« 森浩一『日本の神話の考古学』より | トップページ | 谷川健一『白鳥伝説』       »

生駒市誌  

                                  引用者 : 参考<「生駒」の語源・由来・いわれ

全5巻…次の各太字の全部または一部を抜粋しました。 

Ⅰ 第一巻 資料編71(S46).11.1 

   ○概説篇:生駒市のあゆみ 

   ○資料編:第一章 地質時代の生駒  第二章 神話時代の生駒  第三章 行基と竹林寺  第四章 生駒神社  第五章 茶筅の高山  第六章 湛海律師と宝山寺  第七章 生駒陣屋と矢野騒動 

Ⅱ 第二巻 資料編    <74(S49). 5.1>

   ○概説篇:明治までの生駒のあゆみ  第一章 維新の生駒  第二章 地租改正  第三章 徴兵制度  第四章 大区、小区と戸長役場  第五章 三町村の成立  第六章 行政村の七章発達  第 富国強兵への協力  第八章 教育の普及  第九章 風俗誌にみる生駒  第十章 門前町の発達  第十一章 生駒新地の今昔  第十二章 交通の変遷  第十三章 太平洋戦争と生駒  第十四章 戦後の生駒  第十五章 部落解放のあゆみ  第十六章 町村合併と生駒市の成立 

   ○資料編:文献と記録/沿革と現況/新聞と広報 

Ⅲ 第三巻 資料編    <77(S52). 5.1>

   ○郷土の産業・文化の担い手 ○郷土の日記類 ○郷土の文芸 

Ⅳ 第四巻 資料編    <80(S55).12.1>

   ○生駒市の概要 ○自然環境 ○生活環境 ○民俗と民習 ○社寺・文化財 

Ⅴ 第五巻 通史・地誌編 85(S60). 3.1 

   ○通史篇:生駒地方地史  第一章 伝承の生駒  第二章 上古の人々  第三章 中世の社会  第四章 近世の生駒  第五章 生駒の近代化  第六章 現代の生駒 

   ○地誌編北部地域/中部地域/南部地域 

******************* 

~抜 粋~ 

(文中の太字は引用者による。)

Ⅰ 第一巻 資料編 

概説篇:生駒市のあゆみ  藤本寅雄 

その一 生駒のはじまりと神話> 

 生駒谷(引用者:生駒山系と矢田丘陵にはさまれた大きな谷間)がまだ馬鍬(まぐわ)の淵(引用者:竜田側中流域にあり)の峡谷をとざして湖水であったとき、その岸辺に狩猟生活をした原住民の繩紋文化は小平尾遺跡と言われて、大字萩原の地から食器の一部らしい土器の断片がわずかに発掘されているが、隣接する交野、枚岡地方のように多くは見当らない。また少量であるが菜畑、有里など山麓の一部にサヌカイトなどでつくった矢尻や磨製石器を見ることがある。そして周辺の人々の狩場となるにふさわしい獲物である鹿、猪、鷹、鳩、鵄の数々が多く棲息していて、谷間には樫(カシ)、櫟(クヌギ)、萩等茂り、麓には、いくみ竹、たしみ竹と呼ばれる竹藪も多かったようである。鹿畑、高山(鷹山)、萩原、櫟峠等の地名や万葉集など古来の歌によってうかがわれる。また龍田や龍間、蛇食等の地名に見るように竜神や、蛇神を信仰する原始宗教もここに芽生えていたであろう。「トビ」、「卜べ」、「トミ」の地名、人名はこうした環境から生れたという説もある。また岩倉、稲倉、磐座、磐若屈等の地名と巨岩露出する場所も処々あって、自然を崇拝した原始人が生活しはじめていた。彼等は火を尊び、幸にもこの地に自生していた「はゝか」の木をもって火を発する道具を作り、これを氏神に献じて五穀豊饒を祈った。さてこれ等の原始民族(先住部族)も遠くは北方大陸からきた朝鮮系か出雲系らしく、青銅器による武器をもって、石器時代の人間を支配した(引用者:「石器時代の人間=先住民族」という書き方がされていない点に注意しましょう)。いかるが等の地名に見るカル、力リは朝鮮語で「銅」「金」を意味したらしく、生駒の地名もこの地方では「コマ」とよび高原を意味したと思われる。こうした舞台の上に先住民族の神話が育てられてきた。そこでこの地に伝わる神話をしばらくたどって見ることとする。勿論その真偽はいまだ疑問とするが、部族の興亡を知ることができる。すなわち、ここに後から入ってきた天孫民族は弥生文化をもった部族で、更に強い鉄器製の武器をもって、先住部族を征服した。そして水田耕作の高い文化をつくり出してきたものと考えられる。矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦(ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。彼は長くこの地方に占拠していたが、饒連日命(ニギハヤヒノミコト)が天磐船(あめのいわふね)に乗って河内の国から哮峰(いかるがの峯)をこえてこの白庭山に来られたので、この命を奉じて益々勢盛となった。命は天押穂耳命(アメノオシホミミノミコト)を父とし、拷幡千々姫命(タケハタチヂヒメノミコト)を母とする、天照大神の皇孫に当っていて、父母の名の示す如く米作に巧みな方であった。長髄彦を帰順させ、その妹の御炊屋姫命(ミカシキヤヒメノミコト)を娶って、可美真命(ウマシマデノミコト)という男児をもうけられた。

 この白庭山とはここ生駒の白谷地方をあてている。その後神武天皇が、九州でこのことを聞き、このうるわしの土地大和に入ろうとやってこられた。長髄彦は地の利のよい生駒山を盾によく防戦した。孔舎衛坂(くさえざか)の戦に敗れた天皇は紀州を廻って大和に入り、東からこの地を奇襲攻略された。この際かの有名な金のとびが飛来し、長髄彦の軍は目がくらんで敗北するきっかけとなった。これ鵄山(上村地方)、鵄邑(富雄地方)の起源といわれている。饒速日命は皇祖から受けてきた羽々矢等を示して神武天皇と同族である事を知り、長髄彦を斬って帰順された。その功によって後には物部氏としてその子孫がさかえた。この地の北に住していた肩野物部氏もその一つである。命は間もなくこの地になくなられ、墓を造られたが、これが桧窪山の頂の塚とされている。やがて神武天皇は戦勝を祝って鳥見の霊疇<引用者:霊畤(れいじ/語句説明)の間違い?>に祖先を祀られたがその地桜井市の鳥見山を有力とするもその伝称地は、生駒市内および附近に多く、王竜寺の鵄神社、南生駒小平尾の磐倉等もその一つとされている。今一つの神話に神功皇后がある。皇后は二、三世紀の人で新羅征伐をして陣中に応神天皇をおうみになった。後世この応神天皇を、八幡大神と呼んで戦の神に祀られるようになった。生駒神社の祭神の中にも、この二人があって、皇后この地より出発して新羅に向われたとしている。鶏鳴がおそかったので出発がおくれて戦が不利になったこと、これがこの神社の正月の鶏追い行事の由来となったこと、祭の行事が三韓征伐をまねたものであることなど皇后に因んだ話が残っている。このあたりは伝説と史実との交流点で、実在の人と考える史家はヒミコを之にあてる人もあるが、史家の中には後世の朝鮮経略を神話化したもので女帝斉明天皇の百済出兵などから出たものでないかといわれている。しかし八幡宮合祀の生駒神社の出現は、奈良朝以降の歴史に大きく影響し生駒谷の地名と結びつき郷土の伝説を深めている。 

<その二 古墳時代の生駒(平群氏や役小角)> 

 さて四世紀の頃ともなれば大和盆地の中央部に水田耕作による経済的基盤を確保した大和朝廷が成立発展して行く時代となった。このあたりから史実は確証をもつ段階に入る。ここ生駒地方は大和の周辺としての位置にあって、層布(そふ/添)の一部(富雄谷)と平群の一部(生駒谷)とからなっていた。これ等の地名は山添、周辺を意味する地名と考えられるが、皇化は時にふれここにおよんできていた。雄略天皇は生駒直越をして大草香王(おおくさかのみこ)を平げ、草香幡梭姫(くさかのはたびひめ)をむかえて妃とした。この物語は古代社会の略奪結婚を物語化したものとして興味あり、この際、生駒山上にて歌われた「日下部のこちの山とたゝみこも、平群の山の、こちごちの山の峡に立ち栄ゆる葉広くまかし、本にはいくみ竹生ひ、末にはたしみ竹生ひ云々」の歌は名高い。この地の豪族を帰順させ、産土(うぶすな)の神、伊古麻(いこま)神社の創設をゆるして皇威を広く生駒葛城の山地にまで滲透させてこられた。かくて古墳時代の大和は氏族制度がゆきわたって和珥(わに)氏、久米氏、大伴氏、蘇我氏、物部氏の諸豪族とならんでこの地方には平群氏が勢力をのばし、南にはその一族紀氏(きし)、葛城氏、巨勢氏、と交わり北には長髄彦の裔とも考えられる出雲系の人々、或は遠く朝鮮から来往した帰化人の子孫を交えて幡居(ばんきょ)し、「こま」「たたら」等の地名を処々に残している。古墳時代の末期とも見られる有里文殊山の紀氏連の前方後円墳はその一証であるし、平群谷の古墳群に至っては数も多い。

 平群ノ真鳥は大臣となって中央に進出したが、その子鮪(い)は影媛と相思の仲となって那羅山で武烈帝に殺され、大臣の座を巨勢氏にゆずった、もともと平群氏は大和川の要衝をおさえて、代々塩の移入に関係したらしく、大臣の座を追われるや宮廷に塩を送ることを止めて対抗したりした。その一族蘇我氏も物資移入に関与し、遂には朝廷の財政を司るとともに勢力をのばした。やがて仏教の容否で物部氏と対決したが、聖徳太子に容れられて中央に栄えた。しかるに太子の御子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)は入鹿の従者巨勢の徳太等に攻められて斑鳩宮より生駒山中に逃げられ、三輪文屋王ら側近と数日をここに過された。この地の人々再挙して入鹿討伐をすすめたが王は諸民の犠牲の多いのを心配して穏便に事を運び斑鳩の宮に帰られたところ、却って入鹿の乗ずる処となり、そこで兵火とともに世を去られた。山崎金宝寺裏の万取山をこの大兄王のゆかりの地と伝える人もあって一考に資する点がある。その頃の平群氏はも早や、昔日の姿なく蘇我氏の一部下として兵事に駆使されていたが、飛鳥奈良朝には朝臣として史の編纂に従事していたようである。

 当時この生駒には中央に志の得なかった皇子や部将の遁居する場所となっていた。大化の改新前孝徳天皇の皇子有間皇子は天智天皇がいまだ中大兄皇子の頃これと皇位継承を争って蘇我赤兄(そがのあかえ)の計にかかり、一分の邸で捕われの身となって湯治に出ておられた中大兄皇子のもと紀州白浜に送られた。途中「磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらば亦かへり見ん」「家にあれば笥にもる飯を草枕、旅にしあれば椎の葉に盛る」の名歌を万葉に残して非運の最期をとげられた。

