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富雄町史  

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目次 <序章>

   <第一篇 富雄村の成立>

   <第二篇 富雄町の成立>

   <第三篇 産業の発展>

   <第四篇 生活の展開>

   <外 篇 奈良市への併合>

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(お断り:文中の太字部分は引用者がそうしました。・・・・・は省略部分です。)

<序章>

 その名も富なるよき文字にかざられるわが富雄町は、東西をそれぞれ西ノ京・矢田丘陵にはさまれ、ひと筋の「富の小川」(富雄川)の貫流するに沿った農村である。この地を鳥見谷とよんだ例もあるが、大きな谷間といえばいえよう。むかし奈良の人達は、この地を東山中に対して、生駒地方とともに西山中と呼んでいた。

 この地は、金発祥の地という邑であり、それから鳥見郷・鳥見庄となり、その中に自然村落は発展して近世郷村となり、明治廿二年にはそれらが合併して自治体富雄村の成立となった。その後の社会経済の発達は、昭和廿八年に富雄町を成立せしめたのであった。建国の伝承に語られた邑は、国のあゆみと行を共にしつつ、富雄町へとあゆんだわけである。その富雄町のあゆみがここに記述される。・・・・・。

<第一篇 富雄村の成立>

一 鵄 

 金発祥の地  日本書紀の神武紀戊午年(即位前四年)十二月丙申(四日)の条には、神武天皇と長髄彦(登美彦)との合戦に、金発祥のことを説いている。その地は、

  長髄は是れ邑の本號(もとのな)なり、因りて亦以て人の名と為す、皇軍(みいくさ)の(とびのしるし)を得るに及びて、時の人仍(よ)りて邑と號(なづ)く、今、鳥見(とみ)と云ふは是れ訛(なま)れるなり、

と説明されており、長髄邑なる村名が、この瑞祥によって邑といわれるようになり、日本書紀のできた奈良時代では邑がトミと呼ばれ、鳥見と書くようになったというのである。この神話ともいうべき伝承に説かれる邑、すなわち鳥見の地がわが富雄町といわれる。

 鵄   神武紀に見える伝承の記事を、ただちに史実として採用することはできないが、これからつぎのことが説明できる。ます奈良時代に鳥見なる地があり、その地名は邑なるものからおこったといわれていたことである※1。その鳥見の地は、概ね鳥見谷の一帯であることは是認されるので、その地名伝説の邑がこの地帯とされるのである。昭和十五年、紀元二千六百年奉祝記念に、神武天皇聖蹟伝称地が指定顕彰されたが※2邑は「ソノ地域ハ凡ソ北倭村及ビ富雄村二亘ル地方卜認メラル」とされている。思うに鳥見川に沿った北倭村の上村(或いは高山)から富雄村一帯、矢田村の城村(今の郡山市城町)あたりまでがといわるべきところで、邑がこれらの一帯、或いはさる一部かは知るべくもないから、邑がかく指定されたことは妥当といえよう。

 邑はもともと長髄と呼ばれたといわれるが、もちろん明らかではない。しかしこの鳥見の地、或いは邑において、大和の南部から北部に発展して来た大和朝廷に対抗する一大勢力があったようである。大和朝廷とこの勢力との決戦がおこなわれたが、この首領が大和朝廷のいわゆる神武天皇に対して長髄彦と伝えられる。

 鳥見谷にわけ入り、鳥見川を利用して、人々は然るべき地点に住みつき、部落を形ちづくるようになった。この地方の考古学的遺蹟には、土馬の出土地とか、神獣鏡・石製模造器具などの出土で知られる丸山古墳や古墳と推定されろものが二三あるが、それが概して少ないことは※3、なお調査の必要があるとはいうものの、その集落の数は多くはなかったと思われる。しかもいまのように全体的に開けたものではなく、或る地域に点々としたものであったろう。当時の部落或いは垣内はすでに単一の氏族で構成されたものではなくなっていたらしいが、しぜん同族集団のようなものとなり共同体的活動をおこなった。しかし、その首長で有力なものは附近の数部落を支配するようになった。ここにいわゆる部落国家ができるが、きわめて幼稚な原始的な村落状の国家であった。鳥見谷にもいわば鳥見国ができ、その首長が神武天皇の頃では長髄彦であり、その地は長髄と呼ばれたというのである。長髄彦の実在・非実在はともかくとして、かなり有力な首長がこの鳥見谷にあり、その属地は明らかではないが、そこは相当に開けた地であったらしい。

 大和朝廷の領下に入って、この地はトミノムラと呼ばれたらしい(二・三世紀~六世紀)。そして鳥見とかかれるようにもなった。大和朝廷の行政区画がしだいに整って来た結果である。邑では、ムラヲサ(村長)・ムラギミ(村君)などと呼ばれ首長が治めるのであるが、この首長はのちの大名のようなもので、かなり独立的なものであった。その権力がしだいに縮減されて行くが、それが大和朝廷の発展であった。

