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このHPは、「生駒の神話研究会」(連絡先)の公式HPです。

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必読希望記事・・・このHP各所に掲載の記事の中で、最低限お読みいただきたい記事を下に掲載いたしました。

これらの立脚点に立ち、これらの留意点を踏まえ、これらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム) に沿ってとりまとめた生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)の大要.pdf

「生駒の神話の骨子」を生駒検定<全国版>の第1問の問題文としました⇒そのWEB版その文書版.pdf

)生駒の神話は、

 ①縄文から弥生への交代期のショックで発生した長髄彦伝承を基にするもの(ご参照.pdf)。

 ②縄文から弥生への移行期における里山の誕生の過程を反映したもの(ご参照.pdf )。

 戦い忌避神話であり、戦い忌避伝承である生駒伝承と符号・共鳴している。

)生駒の神話の今日へのメッセージ

 ①生駒の神話と現在  非戦・避戦の精神の系譜

 ②<ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?>これが、日本神話の最大の謎であり、その答が現代への最大のメッセージとなっている。 

)最低限、目を通していただきたい資料

 ①地図・地形・遺跡

 ②生駒市誌  富雄町史  先代旧事本紀  古史古伝

 ③村井康彦『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfこの書物が画期をなす理由紹介記事

   嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf →右図が表紙07

   ①下記のような立ち位置で著されたことにより、この書物もまた記紀神話を解明する上で画期をなすものとなりました。

   立ち位置:「神話や由緒には創作や事実を脚色したものが多く、事実がそのまま記されているわけではないのですが、全くの作り話というわけでもなく、何らかの事実を元に再編したり都合よく脚色したりして創られているようですので、その中に含まれている「事実の欠片」と思われるものを拾い出し、古代の地形地域の伝承地域資料に残されている事実や世界の歴史などと照らし合わせてみると、『納得できなかった教科書の歴史』とは全く違う歴史が納得できる形で表れてくるのです。」(14.10.17のブログより)

(6)『新編 生駒の神話』<創作中>

 

 

生駒の神話のストーリー  

「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)」 に沿ってとりまとめた生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)の大要.pdf

 

生駒の神話の骨子生駒検定<全国版>の第1問の問題文としました⇒そのWEB版その文書版.pdf

ストーリー各種

(1)石切劔箭神社の由緒 

  

(2)歴史街道・人物往来<神武天皇>: ①.jpg②.jpg / ③.pdf

Photo

  

(3)いこま歴史探訪 神話の里生駒-長髄彦伝説‐<→その一場面(左が長髄彦軍 ・ 右が神武軍)<クリックで拡大

各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に創作した『新編 生駒の神話』右欄の02へ。。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『新編 生駒の神話』<創作中> 

~『新編 生駒の神話』とは各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に創作したものです。~

 

饒速日尊、葦原の中国に降臨す(『先代旧事本紀』より) 

 

天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。

 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。

 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。

 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。

 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。

 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」

 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

 天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連(おわりのむらじ)らの祖。天鈿売命(あまのうずめのみこと)猿女君(さるめのきみ)らの祖。天太玉命(あまのふとたまのみこと)忌部首(いむべのおびと)らの祖。天児屋命(あまのこやねのみこと)中臣連(なかとみむらじ)らの祖。天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。天道根命(あまのみちねのみこと)川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。天神玉命(あまのかむたまのみこと)三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。天椹野命(あまのくぬのみこと)中跡直(なかとのあたい)らの祖。天糠戸命(あまのぬかとのみこと)鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。天明玉命(あまのあかるたまのみこと)玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。天牟良雲命(あまのむらくものみこと)度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。天背男命(あまのせおのみこと)山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。天御陰命(あまのみかげのみこと)凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。天造日女命(あまのつくりひめのみこと)阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。天世平命(あまのよむけのみこと)久我直(くがのあたい)らの祖。天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。天背斗女命(あまのせとめのみこと)尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)間人連(はしひとのむらじ)らの祖。天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。天三降命(あまのみくだりのみこと)豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。天日神命(あまのひのかみのみこと)対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。乳速日命(ちはやひのみこと)広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。八坂彦命(やさかひこのみこと)伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。伊佐布魂命(いさふたまのみこと)倭文連(しどりのむらじ)らの祖。伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。活玉命(いくたまのみこと)新田部直(にいたべのあたい)の祖。少彦根命(すくなひこねのみこと)鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。事湯彦命(ことゆつひこのみこと)取尾連(とりおのむらじ)らの祖。八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。天下春命(あまのしたはるのみこと)武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。月神命(つきのかみのみこと)壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。

 また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。

 物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。

 五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。

 二田造(ふただのみやつこ)。大庭造(おおばのみやつこ)。舎人造(とねりのみやつこ)。勇蘇造(ゆそのみやつこ)。坂戸造(さかとのみやつこ)。

 天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

 二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

 船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。

 船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)。

船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)。

 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日尊は亡くなられた。その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)に仰せになった。「私の神の御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。だから、お前は天降って復命するように」このようにご命命になった。速飄神は勅を受けて天降り、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで、天に帰りのぼって復命して申しあげた。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄の神を遣わし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれた。そして天上で葬った。

饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。

 これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば味間見命(うましまみのみこと)と名づけなさい。もし女子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけなさい」産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。

 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。

 饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。

宇摩志麻治命

 天香語山命の弟、宇摩志麻治命。または味間見命といい、または可美真手命(うましまでのみこと)という。

 天孫天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊は、天下を治めようと思われて、軍をおこして東征されたが、所々にご命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中つ国の豪族・長髄彦は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴し、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、「天神の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない」といい、ついに兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍は連戦したが、勝つ事ができなかった。

 このとき、宇摩志麻治命は伯父の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。そうして衆を率いて帰順した。

 天孫は、宇摩志麻治命に仰せになった。「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」

 そして特にほめたたえ、神剣を与えることで、その大きな勲功にお応えになった。この神剣は、韴霊(ふつのみたま)剣、またの名は布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神というのがこれである。

 また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊にお授けになった天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれて、さらに寵愛を増された。また、宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて国内を平定して復命した。

 天孫磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮殿を造られた。辛酉年の一月一日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位につかれた。この年を、天皇の治世元年とする。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。

 宇摩志麻治命がまず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾を立てて斎き祭った。五十櫛という、または斎木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。そうして、天つしるしの瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。「殿内の近くに侍りなさい」(近く殿の内に宿せよ〈すくせよ〉)そのためこれを足尼(すくね)と名づけた。足尼という号は、ここから始まった。

 高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率い、天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。天児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申しあげた。宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾を立てて厳かでいかめしい様子をつくった。道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なことを伝えられた。

 ときに、皇子・大夫たちは、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。このように都を建てて即位され、年の初めに儀式をするのは、共にこのときから始まった。

 宇摩志麻治命は十一月一日の庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこのときに始まった。天皇は宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の亡父の饒速日尊が天から授けられてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りとせよ」いわゆる“御鎮祭”がこれである。

 およそ、その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と大きな声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことをいう。

 治世二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」

 この日、物部連らの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は、ともに食国の政事を行う大夫に任じられた。その天日方奇日方命は、皇后の兄である。食国の政事を行う大夫とは、今でいう大連・大臣にあたる。

 そうして宇摩志麻治命は、天つしるしの瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、石上の大神をお祀りした。詳しくは以下に述べる。

瓊々杵尊降臨(『先代旧事本紀』より) 

天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)は天降って、筑紫の日向の襲の槵触二上峯にいらっしゃった。

ウガヤフキアエズノミコト誕生

 (略)彦波瀲武鸕草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、天孫・彦火々出見尊[また火折尊ともいう]の第三子である。母を豊玉姫命という。海神の上の娘である。豊玉姫命の妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)を立てて皇妃とされた。すなわち、海神の下の娘で、鸕草葺不合尊の叔母にあたる。四人の御子をお生みになった。子の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)[賊の矢にあたって亡くなった]。次に、稲飯命(いなひのみこと)[海に没して鋤持神となった]。次に、三毛野命(みけいりぬのみこと)[常世の郷に行かれた]。次に、磐余彦命(いわれひこのみこと)。

イワレヒコの東征出発(『日本書紀』より)

 神日本磐余彦天皇の諱(ただのみな/実名)は、彦火火出見(ホホデミ)という。鸕が草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は王依姫といい、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の二番目の娘である。天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。成長されて、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶とって妃とされた。手研耳命(たぎしのみこと)を生まれた。四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、「昔、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天照大神が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を、祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた、塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと『東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天・の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳(たいさい/12年の周期で巡行する木星の異名)の甲寅(きのえとら)である。

 その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向われた。速吸之門(はやすいなと/豊予海峡)においでになると、一人の漁人(あま)が小舟に乗ってやってきた。天皇は呼びよせてお尋ねになり、「お前は誰か」といわれた。答えて「私は土着の神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦に釣りにきており、天神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」という。また尋ねていわれる。「お前は私のために道案内をしてくれるか」と。「御案内しましょう」という。

 天皇は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差出し、つかまらせて舟の中に引き入れ、水先案内とされた。そこで特に名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直(やまとのあたい)らの先祖である。筑紫の国の宇佐についた。すると宇佐の国造の先祖で宇佐津彦(うさつひこ)・宇佐津姫(うさつひめ)という者があった。宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮か)を造っておもてなしをした。このときに宇佐津姫を侍臣(おもとまえつかみ)の天種千命(あまのたねのみこと)に娶(め)あわされた。天種子命は中臣氏の先祖である。

 十一月九日、天皇は筑紫の国の岡水門(おかのみなと)につかれた。

 十二月二十七日、安芸国について埃宮(えのみや)においでになった。翌年乙卯(きのとう)春三月六日に、吉備国に移られ、行館(かりのみや)を造っておはいりになった。これを高島宮という。三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

 戊午(つちおえうま)の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。舳艫(じくろ/船首と船尾)相つぎ、まさに難波碕(なにはのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国(なみはやのくに)とした。また浪花(なみはな)ともいう。今難波(なにわ)というのはなまったものである。

 三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

草香の戦い(『日本書紀』より)

 夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。そのときに長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞き、「天神の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。流れ矢が当たって五瀬命の肘脛(ひぎはぎ)に当たった。天皇の軍は進むことができなかった。天皇はこれを憂えて、はかりごとをめぐらされた。

 「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」といわれた。皆は「そのとおりです」という。そこで軍中に告げていわれた。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。草香津(くさかのつ)に引き返し、盾をたてて雄たけびをし士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてつ)とよんだ。いま蓼津(たでつ)というのは、なまっているのである。

 初め孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。それでその木を指して、「恩は母のようだ」といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきのむら)といった。今「おものき」というのは、なまったものである。

イワレヒコ軍の迂回(『日本書紀』より)

    愛瀰詩烏(えみしを)毘人嚢利(ひだり)毛々那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

長髄彦と金鵄(『日本書紀』より)

 十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。そして歌っていわれた。

  ミツミツシ、クメノコラ(久米之子等)ガ、「カキモトニ」アハフ(粟田)ニハ、カミラ(韮)ヒトモト(一本)、ソノガモト(其根茎)、ソネメツナギテ(其根茎繋)、ウチテシヤマム(撃而止)<天皇の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう>

 また歌っていう。

  ミツミツシ、クメノコラガ、カキモト(垣下)ニ、ヴヱシハジカミ(植韮)、クチビヒク(口疼)、ワレハワスレズ(我不忘)、ウチテシヤマム<天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう>

 また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは歌った人を指して名づけたのである。

 さて長髄彦は使いを送って、天皇に言上し、「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒連日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽者でしょう」と。天皇がいわれる。「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表(しるし/しるしの物)があるだろう。それを示しなさい」と。長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢(あまのははや/蛇の呪力を負った矢)と歩靫(かちゆき/徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ/矢を入れて携行する道具)を天皇に示した。天皇はご覧になって、「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。長髄彦はその天神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。けれども兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。そして間違った考えを捨てず、改心の気持がない。饒連日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒連日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。

6-2長髄彦イワレヒコの戦い 

(7)イワレヒコの橿原即位(『日本書紀』より)

 辛酉(かのととり)の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。この年を天皇の元年とする。・・・・・古語にも、これを称して次のようにいう。「・・・・・始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト/始めて天下を治められた天皇)」と申し、名づけて神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイハレヒコホホデミノスメラミコト)という。

 四年春二月二十三日、詔して「わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。

 三十一年夏四月一日、天皇の御巡幸があった。腋上(わきかみ)の味間(ほほま)の丘に登られ、国のかたちを望見していわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲(あきつしま)の名ができた。昔、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)がこの国を名づけて、「日本は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていて良く整った国」といわれた。また大己貴大神(おおあなむちのおおかみ)は名づけて「玉牆の内つ国(美しい垣のような山に囲まれた国)」といわれた。

 饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「空見つ日本(やまと)の国(大空から眺めて、よい国だと選ばれた日本の国)」という。

(8)その後の長髄彦の行方は定かではない。しかし、奥州では「長髄彦は兄アビヒコと共に日高見(東北地方)の地を新たな故国として移住し、先住民族と合流してアラバキ族と名乗り、日高見の国を長く治めた」と伝えられるなど、各地で長髄彦の精神(愛瀰詩えみしの心)は受け継がれている。

 

解 説 

【1】この昔の物語の名前 

 

(*)昔の話の呼び方には、説話・民話・昔話・伝説・伝承・神話・俗話・寓意などがあり、それらを基にしながら創作した話は、新訳・新編・翻案・訳編などといいますが、取り敢えず、『新編 生駒の神話』といたします(今後、変更することがあるかも知れません)。 

 

【2】この物語を記すにあたって依拠・参考にしたもの⇒参考文献等ご参照

【3】主人公⇒長髄彦

   舞台⇒奈良(大和)湖河内(古大阪)湾  豊秋津洲とよあきつしま

【4】物語の構成 

(1)できるだけ【2】の依拠・参考にしたものに記されたものから、物語を構成する上で最適な記述を選び、それらを組み合わせて筋の通った物語を構成するように努めました(このような、既述の文献に記されたものを組み合わせて神話を構成していく方法は記紀と同様のやり方です)。 

 

(2)その際、生駒の神話は郷土生駒の人物・神を魅力的に描かねばならないことは当然であり(それが郷土の昔の話というもの)、そのような人物・神について、魅力を減じさせるような通説・記述※は、できるだけ荒唐無稽にならないように、あるいは、異説があればそれに沿って、魅力が減じないように解釈・記述し直しました。神話というものは本来、口から耳へ、耳から口へと語り伝えられた、口頭による伝承として存在し、記録のさいに、筆録の目的、あるいは筆録者の条件によって、整理されることが多く、削除・省略があったり、逆に付加があったりもし、そこには潤色や作為が作用するものとされています(上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdfご参照)。

 

    ※例えば、長髄彦は性質がよくなく、義理の弟(妹の婿)である神または甥(妹の息子)に裏切られて殺されてしまうのが通説(書紀や旧事紀の記述)で、そのように通説は長髄彦やその義理の弟(妹の婿)である神や甥(妹の息子)を悪く描いています。 

 

(3)普遍性(多くの人が理解できる内容)を得るため、まったくの創作(【2】に記したものにまったく依拠しないもの)はできるだけ避けるように努めましたが、【5】に記された疑問点(記紀等の通説が述べていないこと、矛盾することなど)は、解明し、または筋の通るように解釈し直しました。 

 

(4)以上に従い、【5】に立脚し、【6】を踏まえて、この物語の枠組み(パラダイム)を設定した上で物語を構成していきます。

(*)物語の作り方/物語のでき方物語の組み立て方の参考例.pdfなど)

 

【5】立脚点<そのいくつかは、疑問点に対する答>

 

【6】留意点

【7】生駒の神話と現在 / 非戦・避戦の精神の系譜  
「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」 / 生駒の神話と天皇制

 

戦い忌避神話である生駒神話は、戦い忌避伝承である生駒伝承と符号・共鳴している。

 

10Q&A

 Q.神武天皇はさほど高くない生駒山をなぜ越えられなかったのでしょう?

