた。「そのとおりです」そこで、軍中に告げて仰せられた。「いったん止まり、ここから進むな」そして、軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。

 草香の津に引き返し、盾をたてて雄たけびをして士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてづ)と名づけた。今、蓼津(たでつ)というのは、なまったものである。

 はじめ、孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。それで、その木を指していった。「恩は母のようだ」時の人はこれを聞き、その地を名づけて母木邑といった。今、“おものき”というのは、なまったものである。

 五月八日、軍は茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)に着いた。そのころ五瀬命の矢傷がひどく痛んだ。そこで命は剣を撫で、雄たけびして仰せられた。「残念だ。丈夫(ますらお)が賊に傷つけられて、報復しないまま死ぬとは」時の人は、よってそこを雄水門(おのみなと)と名づけた。進軍して、紀伊国の竃山(かまやま)に到り、五瀬命は軍中に亡くなった。よって、竃山に葬った。

 六月二十三日、軍は名草邑(なくさのむら)に着いた。そこで名草戸畔(なくさとべ)という者を誅した。ついに狭野(さぬ)を越えて、熊野の神邑に至り、天の磐盾に登った。

 軍を率いて、だんだんと進んでいった。しかし海の中で急に暴風に遭い、船は波に翻弄されて進まなかった。天孫の兄の稲飯命(いなひのみこと)がなげいて仰せになった。「ああ、わが先祖は天神であり、母は海神であるのに、どうして私を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」いい終わって、剣を抜いて海に入り、鋤持神となられた。もうひとりの兄の三毛入野命(みけいりぬのみこと)もまた恨んで仰せられた。「わが母と伯母は二人とも海神である。それなのに、どうして波を立てて溺れさすのか」そして波頭を踏んで、常世の国へおいでになった。

⑥布都御魂剣の降臨と兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)

 <引用者:天孫(磐余彦尊)の戦いが記述されている。その相手の居住地と名は次の通り。>

   熊野の荒坂の津の丹敷戸畔(にしきとべ)という者/菟田の県の人々のかしらである兄猾・弟猾の兄弟/倭の国の磯城邑(しきのむら)の磯城の八十梟帥(やそたける)/高尾張邑(たかおわりのむら)[ある書には高城邑という]の赤銅(あかがね)の八十梟師/兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)の磯城彦(しきひこ)兄弟

 <引用者:天孫(磐余彦尊)は神等の助けを借りながら戦いを進めたが、天孫を助けた神の名は次の通り。>

   熊野の高倉下(たかくらじ)という人、天照大神と武甕雷神(たけみかづちのかみ)、天照大神と頭八咫烏(やたからす)

⑦宇摩志麻治命の帰順

 十二月四日、皇軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を討つことになった。戦いを重ねたが、なかなか勝つことができなかった。そのとき、急に空が暗くなってきて、雹(ひょう)が降ってきた。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、天孫の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようだった。このため、長髄彦の軍勢は、みな眩惑されて力戦できなかった。長髄彦の長髄というのは、もと邑の名であり、それをとって人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人はここを鵄邑と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。

 昔、孔舎衛(くさえ)の戦いで、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たって亡くなられた。天孫はそれ以来、常に憤りを抱いておられた。この戦いにおいて、仇をとりたいと思われた。そして、歌って仰せられた。

   みつみつし 来目の子らが 粟生には 韮一本 其根が本 其ね芽繋ぎて 撃ちてし止まむ

   天孫の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢が、日頃たがやす粟畑。その中に、くさい韮が一本まじっている。その邪魔な韮の根元から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり討ち破ろう。

 また歌って仰せられた。

   みつみつし 来目の子らが 垣本に 植ゑし山椒 口びひく 我は忘れず 撃ちてし止まむ

   天孫の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣のもとに植えた山椒(さんしょう)、口に入れるとひりひり辛い。そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず討ち破ってやろう。

 また兵を放って急迫した。すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは、来目部が歌い伝えてきたからである。

 ときに、長髄彦は使いを送って、天孫に申しあげた。「昔、天神の御子がおられて、天の磐船(いわふね)に乗って天降られました。名を櫛玉饒速日尊(くしたまにぎはやひのみこと)と申しあげます。このかたが、わが妹の三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って御子をお生みになりました。御子の名を宇摩志麻治命(うましまちのみこと)と申しあげます。そのため、私は饒速日尊、次いで宇摩志麻治命を君として仕えてきました。いったい、天神の御子は二人もおられるのですか。どうしてまた、天神の子と名のって、人の土地を奪おうとするのですか。饒速日尊以外に天神の御子がいるなど、聞いたことがありません。私が思うに、あなたは偽者でしょう」天孫は仰せになった。「天神の子は多くいる。お前が君とするものが、本当に天神の子ならば、必ずしるしの物があるだろう。それを示しなさい」長髄彦は、饒速日尊の天の羽羽矢(ははや)一本と、歩靫(かちゆき)を天孫に示した。天孫はご覧になって、「いつわりではない」と仰られて、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。

