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日本書紀(現代語訳)  

                  <『日本書紀 全現代語訳』(講談社学術文庫)より引用>(文中の太字は引用者による)

巻第一 神代上(かみのよのかみのまき)

天の岩屋

 天照大神は大変驚いて、機織の梭で身体をそこなわれた。これによって怒られて、天の岩屋に入られて、磐戸いわとを閉じてこもってしまわれた。それで国中常闇とこやみとなって、夜昼の区別も分からなくなった。その時八十万やおよろずの神たちは、天あまの安河やすかわのほとりに集まって、どんなお祈りをすべきか相談した。思兼神おもいのかねのかみが深謀遠慮をめぐらして、常世の長鳴鳥(不老不死の国の鶏)を集めて、互いに長鳴きをさせた。また・・・・・。

(2)第二 神代下(かみのよのしものまき)

葦原中国の平定

 (略)

 彦波瀲武鸕が草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、その姨(おば)の玉依姫を妃とされた。そして彦五瀬命を生まれた。次に稲飯命(いなひのみこと)。次に三毛入野命(みけいりのみこと)。次に神日本磐余彦尊(カムヤマトイハレビコノミコト/のちの神武天皇)。全部で四人の男神を生まれた。久しい後に、彦波瀲武鸕が草葺不合尊は、西洲の宮でおかくれになった。それで日向の吾平山上陵(あひらのやまのうえのみささぎ)に葬った。

   一書(第一)にいう。まず彦五瀬命を生み、次に稲飯命。次に三毛入野命。次に狭野尊(さののみこと)、または、神日本磐余彦尊という。狭野というのは年少(わか)くいらっしゃった時の名である。後に天下を平げて八洲(やしま)を治められた。それでまた名を加えて神日本磐余彦尊というのである。

   一書(第二)にいう。まず五瀬命を生まれ、次に三毛野命。次に稲飯命。次に磐余彦尊。または神日本磐余彦火火出見尊(カムヤマトイハレビコホホデミノミコト)という――をお生みになった。

   一書(第三)にいう。まず彦五瀬命を生み、次に稲飯命。次に神日本磐余彦火火出見尊。次に稚三毛野命をお生みになった。<引用者注:この異説では磐余彦尊は三男>

   一書(第四)にいう。まず彦五瀬命を生み、次に磐余彦火火出見尊。次に彦稲飯命。次に三毛入野命をお生みになった。<引用者注:この異説では磐余彦尊は次男>

第三 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイハレビコノスメラミコト/神武天皇)

①東征出発

 神日本磐余彦天皇の諱(ただのみな/実名)は、彦火火出見(ホホデミ)という。鸕が草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は王依姫といい、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の二番目の娘である。天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。成長されて、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶とって妃とされた。手研耳命(たぎしのみこと)を生まれた。四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、「昔、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天照大神が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を、祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた、塩土の翁(しおつちのお)に聞くと『東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳(たいさい/12年の周期で巡行する木星の異名)の甲寅(きのえとら)である。

 その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向われた。速吸之門(はやすいなと/豊予海峡)においでになると、一人の漁人(あま)が小舟に乗ってやってきた。天皇は呼びよせてお尋ねになり、「お前は誰か」といわれた。答えて「私は土着の神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦に釣りにきており、天神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」という。また尋ねていわれる。「お前は私のために道案内をしてくれるか」と。「御案内しましょう」という。

 天皇は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差出し、つかまらせて舟の中に引き入れ、水先案内とされた。そこで特に名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直(やまとのあたい)らの先祖である。筑紫の国の宇佐についた。すると宇佐の国造の先祖で宇佐津彦(うさつひこ)・宇佐津姫(うさつひめ)という者があった。宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮か)を造っておもてなしをした。このときに宇佐津姫を侍臣(おもとまえつかみ)の天種千命(あまのたねのみこと)に娶(め)あわされた。天種子命は中臣氏の先祖である。

 十一月九日、天皇は筑紫の国の岡水門(おかのみなと)につかれた。

 十二月二十七日、安芸国について埃宮(えのみや)においでになった。翌年乙卯(きのとう)春三月六日に、吉備国に移られ、行館(かりのみや)を造っておはいりになった。これを高島宮という。三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

 戊午(つちおえうま)の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。舳艫(じくろ/船首と船尾)相つぎ、まさに難波碕(なにはのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国(なみはやのくに)とした。また浪花(なみはな)ともいう。今難波(なにわ)というのはなまったものである。

