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古田武彦『真実の東北王朝』  

序文

 ようやく会った。わたしはこの機会を待ちつづけてきた。ようやく会って、すっかり彼女の魅力にとりつかれた(カラー写真参照)。

 小柄だが(高さ二二・六センチ)、威厳のある、その姿・・・・・彼女はゆるぎなく、堂々としていた。三千年近い歳月を、このようにしていつも存在しつづけていたのである。

 昭和五十九年十一月三十日、埼玉県大宮市の県立博物館の一室だった。・・・・・

 遮光器土偶と考古学者は呼ぶ。宇宙人と呼ぶ若者もいる。それらはいずれも“ふさわしい”名だ。なぜなら、現代では老いも若きも、「大和朝廷中心の歴史教育」に汚染されている。その。汚染された目”では、「理解できない」もの、それが存在する。地中から出土する。その反映だからだ。「現代」とは、もちろん、明治維新以降である。

 江戸時代の孤高の学者、秋田孝季(たかすえ)はちがった。“これは神像だ”と言った。“これは、東北の大地の中の、東北の古代文明、その人々の信仰対象である”――そうのべている。貴重な先行説だ。

 わたしが、孝季に会ったのは、のちのこと。このときは、ただこの「理解できない」ものに見惚れた。それは異質の文明が、この産出地に実在した、そのまぎれもなき証しだったのである。

 ・・・・・右の目は下向きに。・・・・・

 左の目は、天空を指す。・・・・・

 チグリスーユーフラテスの河のほとりにも、文明は花開いた。ナイルの河のデルタにも、壮大な文明ははぐくまれた。東、インダス河や黄河の流域にも、古代文明は独自の姿を見せた。

 「文明は、大河のほとりに生れる」と。

 実(げ)なるかな。黒潮という名の、大洋の中の巨大大河とその大分流、対島海流にはさまれて、日本列島の古代文明は花開いた。まだ、大陸の各地帯が“眠りつづけて”いた、縄文時代、今から一万四千年前から、縄文という名の「人類最古の工業文明」が花開いたのである。

 その終末、縄文晩期前半に、彼女は誕生した。東北地方の一角、北上川の上流に、その神々しき姿を現わしたのだ。

 「これは、ただごとではない」

 わたしは、ふかく、心に銘じた。これはどの「名品」を生み出す力、その独創のエネルギーが、こ

こには、かつて、実在したのだ。

 「物」に満ち、「物」が氾濫しながら、何か大事なものを見失った現代。それは、何か。一方で、地球上の誰人(たれびと)に相対しても、不屈の魂をもち、他方で、この世に生れた何人(なんびと)に対しても、決して蔑視せぬ、人間の魂。それが稀薄となった現代とは、何か異質の文化、独自の文明が、そこに存在していたこと。――その一事を、わたしはこのとき、信ぜざるをえなかったのである。

第二章 多賀城碑再考

続日本紀に後代の改変あり

 「文献に対する、金石文の優越」――この原則を歴史学の方法論の基礎にすえた人、それは、若き日の井上光貞氏であった。(「再び大化改新詔の信憑性の問題について」。『歴史地理』八三-ニ、昭和二十七年七月)

 師の坂本太郎氏との間で、敢然と行われた郡評論争、その中で光貞氏は、次のようにのべられた。

  「おもうに、歴史研究上の資料は、そのことを語る資料がその当時作られたものであることを尊しとし、これに重点をおくのと、後世成立の資料に重きをおくのとは、帰するところおのずから明らかであり、私のひそかに考えるところによれば、私ははじめから有利なところに陣を布いていたのである。従って、私の考えに誤りがなかったなら、私の推理の結果ではなくて、その立脚点の故であり、私としては自説を証し得たのも当然のことであつたと申す他はない。」