 天武朝の頃、葛城地方に生まれた行者役小角は一種のシャーマン風の道教的呪術者として民衆になつかれ、中央政権の権力的搾取に批判的な態度で山中の賊を降しては民衆を助けることが多かった。生駒山の一角、鬼取山でも前鬼後鬼の二賊を捕縛し、髪切山で髪を切って義覚義賢の二僧にして行者の道に入らせ、平群村鴨川に元山上を開いた。小倉山教弘寺や暗峠街道筋にも彼の徳をしのんだ石像が見られる。しかし彼は律令体制の税に批判的であったのと、たまたま韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の讒(ざん)にあい文武天皇三年五月二十四日、伊豆の国に流罪とされた。奈良朝に入ると民話の中に尊崇され大峯山の開祖ともよばれている。彼は後の山岳修験道の先駆として深山幽谷を跋渉し、神通力という飛翔の術をもっていたと伝えられ、生駒地方でも早くより宝山寺磐若窟、燈明ヶ嶽に着眼し、ここを霊地化したようで、古代の自然崇拝思想を一段深い宗教化に発展させたと考えられる。

○資料編 

第一章 地質時代の生駒 

 ・・・・・地質時代(直近数千年の記録が残っている有史時代以前)の終り頃、古大阪湾は近畿地方、現在の京阪神地方全域に広がり山麓まで水域か深く湾入していた。この古大阪湾に浮ぶ菱形の緑の島、南北距離約二七キロ、東西の巾約一二キロ、南偏りに標高六四二・三米の主峯、これが生駒山である(松下進著近畿地史Ukabuikoma)・・・・・。  引用者:右の地図(クリックで拡大)が添付掲載されている。

第二章 神話時代の生駒  藤本寅雄 

<要説一> 金鵄発祥の地 

 神話については戦後は、その真実性に疑問をもつようになった。しかし土地の人々は何となく神話に愛着をもち、少くとも代々の先祖もそれを語りつげてきたものとして親しみをもってむかえられているので、昔からの伝承として取りあげることにした。特に戦時中の資料は神話即ち史実として大きく表現されているが、その事がそのまま戦時中や、また往昔の尊皇精神発揚の時代の映像と考えて読者の正しい判断にまつことにしたから是正して理解されるだろう。 

 近鉄富雄駅より「傍示」行きのバスに乗り、富雄川に沿って北へ行くこと二粁(キロメートル)許(ばか)り。「出垣内」という停留所がある。この少し手前、ふと目をこらして見れば、川をへだてた小高い丘に一つの碑が建っているのに気が付く。碑文「神武天皇御聖蹟鶏邑顕彰之地」。いわゆる皇国の肇(はじめ)を神武元年として数えた紀元二千六百年(昭和十五年)記念にたてられたものである。戦後、歴史教育から神話時代が除去されて以来、人々の心から次第に忘れ去られていった様な淋しい佇まいの此の碑ではあるが、然し此処に住む郷土の人達にとっては、神武天皇御聖蹟地は矢張り一つの誇らかな心のより所であるかもしれない。今、古事記、日本書紀、そして又蘇我馬子の手になるという旧事本紀から、この金鶏発祥地「鳥見」に関する神話を拾ってみよう。

 大変英明で意(みこころ)かたくつよくます神日本磐余彦天皇<カムヤマトイワレヒコノスメラミコト/古事記では豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)/後の神武天皇>は、国の中心を、青い山が四方をめぐる地、即ち大和に定めようと考えられ、御兄五瀬命(イツセノミコト)、その他諸皇子と共に日向の地より、御東征の旅に出立された。然し、其の地はすでに磐の様な堅固な船に乗って、天界、高天原から降りられた天神饒速日命か治めているという地でもあった。天皇は途中さまざまの出来事を経られた後、御船は、難波の岬に着いた。

 当時、海は現在の生駒山麓日下(くさか)一帯に迄つらなっていて(引用者:当時、現在の大阪平野は河内湖であった)、上陸はその辺であった。先ず武具を整え、龍田(龍間という説もある)へと軍を進められたが、道は狭くけわしくて進軍出来なかった。そこで、進路を加え、今度は東に向って生駒山を越えて大和入りなさろうとした。つまり、直越の道(ただごえのみち)をえらばれた。その頃、生駒の地には長髄彦(古事記では鳥見又は登美彦)という豪族がいた。彼は、その名の示す通り、長いすねの様な形-長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。自分の土地の奪われるのを恐れ、皇師(みいくさ・こうし/皇軍)を上陸地孔舎衛坂に迎え、激しく抵抗した。この時、五瀬命は、賊の矢傷を受けられた。天皇は、「吾(あ)は日神(ひのかみ)の御子として日に向ひて戦ふことふさはず。故(かれ)賎奴(やっこ)が痛手なも負ひつる。今よりは行き回(めぐ)りて日を背負ひてこそ撃ちこめ」(古事記)と考えられ、一旦、軍を退却された。天皇は紀州へ出て、吉野入りされ、次々と大和を平定されていった。が、あの孔舎衛坂の戦いがもとで死去した兄五瀬命の為にも、長髄彦の誅伐を考えていられた天皇は、今度は東の側から再び彼を攻めようとされた。日本書紀に「十有二月(しはす)の癸巳の朔丙申(みつのとのみついたちひのえさる)に、皇師遂に長髄彦を撃つ。連(しきり)に戦ひて取勝つこと能はず。時に忽然(たちまち)にして天陰(ひし)けて雨氷ふる。乃ち金色(こがね)の霊(あや)しき鵄有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。其の鵄光り曄(てり)かがやきて、状(かたち)流電(いなびかり)の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒(いくさのひもとど)、皆迷(まど)ひ眩(まぎ)えて、復力(またきは)め戦はず。」とある。かくして長髄彦は破れたのであるが、天の磐の船で河内国河上の哮峰(いかるがのみね/現岩船神社在)に天下り、鳥見白庭山(旧古堤街道と岩船街道の分岐点/白谷附近)に居をかまえていたとされる神、饒速目命を擁立して、天の神はこの命だけと堅く信じ、又、自分の妹炊屋媛(古事記では長髄媛・登美屋媛)を命に嫁がせていた長髄彦は、尚、帰順の心なく改心の様子もなかった。然し、饒速日命は「天の神の恵は天孫にだけ与えられるもの……」と知り、自らの手で長髄彦を殺し、その兵をひきいて天皇に帰順した。尚、命は天の神の子として天皇と全く同じ天の羽々矢(はばや)と靭(わき)を持っていたが、「即ち天つしるしを献つりて仕奉りき」と古事記にもしるされている。(旧事本紀には饒速口命は既に薨じ神骸となっており、その子宇志麻治命(ウマシマジノミコト)が伯父の長髄彦を殺して降るとなっている。)以上が金鵄発祥地に関する神話の大体であるが、さて例の金鵄の力に依り皇師が戦捷(せんしょう/戦勝)した時より、今迄長髄と称していたこの地名が、鵄邑となづけられるようになった。今の富は鳥見で、鵄が訛ったものであるというが、この名に付いては考証が多い。続日本紀中に登美の郷又は庄、倭名鈔中に鳥見郷、但しこれは、登利加比(とりかひ)とよませている。又大和志中に鳥貝郷の称がある。つまり鳥養部の住んでいた所で、鳥見と鳥貝の酷似から誤字となったと言う説もある(「奈良文化史論叢、地名の類型」)戦いの場は鵄山であろうか。ここには「金鵄発祥之處」と刻した碑石が建てられている。これは、大正三年、大阪の史蹟研究のつどい、わらじ会の会員達が聖蹟の荒廃の様を見て、表示していったものである。上村の中島附近には古塞の名残りか、「をへ」「どへ」と言う名があった。これは尾塀、土塀にあててみられるのかもしれない。又、饒速目命の持っていた羽々矢を葬ったといわれる山伏塚(山主塚の訛りという)は現在、桧窪山(別名日の窪山)にある。

 この「鳥見」に住む郷土の人達は、大正三年、この地に金鵄会を結成した。そしてこの大昔から伝承されて来た説話を、この地のものとして改めて認識されることをのぞみ尽力した。「金鵄発祥史蹟考」という小冊子の発刊もみた。然し何分にも大昔の物語のことであるから、これといった証拠などあるわけもなく、時には鵄が、地名からの訛りにかけた類推話という説等も出てきたり、又同様な地名、蹟話があちこちにも存在し、多くの学者達の論争の的となっているのは既に衆知の事である。然し、昭和十五年文部省が行った顕彰地調査の結果、その報告にもとづいて、この生駒の地を神武天皇御聖蹟地と定められ、当時の国定教科書の扉に其の写真がのせられたりしている。 

 今日、この碑が、ここに其の姿を止めているのには、更に付加えねばならぬ事がある。第二次大戦の後、我国が米国の占領下におかれた頃、この碑が戦いへの間接的な意味にしろ、精神的作用大とみて、その取りこわしを厳命して来たという。皇弓の弭に止る金鵄は、明治二十三年以来金鵄勲章の起源ともなっていたのだから、当然注目されるところであったろう。郷土の人達にとって、矢張りそれは忍び難い事であった。そこでこれを守り育てる金鵄会の解散を決意、その代りに碑の存続願いを出し、かろうじて取りこわされるのを救ったとの事である。 

 草々の生ひ茂る中、碑の下に立てば、西の方、真向いに生駒山頂が望み見られる。神武天皇と長髄彦の戦いと言う一つの大昔の物語は、その真偽はともかくとしても、矢張り我々にとって懐しい心のふるさとの物語でもある。神武天皇御聖地は、生駒の一つの名所として、広く語り伝えられる場ではなかろうか。 

<資料>「日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇(神武天皇)」 

 遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた、塩土の翁(しおつちのお)に聞くと『東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天・の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳(たいさい/12年の周期で巡行する木星の異名)の甲寅(きのえとら)である。その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向われた。

~解説~この頃遠い東国はまだ群雄割捷據していたが饒速日命がすでに大和に来往しておられることを神武天皇は知り、又大和のうるわしい土地のあることにもあこがれておられた事がうかがわれる。後述の天磐船の記事、白庭山の記事には更に詳しくこの様子をのべている。天皇の日向出発は橿原にて即位された紀元元年より先立つこと六年前の冬十月であった。 

<資料二>「日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇(神武天皇)」 

 戊午(つちおえうま)の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。舳艫(じくろ/船首と船尾)相つぎ、まさに難波碕(なにはのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国(なみはやのくに)とした。また浪花(なみはな)ともいう。今難波(なにわ)というのはなまったものである。三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。そのときに長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞き、「天神の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。流れ矢が当たって五瀬命の肘脛(ひぎはぎ)に当たった。天皇の軍は進むことができなかった。天皇はこれを憂えて、はかりごとをめぐらされた。「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」といわれた。皆は「そのとおりです」という。そこで軍中に告げていわれた。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。草香津(くさかのつ)に引き返し、盾をたてて雄たけびをし士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてつ)とよんだ。いま蓼津(たでつ)というのは、なまっているのである。

