« 生駒市誌   | トップページ | 日本書紀(現代語訳)   »

谷川健一『白鳥伝説』      

                  凡例:(上P.17)=上巻の17ページ お断り:文中の太字部分は引用者がそうしました。

蝦夷のなかを吹き抜ける縄文の意識の嵐(上P.16)

 ・・・・・現存する山人山男の伝承と縄文時代の時間的な距離が遠すぎる・・・・・。その二つをつなぐものとして、歴史的な存在である蝦夷(えみし)を抜きにすることはできない、と私は考える。蝦夷は古くは毛人(えみし)と称されていた。彼らは古代中世において、東北地方で大いに勢威を振るい、中央政権をしきりになやましたが、度重なる武力討伐にさらされ、その居住地はせばめられていった。和人(わじん)の入植によって混血するものもあったが、本来狩猟民であった彼らは、定住して田を耕す習俗になじめなかった。獣皮や木皮を衣服の料に当てていた彼らは、坐して糸を紡ぎ、機を織る仕事にいつまでも不熟であった。言語習慣のちがう彼らは、自由に呼吸できる天地を求めて、奥羽山脈や北上山地など、川の上流の山間や沢地に逃亡し生きのびたものがすくなくなかった。山人や山男の伝承はそうした蝦夷の末裔とつながりがあるのではないか・・・・・。

夷狄(いてき)末裔を以て任じる秋田氏の衿持P.23)

 ・・・・・(歴史家の)喜田貞吉は要約次のような説明を加えている。「安東氏(あんどうし)はみずから安倍貞任(あべのさだとう)の後と称し、その遠祖を長髄彦の兄安日(あび)なるものに擬しているのである。これは万治年間(十六五八~十六六一)、秋田実季(あきたさねすえ)<引用者:/安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名>編纂の『秋田系図』の有力に主張するところではあるが、その説の由来はすこぶる古く、すでに津軽館越北畠家の日記、永禄十年(一五六七)の条に、岩木山祠官家(いわきさんしかんけ)の系図を引いて、その説を録しているのである。しかしさらにさかのぼって松前下国(しものくに)氏所伝の系図によれば、その遠祖を安日長髄(あびのながすね)なるものに帰し、いわゆる安日をもって長髄彦の姓と見倣しているのである。けだし『永禄日記』以下のものに安日をもって長髄彦の兄となすゆえんのものは、長髄彦は神武天皇に抗して大和で誅戮せられ、したがってその子孫の奥州にありとすることが実(まこと)らしからぬがために、その姓名を分かって兄弟の二人となし、もって合理的説明を下すに至ったものであろう。しからばすなわちその説の由来はさらにいっそう古きものとなる。

 その説の史的価値いかんはしばらくこれを措くとするも、後世奥州の一大名たる豪族秋田氏が、他の諸大名のそれぞれ立派な系図を有して、源氏と称し、藤氏と号し、古代名家の因縁を語るものとは大いにその趣を異にして、みずから先住民の後裔をもって任ずる点は注目に値する」(「奥州地方における夷地・秋地の存在」)

 周知のように、世の系図なるものは近世以降作られたものがほとんどで、また書き改められた例がおびただしい。その場合には、自分の家の先祖の出自を中央の貴姓にむすびつけるのが常套である。日本人に特有な貴種への憧憬がそうさせるのである。そこで系図は信用できるかどうかを疑ってかかる必要がある。

 喜田の紹介した「秋田系図」では、秋田家の先祖は奥州安倍氏につながり、長髄彦の兄の安日を始祖とすると称している。そのことは永禄十年、すなわち信長入京の前年の奥州北畠家の日記にたしかめることができる。さらにさかのぼって、松前下国家の所伝の系図には、安日長髄と記されており、安日は長髄の姓となっている。喜田はこのほうが古い伝承とみている。長髄彦は神武との戦いで死んだということから、その子孫が奥州にあるのはおかしいということになって、安日長髄の安日という姓を長髄彦の兄として作りあげたのだろうと言う。とすれば、奥州安倍氏の血脈をひくと称する安東氏や秋田氏は、最初には長髄彦の末裔という意識をもっていたにちがいない。長髄彦は伝説中の人物とはいえ、神武の軍に敵対して殺された。その朝敵を先祖と仰いで恥じないというのは、いったいどうしたことだろうか。ややもすれば中央の貴姓に自己の先祖の出自をむすびつけたがる風潮のなかで、これは異例に属するといわねばならない。それだけにこの系図が一時の扮飾によるものでないことが分かる、と喜田は言うのである。

 ・・・・・喜田は次のように言う。「世の多くの地方土着の豪族が、系図を皇裔神胤(こうえいこうしん)に仮托し、強いてその祖先の出自を韜晦(とうかい)する事にのみ汲々たる中にあって、ひとり秋田氏が、どこまでも先住土着人の後裔たる系図を標榜しておられるということは、なんという尊むべき事実でありましょう。私共が我が日本民族の成立を論ずる上において、忌憚なくその真相を発表し得る所以のものが、この秋田氏の主張に負うところ甚だ少なからぬのであります」

 喜田のこの言葉は今も生きている。秋田氏が明治になっても、ナガスネヒコの兄の安日を自家の系図の筆頭においてすこしも悪びれなかったということは、おどろくべきことである。夷秋の末裔を自認して恥じない秋田氏の衿持には、かならずや、なんらかの歴史の真実が蔵されているとみなければならない、というのが喜田と同様に私の考えでもある。

 異族の末裔たることを誇らしげに公言する秋田氏の胸中には「縄文の意識の嵐」が吹いていたにちがいない、と私は推測する。秋田氏の系図を手蔓(てづる)として、先住民と後来民との間の争闘のドラマが烈しく演じられた時代にまで遡行できるのではないか、と私は考える。

東北地方にみる白鳥信仰(上P.28)

 ・・・・・下北半島の突端の易国間(いこくま)には首長のアシタカがいて、津軽海峡の蝦夷を統率・・・・・

太陽の昇る難波、その東の日下(上P.49)

 直越(ただごえ)の道/饒速日山(草香山)



天磐船で空をめぐり地に降ったニギハヤヒ
(上P.53)

 河内の日下の地がヒノモトと称せられたのは、そこが太陽を迎えまつる難波のもっとも東がわに位置していたためである。そこは太陽祭祀の中心であった。その背後のニギハヤヒ山(草香山)には祭祀の対象としてニギハヤヒが祀られていた。

 ・・・・・ヤマトといい、ヒノモトといい、天磐船に乗って天空から地上を見おろしたニギハヤヒが命名したという伝承が共通してあることは、神武帝が九州から日本の中央である河内、大和へ進出する以前に、ニギハヤヒが蟠踞(ばんきょ)していたことを正史が裏書きするものである。命名者というからには、そこの支配者と考えてもよいであろう。ヒノモトは河内の日下の付近、またヤマトは大和国原というように局限された土地を指していたものが、しだいにその呼称の範囲を拡大し、ついには日本国を指すものとなったと思われる。はじめ小地域につけられていた地名が大地域の呼称となっていくのはごくふつうのことといってもよい。

邪馬台国の中心は筑紫三井郡(上P.98)

 弥生時代、陸地を歩くには、尾根筋か、けものみちしかなかった。見通しは利かず、どんな危険が待ち伏せしているかも分からなかった。そこで当時の旅行は、第一次的には海や川や湖沼などの水路を利用して、目的地に達したと思われる。陸地を通ることは第二次的であった。それはアイヌはもちろん、明治になって北海道の入植開拓者がもっぱら川を交通路として、舟で移動していたことからも分かる。

二波にわたる筑紫から大和への移動(上P.153)

 四世紀初頭の邪馬台国東遷説は、当時の社会変動もしくは文化変動を説明するためのもっとも合理的な解釈である。邪馬台国東遷を支持する論者のなかには、その事実の反映を『記紀』の神武東征説話に求める者がすくなくない。この点についても私は賛成である。これらの論者がただ一点見逃しているのは、神武東征のさいに河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先往者がいったい何者であったか、ということである。この点を不問に付しているために、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている。私か主張するように、さきに物部氏の東遷がおこなわれ、ついで邪馬台国の東遷都があったとするならば、神武東征説話は具体的な歴史の把握がいっそう可能である。

イクメイリヒコ(垂仁)と関わる伊支馬と生駒(上P.174)

 まえにも紹介したが、因幡の伊福部臣(いふくべのおみ)の系図の第十代の彦湯支(ひこゆき)命の条には、「母は伊古麻(いこま)村の五十里見(いそりみ)命の女(むすめ)、河長媛(かわながひめ)」と註記されているが、『旧事本紀』の「天孫本紀」には、宇摩志麻治命は、活目邑(いくめむら)の五十呉桃(いしくるみ)の娘の師長姫(しながひめ)と結婚して二児を生んだと記されている。この二つの記事のうち、五十呉桃と五十里見とは対比される。五十里見には「く」の字音が脱落したとみることができる。また河長媛は師長姫の「師」の草体の字を見あやまって「河」と書いてしまった疑いがある、ということから活目邑は伊古麻村と同一ではないかと佐伯有清氏は推定し