 神 社  村落は神社を中心としてなり立ったものであるし、その社会組織は神をまつる祭祀組織と一致したものであり、なお古代では祭政一致といわれるように、政治も神をまつる祭りそのものであった邑やその人々の社会生活を考えるには、ここの神社や祭祀組織を見る必要がある※4。古代人の思想では、土地は神々の領国であり、その神の子孫或いは神命をうけたものがその領国の統治を代行するというのである。氏族はその氏神の領国に生をうけたものであり、氏族の長である氏上(うぢかみ)は、氏神の領国を神に代って統治しているわけである。現実には有力な氏族が他の氏族を併合することによって、より大きな部落国家が成立することになるが、それとともに有力な氏族の氏神がその領国を拡大することになり、氏神がその地の鎮守神たる性格をいっそう明かにしてくる。鳥見邑でも、さる有力な氏族の氏神が邑の鎮守神となり、神社としての規模を整えてくる。もちろんかつての氏神が、或いは小地域の鎮守となったものもあり、従って神祠或いは神地も数多くあったに相違ない。それも後代のように、必らずしも社殿をかまえたものとは限らない

 この邑の氏族が奉祀した古代の神社が、今のどの神社にあたるかということは明かでない。とくに長髄彦とか、その後、鳥見邑が大和朝廷の領下となって、ここを統治した首長にまつられた神社、いはば鳥見邑の惣社のような大社は、その後の社会変動の余波をうけて、その規模に大小の差は生じたかも知れないが、この地方では何等かの形ちで現在に伝わっていると思われる。もちろん、古代氏族の相当数の氏神も、神地或いは神社として今に至ったものが多くあろう。古代祭祀の場所は各時代の人達にも畏敬され、護持されているからである。新らしい集落ができ、新たな神社が設けられるにしても、そこはかつての神祭場であったかも知れない。富雄町の場合、とくにその感が深い。

 鳥見邑の惣社(鎮守)として考えられるものは登彌(とみ)神社である。しかしこれはわが国家組織が固まって来た時代のことである。鳥見邑では鳥見氏と称する首長(或いはいわゆる長髄彦の後裔とでもいえる)に祀られたものがこの登彌神社であろう。鳥見氏はあまり発展せす、次第に消滅してしまう※5、その神社はのこり、式内社(引用者注:当時「官社」とされていた全国の神社一覧である延喜式神名帳に記載された神社)として官社の位地にあつた。さてこの登彌神社は、いま大字石木にある登彌神社とされる。このことは、地誌の白眉と称せられる江戸時代の「大和志」(一七三四編集)に既に説かれている※6これに対して、登彌神社は北倭村大字上村の長弓寺の境内にある天王社であるとする明治時代の地誌「大和志料」の所説がある※7。これが断定は至難である。つぎに大字三碓に添御懸坐(そうのみあがたにいます)神社がある※8。これも登禰神社と同様に「大和志」が早く式内大社(引用者注:式内社のうち、大社に列格している神社)をこの社とし、この地ではかく信じている。「大和志料」では奈良市歌姫町御懸山に比定しておる。御懸は皇室の御料地のことで、添御懸といえば、のちの添上・添下両郡の母体と考えられる。その地理的関係から歌姫の神社に比定することも妥当の感が深いが、なおこれが断定は出来ない。鳥見邑は神武紀で推測されるように、有力氏族の根拠地としてかなり発展していた地域を含んでいたとすれば、これを版図とした大和朝廷が、ほかと異った強力な統治をここに及ぽしていたとも考えられるし、御料地などとしたことも考えられる。強いていえば鳥見邑が添御懸の淵源地であったかも知れないし、その神社を邑内の地にあらずとすることも出来ない。ともかく、わが富雄町に、古代の大社の存在がしのばれることは、この地の一部が極めて早くから開けていたことを実証する。

 考 証

 ※1 鳥見という地名は各地にある。大和ではこの地のほか磯城郡外山や宇陀郡中富などがあり、櫻井町・藤原町附近である。神武天皇傅承には鳥見の地は鳥見山中の霊畤(下に引用者注)邑との二つが見える。この傅承が記録された奈良時代の始めの頃、鳥見の地を立証する史料としては萬葉集がある。萬葉歌人はさかんに鳥見の地を歌枕とした。

  射部立てて跡見の岳辺の瞿麥(なでしこ)花總たをり吾は持ち去なむ寧樂人のため(一五四九)

 また跡見庄とか跡見田荘と見え、これは大伴氏の私領であった。この跡見庄(鳥見庄)の位置が問題となる<引用者:跡見(あとみ)と後述される迹見(とみ/あとみ)がどのような関係にあるのかが詳らかでない>。文意からは櫻井地方のそれをさすのであるが、作者の胸奥に富雄地方の鳥見が投影しており、地理をはっきりとたったとも考えられぬ点もあるので、昔から地方考証に諸説が生じている。しかし萬葉地理の場合、その多くは櫻井地方とすべきである。