  A.現代の内陸の移動手段は車ですが、車で移動する場合、陸路を走ってきて、水深1メートル程度の川にぶつかり橋がない場合、たとえその川の幅がさほど広くなく1メートル程度でも越えられません。

   古代には車はなく内陸でも移動手段は船です(入江・川・湖沼に道があった)。船で移動する場合、水上を走ってきて、高さ100メートル程度の山にぶつかり水路がない場合、たとえその山の奥行がさほど深くなく100メートル程度でも越えられません。だから神武は生駒山を超えられなかったのです。

   古代にあっては、海・川・湖沼こそが道であり遠隔地をつなぐもので、陸こそ障壁だったのです。日本列島を囲んでいた海は障壁どころか、その反対の遠隔地をつなぐものだったのです。

 

11日本古代の謎

 

 

    

 

 

参考文献等  

【1】生駒市誌  富雄町史  大和志料 

【2】古事記古事記<リンク>/原文<リンク>) 日本書紀日本書紀<リンク>/原文<リンク>)  先代旧事本紀  古語拾遺

  記紀について先代旧事本紀・古語拾遺 概要.pdf

 古事記と日本書紀はどう違うか(リンク) / 古事記と日本書紀の違い(リンク)「古事記は国内向けに天皇の正統性を訴えるもので、日本書紀は外国向けに日本という国の正統性を主張するもの」

【3】新撰姓氏録新撰姓氏録概要.pdf>  各地の風土記.pdf

【4】各地の神社伝承・民間伝承 

【5】海外の文献

【6】学者・研究者の説

(1)小林達雄「縄文人の世界」「縄文の思考」   谷川健一「白鳥伝説」 「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」「列島縦断地名逍遥」「古代史と民俗学」.pdf  古田武彦「真実の東北王朝」「古代通史」「邪馬一国への道標」.pdf「盗まれた神話 記・紀の秘密」.pdf古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち.pdf <古田武彦氏のいくつかの著作はここで読むことができます。>   喜田貞吉「本州における蝦夷の末路」   梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」「神々の流竄」   森浩一「日本神話の考古学」   鳥越憲三郎「神々と天皇の間」   井上光貞「日本国家の起源」「神話から歴史へ(日本の歴史1)」   直木孝次郎 「日本神話と古代国家」   上田正昭・鎌田純一 「日本の神々 「先代旧事本紀」の復権」   上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdf  金関恕+大阪府弥生文化博物館 「弥生文化の成立」   関裕二 諸著作   折口信夫の著作   原田常治「古代日本正史」   前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説    樋口清之「逆・日本史 3」.pdf「逆・日本史 4」.pdf「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)    竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf「日本史の謎は『地形』で解ける」3部作.pdf   武光 誠「地図で読む「古事記」「日本書紀」.pdf   長野正孝「古代史の謎は『海路』で解ける」.pdfリンク)  富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-.pdf  松木武彦「日本の歴史一 列島創世記」.pdf  中沢新一「熊から王へ」.pdf「大阪アースダイバー.pdf

(2)村井康彦『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfこの書物が画期をなす理由・この書物を読むための基礎知識.pdf紹介記事

(3)嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf右図が表紙07

 ①下記のような立ち位置で著されたことにより、この書物もまた神話(が生まれた)時代を解明する上で画期をなすものとなりました。

   立ち位置:「神話や由緒には創作や事実を脚色したものが多く、事実がそのまま記されているわけではないのですが、全くの作り話というわけでもなく、何らかの事実を元に再編したり都合よく脚色したりして創られているようですので、その中に含まれている「事実の欠片」と思われるものを拾い出し、古代の地形地域の伝承地域資料に残されている事実や世界の歴史などと照らし合わせてみると、『納得できなかった教科書の歴史』とは全く違う歴史が納得できる形で表れてくるのです。」(14.10.17のブログより)

 ②この書物の基になり、続編たるブログが歴史探訪(09.4.13発進)

【7】在野歴史研究家の調査に基づく説、作家・小説家の小説・小論 

 松本清張「古代探求」.pdf清張通史② 空白の世紀  /司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 1」生きている出雲.pdf 「同左」長髄彦.pdf「城塞」.pdf高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」ここにも「火怨」の抜粋あり)・「炎立つ」  /畠山紘明「秋田安東氏物語」  /黒岩重吾「古代史への旅」.pdf

 原田常治「古代日本正史」・「上代日本正史」/小椋一葉「消された覇王」<これらは、神社伝承の調査に立脚し、文献重視に偏重するアカデミズムへの批判の書でもある。>

【8】昔の話を参考にしている作品

 宮崎駿「となりのトトロ」「もののけ姫」(リンク)「千と千尋の神隠し「もののけ姫」のアシタカ〔ヒコ〕はナガスネヒコ、「千と千尋の神隠し」のハク(ニギハヤミコハクヌシ)はニギハヤヒノミコトをモデルにしているともいわれています。)  手塚治「火の鳥」「ブッダ」(「火の鳥」の黎明編では騎馬民族征服王朝説が採用されているともいわれています。 

【9】古史古伝   諸文献   示唆に富む資料・言葉

【10】地図・遺跡こちら

【11】ラブリータウンいこま<09(H21)年10月15日号>テーマ : 長髄彦伝説

【12】文献比較 名称.pdf   文献比較 事件.pdf   文献比較 系図.pdf   

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生駒神話の小辞典 

 【神々の総称いろいろ日本の神の一覧(リンク)】

 

 

葦原中国(あしはらのなかつくに)

阿弖流為(アテルイ)Wikipedia高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」 /「アテルイの悲劇」については、生駒の神話と現在の(2)をご参照 不屈の英雄 アテルイ ~古代東北の底力~

天降り(あまくだり)「天」と「海」は共に「あま」という言葉で同一視されていたので、「天あま降り(降臨)」は、「海あま降り(渡来)」のこと。

天津神天津族(あまつかみ・あまつぞく)⇒神々の総称いろいろへ  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

「生駒」の語源・由来

〇生駒山⇒生駒山新日本風土記 生駒山万葉神事語辞典より

伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ).pdf

出雲勢力出雲民族・出雲族・出雲神族) 出雲に渡来した渡来人で、出雲を本貫ほんがん(出身地)とする。播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも耕作地を拡大(出雲勢力が各地に進出したルートは、日本海から丹後を通って近江、近畿へ。もう一つは吉備経由で瀬戸内海へ)。先住民(縄文人)と協力・協同、住み分けて形成した国を「出雲の国」という。記紀神話では、彼らの長はスサノオ-大国主(農耕を広めたので、農耕地の神社で祀られること多し)。なお、協力・協同した先住民(縄文人)も出雲勢力という場合も多い。「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

出雲系の神々 神々の総称いろいろ

磐舟(いわふね)船底に、船の重心を低くして転覆を防ぐための重石おもしにする大きな石を敷き詰めていた船。重心が低くなると浸水したら沈没してしまうので気密性が高くて浸水しにくかったと考えられる。

内つ国(うちつくに) 都のある国(大和国/倭やまと)/都に近い地方(畿内・近畿地方)/外国に対して日本の国

愛瀰詩えみし.pdf

大八洲国(おおやしまぐに) 多くの島からなる国の意で、日本の異称。略称は大八洲八島八嶋

河内湖かわちこ(深野池)・河内潟・河内湾

 

金の鵄とび(金鵄きんし

 

クサカ(日下・草香・孔舎衙)

 

狗奴国(くぬこく・くなのくに・くなこく)狗奴国東遷説.pdf  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

 

国生み神話

 

国津神・国津族(くにつかみ・くにつぞく)神々の総称いろいろ  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照   

 

国譲り

降臨天降り(あまくだり)へ

殺戮.pdf


里山(さとやま)「(学研高山)第2工区=里山」の過去・現在・未来奈良高山里山研究会より)をご参照  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

 

三貴子(さんきし) 天照大神・月読命(ツクヨミノミコト)・素戔嗚尊(スサノオノミコト)の三大神のこと。

蛇神(じゃしん・へびがみ) 

縄文時代の語句⇒縄文と弥生

神武東征  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

大嘗祭(だいじょうさい)⇒ 長髄彦 とイワレヒコの戦い ご参照 

高天原(たかまがはら) 天津神々のすむ天上界。天香具山で祭祀が行われ、神々は稲田をつくり、機織女たちは織殿に奉仕している。最高支配者は三貴子の一人天照大神と高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の二神で、玉座である天の磐座(あまのいわくら)に座している。「高天原」が天上にあるという考えは本居宣長が広めたと言われているが、歴史的には、渡来して九州にいた集団(神話では天津神という)の国のこと。高天原天上説は本居宣長の創作 

直越道(ただごえのみち)

哮峯(たけるのみね/たけるがみね)⇒鳥越憲三郎「神々と天皇の間」ご参照

近淡海.pdf(ちかつあわうみ)  

天孫・天孫族(てんそん・てんそんぞく)⇒神々の総称いろいろ  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

常世国(とこよのくに) 海の彼方の遥か遠くにある地、または世界。ここにどのような幻想を抱くかによって常世国の性格は変化する。これが常世国がいくつもの性格を兼ね備えている理由とされる。

トミ(鳥見・登美・富)・トビ・富雄トミ神社<リンク>

富雄丸山古墳

豊秋津洲(とよあきつしま)

豊葦原中国(とよあしはらなかつくに) 葦原中国あしはらのなかつくにと同じ。

長髄彦(ナガスネヒコ)

中洲(なかつくに・なかす・ながす) 国の中心・中心の国・大和

  南北2つの鳥見とみ(登美とみ)は中洲(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね(長髄ながすね/なかすね)彦であった。 

 なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄トビ)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。

奈良湖ならこ(大和湖)

 

饒速日 (ニギハヤヒ) 饒速日(ニギハヤヒ)とは?(まとめ)<リンク>     折口信夫のニギハヤヒ(リンク)

 

根の国(ねのくに) 高天原も異界であった根の国も元は葦原中国と水平の位置にあったのが、高天原を天上に置いたために根の国は地下にあるとされるようになった。その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂としている記述が『古事記』にあり、一般には死者の国である黄泉の国と同一視されるようになった。

 

 

日の本(ヒノモト)/日高見(ひだかみ)

 

卑弥呼.pdf(ヒミコ)

 

日向三代(ひむかさんだい) 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨から、神武天皇を生む草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)までの三代(ホノニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアヘズ)のこと。

 

日向勢力日向民族・日向族) 日向に渡来した渡来人。彼らの渡来を記紀神話では、天孫降臨という。そのため、天孫族ともいう。また、天津(天つ)族、天津(天つ)民族ともいう。津(つ)は「の」の意。記紀神話では、彼らの神を天津神(天つ神)といい、彼ら以外の神を国津神(国つ神)という。また、記紀神話では彼らの長はニニギ-イワレヒコ。

 

琵琶湖びわこ.pdf

 

深野池ふこうのいけ河内湖(深野池)・河内潟・河内湾

 

 

真弓塚.pdf

 

〔富雄〕丸山古墳

まれびと(マレビト/稀人・客人)

尊・命(みこと) 『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ以外の神は、「命」と明確に区別している。ちなみに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は悪行を重ねたにもかかわらず「尊」である。

 

瑞穂(みずほ) 稲のこと 葦を指すこともあったとされる<内つ国のあった奈良盆地は、縄文時代以後、海湾→海水湖→塩分の残る湖と湿地の盆地→塩分の残る湿地にまず生い茂る葦原の湿地盆地→塩分の抜けた湿原盆地→水田(葦を刈り取った後の湿地は稲作に適した土地になった)と湿地の盆地→水田と乾地の盆地へと変化した。>  

 

三輪氏(みわうじ) 新撰姓氏録(P.250)には、「素佐能雄命六世孫大国主之後也(スサノオ6世孫の大国主の後裔なり)」と記されている。大三輪氏おおみわうじ神氏みわうじ大神氏おおみわうじとも表記する。

邪馬台国東遷説  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

 

ヤマト.pdf  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照   

  「日下の草香」「飛ぶ鳥の明日香」から「日下」「飛鳥」の読みができたように「倭人住む山門」から「倭」で「やまと」と読むようになった、との説あり。

 

大和湖やまとこ(奈良湖)

 

弓矢 

黄泉の国(よみのくに) 死の国。ここの竈で煮炊きされた食べ物を一口でも食べると、現世には帰れない(黄泉戸喫〈よもつへぐい〉)。これは世界各地の死の国の言い伝えと一致する。黄泉平坂で現世と分けられている。根の国と異なるという考えや同じとする考え方がある。同じとする学者が、黄泉の国は地下にあるものと考えているが、必ずしも葦原中国に対して地下にあるわけではない。

黄泉平坂(よもつひらさか) 現世と黄泉の国とのあいだにある坂の名称。以前は自由に行き来できたようだが、伊邪那岐イザナギノミコトと伊邪那美イザナミノミコトの決別のとき、伊邪那岐によって封印された。道祖神はこの境を守るために祭られたのだともいわれる。 

霊畤(れいじ)「まつりのにわ」という意味。大嘗祭(おおなめさい・だいじょうさい/新天皇が即位後最初に行なう新嘗祭)を行う場所。大嘗祭・新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)共、その年の新穀・新酒をもって先祖の神々を祀るという意味においては同じだが、大嘗祭は、皇位継承と重大な意義を持っていて、大嘗祭が行われて始めて皇位継承の名実共に備わるといわれ、一代一度の極めて重大な式典。

 

地図・地形・遺跡   

地図

(1)白谷/桧窪山/住吉神社(龍ヶ淵・星ヶ森はここにあった).jpg  素盞嗚神社・真弓塚.jpg  竜王山.jpg

(2)遺蹟案内図(『生駒市史』より).pdf  神武東征説明図(『生駒市史』より).pdf

(3)日本列島をユーラシア大陸からみると : 環日本海諸国図Ⅰ ・ 環日本海諸国図Ⅱ

(4)長髄彦の本拠地に比定される白谷が開発される前の地図.jpg

(5)大和は東西南北に走る水系によって日本海・瀬戸内・太平洋を結ぶ(この地図ご参照)/近畿地方の一級水系大和川水系奈良県の水系淀川水系

地図と説明

(1)河内湖かわちこ(深野池)・河内潟・河内湾

(2)奈良湖ならこ(大和湖)

(3)富雄街道の歴史.pdf    記紀神話の舞台となった富雄川流域の遺蹟とその地図(リンク)  生駒の散歩道 北生駒 神話コース(リンク)

(4)東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究より⇒河内湖周辺の渡来人関連遺跡等.pdf古代の難波と住吉.pdf

(5)富雄丸山古墳

説明

(3)古代、京都は瀬戸内海と日本海の陸内港(「逆・日本史 3」.pdfの第一章をご参照)

(2)時代別生駒の遺跡

(1)真弓塚.pdf

その他

(1)奈良盆地歴史地理データベース

】過去のことを正しく知るためには、過去の地形を知らなければならない。

(3)奈良時代、木津川に泉津いずみのつと呼ばれた港があり、この港でおろされた荷が平城京に運ばれた。この木津川を東にさかのぼると名張盆地、北に行くと巨椋おぐら池、さらに北へさかのぼれば宇治川を経て琵琶湖、その先は北陸、日本海。西へ下れば淀川を経て大阪湾、瀬戸内海。

(2)Q.草の舟での3万年前の航海(与那国島→西表島)再現実験(16.7.17~16.7.18)の失敗(ご参照)の原因は? A.3万年前の海と陸が今と同じだったはずだという思い込みが原因です(ご参照)。

(1)海のない信州になぜ「御船祭り」があるのか⇒信州の御船祭りに答あり。

資 料      

(*)縄文と弥生  ミニ知識  アイヌ語辞典   地名由来辞典  ポリネシア語で解く日本の地名・・・  物語の作り方/物語のでき方

(32)三角縁神獣鏡国産説.jpg

(31)『世界神話学入門』

(30)「邪馬台国=富雄川流域」説

(29)Q.草の舟での3万年前の航海(与那国島→西表島)再現実験(16.7.17~16.7.18)の失敗(ご参照)の原因は? A.3万年前の海と陸が今と同じだったはずだという思い込みが原因です(ご参照)。

(28)異国から訪れた旅人がもたらす風聞は、娯楽であり、情報でもあった

(27)「神功皇后と鶏」の生駒伝承(戦い忌避伝承)の真意は、長髄彦が堕落しないよう彼が神武天皇と戦う(殺戮する=命あるものを食べるため以外の目的で殺す)のを金の鵄(鳥)が止めたという生駒神話()のそれと符合しています(生駒検定<全国版>問21 生駒伝承ご参照)。「神功皇后と鶏」の生駒伝承は「戦い忌避伝承」であり、生駒神話は「戦い忌避神話」と」いえます。

(26)J-SHIS(地震ハザードステーション)PhotoJ-SHIS Map生駒周辺.pdf<→右図(クリックで拡大)>を見ると、縄文~弥生時代に島・半島であった生駒と海であった大阪湾・奈良盆地・京都盆地との対比が明確です。

(25)海のない信州になぜ「御船祭り」があるのか⇒信州の御船祭りをご参照。

(24)ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)といえるのではないか

(23)普遍的に人類の心をとらえる英雄物語の基本パターン(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」が明示)⇒ご参照1.pdfご参照2

(22)現代人にもプログラムされている神話的思考

(21)佐保姫と竜田姫、そして登美彦

(20)古代地名検索システム

(19)この記事によればこの地図の櫛羅くじら(海抜約122m)付近まで海だったとのこと(地図の櫛羅表記の南西にある神社が海抜145mの鴨山口神社)。

(18)創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf

(17)「山人」の「協同自助」的な生活に未来の可能性が見られる.pdf

(16)「国生み」は海洋民の伝承・「出雲」の「雲」に道教思想.jpg  考古学から神武を探る.pdf

(15)トビ・トミ=ナガ=蛇神

(14)保津川の曳き舟再現

(13)倭人伝の国々をアイヌ語で読んでみると、「島」「森」「半島」「沼」「川」「水草」「葭あし」「谷・窪地」「河口」「滝」「港」という語が多用されていることが分かる⇒アイヌ語で読む倭の国々(リンク)ご参照(なお、ヤマタイ国は以下のよう)   

 

邪馬壱(邪馬臺)  やまい
(やまたい) 
yam-i(yam-tai)
      yam=栗 i=場所 tai=森 
豊かな栗の森のある国
       

(12「地名の改悪」は戦後日本の愚行.pdf  広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン

(11)富雄川と「富の小川」(リンク)  富雄駅は42(S16)年9月~53(S28)年4月に鵄邑(とびのむら)駅.jpgと改称されていた(当時の地図)。

(10)近代戦争以前の戦い : 例外だった白兵戦 戦場での負傷、大半は飛び道具.pdf

(9)『真説・古代史』補充編「神武東侵」 : Ⅳ(イワレヒコは恐らく登美毘古に勝てなかったのだ)

(8)神武はついに長髄彦を倒せなかった

(7)神武が来た道  神武東侵  古田史学の真髄(神武東侵について・天孫降臨について、など)

(6)アマテラスの原像.pdf   創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf.pdf

(5)日本神話に見る日本文化考  左のワード版

(4)絵古事記(リンク)