ているが、これまで活目邑がどこの地であるか判明しなかったのを、生駒とした点は評価されてよい。

 伊福部臣氏の系図の第九代の可美真手(うましまで)命は饒速日命を父とし、等弥夜媛(とみやひめ)を母とするが、等弥夜媛は登美の長髄彦の妹である。登美の長髄彦は、『伊勢国風土記逸文』では、「胆駒長髄(いこまのながすね)」と記されている。したがって、長髄彦の居住していた鳥見の地域をふくむ大和国平群郡内の古い地名である伊古麻が活目邑であったことが考えられる。明治二十九年(一八九六)に平群郡は添下郡と合併して、生駒郡と名称を変えた。

 ここで、とうぜん思い起こされるのは、活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)天皇と呼ばれる垂仁天皇のことである。

 この活目を伊古麻と考えると、これまで疑問に思われていた点が解けてくる。垂仁天皇の墓と称せられる菅原伏見東陵は現在の奈良市尼辻町にある。

 『和州巡覧記』には、「菅原伏見東陵の側からくらがり嶺へゆき、大坂へ通る道あり」と記されている。くらがり嶺は椋(くら)が嶺(ね)峠とも呼び、暗峠のことである。暗越(くらがりごえ)大坂街道は、奈良と大坂(阪)の間を最短距離でむすぶ道であった。奈良から三条通を西へむかうと尼辻に出る。そこからさらに西にすすんで、富雄川をわたり、矢田を通過して、竜田川をわたり暗峠にむかう道である。

 その場合の尼辻は、大和郡山からの道とまじわる場所であり、そこに活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)の御陵がもうけられたのは、垂仁天皇が生駒にふかい関係をもっていた証拠とみられる。垂仁天皇の皇子の息速別(いきはやわけ)命の息を生駒の生とむすびつけて考えることもできる。

 また暗峠にむかう大和郡山市の矢田には矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社があって、櫛玉饒速日命とその妻の御炊屋姫命を祀ってある。そして登美は現在の高山町から奈良市の西部にわたる富雄川に沿う古地名とされている。

物部氏を母系とするイリ王朝の創始者たち(上P.179)

 『旧事本紀』の「天孫本紀」によると、ニギハヤヒの五世の孫にウツシコオとウツシコメがある。また六世の孫にイカガシコオとイカガシコメがある。このうちニギハヤヒ五世の孫のウツシコオは、孝元帝のとき大臣となり、活馬長沙彦(いくめのながさひこ)の妹の芹田真稚姫(せりたのまわかひめ)を妻に娶り、一児を生んだとある。活馬は生駒であり、長沙彦は長髄彦(中洲根彦)のことであろう。芹田は地名であるが、その所在は不明である。ただ芹田物部は天物部(あまつもののべ)二十五部人のなかにふくまれている。そこでウツシコオは同族の芹田真稚姫を娶ったことになる。この「天孫本紀」の記事は、ニギハヤヒが長髄彦の妹の御炊屋姫を娶ったという記事を思いおこさせる。いずれにしてもここに物部氏と生駒周辺の土地との関係が強調されている。

 ・・・・・桜井市の太田の北に草川くさがわという小字がある。そこは川も流れていないのに、どうしてそのよ うな地名が付けられたのであろうか。池田末則氏は『日本地名伝承論』の中で、この草川はも と日下くさかの義ではなかったろうか、と言っている。三輪山を御神体とする檜原ひばら神社の地の檜原は日原とも記されている。原はモトとも読ませるので、ここは日の下もとではなかったかとも言っている。 もし池田氏の言うがごとくであるならば、日下の地名とヒノモトの呼称は生駒山麓から三輪 山麓に移動したのである。

神武東征をはばむ生駒のナガスネヒコ(上P.184)

 邪馬台国の東遷を『日本書紀』の神武東征の記事にしたがって、みてみることにする。

 神武東征がなぜ日向から出発したかが、これまでの説明で理解できる。神武の軍隊は、太陽信仰をもつ先往者が生駒山麓の草香に蟠踞していることを前もって意識しているのであって、日の出るところ(ヒムガシ)といった漠然とした場所を目指したのではない。そこで目的地のヒノモトに対して、出発点のヒムカ(日向)が対置されねばならなかった。ヒノモトがヒム力を規定したといえるのであって、その逆ではない。したがってヒムカはかならずしも日向(ひゅうが)にかぎらず筑紫でもよかった。

 邪馬台国が筑紫にあったからには、筑紫から出発したと考えるべきであろう。神武の軍隊は、岡の水門から東へむかった。岡の水門は福岡県遠賀郡芦屋町付近である。・・・・・。

 東遷の軍隊はそこから安芸国埃宮(えのみや)につき、さらに吉備の高嶋宮を経て難波にむかった。こうして安芸とか吉備とか山陽道にたちより瀬戸内海の北岸をすすんでいる。伊予、讃岐、阿波など四国の北岸はその前に東遷した物部氏の通過したところでその勢力がのこっていたので、ことさら四国の北岸を避けて通ったと思われる。

 東征の軍隊は難波津から河内の潟湖(せきこ)をたどって、草香邑の青雲の白肩の津についた。草香は今日の東大阪市の日下町のあたりであるが、背後は生駒山脈につながる山麓の町である。そこには日下貝塚があって、縄文から弥生時代にかけて海辺であったことが立証されている。『古事記』ではそこにナガスネヒコが待ちかまえて東征の軍をなやましたとある。『日本書紀』では、東征の軍隊が胆駒(生駒)山をこえて、中洲に入ろうとしたが、ナガスネヒコはそれを聞いて「天神の子等の来ます所以(ゆゑ)は、必ず我が国を奪はむとならむ」と言って兵隊をひきつれて、孔舎衛(くさえ)の坂でたたかったとある。孔舎衛は孔舎衛(くさか)のあやまりで、日下の坂である。

 この記事でみるように、ナガスネヒコが「自分の国を奪おうとするのか」と敵愾心をもやすのは、彼が大和、河内を自分の領国と考えていたからである。それはアマテラスがスサノオに対して「まさに国を奪はむとする志ありてか」と疑心を抱いたのとおなじ心境である。

 たたかいは東征軍に不利であった。流失が五瀬(いつせ)命にあたって、痛手を受けた。「日神(ひのかみ)の御子なのに、太陽にむかって戦ったからだ。太陽を背負って、その威光で敵を制圧しよう」そう言って、東征軍は大きく迂回する。

 河内の草香(日下)に蟠踞する物部氏が日神信仰をもっており、それゆえに、そこは日の下の草香と呼ばれていた。その太陽信仰の根拠地にまっこうからぶつかったのでは東征軍は勝ち目がない、と考えたのである。「自分たちは日神の御子なのに……」という理由づけはあとになってなされたものである。・・・・・

忍坂へ、そして磯城へ(上P.201)

 ・・・・・そのときに歌ったという久米歌に、

   夷(えみし)を 一人(ひだり)  百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たたかい)もぜず

という歌がある。この歌についてはあとで触れることにするが、ここにあらわれてくる夷が蝦夷を意味する以上、四世紀の前半の邪馬台国東遷当時には、大和盆地から宇陀地方にかけて蝦夷が居住していたとみて差し支えないであろう。・・・・・

物部・ナガスネヒコ連合軍の敗北(上P.204)

 神武の軍隊は兄磯城などを斬り、さいごに長髄彦とたたかうことになった。激しいたたかいで、なかなか勝つことができなかった。そのとき金色の鵄がやってきて、弓弭(ゆはず)にとまった。その光はまるで稲光のようで、長髄彦の軍隊は目がくらみ、戦意を喪失した。長髄というのはもと邑の名で、それが人名ともなったものであるが、金色の鵄が飛来したという瑞兆にあやかって鵄邑と名づけた。それが訛って今は鳥見と呼ばれるにいたった、と「神武紀」は述べでいる。

 鵄邑はどこを指すのであろうか。桜井市大字外山がその一つに比定されている。外山は外見山が二字化した地名であり、中世は鳥見(とみ)荘に属し、式内社の等弥(とみ)神社が鎮座している。この外山は金屋の南で、大和盆地の人口にあたっている。そこは磯城の地でもあり、また磐余の地とも重なりあっている場所である。

 外山は鳥見山の北にあたっている。鳥見山は二四五メートルの高さで、そのふもとからは縄文、弥生、土師、須恵など各時代の土器が出土している。また近くに茶臼山古墳と呼ばれる有名な前期の前方後円墳かおる。

 「神武紀」には「霊畤(まつりのには)を鳥見山の中に立てて、其地(そこ)を号(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつを)の榛原と云ふ。用(も)て皇祖天神を祭りたまふ」とある。

 ここにいう皇祖天神はタカミムスヒのことである。現在鳥見山の一帯には榛原の名が見当たらない。『大和志』には大字外山から東の方にあたる宇陀郡榛原町大字萩原にかけての一帯を大昔には鳥見山と総称していたと述べられている。現に榛原町と桜井市との境界にも七四〇メートルの高さの鳥見山がある。したがって「神武紀」の鳥見山をせまくどこと限定して考える必要はない。

 ただ鳥見という地名については、『和名抄』に添下郡に鳥貝郷があることから、その関連が問題にされねばならない。

 式内社の「添下郡登弥(とみ)神社」は古代の鳥見荘の中心である。生駒市の長弓寺に祀られている牛頭(ごず)天王社(現在イザナギ神社)がかつての登弥神社であるとする『大和志料』の見解はあとに述べるが、桜井市大字桜井にも式内社の「城上(しきのかみ)郡等弥(とみ)神社」が存在する。一方は登弥、他方は等弥で字はちがうがおなじくトミである。桜井市の等弥神社はもと鳥見山中にあったものを、現在地に移したのだという。