 わたしは、この若き光貞氏の言明を敢然と支持する者である。

 氏は、「七世紀末以前」の金石文等の同時代資料において、行政単位が「郡」ではなく、「評」とされている、この一点に着眼された。

 これに反し、『日本書紀』(『古事記』)・『続日本紀(しょくにほんぎ)』とも、これらのほとんどが「郡」として叙述されているのである。

 これに対する、氏の判断、それは、

  「評が是、郡は非」

 この簡明な帰結にあった。そしてこの簡明な帰結を、藤原宮(奈良県)や伊場(静岡県)から出土した木簡群が証明したのであった。

 反面、この、日本史学界の忘るべからざる論争、これを正面から“承けて立たれた”師の坂本太郎氏の、堂々たる学問的風格に対して、改めて深く敬意を表したい。

 この、研究史上著名な論争を、ここに敢えて記したのは、他でもない。この問題は、「続紀(引用者:続日本紀の略)の史料批判」上、見のがしえぬテーマを提起しているからである。すなわち、

 「続紀の叙述は、当時点の、ありのままではない。後代(著作成立時)の観点から“書き改め”られている」

 これだ。このような視点からすれば、第一史料たる金石文と、続紀の叙述と、両者の間に齟齬のあること、むしろ当然なのである。先の「大安万侶墓誌銘」の提起したところが、むしろ“技術的”な問題だったのに対し、この「郡評論争」の提起する問題は、むしろ“イデオロギー的”な問題だ。

 (ちなみに一言する。「郡評論争」は、まだ決して終わっていない。なぜなら「評制の制定者は誰か」、「なぜ、記・紀の編纂者は、それを隠したのか」といった、真に「歴史的なテーマ」に対し、何の応答も行われていないからである。古田『古代は輝いていた』Ⅲ「法隆寺の中の九州王朝」、朝日文庫末尾「郡評論争」参照)

第四章 東日流外三郡誌への旅

偽書あつかいする前に

 わたしには、理由があった。この本(引用者:東日流外三郡誌)の名は、すでに早くから聞き知っていた。いわゆる「超古代史」のグループに入る本として、“喧伝”されていたからである。『上記(うえつふみ)』、『富士山古文書』(『吉田家文書』)、『秀真伝(ほつまつたえ)』といった諸書と並んで紹介されていた。これらの本は、いわゆる「偽書」として、大学の日本史の学者、専門的研究者には、敬遠されていた。“こんな本を研究対象とするようでは、まともな学者とはいえない”、そういった雰囲気だった。だから、誰も、学術論文の中で、これらの本をとりあげようとはしなかったのである。

 だが、わたしはちがっていた。次のように考えてきた。

 たとえば、『上記』。それは、鎌倉末~室町期のころ、九州の豊後藩で作られた、という。藩の学者たちの手になったのである。現在の写本は、室町末~江戸初期頃のものだ、という。とすれば、そのころ(鎌倉末~室町期)の、九州の一角に存在した思想、その歴史観をうかがう上では、第一史料だ。これを研究しない手はない”と。

 わたしは、日本思想史科(東北大学)の出身だから、当然ながら、中・近世の「思想」の研究には、興味をもっていた。

 “その中に記述されているという、「途方もない」古代の姿。そこに何パーセントの史実があるか。それは、別の問題、いわば、第二の課題だ。

 もちろん、全部彼等(豊後藩の学者)の「空想的叙述」であるかもしれぬ。この場合、古代の史実とは、関係がない。もっぱら、「思想」の問題となろう。

 しかし、そうではない、というケースもありえよう。『細算考』『高千穂記』といった、現存しない本からの引用があるようだけれど、それらの記述が果して何等かの「古代の史実」を反映しているかどうか、その検証こそが、研究の正念場となろう。そして、その中の、たった一つでも、「まぎれもなき真実」という確証できるケースにめぐりあえれば、望外の幸せ。逆に、すべて「無駄」に終わったとしても、研究者の常途(当り前のこと)“。

 そう考えてきた。だが、そのさい、重大な条件があった。

 “古写本に対する、基礎的な検査、これが不可欠。肝心かなめの点だ。用紙の質に対する科学的な検証。墨質の検査。筆跡に対する徹底的な追跡。

 これらは、いずれも歴史学研究の根本である。だが、このさいは、通例以上に、この基礎作業を徹底的に重視しなければならぬ。

 なぜなら、もし、現代(明治以降)の「偽作」の類であるとしたなら、それはこれらの検証によって明らかになろう。また、逆に、「偽作」でないとすれば、そのことが、これらの実証的研究によって、満天下に明らかになるであろうから”と。

 これは、問題の急所だった。だから、この『東日流外三郡誌』も、活字本だけ読んでみても、しょうがない。そういう思いがあったのである。

原本に会える!