 長髄彦は、その天つしるしを見て、ますます恐れを感じた。けれども、兵器の用意はすっかり構えられ、その勢いは途中で止めることはできなかった。そしてなおも、間違った考えを捨てず、改心の気持ちもなかった。宇摩志麻治命は、もとより天神が深く恵みを垂れるのは、天孫に対してだけであることを知っていた。また、かの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分かりそうもないことを見て、伯父である長髄彦を殺害した。そして、その部下たちを率いて帰順された。

 己未年の春の三日、天孫は詔して仰せられた。「天孫饒速日尊の子の宇摩志麻治命は、伯父の長髄(以下脱文)

(4)巻第七 天皇本紀

①神武天皇

 彦波瀲武鸕草不葺合尊の第四子である。諱(いみな)は神日本磐余彦天皇、または彦火火出見尊という。年少のときは、狭野尊(さぬのみこと)と呼ばれた。母は玉依姫(たまよりひめ)といい、海神の下の娘である。

 天皇は、生まれながらに賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。成長されて、日向国吾田邑の吾平津媛(あびらつひめ)を娶り妃とされ、手研耳命(たぎしみみのみこと)をお生みになった。

 太歳甲寅年の冬十二月五日、天皇はみずから諸皇子を率いて西の宮を立たれ、船軍で東征された。[くわしくは、天孫本紀に見える]

 己未年の春二月五十日に、道臣命(みちのおみのみこと)は、軍兵を率いて逆賊を討ち従えた様子を奏上した。二十八日、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、天の物部を率いて逆賊を斬り平らげ、また、軍兵を率いて天下を平定した様子を奏上した。

 三月七日、天皇は、令(のり)をくだして仰せになった。「私が東征についてから六年になった。天神の勢威のお陰で凶徒は殺された。しかし、周辺の地はいまだ静まらない。残りのわざわいはなお根強いが、内つ国の地は騒ぐものはない。皇都をひらきひろめて御殿を造ろう。しかし、いま世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の習俗が変わらずにある。そもそも聖人が制を立てて、道理は正しく行われる。民の利益となるならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで貴い位につき、民を安んじるべきである。上は天神が国をお授けくださった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を広めよう。その後、国中をひとつにして都をひらき、天の下を覆ってひとつの家とすることは、また良いことではないか。見れば、かの畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は、思うに国の真中か」

 同月二十日に、役人に命じて都造りに着手された。そこで、天太玉命(あまのふとたまのみこと)の孫の天富命(あまのとみのみこと)は、手置帆負(たおきほおい)と彦狭知(ひこさしり)の二神の子孫を率いて、神聖な斧と神聖な鋤を使って、はじめて山の原材を伐り、正殿を構え建てた。これが所謂、畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて、高天原へ千木高くそびえ、はじめて天下を治められた天皇が、天皇による国政を創められた日である。このため、皇孫のみことのおめでたい御殿を造り、お仕え申しあげているのである。この手置帆負・彦狭知の末裔の忌部がいるところは、紀伊国の御木(みき)郷と麁香(あらか)郷の二郷である。材木を伐る役目を持った忌部がいるところを御木といい、御殿を造る忌部のいるところを麁香という。これが、その由来である。古い語では、御殿(みあらか)のことを麁香という。

 庚申年の秋八月十六日、天孫は正妃を立てようと思われた。改めて、広く貴族の娘を探された。ときに、ある人が奏して申しあげた。「事代主神(ことしろぬしのかみ)が、三島溝杭耳神(みしまのみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)と結婚して、生まれた子を名づけて、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)と申しあげます。このかたは容色すぐれた人です」これを聞いた天皇は喜ばれた。九月二十四日、媛蹈鞴五十鈴媛命を召して、正妃とされた。