 こうしてみれば、大和盆地の西北部と東南部に二つのトミと呼ばれる地域があったことはたしかである。私の考えでは、大和盆地の西北部にいたナガスネヒコが大和盆地の東南部でも勢力をつよめていって、神武の軍を防いだのだろうと思う。ニギハヤヒを奉斎する物部氏も東南部に移動したことは、さきに述べたように、桜井市の外山の北に接する金屋に志貴御県坐神社が鎮座し、その祭神はおそらくニギハヤヒであり、またそれを祀る志貴連が物部氏であったことからも明らかである。

 ナガスネヒコは使者をつかわして天皇に申し入れをした。「昔、天つ神の子がいて、天磐船にのって天から降ってきた。櫛玉饒速日命という名の神である。この神は自分の妹である三炊屋媛(亦の名は長髄媛、亦の名は鳥見屋媛<とみやひめ>)を娶って、子どもを生んだ。その生んだ子の名前は可美真手(うましまで)命と言った。私は饒速日命を主君としてつかえまつってきた。天つ神の子どもに二種類あるはずはない。きっと、天つ神の子といつわって、人の地をうばおうとやってきたのだろう」

 そこで神武帝は使者をとおしてナガスネヒコに答える。

「天つ神の子は数多くある。おまえが主君として仕えている者が、もしほんとうに天つ神の子であるならば、かならずその表徴とする品物をもっているはずだ。それを見せよ」

 そこでナガスネヒコはニギハヤヒの天羽羽矢(あまのははや)と弓を射るときに使う歩靫(かちゆき/ヤナグイ)とをもってきた。

 天皇はそれを見て、「ぽんとうだ」と答え、自分の天羽羽矢と歩靫をみせた。ナガスネヒコは恐れかしこんだ。ニギハヤヒはナガスネヒコの性質がねじけていて、教化できないことを知ったので、ナガスネヒコを殺し、天皇に帰順した。神武帝はもともと、ニギハヤヒが天から降ったということを知っていた。しかも今、忠誠心を示したので、それをほめたたえた。ニギハヤヒは物部氏の遠祖であると、「神武紀」は伝えている。

 このようにして、物部氏とナガスネヒコ連合軍は、神武の軍のまえに敗北した。このことは、先往者の物部一族が原住民の首長のナガスネヒコとともに河内、大和に勢力を張っていたところへ、邪馬台国の主体が東遷して、両者の間に戦闘がおこなわれたことを意味するものでなくしてなんであろう。「神武紀」にはナガスネヒコが二度にわたって、天つ神の子たちがやってきて「わが国」あるいは「人の地」をうばおうとすると怒る箇所かおるが、それはたんなる文飾ではあるまい。大和は自分の国だという意識がナガスネヒコにあったことを示しているのである。・・・・・

久米部とエミシとの戦闘(上P.210)

 『日本書紀』の神武東征の条をみると、天皇の軍隊の中核をなしていたのは大件氏と、それにひきいられた久米部であったことが分かる。・・・・・

 『古事記』には、久米部がナガスネヒコを撃破したときの歌が、幾首か載っている。その一つに、

   神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石(おひし)に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這(は)ひ廻(もとほり)り 撃ちてし止まむ

という歌がある。『古事記伝』をはじめとして、従来の解釈は、ナガスネヒコの軍隊を隙間もなくとりかこむ形容に、シタダミという貝が大きい石の上をはいまわる格好をもち出しかのだ、としている。

 すなわちシタダミは天皇の軍のたとえとしてもち出したものと理解されている。しかし実際はそうではなく、シタダミは逃げ足の早い敵の形容と解すべきである。私は先年、能登半島に旅行したとき、七尾湾の海岸で岩をはっているシタダミをとっている老人に出会った。その老人から、シタダミは、天候に敏感で、嵐などの悪天候になりそうなときは、それを予知していちはやく岩の裏面にかくれるという話を聞いた。シタダミのこうした習性を逃げ足の早い敵になぞらえたものであることがそのとき分かった。・・・・・

 その久米歌の一つに、

   夷(えみし)を 一人(ひだり) 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たたかい)もぜず

という歌かある。この歌についてはさきにも触れたが、夷は『日本書紀』の原文では、「愛瀰詩(えみし)」となっている。この歌の意は、蝦夷は一人で百人に当たることのできる強い兵士だと人は言うけれども、自分たち来目(くめ)部に対してはなんの抵抗もしない、というのである。ここにおいて蝦夷が登場することは注目に値する。・・・・・

 エミシについてはもう一つの記述がある。それは前にも述べた『住吉大社神代記』の中の『胆駒神南備山(いこまかんなびやま)本紀」にみえる。ここでふたたび紹介すれば、

   「四至、東限胆駒川、竜田公田。南限賀志支利(カシキリ)坂、山門(ヤマト)川、白木(シラキ)坂、江比須墓西限母木(オモノキ)里公田、鳥坂(トサカ)里。北限饒速日山」(下線筆者)とある。

 ここに江比須墓の名がみえる。江比須を海に縁由ある夷(えびす)神ではないかと疑ってみることはできるが、夷神が墓に葬られるのはおかしいことに気づく。そこで、ここの江比須は文字どおり蝦夷の古称とみるのが妥当であると私には思われる。それにしてもナガスネヒコの本拠の生駒山の南にエビスの墓があるというのは、両者の関係の深さが想定される。『住吉大社神代記』には胆駒、母木、饒速日など神武東征あるいは物部氏に縁由ある地名がみられるから、この江比須墓もおなじように神武東征あるいは物部氏に関わりがあると考えることができる。

大和の国魂ニギハヤヒを祀る者は誰か(上P.218)

 ・・・・・畿内に移住した物部氏は大和に勢威を張っていたナガスネヒコと姻戚関係をむすび、みずからの奉斎するニギハヤヒの魂をナガスネヒコに付着させた。そこでナガスネヒコは大和の国魂を身につけることになり、強大な威霊の助力によって、神武の軍をなやました。

 物部氏も邪馬台国も出身地はおなじ筑紫平野であり、物部氏の東遷は、邪馬台国の東遷に先立って、その一部が先発したというにほかならなかった。そのことはナガスネヒコがニギハヤの天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき/ヤナグイ)を神武帝に見せ、神武帝もおなじように天羽羽矢と歩靫をナガスネヒコに示す、という条に暗示されている。折口信夫は「同種族の分離して、別に住むべき地を求め行く別れの際に、とり換す聖器の物語として、類型の多いものだ」と述べているが、この指摘は肯綮(こうけい)にあたっている。神武もニギハヤヒもおなじく天つ神の子としての表徴を所有していた。ということは、東遷した物部氏もまたそれから一世紀半おくれて、四世紀の前半に東遷した邪馬台国も、その出身地がおなじであったことを示しているのである。天羽羽矢と歩靫は同族のしるしにほかならなかった。

ニギハヤヒと妻ミカシキヤヒメの廟社(上P.231)

 『旧事本紀』の「天神本紀」に記載されたニギハヤヒの降臨伝承をもう一度みてみよう。

 「饒速日尊、天つ神の御祖の詔を稟(う)け、天磐船(あめのいはふね)に乗りて、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降りまし、則ち大倭国(おおやまとのくに)の鳥見(とみ)の白庭山(しらにはのやま)に遷ります。いはゆる天磐船に乗りて、大虚空(おほぞら)を翔(かけ)りゆき、この郷(くに)を巡りみて天降ります。いはゆる虚空(そら)見つ日本国(やまとのくに)というは是か。饒速日尊すなはち、長髄彦の妹御炊屋(みかしきや)姫を娶り、妃と為して妊胎(はらまし)めたまふ。いまだ産(うむ)時に及ばざるに、饒速日尊既に神殯去(かむさり)まして復天にのぼりたまはず」

 ニギハヤヒは河内の哮峯に降臨したが、そのあと、大和国の鳥見の白庭山に移った。そうして、ナガスネヒコの妹を娶ったが、子の誕生をみないで、亡くなった。という内容で、これは、物部一族が河内から大和の西北部の鳥見地方に進出した歴史を伝えていると思われる。鳥見地方は、『和名抄』にいう添下(そうのしも)郡鳥貝(とりかい)郷である。そこに富雄(とみお)の地名がある。現在は生駒市に属する。
 では白庭山はどこを指すのであろうか。

 『大和志料』には添下郡の条に真弓塚(まゆみつか)の名をあげて次のように説明している。

 真弓塚は長弓寺の東がわにあって弓塚とも呼んでいる。鳥見(とみ)郷(『和名抄』の鳥貝郷)にふくまれている地域で、南田原、高山とともに今なお鳥見谷と称せられる。有名な鳥見小河(富小川)は源を高山の竜王山に発し、鳥見谷、鳥見庄を経て南流する。長弓寺は河の東辺にあり、塚は寺の東にある。塚の形は穹窿(きゅうりゅう)であって、墳壟(ふんろう/土を盛り上げた丘)のようであり、丘陵のようでもある。寺号を真弓山長弓寺と称しているのはこの塚に因んだ名である。ニギハヤヒの遺物である弓矢などを納めたところという伝説にもとづくものらしい。

 『旧事本紀』にも天羽羽弓や天羽羽矢を登美の白庭山に埋め、ニギハヤヒの墓としたとある。さきに述べたように、南田原や高山や上村を鳥見谷と称したが、白庭山は鳥見谷の上にある。これは真弓岡(まゆみがおか)の旧名である。