~解説~神武天皇の生駒山より大和に入ろうとせられて長髄彦と苦戦になったことがうかがわれる。最初龍田越をしようとせられたとあるのは龍間越とする説がこの地方ではとられている。次に日下越をしようとせられたのも急崖にはばまれ断念せられた。大和の城壁としての生駒山脈は「山の堵(やまのと)」(城戸/城の門)らしい地形で、これが「やまと」の起源とも考えあわせて興味がある。さて裏に廻って奇襲しようとの作戦を「太陽に向っての不利」と神話化してある点も神代らしい。 

<資料三>「日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇(神武天皇)」 

 十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。

今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。そして歌っていわれた。 

  ミツミツシ、クメノコラ(久米之子等)ガ、「カキモトニ」アハフ(粟田)ニハ、カミラ(韮)ヒトモト(一本)、ソノガモト(其根茎)、ソネメツナギテ(其根茎繋)、ウチテシヤマム(撃而止)<天皇の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう>

 また歌っていう。 

  ミツミツシ、クメノコラガ、カキモト(垣下)ニ、ヴヱシハジカミ(植韮)、クチビヒク(口疼)、ワレハワスレズ(我不忘)、ウチテシヤマム<天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう> 

 また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは歌った人を指して名づけたのである。 

 さて長髄彦は使いを送って、天皇に言上し、「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒連日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽者でしょう」と。天皇がいわれる。「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表(しるし/しるしの物)があるだろう。それを示しなさい」と。長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢(あまのははや/蛇の呪力を負った矢)と歩靫(かちゆき/徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ/矢を入れて携行する道具)を天皇に示した。天皇はご覧になって、「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。長髄彦はその天神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。けれども兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。そして間違った考えを捨てず、改心の気持がない。饒連日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒連日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。 

 翌年己未の春二月二十日、諸将に命じて士卒をえらび訓練された。このときにそほの県(添県)の波眸の丘岬(膚山の崎か)に、新城戸畔という女賊があり、また和珂(天理市)の坂下に、居勢祝という者があり、臍見の長柄の丘岬に、猪祝という者があり、その三ヵ所の土賊は、その力を侍んで帰順しなかった。そこで天皇は一部の軍を遣わして皆殺しにさせた。 

~解説~長途の迂回作戦に八咫烏(ヤタガラス)ともいわれる道臣命(ミチノオミノミコト)の道案内で都合よく、その年の十二月鵄山の丘陵に出てこられ、西の方、白谷地方の長髄彦の本拠に迫ろうとせられた時金の鴉が飛来したこと。この時の軍歌

   ○みずみずし久米の子等が、かきもとに粟生(あわふ/粟畑)には、臭韮一茎(かみらひともと)そのが茎(もと)、その芽つなぎて、撃ちてしやまん。

   ○みずみずし久米の子らが、垣元(かきもと)に植えし薑(はじかみ)、口ひびく、我は忘れじ撃ちてしやまん。 

の中に賊軍をくさいにらしょうがにたとえ、そのにがい経験ともいうべき、孔舎衛坂の戦を思い出して、奮起せよ、とはげまされた真剣さがうかがわれる。次に饒速口命を奉じている長髄彦は容易に降参しなかったが、命は神武天皇の示された羽々矢が自分のと同じであることにすぐ納得して帰順された。 

<要説二>鳥見霊 

 大和を平定して、正式に神武天皇として即位した磐余彦命は、自らの祖神、天照大神を祭る斉場(いつきのにわ)を上ッ小野榛原、下ッ小野榛原の鳥見山の中にたてた。さて、この小野榛原をめぐって実に数ケ所も候補地が現われた。宇陀郡の榛原、磯城郡桜井、吉野郡丹川上、山辺郡丹波市等。その一つに生駒郡ものぼった。金鶏発祥の地、鳥見山を擁立する生駒としては、鳥見山という名から推して。霊(れいじ/祭祀場)もあるいは……と考えた。その上海滝山(引用者:原文読み不記載)王龍寺(黄檗山派禅寺)に残されていた縁起書中、二名という地名は上っ小野榛原下っ小野榛原の畧(りゃく)であると元禄年間の記録にある。元来この地は敏速天皇の皇子春日の皇子が物部守屋を誅伐した功によって与えられた領地でもあり、その後小野姓を名のり二代目が小野妹子、後に下の小野家が分家し、上下の小野家が出来た。(崇峻記)この頃この辺一帯に榛が繁っていたと推察されている。

 次に鳥見の霊の伝称地として、戦時中に、南生駒地区の小平尾山「磐座」(いわくら)もあげられた。生駒山を北に望む景勝の地で茶褐色の山肌に巨岩点在し、石の台地あり、生駒山腹の獅子垣を長髄彦のとりでと考える人もある。麓の邑にあたる萩原は書記にある小野榛原の訛という。また一分の東にある矢田山脈の一つの峯を神武峯とよび、そこの西斜面に「このはりはら」の地名あり、按ずるに、局部的な戦勝の折、先祖に感謝の祭をなされた所でもあったか。

<資料四>「日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇(神武天皇)」 

 四年春二月二十三日、詔して「わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。 

<資料五>鴉神社由来記(昭和15年8月5日発行 編集者飯野純道)

 王龍寺古文書二依レバ、聖武天皇、此ノ地二狩猟セラレ鳥見ノ古跡ノ衰頽ヲ嘆キ給ヒ鴉神社ヲ再興シ王龍寺モ併セ造ラレシニ戦国争乱ノ間兵火ノ為二焼失セリ。其ノ状延享三丙寅年ノ寺院本末帳二「鎭守鴉之三社、天紙、地神、神武社、(四尺ニ六尺、花表一間ニ八尺)、神武天皇鴉之瑞ニ依テ位ヲ保チ世ヲ治メ給フ依テ之ヲ鴉谷ト號ス神武四年天下ニ詔ヲ下しシ鴉之霊社ヲ鳥見山中ニ立ツ高祖天神を郊祀シ大孝申へ給フレ霊社之地ヲ號シ上小野榛原下小野榛原(カミツオノハイバラシモツオノハイバラ)ト曰く故二後ノ世二名山(ニメウヤマ)ト號ス・・・・・聖武天皇ノ勅願ニ依リ二天平七年七堂伽藍寺院多數建立アリ其後兵火の為ニ破壊シ纔二後二奥院一宇相ル」とアリ。

 又同年代頃ノ和州添下郡谷二名村海瀧山王龍寺縁起ニハ「・・・・・鴉神社ハ地神五代鵄鵄草葺不合 (ウガヤフキアヘズ)第四皇子人皇第一代神武天皇・・・・・鴉ノ奇瑞ハ天照大神ノ感慶ナヲ敬ヒ其所ヲ鴉谷ト號シ給フ、同橿原二都ヲ開キ給ヒ神ノ社ヲ高見山中二建テ、鴉大明神卜崇メラル云々」。又大字二名ナル語字二シテハ「鴉大明神ヲ崇メラル、其地ヲ上ッ小野榛原、下ッ小野榛原卜云フユヘ二名山ト號ス。民屋ノアル所ヲ二名邑卜云ヒ傅ヘラル」トアリ。 

 尚此ノ二名二就イテハ寛永十癸酉仲春ノ古書ニ「二名と云ふ譯は此所を上小野波利原、下小野はり原と云ふ名前二ヶ所有故也」トアリテ此ノ地古代ヨリ金鴉發祥鳥見山中ノ靈蹟ナル事ヲ物語リ、王龍(黄立、王立)ノ名ノ偶然ナラザル事ヲ察セラル。 

 其ノ他二古図、古伝、古記録、数多ナルモ、正徳ノ昔郡山藩主本多忠直公ヨリ此ノ寺二下サレタル古地図ニモ鴉神社ト明示セラレ今ヤ武神ヲ祀るル、救国ノ神霊、金鴉ノ社トシテ、世人ノ信仰日ヲ追ツテ増シツヽアリ。 

 此ノ社ノ所在スル王龍寺ハ黄璧宗二属シ、十一面観音ノ石仏を本尊トス。丈余ノ岩壁二鮮ヤカニ刻レタル五尺余ノ仏像ニシテ建武三年ノ銘有ル稀有ノモノトシテ尊バル。其他鎌倉時代二属スルト云フ古鐘アリ、共二此ノ寺ノ貴宝タリ。 

 中興開祖梅谷禅師ハ元禄ノ昔、此ノ鴉ノ古跡ヲ探りテ中幕既二尊皇ノ大義ヲ唱セリ。 

 四代法源和尚又尊皇ノ心篤ク大和ノ談山神社二参拝シテハ、臣鎌足ノ社ガ斯クモ壮麗ナルニ人皇第一代神武天皇ノ山陵及ビ其ノ霊社が未ダ不明ナルハ恐畏ノ至リト慨嘆シ鴉神社ノ盛大二カヲ尽セリ。皇紀二千六百年ノ聖年ト共二次第二世二認メラレシ此ノ山峡幽谷ハ橿原ノ恩地トシテ、大和ヲ訪レル者、必ズ此ノ聖地二杖ヲ曳キ、往古ノ神霊二跪拝シテ、日本人タルノ誇ト自覚ヲ喚起スルニ絶好ノ清境ナリ。 

 尚附近二古跡、名勝多ク、一度訪レバ、一木一草二古歌古詩古伝二昔ヲ偲ベバ、古キ日本ノ姿ヲ吾等ノ眼前ニ彷彿セシムノ感アラン。 

~解説~ 

 これは王竜寺にある鴉神社を顕彰するために作られた由来記である。戦時中のこと故、尊皇の大義強く説いている点がうかがわれる。王竜寺は生駒町上村のすぐ南隣するところであるので、その一部を資料として収録した。鳥見の霊時の一候補地として戦時中人々にはやし立てられた。今この地を訪れると苔むす祠が淋しく残っていて、そぞろ時代のうつりかわりと盛衰変化を思わせる。この感じは他の鴉山伝承地の一つ一つについても同じである。 

<資料六>金鶏発祥史蹟考(金鴉会代表者 池田勝太郎) 

 ①金鴉発祥の史蹟 

  奈良県生駒郡北倭村は鳥見郷の旧地にして(日本紀講述抄云、鴉村は南都の西三里許りにして鴉川あり則ち大和川の上なり、其流れに溯りて西北すれば岩屋に達するなり、岩屋越と闇越との中間一谷方三里あり、今村々の名を分つと云へども此中を凡て鴉谷と号す是長髄彦が住せし地なり)金鴉発祥の史蹟は同村大字上及び高山の境界点に存在せり、と推考すべく里俗其地を呼びて「とび山」といふ「とび山」の名称は盖し金鴉発祥の史実を記する所以にして建国史上尤も尊重すべき霊蹟なりとす。惜いかな星霜千百年の間幾多の変化を見其一部分は既に開墾せられて耕地となりしも之を故老に聞くに開墾以前は更に一段の高邱ありしなりと古証券に徴するに、略々疑ひなきが如く記紀二文を以て現存地形に推当を試むるに当時の戦況を想見するに足るものあり、請ふ先づ白庭山の所在を考究せよ〔金鶏発祥の史実参照〕 