 辛酉を元年とし、春正月一日に、橿原宮に都をつくり、はじめて皇位に即かれた。正妃の媛蹈鞴五十鈴媛命を尊んで、皇后とされた。皇后は大三輪の大神の娘である。

 宇摩志麻治命は天の瑞宝をたてまつり、神盾をたてて斎き祀った。また、斎木を立て、五十櫛を布都主剣(ふつぬしのつるぎ)のまわりに刺し巡らせて、大神を宮殿の内に崇め祀った。そして十種の瑞宝を収めて、天皇に近侍した。そのため、足尼(すくね)といわれた。足尼の号は、このときから始まった。天富命は、諸々の忌部を率いて天つしるしの鏡と剣を捧げ、正安殿に安置した。天種子命(あまのたねこのみこと)は、天神の寿詞(よごと)を奏上した。この内容は、神代の古事のようなものである。宇摩志麻治命は内物部(うちのもののべ)を率いて、矛・盾をたてて厳かでいかめしい様子をつくった。道臣命は来目部を率いて、宮門の護衛し、その開閉を掌った。それから、四方の国々に天皇の位の尊貴さを伝え、天下の民を従わせることで朝廷が重要であると示された。

 このとき諸皇子と大夫は、郡官・臣・連・伴造・国造らを率いて、年のはじめの朝拝をした。現在まで続く、即位・賀正・建都・践祚などの儀式は、みなこのときに起こった。

 また、このとき高皇産霊尊と天照太神の二柱の祖神の詔に従って、神座として神籬(ひもろぎ)を立てた。

高皇産霊神、神皇産霊(かみむすひ)、魂留産霊(たまるむすひ)、生産霊(いくむすひ)、足産霊(たるむすひ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、御膳神(みけつかみ)の神々は、いま御巫がお祀りしている。

櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)、豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)の神々は、共にいま御門の御巫がお祀りしている。

生島(いくしま)の神は大八洲(おおやしま)の御魂で、いま生島の御巫がお祀りしている。

坐摩(いかすり)の神は大宮の立つ地の御魂で、いま坐摩の御巫がお祀りしている。

 また、天富命は斎部(いんべ)の諸氏を率いて、諸々の神宝の鏡・魂・矛・楯・木綿・麻などを作った。櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)の子孫は、御祈玉(みほぎたま)を作った。古い語に美保伎玉(みほきたま)という。“みほき”は祈祷のことをいう。天日鷲命の子孫は、木綿と麻、織布を作った。古い語では荒妙(あらたえ)という。また、天富命は天日鷲命の子孫を率いて、肥えた土地にそれぞれ遣わし、穀物や麻を栽培させた。また、天富命はさらに肥沃な土地を探して、良い麻や綿を分かち植えた。このように、永く麻を大嘗祭に献じることの由来である。また、天富命は安房の地に太玉命を祀る神社を立てた。安房社というのがこれである。手置帆負命の子孫は、矛竿を作った。いま、讃岐から永くたくさんの矛が献じられるのは、これがその由来である。天児屋命の孫の天種子命は、天つ罪・国つ罪を祓い清めた。日臣命(ひのおみのみこと)は来目部を率いて、宮門を守り、その開閉を掌った。饒速日命(にぎはやひのみこと)の子の宇摩志麻治命は、内物部を率いて、矛・楯を作り備えた。天富命は、諸々の斎部を率いて、天つしるしの鏡・剣を捧げ、正殿に安置した。さらに玉をかけ、幣物を並べて大殿で祭りを行った。次に、宮門で祭りをした。また天富命は、幣物を並べて祝詞をとなえて皇祖の天神を祀り、国つ神たちを祀って、天神地祇の恵みに応えた。また、中臣氏と忌部氏の二氏に命じて、ともに祭祀の儀式を掌らせた。

また、猿女君氏に命じて、神楽をもって仕えさせた。

 そのほかの諸氏にも、それぞれその職がある。

 この時代には、天皇と神との関係は、まだ遠くなかった。同じ御殿に住み、床を共にするのを普通にしていた。そのため、神の物と天皇の物は、いまだはっきり分けられていなかった。そこで、宮の中に神宝を収める倉を建てて斎蔵と名づけ、斎部氏に命じて永くその管理の職に任じた。

 十一月十五日、宇摩志麻治命は、御殿の内に天璽瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために御魂を鎮めて、御命の幸福たることを祈った。いわゆる鎮魂祭はこの時に始まった。