 真弓岡を白庭山と比定するものとしては、諸書がある。石上神宮の神官の森氏の所蔵する『布留神宮旧記』、または『石上考』がそうである。また『大和国陳迫名鑑図』には鳥見の長弓寺の坊舎八坊は長髄彦の旧跡であり、ニギハヤヒとその妻の御炊屋姫の廟社があり、観音は型武天皇が建立したとなっている。ということから、長弓寺の場所は長髄彦の旧跡で、ニギハヤヒとその妻の御炊屋姫の霊廟もここにあったと考えられる。

 『延喜式』「神名帳」の「添下郡登弥(とみ)神社」は、『大和志』によると、木島(このしま)村に在り、近隣の六村とともに祭祀にあずかるとなっている。そこは富雄村の大字石木字木島(現在奈良市石木町)にある村社とされている。石木もまた、いにしえの鳥見地方ではあるが、もともと鳥見の本拠は、南田原、高山、上村であって、河内の私市へ越える坂路、つまり岩船越えの道にそった山間の部分の総称である。だから昔は、岩船越えを上津鳥見路(かみつとみじ)と称したのであることは、春日若宮の神主の千鳥家の古文書にみえている。そうであれば式内社の登弥神社はまさに鳥見の本拠の長弓寺あたりにあるのがとうぜんである。

 『布留神宮旧記』には「櫛玉饒速目尊は大和国鳥見明神河内国岩船明神是也」とある。これは、饒速日命を大和では鳥見明神として祀り、河内では岩船明神として祀ったということを示している。ところがいま、南田原(現在生駒市)に岩船神社と称するものはあるが、鳥見明神と称するものはない。おそらく南田原の岩船社はニギハヤヒがはじめて大和に入っだ旧跡を祀ったものであって、一方、鳥見明神というのは、さきに述べた長弓寺の場所に置かれたニギハヤヒ、御炊屋姫の廟社であって、武内社の登弥神社はそれである。

 以上は『大和志料』の説をながながと紹介したのであるが、同書はその理由をさらにくわしく次のように述べている。

 今、長弓寺あたりをさがしても鳥見明神というのは見当たらないが、長弓寺の鎮守に牛頭(ごず)天王・八王子がある。牛頭天王は大宮と称し、八王子は若宮と称しており、古来、鳥見地方のもっとも尊崇した神社である。これらの神社は、天平十八年(七四六)、聖武天皇が行基に勅命を下して伽藍を遣らせたとき、その鎮守として牛頭天王と八王子をここに祀ったというが、信じるにたりない。第一、長弓寺の創立を聖武天皇の頃とするのも疑わしい。要するにそれは有名な神社に神宮寺をおき、僧侶を祭事にあずからしめたことから、ついには神社を天王と名づけ、八幡と称して寺の鎮守とさせたものにぽかならぬ。

 そこで、この大宮はニギハヤヒと御炊屋姫を祀る式内社の登弥神社を指し、若宮はその子のウマシマジを祀るところであったのが、中世に仏寺をこの神地に建て、行基が作ったと称する白檀の観音像を安置し、真弓塚にちなんで、真弓山長弓寺と称したために、ついに牛頭天王と称せられて、寺の鎮守神となるにいたったものであろう。

 それの証拠に、長弓寺のかまえはふつうの寺と変わっていて、まず寺の惣門(そうもん)のまえに大鳥居がある。この大鳥居はまさに大宮(牛頭天王)に属するもので、全境内を総括するものである。そして社殿は東のはしにあり、寺の堂塔や坊室はその道を開いた南方にある。そこで、すべてこの大鳥居を経由して寺に出入するのがふつうである。これは長弓寺のつくられるまえに大宮があり、境内がことごとく神地であった証拠である。ニギハヤヒと御炊屋姫の廟社が長弓寺にあると『大和国陳迹名鑑図』にあるが、大宮以外にそれをどこに求めることができよう。そこで今、天羽羽弓などを納めた場所は真弓塚であり、武内社の登弥神社も大宮牛頭天王であると考えられると、『大和志料』の著者は結んでいる。

 これに対して『生駒市誌』(昭和四十六年〈一九七一〉発行)の中に収録された池田勝太郎の論文はまた別の説をとなえている。池田は大正十三年(一九二四)頃に北倭村(現在生駒市)に組織された金会鵄の代表者で、長弓寺の住職の依頼で鳥見の史跡をまとめた。それによると、鳥見白庭山は、北倭村の白谷にあるとしている。白谷の名は白庭山の遺称であるという。さきに『大和志料』が、『大和国陳迹名鑑図』の記載を引用して、長弓寺の境内の外にある真弓塚をニギハヤヒの墳墓としているが、真弓塚というのは聖武天皇が神亀五年(七二八)三月に狩猟に出かけたとき、真弓長弓なるものを葬らせた墳墓であって、真弓山長弓寺は真弓長弓が非命に死んだのをあわれんで僧行基に勅命を下して開いた寺であるから、ニギハヤヒの事蹟と関係がない。ただ真弓塚という名称がニギハヤヒの遺物をおさめるという話と偶然に暗合しているのでそうした想像をしたにすぎない、としりぞけている。そうして、長弓寺から富雄川をこえた白谷のあたりにある檜(ひ)の窪(くぼ)山をニギハヤヒの墳墓に比定している。

 池田勝太郎が長弓寺の縁起を引きあいに出しているのはいかがわしい付会の説であって、とるにたりない。おそらく依頼された長弓寺の住職の言をそのまま受け入れたのであろう。ニギハヤヒ自体が神話の人物であるからその墓がどこにあるかをさだめるというのは土台むりな話である。しかしそれはともかくとして、真弓塚と白谷は直線距離にしてニキロくらいしかへだたってはいないことから、河内から侵入した物部氏がニギハヤヒを奉斎して大和に最初の根拠地をきずいたのがこのあたりであったことは疑うべくもない。したがって式内社の登弥神社の所在地を長弓寺の境内と比定する『大和志料』の説は妥当というべきである。

 私も昭和五十七年(一九八二)秋、大和に旅して、長弓寺の東がわをまわり、真弓塚を訪れてみた。そこはいま造成された団地の一角にある。石段をのぼっていくと、丘の頂上に出る。そこから見下ろすと近くには矢田丘陵とその背後の生駒山脈がのぞまれ、とおくには葛城の山々がかすんで見える。そこは大和、河内、山城の境目にあり、河内からはじめて大和平野に進出した物部一族がこの真弓塚にのぼって日神(ひのかみ)ニギハヤヒを祀ったと想像していっこうに差し支えないところである。いま背後は樹林に蔽われているが、その樹林がないとすれば、三百六十度の視野をもつ円丘が真弓塚である。それはあたかも円墳のごとく、平野の中に孤立した小丘で、高さは二〇〇メートルに足りないが、大和平野を一望のもとに納め得る。物部一族は、真弓塚の天頂に太陽がかがやくとき、日神ニギハヤヒが彼らの前に現れるような気持ちを抱いたであろう。・・・・・

もう一つ、鍛冶氏族には鳥の伝承がまつわる(上P.245)

 ・・・・・『日本書紀』には「長髄は是邑の本の号(な)なり。因りて亦以て人の名とす」とある。これについて池田(末規)氏はナガスネは中洲根であり、中洲は大和、ネは大和島根のネであろうと言っている。『日本書紀』に神武の軍隊が「胆駒山をこえて中洲(うちつくに)に入らむと欲す」とあるが、この中洲をナカスとすればその中心になるのが中洲根ということになる。そこにいた異族であるので長い髄の強敵という名を奉られたのである。・・・・・

銅鐸の破砕は何を意味するのか(上P.288)

 ・・・・・銅鐸は住居址や墳墓からは出上せず、村落から離れた小高い丘の斜面などに穴を掘って埋めてある。杉原荘介は、銅鐸がこれまで墓地の副葬品であったことは一例もないと言っている。墓地の副葬品であれば、それは権力者の個人所有品として宝器の性格をもっていたわけである。しかし銅鐸にはその上うな性格はないとみとめねばならない。銅鐸は共同体社会が共有して、共同の行事に使用された祭器である、と言う。

 杉原によると、銅鐸の製作年代は西暦一〇〇年前後から二五〇年前後であり、また使用年代の下限は三〇〇年前後であるという。そして二五〇年前後から三〇〇年前後にかけて、つまり弥生時代後期の後半に西日本のどの地方にか、地域的に政治権力をもつ勢力が伸張し、その政治権力は銅鐸を祭器とする共同体組織を破壊しはじめた。そこで銅鐸を隠匿することで、新しい社会に順応せざるを得なかった。その隠匿にさいしては、いくつかの共同体組織が協議してその場所を選定したこともあったであろう。多数の銅鐸が一か所から出土した例があるが、それはこのような事情によるものであることを暗示している、という。

 杉原の考えは、外部の政治権力の圧迫によって銅鐸が隠匿されたというものであって、考古学者の諸説のなかでは、私の考えにもっとも近いものである。ただ、三世紀の終わり頃に銅鐸祭祀の盛行した社会が無権力の共同体的な社会であった、という杉原説には賛同することはできない。銅鐸祭祀のおこなわれた地方は物部王国と称すべきものがあり、蝦夷と協同した統治形態があった。その形態は共同体の連合組織を統御するものであったにせよ、物部氏の政治権力を否定するものではなかった。