  金鴉発祥の史実(日本書紀巻 第三 神武天皇):十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。

 見白庭山の旧墟 

  鳥見白庭山の所在は必ず和河両国(大阪府北河内郡・奈良県生駒郡)の接続境域ならざるべからず而して北倭村は其地能く之れに適合せり今同村大字上に白谷と称する地あり十数戸の民家一里曲を成して山嶺之を四周し唯纔に東西二方に通路を開くのみ東口には富の小川の渓流南下し其西口には天の川の泉源北流す真に天険の地たり天の川に沿ふて北行すること十数町にして北河内郡磐船の山峡あり是れ所謂河上哮峰(かわかみたけるのみね)なり(河内志云河上哮峰は讃良郡田原村に在り、今石船山と号す峡中に石あり長五丈許り渓水は石下を通ふ、和州南田原(現時生駒郡北倭村大字南田原)石船明神の神輿こゝに遷幸す因て石船岩と呼ぶ、今其礼式廃すといへども毎歳六月晦日村民相集り政事を修すといふ、神坐石交野郡に属す)と交野郡は現時交野村岩船村に分割され岩船神坐石は岩船村にあり之れを探るには大軌生駒及び富雑駅より又は信貴生駒電鉄岩船駅よりバスの便あり境域の森厳にして崇敬の念禁ずるを得ず而して其西南には生駒の大嶽雲際に聳えたり、則ち白谷なる地名は白庭の遠称にして当初饒速日命が彼処より是に遷りて長髄彦に擁立されし地なることを知るに足れり今其旧称を求むるに「ヒロシバコ」と称する数畝の畑地は則ち之に適合せり盖し「ヒロシバコ」は広き芝生の義にして元来平坦なる芝生なりしが種茶樹桑の民情は終に之を開墾するに至れり又「ヒロシバコ」に接続して白土と称する地あり彼此の地名を綜合して考ふるに当初平面なりし白土の地層を雨水に剥損されて広き芝生となれることを想見し得べし、則ち白庭の地名の所以はここに起因せるものならん、況んや白谷の坤嶺には饒速日命の御物葬斂の史実に適合すべき古墳あるをや〔鳥見白庭の史実参照〕

  鳥見白庭山の史実(旧事記 巻五 天孫本紀/巻六 皇孫本紀):<巻五 天孫本紀>天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。またの名を天火明命(あめのほあかり)、またの名を天照国照彦天火明尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)、または饒速日命という。またの名を胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)天照孁貴(あまてらすひるめむち)の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊をお生みになった。天照太神と高皇産霊尊の、両方のご子孫としてお生まれになった。そのため、天孫といい、また皇孫という。天神の御祖神は、天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を饒速日尊にお授けになった。そうしてこの尊は、天神の御祖先神のご命令で、天の磐船に乗り、河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。さらに、大倭(やまと)国の鳥見(とみ)の白庭山へ遷った。天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。いわゆる、天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られ、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。<巻六 皇孫本紀>ときに、長髄彦は使いを送って、天孫に申しあげた。「昔、天神の御子がおられて、天の磐船(いわふね)に乗って天降られました。名を櫛玉饒速日尊(くしたまにぎはやひのみこと)と申しあげます。このかたが、わが妹の三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って御子をお生みになりました。御子の名を宇摩志麻治命(うましまちのみこと)と申しあげます。そのため、私は饒速日尊、次いで宇摩志麻治命を君として仕えてきました。

 ③饒速日墳墓の所在 

  白庭山舊墟の白谷に存すること上述の如くなれば則ち饒速日命の墳墓も其域内に存すべきこと疑を容れず、大和國陳述名鑑圖に大字上(北倭村)なる真弓山長弓寺境内を以て白庭山の舊墟と為し同寺境外眞弓塚を以て饒速日墳墓と為せるも眞弓塚は聖武天皇神亀五年三月御猟遊幸の際真弓長弓なるものを葬らせたまへる墳墓にして真弓山長弓寺は即ち真弓長弓の非命に死するを憫みたまひ僧行基に勅して門剏せしめられし寺院なれば饒速日事蹟と相關するものあることなし、唯々真弓塚なる名稱が饒速日の遺物葬剱と偶然の暗合あるを以てしかく想像せる臆説に過ぎず確たる根據あるに非るなり、今白谷の地を検するに四圍の山嶺其尤も高峻なるを檜窪山といふ即ち白庭の西南に聳えて近くは鳥見一郷の村落山野を脚下に俯瞰し遠くは大和平原及び近畿諸山を指呼するを得。盖し鳥見郷の主山にして其西麓には南田原村社岩船明神、(今按ずるに其祭神は饒速日命なれども明治維新の際誤って住吉神社と稱するに至れり、盖し岩船明神の舊稱を誤解して之を船舶守護の住吉大神なりとし遂に今日の社名に改められたるなり)及び社頭の古刹岩藏寺あり(今按ずるに岩藏は磐座の借字にて明神鎭座の義なり而して其本尊毘沙門天王、王妃吉祥天女、王子禅膩師童子の古像三軀は饒速日父子及び御炊屋姫の本地仏として安置せしものならむ)而して桧窪山の山嶺には山伏塚と稱する古墳を存せり、其形状は片石を推積して圓家を成し苔蘇蒼白にて二千數百年以前の古塚たること疑を容れず、其名稱山伏塚は山王(やまぬし)塚の訛音にして白庭山の故主饒速日の墳墓たることを推知するに足れり、則ち旧事紀に見ゆる登美白庭の墳墓は之を措きて他に求むべからざるなり〔饒速日墳墓の史實参照〕

  饒速日墳墓の史實(旧事記 巻5 天孫本紀):饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。

 ④鵄山の位置及ぴ白庭山との関係 

  鳥山の所在は大阪電軌富雄停留所より富の小川(現称富雄の川)右岸に沿ひて北行すること二十町餘にして達することを得其位置は即ち富の小川の東方に在りて白谷の東面谷口に對向す盖し白谷の東口には其左右を扼する高地ありて富の小川其前に横はれり所謂一夫當關萬夫莫開の要害なれども而も富の小川を隔てゝ其左右高地と相鼎峙せる鵄山の邱上より西望すれば谷内遥に「ヒロシバコ」の所在を指目すべし、是れ両軍決戦の當時皇師の占領したまひし攻撃陣地にして長髄彦の軍卒はかの左右両高地に據りて防禦せしものなるべく富の小川は彼我争奪の折衝地点ならずんばあらず、而して鵄山の背後には奈良木津の両地に達する間道あり、即ち皇軍奇襲の進路なるべし、形勝此の如くにして而も「トビ山」の稱あり、誰か復金鵄発祥の史蹟たることを疑はんや。大軌電車の開通せし以来斯の史蹟地遺存を傅聞して、探訪する好古の人士亦少なからず就中大正三年十月十一日大阪探勝わらぢ會員の一隊巡歴ありて建國史上尤も尊重すべき史蹟の荒廃せるを見て慨歎已む能はず遂に石に刻して之を標榜す 題して 「金鶏発祥之処」といふ巡歴者の為め其所在を知るに便ならしめ荒廃せる史蹟保存の趣旨を具現したる功も亦決して没却すべからざるなり。 

 ⑤皇祖東征の御戦略 

  皇祖東征の御戦略を論ぜんには先づ御東征の御詔勅を拝読して当時の御事情を審にするの要あり、日本紀之を録して云く、遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている」と是れ、我大和に於ける諸賊の所在割據して彼此相和せざることをいふにあらずや則ち兄猾兄磯城等の宇陀磯城に於ける長髄彦の鳥見に於ける皆自ら其強を恃みて互に相応援せず自余の諸賊と亦各々孤立蠹動して声息相通ぜざりしことを知るに足れり、故に長髄彦征伐に於ける金鶏発祥の史蹟は吾鳥見郷に在りと推考すべし日本紀に録して云く「東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と是れ豈御東征の大目的にあらずや、而して饒速日は長髄彦に擁立せられて鳥見白庭山に在り則ち白肩津の上陸は他なし、白庭の西背を御攻撃せられんが為にして草香坂の御敗蹟は御東征戦略の一頓挫なり、今や白庭山の地点を詳にするを得たれば白肩津の如きも亦其所在を推知するに難からず、古事記は之を録して云く「浪速渡(なみはやのわたり)をへて青雲の白肩津(しろかたのつ/現在の東大阪市日下町付近にあった船着場)に船をお停めになった。」と津は古の草香江に在り、今中河内郡枚岡村額田(註大軌額田駅附近)に白水と称する地名あり而して額田は沼潟(ぬがた)の義なれば是れ即ち自肩津の旧地ならん但し青雲なる称呼は其何に由りて起れるかを詳にせず或は枕詞なりとも云へり因て按ずるに浪速海は鹹水(報告者注:かんすい/塩分を含んだ水)にて草香江は淡水なり、即ち御東征の御航路は此時一変せり記文盖し之を録せるならん故に青雲は淡隈の訛称なり日本紀其誤を踏襲して「川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた」といふ即ち青雲の二字贅疣(報告者注:ぜいゆう/無用なもの)と属す、日本紀また御東征の径路を録して「皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした」と所謂る龍田龍間の誤文なり盖し額田より北行東折すれば龍間山あり嶺を踰(こ)ゆれば則地白庭山の西背に達す俗に之を中垣内越と称す而も其坂路は当初狭嶮にして並び行くことを得ざりし状況を想見すべし故に「南還して路を草香坂に転じたまへるなり、草香坂も亦白庭の西背に達する山路にして長髄彦の遊撃は龍間の南還に因りて其冦あることを察せるならん」御東征の御戦略既に頓挫す乃ち徐ろに兵を収めて海路大迂回の策を決せらる日本紀は当初の御聖効を録して「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。」、盖西背正攻の敗に鑑み給ひ東面奇襲の利を悟りたまへるなり、故に宇陀磯城の諸酋を平らぐるや直ちに兵を提げて白庭東面に驀進し長髄彦をして之に備ふるの逞なからしめ給ふ此時に当り波侈丘岬に新城戸畔あり和弭坂下に居勢祝あり臍見長柄丘岬に猪祝あり又高尾張邑に土蜘蛛の在るありて皇軍の進路梗塞して通し難し、其白庭東面に驀進せるは必ずや磯城より山辺添上の山路を迂回して鵄山背後の間道に出で背に日影を負ひて之を奇襲したまひしならん措しい哉国史其径路を載せず今之を考ふるに由なし、「之を要するに皇祖の用兵は神出鬼没にして其御戦略殆んど端倪すべからず、白庭東面に驀進して之を奇襲するが如き強敵長髄彦といへども安んぞ一驚を喫せざらんや然りと雖も彼れ素より自信する所あり其志饒速日を擁立して皇祖と天種の真偽を争はんと欲す寧ろ力屈して死することあるも戦はずして降るものにあらず是其長髄彦たる所以にして皇祖東征の己むべからざる所以も亦茲に存せり」、宇陀磯城に於ける諸酋の如きは則ち然らず自尊自大倨傲にして能く為すことなし、皇祖の眼中彼れ何かあらん故に先づ使を遣はして之を徴し其帰順せざるを見て然る後に征誅す、長髄彦に於ては初より之と鋒を交へて未だ曽て促し微さず彼れ自信する所ありて帰順せざることを知りたまへるを以てなり皇祖東征の目的斯の如くにして長髄彦の自信も亦彼の如くなれば水火相激せざらんことを欲するも得べからず況んや鵄山の攻撃陣地は既に死命を制するをや、則ち窮鼡噬猫に至るは勢の免るべからざる所にして皇軍の連戦不能取勝も亦冝ならずとせず而も機運は既に熟せり金鵄の祥瑞是に於て乎発現し遂に天下を統一したまひしなり嶋呼偉人の出つる処必ず奇蹟之に伴ふものあり況んや皇祖天祐の威霊を以て金鵄の祥瑞を発現する夫れ豈深く異むことを須ひんや後世古事記を偏信するの徒或は日本紀の文飾を疑ひて金鵄発祥の史実を私議するものあり、此の如きは尋常事理を以て垂統の聖徳大業を律せんと欲する管窮蠡測にして上下三千年金甌無缺の国体を萬世無窮に維持すべき国民教育の為に余輩の取る能はざる所なりとす、抑々富の小川の名称は古来歌人詞客の間に流伝す、而して富と鵄と邦訓相通ず則ち亦金鵄発祥の史実を記する美名なるなからんや敢て博雅の考証を埃つ。