(3)記紀・万葉は古代のムラ段階から継承してきた少数民族的伝統 : 自然と共生し節度ある欲望を生きる少数民族の文化は、自然破壊と欲望の開放という近代化の行きつく荒廃に対する最後の防波堤.pdf

(2)戦争は、人間の本能ではなく、日本では縄文時代にはなく、弥生時代から始まった 

(1)日本服飾史資料(リンク)勾玉三部作服飾(リンク).mht

(0)参考 : 日本古語大辞典(刀江書院)  日本書紀を語る講演会ミラー  旧版地図の入手方法(リンク)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

非戦・避戦の精神(戦いを否定する精神) 

(1)縄文人は、「食べるため以外のために殺す」(これを殺戮という)ことは不可能な人々でしたこの記事の中の「<日本列島先住民族=狩猟採集民族=縄文人> について」をご参照)

(2)そのため、1万年にわたる縄文時代に、日本人には、「殺戮をしない・できない精神非戦・避戦の精神 )」が形成され、列島先住民(縄文人)と半島からの渡来人(弥生人)とが出会い衝突した縄文時代から弥生時代への移行の時代に形成された日本民族にも継承され。今日に至るまで受け継がれてきました。

(3)その精神の系譜は次の通りです。

 ①縄文時代から弥生時代への移行期につくられた生駒の神話は非戦・避戦の精神に貫かれている・・・「生駒検定<全国版>」の <問1>の解答・解説/問題文ご参照

 ②神功じんぐう皇后に神託された(つまり、神がかりとなった神功皇后の)戦争せよということばを否定しようという動きがあったことを今に伝える記紀説話、つまり、戦争に反対した仲哀ちゅうあい天皇が急死(仲哀天皇の悲劇)<日本書紀 仲哀紀/古事記 仲哀記)したとの説話や「軍卒が集まりにくく、戦う国も見えない」との戦争否定説話(日本書紀 神功紀)が記紀に記録されている・・・「生駒検定<全国版>」の <問21>の問題文と解説の(1)ご参照 

 ③神が神功じんぐう皇后の戦争を否定するという2つの生駒伝承(「神功皇后と鶏」と「生駒の産土神うぶすながみの鶏追とりおい」) ・・・<問21>の問題文と解説の(6)ご参照

 ④山背大兄王やましろのおおえのおう戦って勝ったからといって丈夫ますらおと言えようか。おのが身を捨てて国を固められたら、また丈夫と言える 」「人民を死傷させることを欲しない。 」(日本書紀 皇極記 古代生駒も舞台とする山背大兄王の悲劇)・・・「生駒検定<全国版>」の <問24>の(13)の問題文/解答・解説ご参照

 ⑤ある人が有間皇子ありまのみこを諫めて「武力行使は徳のない行為です。徳をつけるべきです。」(日本書紀 斉明記 古代生駒も舞台とする有間皇子の悲劇)・・・「生駒検定<全国版>」の <問24>の(11)の問題文/解答・解説ご参照

 ⑥アテルイの悲劇アテルイは同士モレと共に、大和王権と日高見ひだかみ(現東北)の国が戦わずして講和するために敵の心臓部である京都の都まで出かけましたが、河内国杜山もりやまで無残にも斬刑に処されてしまいました。 )・・・生駒の神話と現在の(2)ご参照 

 ⑦日本国憲法「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 」

(4)縄文時代に形成された「非戦・避戦の精神 」は、日本民族にも受け継がれましたが、弥生時代に入って「国家」(人民を支配するための機構・機関)が成立し始めると、抑え込まれていきました。しかし、武士(天皇・貴族のように「権威や特権に頼る」のでなく、「<自力=実力(武力)>に頼って」人民を支配するもの )の時代に入るまでは、(3)ー➀~⑤のように、その系譜は見える化されていました。鎌倉時代当初は公(朝廷=天皇・貴族)武(幕府=武士)2元体制でしたが、ほどなく武の力が公を上回るようになり戦国時代末期・江戸時代当初には武の完全支配体制が確立しました。このような武力(実力)がものをいう時代に「非戦・避戦の精神 」は、まったく抑え込まれてしまいました。しかし、薩長土肥といった旧武士勢力が作った大日本帝国がアジア太平洋戦争をおこなって多くの人々を犬死させたことで崩壊すると、「非戦・避戦の精神 」 は一気に力を回復し、その精神を柱とする日本国憲法を成立させました。この憲法は、➀平和主義・②基本的人権尊重・③人民主権を主たる内容とするものです。➀はもちろん「非戦・避戦の精神 」 に立脚するものです。最大の基本的人権侵害は戦争であり、②を保障する最大の力も「非戦・避戦の精神 」 です。そして、みんなで政治を動かすとの③は、 統治者の実力(強制力)行使によって壊される脆弱性をもっていますが、それを防ぐのが「非戦・避戦の精神(実力を頼みに事を運ぶことを許さない精神) 」です。

(5)非戦・避戦の精神の系譜の今日的到達点が、日本国憲法です。しかし、その憲法制定直後より、日本の統治者は、日本国憲法を壊す(憲法改悪)の施策をおこなってきました(鳩山一郎内閣が憲法改定を主たる政策に掲げるなど)。しかし、その目論見は、憲法公布から約75年もたった現在(2019年8月)も成功していません。その理由は、戦後日本人の戦争忌避精神は集団的無意識になっているからです(ご参照)。従って、 現在、日本の統治者は、憲法を改悪せんとシャカリキになっています(そんな中で、衆院議長のパージ発言も飛び出した)が、それは、返り血を浴びて不成功に終わるでしょう。万一成功しても、集団的無意識は、意識とは違って抑え込むことはできても消滅させることはできませんので、自衛隊員や市民が何人か犬死した時点で、その力は復活し、統治者を粉砕することになります。

(6) 権力とは「強制力(有無を言わせない無理やりの力)=暴力=実力」です。これを規制するものがなければ、非戦・避戦の精神の発揮は(3)の精神の系譜で記されているように悲劇をもたらし 、また、戦前(大日本帝国)のように権力は暴走を続け、究極は自国民に全員玉砕(自民族皆殺し)を強制するものとなってしまいます。権力を規制するものとは、大日本国憲法のようなアクセサリー憲法ではない民主憲法たる日本国憲法です。しかし、現在の日本では、日本国憲法が十分に実行されていないため、戦争法・特定秘密法・共謀罪法・カジノ法といった違憲法が制定され、基本的人権侵害行為が横行しています。今、なされなければならないのは、憲法を完全に実行することであるにもかかわらず、その真反対のこと、数々の違憲法や基本的人権侵害行為が合憲となるように憲法改定をせんとする動きが進められています(改憲問題については生駒の神話と現在もご参照)。

 

 この文書は、「日本書紀」は「非戦の書」でもある。を踏まえて作成いたしました。

 この文書は、非武装・非戦の論理に所収されています。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本書紀」は「非戦の書」でもある。

 日本書紀は外国向けに日本という国の正統性を主張するためにつくられましたが、「非戦・避戦、または、平和友好」の要素・精神が付与されています(下記の記事ご参照)。これは、日本書紀の謎の1つとなっています。

(1)生駒の神話は非戦・避戦の精神に貫かれています。

(2)「生駒検定<全国版>」の『<問21>生駒伝承』の問題文と解説の(1)

(3)「生駒検定<全国版>」の『<問24>生駒ゆかりの諸群像」』の(11)の問題/解答・解説

(4)「生駒検定<全国版>」の『<問24>生駒ゆかりの諸群像」』の(13)の問題/解答・解説 

 

 この文書を踏まえて、非戦・避戦の精神の系譜を作成しました。

 

 

 

 

 

 

 

生駒市誌 

                                  引用者 : 参考<「生駒」の語源・由来・いわれ

全5巻…次の各太字の全部または一部を抜粋しました。 

Ⅰ 第一巻 資料編<71(S46).11.1> 

   ○概説篇:生駒市のあゆみ 

   ○資料編:第一章 地質時代の生駒  第二章 神話時代の生駒  第三章 行基と竹林寺  第四章 生駒神社  第五章 茶筅の高山  第六章 湛海律師と宝山寺  第七章 生駒陣屋と矢野騒動 

Ⅱ 第二巻 資料編    <74(S49). 5.1>

   ○概説篇:明治までの生駒のあゆみ  第一章 維新の生駒  第二章 地租改正  第三章 徴兵制度  第四章 大区、小区と戸長役場  第五章 三町村の成立  第六章 行政村の七章発達  第 富国強兵への協力  第八章 教育の普及  第九章 風俗誌にみる生駒  第十章 門前町の発達  第十一章 生駒新地の今昔  第十二章 交通の変遷  第十三章 太平洋戦争と生駒  第十四章 戦後の生駒  第十五章 部落解放のあゆみ  第十六章 町村合併と生駒市の成立 

   ○資料編:文献と記録/沿革と現況/新聞と広報 

Ⅲ 第三巻 資料編    <77(S52). 5.1>

   ○郷土の産業・文化の担い手 ○郷土の日記類 ○郷土の文芸 

Ⅳ 第四巻 資料編    <80(S55).12.1>

   ○生駒市の概要 ○自然環境 ○生活環境 ○民俗と民習 ○社寺・文化財 

Ⅴ 第五巻 通史・地誌編 <85(S60). 3.1> 

   ○通史篇:生駒地方地史  第一章 伝承の生駒  第二章 上古の人々  第三章 中世の社会  第四章 近世の生駒  第五章 生駒の近代化  第六章 現代の生駒 

   ○地誌編北部地域/中部地域/南部地域 

******************* 

~抜 粋~ 

(文中の太字は引用者による。)

Ⅰ 第一巻 資料編 

概説篇:生駒市のあゆみ  藤本寅雄 

その一 生駒のはじまりと神話> 

 生駒谷(引用者:生駒山系と矢田丘陵にはさまれた大きな谷間)がまだ馬鍬(まぐわ)の淵(引用者:竜田川中流域にあり)の峡谷をとざして湖水であったとき、その岸辺に狩猟生活をした原住民の繩紋文化は小平尾遺跡と言われて、大字萩原の地から食器の一部らしい土器の断片がわずかに発掘されているが、隣接する交野、枚岡地方のように多くは見当らない。また少量であるが菜畑、有里など山麓の一部にサヌカイトなどでつくった矢尻や磨製石器を見ることがある。そして周辺の人々の狩場となるにふさわしい獲物である鹿、猪、鷹、鳩、鵄の数々が多く棲息していて、谷間には樫(カシ)、櫟(クヌギ)、萩等茂り、麓には、いくみ竹、たしみ竹と呼ばれる竹藪も多かったようである。鹿畑、高山(鷹山)、萩原、櫟峠等の地名や万葉集など古来の歌によってうかがわれる。また龍田や龍間、蛇食等の地名に見るように竜神や、蛇神を信仰する原始宗教もここに芽生えていたであろう。「トビ」、「卜べ」、「トミ」の地名、人名はこうした環境から生れたという説もある。また岩倉、稲倉、磐座、磐若屈等の地名と巨岩露出する場所も処々あって、自然を崇拝した原始人が生活しはじめていた。彼等は火を尊び、幸にもこの地に自生していた「はゝか」の木をもって火を発する道具を作り、これを氏神に献じて五穀豊饒を祈った。さてこれ等の原始民族(先住部族)も遠くは北方大陸からきた朝鮮系か出雲系らしく、青銅器による武器をもって、石器時代の人間を支配した(引用者:「石器時代の人間=先住民族」という書き方がされていない点に注意しましょう)。いかるが等の地名に見るカル、力リは朝鮮語で「銅」「金」を意味したらしく、生駒の地名もこの地方では「コマ」とよび高原を意味したと思われる。こうした舞台の上に先住民族の神話が育てられてきた。そこでこの地に伝わる神話をしばらくたどって見ることとする。勿論その真偽はいまだ疑問とするが、部族の興亡を知ることができる。すなわち、ここに後から入ってきた天孫民族は弥生文化をもった部族で、更に強い鉄器製の武器をもって、先住部族を征服した。そして水田耕作の高い文化をつくり出してきたものと考えられる。矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦(ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。彼は長くこの地方に占拠していたが、饒連日命(ニギハヤヒノミコト)が天磐船(あめのいわふね)に乗って河内の国から哮峰(いかるがの峯)をこえてこの白庭山に来られたので、この命を奉じて益々勢盛となった。命は天押穂耳命(アメノオシホミミノミコト)を父とし、拷幡千々姫命(タケハタチヂヒメノミコト)を母とする、天照大神の皇孫に当っていて、父母の名の示す如く米作に巧みな方であった。長髄彦を帰順させ、その妹の御炊屋姫命(ミカシキヤヒメノミコト)を娶って、可美真命(ウマシマデノミコト)という男児をもうけられた。

 この白庭山とはここ生駒の白谷地方をあてている。その後神武天皇が、九州でこのことを聞き、このうるわしの土地大和に入ろうとやってこられた。長髄彦は地の利のよい生駒山を盾によく防戦した。孔舎衛坂(くさえざか)の戦に敗れた天皇は紀州を廻って大和に入り、東からこの地を奇襲攻略された。この際かの有名な金のとびが飛来し、長髄彦の軍は目がくらんで敗北するきっかけとなった。これ鵄山(上村地方)、鵄邑(富雄地方)の起源といわれている。饒速日命は皇祖から受けてきた羽々矢等を示して神武天皇と同族である事を知り、長髄彦を斬って帰順された。その功によって後には物部氏としてその子孫がさかえた。この地の北に住していた肩野物部氏もその一つである。命は間もなくこの地になくなられ、墓を造られたが、これが桧窪山の頂の塚とされている。やがて神武天皇は戦勝を祝って鳥見の霊疇<引用者:霊畤(れいじ/語句説明)の間違い?>に祖先を祀られたがその地桜井市の鳥見山を有力とするもその伝称地は、生駒市内および附近に多く、王竜寺の鵄神社、南生駒小平尾の磐倉等もその一つとされている。今一つの神話に神功皇后がある。皇后は二、三世紀の人で新羅征伐をして陣中に応神天皇をおうみになった。後世この応神天皇を、八幡大神と呼んで戦の神に祀られるようになった。生駒神社の祭神の中にも、この二人があって、皇后この地より出発して新羅に向われたとしている。鶏鳴がおそかったので出発がおくれて戦が不利になったこと、これがこの神社の正月の鶏追い行事の由来となったこと、祭の行事が三韓征伐をまねたものであることなど皇后に因んだ話が残っている。このあたりは伝説と史実との交流点で、実在の人と考える史家はヒミコを之にあてる人もあるが、史家の中には後世の朝鮮経略を神話化したもので女帝斉明天皇の百済出兵などから出たものでないかといわれている。しかし八幡宮合祀の生駒神社の出現は、奈良朝以降の歴史に大きく影響し生駒谷の地名と結びつき郷土の伝説を深めている。 

<その二 古墳時代の生駒(平群氏や役小角)> 

 さて四世紀の頃ともなれば大和盆地の中央部に水田耕作による経済的基盤を確保した大和朝廷が成立発展して行く時代となった。このあたりから史実は確証をもつ段階に入る。ここ生駒地方は大和の周辺としての位置にあって、層布(そふ/添)の一部(富雄谷)と平群の一部(生駒谷)とからなっていた。これ等の地名は山添、周辺を意味する地名と考えられるが、皇化は時にふれここにおよんできていた。雄略天皇は生駒直越をして大草香王(おおくさかのみこ)を平げ、草香幡梭姫(くさかのはたびひめ)をむかえて妃とした。この物語は古代社会の略奪結婚を物語化したものとして興味あり、この際、生駒山上にて歌われた「日下部のこちの山とたゝみこも、平群の山の、こちごちの山の峡に立ち栄ゆる葉広くまかし、本にはいくみ竹生ひ、末にはたしみ竹生ひ云々」の歌は名高い。この地の豪族を帰順させ、産土(うぶすな)の神、伊古麻(いこま)神社の創設をゆるして皇威を広く生駒葛城の山地にまで滲透させてこられた。かくて古墳時代の大和は氏族制度がゆきわたって和珥(わに)氏、久米氏、大伴氏、蘇我氏、物部氏の諸豪族とならんでこの地方には平群氏が勢力をのばし、南にはその一族紀氏(きし)、葛城氏、巨勢氏、と交わり北には長髄彦の裔とも考えられる出雲系の人々、或は遠く朝鮮から来往した帰化人の子孫を交えて幡居(ばんきょ)し、「こま」「たたら」等の地名を処々に残している。古墳時代の末期とも見られる有里文殊山の紀氏連の前方後円墳はその一証であるし、平群谷の古墳群に至っては数も多い。

 平群ノ真鳥は大臣となって中央に進出したが、その子鮪(い)は影媛と相思の仲となって那羅山で武烈帝に殺され、大臣の座を巨勢氏にゆずった、もともと平群氏は大和川の要衝をおさえて、代々塩の移入に関係したらしく、大臣の座を追われるや宮廷に塩を送ることを止めて対抗したりした。その一族蘇我氏も物資移入に関与し、遂には朝廷の財政を司るとともに勢力をのばした。やがて仏教の容否で物部氏と対決したが、聖徳太子に容れられて中央に栄えた。しかるに太子の御子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)は入鹿の従者巨勢の徳太等に攻められて斑鳩宮より生駒山中に逃げられ、三輪文屋王ら側近と数日をここに過された。この地の人々再挙して入鹿討伐をすすめたが王は諸民の犠牲の多いのを心配して穏便に事を運び斑鳩の宮に帰られたところ、却って入鹿の乗ずる処となり、そこで兵火とともに世を去られた。山崎金宝寺裏の万取山をこの大兄王のゆかりの地と伝える人もあって一考に資する点がある。その頃の平群氏はも早や、昔日の姿なく蘇我氏の一部下として兵事に駆使されていたが、飛鳥奈良朝には朝臣として史の編纂に従事していたようである。