 三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

②五瀬命の死

 夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。そのときに長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞き、「天神の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。流れ矢が当たって五瀬命の肘脛(ひぎはぎ)に当たった。天皇の軍は進むことができなかった。天皇はこれを憂えて、はかりごとをめぐらされた。

 「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」といわれた。皆は「そのとおりです」という。そこで軍中に告げていわれた。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった<引用者:長髄彦は「戦わない人」>。草香津(くさかのつ)に引き返し、盾をたてて雄たけびをし士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてつ)とよんだ。いま蓼津(たでつ)というのは、なまっているのである。

 初め孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。それでその木を指して、「恩は母のようだ」といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきのむら)といった。今「おものき」というのは、なまったものである。

 五月八日、軍は茅淳(ちぬ/和泉の海)の山城水門(やまきのみなと)についた。そのころ五瀬命の矢傷がひどく痛んだ。そこで命は剣を撫で雄たけびして、「残念だ。丈夫(ますらお)が賊に傷つけられて、報いないで死ぬことは」といわれた。時の人は、よってそこを雄水門(おのみなと)と名づけた。

 進軍して紀の国の竃山(かまやま)に行き、五瀬命は軍中に歿(な)くなった。よって竃山に葬った。

 六月二十三日、軍は名草邑(なくさむら)に着いた。そこで名草戸畔(とべ)という女賊を誅された。ついに佐野を越えて、熊野の神邑(みわのむら)に至り、天磐盾(あまのいわたて)に登った。軍を率いてだんだん進んでいった。海を渡るとき急に暴風に遇った。船は波に奔弄されて進まない。稲飯命(天皇の兄)がなけいていわれるのに、「ああ、わが先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と。言い終って剣を抜いて海に入り、鋤持神(さびもちのかみ)となられた。三毛大野命(天皇の兄)もまた恨んでいわれるのに、「わが母と姨は二人とも海神である。それなのにどうして波を立てておぼれさすのか」と。波頭を踏んで常世国においでになった。

③八咫烏(やたのからす)/兄猾(エウカシ)・弟猾(オトウカシ)/兄磯城(エシキ)・弟磯城(オトシキ)

 <引用者:天皇(スメラミコト)の戦いが記述されている。その相手の居住地と名は次の通り。>

 熊野の荒坂の津の丹敷戸畔(たしきとべ)という女賊、宇陀の県の人々のかしらである兄猾・弟猾の兄弟/倭の国の磯城邑(しきのむら)の磯城の八十梟帥(やそたける)・葛城邑(かずらきむら)の赤銅(あかがね)の八十梟帥、磯城彦兄弟(兄磯城・弟磯城)

 <引用者:天孫(磐余彦尊)は神等の助けを借りながら戦いを進めたが、天孫を助けた神等の名は次の通り。>

   熊野の高倉下(たかくらじ)という人、天照大神と武甕雷神(たけみかづちのかみ)、天照大神と八咫烏(やたのからす)、大伴氏の先祖の日臣命(ひのおみのみこと)

 <引用者:書紀は、敵に酒を飲ませてだまし討ちにしたあとの皇軍に次の歌を歌わせることで、皇軍が戦っているのは夷(えみし)であることを表明している。>

    夷(エミシ)ヲ、一人百人(ヒタリモモナヒト)、人(ヒト)ハ雖言(イヘド)モ、手対(タムカヒ)モ不為(セズ)<夷を、一人で百人に当る強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった>

<引用者:この部分は原文では次のようになっている。夷ではなく愛瀰詩という尊称であることにご注意!

    愛瀰詩烏(えみしを)毘人嚢利(ひだり)毛々那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず<引用者:長髄彦=愛瀰詩は「戦わない人」>

④長髄彦と金鵄

 十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。

今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。そして歌っていわれた。

  ミツミツシ、クメノコラ(久米之子等)ガ、「カキモトニ」アハフ(粟田)ニハ、カミラ(韮)ヒトモト(一本)、ソノガモト(其根茎)、ソネメツナギテ(其根茎繋)、ウチテシヤマム(撃而止)<天皇の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう>

 また歌っていう。

  ミツミツシ、クメノコラガ、カキモト(垣下)ニ、ヴヱシハジカミ(植韮)、クチビヒク(口疼)、ワレハワスレズ(我不忘)、ウチテシヤマム<天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう>