地形図が歴史の真相を語る時

 わたしの古代史研究においても、この「史料と地形との相関関係」の問題は重要だった。

 たとえば、「神武東侵」問題。

 神武の船団は「楯津(たてづ)」に入って戦った、という(『古事記』)。日下(くさか)の蓼津(たてづ)である。ところが、この日下は、奈良県との県境近くだ。とても、船で入れるところではない。これは、現在の地形図による限り、動かせぬ判断である。

Kawatikoshinjitunotouhoku ところが、弥生期~古墳初期の間においては、「河内湾」が現在の大阪湾から入りこんでいた。これが現在の地質学・考古学の協力によって判明している事実だ(のちに「河内湖」となる。『大阪府史』第一巻、参照)。<引用者:右地図はクリックで拡大できます

 このような「古地形図」によると、『古事記』の記述は、真実(リアル)なのである。このような一致は、『古事記』の説話が「後代の造作」ではなく、弥生期の史実を反映していた。――この帰結をしめしているのである。

 さらに、神武の船団は、日下の戦で敗れたあと、「南方」より廻幸して脱出し、血沼海合(ちぬのうみ)の方へと転進した、という(ここで、長兄、五ヶ瀬〈ごかせ〉命が戦死)。

 ところが、現在の地形図では、右の“南方より廻幸”の表記が不可解である。本居宣長も、この文章の理解に苦しんだ。

 ところが、やはり、先の弥生期~古墳初期の地形図によると、現在の大阪湾から、さらに「袋」のような河内湾が入りこんでいる場所、その入口に当るところ、その狭い海峡(南潟)が、現在「南方(みなみかた)」と呼ばれている地点なのである。大阪駅(梅田)から千里の方へ向かう地下鉄の駅にも、南方駅がある。今の新大阪駅(新幹線)の近くだ。

 この「南方」は「南潟」の意で、「枚方」が「平潟」であるように、淀川をめぐる地形名詞だ。だから、右の説話(『古事記』)と弥生地形図との一致は、偶然ではないであろう。

 従ってここでも、「現在の地形図と古地形図とのちがい」が、神武説話の真実性(リアリティー)を証明する、貴重な根拠となったのである。

 わたしは、この論証を、昭和五十四年に書いた。『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社刊)の中だ。また、昭和六十年にも、さらに詳記した。『古代は輝いていたⅡ』(朝日新聞社刊。現在、朝日文庫)である。

 しかし、この十年間、学界からは何の応答もない。応答のないことに、もはや嘆きはしないけれど、正直いって、勇気がないと思う。学問的誠実さなし、と思う。なぜなら、もし、この論証が成立するならば、現在における学界の「定説」派の見解たる、「記・紀説話、後代造作説」は瓦解せざるをえない。津田左右吉ののべたような、「神武説話は、後代(六~八世紀)の、でっち上げ」という見解は、学問的根拠をもたなくなるからである。

 「神武は実在の人物である」、この主要テーマが復活せざるをえない。なぜなら、神武説話が真実でありながら、神武のみ架空の人物、そんな話はありえないからである。

 もちろん、戦前の皇国史観のような「神武天皇の東遷」などではない。「九州の一隅、日向国から、銅鐸圏の中枢部に侵入した、不法のインベーダー(侵入者)」としての神武船団の実在が、史的事実として復活せねばならぬ。彼等は、筑紫を中心とする九州王朝の、地方的一分派であった。

 以上の史実をうけいれたくないために、学問的勇気を欠いている。これが現在の学界、そして教科書の姿である。

 以上のように、現代の学界は、秋田孝季が敢然と採用した科学的姿勢、「説話と当時の地形図との比較」という方法論を回避したままでいる。すなわち、「孝季以前」の学的水準にとどまっているのである。

みちのくの歴史の最奥の扉を今開く

 ・・・・・安倍・安東・秋田氏の歴史を辿りゆこうとするとき、必ず出会わねばならぬ、二つの人名がある。――安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)だ。