 当時この生駒には中央に志の得なかった皇子や部将の遁居する場所となっていた。大化の改新前孝徳天皇の皇子有間皇子は天智天皇がいまだ中大兄皇子の頃これと皇位継承を争って蘇我赤兄(そがのあかえ)の計にかかり、一分の邸で捕われの身となって湯治に出ておられた中大兄皇子のもと紀州白浜に送られた。途中「磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらば亦かへり見ん」「家にあれば笥にもる飯を草枕、旅にしあれば椎の葉に盛る」の名歌を万葉に残して非運の最期をとげられた。

 天武朝の頃、葛城地方に生まれた行者役小角は一種のシャーマン風の道教的呪術者として民衆になつかれ、中央政権の権力的搾取に批判的な態度で山中の賊を降しては民衆を助けることが多かった。生駒山の一角、鬼取山でも前鬼後鬼の二賊を捕縛し、髪切山で髪を切って義覚義賢の二僧にして行者の道に入らせ、平群村鴨川に元山上を開いた。小倉山教弘寺や暗峠街道筋にも彼の徳をしのんだ石像が見られる。しかし彼は律令体制の税に批判的であったのと、たまたま韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の讒(ざん)にあい文武天皇三年五月二十四日、伊豆の国に流罪とされた。奈良朝に入ると民話の中に尊崇され大峯山の開祖ともよばれている。彼は後の山岳修験道の先駆として深山幽谷を跋渉し、神通力という飛翔の術をもっていたと伝えられ、生駒地方でも早くより宝山寺磐若窟、燈明ヶ嶽に着眼し、ここを霊地化したようで、古代の自然崇拝思想を一段深い宗教化に発展させたと考えられる。

○資料編 

第一章 地質時代の生駒 

 ・・・・・地質時代(直近数千年の記録が残っている有史時代以前)の終り頃、古大阪湾は近畿地方、現在の京阪神地方全域に広がり山麓まで水域か深く湾入していた。この古大阪湾に浮ぶ菱形の緑の島、南北距離約二七キロ、東西の巾約一二キロ、南偏りに標高六四二・三米の主峯、これが生駒山である(松下進著近畿地史)・・・・・。  引用者:右の地図(クリックで拡大)が添付掲載されている。

第二章 神話時代の生駒  藤本寅雄 

<要説一> 金鵄発祥の地 

 神話については戦後は、その真実性に疑問をもつようになった。しかし土地の人々は何となく神話に愛着をもち、少くとも代々の先祖もそれを語りつげてきたものとして親しみをもってむかえられているので、昔からの伝承として取りあげることにした。特に戦時中の資料は神話即ち史実として大きく表現されているが、その事がそのまま戦時中や、また往昔の尊皇精神発揚の時代の映像と考えて読者の正しい判断にまつことにしたから是正して理解されるだろう。 

 近鉄富雄駅より「傍示」行きのバスに乗り、富雄川に沿って北へ行くこと二粁(キロメートル)許(ばか)り。「出垣内」という停留所がある。この少し手前、ふと目をこらして見れば、川をへだてた小高い丘に一つの碑が建っているのに気が付く。碑文「神武天皇御聖蹟鶏邑顕彰之地」。いわゆる皇国の肇(はじめ)を神武元年として数えた紀元二千六百年(昭和十五年)記念にたてられたものである。戦後、歴史教育から神話時代が除去されて以来、人々の心から次第に忘れ去られていった様な淋しい佇まいの此の碑ではあるが、然し此処に住む郷土の人達にとっては、神武天皇御聖蹟地は矢張り一つの誇らかな心のより所であるかもしれない。今、古事記、日本書紀、そして又蘇我馬子の手になるという旧事本紀から、この金鶏発祥地「鳥見」に関する神話を拾ってみよう。

 大変英明で意(みこころ)かたくつよくます神日本磐余彦天皇<カムヤマトイワレヒコノスメラミコト/古事記では豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)/後の神武天皇>は、国の中心を、青い山が四方をめぐる地、即ち大和に定めようと考えられ、御兄五瀬命(イツセノミコト)、その他諸皇子と共に日向の地より、御東征の旅に出立された。然し、其の地はすでに磐の様な堅固な船に乗って、天界、高天原から降りられた天神饒速日命か治めているという地でもあった。天皇は途中さまざまの出来事を経られた後、御船は、難波の岬に着いた。

 当時、海は現在の生駒山麓日下(くさか)一帯に迄つらなっていて(引用者:当時、現在の大阪平野は河内湖であった)、上陸はその辺であった。先ず武具を整え、龍田(龍間という説もある)へと軍を進められたが、道は狭くけわしくて進軍出来なかった。そこで、進路を加え、今度は東に向って生駒山を越えて大和入りなさろうとした。つまり、直越の道(ただごえのみち)をえらばれた。その頃、生駒の地には長髄彦(古事記では鳥見又は登美彦)という豪族がいた。彼は、その名の示す通り、長いすねの様な形-長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。自分の土地の奪われるのを恐れ、皇師(みいくさ・こうし/皇軍)を上陸地孔舎衛坂に迎え、激しく抵抗した。この時、五瀬命は、賊の矢傷を受けられた。天皇は、「吾(あ)は日神(ひのかみ)の御子として日に向ひて戦ふことふさはず。故(かれ)賎奴(やっこ)が痛手なも負ひつる。今よりは行き回(めぐ)りて日を背負ひてこそ撃ちこめ」(古事記)と考えられ、一旦、軍を退却された。天皇は紀州へ出て、吉野入りされ、次々と大和を平定されていった。が、あの孔舎衛坂の戦いがもとで死去した兄五瀬命の為にも、長髄彦の誅伐を考えていられた天皇は、今度は東の側から再び彼を攻めようとされた。日本書紀に「十有二月(しはす)の癸巳の朔丙申(みつのとのみついたちひのえさる)に、皇師遂に長髄彦を撃つ。連(しきり)に戦ひて取勝つこと能はず。時に忽然(たちまち)にして天陰(ひし)けて雨氷ふる。乃ち金色(こがね)の霊(あや)しき鵄有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。其の鵄光り曄(てり)かがやきて、状(かたち)流電(いなびかり)の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒(いくさのひもとど)、皆迷(まど)ひ眩(まぎ)えて、復力(またきは)め戦はず。」とある。かくして長髄彦は破れたのであるが、天の磐の船で河内国河上の哮峰(いかるがのみね/現岩船神社在)に天下り、鳥見白庭山(旧古堤街道と岩船街道の分岐点/白谷附近)に居をかまえていたとされる神、饒速目命を擁立して、天の神はこの命だけと堅く信じ、又、自分の妹炊屋媛(古事記では長髄媛・登美屋媛)を命に嫁がせていた長髄彦は、尚、帰順の心なく改心の様子もなかった。然し、饒速日命は「天の神の恵は天孫にだけ与えられるもの……」と知り、自らの手で長髄彦を殺し、その兵をひきいて天皇に帰順した。尚、命は天の神の子として天皇と全く同じ天の羽々矢(はばや)と靭(わき)を持っていたが、「即ち天つしるしを献つりて仕奉りき」と古事記にもしるされている。(旧事本紀には饒速口命は既に薨じ神骸となっており、その子宇志麻治命(ウマシマジノミコト)が伯父の長髄彦を殺して降るとなっている。)以上が金鵄発祥地に関する神話の大体であるが、さて例の金鵄の力に依り皇師が戦捷(せんしょう/戦勝)した時より、今迄長髄と称していたこの地名が、鵄邑となづけられるようになった。今の富は鳥見で、鵄が訛ったものであるというが、この名に付いては考証が多い。続日本紀中に登美の郷又は庄、倭名鈔中に鳥見郷、但しこれは、登利加比(とりかひ)とよませている。又大和志中に鳥貝郷の称がある。つまり鳥養部の住んでいた所で、鳥見と鳥貝の酷似から誤字となったと言う説もある(「奈良文化史論叢、地名の類型」)戦いの場は鵄山であろうか。ここには「金鵄発祥之處」と刻した碑石が建てられている。これは、大正三年、大阪の史蹟研究のつどい、わらじ会の会員達が聖蹟の荒廃の様を見て、表示していったものである。上村の中島附近には古塞の名残りか、「をへ」「どへ」と言う名があった。これは尾塀、土塀にあててみられるのかもしれない。又、饒速目命の持っていた羽々矢を葬ったといわれる山伏塚(山主塚の訛りという)は現在、桧窪山(別名日の窪山)にある。

 この「鳥見」に住む郷土の人達は、大正三年、この地に金鵄会を結成した。そしてこの大昔から伝承されて来た説話を、この地のものとして改めて認識されることをのぞみ尽力した。「金鵄発祥史蹟考」という小冊子の発刊もみた。然し何分にも大昔の物語のことであるから、これといった証拠などあるわけもなく、時には鵄が、地名からの訛りにかけた類推話という説等も出てきたり、又同様な地名、蹟話があちこちにも存在し、多くの学者達の論争の的となっているのは既に衆知の事である。然し、昭和十五年文部省が行った顕彰地調査の結果、その報告にもとづいて、この生駒の地を神武天皇御聖蹟地と定められ、当時の国定教科書の扉に其の写真がのせられたりしている。 

 今日、この碑が、ここに其の姿を止めているのには、更に付加えねばならぬ事がある。第二次大戦の後、我国が米国の占領下におかれた頃、この碑が戦いへの間接的な意味にしろ、精神的作用大とみて、その取りこわしを厳命して来たという。皇弓の弭に止る金鵄は、明治二十三年以来金鵄勲章の起源ともなっていたのだから、当然注目されるところであったろう。郷土の人達にとって、矢張りそれは忍び難い事であった。そこでこれを守り育てる金鵄会の解散を決意、その代りに碑の存続願いを出し、かろうじて取りこわされるのを救ったとの事である。 

 草々の生ひ茂る中、碑の下に立てば、西の方、真向いに生駒山頂が望み見られる。神武天皇と長髄彦の戦いと言う一つの大昔の物語は、その真偽はともかくとしても、矢張り我々にとって懐しい心のふるさとの物語でもある。神武天皇御聖地は、生駒の一つの名所として、広く語り伝えられる場ではなかろうか。 

<資料>「日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇(神武天皇)」 

 遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた、塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと『東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天・の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳(たいさい/12年の周期で巡行する木星の異名)の甲寅(きのえとら)である。その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向われた。

~解説~この頃遠い東国はまだ群雄割捷據していたが饒速日命がすでに大和に来往しておられることを神武天皇は知り、又大和のうるわしい土地のあることにもあこがれておられた事がうかがわれる。後述の天磐船の記事、白庭山の記事には更に詳しくこの様子をのべている。天皇の日向出発は橿原にて即位された紀元元年より先立つこと六年前の冬十月であった。 

<資料二>「日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇(神武天皇)」 

 戊午(つちおえうま)の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。舳艫(じくろ/船首と船尾)相つぎ、まさに難波碕(なにはのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国(なみはやのくに)とした。また浪花(なみはな)ともいう。今難波(なにわ)というのはなまったものである。三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。そのときに長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞き、「天神の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。流れ矢が当たって五瀬命の肘脛(ひぎはぎ)に当たった。天皇の軍は進むことができなかった。天皇はこれを憂えて、はかりごとをめぐらされた。「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」といわれた。皆は「そのとおりです」という。そこで軍中に告げていわれた。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。草香津(くさかのつ)に引き返し、盾をたてて雄たけびをし士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてつ)とよんだ。いま蓼津(たでつ)というのは、なまっているのである。

~解説~神武天皇の生駒山より大和に入ろうとせられて長髄彦と苦戦になったことがうかがわれる。最初龍田越をしようとせられたとあるのは龍間越とする説がこの地方ではとられている。次に日下越をしようとせられたのも急崖にはばまれ断念せられた。大和の城壁としての生駒山脈は「山の堵(やまのと)」(城戸/城の門)らしい地形で、これが「やまと」の起源とも考えあわせて興味がある。さて裏に廻って奇襲しようとの作戦を「太陽に向っての不利」と神話化してある点も神代らしい。 

<資料三>「日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇(神武天皇)」 

 十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。

今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。そして歌っていわれた。 

  ミツミツシ、クメノコラ(久米之子等)ガ、「カキモトニ」アハフ(粟田)ニハ、カミラ(韮)ヒトモト(一本)、ソノガモト(其根茎)、ソネメツナギテ(其根茎繋)、ウチテシヤマム(撃而止)<天皇の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう>

 また歌っていう。 

  ミツミツシ、クメノコラガ、カキモト(垣下)ニ、ヴヱシハジカミ(植韮)、クチビヒク(口疼)、ワレハワスレズ(我不忘)、ウチテシヤマム<天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう> 

 また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは歌った人を指して名づけたのである。 

 さて長髄彦は使いを送って、天皇に言上し、「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒連日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽者でしょう」と。天皇がいわれる。「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表(しるし/しるしの物)があるだろう。それを示しなさい」と。長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢(あまのははや/蛇の呪力を負った矢)と歩靫(かちゆき/徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ/矢を入れて携行する道具)を天皇に示した。天皇はご覧になって、「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。長髄彦はその天神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。けれども兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。そして間違った考えを捨てず、改心の気持がない。饒連日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒連日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。 

 翌年己未の春二月二十日、諸将に命じて士卒をえらび訓練された。このときにそほの県(添県)の波眸の丘岬(膚山の崎か)に、新城戸畔という女賊があり、また和珂(天理市)の坂下に、居勢祝という者があり、臍見の長柄の丘岬に、猪祝という者があり、その三ヵ所の土賊は、その力を侍んで帰順しなかった。そこで天皇は一部の軍を遣わして皆殺しにさせた。 

~解説~長途の迂回作戦に八咫烏(ヤタガラス)ともいわれる道臣命(ミチノオミノミコト)の道案内で都合よく、その年の十二月鵄山の丘陵に出てこられ、西の方、白谷地方の長髄彦の本拠に迫ろうとせられた時金の鴉が飛来したこと。この時の軍歌

   ○みずみずし久米の子等が、かきもとに粟生(あわふ/粟畑)には、臭韮一茎(かみらひともと)そのが茎(もと)、その芽つなぎて、撃ちてしやまん。

   ○みずみずし久米の子らが、垣元(かきもと)に植えし薑(はじかみ)、口ひびく、我は忘れじ撃ちてしやまん。 

の中に賊軍をくさいにらしょうがにたとえ、そのにがい経験ともいうべき、孔舎衛坂の戦を思い出して、奮起せよ、とはげまされた真剣さがうかがわれる。次に饒速口命を奉じている長髄彦は容易に降参しなかったが、命は神武天皇の示された羽々矢が自分のと同じであることにすぐ納得して帰順された。 

<要説二>鳥見霊 

 大和を平定して、正式に神武天皇として即位した磐余彦命は、自らの祖神、天照大神を祭る斉場(いつきのにわ)を上ッ小野榛原、下ッ小野榛原の鳥見山の中にたてた。さて、この小野榛原をめぐって実に数ケ所も候補地が現われた。宇陀郡の榛原、磯城郡桜井、吉野郡丹川上、山辺郡丹波市等。その一つに生駒郡ものぼった。金鶏発祥の地、鳥見山を擁立する生駒としては、鳥見山という名から推して。霊畤(れいじ/祭祀場)もあるいは……と考えた。その上海滝山(引用者:原文読み不記載)王龍寺(黄檗山派禅寺)に残されていた縁起書中、二名という地名は上っ小野榛原下っ小野榛原の畧(りゃく)であると元禄年間の記録にある。元来この地は敏速天皇の皇子春日の皇子が物部守屋を誅伐した功によって与えられた領地でもあり、その後小野姓を名のり二代目が小野妹子、後に下の小野家が分家し、上下の小野家が出来た。(崇峻記)この頃この辺一帯に榛が繁っていたと推察されている。

 次に鳥見の霊畤の伝称地として、戦時中に、南生駒地区の小平尾山「磐座」(いわくら)もあげられた。生駒山を北に望む景勝の地で茶褐色の山肌に巨岩点在し、石の台地あり、生駒山腹の獅子垣を長髄彦のとりでと考える人もある。麓の邑にあたる萩原は書記にある小野榛原の訛という。また一分の東にある矢田山脈の一つの峯を神武峯とよび、そこの西斜面に「このはりはら」の地名あり、按ずるに、局部的な戦勝の折、先祖に感謝の祭をなされた所でもあったか。

<資料四>「日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇(神武天皇)」 

 四年春二月二十三日、詔して「わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。 

<資料五>鴉神社由来記(昭和15年8月5日発行 編集者飯野純道)

 王龍寺古文書二依レバ、聖武天皇、此ノ地二狩猟セラレ鳥見ノ古跡ノ衰頽ヲ嘆キ給ヒ鴉神社ヲ再興シ王龍寺モ併セ造ラレシニ戦国争乱ノ間兵火ノ為二焼失セリ。其ノ状延享三丙寅年ノ寺院本末帳二「鎭守鴉之三社、天紙、地神、神武社、(四尺ニ六尺、花表一間ニ八尺)、神武天皇鴉之瑞ニ依テ位ヲ保チ世ヲ治メ給フ依テ之ヲ鴉谷ト號ス神武四年天下ニ詔ヲ下しシ鴉之霊社ヲ鳥見山中ニ立ツ高祖天神を郊祀シ大孝申へ給フレ霊社之地ヲ號シ上小野榛原下小野榛原(カミツオノハイバラシモツオノハイバラ)ト曰く故二後ノ世二名山(ニメウヤマ)ト號ス・・・・・聖武天皇ノ勅願ニ依リ二天平七年七堂伽藍寺院多數建立アリ其後兵火の為ニ破壊シ纔二後二奥院一宇相ル」とアリ。