 また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは歌った人を指して名づけたのである。

 さて長髄彦は使いを送って、天皇に言上し、「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒連日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽者でしょう」と。天皇がいわれる。「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表(しるし/しるしの物)があるだろう。それを示しなさい」と。長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢(あまのははや/蛇の呪力を負った矢)と歩靫(かちゆき/徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ/矢を入れて携行する道具)を天皇に示した。天皇はご覧になって、「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。長髄彦はその天神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。けれども兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。そして間違った考えを捨てず、改心の気持がない。饒速日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒速日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。

 <引用者:続いて、天皇(スメラミコト)の戦いが記述されている。その相手の居住地と名は次の通り。>

   そほの県(そほのあがた/添県)の波た(はた)の丘岬(おかざき/膚山の崎か)の新城戸畔(にいきとべ)という女賊、和珂(わに/現在の天理市)の坂下の居勢祝(こせのはふり)という者、臍見(ほそみ)の長柄の丘岬(おかさき)の猪祝(いのはふり)という者、高尾張邑(たかおわりのむら)の土蜘蛛、磯城の八十臭帥。

 <引用者:以下、続き。>

 そしてついに天下を平定することができた。・・・・・。

⑤宮殿造営

 三月七日、令(のりごと)を下していわれた。「東征についてから六年になった。天神の勢威のお蔭で凶徒は殺された。しかし周辺の地はまだ治まらない。残りのわざわいはなお根強いが、内州(うちとくに)の地は騒ぐものもない。皇都をひらきひろめて御殿を造ろう。しかしいま世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開のならわしが変わらずにある。そもそも大人(ひじり/聖人)が制(のり)を立てて、道理が正しく行われる。人民の利益となるならば、どんなことでも聖(ひじり)の行うわざとして間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安ずべきである。上は天神の国をお授け下さった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。その後国中を一つにして都を開き、天の下を掩(おお)いて一つの家とすることは、また良いことではないか。見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。ここに都を遣るべきである」と。

 この月、役人に命ぜられて都造りに着手された。

 庚申(かのえさる)の年秋八月十六日、天皇は正妃を立てようと思われた。改めて貴族の女子を探された。時にある人が奏して、「事代主神(ことしろぬしのかみ)が、三島溝くい耳神(みしまみぞくいみみのかみ)の女(むすめ)――玉櫛媛と結婚されて、生まれた子を名づけて、媛蹈鞴路鵜五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)といい、容色すぐれた人です」という。これを聞いて天皇は喜ばれた。

 九月二十四日、媛蹈鞴路鵜五十鈴媛命を召して正妃とされた。

⑥橿原即位

 辛酉(かのととり)の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。この年を天皇の元年とする。・・・・・古語にも、これを称して次のようにいう。「・・・・・始馭天下之天皇ハツクニシラススメラミコト/始めて天下を治められた天皇)」と申し、名づけて神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイハレヒコホホデミノスメラミコト)という。

 (略)

 四年春二月二十三日、詔して「わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。

 三十一年夏四月一日、天皇の御巡幸があった。腋上(わきかみ)の味間(ほほま)の丘に登られ、国のかたちを望見していわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲(あきつしま)の名ができた。昔、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)がこの国を名づけて、「日本は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていて良く整った国」といわれた。また大己貴大神(おおあなむちのおおかみ)は名づけて「玉牆の内つ国(美しい垣のような山に囲まれた国)」といわれた。

 饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「空見つ日本(やまと)の国(大空から眺めて、よい国だと選ばれた日本の国)」という。

 四十二年春一月三日、皇子神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を立てて皇太子とされた。

 七十六年春三月十一日、天皇は橿原宮で崩御された。年百二十七歳であった。

 翌年秋九月十二日、畝傍山の東北の陵(現在の橿原市大字洞字ミサンザイ)に葬った。

第八 仲哀天皇

神の啓示

 