 ところで、鳥見郷となった地は確実に鳥見谷である。廣く鳥見川の沿岸地帯も鳥見といわれた。垂仁朝三五年に成立した迹見池は今の片桐町大字池内に擬せられているし、また大和郡山市に属したもとの添上郡若槻村の荘園時代には、この荘官に鳥見福西氏があった。さらに平安文学をかざる堤中納言物語には、大和の鍋釜産地として迹見片岡をあげている。鳥見小川の下流も鳥見といわれたことを示し、鳥見地方は古くはかなり廣地域であったことがしれる。かくてこれらを綜合考証して、昭和十五年に神武天皇聖蹟調査委員会が、邑は北倭・富雄地方、鳥見山中の霊畤の設けられた鳥見山は櫻井町外山としたのは、現在断案し得る最も妥当なものといわねばならない。

    引用者注:霊畤(れいじ)とは、「まつりのにわ」という意味。大嘗祭(おおなめさい・だいじょうさい/新天皇が即位後最初に行なう新嘗祭)を行う場所。大嘗祭・新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)共、その年の新穀・新酒をもって先祖の神々を祀るという意味においては同じだが、大嘗祭は、皇位継承と重大な意義を持っていて、大嘗祭が行われて始めて皇位継承の名実共に備わるといわれ、一代一度の極めて重大な式典。

 ※2 神武天皇聖蹟邑及び鳥見霊畤の調査決定は、右に述べたように候補地が多数あり、更に各地で傅称地を名乗ったので、愼重に取りはこばれた。当時の富雄村では、調査委員会が設けられ、谷垣米次郎・寺川作治郎・吉村宇一郎・亀田保信・藤田利川則(年齢順)が委員としてその立証に尽力した。

 ※3 (本書の)第四篇の二、遺蹟遺物参看。大字大和田丸山古頃は陵墓地と傅えられ、その出土品は京都市守屋米蔵氏の所蔵に帰し、昭和十年重美指定となった。なお享保・元文頃に鏡一面が発掘され、いま彌勒寺の什品となっているものも関係品という。

 ※4 同じとはいえないが、宮座には、古代祭祀組織が投影している。氏人たる血縁集團の祭祀組織が村人という非血縁集團のものに発展する。しかも擬制血縁集圖となる。

 ※5 登美氏は奈良平安時代には殆んど活動が見えない。その名が見えても下級官吏に過ぎない。寛仁二年三月には興副寺声明師登美助樹が老年まで勤仕の功によって従五位下に叙せられたことかあり(小右記)、治暦二年七月には登美行近なるものが平城京東五条三里廿五坪内の地を賣却したことなどに登美氏の名が見える(内閣文庫所蔵大和国古文書)。中世に添上郡若槻庄の庄官となる鳥見福西氏はその石残であろうか。また鳥見庄の荘官たる鵜山・和田・今中氏のうちには、その一流のものもあろう。新撰姓氏録には、速日命の子孫の登美連のほか二三をのせているから、検討を要する。

 ※6 中世ではその所在に従って、木嶋大明神と呼ばれた。天文八年の同大明神大工職賣券などがある。江戸時代この神社は城・大向・小和田・石堂・木島五ヶ村の郷鎭守であって、恐らく下鳥見庄の鎭守であったろう。更に遡って鳥見鎭守というまでの考証は出来ない。

 ※7 鳥見庄というと、上鳥見庄をさす場合があるのでこの所説もむげに却けられない。この江戸時代の祭祀は、上中下三郷頭人によって執行されたという長弓寺縁起に従うと、鳥見郷鎭守たる可能性が多くなるが、この縁起の所説はにわかに採用し難い。文明六年六月の兵火に罹燒した鳥見宮は、上鳥見庄の鎭守であり、(大乗院寺社雑事記)この神社であろうか。

 ※8 恐らく中鳥見庄の鎭守であろう。これで上中下三庄の鎭守がわかる。強いていえば、この三社のうちに、登彌神社が見出されよう。

二 鳥見郷

 鳥見郷  周知のように、大化の改新(六四)によって・・・・・

三 鳥見庄

 荘 園  ・・・・・荘園は一つの自然村落で構成されるものもあれば、二つ以上を合せたもの、或いは一つの半分のものもあった。そこで荘園は自然村落には拘泥せす、その基礎単位は名田であった。郷の前身である里は戸数に従ったが、荘園では名田を単位とした。大字二名は、一荘園が名田二つから成ったか、或いはX二名という名田から成立したので二名庄なる名がつけられたのが地名となり、のちに二名付、富雄村ができると大字二名となったといえるのである。

 鳥見の三荘  鳥見郷のあとをうけて鳥見庄が出来るが(一〇世紀頃)、この領主は主として中世大和の支配者であった興福寺であった。しかも地形の関係もあって、上津鳥見・中津鳥見・下津鳥見の三庄に分かれた。上鳥見庄は北倭村上村と二名、(飛地として鹿畑)、中鳥見庄は三碓、下島見庄は中村から大和田・石木附近(城村も含まれる)である。しかし時により、領主により、三庄を合せて鳥見庄というように称する場合も、上鳥見庄とか下鳥見庄の一つだけを鳥見庄という場合もあった。鳥見庄の名称が最初にあらわれるのは、延久三年(一○七一)の「興福寺雑役免帳」である・・・・・

四 鳥見の村々

五 富雄村の成立

<第二篇 富雄町の成立>

<第三篇 産業の発展>

<第四篇 生活の展開>

<外 篇 奈良市への併合>

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