 それを暗示するように、東大阪市の石切剣箭神社から一キロほどの東大阪市弥生町の鬼虎川遺跡からは、銅鐸や銅剣の鋳型にまじって、儀使とみられる木製品が出土している。それはイヌガヤの木で作った小さく素朴なものであるが、洗練された彫刻がほどこしてあって、日用雑器とは別のものであることは明瞭である。もしこれが儀杖であることがたしかならば、古墳前期のいわゆる玉杖の前身ともいうべきものである。祭司と首長をかねた者がそれをもつ資格があったと推定される。この出土品は生駒山脈の西麓には弥生時代に王権の萌芽が発生したことを告げている。・・・・・

大和における弥生終末期の大変動(上P.292)

 ・・・・・弥生時代の終末期に、大和地方には大きな変動が起こった。それは九州島にあった邪馬台国が東遷して、それまで大和地方を支配していた物部氏と蝦夷との連合政権を侵害しはじめたからである。物部氏はそれまでに河内の日下から発して大和を掌握していた。その大和地方の根拠地もはじめは生駒山脈の東がわの西北部にあったのが、やがて東南部の三輪山の付近に移された。それも束の間であった。邪馬台国の軍隊は大和国中の後背地から侵入し、物部と蝦夷の連合軍との間に激闘がくりかえされた。大和平野の大半の村々はほろんだ。

 蝦夷の兵士は勇敢で敵を散々なやましたが、物部氏の主力は邪馬台国に屈服した。それは物部氏の支配していたヒノモト王国の終焉を意味するものであった。唐書に倭国が日本を併合したというのは、このときの戦闘による倭国=邪馬台国の勝利と、物部氏の支配するヒノモト(日本)国の敗北を述べているのである。ヒノモトの国の村々では、銅鐸を破砕するか入知れぬ丘陰に埋納するかして敵の目から隠した。銅鐸は物部王国のシンボルであって、王国が崩壊した以上、それを祭祀のために使用することは許されるはずもなかったのである。

 邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地をもつ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。また両者はもともと九州の筑紫平野を本貫とするという同根の親しみがあったからである。それに引き換えて、蝦夷は異族であった。その首長は憎悪をこめて殺された。がっては河内、大和に進出していた蝦夷の勢力は東国への後退を余儀なくされた

 一方、物部氏の傍流もまたヤマト政権の中核に参加することなく蝦夷と行動を共にした。ヤマト朝廷の組織のなかに組み入れられて宮廷に奉仕する物部氏を『古語拾遺』は「内物部」と呼んでいる。同書には「饒速日命内(うち)物部を帥(ひきゐ)て、矛・盾を造り備ふ」とある。それに対して、その体制の外にある物部は、いうなれば、「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この外物部は物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推察できる。それら国造はヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格をもっている。彼らは蝦夷と共存したがいに協力しあったとみられるふしがある。

 四世紀の初頭、河内、大和地方を彩った惨劇ののちも、蝦夷と外物部はかつて中洲に覇を唱えていた頃の栄光を忘れることはできなかった。彼らはヒノモトもしくは日高見(ひたかみ)の呼称をも、東へともちはこんでいった。これらの呼称はいったんは常陸に滞留したが、やがてはヤマト政権の軍事力の埓外にある陸奥国の北上川の流域に定着をみたのである。そこで次に目を東へと転じて物部氏と蝦夷の足跡を追ってみよう。

ナガスネヒコの兄安日を始祖として創出した心理(下P.174)

 ・・・・・もう一つの例をあげる。それは安東(あんどう)氏の末裔と称する秋田氏の系図「寛政呈譜」である。これにも、むかし、安日(あび)王と長髄彦の兄弟が摂津国の胆駒(いこま)岳に住んでいたが、神武帝が東征して大和に入ったとき、安日は放逐された、とある。安日の子孫は北海の浜に数代とどまっていたが、崇神天皇の御代、安倍将軍河別(かわわけ)命が夷秋を追討するとき、安日の末裔が将軍に従って軍功があったので、将軍は自分の氏の安倍を与えた。そこで安倍を称するようになったという。

 『会津旧事(くじ)雑考』と秋田氏の系図「寛政呈譜」の二つの事例は、いずれも共通した点がすくなくない。

 だが、ここに登場するナガスネヒコの兄の安日なる人物は、『記紀』などの正史には一度も登場しない。そこでそれが奥州でつくられた伝説中の人物にすぎないことは明らかである。問題はなぜこのような人物が創作されたかということである。

 太里亮は『姓氏家系大辞典』の中で、安藤(安東)氏や秋田氏の系譜の始祖として、叛臣のナガスネヒコの血筋をひく安日をもってきたことは、それが架空ではなく真相を伝えているかにみえるが、明らかに将門の裔、純友の裔でないものが、武家時代にはその後裔と伝えるものが多いのと同様、武勇をことに尊んだ結果にほかならない、としている。

 しかし太田の説明ではなお不足である。奥州の安倍氏は蝦夷の末裔とみなされていた。またその安倍氏の流れをくむ安東氏や秋田氏もおなじ立場に立っていたはずである。出自に負い目をもつこれらの人たちが「武勇を尊んだ」結果、ナガスネヒコの係累である安日なる人物を創作したというふうにはとうてい考えられない。将門も純友も朝廷に叛いたとはいえ、おなじ武士仲間である。しかし、『古事記』はナガスネヒコを「賤しき奴」と呼び、『日本書紀』はナガスネヒコは性質がねじけていると述べている。長髄という名前は、『越後国風土記逸文』に

いう八掬脛(やつかはぎ)を思わせる。八掬脛は土蜘蛛(つちぐも)の後であると記されている。大和朝廷の統治下にたやすく入らなかった先住勢力は土蜘蛛と呼ばれた。越(こし)の国は蝦夷が多く住んでいたから、この八掬脛もその一類であったと思われる。『常陸国風上記』茨城(うばらき)郡の条にも八掬脛(夜都賀波岐〈やつかはぎ〉)の名がみえる。それは土蜘蛛(都知久母〈つちくも〉)とおなじであり、土窟(つちむろ)を掘って、その穴に住み、狼の性、梟(ふくろう)の情をもち、風習やならわしがちがっていて融和しようとしない、と述べている。つまり八掬脛は明らかに異族として取り扱われている。

 こうしてみれば長髄彦も異族としてみられていたことは明らかである。

 大和朝廷から異族として蔑視されているナガスネヒコの兄をわざわざ創作して、それを自分たちの始祖とするということかあり得ようか。ふつうの場合、そうしたことは起こり得ない。奥州の安倍氏がもともと蝦夷であったとしたならば、その出自の跡をむしろ消そうとつとめるはずである。安日なる人物を創作した根拠はおそらく一つしか考えられない。

 それは奥州の安倍氏が勢威を誇っていた時代、神武帝の軍隊と勇敢にかたかったナガスネヒコの武勇に対して、おなじ蝦夷族としての共感と誇りをおぼえたということである。ナガスネヒコが蝦夷であったという伝承が古くから存在していたのであったろう。

 しかしそればかりであろうか。ナガスネヒコの兄を創り出した心理の底には、物部氏とナガスネヒコが連合していたというかつての事実への親近感がひそんでいなかっただろうか。東国における物部氏と蝦夷との関係は親密なものであったと考えられるから、それが強調されたのではないか。

安日・安倍はアイヌ語のアペ(火)に由来する(下P.178)

 問題はそれだけにとどまらない。ナガスネヒコの兄なる人物を創作した際に、それを安日と命名したのはなぜか。たやすく考えられることは、安日=安倍というふうにつなげていくためであった、ということである。しかし、ここにまた奇妙な事実がある。バチェラーの『アイヌ・英・和辞典』を引くと、アイヌ語で火をあらわす単語は、abe(アベ)またはapi(アピ)である。とすれば、安日も安倍もおなじく、アイヌ語の火をあらわしている。

 ここにおいて問題は深刻さをます。田中勝也氏も『幻の日本原住民史』の中で、この点を指摘していて、「アベはアイヌ語で火を意味するapeからから出たものと考える。本来的にアイヌ族の氏族であったのであろう」と言っている。しかし田中氏がこれを「ごく小さな問題」と片づけ、発展させようとしていないのは残念である。田中氏は安日についても言及している。田中氏によると、安日なる人物は、新興九州勢力によって打倒された畿内王権の代表的人格の投影した存在として伝脱化したものだという。畿内王権が神武軍に圧倒されたのち、その王権の代表的人格が征服者の報復を受け、殺されたり追放されたりした。こうしたことは、いつの時代にもみられた政治的軍事的事柄である。田中氏は、安日が東北部深く津軽の海浜地帯に追放されたこともあり得るとしている。そして安日の一族は津軽半島の沿岸部を中心に土着したという説をとっている。

 要するに田中氏は、畿内王権の代表者の係累が追放の憂き目におって津軽の果てに逃れたということを史実としてとらえているようだ。

 しかし、四世紀前半、物部・ナガスネヒコの連合軍が邪馬台国の軍と戦ってやぶれたとき、ナガスネヒコの一派が津軽の果てまで逃亡し土着したと考えられるだろうか。亡命地をさがすにはそのように遠くまでいくにはおよばない。駿河も常陸も彼らをかくまう蝦夷の巣であったはずである。

 また田中氏は、せっかく安倍の姓をアイヌ語の火に由来するとしながら、安日なる人物をたんに畿内王権の代表的人格の投影的存在と規定するだけで、それを蝦夷とみなしていない。つまり田中氏は安日なる人物は倭種であって、津軽に逃亡したあとは蝦夷族から高貴な王族として遇されたと考えているのである。