 「この二人は、もと、近畿の大和にいた。それが、九州から『東征』してきた神武天皇の軍に敗れ、追われて、この津軽の地に逃れきたった。

 そして先住の阿蘇辺(あそべ)族・津保化(つぼけ)族を征圧し、その後の安倍一族の祖となった。さらにのち、安東・秋田等を名乗るに至った」

 このテーマこそ、『東日流外三郡誌』の真髄。――人々は、そう信じてきた。「超古代史」のファンは、この一事に拍手し、正統派の学者や常識ある人々は、この一事に顔をしかめてきた。『東日流外三郡誌』の信憑性問題は、この一点にかかっている。――一般の目には、そのように見えているようである。

 では、真相はどうか。・・・・・そして予感した。今、わたしは、陸奥の歴史、その古代の闇を探るべき、最奥の個所、その秘密の扉を開けようとしていることを。

第五章 東日流外三郡誌との出会い 

「長髄彦の謎」をめぐるモノローグ

 ・・・・・『東日流外三郡誌』では、「安日彦・長髄彦」という形で、ほぽ必ず「兄弟」の姿をとって現われる。「長髄彦だけが、敗れてやってきた」という形の説話は全く現われない。くりかえし、くりかえし、この説話が『東日流外三郡誌』の中に出現しているメーンテーマであること、一度目を通せば、一目瞭然。しかし、単独形はない。

 これに反し、記・紀の場合、必ず単独形である。「兄弟型」など、全く出現しない。しかも、長髄彦が主人、安日彦が家来、というのなら、“家来の省略”ということも、ありえよう。しかし、実際は逆だ。安日彦が主(兄)、長髄彦が従(弟)なのである。にもかかわらず、「主の方を常に省略」、そんなことって、あるだろうか。わたしには、到底考えられない<引用者:神武東征では磐余彦が主(弟)、五瀬命が従(兄)で、しかも兄は亡くなってしまいます・・・>。

 ・・・・・記・紀は、・・・・・「主敵のリーダー(安日彦と長髄彦)の脱出を知らなかった」「長髄彦の兄(真の主人公)を、うっかり書き忘れた」

 そんなことが考えられるだろうか。-否。わたしには不可能である。

 ・・・・・『東日流外三郡誌』の長髄彦が、記・紀の長髄彦と同一人物であるとは。――いかにしても、うけとれぬ。これがわたしの、基本的な疑問だった。

見出された解明への緒口

 では、どう考えたらいい。

 ・・・・・二種類あるのだ、問題の「安日彦、長髄彦説話」に。

  (A)型――神武説話との関連なし。

    ①「いにしふることのかたりまをさく、あな遠き世の耶馬台国になりませる二柱の君安日彦命長髄彦命築紫日向の賊に住むる国を侵かされけむこそ住むる国をぬけにして東日流なる国果にぞ住居けれ。……」(「安日彦長髄彦大釈願文」十三領神於瀬堂二柱神語印釈記。文明元年〈一四六九〉正月元日〈市浦村本、上巻一二一ページ〉

    ②「太祖安日彦長髄彦の二祖を一族の祖神とせる荒吐(あらばき)一族とは古来より農漁狩を以て栄えたる一族なり。……」(「荒吐一族人抄」大永二年〈一五二二〉十三浜明神帳より)〈市浦村本、上巻一四一ページ〉

    ③「安倍頼時常日一天無日輪二亦無月輪二日月陰陽也。依東日流耶馬台国之日出処也。吾祖長髄彦命耶馬台国五畿七道之王也。然倭国侵領日向族激戦……」(「東日流日下天」天文二年〈一五三三〉上崎城主景季〈市浦村本、上巻一六四ページ)

  (B)型――神武説話と関連あり。

    ①「神武即位前壬子年日向一族築紫を東に越え、耶馬台国を東征せんと兵を挙す。甲寅年耶馬台国王安日彦長髄彦を摂津に戦ふも日向一族破れて退き、……」(「荒吐族戦乱録」)元文二年〈一七三七〉尾崎神社伝より写す〈市浦村本、上巻四十二ページ)