 ときに神があって皇后に託し神託を垂れ、「天皇はどうして熊襲の従わないことを憂えられるのか、そこは荒れて痩せた地である。戦いをして討つのに足りない。この国よりも勝まさって宝のある国、讐えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩まばゆい金・銀・彩色などが沢山ある。これを栲衾たくぶすま新羅国という。(栲衾は白い布で新羅の枕詞)もしよく自分を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。また、熊襲も従うであろう。その祭りをするには、天皇の御船と穴門直践立あなとのあたいほむたちが献上した水田ー名づけて大田という。これらのものをお供えとしなさい」と述べられた。天皇は神の言葉を聞かれたが、疑いの心がおありになった。そこで高い岳に登って遥か大海を眺められたが、広々としていて国は見えなかった。天皇は神に答えて、「私が見渡しましたのに、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましょうか。どこの神が徒らに私を欺くのでしょう。またわが皇祖の諸天皇たちは、ことごとく神祗をお祀りしておられます。どうして残っておられる神がありましょうか」といわれた。神はまた皇后に託して「水に映る影のように、鮮明に自分が上から見下している国を、どうして国がないといって、わが言をそしるのか、汝はこのようにいって遂に実行しないのであれば、汝は国を保てないであろう。ただし皇后は今はじめて 孕みごもっておられる。その御子が国を得られるだろう」といわれた。天皇はなおも信じられなくて、能襲を討たれたが、勝てないで帰った。九年春二月五日、天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。時に、年五十二。すなわち、神のお言葉を採用されなかったので早く亡くなられたことがうかがわれる。

 

卷第九 神功皇后

 

神功皇后の熊襲征伐

 

・・・・・二十日、層増岐野そそきのにいき、兵をあげて羽白熊鷲はしろくまわし殺した。そばの人に「熊鷲を取って心安らかになった」といわれた。それで、そこを名づけて安という。二十五日、移って山門県やまとのあがたにいき、土蜘蛛つちぐも――田油津媛たぶらつひめを殺した。田油津媛の兄――夏羽が兵を構えて迎えたが、妹の殺されたことを聞いて逃げた。・・・・・。

 

新羅出兵

 

 秋九月十日、諸国に介して船舶を集め兵を練られた。ときに軍卒が集まりにくかった。皇后がいわれるのに、「これは神のお心なのだろう」と。そして大三輪の神社をたて、刀・矛を奉られた。すると軍兵が自然に集まった。吾瓮海人烏摩呂あへのあまおまろを使って、西の海に出て、国があるかと見させられた。還っていうのに、「国は見えません」と。また磯鹿しか(志賀島)の海人――草くさを遣わして見させた。何日か経って還ってきて、「西北方に山があり、雲が横たわっています。きっと国があるのでしょう」といった。

 

 ・・・・・冬十月三日、鰐浦から出発された。そのとき風の神は風を起こし、波の神は波をあげて、海中の大魚はすべて浮かんで船を助けた。風は順風が吹き、帆船は波に送られた。舵や楫かいを使わないで新羅についた。そのとき船をのせた波が国の中にまで及んだ。これは天神地祇がお助けになっているらしい。新羅の王は戦慄して、なすべきを知らなかった。多くの人を集めていうのに、「新羅の建国以来、かつて海水か国の中にまで上ってきたことは聞かない。天運が尽きて、国が海となるのかも知れない」と。その言葉も終らない中に、軍船海に満ち、旗は日に輝き、鼓笛の音は山川に響いた。新羅の王は遥かに眺めて、思いの外の強兵がわが国を滅ぼそうとしていると恐れ迷った。やっと気がついていうのに、「東に神の国があり、日本というそうだ。聖王があり天皇という。きっとその国の神兵だろう。とても兵を挙げて戦うことはできない」と。白旗をあげて降伏し、白い綬くみを首にかけて自ら捕われた。地図や戸籍は封印して差出した。そしていうのに、「今後は末長く服従して、馬飼いとなりましょう。船便を絶やさず、春秋には馬手入れの刷毛はけとか、鞭むちを奉りましょう。また求められることなくても、男女の手に成る生産物を献上しましょう」と。重ねて誓っていうのに、「東に昇る日が西に出るのでなかったら、また阿利那礼河ありなれかわ(関川の韓音か)の水が、逆さまに流れ、河の石が天に上って星となることがないかぎり、春秋の朝貢を欠けたり、馬の梳くしや鞭の献上を怠ったら天地の神の罰をうけてもよろしい」と。

 

 ある人は新羅の王を殺そうというのもあったが、皇后がいわれるのに、「神の教えによって、金銀の国を授かろうとしているのである。降伏を申し出ている者を殺してはならぬ」と。その縛なわを解いて馬飼いとされた。その国の中に入り、重宝の倉を封じ、地図や戸籍を没収した。皇后が持っておられた矛を、新羅王の門にたて、後世への印とした。その矛は今も新羅王の門に立っている。新羅の王の波沙寝錦はさむきん(寝錦は王の意)は、微叱己知波珍干岐みしこちはとりかんきを人質とし、金・銀・彩色・綾・羅うすはた・縑絹かとりきぬを沢山の船にのせて、軍船に従わせた。それ故新羅王は、常に沢山の船で、貢を日本に送っているのである。高麗、百済二国の王は、新羅が地図や戸籍も差出して、日本に降ったと聞いて、その勢力を伺い、とても勝つことができないことを知って、陣の外に出て頭を下げて、「今後は永く西蕃(西の未開の国)と称して、朝貢を絶やしません」といった。それで内宮家屯倉うちつみやけを定めた。これがいわゆる三韓である。・・・・・。