 又同年代頃ノ和州添下郡谷二名村海瀧山王龍寺縁起ニハ「・・・・・鎭守鴉神社ハ地神五代鵄鵄草葺不合 (ウガヤフキアヘズ)尊第四皇子人皇第一代神武天皇・・・・・鴉ノ奇瑞ハ天照大神ノ感慶ナヲ敬ヒ其所ヲ鴉谷ト號シ給フ、同橿原二都ヲ開キ給ヒ神霊ノ社ヲ高見山中二建テ、鴉大明神卜崇メラル云々」。又大字二名ナル語字二関シテハ「鴉大明神ヲ崇メラル、其地ヲ上ッ小野榛原、下ッ小野榛原卜云フユヘ二名山ト號ス。民屋ノアル所ヲ二名邑卜云ヒ傅ヘラル」トアリ。 

 尚此ノ二名二就イテハ寛永十癸酉仲春ノ古書ニ「二名と云ふ譯は此所を上小野波利原、下小野はり原と云ふ名前二ヶ所有故也」トアリテ此ノ地古代ヨリ金鴉發祥鳥見山中ノ靈蹟ナル事ヲ物語リ、王龍(黄立、王立)ノ名ノ偶然ナラザル事ヲ察セラル。 

 其ノ他二古図、古伝、古記録、数多ナルモ、正徳ノ昔郡山藩主本多忠直公ヨリ此ノ寺二下サレタル古地図ニモ鴉神社ト明示セラレ今ヤ武神ヲ祀るル、救国ノ神霊、金鴉ノ社トシテ、世人ノ信仰日ヲ追ツテ増シツヽアリ。 

 此ノ社ノ所在スル王龍寺ハ黄璧宗二属シ、十一面観音ノ石仏を本尊トス。丈余ノ岩壁二鮮ヤカニ刻レタル五尺余ノ仏像ニシテ建武三年ノ銘有ル稀有ノモノトシテ尊バル。其他鎌倉時代二属スルト云フ古鐘アリ、共二此ノ寺ノ貴宝タリ。 

 中興開祖梅谷禅師ハ元禄ノ昔、此ノ鴉ノ古跡ヲ探りテ中幕既二尊皇ノ大義ヲ唱セリ。 

 四代法源和尚又尊皇ノ心篤ク大和ノ談山神社二参拝シテハ、臣鎌足ノ社ガ斯クモ壮麗ナルニ人皇第一代神武天皇ノ山陵及ビ其ノ霊社が未ダ不明ナルハ恐畏ノ至リト慨嘆シ鴉神社ノ盛大二カヲ尽セリ。皇紀二千六百年ノ聖年ト共二次第二世二認メラレシ此ノ山峡幽谷ハ橿原ノ恩地トシテ、大和ヲ訪レル者、必ズ此ノ聖地二杖ヲ曳キ、往古ノ神霊二跪拝シテ、日本人タルノ誇ト自覚ヲ喚起スルニ絶好ノ清境ナリ。 

 尚附近二古跡、名勝多ク、一度訪レバ、一木一草二古歌古詩古伝二昔ヲ偲ベバ、古キ日本ノ姿ヲ吾等ノ眼前ニ彷彿セシムノ感アラン。 

~解説~ 

 これは王竜寺にある鴉神社を顕彰するために作られた由来記である。戦時中のこと故、尊皇の大義強く説いている点がうかがわれる。王竜寺は生駒町上村のすぐ南隣するところであるので、その一部を資料として収録した。鳥見の霊時の一候補地として戦時中人々にはやし立てられた。今この地を訪れると苔むす祠が淋しく残っていて、そぞろ時代のうつりかわりと盛衰変化を思わせる。この感じは他の鴉山伝承地の一つ一つについても同じである。 

<資料六>金鶏発祥史蹟考(金鴉会代表者 池田勝太郎) 

 ①金鴉発祥の史蹟 

  奈良県生駒郡北倭村は鳥見郷の旧地にして(日本紀講述抄云、鴉村は南都の西三里許りにして鴉川あり則ち大和川の上なり、其流れに溯りて西北すれば岩屋に達するなり、岩屋越と闇越との中間一谷方三里あり、今村々の名を分つと云へども此中を凡て鴉谷と号す是長髄彦が住せし地なり)金鴉発祥の史蹟は同村大字上及び高山の境界点に存在せり、と推考すべく里俗其地を呼びて「とび山」といふ「とび山」の名称は盖し金鴉発祥の史実を記する所以にして建国史上尤も尊重すべき霊蹟なりとす。惜いかな星霜千百年の間幾多の変化を見其一部分は既に開墾せられて耕地となりしも之を故老に聞くに開墾以前は更に一段の高邱ありしなりと古証券に徴するに、略々疑ひなきが如く記紀二文を以て現存地形に推当を試むるに当時の戦況を想見するに足るものあり、請ふ先づ白庭山の所在を考究せよ〔金鶏発祥の史実参照〕 

  金鴉発祥の史実(日本書紀巻 第三 神武天皇):十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。

 見白庭山の旧墟 

  鳥見白庭山の所在は必ず和河両国(大阪府北河内郡・奈良県生駒郡)の接続境域ならざるべからず而して北倭村は其地能く之れに適合せり今同村大字上に白谷と称する地あり十数戸の民家一里曲を成して山嶺之を四周し唯纔に東西二方に通路を開くのみ東口には富の小川の渓流南下し其西口には天の川の泉源北流す真に天険の地たり天の川に沿ふて北行すること十数町にして北河内郡磐船の山峡あり是れ所謂河上哮峰(かわかみたけるのみね)なり(河内志云河上哮峰は讃良郡田原村に在り、今石船山と号す峡中に石あり長五丈許り渓水は石下を通ふ、和州南田原(現時生駒郡北倭村大字南田原)石船明神の神輿こゝに遷幸す因て石船岩と呼ぶ、今其礼式廃すといへども毎歳六月晦日村民相集り政事を修すといふ、神坐石交野郡に属す)と交野郡は現時交野村岩船村に分割され岩船神坐石は岩船村にあり之れを探るには大軌生駒及び富雑駅より又は信貴生駒電鉄岩船駅よりバスの便あり境域の森厳にして崇敬の念禁ずるを得ず而して其西南には生駒の大嶽雲際に聳えたり、則ち白谷なる地名は白庭の遠称にして当初饒速日命が彼処より是に遷りて長髄彦に擁立されし地なることを知るに足れり今其旧称を求むるに「ヒロシバコ」と称する数畝の畑地は則ち之に適合せり盖し「ヒロシバコ」は広き芝生の義にして元来平坦なる芝生なりしが種茶樹桑の民情は終に之を開墾するに至れり又「ヒロシバコ」に接続して白土と称する地あり彼此の地名を綜合して考ふるに当初平面なりし白土の地層を雨水に剥損されて広き芝生となれることを想見し得べし、則ち白庭の地名の所以はここに起因せるものならん、況んや白谷の坤嶺には饒速日命の御物葬斂の史実に適合すべき古墳あるをや〔鳥見白庭の史実参照〕

  鳥見白庭山の史実(旧事記 巻五 天孫本紀/巻六 皇孫本紀):<巻五 天孫本紀>天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。またの名を天火明命(あめのほあかり)、またの名を天照国照彦天火明尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)、または饒速日命という。またの名を胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)天照孁貴(あまてらすひるめむち)の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊をお生みになった。天照太神と高皇産霊尊の、両方のご子孫としてお生まれになった。そのため、天孫といい、また皇孫という。天神の御祖神は、天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を饒速日尊にお授けになった。そうしてこの尊は、天神の御祖先神のご命令で、天の磐船に乗り、河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。さらに、大倭(やまと)国の鳥見(とみ)の白庭山へ遷った。天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。いわゆる、天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られ、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。<巻六 皇孫本紀>ときに、長髄彦は使いを送って、天孫に申しあげた。「昔、天神の御子がおられて、天の磐船(いわふね)に乗って天降られました。名を櫛玉饒速日尊(くしたまにぎはやひのみこと)と申しあげます。このかたが、わが妹の三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って御子をお生みになりました。御子の名を宇摩志麻治命(うましまちのみこと)と申しあげます。そのため、私は饒速日尊、次いで宇摩志麻治命を君として仕えてきました。

 ③饒速日墳墓の所在 

  白庭山舊墟の白谷に存すること上述の如くなれば則ち饒速日命の墳墓も其域内に存すべきこと疑を容れず、大和國陳述名鑑圖に大字上(北倭村)なる真弓山長弓寺境内を以て白庭山の舊墟と為し同寺境外眞弓塚を以て饒速日墳墓と為せるも眞弓塚は聖武天皇神亀五年三月御猟遊幸の際真弓長弓なるものを葬らせたまへる墳墓にして真弓山長弓寺は即ち真弓長弓の非命に死するを憫みたまひ僧行基に勅して門剏せしめられし寺院なれば饒速日事蹟と相關するものあることなし、唯々真弓塚なる名稱が饒速日の遺物葬剱と偶然の暗合あるを以てしかく想像せる臆説に過ぎず確たる根據あるに非るなり、今白谷の地を検するに四圍の山嶺其尤も高峻なるを檜窪山といふ即ち白庭の西南に聳えて近くは鳥見一郷の村落山野を脚下に俯瞰し遠くは大和平原及び近畿諸山を指呼するを得。盖し鳥見郷の主山にして其西麓には南田原村社岩船明神、(今按ずるに其祭神は饒速日命なれども明治維新の際誤って住吉神社と稱するに至れり、盖し岩船明神の舊稱を誤解して之を船舶守護の住吉大神なりとし遂に今日の社名に改められたるなり)及び社頭の古刹岩藏寺あり(今按ずるに岩藏は磐座の借字にて明神鎭座の義なり而して其本尊毘沙門天王、王妃吉祥天女、王子禅膩師童子の古像三軀は饒速日父子及び御炊屋姫の本地仏として安置せしものならむ)而して桧窪山の山嶺には山伏塚と稱する古墳を存せり、其形状は片石を推積して圓家を成し苔蘇蒼白にて二千數百年以前の古塚たること疑を容れず、其名稱山伏塚は山王(やまぬし)塚の訛音にして白庭山の故主饒速日の墳墓たることを推知するに足れり、則ち旧事紀に見ゆる登美白庭の墳墓は之を措きて他に求むべからざるなり〔饒速日墳墓の史實参照〕

  饒速日墳墓の史實(旧事記 巻5 天孫本紀):饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。

 ④鵄山の位置及ぴ白庭山との関係 

  鳥山の所在は大阪電軌富雄停留所より富の小川(現称富雄の川)右岸に沿ひて北行すること二十町餘にして達することを得其位置は即ち富の小川の東方に在りて白谷の東面谷口に對向す盖し白谷の東口には其左右を扼する高地ありて富の小川其前に横はれり所謂一夫當關萬夫莫開の要害なれども而も富の小川を隔てゝ其左右高地と相鼎峙せる鵄山の邱上より西望すれば谷内遥に「ヒロシバコ」の所在を指目すべし、是れ両軍決戦の當時皇師の占領したまひし攻撃陣地にして長髄彦の軍卒はかの左右両高地に據りて防禦せしものなるべく富の小川は彼我争奪の折衝地点ならずんばあらず、而して鵄山の背後には奈良木津の両地に達する間道あり、即ち皇軍奇襲の進路なるべし、形勝此の如くにして而も「トビ山」の稱あり、誰か復金鵄発祥の史蹟たることを疑はんや。大軌電車の開通せし以来斯の史蹟地遺存を傅聞して、探訪する好古の人士亦少なからず就中大正三年十月十一日大阪探勝わらぢ會員の一隊巡歴ありて建國史上尤も尊重すべき史蹟の荒廃せるを見て慨歎已む能はず遂に石に刻して之を標榜す 題して 「金鶏発祥之処」といふ巡歴者の為め其所在を知るに便ならしめ荒廃せる史蹟保存の趣旨を具現したる功も亦決して没却すべからざるなり。 

 ⑤皇祖東征の御戦略 

  皇祖東征の御戦略を論ぜんには先づ御東征の御詔勅を拝読して当時の御事情を審にするの要あり、日本紀之を録して云く、「遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている」と是れ、我大和に於ける諸賊の所在割據して彼此相和せざることをいふにあらずや則ち兄猾兄磯城等の宇陀磯城に於ける長髄彦の鳥見に於ける皆自ら其強を恃みて互に相応援せず自余の諸賊と亦各々孤立蠹動して声息相通ぜざりしことを知るに足れり、故に長髄彦征伐に於ける金鶏発祥の史蹟は吾鳥見郷に在りと推考すべし日本紀に録して云く「東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と是れ豈御東征の大目的にあらずや、而して饒速日は長髄彦に擁立せられて鳥見白庭山に在り則ち白肩津の上陸は他なし、白庭の西背を御攻撃せられんが為にして草香坂の御敗蹟は御東征戦略の一頓挫なり、今や白庭山の地点を詳にするを得たれば白肩津の如きも亦其所在を推知するに難からず、古事記は之を録して云く「浪速渡(なみはやのわたり)をへて青雲の白肩津(しろかたのつ/現在の東大阪市日下町付近にあった船着場)に船をお停めになった。」と津は古の草香江に在り、今中河内郡枚岡村額田(註大軌額田駅附近)に白水と称する地名あり而して額田は沼潟(ぬがた)の義なれば是れ即ち自肩津の旧地ならん但し青雲なる称呼は其何に由りて起れるかを詳にせず或は枕詞なりとも云へり因て按ずるに浪速海は鹹水(報告者注:かんすい/塩分を含んだ水)にて草香江は淡水なり、即ち御東征の御航路は此時一変せり記文盖し之を録せるならん故に青雲は淡隈の訛称なり日本紀其誤を踏襲して「川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた」といふ即ち青雲の二字贅疣(報告者注:ぜいゆう/無用なもの)と属す、日本紀また御東征の径路を録して「皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした」と所謂る龍田龍間の誤文なり盖し額田より北行東折すれば龍間山あり嶺を踰(こ)ゆれば則地白庭山の西背に達す俗に之を中垣内越と称す而も其坂路は当初狭嶮にして並び行くことを得ざりし状況を想見すべし故に「南還して路を草香坂に転じたまへるなり、草香坂も亦白庭の西背に達する山路にして長髄彦の遊撃は龍間の南還に因りて其冦あることを察せるならん」御東征の御戦略既に頓挫す乃ち徐ろに兵を収めて海路大迂回の策を決せらる日本紀は当初の御聖効を録して「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。」、盖西背正攻の敗に鑑み給ひ東面奇襲の利を悟りたまへるなり、故に宇陀磯城の諸酋を平らぐるや直ちに兵を提げて白庭東面に驀進し長髄彦をして之に備ふるの逞なからしめ給ふ此時に当り波侈丘岬に新城戸畔あり和弭坂下に居勢祝あり臍見長柄丘岬に猪祝あり又高尾張邑に土蜘蛛の在るありて皇軍の進路梗塞して通し難し、其白庭東面に驀進せるは必ずや磯城より山辺添上の山路を迂回して鵄山背後の間道に出で背に日影を負ひて之を奇襲したまひしならん措しい哉国史其径路を載せず今之を考ふるに由なし、「之を要するに皇祖の用兵は神出鬼没にして其御戦略殆んど端倪すべからず、白庭東面に驀進して之を奇襲するが如き強敵長髄彦といへども安んぞ一驚を喫せざらんや然りと雖も彼れ素より自信する所あり其志饒速日を擁立して皇祖と天種の真偽を争はんと欲す寧ろ力屈して死することあるも戦はずして降るものにあらず是其長髄彦たる所以にして皇祖東征の己むべからざる所以も亦茲に存せり」、宇陀磯城に於ける諸酋の如きは則ち然らず自尊自大倨傲にして能く為すことなし、皇祖の眼中彼れ何かあらん故に先づ使を遣はして之を徴し其帰順せざるを見て然る後に征誅す、長髄彦に於ては初より之と鋒を交へて未だ曽て促し微さず彼れ自信する所ありて帰順せざることを知りたまへるを以てなり皇祖東征の目的斯の如くにして長髄彦の自信も亦彼の如くなれば水火相激せざらんことを欲するも得べからず況んや鵄山の攻撃陣地は既に死命を制するをや、則ち窮鼡噬猫に至るは勢の免るべからざる所にして皇軍の連戦不能取勝も亦冝ならずとせず而も機運は既に熟せり金鵄の祥瑞是に於て乎発現し遂に天下を統一したまひしなり嶋呼偉人の出つる処必ず奇蹟之に伴ふものあり況んや皇祖天祐の威霊を以て金鵄の祥瑞を発現する夫れ豈深く異むことを須ひんや後世古事記を偏信するの徒或は日本紀の文飾を疑ひて金鵄発祥の史実を私議するものあり、此の如きは尋常事理を以て垂統の聖徳大業を律せんと欲する管窮蠡測にして上下三千年金甌無缺の国体を萬世無窮に維持すべき国民教育の為に余輩の取る能はざる所なりとす、抑々富の小川の名称は古来歌人詞客の間に流伝す、而して富と鵄と邦訓相通ず則ち亦金鵄発祥の史実を記する美名なるなからんや敢て博雅の考証を埃つ。