    ②「……十五才にして神日本磐余彦皇太子と相成り、支那にては麓王帝の世となり、日本にては倭の国に耶馬台五畿七道に安日彦長髄彦の兄弟君臨、築紫の日向一族の挙動に備へて兵を諸国に巡らしめたり。……時に日向一族は築紫にて神日本磐余彦日向一族を高千穂に集いて兄なる五瀬命と東征を謀り、豊の国に兵を挙動せり。……」(「古代東日流外三郡暦」)寛政十二年〈一八〇〇〉秋田孝季」

③〈②に(追而)としてつづく〉「右東日流外三郡暦は拙者長崎にて得たる紅毛異人より世界史書釈を頂きて、是れに日本史書及び漢書を対照して記せし者也。伝て拙者の釈のあやまりの行あらば訂正を請ふ。是に津軽の歴史

を混じたるも時代対照の外私考を許さず以て後世の為にとぞ辺而せり。寛政十二年〈一八〇〇〉秋田孝季」

 『東口流外三郡誌』全体で、くりかえし出てくるのは、(B)の②のタイプである。孝季自身の歴史観だから当然だ。

 これについて孝季は、③で「私考を許さず」と言っているが、確かに、元文二年の①がしめしているように、「安日彦・長髄彦」を神武説話と結びつける、このやり方は、決して「孝季の独創」ではない。

 けれども、反面、(A)型のしめすように、格別「神武天皇」なる存在と“結びつけない”タイプもあるのだ。しかも、その方がむしろ“古型”に多い。・・・・・

銅鐸の不在と前漢鏡の存在

 ・・・・・スフィンクスの問いがある。この「神武天皇の敵対者」として、津軽(来日流)の安日彦・長髄彦を描きつづけたいと思う論者の眼前に立ちはだかる問いだ。津軽から大型銅鐸(中・後期)は出土しているか」と。神武の敵対者たる長髄彦、すなわち旧来の近畿弥生の先住者(文明とその中枢)にとって、中心をなすシンボルが「銅鐸」であったこと、わたしには疑うことのできぬ帰結だ。その時期の銅鐸が、津軽の地から数多く出土したならば、わたしは喜んで「近畿の長髄彦→津軽の長髄彦」説に耳を傾けよう。しかし、現実はーー否。 一部の“いさぎよからぬ”人々のごとく、「そのうち、出るかも」などと、言いたもうなかれ。大型銅鐸はおろか、銅鐸型土製品(近畿周辺に多い)すら、土器の王国、津軽にはほとんど出土しないのである。・・・・・

孝季に捧ぐ

 ・・・・・一方の「長髄彦」の方は、簡単だ。 「長洲根(ながすね)彦」 という、やはり地形詞なのである。あるいは、河内湾の湾入部(大阪城から南方まで、突出した 「長洲」になっていた。)や筑紫の志賀島のつけ根のところ(現在、つながっている)など、「長洲根」と称さるべき地形は、決して少なしとしないのである。その地の 勇者たちをしめす名称、それが「ながすねひこ」なのである。従って各地に生じうる名だ。 これを孝季たちは“誤解”した。「唯一無二の固有名詞」と思いこんだ。そこで「記・紀の長髄彦と 津軽の長髄彦」とを、しゃにむに結合させ、あえて「同一人」にしてしまったのであった。・・・・・

第六章 東日流外三郡誌を問う

 

第七章 アイヌとストーン・サークル

なぜ大湯にストーン・サークルがあるのか

 ・・・・・「くら」は、祭りの場をしめす言葉・・・・・。「高御座(たかみくら)」の「くら」です・・・・・北アルプスの乗鞍岳も、「祝(の)り倉」つまり、「祝詞(のりと)」を申しのべた、祭りの場・・・・・。

 ・・・・・近畿にも、注目すべき「くら」のあることをお知らせいただいた・・・・・「暗峠」だ・・・・・。

 暗峠は、奈良県と大阪府の境をなす稜線にあった。そこにさしかかると、すぐ判明した。山全体に、しめなわを張ってある。少しはなれて、島居がその山に向かっていた。両者の中間がブッッリ削り取られていた。採石業者あるいは、採砂業者の「作業」である。だが、両側が残されていた。それで、この暗峠の地帯が、神体山に対する祭りの場であったこと、それが一目で判明したのだ・・・・・。