 ⑥金鶏発祥の鳥見と霊畤所在の鳥見 

  金鶏発祥の史蹟が生駒郡北倭村に存在すべきは上文既に之を悉せり而も猶一言の補足すべきものおり金鵄発祥の鳥見と霊畤所在の鳥見と両者その地名を一にして考証に至りては箇々特殊の論拠なかるべからざること是なり盖し霊畤所在の鳥見は日本紀巻三に「四年春二月二十三日、詔して『わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい』と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。」と見ゆ而して其所在は明治三十九年宇陀郡榛原町有志者の史蹟顕彰請願に依りて貴族院の採択決議に上り更に明治四十二年、磯城郡桜井町及び城島村有志者の請願に依りて衆議院の採択決議に上れり則ち鳥見霊畤の史蹟は其所在両説ありて未だ俄に是非真偽を甄別すべからざるなり就中磯城の外山(鳥見山)には磐船白山鵄谷榛原等の小字ありて饒速日命の降臨遷座より金鵄発祥の史蹟に至るまで抱括して之を霊畤所在の地域に壟断せんとするものゝ如し、是れ他なし霊畤所在の鳥見と金鵄発祥の鳥見と両者地名を一にして其考証に至りては箇々特殊の論拠なかるべからざる所以を察せず徒らに其地名に眩惑せらるゝの失のみ。請ふ金鵄発祥の記事を熟読して之を鳥見霊舊魚の記事に対照せよ「長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。」といへる数句は分明に金鵄発祥の史蹟が長髄彦割拠の舊地に存在すべきことを限定せるに非ずや則ち鳥見霊畤の記事に「鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。」とのみ見えて其所在を何れの地に属するかを限定せず、之を磯城宇陀の両地に移し用ふるも妨なきの比にあらず、故に金鵄発祥の史蹟は必ず長髄彦割拠の旧土に存在すべくして磯城彦が割拠せし彼地には断じてあるべからざるなり、然るに「金鵄の光」は強弁して云く「書記に此地の元名長髄といひしに金鵄の瑞によりて鵄と改められしが鳥見と訛れりとあり、こは全く誤謬なり」と凡そ史蹟の考証にして而も唯一の典拠を壇に謬錯呼はりし得べくんは其史実を挙げて亦之を塗殺するの妄断にも陥るべし、事理の矛盾此の如く其窮説たるや殆んど掩ふべからざるものあり、而して北倭村地方は長髄彦占拠の旧土なること略々定説あり況んや長髄は長背嶺(ながそね)の転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山と推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし、之を要するに金鵄発祥の鳥見は長髄彦割拠の旧土にして而も長髄の古名に適合する地方ならざるべからず、霊畤所在の鳥見は則ち之と異なり只「上ッ小野榛原」「下ッ小野榛原」の地名に適合して精確なる遺蹟を存すれば可なりとす然りと雖も鳥見霊畤の記事が若し金鵄発祥の記事に「今鳥見と云は是訛也」とある上文を承け来りて高見山中と省筆せるものならんには霊畤所在の地方も亦生駒郡ならざるべからず但吾人は未だ其遺蹟を知る能はず、広く有志学識の考究に委ねて是非真偽の決する所を観んと欲するのみ豈に敢て史蹟壟断の私情を挟みて爾云はんや。

 追補 上ッ小野榛原下ッ小野榛原の地名が鳥見郷になかるべからずと謂ふ考証について生駒郡富雄村大字二名海瀧山王龍寺(黄柴山派禅寺)にある元録年間に書かれたる縁起に前記二名といふは古名にして上ッ小野榛原下ッ小野榛原を略して称したる地名なりといふ、この二名なる所は北倭村大字上に南隣せる村落なるが古の鳥見郷の一部なることは明かなり更に考究を期す。 

 書中の地名について補註 

  ○鳥見白庭山(ひろしばこ)…「饒速日尊は、天神の祖の詔(みことのり)を稟(う)けて天の磐船に乗りて河内の國の河上の峰に天降られた。則(さら)に大倭国の鳥見の白庭山に遷座(せんざ/神が遷ること)された」と「ひろしばこ」と稱するところ「高見白庭山」の碑表あり、生駒郡北倭村大字白谷貳千八百三十八番地仝所二千八百三十九番地ノー及其附近の事也。

  ○髄彦本據之地(おばたけ)…「饒速日尊は、所謂(いわゆる)天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)を翔(かけ)行きて、是(この)郷を巡(めぐ)り天降られ、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の國”と謂(いわれ)るのは、是(これ)歟(なり)。(饒速日尊は)長髓彦の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃と為(な)し、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)を誕生なされた」と「おばたけ」と稱するところに在り二千歩ばかりの田にして臺地をなす生駒郡北倭村大字上字白谷二千七百番地及び其附近の稱にして「長髄彦本據之地」なる碑石あり。

  ○鳥見郷・鵄谷…奈良緜生駒郡北倭村、富雄村の總稱 

  ○トピ山・鵄山…「十有二月(しはす)癸巳(みづのとみ)朔(ついたち)丙申(ひのえさるのひ)<十二月四日>、皇師(みいくさ/皇軍)遂に長髄彦を撃つ。連戰するも取り勝つこと能わず。時に忽然にして天陰りて雨氷(雹<ひょう>)ふる。乃(すなわ)ち、金色の靈(あや)しき鵄有りて、飛び來たり皇弓(みゆみ/天皇の弓)の弭(はず/先)に止まる。其鵄光り曄煜(てりかがや)きて、状(かたち)流電(いなびかり/雷光)の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒(いくさのひとども)、皆迷(まど)い眩(まぎ)えて、復(また)力(きわ)め戰はず(力戦できず)。長髓、是、邑(むら)之本(もと)の號(な/名前)焉(なり)。因りて亦、以て人の名と爲す。皇軍(みいくさ)之鵄の瑞(みつ/吉兆)を得るに及ぶ也。時人(時の人)仍(よ)りて鵄邑と號(なづ)く。今、鳥見(とみ)と云ふは是訛れる也」と「金鵄發祥之處」と刻したる碑石あり。生駒郡北倭村大字上字大町三千五百六十二番地及其附近のことなり。

  ○白谷…生駒郡北倭村大字上字白谷の地にして古來十數軒の小里なり明治時代に鐵道敷設の發達を見るまでは岩船街道と古堤街道の分岐點とて生魚市などありたり。 

  ○富の小川・富雄川…富雄川と稱せられ居るも富の小川の舊稱ゆかし、水源は北倭村大字高山なる黒添池(くろんどいけ)に發し富雄村を經て大和川に合流す。 

  ○天の川…生駒郡北倭村大字南田原なる星森(ほしのもり)の泉に發し磐船谷を流下して幽渓奇勝を形づくり牧野村枚方町の間に至り淀川に合す。

  ○岩船・河上哮峰磐船・石船山…北河内郡岩船村の渓谷天之川の上游にして現時岩船神社あり、天の川の清流巌下を流れ大岩石畳重せり。 

  ○生駒山・瞻駒山・いこまやま…生駒郡中河内郡の境に在り山中、暗越、辻子谷越、善根寺越の通路あり。 

  ○北倭村…生駒郡北部にあり明治二十三年元高山村、上村、田原村鹿畑村を合併して總稱したる村名なり。 

  ○真弓山長弓寺…北倭村大字上にあり。 

  ○真弓塚…仝所字源谷五千八百八十五番地にして長弓寺東方約六丁の丘陵なり。 

  ○檜の窪山・日の窪山…(ひのくぼやま)仝所大字上西部にあり

  ○檜の窪塚(ひのくぼつか)・山伏塚(やまぶしつか)…仝所大字上字平井千八百八十二番地に在り「饒速日命の墳墓」と傅へ今石標を建つまた「やまぬしずか」の訛か。

  ○夫婦塚…仝所字高樋にあり御炊屋姫塚なりといふ 

  ○岩船明神…生駒郡北倭村大字南田原にある住吉神社のことなり 

  ○龍間…北河内郡四條村大字龍間のことにして中垣内越(なかがいと越)を西より登りたる中腹に在る里邑なり。 

  ○沼潟(ぬがた)・額田・ヌノヒガタ…中河内郡枚岡村額田の地を云ふ。

  ○白肩津(しらかたつ)・草香江…中河内郡大戸村大字日下を云う。

  ○をヘ・どへ…生駒郡北倭村大字上字中島二千五百五十八番地二千五百五十九番地と其附近の古き地名なり。をへは尾塀、どへは土塀の意なりといふ。この處富の小川(今の富雄川)を隔てて鵄山に相對す、また古塞ありしという。 

 ~解説~ 

  これは大正十三年頃北倭村に組織された金鵄会の代表者、池田勝太郎氏が長弓寺住職池尾宥祥氏に編輯を依頼してこの地方の鳥見の史跡をまとめたものである。 

  この頃には金鶏の顕揚が郷土にみなぎり、大正三年七月に初版を出してより、同十二月再版、翌年六月三版を出し同じ頃(六月十七日)郷土史研究家森本愛二氏によって同様の研究録を発表されている。藤渾章氏の題字「顕幽」をはじめ、同氏の外に岡村達氏、定井貞氏等による鵄渓懐古の漢詩や、水木要太郎氏や佐伯良謙氏等の和歌によって、盛んに唱えられた事がうかがわれる。続いて昭和十四年六月四版発行となり、戦時中再びこの顕彰が大きくとりあげられたわけで、今に残る顕彰碑も、小なるは前回の時に大なるは後回の時に、打ち立てられたものである。なおこの頃金鵄の発祥の顕彰に努力された郷土史家吉村宇一郎(長慶)氏、藤田利則氏らも長弓寺蔵の沿革記録で散見する。鵄谷に立ち、白谷を尋ね、あたりの地形をながめるとき、かかる神話の作られしことも又奇しき縁かと思われるものがあり、尊皇精神は時に消長あれど郷土の語り草としては残して置きたい思いがする。 