 ⑥金鶏発祥の鳥見と霊畤所在の鳥見 

  金鶏発祥の史蹟が生駒郡北倭村に存在すべきは上文既に之を悉せり而も猶一言の補足すべきものおり金鵄発祥の鳥見と霊畤所在の鳥見と両者その地名を一にして考証に至りては箇々特殊の論拠なかるべからざること是なり盖し霊畤所在の鳥見は日本紀巻三に「四年春二月二十三日、詔して『わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい』と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。」と見ゆ而して其所在は明治三十九年宇陀郡榛原町有志者の史蹟顕彰請願に依りて貴族院の採択決議に上り更に明治四十二年、磯城郡桜井町及び城島村有志者の請願に依りて衆議院の採択決議に上れり則ち鳥見霊畤の史蹟は其所在両説ありて未だ俄に是非真偽を甄別すべからざるなり就中磯城の外山(鳥見山)には磐船白山鵄谷榛原等の小字ありて饒速日命の降臨遷座より金鵄発祥の史蹟に至るまで抱括して之を霊畤所在の地域に壟断せんとするものゝ如し、是れ他なし霊畤所在の鳥見と金鵄発祥の鳥見と両者地名を一にして其考証に至りては箇々特殊の論拠なかるべからざる所以を察せず徒らに其地名に眩惑せらるゝの失のみ。請ふ金鵄発祥の記事を熟読して之を鳥見霊舊魚の記事に対照せよ「長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。」といへる数句は分明に金鵄発祥の史蹟が長髄彦割拠の舊地に存在すべきことを限定せるに非ずや則ち鳥見霊畤の記事に「鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。」とのみ見えて其所在を何れの地に属するかを限定せず、之を磯城宇陀の両地に移し用ふるも妨なきの比にあらず、故に金鵄発祥の史蹟は必ず長髄彦割拠の旧土に存在すべくして磯城彦が割拠せし彼地には断じてあるべからざるなり、然るに「金鵄の光」は強弁して云く「書記に此地の元名長髄といひしに金鵄の瑞によりて鵄と改められしが鳥見と訛れりとあり、こは全く誤謬なり」と凡そ史蹟の考証にして而も唯一の典拠を壇に謬錯呼はりし得べくんは其史実を挙げて亦之を塗殺するの妄断にも陥るべし、事理の矛盾此の如く其窮説たるや殆んど掩ふべからざるものあり、而して北倭村地方は長髄彦占拠の旧土なること略々定説あり況んや長髄は長背嶺(ながそね)の転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山と推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし、之を要するに金鵄発祥の鳥見は長髄彦割拠の旧土にして而も長髄の古名に適合する地方ならざるべからず、霊畤所在の鳥見は則ち之と異なり只「上ッ小野榛原」「下ッ小野榛原」の地名に適合して精確なる遺蹟を存すれば可なりとす然りと雖も鳥見霊畤の記事が若し金鵄発祥の記事に「今鳥見と云は是訛也」とある上文を承け来りて高見山中と省筆せるものならんには霊畤所在の地方も亦生駒郡ならざるべからず但吾人は未だ其遺蹟を知る能はず、広く有志学識の考究に委ねて是非真偽の決する所を観んと欲するのみ豈に敢て史蹟壟断の私情を挟みて爾云はんや。

 追補 上ッ小野榛原下ッ小野榛原の地名が鳥見郷になかるべからずと謂ふ考証について生駒郡富雄村大字二名海瀧山王龍寺(黄柴山派禅寺)にある元録年間に書かれたる縁起に前記二名といふは古名にして上ッ小野榛原下ッ小野榛原を略して称したる地名なりといふ、この二名なる所は北倭村大字上に南隣せる村落なるが古の鳥見郷の一部なることは明かなり更に考究を期す。 

 書中の地名について補註 

  ○鳥見白庭山(ひろしばこ)…「饒速日尊は、天神の祖の詔(みことのり)を稟(う)けて天の磐船に乗りて河内の國の河上の峰に天降られた。則(さら)に大倭国の鳥見の白庭山に遷座(せんざ/神が遷ること)された」と「ひろしばこ」と稱するところ「高見白庭山」の碑表あり、生駒郡北倭村大字白谷貳千八百三十八番地仝所二千八百三十九番地ノー及其附近の事也。

  ○髄彦本據之地(おばたけ)…「饒速日尊は、所謂(いわゆる)天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)を翔(かけ)行きて、是(この)郷を巡(めぐ)り天降られ、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の國”と謂(いわれ)るのは、是(これ)歟(なり)。(饒速日尊は)長髓彦の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃と為(な)し、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)を誕生なされた」と「おばたけ」と稱するところに在り二千歩ばかりの田にして臺地をなす生駒郡北倭村大字上字白谷二千七百番地及び其附近の稱にして「長髄彦本據之地」なる碑石あり。

  ○鳥見郷・鵄谷…奈良緜生駒郡北倭村、富雄村の總稱 

  ○トピ山・鵄山…「十有二月(しはす)癸巳(みづのとみ)朔(ついたち)丙申(ひのえさるのひ)<十二月四日>、皇師(みいくさ/皇軍)遂に長髄彦を撃つ。連戰するも取り勝つこと能わず。時に忽然にして天陰りて雨氷(雹<ひょう>)ふる。乃(すなわ)ち、金色の靈(あや)しき鵄有りて、飛び來たり皇弓(みゆみ/天皇の弓)の弭(はず/先)に止まる。其鵄光り曄煜(てりかがや)きて、状(かたち)流電(いなびかり/雷光)の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒(いくさのひとども)、皆迷(まど)い眩(まぎ)えて、復(また)力(きわ)め戰はず(力戦できず)。長髓、是、邑(むら)之本(もと)の號(な/名前)焉(なり)。因りて亦、以て人の名と爲す。皇軍(みいくさ)之鵄の瑞(みつ/吉兆)を得るに及ぶ也。時人(時の人)仍(よ)りて鵄邑と號(なづ)く。今、鳥見(とみ)と云ふは是訛れる也」と「金鵄發祥之處」と刻したる碑石あり。生駒郡北倭村大字上字大町三千五百六十二番地及其附近のことなり。

  ○白谷…生駒郡北倭村大字上字白谷の地にして古來十數軒の小里なり明治時代に鐵道敷設の發達を見るまでは岩船街道と古堤街道の分岐點とて生魚市などありたり。 

  ○富の小川・富雄川…富雄川と稱せられ居るも富の小川の舊稱ゆかし、水源は北倭村大字高山なる黒添池(くろんどいけ)に發し富雄村を經て大和川に合流す。 

  ○天の川…生駒郡北倭村大字南田原なる星森(ほしのもり)の泉に發し磐船谷を流下して幽渓奇勝を形づくり牧野村枚方町の間に至り淀川に合す。

  ○岩船・河上哮峰磐船・石船山…北河内郡岩船村の渓谷天之川の上游にして現時岩船神社あり、天の川の清流巌下を流れ大岩石畳重せり。 

  ○生駒山・瞻駒山・いこまやま…生駒郡中河内郡の境に在り山中、暗越、辻子谷越、善根寺越の通路あり。 

  ○北倭村…生駒郡北部にあり明治二十三年元高山村、上村、田原村鹿畑村を合併して總稱したる村名なり。 

  ○真弓山長弓寺…北倭村大字上にあり。 

  ○真弓塚…仝所字源谷五千八百八十五番地にして長弓寺東方約六丁の丘陵なり。 

  ○檜の窪山・日の窪山…(ひのくぼやま)仝所大字上西部にあり

  ○檜の窪塚(ひのくぼつか)・山伏塚(やまぶしつか)…仝所大字上字平井千八百八十二番地に在り「饒速日命の墳墓」と傅へ今石標を建つまた「やまぬしずか」の訛か。

  ○夫婦塚…仝所字高樋にあり御炊屋姫塚なりといふ 

  ○岩船明神…生駒郡北倭村大字南田原にある住吉神社のことなり 

  ○龍間…北河内郡四條村大字龍間のことにして中垣内越(なかがいと越)を西より登りたる中腹に在る里邑なり。 

  ○沼潟(ぬがた)・額田・ヌノヒガタ…中河内郡枚岡村額田の地を云ふ。

  ○白肩津(しらかたつ)・草香江…中河内郡大戸村大字日下を云う。

  ○をヘ・どへ…生駒郡北倭村大字上字中島二千五百五十八番地二千五百五十九番地と其附近の古き地名なり。をへは尾塀、どへは土塀の意なりといふ。この處富の小川(今の富雄川)を隔てて鵄山に相對す、また古塞ありしという。 

 ~解説~ 

  これは大正十三年頃北倭村に組織された金鵄会の代表者、池田勝太郎氏が長弓寺住職池尾宥祥氏に編輯を依頼してこの地方の鳥見の史跡をまとめたものである。 

  この頃には金鶏の顕揚が郷土にみなぎり、大正三年七月に初版を出してより、同十二月再版、翌年六月三版を出し同じ頃(六月十七日)郷土史研究家森本愛二氏によって同様の研究録を発表されている。藤渾章氏の題字「顕幽」をはじめ、同氏の外に岡村達氏、定井貞氏等による鵄渓懐古の漢詩や、水木要太郎氏や佐伯良謙氏等の和歌によって、盛んに唱えられた事がうかがわれる。続いて昭和十四年六月四版発行となり、戦時中再びこの顕彰が大きくとりあげられたわけで、今に残る顕彰碑も、小なるは前回の時に大なるは後回の時に、打ち立てられたものである。なおこの頃金鵄の発祥の顕彰に努力された郷土史家吉村宇一郎(長慶)氏、藤田利則氏らも長弓寺蔵の沿革記録で散見する。鵄谷に立ち、白谷を尋ね、あたりの地形をながめるとき、かかる神話の作られしことも又奇しき縁かと思われるものがあり、尊皇精神は時に消長あれど郷土の語り草としては残して置きたい思いがする。 

   いにしへをわすれぬ人のありてこそ 其村里もいやさかゆらめ (水木要太郎) 

<資料七>古代社会におけるトビとカリ 

   月刊「日本歴史」第二六一号(<引用者:一九七〇年>二月号)吉川弘文館発行  富来隆      <引用者:全文

 ここにいうトビとカリとは、鳥の名のことではない。記紀・風土記などに多く見られる人名(神名をふくむ)や地名その他の、トビ(卜べ)・カリ(カル・コリ)かはたして何を意味するかを解きあかそうとおもうのである。まず結論から述べよう。トビ(トベ)とは、サカ(ナカ)・ナガラ(ナガオ)とともに「蛇神」をさす呼称である。カリ(カル・コリ)とは、カネの古語であり、おそらく朝解語のKuri(銅の義)にあたるかと思われ、本来的には「銅」を主とする金属を意味しているようである。そしてこのカリ(カル・コリ)の名にまつわりつくように、トビ・ナガラの記述がみえる。両者のあいだに深い関係かあること、また日本の古代社会における両者の重要性、についての知見をすこしく記してみたいとおもう。 

 古事記・日本書紀などに「トビ」・「トベ」のつく人名か多くみられるが、まずは神武天皇と崇神・垂仁天皇の条に集中しているので、そこに注目してみよう。 

 神武天皇が豊後水道からセト内海を東上して浪速にたっし、それより生駒をこえてまさに大和に入ろうとされた。そのとき長髄彦(また登美彦)がこれを迎えうって、天皇はついに大和に入れなかった。そのため南下してまず紀伊の名草にいたって名草戸畔(トベ)なる者を誅し、さらに熊野の荒坂(また丹敷浦)に至って丹敷戸畔を誅された、という。 

 崇神天皇は紀伊の荒河戸畔を妃とし、その女に豊鋤入姫命らか生まれた。六十年秋に出雲の神宝を収めてからのこととして丹波の水香戸辺の小児の託言によって大神を祭らしめたことがみえる。垂仁天皇は山背の刈幡戸辺を娶り、また山背大国不遅の女綺(かむはた)戸辺を後宮に入れたもうた、とみえる。古事記では少しく異なって、ともに山代の大国の淵の女として刈羽田刀辨と弟(おと)刈羽田刀辨とを娶したとされている。注目されるのは、また謎の王とされる日子坐王が山代の荏名津比売<えなつひめ/またの名は刈幡(かりはた)戸辨>を娶されたとみえることであり、この王はまた春日建国勝戸売(とめ)が女の沙本之太闇見戸売を娶って生まれた御子か沙本毘古王・沙本比売命(垂仁天皇の后となる)なのである。沙本比売が天皇を殺さむとして天皇か夢みて「錦色の小蛇が順にまつわりついた」と問われたことは、美和の神が壮夫となって通われたのと並んで「蛇神」伝承の大なるものと考えられることでもある。そしてこの沙本比売の御子か長じても物言われず、出雲大神の崇りであるというので出雲に詣でたか、その帰りに突然くちがきけるようになった。そこで皇子は一夜、肥長(ひなが)姫と婚したか、そのときのぞいてみると大蛇であった、という。肥長姫とは、肥ノ川の長(なが)姫であり、ここには長=ナガ=大蛇神であることをそのまま明示してさえいる。

 トビ・トベ(その変化としてのトミ・トメ)、またナガ(ナカ)・ナガラ(ナガオ)などの蛇神が古代社会に活動する例は他にも多いのであるが、ここにはもっと端的に、トビ=蛇神たることを示す実証をあげてみたい。……(中略ママ)…… 

 上のことは、日本神話や古伝承を理解するうえに重要な基本をなすものということかできる。しかしいまはそのことか本稿の主題ではないので、しばらく措くとしよう。 

 最初に記したように、神武天皇かセト内海を東征して大和に入ろうとされ、生駒の長髄彦(また登美彦)に妨げられて進み得ず紀伊・熊野を迂回されて大和入りをされた、という。そしてついに長髄彦(また登美彦)を討つときが来た。 

 しかし天皇側は、どうしても勝つことかできない。そのときである。忽ちにし氷雨がふりはじめ、はるかに「金色の霊鵄(トビ)飛び来って天皇の弓の弭(はず)にとまった。その鵄の光かかやいて流電のごとく、長髄彦(登美彦)の軍兵は眼がくらんでしまって戦えなくなった。いま鳥見村というのは、鵄の村というのか訛ったのだ、と記されている。

 上の文の真意はじつは次のごとくだろう。すなわち、金色の鵄は、本来は長髄彦(また登美彦)の側のトーテム(神)ではなかったか。登美彦の登美(トミ・トビ)と、鵄(トビ)と通ずるようである。そしてこれは生駒の「山ノ神」であり、霊蛇神であったものであろう。さきの『宇佐宮託宣集』に八幡神の発現の記事としてみられた「霊蛇、化鳥」の図式すなわち「金色の蛇(トビ)→金色の鳥(トビ)」が、まさにその原型をとどめる形でここに神武東征に明示されたものではないかと思われる。 

 さらに蛇神の呼称は数多くあり、トビ(トベ)・ナガ(ナガラ)のほかヤアタ(ヤワタ)・ミワ(ミイ)などが、後世になって混在したことも考えられる。長髄彦の名も、スネが長いというのが本来ではなくて、長=ナガ=蛇神の呼称であり、したがって古事記の登美彦(トミ・トビ)の名のほうか原型であったとおもわれる。妹をトミヤ姫とするのかその一証である。それが、トビもナガも、ともに蛇神の呼称であったゆえに混淆したのではなかろうか。それはとも角として、「金の鵄」にかかる伝承の真意は「霊蛇、化鳥(トビ)」という原型をのこしたものとして解されるべきであろうとおもう。そしてこの地から南流する川を[富雄(とみのお)川]とよぶ。この「トミノオ」の名称は、さきの豊後佐伯の「富之尾宮」と同義であろう。そしてまた、トミノオの地名はこの他にも諸所にみられるのであり、その最も著名なものの一として、近江の犬上郡にある「富之尾」の古伝承がある。犬上川の源流ちかくであり、富之尾の大滝山に犬上明神あり、深々と繁る林は夏なお

涼しく、くわえて眼下に清流の岩をかむを見るか、その巨岩かじつは石灰岩(あるいは石英岩か)の岩床らしく、それか水沫によって巨獣の白骨をながめるような寒々とした気分におそわれる。はたしてその為めかどうかは分らないが、ここに次のような伝説かある。すなわち「三国伝記」(「大日本地名辞書」所収)によると。 

 「昔ある猟師がいた。小自丸という犬をつれ、山に入ったが、その夜は大木の下で休んだ。深更におよび、犬がしきりに飛上り飛びかかって吠える。猟師がいくら叱っても吠いがむ。ついに猟師か怒って剣をぬき、小自丸の首を打落してしまった。ところがその首が飛び上り、朽木の大木から大蛇か下って口をひらき、猟師を呑まんとしかかるノドブエにしかと噛付いた。これによって猟師大いに感じ入り、悔いたるも詮なく、神祠を営んで犬の神と崇む。いまの犬神明神の社がそれである。犬上=犬神であり、富之尾=蛇之尾からする地名・社祠とその伝承であろう。 

 岡山県東部の長船町南に「富之尾」と三輪社があり、山中部に「富」・「富之尾」かあり、いずれも伝承・社祠(祭杞)が存している。 

 トビ・トベの名が、じつは蛇神の呼称であり、それだけに伝承・憑きもの(タタリ)とも交渉ふかく、また神託などの奇瑞を示すことも多く関わっているのであろう。神武朝および崇神・垂仁朝に集中し、なお他にも多くみられるトビ・トベの名(また神名)は、これを上のように(蛇神として)解するとき、まことにスムースに問題が解明されるのではなかろうか。 