 ・・・・・この地帯の展望場に立つと、大阪湾が東から西まで一望で見下ろせた。大阪湾に入ってくる船が一つ、一つ数えられるような感じ、まさに絶景だった。眼下は、日下(くだか)。あの、神武たちが目指した場所だ。蓼津変電所のあるところである。

 わたしは、瞬時に、了解した。神武たちが、なぜ、この日下の地を目指したのか。問題は、この暗峠をふくむ稜線だ。ここをおさえれば、大阪湾岸全体を手中にできる。背後には、奈良盆地の南端部がひろがっている。同時に、奈良盆地まで侵入すべき端緒をにぎりうるのである。・・・・・

第八章 最上川と御神楽岳と鉄

「鉄の王国」に侵入した近畿天皇家

第九章 歴史の踏絵ー東北王朝

「蝦夷国」とは中国側の造字

 「蝦夷国」とは、何か。この問題を、さらに追いつめてみよう。

 先ず、誰が、この字面を構成したか。――その答えは、ズバリ言って、中国だ。決して近畿天皇家ではない。

 この点、従来の学者は、漫然と、つまり、確たる論証なしに、「近畿天皇家側の造字」と“信じ”て、叙述しているものが少なくない。おそらく、『日本書紀』や『古事記』に「蝦夷」の語が多出しているからであろう。

 しかしながら、忘れてならぬ史料がある。中国のものだ。

   「(顕慶四年〈六五九〉高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」(冊府元亀、外臣部、朝貢三)

 これは、当然ながら“中国中心の目”から見た、「外臣」(中国は、周辺の国々の王者を「外臣」と称した)の記事。その「外臣」からの「朝貢」の記事である。その中に、この「蝦夷国」の表記が現われている。

 これと、並出している「倭国」も、当然ながら、中国側から見た場合、「外臣」である(それを“うけいれなかった”から、唐と倭国〈九州王朝〉との間に戦争〈白村江の戦〉が生じたのだ)。

 その「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである(「」は“はるか”の意。「虫へん」は、“夷蛮用の加付”)。

 もしこれを、「近畿天皇家中心に製作された夷蛮用字」であった、としよう。そんなものを、中国が“採用”して記載するであろうか。考えられない。なぜなら、それは「近畿天皇家」をもって、“諸夷蛮の中心”たる「天子」として承認する。――そのことを意味するからである。文字使用に敏感な、中国がそのことに“うっかり”気付かなかった。――そんな事態を、わたしには考えることが不可能なのである。

 この点、この「蝦夷国」をもって、「九州王朝中心の造字」と見なした場合も、同じ矛盾に逢着する他ない。わたしには、そのように思われる。

 『日本書紀』も、『古事記』も、八世紀初頭の成立。右の「顕慶四年」より、半世紀もあとだ。もちろん、「冊府元亀」は、後の成立であるけれど、その収録原史料が、同時点(唐の顕慶年間)の「朝貢文書」によっていること、およそ、疑いがないところである。この点からしても、やはり、「文字の原記載者は、中国側」

 この帰結は動かしがたい。従来の論者(近畿天皇家中心の称呼と見なしてきた学者)が、なお自家の見地を「保持」しようとするなら、右のわたしの論証に対して、正面から反証してからにしてほしい。・・・・・

敬称として使われた「えみし」

 では、「えみし」とは。これが、新しい課題だ。『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。

   詩烏(えみしを)毘利(ひだり)毛毛那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

    (「ひだり」は“一人。「ももなひと」は”百(もの)な人。岩波『日本古典文学大系』本による。二〇

五ページ)

 この「愛詩」は、神武の軍の相手方、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、「夷(えみし)を」という“文字”を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の“天子中心の夷蛮称呼”の文字だ。このさいの“神武たち”は、外米のインベーダー(侵入者)だ。「天子」はもちろん、「天皇」でもなかった(「神武天皇」は、後代〈八世紀末~九世紀〉に付加された称号)。

 第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという“差別文字”を当てていない。「愛詩」という、まことに麗わしい文字が用いられている。これは、決して″軽蔑語″ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「」は“水の盛なさま”。彼等は“尊敬”されているのだ。

 さらに、内容も、そうだ。

 “この「えみし」は、一人で百人に当るほど強い”