   いにしへをわすれぬ人のありてこそ 其村里もいやさかゆらめ (水木要太郎) 

<資料七>古代社会におけるトビとカリ 

   月刊「日本歴史」第二六一号(<引用者:一九七〇年>二月号)吉川弘文館発行  富来隆      <引用者:全文

 ここにいうトビとカリとは、鳥の名のことではない。記紀・風土記などに多く見られる人名(神名をふくむ)や地名その他の、トビ(卜べ)・カリ(カル・コリ)かはたして何を意味するかを解きあかそうとおもうのである。まず結論から述べよう。トビ(トベ)とは、サカ(ナカ)・ナガラ(ナガオ)とともに「蛇神」をさす呼称である。カリ(カル・コリ)とは、カネの古語であり、おそらく朝解語のKuri(銅の義)にあたるかと思われ、本来的には「銅」を主とする金属を意味しているようである。そしてこのカリ(カル・コリ)の名にまつわりつくように、トビ・ナガラの記述がみえる。両者のあいだに深い関係かあること、また日本の古代社会における両者の重要性、についての知見をすこしく記してみたいとおもう。 

 古事記・日本書紀などに「トビ」・「トベ」のつく人名か多くみられるが、まずは神武天皇と崇神・垂仁天皇の条に集中しているので、そこに注目してみよう。 

 神武天皇が豊後水道からセト内海を東上して浪速にたっし、それより生駒をこえてまさに大和に入ろうとされた。そのとき長髄彦(また登美彦)がこれを迎えうって、天皇はついに大和に入れなかった。そのため南下してまず紀伊の名草にいたって名草戸畔(トベ)なる者を誅し、さらに熊野の荒坂(また丹敷浦)に至って丹敷戸畔を誅された、という。 

 崇神天皇は紀伊の荒河戸畔を妃とし、その女に豊鋤入姫命らか生まれた。六十年秋に出雲の神宝を収めてからのこととして丹波の水香戸辺の小児の託言によって大神を祭らしめたことがみえる。垂仁天皇は山背の刈幡戸辺を娶り、また山背大国不遅の女綺(かむはた)戸辺を後宮に入れたもうた、とみえる。古事記では少しく異なって、ともに山代の大国の淵の女として刈羽田刀辨と弟(おと)刈羽田刀辨とを娶したとされている。注目されるのは、また謎の王とされる日子坐王が山代の荏名津比売<えなつひめ/またの名は刈幡(かりはた)戸辨>を娶されたとみえることであり、この王はまた春日建国勝戸売(とめ)が女の沙本之太闇見戸売を娶って生まれた御子か沙本毘古王・沙本比売命(垂仁天皇の后となる)なのである。沙本比売が天皇を殺さむとして天皇か夢みて「錦色の小蛇が順にまつわりついた」と問われたことは、美和の神が壮夫となって通われたのと並んで「蛇神」伝承の大なるものと考えられることでもある。そしてこの沙本比売の御子か長じても物言われず、出雲大神の崇りであるというので出雲に詣でたか、その帰りに突然くちがきけるようになった。そこで皇子は一夜、肥長(ひなが)姫と婚したか、そのときのぞいてみると大蛇であった、という。肥長姫とは、肥ノ川の長(なが)姫であり、ここには長=ナガ=大蛇神であることをそのまま明示してさえいる。

 トビ・トベ(その変化としてのトミ・トメ)、またナガ(ナカ)・ナガラ(ナガオ)などの蛇神が古代社会に活動する例は他にも多いのであるが、ここにはもっと端的に、トビ=蛇神たることを示す実証をあげてみたい。……(中略ママ)…… 

 上のことは、日本神話や古伝承を理解するうえに重要な基本をなすものということかできる。しかしいまはそのことか本稿の主題ではないので、しばらく措くとしよう。 

 最初に記したように、神武天皇かセト内海を東征して大和に入ろうとされ、生駒の長髄彦(また登美彦)に妨げられて進み得ず紀伊・熊野を迂回されて大和入りをされた、という。そしてついに長髄彦(また登美彦)を討つときが来た。 

 しかし天皇側は、どうしても勝つことかできない。そのときである。忽ちにし氷雨がふりはじめ、はるかに「金色の霊鵄(トビ)飛び来って天皇の弓の弭(はず)にとまった。その鵄の光かかやいて流電のごとく、長髄彦(登美彦)の軍兵は眼がくらんでしまって戦えなくなった。いま鳥見村というのは、鵄の村というのか訛ったのだ、と記されている。

 上の文の真意はじつは次のごとくだろう。すなわち、金色の鵄は、本来は長髄彦(また登美彦)の側のトーテム(神)ではなかったか。登美彦の登美(トミ・トビ)と、鵄(トビ)と通ずるようである。そしてこれは生駒の「山ノ神」であり、霊蛇神であったものであろう。さきの『宇佐宮託宣集』に八幡神の発現の記事としてみられた「霊蛇、化鳥」の図式すなわち「金色の蛇(トビ)→金色の鳥(トビ)」が、まさにその原型をとどめる形でここに神武東征に明示されたものではないかと思われる。 

 さらに蛇神の呼称は数多くあり、トビ(トベ)・ナガ(ナガラ)のほかヤアタ(ヤワタ)・ミワ(ミイ)などが、後世になって混在したことも考えられる。長髄彦の名も、スネが長いというのが本来ではなくて、長=ナガ=蛇神の呼称であり、したがって古事記の登美彦(トミ・トビ)の名のほうか原型であったとおもわれる。妹をトミヤ姫とするのかその一証である。それが、トビもナガも、ともに蛇神の呼称であったゆえに混淆したのではなかろうか。それはとも角として、「金の鵄」にかかる伝承の真意は「霊蛇、化鳥(トビ)」という原型をのこしたものとして解されるべきであろうとおもう。そしてこの地から南流する川を[富雄(とみのお)川]とよぶ。この「トミノオ」の名称は、さきの豊後佐伯の「富之尾宮」と同義であろう。そしてまた、トミノオの地名はこの他にも諸所にみられるのであり、その最も著名なものの一として、近江の犬上郡にある「富之尾」の古伝承がある。犬上川の源流ちかくであり、富之尾の大滝山に犬上明神あり、深々と繁る林は夏なお

涼しく、くわえて眼下に清流の岩をかむを見るか、その巨岩かじつは石灰岩(あるいは石英岩か)の岩床らしく、それか水沫によって巨獣の白骨をながめるような寒々とした気分におそわれる。はたしてその為めかどうかは分らないが、ここに次のような伝説かある。すなわち「三国伝記」(「大日本地名辞書」所収)によると。 

 「昔ある猟師がいた。小自丸という犬をつれ、山に入ったが、その夜は大木の下で休んだ。深更におよび、犬がしきりに飛上り飛びかかって吠える。猟師がいくら叱っても吠いがむ。ついに猟師か怒って剣をぬき、小自丸の首を打落してしまった。ところがその首が飛び上り、朽木の大木から大蛇か下って口をひらき、猟師を呑まんとしかかるノドブエにしかと噛付いた。これによって猟師大いに感じ入り、悔いたるも詮なく、神祠を営んで犬の神と崇む。いまの犬神明神の社がそれである。犬上=犬神であり、富之尾=蛇之尾からする地名・社祠とその伝承であろう。 

 岡山県東部の長船町南に「富之尾」と三輪社があり、山中部に「富」・「富之尾」かあり、いずれも伝承・社祠(祭杞)が存している。 

 トビ・トベの名が、じつは蛇神の呼称であり、それだけに伝承・憑きもの(タタリ)とも交渉ふかく、また神託などの奇瑞を示すことも多く関わっているのであろう。神武朝および崇神・垂仁朝に集中し、なお他にも多くみられるトビ・トベの名(また神名)は、これを上のように(蛇神として)解するとき、まことにスムースに問題が解明されるのではなかろうか。 

 つぎにカリ(コリ・カル)について、同時にカリとトビ・ナガラとの密なる関係についで、少しく記してみたい。 

 神武天皇か紀伊・熊野を迂回して吉野に入ったとき、井の中より「光りて、尾有る」人が出てきたとされている。その名を井光(また氷鹿)とされ、いかにも光ることに重点がおかれているようにもみえる。しかし井ヒカリはじつはイカリの宛て字だったのではないだろうか。越前にも一光(イカリ)の地名かある。これらについて、松田寿男教授は、「丹生」の研究によってイカリの水銀朱のことであり、井中に光るのは水銀鉱のことであって、尾ある人とは採鉱夫のことであろう、と言われている。井・光のそれぞれの字のことは別として、少なくとも井光はイカリと呼ばれるのであり、したがっていま碇(いかり)村・碇谷など記されているのである(『大和地名辞典』による)。そしてイカリのような地名は奥州から九州にいたるまで、全国到るところに数多く残っている。私の住む大分市にも碇山・曲(マガリ)の地名か隣接し、ここは神武天皇か東征のときに碇をおろしたという伝説かある。福岡県田川郡の香原(カワル)銅山の地には、伊加利・勾金(マガリカネ)が隣接し、すぐ北に曲(マガリ)・鏡山村が隣接している。ここ伊加利にも「神功皇后か征韓のときに、船のイカリを作った」という伝説かのこっている。これはイカリ→碇(宛て字)からの伝説であろう。さきのイカリ→井光(宛て字)からの伝承とも似ていよう。

 それはさて、イカリとマガリと近接してみられること。マガリのマがあるいは真→(マ)であるとすれば、マカリとは真銅のことになるのだろうか。とすればイカリのイとは何を意味するのだろうか。それについてはさらに考えてみたいが、ここ香原(カワル)は古来から有名な銅山である。そして宇佐官の行幸会には、ここの銅をもって三枚一組(あるいは六枚一組)の「銅鏡」を奉る儀式がある(『豊前志』による)。曲・鏡山の村名はこのひとを示してもいるのであろう。また香原=カワルとは、おそらくカルの宛て字であろうし、あるいは軽を宛て字の地名も多い。そしてカルとはカリ・コリと同義の変化であることは間違いない。さらにまた、この香原採銅所から東して豊前海岸の刈田までの道々には、やたらとトピ・ナガ(ナガラ)のつく地名か密集して蛇神族との深い関係もしのばれる。 

 カリ(コリ・カル)が本来的には「銅」を意味するとおもわれるのだが、それをよく示す物語りが日本神話のうちにある。それは天ノ岩戸の段で、岩戸隠れをされた天照大神を引出さんために鏡・玉をかけ、天鈿(うずめ)女命が神憑りして俳優(わざおぎ)した一条の物語りである。このとき、「鏡」を作られたイシコリトベ命にかかる段のことである。これについては古事記および書紀(本文ならびに各一書)に出入するところかあり、なかなか真実を明らかにし得ないようにみえるが、じつは古語拾遺にみえる一文がもっとも真相を伝えているように思われる。

 それはとも角として、イシコリトペ(あるいはイシコリドメ)ノミコトをして八咫鏡を作らしめたらしいことは明らかである。この名前のイシコリトベ(またトメ)のコリが銅を意味するのであり、トベが蛇神を意味するのである。 