 だがしかし、ナガスネヒコが蝦夷であったとすれば、その兄として創作された安日もまた蝦夷とみなすのがとうぜんであろう。そうすればその安日という名がアイヌ語の火に出来するのもまことに合点がいくのである。

 田中氏は、さきの秋田氏の系図の後段に、先祖である安日とナガスネヒコの兄弟は摂津国の安倍伊(胆)駒に住んでいたが、神武東征のおり、安日は放逐され、その子孫は北海の浜に住んだ、という記事があるのに着目している。

 また別の「秋田系図」に、安日とナガスネヒコは弓矢をたずさえ、黄牛に乗って中洲(うちつくに)に出てゆき、摂津胆駒岳に止住した。そして主君のウマシマジに中洲を支配させた。安日は胆駒岳に住んでいたので、そのあたりを安日野と呼んだ。神武帝が日向(ひむか)国から中洲に入ろうとしたとき、安日とナガスネヒコは、中洲はわがウマシマジの国であると主張して、胆駒岳のあたりで十余年たたかった、とある条を紹介している。

 つまり、この二つの「秋田系図」によると、今日でも大阪市にその名の残っている阿倍野は、そこに安日なる人物が住んで、一帯を支配していたからつけられた地名である、ということになる。

 安日なる人物が創作されたとしても、阿倍氏とむすびつけることは可能であろう。そこで安日と阿倍との関係が問われねばならないのである。

 奥州の安倍氏を安日の末裔とする説の他に、大彦命の子孫の阿倍氏にむすびつける説がある。またその折衷として、かつて安日を始祖とし、安東姓を名乗っていたが、途中、阿倍氏をたまわった、とする説のあることはさきに紹介したとおりである。

 安日の正体は異族であるナガスネヒコの兄であるから、蝦夷の匂いがはなはだつよい。安日または阿倍がアイヌ語の火をあらわしていることもその傍証となる。しかしそれ以上のことは分からない。そこで阿倍氏の素性をみてみなければならない。

安倍と阿倍を結ぶ物部氏(下P.181)

 この安日伝説がいつから始まったのか、それをさかのぼってつきとめることは困難である。しかしすくなくとも、室町時代には安日の伝承が存在していたのではないかと推定される。というのも、序章にも述べたように、永禄十年(一五六七)の奥羽北畠家の日記に安日の名が記されているからである。

 正保三年(一六四六)に書かれた「新羅(しんら)之記録」に伊駒安東大政季なるものがみえるが、この名の伊駒は摂津国安倍野伊駒(生駒)に先祖の安日が住んでいたという伝承をふまえたものであることは明らかである。伊駒安東大政季は享徳三年(一四五四)に松前に移っている。その伊駒政季の主君は秋田城の介(じょうのすけ/城主)安日尭季(あべたかすえ)であって、安東氏の出である。このように伊駒や安日の姓を名乗っているのは、やはり自分たちの先祖をつよく意識してのことである。

 奥州安倍氏には、以上みたように、大彦命(引用者:孝元天皇の長男)の末裔の阿倍氏にあやかろうとしながらも、独自の先祖を主張する自主性が失われていない。新井白石が『藩翰譜(はんかんふ)』の中で、安東氏の系脈をひく秋田氏に触れて次のように述べていることは傾聴に値する。

 「神孫未だ此国を知(しろ)し召さざりしさきに、此国を知れる人の子孫、今の世に至りて、其家を絶たず、郡邑をも知ると云ふ事は、猶他の国には、例あるまじき事にて云々」

 さて、奥州の安倍氏と大彦命の末裔の阿倍氏とは奇妙な関係にある。大彦命が越の国へ、またその子の武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)が東海へ進出した目的は、ほかでもなく、まつろわぬ蝦夷を制圧するためであった。おなじアベを称しながら、阿倍氏は蝦夷を討伐し、一方の安倍氏は蝦夷としてそれを迎え討つという敵対関係にある。

 しかしこれまでみてきたように、奥州安倍氏と物部氏との関係は次のように密接である。

 つまり、物部氏は奥州安倍氏の先祖の外戚にあたる。一方、大彦命の母のウツシコメ命は、物部氏の直系で、ニギハヤヒからかぞえて五代の孫にあたる。

 このように大彦命の末裔の阿倍氏も物部氏に深い関わりがある。

 奥州安倍氏が大彦命の末裔から安倍姓をたまわったという伝承をもち、両者の交流を強調しているのは、両者が物部氏と関与している事実からしてもおかしくない。・・・・・

奥六郡在地の蝦夷とむすぶ鎮守府将軍の物部・安部氏

 安倍氏が蝦夷の首長とみなされていたことはたしかである。それはまぎれもない事実で安倍氏としても否定しようがなかった。夷の源流をたどれば、中央の歴史においては異族の元祖ともいうべきナガスネヒコにたどりつく。正史の『日本書紀』にもナガスネヒコの妹は物部氏の祖神のニギハヤヒと婚を通じたと記されている。ここに安日なる人物を創作してナガスネヒコの兄とすれば、物部氏の祖神と奥州安倍氏の始祖は外戚の関係でむすばれることになる。奥州安倍氏はそうした細工を施すことで、自分の地歩を有利にしようとはかった。この安日なる人物は奥六郡の物部氏との接触なしには生まれ得なかった。しかしその名前のアピまでが創作ではなかった。そしてまた四世紀前半にみられた物部氏と異族のナガスネヒコとの連合関係はきわめて古い伝承として、みちのくの蝦夷のなかにもながく生きていたのであったろう。そうしたことが安日なる人物を誕生させた背景であったろう。

 だが、神武東征の際、ナガスネヒコは殺され、その兄の安日は津軽の卒土浜(そとがはま)の安東浦(あんどううら)に流されたという伝承の部分は、奥州の安倍氏が前九年の役に敗退して、奥六郡から一掃され、その

残党が津軽に落ちのびていったあとにつくられたに相違あるまい。

 津軽の安日も爾薩体(にさたい)の安比もともに安倍氏につながっているということから、爾薩体の安比については、高橋氏は次のように言う。

 「津軽安東氏は奥州安倍氏の流れを汲む一族で、前九年の役に敗れ去って四方に散りかくれた一族の中で、中世になって大きく息を吹きかえした代表支族と言ってよい家柄である。とすれば安日王は、そんなに遠い大和の方から追放にあう必要はないので、すぐその隣の奥六郡方面の安倍氏旧領から落ちのびてきたもの、というように考えておいてよい」

 高橋氏はこのように津軽安東氏の系図にみられる安日王は、奥六郡から安倍氏が退去したあと、そこから落ちのびてきたものだというのである。今の二戸市の安比という地名も、その痕跡だというわけである。津軽の卒土浜の安東浦に流されたというのは、津軽の安東氏がつくりあげた伝承であろう。しかし、ナガスネヒコの兄の安日王を先祖とするという部分だけは、安倍氏が奥六郡に勢威を張り、物部氏と協力関係にあったときにすでに生まれていたものであったろう。

 ただ高橋氏が「遠い大和の方から追放にあう必要はないので」というのはどうであろうか。安日王をナガスネヒコの兄とするかぎり、そうする必要があるのではないか。なぜなら、この伝承には、かつて畿内に進出していた蝦夷が、邪馬台国の東道(神武東征)を契機として東方へと後退を余儀なくされていったはるかな歴史的事実が反映しているものとみられるからである。前にも触れたが、物部氏の本拠の河内の日下には、阿倍朝臣と同祖である大戸首(おおへのおびと)がいたことが『新撰姓氏録』にみえる。大戸首の姓を賜わった比毛由比(ひもゆひ)命の名は、津軽の安東氏の祖先の一人として、その系図に記されている。物部氏と阿倍(安倍)氏との親縁関係は、このように奥州安倍氏(津軽安東氏)の系図にもうかがうことができる。河内日下が阿倍氏の本拠で

あったことはすでに述べたが、安日の名もここより起こると考えられる。阿倍野を安日野と記している伝承記録もあることから、このことがうかがわれる。

日下将軍・安東尋季は東海の要所津軽十三湊を拠点とする(下P.282)

・・・・・このように、安東家は、日下将軍の称号を名乗り、蝦夷の王と自称してはばからなかった。その誇りの意識の根源までさかのぽろうとすれば、生駒山脈の河内国日下までゆきつかざるを得ない

奥州=ヒノモト説を支える安東氏の河内胆駒への郷愁(下P.287)

 奥州十三湊に拠る安東康季(やすすえ)が日下将軍を称したことは「秋田系図」にみえている。またその四代後の尋季(ひろすえ)も日下将軍と号し、東海将軍とも言った。この日下(ヒノモ上の呼称は何に由来するものであるか。奥州を日の本と称したことは、鎌倉時代から江戸時代の半ばにいたるまで、諸書の中に散見する。このことについては、大正三年(一九一四)に金田一京助に「日の本夷の考」という論考かおり、ひきつづいて、大正八年に喜田貞吉に「日の本将軍」の考察がある。この二つは、奥州ヒノモトについての古典的な論文であるが、金田一も喜田も奥州をヒノモトと呼ぶのは、けだし東方日出処の義によると述べているにとどまっている。

 喜田は「秋田系図」にナガスネヒコの兄の安日なるものを先祖としてあることを重視し、また奥州の安東氏やその流れをくむ秋田氏が自分の先祖を蝦夷として憚らぬ姿勢に注目しながらも、奥州ヒノモトの呼称が河内の日下に源流をもつことに気がついていない。