 

麛坂王かごさかのみこ・忍熊王おしくまのみこの策謀

 

新羅を討たれた翌年二月、皇后は群卿百寮を率いて、穴門の豊浦宮に移られた。天皇の遺骸をおさめて海路より京に向かわれた。そのときに麛坂王・忍熊王(仲哀天皇の御子)は、・・・・・密かに謀って・・・・・人毎に武器を取らせて皇后を待った。・・・・・すると赤い猪が急に飛び出してきて桟敷さじきに上って、麛坂王を喰い殺した。兵士たちは皆おじけた。忍熊王は倉見別に語って、「これは大変なことだ。ここでは敵を待つことはできない」と。・・・・・忍熊王は軍を率いて退き、宇治に陣取った。皇后は・・・・・三月五日、武内宿禰と和珥わにの臣の先祖武振熊たけふるくまに命じて、数万の兵を率いて忍熊王を討たせた。武内宿禰らは精兵をえらんで、山城方面に進出した。宇治に至って川の北にたむろした。忍熊王は陣営を出て戦おうとした。・・・・・血は流れて栗林に溢れた。このことを嫌がって今に至るまで、栗林の菓このみを御所に奉らない。忍熊王は逃げて隠れるところもなく、・・・・・瀬田の渡りに沈んで死んだ

 

百済・新羅の朝貢

 

 ・・・・・二つの国の貢物を調べた。すると新羅の貢物は珍しい物が多くあった。百済の貢物は少くてしかも良くなかった。(引用者:皇太后と太子は)久氏(引用者:百済からの遣使)に尋ねられ、「百済の貢物が新羅に及ばないのはなぜか」と。答えていうのに、「私共は道に迷って新羅にはいってしまいました。新羅人は私共を捕えて牢屋に入れました。三ヵ月経って殺そうとしました。久氏らは天に向って呪いました。新羅人はその呪いを怖れて殺しませんでした。そしてわれわれの貢物を奪って、自分の国の貢物としました。新羅の賤しいものを以て、わが国の貢物と入れ替えました。そして私共に、『もしこのことを漏らせば、還ってきた日にお前らを殺してしまう』といいました。それで久氏らは恐れて、それに従ったのです。そしてやっと日本に着いたのです」といった。

 

 皇太后と(引用者:太子の)誉田別尊ほんだわけのみことは新羅の使いを責めて、天神に神意を伺う占いをされて、「誰を百済に遣わして嘘か本当か調べさせましようか。誰を新羅に遣わしてその罪を問わせたらよいでしょうか」といわれた。すると天神が教えて、「武内宿禰に議はからせるがよい。千熊長彦ちくまながひこを使者とすれば願いが叶うだろう」といわれた。千熊長彦を新羅に遣わし、百済の献上物をけがし乱したということを責めた。

 

新羅再征

 

四十九年三月、(引用者:皇太后は)荒田別あらたわけと鹿我別かがわけを将軍とした。・・・・・新羅を討ち破った。そして・・・・・の七力国を平定した。兵を移して・・・・・耽羅たんら(済州島)を亡ぼして百済に与えた。

 

・・・・・六十二年、新羅が朝貢しなかった。その年襲淳彦を遣わして新羅を討たせた・・・・・。

 

巻第二十四 皇極天皇

入鹿、斑鳩急襲

 ・・・・・山背大兄やましろのおおえは馬の骨を取って寝殿に投げ入れた。そして妃や子弟らをつれて、隙を見て逃げ出し生駒山に隠れた・・・・・。

巻第二十六 斉明天皇

斉明天皇重祚

 ・・・・・夏五月一日、大空に竜に乗った者が現われ、顔かたちは唐の人に似ていた。油を塗った青い絹で作られた笠をつけ、葛城山の方から、生駒山の方角に空を馳せて隠れた。正午頃に住吉の松嶺まつのみね(地名か)の上から、西に向って馳せ去った。

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