 つぎにカリ(コリ・カル)について、同時にカリとトビ・ナガラとの密なる関係についで、少しく記してみたい。 

 神武天皇か紀伊・熊野を迂回して吉野に入ったとき、井の中より「光りて、尾有る」人が出てきたとされている。その名を井光(また氷鹿)とされ、いかにも光ることに重点がおかれているようにもみえる。しかし井ヒカリはじつはイカリの宛て字だったのではないだろうか。越前にも一光(イカリ)の地名かある。これらについて、松田寿男教授は、「丹生」の研究によってイカリの水銀朱のことであり、井中に光るのは水銀鉱のことであって、尾ある人とは採鉱夫のことであろう、と言われている。井・光のそれぞれの字のことは別として、少なくとも井光はイカリと呼ばれるのであり、したがっていま碇(いかり)村・碇谷など記されているのである(『大和地名辞典』による)。そしてイカリのような地名は奥州から九州にいたるまで、全国到るところに数多く残っている。私の住む大分市にも碇山・曲(マガリ)の地名か隣接し、ここは神武天皇か東征のときに碇をおろしたという伝説かある。福岡県田川郡の香原(カワル)銅山の地には、伊加利・勾金(マガリカネ)が隣接し、すぐ北に曲(マガリ)・鏡山村が隣接している。ここ伊加利にも「神功皇后か征韓のときに、船のイカリを作った」という伝説かのこっている。これはイカリ→碇(宛て字)からの伝説であろう。さきのイカリ→井光(宛て字)からの伝承とも似ていよう。

 それはさて、イカリとマガリと近接してみられること。マガリのマがあるいは真→(マ)であるとすれば、マカリとは真銅のことになるのだろうか。とすればイカリのイとは何を意味するのだろうか。それについてはさらに考えてみたいが、ここ香原(カワル)は古来から有名な銅山である。そして宇佐官の行幸会には、ここの銅をもって三枚一組(あるいは六枚一組)の「銅鏡」を奉る儀式がある(『豊前志』による)。曲・鏡山の村名はこのひとを示してもいるのであろう。また香原=カワルとは、おそらくカルの宛て字であろうし、あるいは軽を宛て字の地名も多い。そしてカルとはカリ・コリと同義の変化であることは間違いない。さらにまた、この香原採銅所から東して豊前海岸の刈田までの道々には、やたらとトピ・ナガ(ナガラ)のつく地名か密集して蛇神族との深い関係もしのばれる。 

 カリ(コリ・カル)が本来的には「銅」を意味するとおもわれるのだが、それをよく示す物語りが日本神話のうちにある。それは天ノ岩戸の段で、岩戸隠れをされた天照大神を引出さんために鏡・玉をかけ、天鈿(うずめ)女命が神憑りして俳優(わざおぎ)した一条の物語りである。このとき、「鏡」を作られたイシコリトベ命にかかる段のことである。これについては古事記および書紀(本文ならびに各一書)に出入するところかあり、なかなか真実を明らかにし得ないようにみえるが、じつは古語拾遺にみえる一文がもっとも真相を伝えているように思われる。

 それはとも角として、イシコリトペ(あるいはイシコリドメ)ノミコトをして八咫鏡を作らしめたらしいことは明らかである。この名前のイシコリトベ(またトメ)のコリが銅を意味するのであり、トベが蛇神を意味するのである。 

 豊前の香原銅山にカリの地名か多く、そして道々にトビ(およびナガ)の地名も多くみられるのと比べあわせて、宜なるかなとおもわせる。 

 いま一つある。それは垂仁天皇の妃となった羽田刀辨の名である。カリ・ハタ・トベもやはりカリが銅の義であり、トベが蛇神の義なのではないか。カリハタの名から、蟹満寺(カニマンジ)の縁起か生れたとしても、カリ→カニの変化はすなおに認めることが出来ても、何故にカニと大蛇の死闘がなされねばならないかの説明はできにくい。カリ・ハタ・トベ=蛇神の義であることが分れば、上の縁起譚はスムースに説明がなされよう。それはさておき、この地の大塚山古墳がこの姫のものではないかとの推定もまた肯付けようというものである。すなわち、小林行雄氏のいわゆる。“同范鏡”なる銅鏡を三十数枚も出土した大塚山古墳こそは、カリ(銅)・ハタ・トベ(蛇神)の姫のものとするに相応わしいと考えられるからである。……(中略ママ)…… 

 その意味で、まず奈良平野に目をむけると、南端の橿原市ちかく、その西に「曲(まがり)川」の地あり(曲庄)、そこに金橋駅がある。あるいは豊前・香原の曲(まがり)や勾金(まがりがね)、また大分平野の曲(まがり)などと同じであろう。また橿原南のウネビ山をめぐって、軽古・軽ノ池・大軽などの地名があり、その東には「天ノ香山」が存するのである。軽・香・刈などの字が、カリの宛て字として用いられたことも多いのではないだろうか。

 さて「金ノ鵄」で名高い鵄山から南流する「富雄川」が大和川に合流する地に、法隆寺・竜田神社などがある。イカルガ寺・イカル僧・イカルガ里とよばれるイカルの、カルというのか注目されよう。そしてこの地に郷村の名がみえ、また竜田社の所在は那珂郷であって、シナトベ命を祀っている。この付近にも、トビ・ナガとカルとの関連性か想見される。 

 カリ(カル・コリ)が、カネの古語であり、本来的には「銅」の義であってみれば、地名だけではなくて件名や伝承にも、また人名(神名をふくむ)にも数多く存することからして、日本古代社会における「銅」文化かあらためて再認識されるに至るとおもわれる。それにトビ・ナガラの蛇神が関連することは、ミワの神やヤマタノオロチなどか「鉄」の文化と関連して神話や古伝承に注目されるのと匹敵するものかあるのではないか。そして「鉄」文化か主として武器として尊重されたのに対して、「銅」文化は主として祭祀具として尊重され、蛇神(神憑り)と関連がことに強かったのでもあろう。そのことからすると、吉備ならびに美作の「中山」かじつは那賀(ナカ)山・ナガラ嶽の宛て字であることも思いあわせ、またトビ(トミ)とナガ(ナカ)とが一緒になった「富永」やその逆の「中富」かあることを考え、藤原氏の遠祖「中臣(この2字に傍点)氏」が祭祀を司る氏族として知られた所以も、じつは「ナカ・トミ」=ナガ・トビであり、両つの蛇神氏族の勢力を統合支配したことにあるのではないかとも推察してみたい。 

 蛇神族と「銅」文化、それが日本古代社会にトビ・ナガ(ナガラ)とカリ(カル)という名称で示されているものであろう。                                            (大分大学教授) 

 ~解説~ 

  これは大分大学教授富来隆氏の研究で「とび」、「とべ」は蛇神を意味し、「かり」は銅を意味し、共に青銅器時代の民俗の敬神思想と武力の変遷をうかがうことが出来る。人類は地質時代に於いて、すでに爬虫類の全盛期に之に驚異をもち、之を崇拝した姿が読みとれる原住民族(長髄彦)等を支配した銅器文明の支持者(饒速日命)もやがて鉄器によって、更に強く武装した民族(天孫民族)の征服にあって消えて行った。民族の活動興亡を考えるのによい資料である。この地に早くから強烈な先住民族が活動したことが「トベ」、「ナガ」、「カリ」、「コリ」、「カル」等の地名に残している。古代史をこうした言語から解明しようとする研究は又珍らしい考察であるので紹介することにした。 

 因みに生駒谷には蛇神や龍に関係ある地名も多く竜田、竜間、九頭竜(九頭神、葛上)蛇食等の地名の起頭や、八大龍王等を祀る祠が所々の渓流の上(水源池)にあったのも意味深く後生の水田耕作にも重要な関連をもっているものである。 

Ⅱ 第二巻 資料編<抜粋なし> 

Ⅲ 第三巻 資料編 

○郷土の日記類 

 一貫日記※ 

 昭八、十、二十九  

   白庭山、鳥見の白庭山 なつかしき国栖人※きたり大神の みかどのおん前に舞う 

 如何にもなつかしい相の出る所だ、青い松林を彩る雑木を背景にして薄(すすき)のほほけた台地はこれぞ白庭山である。饒速日命、可炊屋媛(カシキヤヒメ)とここに天孫民族と豪族の娘との愛(いと)しい桃源の夢を貪られた土地と懐(おも)うにつけても山川草木に昔語りの風手が偲ばれる。みずら※の宮人、白衣の天孫、これをとりまく群像が眼の中に映じる。白庭山は私には未だ見ぬ恋人を追うなつかしさとあこがれがある。

 ※引用者注 

  ・一貫さんは、生駒の学校で教員をしていた方です。 

  ・国栖人:日本書紀(応神天皇19年)には「国栖人(クズビト)」が、万葉集第 10巻の相聞歌には「国栖ら(クニスラ)」という言葉が出てくる個所があります。どちらも同じく大和国家以前の山地に住んでいた人々に与えられた呼び方であったようです。国栖人は主に岩穴に住んでおり、非稲作民で、独特生活様式を身に付けたいわゆる「山人」の象徴的な呼称であったと考えられています。国栖の名は都の人々にも良く知られており、9月9日の重陽の節句に吉野の国栖人が古風の歌舞を奏したといわれております。国栖人はつる草の根から澱粉をとり、里に出て売ることがあったので、いつしかその澱粉を「クズ」と呼ぶようになり、その植物を「クズ」と呼ぶようになったと考えられています(天極堂さんのHPより)。

  ・角髪(みずら):日本の上古における貴族男性の髪型。中国の影響で成人が冠をかぶるようになった後は少年にのみ結われ、幕末頃まで一部で結われた。美豆良(みずら)、総角(あげまき)とも。このHP.mhtで絵図が参照できます。 

○郷土の文芸 

 二暗がりの道の句とふみ 一 芭蕉と暗越奈良街道
  生駒山越の峠道は数多くあって、北から順にみると清滝越・越中垣内・竜(龍)間越・八丁門越・善根寺越・日下越・逗子越・暗越・鳴川越・十三越・信貴越・立石越となっている。上鳥見越(岩船越)もある。竜(龍)間越か逗子越を生駒直越という

Ⅳ 第四巻 資料編 

○生駒市の概要 

三 小史 1 生駒のはじまりと神話 

 生駒の地に人類が住みついた時期や「いこま」の地名の由来などについては、史的には明らかにし難く、推測にすぎないが、生駒地方に残されている伝説、神話などから考えてみることにする。 

 南地区萩原の地にある小平尾遺跡から発掘された土器の断片遺物は、後期縄文期のものと推定されるので、この生駒地方には、少なくとも、三千年ぐらい前には、すでに人類が住みついていたことと思われる。これらの人類は、おそらく朝鮮方面から移ってきた北方大陸系の民族かと思われる。彼らは生駒山麓で狩猟生活を営んでいたが、生駒山の高原の姿を眺めては、ふるさとの言葉で「こま」とよんでいた。この「こま」に後の人が接頭語の「い」をつけて「いこま」とよぶようになり、「いこま」の地名がはじまったことと思われる。 

 「いこま」という名は、古い書物には、伊古麻、射駒、瞻駒、往馬、生馬などの字で、山名、神社、寺院名、人名などに記されてきた。これらが次第に、この付近のよび名となり、後には、郡名、市町村名となり、「生駒」の宇が用いられるに至ったと思われる。 

     引用者 : 「生駒」の語源・由来もご参照ください。

 北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。その昔、神武天皇が九州の日向から大和地方に東征されたと際、この地の豪族長髄彦が、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を奉じててむかった。その時に金の鵄が飛来して、天皇の弓にとまり、長髄彦の目をくらましたので長髄彦の軍は敗北して。東征の偉業がとげられた。この神話の舞台として上町には、白庭山、鵄山などの地名が残っている。

○社寺・文化財 

二神社 伝説 

  おまつの宮の伝説 盤船神社との因縁 

   石上神宮(官幣大社)の十種の大祓祝詞に「天照国照彦大火明櫛玉饒遠日尊天磐船に乗りで、河内国河上哮峰に天降座して」とあり、この住吉神社の北三km天の川に巨岩を御神体とした磐船神社が鎮座し、饒速日尊を奉祀している。

Ⅴ 第五巻 通史・地誌編 

○通史篇 

第一章 伝承の生駒 

1 生駒のはじまりと神います生駒山 

 生駒の象徴である生駒山は昔から大和・山城・河内・和泉・摂津の五ヶ国即ち五畿内をすべて眺める位置にあって、六四二mの中山性であるが、「神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく」と慕われ尊ばれてきた名山である。今は聖天像をまつる宝山寺で、夏は山頂に涼を求めて賑わうが、古代の人びとは神聖な神います山として山の姿に心ひかれ、山そのものを信仰してきた。東からの山麓には生駒神社が、その正姿に接する如く、産土(うぶすな)の神として創設された。南には伊古麻山口神社、西には枚岡神社、北には岩船神社があって、夫々の入口を扼し、これを取りまくように、矢田山脈、学園丘陵がある。神奈備(または甘奈備)の山の名さながらこれ等の丘陵の南端や北端を今もそう呼ばれ、万葉の歌を多く宿している。〔西麓の石切剣箭神社も古くは大戸村神並の地に創設された。〕この地方一帯は、「たゝみごも平群の山なみ」であり、大和の国のまほろばたゝなづく青垣山の一部をなし、うるわし大和の一翼を担っている地域とも言えよう。 

 大化年中私領を収め、那珂・飽波・平群・夜麻・坂門・額田の六郷をあつめて平群一郡とし、大和十五郡の一となったとある。この地方は夜麻(ヤマ)ある如くまだ一面の山々がたなびき、大和国中の外周を意味する外山(とびやま)郷で桜井地方の東の外山郷に対して大和盆地の西北の外郭にあたっていた。辺国(へぐに)に続く西の隈(「いくま」)の位置にも当たる。一部は野鳥の多く棲む鳥見谷となり、斑鳩から鷹山に続く原野であった。中心部の生駒谷は、まんぐわ淵(曲ケ淵の意か)の峡谷をけずって生駒盆地の湖水を漸く涸らし、天の川も岩船の険を浸食して田原盆地を作っていた頃、その両側の洪積台地※には狩猟生活者の好箇の拠点となり、小平尾遺跡や芋山遺物には縄紋後期から弥生初期の生活の跡がうかがわれる。ごく少量であるが、山麓の菜畑や有里や田原などで、サヌカイトなどで作った矢尻や磨製石器も発見されている。昭和五十九年七月の上町調査に出土したサヌカイト石鏃※もその一例である。しかし河内交野の石器や佐保佐紀さては大和盆地東山の出土遺物の如く、多量に旧石器の分布していないことは、古代人がまだ生活しにくい地域でもあった。

 そこには樫(カシ)椎(シイ)椣(シデ)櫟(クヌギ)萩などの温暖性の森林※茂り、中でも南部は昼尚暗い密林の暗峠や榁木峠櫟峠など、さては、萩原・櫟原・椣原・椹原などの地名でうかがわれる原生林相の原もあった。麓には、いくみ竹・たしみ竹の古歌にある竹藪も茂り、鹿、猪、熊の野獣や鷹・鵄・鳩などの野鳥も多く棲んでいた。この地方の所々に現れている岩倉、稲倉、磐座、磐船・般若窟などの巨岩露出に起因する自然崇拝も古代人の中に芽生えてきたことであろう。多くの爬虫類も棲み、これに因んで竜神や蛇神も恐れながら信仰する自然信仰も芽生えて、龍間・龍田・蛇食などの地名を生む契機となったであろう。

 その中にあって一きわ高い生駒山はゆるやかな高原を意味する「コマ」に接頭語の「い」がついた地名で、朝鮮文化のもつ出雲系の人々の移入を物語り、射駒、伊馬、行馬、生馬などと書かれ、時代によって多方面の伝承を作ってきた。中でも肝心・要所を意味する瞻駒は日本書紀など古書によく使われた。そのような先入者の棟梁として、この地に早くから割拠した長髄彦は鳥見彦※ともいい、鳥見谷地方に根拠をもち「長層根の丘に住む人」として大陸系統の大男であったらしく、真弓・矢田などの地に弓矢の使い手として君臨していた部族の代表者であって広く大和盆地にまでその勢力を伸ばしていたようである。この地方の神社の祭神には素戔嗚命や八王子の神、午頭天王等出雲系の神々を祀るのはその影響である。続いて日向系の先発隊である饒速日命が長髄彦を従えてこの地方に君臨したという伝承の歴史も生まれ、これを祭神とする神社も多い。・・・・・。 

  ※石鏃(せきぞく):道具・武器の一種。石を材料として作られた鏃(やじり/矢尻・矢先)。矢の先端に紐などで固定させて用いる、刺突用の小型の石器。

  ※洪積台地:三角州・扇状地・海岸平野などが隆起してやや浸食されると台地状の地形が形成される。日本ではこの台地を作る堆積物が洪積世(現在は更新世という/いわゆる氷河時代)のものであるため特に洪積台地と呼ぶ。 

  ※樫椎などの常緑広葉樹を主体とする温暖性の森林を照葉樹林という。 

  ※彦:「日子」の意で、男子の美称。 

2 二つの古墳とそれをめぐる伝承 

 この地方は隣の平群谷に多くの古墳を持つにも拘らず数少なく、目ぼしいもの二基であるが、四世紀に築かれた古墳前期で、大和の六千余の古墳中でも一割しかない内に入り、平群の六世紀の古墳とは時代を異にしているのに存在の意味が大きい。その一つは竹林寺古墳で、生駒山麓、有里にあり、その構造は前方後円墳である。・・・・・。 