 奥州ヒノモトに関わる論議は、高橋富雄氏の著『辺境』(昭和五十四年〈一九七九〉刊)の中で深化された。高橋氏はとくに、『旧唐書』と『新唐書』に注目した。

 高橋氏によれば、唐書にいう日本は、日出ずる東国(アズマの地域に相当し、そのアズマを日の本と呼んだのが、のちに奥州ヒノモトの呼称とつながる。つまり、高橋氏のヒノモト(日本)は、河内の日下とまったくかけはなれたアズマの国から出発するのである。

 このように、奥州ヒノモト説の由来に関心を示した金田一、喜田、高橋の諸氏は、いずれもその言葉の源流を、河内の日下と無禄なものとして論じている。

 しかし、くりかえし言うように、「秋田系図」の安東康季やその末裔の尋季は日下将軍を名乗っていて、日本将軍とは記されていない。「藤崎系図」には安東致東(むねはる)なるものが応神天皇の頃に日下将軍を名乗ったとあるが、これも日本将軍とは書かれていない。ただし「地蔵霊験記」には鎌倉の安藤五郎を「日本ノ将軍」と記している。また説経節(せっきょうぶし)の「山椒太夫(さんしょだゆう)」も厨子王の父である岩城の判官正氏を「奥州、日の本の将軍」と記している。しかし、さきにも述べたように、家系にとってはもっとも重要な「秋田系図」や「藤崎系図」に日本将軍と書かずに日下将軍と記されていることには深い仔細があると思われるのである。喜田貞吉は当時日本という国号があったからわざと避けて日下と記したと述べているが、そうではあるまい。

 たとい河内の日下の地名は出てこなくても、生駒山脈の周辺に居住していた先祖安日の末裔という意識は深く自覚され、濃厚に残りつづけていたとみられる。その結果、日下をヒノモトとよませ、日下将軍と記して、奥州支配者の称としたと考えるのである。

 たとえば『会津四家合考(あいづしけごうこう)』巻之九には、次の記述がある。

 「上古神武帝、未だ中国に入らざりし時、宇摩志麻治命摂津を領し、胆駒岳に住す。某臣に、安日・長髄の兄弟あり、神武東征の時、胆駒岳に支へて、相戦ふ事十余年。終に神武帝討勝ち給ふ。時に長髄は、帝の御兄を討ち進(まゐ)らせたる罪にて殺さる。兄の安日は、東北に追放され、津軽・卒土浦、安東浦に居して子孫相続ぐ」

 この文章に胆駒岳の名が出てくる。摂津、河内、大和などの地名ならばともかく、胆駒岳の地名がみえるのはとくべつの意味があるのではなかろうか。胆駒岳の名は「神武紀」に出てくる。したがって、わざわざそれを記したということはたんなる慣習によったのではなく、意識的なものがあるとしなければならない。つまり奥州の安倍氏の流れをひく安東氏に胆駒岳の名がつよく印象づけられてきたということを意味するにちがいないのである。

 「秋田系図」には「寛永の譜、家伝を引(ひき)ていはく、先祖摂津国安倍野伊駒に住し、其後陸奥国に住す。安倍貞任は其族なり。(中略)今の呈譜に、古昔安日王長髄彦兄弟摂津国胆駒岳に住す」とある。ここにも伊駒(胆駒)の地名が強調されている。

 寛永のあとにつづく正保三年(一六四六)の『新羅之記録』は松前藩の編纂による最古の家譜で、北海道の歴史を知るためのもっとも古い手がかりとされている。それにも「下国安日盛季朝臣、其先祖は他化(たけ)自在天皇の内臣安日長髄、天より此国に下り、大和国伊駒山に居住し、神武天皇と国諍(あらそひ)を成さしむると雖も、軍に利あらず虜(とら)へられて其名を醜蛮に改め、東奥津軽外之浜安東浦に配流さる。彼の安日、長髄の末孫津軽を押領し、十三之湊に住み繁昌す」とある。

 ここでは安東盛季は安日盛季となっており、その先祖の安日をアベとよませている。また安日は伊駒山に住んだとなっている。伊駒の名が盛季の数代後の政季に冠せられているのはそのことと関連があると思われる。

 『新羅之記録』には「武田信広、東関足利に下り、少時住し、享徳元年(一四五二)三月、奥州田名部に来り、蠣崎(かきざき)を知行して後、伊駒安東大政季朝臣と同心し、八月二十八日此国に渡る。爰(ここ)に礪崎修理大夫季繁と云よ者在り。是も生国は若州にして屋形武田伊豆守信繁朝臣の近親の者なり。然るに季繁其過有りて若州を立ち去り、商船に乗り、当国に来りて安日(あべ)政季朝臣の聟(むこ)と為り、顛崎修理大夫と号し、上之国に住す」とある。

 ここには伊駒安東大政季とともに安日政季の名がみえる。これは同一人物である。伊駒と安日はともに河内の日下に縁由ある固有名詞である。さてこの伊駒政季というのはいかなる人物であるか。

 『新羅之記録』によると、伊駒政季は十三湊で勢を張っていた安東盛季の弟の安東四郎道真の孫にあたる。政季の父は潮潟四郎重季であった。政季は十三湊が陥ちたとき、まだ若年であって、南部軍の捕虜となり、糠部(ぬかのぶ)の八戸で名を改めて安東大政季と号し、田名部を知行して家督をついだ。そして武田信広などと一緒に下北の大畑から船を出して蝦夷島に渡った、ということになっている。

 『松前町史』によると、鎌倉末期には、安藤(安東)氏は津軽十三湊を拠点にして、北は津軽、下北から蝦夷島まで、南は男鹿半島から秋田土崎まで勢力をのばしていた。その津軽・秋田地方に対して、南北朝の頃から八戸を根拠地とした南部氏、ついで三戸の南部氏が侵略をはじめた。そこで安東氏は十三湊を放棄し、小泊の柴崎城にのがれ、さらに蝦夷島に渡ったという。その時期は明らかではないが、永享四年(一四三一)、あるいはそれからあまりさかのぼらない頃であろうという。また蝦夷島にのがれた十三湊の安東氏が誰であるか分からない。諸説があって盛季であるとも、またその子の康季ともいう。

  一方、伊駒安東太政季は蝦夷島に渡ったのち、康正二年(一四五六)には、秋田の湊(土崎)安東氏の援助を得て、秋田の小鹿島(男鹿半島)に渡り、そのあと河北郡を根拠地としたといわれている。したがって十三湊をいったん放棄した安東氏は永享四年もしくはそれ以前から康正二年にいたる二十四、五年の間はその根拠地を蝦夷島に求めていたものとみられる。

 安東政季の秋田進出に力を貸したという湊安東氏は、盛季の弟の鹿季(かのすえ)にはじまり、十四世紀の末から十五世紀の前半にかけて、土崎を拠点にして秋田県北部に勢力をきずいていた。

 安東政季は河北郡を足場にして、進んで津軽を回復しようとしたが果たせず、長享二年(一四八八)家臣の謀叛に遭って、河北糠野館(現在秋田県山本郡藤里町)に自害した。その子の忠季のとき、檜山郷(能代市)に堀内城をかまえ、檜山の屋形として繁栄した。そのために、これを檜山安東氏と称した。

 檜山を拠点にした安東氏は尋季・舜季・愛季とつづいたが、愛季のときには湊安東家を併合した。愛季の子どもが実季で、安東氏は実季から秋田の姓を名乗ることになった。

 さきに「夷千島王」を名乗る人物は文明十四年(一四八二)の時点で考えると、安東政季であろうと言う海保嶺夫氏の見解を紹介した。もしそうだとすれば、夷千島王と称した安東政季は伊駒安東大政季とも称しており、その伊駒は河内と大和を分ける生駒山脈にほかならないことから、自己の出自の地を念頭に置きながら、蝦夷地に君臨した王ということになる。つまりここでは夷千島王は日下将軍と同義語として使用されている。

 安東政季が湊安東氏の当主の尭季(たかすえ)の招きで康正二年に本拠を秋田の米代川下流の檜山に移した際に、政季は北海道の南部をかためる意図をもって、下之国(茂別館)、松前(大館)、上之国(花沢館)に一族を置いた。ということからして、政季は蝦夷島にも自己の勢力を残していたことが知られる。夷千島王と称せられたのもとうぜんであろう。

 しかし康正二年は安穏で慶賀すべき年ではなかった。蝦夷島の志苔で鍛冶職人とアイヌの少年が言い争い、鍛冶職人がアイヌの少年を刺殺したことから、アイヌが一斉に蜂起した。とくにあくる年の長禄元年(一四五七)のコシャマインの蜂起は大規模なものであった。このアイヌの叛乱を鎮圧するのに大功をたてたのが、安東政季から頬崎季繁の補佐役として遣わされ「上之国」花沢館に拠っていた武田信広であった。彼はコシャマイン父子を射殺して勝利の契機をつかんだ。その功によって、礪崎季繁は安東政季の娘を自分の養女としたうえで、信広をその娘聟とした。武田信広は天ノ川の北側に新たに洲崎館(現在上ノ国町)をきずいて、そこに居をかまえた。それは武田信広が秋田檜山の安東家から蝦夷島の支配者としての正統性を承認されたことを意味するものであった。