 豊前の香原銅山にカリの地名か多く、そして道々にトビ(およびナガ)の地名も多くみられるのと比べあわせて、宜なるかなとおもわせる。 

 いま一つある。それは垂仁天皇の妃となった羽田刀辨の名である。カリ・ハタ・トベもやはりカリが銅の義であり、トベが蛇神の義なのではないか。カリハタの名から、蟹満寺(カニマンジ)の縁起か生れたとしても、カリ→カニの変化はすなおに認めることが出来ても、何故にカニと大蛇の死闘がなされねばならないかの説明はできにくい。カリ・ハタ・トベ=蛇神の義であることが分れば、上の縁起譚はスムースに説明がなされよう。それはさておき、この地の大塚山古墳がこの姫のものではないかとの推定もまた肯付けようというものである。すなわち、小林行雄氏のいわゆる。“同范鏡”なる銅鏡を三十数枚も出土した大塚山古墳こそは、カリ(銅)・ハタ・トベ(蛇神)の姫のものとするに相応わしいと考えられるからである。……(中略ママ)…… 

 その意味で、まず奈良平野に目をむけると、南端の橿原市ちかく、その西に「曲(まがり)川」の地あり(曲庄)、そこに金橋駅がある。あるいは豊前・香原の曲(まがり)や勾金(まがりがね)、また大分平野の曲(まがり)などと同じであろう。また橿原南のウネビ山をめぐって、軽古・軽ノ池・大軽などの地名があり、その東には「天ノ香山」が存するのである。軽・香・刈などの字が、カリの宛て字として用いられたことも多いのではないだろうか。

 さて「金ノ鵄」で名高い鵄山から南流する「富雄川」が大和川に合流する地に、法隆寺・竜田神社などがある。イカルガ寺・イカル僧・イカルガ里とよばれるイカルの、カルというのか注目されよう。そしてこの地に郷村の名がみえ、また竜田社の所在は那珂郷であって、シナトベ命を祀っている。この付近にも、トビ・ナガとカルとの関連性か想見される。 

 カリ(カル・コリ)が、カネの古語であり、本来的には「銅」の義であってみれば、地名だけではなくて件名や伝承にも、また人名(神名をふくむ)にも数多く存することからして、日本古代社会における「銅」文化かあらためて再認識されるに至るとおもわれる。それにトビ・ナガラの蛇神が関連することは、ミワの神やヤマタノオロチなどか「鉄」の文化と関連して神話や古伝承に注目されるのと匹敵するものかあるのではないか。そして「鉄」文化か主として武器として尊重されたのに対して、「銅」文化は主として祭祀具として尊重され、蛇神(神憑り)と関連がことに強かったのでもあろう。そのことからすると、吉備ならびに美作の「中山」かじつは那賀(ナカ)山・ナガラ嶽の宛て字であることも思いあわせ、またトビ(トミ)とナガ(ナカ)とが一緒になった「富永」やその逆の「中富」かあることを考え、藤原氏の遠祖「中臣(この2字に傍点氏」が祭祀を司る氏族として知られた所以も、じつは「ナカ・トミ」=ナガ・トビであり、両つの蛇神氏族の勢力を統合支配したことにあるのではないかとも推察してみたい。 

 蛇神族と「銅」文化、それが日本古代社会にトビ・ナガ(ナガラ)とカリ(カル)という名称で示されているものであろう。                                            (大分大学教授) 

 ~解説~ 

  これは大分大学教授富来隆氏の研究で「とび」、「とべ」は蛇神を意味し、「かり」は銅を意味し、共に青銅器時代の民俗の敬神思想と武力の変遷をうかがうことが出来る。人類は地質時代に於いて、すでに爬虫類の全盛期に之に驚異をもち、之を崇拝した姿が読みとれる。原住民族(長髄彦)等を支配した銅器文明の支持者(饒速日命)もやがて鉄器によって、更に強く武装した民族(天孫民族)の征服にあって消えて行った。民族の活動興亡を考えるのによい資料である。この地に早くから強烈な先住民族が活動したことが「トベ」、「ナガ」、「カリ」、「コリ」、「カル」等の地名に残している。古代史をこうした言語から解明しようとする研究は又珍らしい考察であるので紹介することにした。 

 因みに生駒谷には蛇神や龍に関係ある地名も多く竜田、竜間、九頭竜(九頭神、葛上)蛇食等の地名の起頭や、八大龍王等を祀る祠が所々の渓流の上(水源池)にあったのも意味深く後生の水田耕作にも重要な関連をもっているものである。 

Ⅱ 第二巻 資料編<抜粋なし> 

Ⅲ 第三巻 資料編 

○郷土の日記類 

 一貫日記※ 

 昭八、十、二十九  

   白庭山、鳥見の白庭山 なつかしき国栖人※きたり大神の みかどのおん前に舞う 

 如何にもなつかしい相の出る所だ、青い松林を彩る雑木を背景にして薄(すすき)のほほけた台地はこれぞ白庭山である。饒速日命、可炊屋媛(カシキヤヒメ)とここに天孫民族と豪族の娘との愛(いと)しい桃源の夢を貪られた土地と懐(おも)うにつけても山川草木に昔語りの風手が偲ばれる。みずら※の宮人、白衣の天孫、これをとりまく群像が眼の中に映じる。白庭山は私には未だ見ぬ恋人を追うなつかしさとあこがれがある。

 ※引用者注 

  ・一貫さんは、生駒の学校で教員をしていた方です。 

  ・国栖人:日本書紀(応神天皇19年)には「国栖人(クズビト)」が、万葉集第 10巻の相聞歌には「国栖ら(クニスラ)」という言葉が出てくる個所があります。どちらも同じく大和国家以前の山地に住んでいた人々に与えられた呼び方であったようです。国栖人は主に岩穴に住んでおり、非稲作民で、独特生活様式を身に付けたいわゆる「山人」の象徴的な呼称であったと考えられています。国栖の名は都の人々にも良く知られており、9月9日の重陽の節句に吉野の国栖人が古風の歌舞を奏したといわれております。国栖人はつる草の根から澱粉をとり、里に出て売ることがあったので、いつしかその澱粉を「クズ」と呼ぶようになり、その植物を「クズ」と呼ぶようになったと考えられています(天極堂さんのHPり)。

  ・角髪(みずら):日本の上古における貴族男性の髪型。中国の影響で成人が冠をかぶるようになった後は少年にのみ結われ、幕末頃まで一部で結われた。美豆良(みずら)、総角(あげまき)とも。このHP.mhtで絵図が参照できます。 

○郷土の文芸 

 二暗がりの道の句とふみ 一 芭蕉と暗越奈良街道
  生駒山越の峠道は数多くあって、北から順にみると清滝越・越中垣内・竜(龍)間越・八丁門越・善根寺越・日下越・逗子越・暗越・鳴川越・十三越・信貴越・立石越となっている。上鳥見越(岩船越)もある。竜(龍)間越か逗子越を生駒直越という

Ⅳ 第四巻 資料編 

○生駒市の概要 

三 小史 1 生駒のはじまりと神話 

 生駒の地に人類が住みついた時期や「いこま」の地名の由来などについては、史的には明らかにし難く、推測にすぎないが、生駒地方に残されている伝説、神話などから考えてみることにする。 

 南地区萩原の地にある小平尾遺跡から発掘された土器の断片遺物は、後期縄文期のものと推定されるので、この生駒地方には、少なくとも、三千年ぐらい前には、すでに人類が住みついていたことと思われる。これらの人類は、おそらく朝鮮方面から移ってきた北方大陸系の民族かと思われる。彼らは生駒山麓で狩猟生活を営んでいたが、生駒山の高原の姿を眺めては、ふるさとの言葉で「こま」とよんでいた。この「こま」に後の人が接頭語の「い」をつけて「いこま」とよぶようになり、「いこま」の地名がはじまったことと思われる 

 「いこま」という名は、古い書物には、伊古麻、射駒、瞻駒、往馬、生馬などの字で、山名、神社、寺院名、人名などに記されてきた。これらが次第に、この付近のよび名となり、後には、郡名、市町村名となり、「生駒」の宇が用いられるに至ったと思われる。 

 

     引用者 : 「生駒」の語源・由来もご参照ください。

 北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。その昔、神武天皇が九州の日向から大和地方に東征されたと際、この地の豪族長髄彦が、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を奉じててむかった。その時に金の鵄が飛来して、天皇の弓にとまり、長髄彦の目をくらましたので長髄彦の軍は敗北して。東征の偉業がとげられた。この神話の舞台として上町には、白庭山、鵄山などの地名が残っている。

○社寺・文化財 

二神社 伝説 

  おまつの宮の伝説 盤船神社との因縁 

   石上神宮(官幣大社)の十種の大祓祝詞に「天照国照彦大火明櫛玉饒遠日尊天磐船に乗りで、河内国河上哮峰に天降座して」とあり、この住吉神社の北三km天の川に巨岩を御神体とした磐船神社が鎮座し、饒速日尊を奉祀している。

Ⅴ 第五巻 通史・地誌編 

○通史篇 

第一章 伝承の生駒 

1 生駒のはじまりと神います生駒山 

 生駒の象徴である生駒山は昔から大和・山城・河内・和泉・摂津の五ヶ国即ち五畿内をすべて眺める位置にあって、六四二mの中山性であるが、「神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく」と慕われ尊ばれてきた名山である。今は聖天像をまつる宝山寺で、夏は山頂に涼を求めて賑わうが、古代の人びとは神聖な神います山として山の姿に心ひかれ、山そのものを信仰してきた。東からの山麓には生駒神社が、その正姿に接する如く、産土(うぶすな)の神として創設された。南には伊古麻山口神社、西には枚岡神社、北には岩船神社があって、夫々の入口を扼し、これを取りまくように、矢田山脈、学園丘陵がある。神奈備(または甘奈備)の山の名さながらこれ等の丘陵の南端や北端を今もそう呼ばれ、万葉の歌を多く宿している。〔西麓の石切剣箭神社も古くは大戸村神並の地に創設された。〕この地方一帯は、「たゝみごも平群の山なみ」であり、大和の国のまほろばたゝなづく青垣山の一部をなし、うるわし大和の一翼を担っている地域とも言えよう。 

 大化年中私領を収め、那珂・飽波・平群・夜麻・坂門・額田の六郷をあつめて平群一郡とし、大和十五郡の一となったとある。この地方は夜麻(ヤマ)ある如くまだ一面の山々がたなびき、大和国中の外周を意味する外山(とびやま)郷で桜井地方の東の外山郷に対して大和盆地の西北の外郭にあたっていた。辺国(へぐに)に続く西の隈(「いくま」)の位置にも当たる。一部は野鳥の多く棲む鳥見谷となり、斑鳩から鷹山に続く原野であった。中心部の生駒谷は、まんぐわ淵(曲ケ淵の意か)の峡谷をけずって生駒盆地の湖水を漸く涸らし、天の川も岩船の険を浸食して田原盆地を作っていた頃、その両側の洪積台地※には狩猟生活者の好箇の拠点となり、小平尾遺跡や芋山遺物には縄紋後期から弥生初期の生活の跡がうかがわれる。ごく少量であるが、山麓の菜畑や有里や田原などで、サヌカイトなどで作った矢尻や磨製石器も発見されている。昭和五十九年七月の上町調査に出土したサヌカイト石鏃※もその一例である。しかし河内交野の石器や佐保佐紀さては大和盆地東山の出土遺物の如く、多量に旧石器の分布していないことは、古代人がまだ生活しにくい地域でもあった。