といって、その武勇をはめたたえているのだ。もちろん、その結論は、

“そんなに強い、といわれる彼等さえ、わたしたち(神武の軍)には、全く抵抗さえしなかった

という、自己賛美、いわゆる“手前味噌”に終わっている。しかし、その前提をなす「えみし」観、それは、以上のようだ。「軽蔑」でなく、「敬意」なのである。――これは、何か。

 (青森市の「市民古代史の会」〈三内、鎌田武志氏方〉は、その会報〈月一回〉を『愛詩』と題しておられる)。

歴史の推移を物語る「蝦夷」の二面性

 『爾雅(じが)』は、「周代以前」の史料を、漢代以降に収録した本だ。その中に、中国を中心にして、四方の人々を、一語で表現した個所がある。その詳細は別の機会にゆずるけれども、今は、その要点をしめそう。

 東方の人――仁(日の出ずる所)

 西方の人――信(日の入る所)

 南方の人――智恵

 北方の人――武

 右の「一字批評」は、いずれも、それぞれの特性をしめして、興味深い。だが、今の問題は、次の一点だ。ここには、後世(周代中葉以降)のような“軽蔑語”“差別語”がない。逆に、“評価”し、“敬意”をもった評語となっていることである。

 たとえば、あの『論語』。聖人至高の書とされて久しいけれど、その中には、「東夷・西戎・南蛮・北狄」という、中華主義にもとづく“差別語”が現れている。その点もまた、疑えない。たとえば、「子曰く、夷狄の君あるは、諸夏(中国)の亡きに如かざるなり」(『論語』、八〈はちいつ〉篇)のように。

 このような「中華思想」に汚染された世界、その中に孔子はいた。むしろ、そのただ中において、彼の思想は結実していったのである。しかしながら、これに反し、右の『爾雅』における「四方」観は、いまだ、その「汚染以前」の姿をしめしているのである。

  一つの文明が。偉大な成長々をとげるとき、直ちに、右のような「自己尊大、他者蔑視」の思想に侵される。それが常だ“人間の弱さ”の現われであろうか。中国文明もまた、その例外ではなかった。

 この点、わが国の近畿天皇学もまた例外ならず、同じ「病」に侵された。近畿の先住者(銅鐸圏の住民)に対しては“敬意”ある表現をなした「侵入者」だった。しかし、その近畿の地ですでに“偉大な成長”をとげるにつれ、東北地方周辺の勇者に対し、「蝦夷」と呼び、彼等に対し、さまざまの「差別用語」を累積し尽くすまでに堕落したのであった。

  「今夷狄ノ闇」(『続日本紀』養老七年九月十七日)

  「夫レ狼子野心」(同上、宝亀十一年二月十一目)

 「逆賊首鼠之要害」(同、宝亀十一年十二月十日)

  「夫レ狄俘者(は)、甚ダ紆謀多シ。其ノ言、恒(つね)無シ。輙(たやす)ク信ズ可カラズ」(同上、天平九年四月十四日)

 ここで一言、注意したいことがある。「蝦夷」の語は、“字面では、差別字。発音では、佳語”

 この二面性をもっていることだ。なぜなら、「えみし」という発音のしめすところ、決して「蔑語」の気配は見出されない。神武紀もしめしていたように、「佳字」と対応するもののようであるから。

―――これは、何か。わたしは、次のように考える。

 第一。日本列島内の関東及び西日本の人々、つまり一般庶民は、この東北地方周辺の人々を「えみし」と呼び、敬意を隠さなかった。これは、旧石器・縄文以来の「先進文明の地帯」がこの地帯であったから、当然であった。

 第二。ところが、弥生期以降、中国大陸・朝鮮半島から金属器文明が流入するに及んで、情勢は一変した。先ず、九州王朝、つづいて近畿天皇家(分王朝)が成立し、そこを新しき「文明中枢」として、かつての「先進文明地帯」に対する。差別主義の病”が発生した。中国の“発明”した文字(「蝦夷」)と共に、差別思想をもまた、浅はかに「輸入」し、無法に「模倣」することとなった。これが、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』等に“満ちあふれた”「蝦夷」字使用の歴史的意義なのである。

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