 コシャマインの乱の前に蠣崎季繁と武田信広がいた花沢館は道南にあった十二の館のなかでは最西北端に位置している。上ノ国町に天ノ川と呼ばれる川が流れている。天ノ川は現在でも鮭がよくのぼる川として知られている。天ノ川の北はアイヌの勢力で占められていた。コシャマインの乱のあとに、そこに洲崎館を新築したというのは、それだけ和人の勢力が北へ伸びたことを意味する。

 武田信広の死後、長子の光広が跡を継ぎ、蠣崎姓を名乗った。蠣崎光広は上之国から大館(松前)へ移住し、松前藩の基礎をきずいた。礪崎氏は慶長四年(一五九九)に松前氏と改姓したが、松前藩祖となった武田信広は伊駒安東大政季の娘聟であったがゆえに、松前家では自分が「日下将軍」に血縁的につながる点を強調していると、海保徹夫氏は指摘している。安倍氏にはじまり安東(安藤)氏をへて松前氏につながる血縁的な一本の線、すなわち古代蝦夷の系譜につながるとする意識が近世段階でも生きていたことが確認できると、海保氏は言う。

つぼのいしぶみ――奥州ヒノモトの意識は平安末にさかのぼる(下P.301)

 ・・・・・その伝承はおそらく平安時代の末期までさかのぼるとみて差し支えない。日下将軍の称は鎌倉、南北朝、室町時代のものとしても、ヒノモトの意識が平安時代の末期にはすでにあったということは、蝦夷の首長である安倍氏に河内の日下の地との関連がその頃に意識されていたことを暗示せずにはおかない。さきに述べたように安倍(安東)氏の先祖が生駒山に居住していたけれども、ついには奥州の北辺の地に追いやられたという伝承がすでに生まれていたとみられるのである。そのことを前提として、奥州をヒノモトと呼称するならわしが生まれた、と私はみるのである。そのならわしはとくに安倍氏の後継者としての安東氏にひきつがれ、日下将

軍と自称するにいたった。

列島を覆う日本国=物部王国と倭国=邪馬台国の重構造(下P.318)

 私は河内の日下で始まった物語が奥州の北の果てで終わりを告げるまで、長々とたどってきた。その物語の前史というべきものは、河内・大和を中心とした領国を支配する物部氏-蝦夷の連合体に対して、九州島から東遷した邪馬台国の主体が戦(いくさ)を挑み征服したということである。もとよりその事実を徴すべき記録はないが、さいわいなことに唐の史書に、それらしきものが述べられている。この唐書の記事に注目したのは私がはじめてではないが、「日本国」と「倭国」との対立を、物部王国と邪馬台国との対立としてとらえたものは私が最初である。

 この物部王国と邪馬台国の対立の事実は、『日本書紀』の神武東征伝説に深い影を落としている。にもかかわらず、邪馬台国の東遷を神武東征にむすびつける史家が、そこに登場する二ギハヤヒの東遷について深く考えようとしないのが不審である。それではあまりに一方的であり恣意的ではないか。私は奇をてらって、物部氏の東遷を主張しているのでは毛頭ない。正史である『日本書紀』が物部氏の祖神であるニギハヤヒの降臨伝承を抹殺できなかったこと、また神武東征に先立って、ニギハヤヒが九州から大和へ移ったことを認めざるを得なかったこと、そこにはかならずや見落とせない深い仔細があるにちがいないと思い、それを物部氏と邪馬台国の二回にわたる東遷と結びつけて考えたのである。

 日本列島の政治変革は例外なく外部からの圧迫によるものであり、周辺世界の変動に連動しているという歴史事実に照らしてみれば、その東遷の時期はおのずから明らかである。すなわち物部氏の場合は、朝鮮半島の混乱に連動して倭国に大乱の起こった時期であり、邪馬台国の場合は、朝鮮半鳥の楽浪・帯方の両郡が消滅した時期と対応しておこなわれた、と考えるのはごく自然で無理がない。そしてこの仮説を裏切る事実は今のところみつかってはいない。

 邪馬台国東遷論者の多くは、その東遷を空屋への引っ越し同然に考えている。だが弥生終未期の河内・大和が侵入者に抵抗する政治権力をもたなかったとするほうがおかしいではないか。その政治権力は邪馬台国台に先行して東遷した物部氏を主体とするものであったと私は考える。物部氏はまず河内の日下に根を下ろした。日下は物部王国の発祥の地であり、ヒノモトと称せられた。それを漢字で表記したのが日下である。唐書にいう「日本」はじつに物部王国を指しているのである。「倭国」の中心であった邪馬台国は、「日本国」を支配する物部氏を打倒し、その国号をうばった。こうして物部氏の称するヒノモト、またヒノモトとおなじ意味をもつ日高見国、そして物部氏の信奉する白鳥伝説の流竄(るざん)がはじまった。それらは畿内から東国へ移され、最後は陸奥国へと移動した。蝦夷の住む地域を日高見国と称し、蝦夷の一類をヒノモトと呼び、蝦夷の首長の安倍氏に白鳥伝説がまといつけられた。もともと物部氏と畿内の蝦夷は形影あいともなうごとき存在であったが、このとき物部氏の影は背後に退いている。しかし、奥州の安倍氏が蝦夷の出自であることを自覚しつつ、その遠祖をナガスネヒコの兄の安日と称する架空の人物に求めているのは、三世紀から四世紀前半にかけての畿内における蝦夷の栄光の歴史を抜きにしては考えられない。そこにはヤマト政権につながる邪馬台国の東遷よりもはやく、中洲の主

人公であったという自負がほの見えている。このことは安倍氏の系譜につながる安東氏、藤崎氏、秋田氏などの系譜に微妙に反映していることをみてきた・・・・・

日本歴史の地平の彼方へ(下P.362)

 ・・・・・天皇家の歴史は政治的にも経済的にもとらえられるが、それにもまして意識の連続体として把握することが可能であり、そのことのほうがはるかに重要である。こうした意識の系脈は天皇家のほかにないものだろうか。それは邪馬台国と戦って敗北した物部氏とナガスネヒコの流れを汲む蝦夷にもあったのではないか。

 このことを理解するためには、まず第一に、縄文時代から弥生時代への移行を社会の断絶とみなさず、主体は連続するものと考えることである。これまでの日本の歴史は弥生時代以前にさかのぼることはなく、縄文時代の歴史は、「前史」として、それ以降の歴史から切り離された。しかし幾千年におよぶ先住民もしくは原住民の生活と意識が、日本の歴史の骨格を、もっとも深部において形づくっていないはずはない。それなくしては日本列島社会の歴史を総体として把握することはできない。その深層の意識の部分を切りすてた歴史は、首を胴体から切りはなした「首なし馬」にひとしくはないか。もとより縄文時代の生活と意識は晦冥(かいめい/くらいこと)である。その時代を不可知または不可触として遠ざけてきたために、歴史研究は意識の伝導体としての主題を排除することになってしまったのである。だが、歴史が意識の追求をやめたときに「浅瀬のリアリズム」が歴史叙述の常套と化し、輪切りにされた時代別社会史もしくは事件史に終始する嫌いはなかったか。

 ・・・・・わが国の「正史」の筆頭である『日本書紀』は「社史」のようなものである。そこでは皇祖が大和島根の支配者であることがア・プリオリに宣せられている。つまり、ヤマト朝廷の主権が確立するまでの「前史」が欠落している。そこにはおのれの対立者を正当に扱い、対立者との葛藤を公平に叙するという姿勢は見当たらない。それにもかかわらず、抹消しそこなった部分があって、それが昼間の月のように残っている。それがニギハヤヒの東遷と、その後を追うようにしておこなわれた神武の東征であったと私は考えるのである。

 日本列島は弥生時代から古墳時代にかけての数世紀、大きな変動にみまわれていた。その変動にともなう集団大移動が国内におこなわれた。蝦夷の後退がそうであり、また物部氏、安倍(阿倍)氏などの有力氏族の移動がそうである。しかしそれとても、今日の古代史研究では、ヤマト朝廷の指導の下に派遣された地方遠征と理解するにとどまり、集団大移動としてとらえようとする視点は意外にすくないのである。

 ヤマト政権誕生にいたるまでの変革の坩堝(るつぼ)のごとき状態においては、むしろ移動は常態であったとさえ言い得る。そうした国内状勢についての認識がないことは、歴史をダイナミズムにおいて理解しようとする視点が欠如していると責められてもしかたがあるまい。

 ・・・・・日本歴史を時間的にも空間的にも、もっとも深部において一つの文脈としてとらえることが肝要である。

 日本の歴史を考古学や民俗学のカを借りて注意ぶかく点検するとき、権力者が抹殺しようとして果たせなかった一つの真実が浮かびあがるのをみることができる。教科書にも日本歴史にも一度も登場しなかった真実がかくされていたことを知る。

 日本の歴史には、その裏側におそろしい真実が伏せられている!その真実とは、縄文時代から弥生時代へ、弥生時代から古墳時代へと連綿とたどることのできる歴史であり、天皇家の存在よりも古くから、この島国の中央の部分を支配していた物部氏と蝦夷の歴史である。敗者としての彼らの歴央は抹殺され、ばらばらに解体された。だが、事実の破片を拾い集め、伝承の裏側に流れる意識と照らしあわせることで、もとの形に復元することがまったく不可能なわけではない。その確信のうえに立って、私は「平地人」の歴史の地平から「山人」へと肉追することを試みた。その作業も今や終わりをつげる。

« 生駒市誌   | トップページ | 日本書紀(現代語訳)   »