 およそ天の瑞宝とは、宇摩志麻治命の父・饒速日尊が天神から授けられて来た天つしるしの十種の瑞宝のことである。十種の瑞宝とは、瀛都鏡(おきつかがみ)ひとつ、辺都鏡(へつかがみ)ひとつ、八握剣(やつかのつるぎ)ひとつ、生玉(いくたま)ひとつ、足玉(たるたま)ひとつ、死反玉(まかるがえしのたま)ひとつ、道反玉(ちがえしのたま)ひとつ、蛇比礼(へびのひれ)ひとつ、蜂比礼(はちのひれ)ひとつ、品物比礼(くさぐさのもののひれ)ひとつ、のことである。

 天神は饒速日尊に教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の神宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせなさい。このようにするならば、死んだ人でも生き返るであろう」

これが「布留(ふる)の言(こと)」の起源である。鎮魂祭は、これがその由来である。

 その鎮魂祭のときには、猿女君らは、たくさんの歌女を率いてこの布留の言を唱え、神楽を歌い舞う。これがその由来である。

 治世二年の春二月二日、天皇は論功行賞をされた。

 宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、さきに神霊の剣を授けて類いない勲功を称え、報いた。いま、股肱の職にそえて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」そこで、宇摩志麻治命と天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は共に拝命して、食国の政事を行う大夫になった。この政事を行う大夫とは、今でいう大連、または大臣のことである。天日方奇日方命は、皇后の兄で、大神君の祖である。

 道臣命に詔して仰せられた。「お前には忠と勇があり、またよく導いた功績がある。そのため、さきに日臣を改めて、道臣の名を与えた。それだけでなく、大来目を率いて、たくさんの兵士たちの将として密命を受け、よく諷歌(そえうた)、倒語(さかしまごと)をもって、わざわいを払い除いた。これらのような功績でつくした。将軍に任命して、後代の子孫に伝えよう」

その倒語の用いられるのは、ここに始まった。道臣命は、大伴連らの祖である。また、道臣に宅地を賜り、築坂邑(つきさかのむら)に住ませて、特に寵愛された。また、大来目を畝傍山の西の川辺の地に住ませた。いま、来目邑と呼ぶのはこれがその由来である。大来目は久米連(くめのむらじ)の先祖といわれる。

 椎根津彦(しいねつひこ)に詔して仰せられた。「お前は天皇の船を迎えて導き、また、功績を天香山の山頂に現した。よって、誉めて倭国造(やまとのくにのみやつこ)とする」大和の国造は、このときから始まった。これが大倭連らの祖である。

 弟磯城(おとしき)黒速(くろはや)に詔して仰せられた。「お前には、逆賊の長の兄磯城(えしき)のくわだてを告げた勇気があった。よって、子孫を磯城県主(しきのあがたぬし)とする」

 頭八咫烏(やたがらす)に詔して仰せられた。「お前には皇軍を導いた功績がある。よって、賞の内に入る」頭八咫烏の子孫は、葛野県主(かどののあがたぬし)らである。

 四年の春二月二十三日、天皇は正安殿で詔して仰せになった。「わが皇祖の霊が、天から威光を降してわが身を助けてくださった。いま、多くの敵はすべて平らげて、天下は何ごともない。そこで、天神をお祀りし、大孝を申しあげたい」

そこで、神々の祀りの場を、鳥見山(とみやま)の中に立てて、そこを上小野(かみつおの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつおの)の榛原といった。そして、皇祖の天神をお祀りになった。

 ときに、天皇の巡幸があった。腋上(わきかみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登られ、国のかたちを望んで見て仰せられた。「なんと素晴らしい国を得たことか。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)が交尾(となめ)しているようである」これによって、はじめて秋津州(あきつしま)の名ができた。

 昔、伊奘諾尊(いざなきのみこと)がこの国を名づけて仰せられた。「日本は、心安らぐ国、よい武器がたくさんある国、優れていて整った国」また、大己貴(おおなむち)の大神は名づけて仰せられた。「玉垣の内つ国」

 また、饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛びめぐり、この国を見てお降りになったので、名づけて「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と仰せになった。

 四十二年の春正月三日、皇子・神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を立てて皇太子とされた。七十六年の春三月十一日、天皇は、橿原宮で崩御された。このとき、年は百二十七歳だった。翌年の秋九月十二日、畝傍山の東北の陵に葬った。

 神武天皇には、四人の皇子がおられた。手研耳命[子孫は無い]。次に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)。意保臣(おおのおみ)、島田臣(しまだのおみ)、雀部造(さざきべのみやつこ)らの祖である。次に、神渟名川耳尊。天皇に即位された。

次に、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)[茨田連(まんだのむらじ)らの祖である]。

②綏靖天皇~孝照天皇

 <以下、略>

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