 そこには樫(カシ)椎(シイ)椣(シデ)櫟(クヌギ)萩などの温暖性の森林※茂り、中でも南部は昼尚暗い密林の暗峠や榁木峠櫟峠など、さては、萩原・櫟原・椣原・椹原などの地名でうかがわれる原生林相の原もあった。麓には、いくみ竹・たしみ竹の古歌にある竹藪も茂り、鹿、猪、熊の野獣や鷹・鵄・鳩などの野鳥も多く棲んでいた。この地方の所々に現れている岩倉、稲倉、磐座、磐船・般若窟などの巨岩露出に起因する自然崇拝も古代人の中に芽生えてきたことであろう。多くの爬虫類も棲み、これに因んで竜神や蛇神も恐れながら信仰する自然信仰も芽生えて、龍間・龍田・蛇食などの地名を生む契機となったであろう。

 その中にあって一きわ高い生駒山はゆるやかな高原を意味する「コマ」に接頭語の「い」がついた地名で、朝鮮文化のもつ出雲系の人々の移入を物語り、射駒、伊馬、行馬、生馬などと書かれ、時代によって多方面の伝承を作ってきた。中でも肝心・要所を意味する瞻駒は日本書紀など古書によく使われた。そのような先入者の棟梁として、この地に早くから割拠した長髄彦は鳥見彦※ともいい、鳥見谷地方に根拠をもち「長層根の丘に住む人」として大陸系統の大男であったらしく、真弓・矢田などの地に弓矢の使い手として君臨していた部族の代表者であって広く大和盆地にまでその勢力を伸ばしていたようである。この地方の神社の祭神には素戔嗚命や八王子の神、午頭天王等出雲系の神々を祀るのはその影響である。続いて日向系の先発隊である饒速日命が長髄彦を従えてこの地方に君臨したという伝承の歴史も生まれ、これを祭神とする神社も多い。・・・・・。 

  ※石鏃(せきぞく):道具・武器の一種。石を材料として作られた鏃(やじり/矢尻・矢先)。矢の先端に紐などで固定させて用いる、刺突用の小型の石器。

  ※洪積台地:三角州・扇状地・海岸平野などが隆起してやや浸食されると台地状の地形が形成される。日本ではこの台地を作る堆積物が洪積世(現在は更新世という/いわゆる氷河時代)のものであるため特に洪積台地と呼ぶ。 

  ※樫椎などの常緑広葉樹を主体とする温暖性の森林を照葉樹林という。 

  ※彦:「日子」の意で、男子の美称。 

2 二つの古墳とそれをめぐる伝承 

 この地方は隣の平群谷に多くの古墳を持つにも拘らず数少なく、目ぼしいもの二基であるが、四世紀に築かれた古墳前期で、大和の六千余の古墳中でも一割しかない内に入り、平群の六世紀の古墳とは時代を異にしているのに存在の意味が大きい。その一つは竹林寺古墳で、生駒山麓、有里にあり、その構造は前方後円墳である。・・・・・。 

 次に北倭地区真弓団地の東端にある真弓塚である。これは古来長弓寺境の東端に位置し、弓塚ともいう。東西に長く穹窿(引用者:きゅうりゅう/弓なりをなす意)にして墳〇引用者:○は手偏に龍の漢字/墳〇は、フンロウと読み、土を盛り上げた丘のこと)の如く、奈良市左紀丘陵に接するもので、広い意味での奈良山古墳群の延長とも考えられるが、円墳形式の古い点に於いてこれ等の古墳群と時期を画する古い処に一特色がある。 

 生駒にはこの外見るべき整った古墳はないが、古墳があったと思われるものは丘陵の端々にある。・・・・・富雄谷では上町高樋の夫婦塚や桧窪(ひのくぼ)山の山伏塚(饒速日命の墓の伝承地)などもその候補といえよう。これ等の古墳はまだ発達の早期で、簡単なものとして破壊されたであろう。

 これ等の古墳にまつわる伝承は合わせて収録して史実としては承服し難いとしても後世色々な研究に対する栞としたい。中でも生駒地方に伝わる二つの神話的な伝承は興味あるものである。その一つは真弓塚に関連する金鵄伝承や、この地の豪族小野氏に伝わる白鳥伝承や、聖徳太子の事蹟に拘る春日皇子の援助など、いづれもこの地の地名「真弓」に共通する点がある。その弓を埋めた塚か、その人の墳墓であるらしい。まず戦前には史実とされていた饒速日命と神日本盤余彦命(かむやまといわれひこのみこと)について考えて見よう。聖徳太子蘇我馬子によって選修されたという旧事記に「天祖、天璽瑞宝十種を饒速日命に授く、命は天祖の詔をうけて、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)より先に河内の河上の哮峰(たけるがみね)に降臨され、鳥見白庭に遷(うつ)り、土酋の長髄彦におされて、其妹、登美弥比女(とみやひめ)(一名御炊屋姫<みかしきやひめ>)を妻り、味間見命(うましまみのみこと/宇麻志麻治命<うましまみちのみこと>)を生み、薨(こう)じ給う(お亡くなりになる)に及び夢のおつげにより、其遺物の羽々弓・羽々矢と神衣帯手貫(かむみそ、おびだまき)の三物をこの墓に埋めて弓塚とした。」と書かれていた。・・・・・この白庭の遺跡については延喜式にある添下郡登美神社(富雄村石木の村社)付近をあてる説もあるが、長弓寺の境内にある伊弉諾(いざなぎ)神社とする向もある。即ち大宮を牛頭天王、若宮を八王子とするのは、この饒速日命、宇麻志麻治命をいうもので、物部氏の祖として寺家三郷(上中下の鳥見)によって長く祀られてきた。大正の頃池尾宥祥氏によって詳細に検討されて、この白庭皇居は上村白谷の地(現在は上町)その前方を長髄彦の本拠とする石の標柱が立てられた。従ってこれに直面する芝山田の山端を鵄山と呼び、金鵄発祥の地と考えられた。

 一方、富雄地区の人は王龍寺境内の鵄神社をもって之とし上村高樋にある夫婦塚をもって長髄彦の本拠とも考えられたようで、昭和十六年にはその中間地の富雄北倭の境界近く金鵄発祥顕彰碑が設立された。今に残る、尾塀、土塀、勝尾坂などの地名と共に神武攻略の決戦場は様々と想像されて、この地の昔語りとなり、伝承の夢をふくらましている。 

 ・・・・・・。 

 思うに真弓塚は饒速口命にかゝる最も古き弓塚、その前に式内登美神社の前身、牛頭天王社(大宮)と八王子社(若宮)が設けられ、その神宮寺としての長弓寺が天平の頃鷹狩を機に造営し藤原良継が伽監を興復して盛大となった。その後養和の時(鎌倉期)焼失、弘安四年現今の本堂が再建されて重要文化財として美観を呈している。・・・・・・。 

  ※天祖:天皇の祖先。皇祖。あまつみおや。一般には天照大神(あまてらすおおみかみ)をさすが、古くは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をさしたこともある。その他天照大神から鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)までをいうこともある。

第二章 上古の人々 

1 生駒をめぐる悲運の皇子達 

 5世紀ともなれば大和盆地の中央部には水田耕作による経済的基盤を確保した大和朝廷が成立発展し、層布の一部(富雄谷)と平群の一部(生駒谷)にも文化は小野氏平群氏によって徐々に入りこんできた。富雄谷では、富める小川の意味を持つように、春日皇子の子小野妹子、その養子毛人、その孫富人などは農民の督励につとめ、薬師如来の加護にたよって水源水利を大切にする努力を惜しまなかった。妹子は聖徳太子の命によって遣隋使となって大陸との修好に力を致し、子孫毛人大臣鼻高大臣と云われ、上宮(斑鳩宮)の後裔畑の大夫(弓削王)など進んだ経営がなされ、宝来(注:現在の谷田町に宝来垣内をつくった)、畑(注:畑とは菜畑・西畑・鹿畑などの初期の開拓地をいう)などの地名にふさわしく大陸文化の導入や土師器の製作などでこの地の開発に先鞭をつけた。・・・・・・。

第三章 中世の社会 

2 山岳宗教と龍王塚 

 ・・・・・富雄川の水源はくろんど池の南側の竜王山である・・・・・。 

 天ノ川の水源はお松の宮の南側竜ヶ淵・・・・・。 

 鹿畑では素盞鳴神社の末社に竜王神社があって、鹿の足跡のある石を祀って、この地の由来を思わせている。 

 素盞鳴神社の祭神牛頭天王〔ごずてんのう/神仏習合においては素盞鳴命)とは出雲系の神であって、農業の神として祭られたのも平安期に入ってからで、やがて各地の神社に合わせ祀られ、「おこない」の行事といって、苗代の発芽を祈念し、牛玉(ごうさん)という神符を農民に渡して苗代に祀らせた。・・・・・。

 今一つ山岳信仰に似た八王子社の信仰がある。八王子とは素盞鳴命の王子と云い、出雲の神として移り、能野権現におさまり、本宮新宮那智の三山に詣る風習は平安 期に藤原貴族の間から盛んになった。その道中長谷とか高野に立ち寄る事もあって、生駒谷、富雄谷の南北交通も利用された。傍示に入る峡崖道もその一つで、氷室山の山頂に八王子社があって、嘗てはその近くで自然氷を切り出していたのでその名あり、熊野まで九十九ヶ所もあったとか・・・・・。 

○地誌篇 

(四)鹿畑地区 

 素盞嗚神社:祭神は素戔嗚命(スサノオノミコト)。若宮※は大国主命、末社は大己貴命(オオナムチノミコト/素戔嗚命の六代後の子孫)と古代神の一族を祀っている。境内には、天照大神・春日大明神・八幡大明神の三社の外、火の神・水の神・道の神が祭られている。尚、境外には、村の要所に、八王子社と龍王・西ケ峰・三・上のかいの四天王社の五社があって、境外神として祀られている。尚、神井(みい/水垢離場)・賽の神の祭祀場も残されている。文献による社殿の建立の記録は、四百年以降であるが土産神(うぶすながみ)としての祭祀は、鹿畑に村ができた時からであろう。

  ※若宮:本宮の祭神の子(御子神)をまつった神社。 

  ※土産神:生まれた土地を領有・守護する神。あるいは本貫(先祖の発祥地)に祀られている神。 

(五)上地区 

 伊弉諾(イザナギ)神社(上町古川)の杵築(きづき)社の祭神は素戔嗚命(スサノオノミコト)。天忍穂耳(アメノオシホミ)神社(上町)の祭神は天忍穂耳命(アメノオシホミミコト)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

« 森浩一『日本の神話の考古学』より | トップページ | 谷川健一『白鳥伝説』       »