 次に北倭地区真弓団地の東端にある真弓塚である。これは古来長弓寺境の東端に位置し、弓塚ともいう。東西に長く穹窿(引用者:きゅうりゅう/弓なりをなす意)にして墳〇(引用者:○は手偏に龍の漢字/墳〇は、フンロウと読み、土を盛り上げた丘のこと)の如く、奈良市左紀丘陵に接するもので、広い意味での奈良山古墳群の延長とも考えられるが、円墳形式の古い点に於いてこれ等の古墳群と時期を画する古い処に一特色がある。 

 生駒にはこの外見るべき整った古墳はないが、古墳があったと思われるものは丘陵の端々にある。・・・・・富雄谷では上町高樋の夫婦塚や桧窪(ひのくぼ)山の山伏塚(饒速日命の墓の伝承地)などもその候補といえよう。これ等の古墳はまだ発達の早期で、簡単なものとして破壊されたであろう。

 これ等の古墳にまつわる伝承は合わせて収録して史実としては承服し難いとしても後世色々な研究に対する栞としたい。中でも生駒地方に伝わる二つの神話的な伝承は興味あるものである。その一つは真弓塚に関連する金鵄伝承や、この地の豪族小野氏に伝わる白鳥伝承や、聖徳太子の事蹟に拘る春日皇子の援助など、いづれもこの地の地名「真弓」に共通する点がある。その弓を埋めた塚か、その人の墳墓であるらしい。まず戦前には史実とされていた饒速日命と神日本盤余彦命(かむやまといわれひこのみこと)について考えて見よう。聖徳太子蘇我馬子によって選修されたという旧事記に「天祖、天璽瑞宝十種を饒速日命に授く、命は天祖の詔をうけて、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)より先に河内の河上の哮峰(たけるがみね)に降臨され、鳥見白庭に遷(うつ)り、土酋の長髄彦におされて、其妹、登美弥比女(とみやひめ)(一名御炊屋姫<みかしきやひめ>)を妻り、味間見命(うましまみのみこと/宇麻志麻治命<うましまみちのみこと>)を生み、薨(こう)じ給う(お亡くなりになる)に及び夢のおつげにより、其遺物の羽々弓・羽々矢と神衣帯手貫(かむみそ、おびだまき)の三物をこの墓に埋めて弓塚とした。」と書かれていた。・・・・・この白庭の遺跡については延喜式にある添下郡登美神社(富雄村石木の村社)付近をあてる説もあるが、長弓寺の境内にある伊弉諾(いざなぎ)神社とする向もある。即ち大宮を牛頭天王、若宮を八王子とするのは、この饒速日命、宇麻志麻治命をいうもので、物部氏の祖として寺家三郷(上中下の鳥見)によって長く祀られてきた。大正の頃池尾宥祥氏によって詳細に検討されて、この白庭皇居は上村白谷の地(現在は上町)その前方を長髄彦の本拠とする石の標柱が立てられた。従ってこれに直面する芝山田の山端を鵄山と呼び、金鵄発祥の地と考えられた。

 一方、富雄地区の人は王龍寺境内の鵄神社をもって之とし上村高樋にある夫婦塚をもって長髄彦の本拠とも考えられたようで、昭和十六年にはその中間地の富雄北倭の境界近く金鵄発祥顕彰碑が設立された。今に残る、尾塀、土塀、勝尾坂などの地名と共に神武攻略の決戦場は様々と想像されて、この地の昔語りとなり、伝承の夢をふくらましている。 

 ・・・・・・。 

 思うに真弓塚は饒速口命にかゝる最も古き弓塚、その前に式内登美神社の前身、牛頭天王社(大宮)と八王子社(若宮)が設けられ、その神宮寺としての長弓寺が天平の頃鷹狩を機に造営し藤原良継が伽監を興復して盛大となった。その後養和の時(鎌倉期)焼失、弘安四年現今の本堂が再建されて重要文化財として美観を呈している。・・・・・・。 

  ※天祖:天皇の祖先。皇祖。あまつみおや。一般には天照大神(あまてらすおおみかみ)をさすが、古くは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をさしたこともある。その他天照大神から鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)までをいうこともある。

第二章 上古の人々 

1 生駒をめぐる悲運の皇子達 

 5世紀ともなれば大和盆地の中央部には水田耕作による経済的基盤を確保した大和朝廷が成立発展し、層布の一部(富雄谷)と平群の一部(生駒谷)にも文化は小野氏平群氏によって徐々に入りこんできた。富雄谷では、富める小川の意味を持つように、春日皇子の子小野妹子、その養子毛人、その孫富人などは農民の督励につとめ、薬師如来の加護にたよって水源水利を大切にする努力を惜しまなかった。妹子は聖徳太子の命によって遣隋使となって大陸との修好に力を致し、子孫毛人大臣鼻高大臣と云われ、上宮(斑鳩宮)の後裔畑の大夫(弓削王)など進んだ経営がなされ、宝来(注:現在の谷田町に宝来垣内をつくった)、畑(注:畑とは菜畑・西畑・鹿畑などの初期の開拓地をいう)などの地名にふさわしく大陸文化の導入や土師器の製作などでこの地の開発に先鞭をつけた。・・・・・・。

第三章 中世の社会 

2 山岳宗教と龍王塚 

 ・・・・・富雄川の水源はくろんど池の南側の竜王山である・・・・・。 

 天ノ川の水源はお松の宮の南側竜ヶ淵・・・・・。 

 鹿畑では素盞鳴神社の末社に竜王神社があって、鹿の足跡のある石を祀って、この地の由来を思わせている。 

 素盞鳴神社の祭神牛頭天王〔ごずてんのう/神仏習合においては素盞鳴命)とは出雲系の神であって、農業の神として祭られたのも平安期に入ってからで、やがて各地の神社に合わせ祀られ、「おこない」の行事といって、苗代の発芽を祈念し、牛玉(ごうさん)という神符を農民に渡して苗代に祀らせた。・・・・・。

 今一つ山岳信仰に似た八王子社の信仰がある。八王子とは素盞鳴命の王子と云い、出雲の神として移り、能野権現におさまり、本宮新宮那智の三山に詣る風習は平安 期に藤原貴族の間から盛んになった。その道中長谷とか高野に立ち寄る事もあって、生駒谷、富雄谷の南北交通も利用された。傍示に入る峡崖道もその一つで、氷室山の山頂に八王子社があって、嘗てはその近くで自然氷を切り出していたのでその名あり、熊野まで九十九ヶ所もあったとか・・・・・。 

○地誌篇 

(四)鹿畑地区 

 素盞嗚神社:祭神は素戔嗚命(スサノオノミコト)。若宮※は大国主命、末社は大己貴命(オオナムチノミコト/素戔嗚命の六代後の子孫)と古代神の一族を祀っている。境内には、天照大神・春日大明神・八幡大明神の三社の外、火の神・水の神・道の神が祭られている。尚、境外には、村の要所に、八王子社と龍王・西ケ峰・三・上のかいの四天王社の五社があって、境外神として祀られている。尚、神井(みい/水垢離場)・賽の神の祭祀場も残されている。文献による社殿の建立の記録は、四百年以降であるが土産神(うぶすながみ)としての祭祀は、鹿畑に村ができた時からであろう。

  ※若宮:本宮の祭神の子(御子神)をまつった神社。 

  ※土産神:生まれた土地を領有・守護する神。あるいは本貫(先祖の発祥地)に祀られている神。 

(五)上地区 

 伊弉諾(イザナギ)神社(上町古川)の杵築(きづき)社の祭神は素戔嗚命(スサノオノミコト)。天忍穂耳(アメノオシホミ)神社(上町)の祭神は天忍穂耳命(アメノオシホミミコト)

「坂」

「坂」の中には、2つの異なる世界の境界(2つの異なる世界を結ぶもの)となっているものがあります。例えば、次のようなもの。

 ①日本神話の黄泉比良坂よもつひらさかは生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉よみ)との境界。

 ②ブラタモリ「#69京都・清水寺」(17.4.8)の中で、タモリさん「坂っていうのは傾斜のある場所っていうだけでなくて境目っていう意味もある。(清水坂の場合は、)この世とあの世の境」と発言(ご参照.pdf )。

 ③「千と千尋の神かくし」の冒シーンの千尋とその両親が車で登る坂は地上の世界(この世)と異界を結ぶ境界。

 ④アニメ映画「君の名は。」の最後のシーンも坂です。この坂の上は、三葉が生きる時間が流れている世界、下は瀧が生きる時間が流れている世界、坂さか(境さかい)の途中で2人は出会い、互いに「君の名は。」と「求魂」し、2人の魂が合体することを示唆して物語は終わりました。最後のシーンは坂でなければならなかったのです。

 ⑤長弓寺国宝金堂の裏から真弓1丁目に至るイザナギ坂・真弓坂は旧世界(富雄川流域の平地の歴史ある町)と新世界(真弓~北大和の新興住宅地)の境界(ご参照)。

 参考書籍:「京都の坂

 

各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」

(1)饒速日尊、葦原の中国に降臨す(『先代旧事本紀』より) 

天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。

 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。

 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。

 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。

 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。

 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」

 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

 天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連(おわりのむらじ)らの祖。天鈿売命(あまのうずめのみこと)猿女君(さるめのきみ)らの祖。天太玉命(あまのふとたまのみこと)忌部首(いむべのおびと)らの祖。天児屋命(あまのこやねのみこと)中臣連(なかとみむらじ)らの祖。天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。天道根命(あまのみちねのみこと)川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。天神玉命(あまのかむたまのみこと)三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。天椹野命(あまのくぬのみこと)中跡直(なかとのあたい)らの祖。天糠戸命(あまのぬかとのみこと)鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。天明玉命(あまのあかるたまのみこと)玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。天牟良雲命(あまのむらくものみこと)度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。天背男命(あまのせおのみこと)山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。天御陰命(あまのみかげのみこと)凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。天造日女命(あまのつくりひめのみこと)阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。天世平命(あまのよむけのみこと)久我直(くがのあたい)らの祖。天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。天背斗女命(あまのせとめのみこと)尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)間人連(はしひとのむらじ)らの祖。天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。天三降命(あまのみくだりのみこと)豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。天日神命(あまのひのかみのみこと)対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。乳速日命(ちはやひのみこと)広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。八坂彦命(やさかひこのみこと)伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。伊佐布魂命(いさふたまのみこと)倭文連(しどりのむらじ)らの祖。伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。活玉命(いくたまのみこと)新田部直(にいたべのあたい)の祖。少彦根命(すくなひこねのみこと)鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。事湯彦命(ことゆつひこのみこと)取尾連(とりおのむらじ)らの祖。八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。天下春命(あまのしたはるのみこと)武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。月神命(つきのかみのみこと)壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。

 また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。

 物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。

 五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。

 二田造(ふただのみやつこ)。大庭造(おおばのみやつこ)。舎人造(とねりのみやつこ)。勇蘇造(ゆそのみやつこ)。坂戸造(さかとのみやつこ)。

 天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

 二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

 船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。

 船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)。

船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)。

 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日尊は亡くなられた。その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)に仰せになった。「私の神の御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。だから、お前は天降って復命するように」このようにご命命になった。速飄神は勅を受けて天降り、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで、天に帰りのぼって復命して申しあげた。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄の神を遣わし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれた。そして天上で葬った。

饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。

 これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば味間見命(うましまみのみこと)と名づけなさい。もし女子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけなさい」産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。

 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。

 饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。

宇摩志麻治命

 天香語山命の弟、宇摩志麻治命。または味間見命といい、または可美真手命(うましまでのみこと)という。

 天孫天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊は、天下を治めようと思われて、軍をおこして東征されたが、所々にご命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中つ国の豪族・長髄彦は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴し、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、「天神の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない」といい、ついに兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍は連戦したが、勝つ事ができなかった。

 このとき、宇摩志麻治命は伯父の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。そうして衆を率いて帰順した。

 天孫は、宇摩志麻治命に仰せになった。「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」

 そして特にほめたたえ、神剣を与えることで、その大きな勲功にお応えになった。この神剣は、韴霊(ふつのみたま)剣、またの名は布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神というのがこれである。

 また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊にお授けになった天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれて、さらに寵愛を増された。また、宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて国内を平定して復命した。

 天孫磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮殿を造られた。辛酉年の一月一日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位につかれた。この年を、天皇の治世元年とする。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。

 宇摩志麻治命がまず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾を立てて斎き祭った。五十櫛という、または斎木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。そうして、天つしるしの瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。「殿内の近くに侍りなさい」(近く殿の内に宿せよ〈すくせよ〉)そのためこれを足尼(すくね)と名づけた。足尼という号は、ここから始まった。

 高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率い、天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。天児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申しあげた。宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾を立てて厳かでいかめしい様子をつくった。道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なことを伝えられた。

 ときに、皇子・大夫たちは、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。このように都を建てて即位され、年の初めに儀式をするのは、共にこのときから始まった。

 宇摩志麻治命は十一月一日の庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこのときに始まった。天皇は宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の亡父の饒速日尊が天から授けられてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りとせよ」いわゆる“御鎮祭”がこれである。

 およそ、その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と大きな声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことをいう。

 治世二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」

 この日、物部連らの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は、ともに食国の政事を行う大夫に任じられた。その天日方奇日方命は、皇后の兄である。食国の政事を行う大夫とは、今でいう大連・大臣にあたる。

 そうして宇摩志麻治命は、天つしるしの瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、石上の大神をお祀りした。詳しくは以下に述べる。

(2)瓊々杵尊降臨(『先代旧事本紀』より) 

天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)は天降って、筑紫の日向の襲の槵触二上峯にいらっしゃった。

ウガヤフキアエズノミコト誕生

 (略)彦波瀲武鸕草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、天孫・彦火々出見尊[また火折尊ともいう]の第三子である。母を豊玉姫命という。海神の上の娘である。豊玉姫命の妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)を立てて皇妃とされた。すなわち、海神の下の娘で、鸕鷀草葺不合尊の叔母にあたる。四人の御子をお生みになった。子の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)[賊の矢にあたって亡くなった]。次に、稲飯命(いなひのみこと)[海に没して鋤持神となった]。次に、三毛野命(みけいりぬのみこと)[常世の郷に行かれた]。次に、磐余彦命(いわれひこのみこと)。

(3)イワレヒコの東征出発(『日本書紀』より)

 神日本磐余彦天皇の諱(ただのみな/実名)は、彦火火出見(ホホデミ)という。鸕が草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は王依姫といい、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の二番目の娘である。天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。成長されて、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶とって妃とされた。手研耳命(たぎしのみこと)を生まれた。四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、「昔、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天照大神が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を、祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた、塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと『東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天・の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳(たいさい/12年の周期で巡行する木星の異名)の甲寅(きのえとら)である。

 その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向われた。速吸之門(はやすいなと/豊予海峡)においでになると、一人の漁人(あま)が小舟に乗ってやってきた。天皇は呼びよせてお尋ねになり、「お前は誰か」といわれた。答えて「私は土着の神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦に釣りにきており、天神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」という。また尋ねていわれる。「お前は私のために道案内をしてくれるか」と。「御案内しましょう」という。

 天皇は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差出し、つかまらせて舟の中に引き入れ、水先案内とされた。そこで特に名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直(やまとのあたい)らの先祖である。筑紫の国の宇佐についた。すると宇佐の国造の先祖で宇佐津彦(うさつひこ)・宇佐津姫(うさつひめ)という者があった。宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮か)を造っておもてなしをした。このときに宇佐津姫を侍臣(おもとまえつかみ)の天種千命(あまのたねのみこと)に娶(め)あわされた。天種子命は中臣氏の先祖である。

 十一月九日、天皇は筑紫の国の岡水門(おかのみなと)につかれた。

 十二月二十七日、安芸国について埃宮(えのみや)においでになった。翌年乙卯(きのとう)春三月六日に、吉備国に移られ、行館(かりのみや)を造っておはいりになった。これを高島宮という。三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

 戊午(つちおえうま)の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。舳艫(じくろ/船首と船尾)相つぎ、まさに難波碕(なにはのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国(なみはやのくに)とした。また浪花(なみはな)ともいう。今難波(なにわ)というのはなまったものである。

 三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

(4)草香の戦い(『日本書紀』より)

 夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。そのときに長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞き、「天神の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。流れ矢が当たって五瀬命の肘脛(ひぎはぎ)に当たった。天皇の軍は進むことができなかった。天皇はこれを憂えて、はかりごとをめぐらされた。

 「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」といわれた。皆は「そのとおりです」という。そこで軍中に告げていわれた。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。草香津(くさかのつ)に引き返し、盾をたてて雄たけびをし士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてつ)とよんだ。いま蓼津(たでつ)というのは、なまっているのである。

 初め孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。それでその木を指して、「恩は母のようだ」といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきのむら)といった。今「おものき」というのは、なまったものである。

(5)イワレヒコ軍の迂回(『日本書紀』より)

    愛瀰詩烏(えみしを)毘人嚢利(ひだり)毛々那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

長髄彦と金鵄(『日本書紀』より)

 十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。そして歌っていわれた。

  ミツミツシ、クメノコラ(久米之子等)ガ、「カキモトニ」アハフ(粟田)ニハ、カミラ(韮)ヒトモト(一本)、ソノガモト(其根茎)、ソネメツナギテ(其根茎繋)、ウチテシヤマム(撃而止)<天皇の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう>

 また歌っていう。

  ミツミツシ、クメノコラガ、カキモト(垣下)ニ、ヴヱシハジカミ(植韮)、クチビヒク(口疼)、ワレハワスレズ(我不忘)、ウチテシヤマム<天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう>

 また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは歌った人を指して名づけたのである。

 さて長髄彦は使いを送って、天皇に言上し、「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒連日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽者でしょう」と。天皇がいわれる。「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表(しるし/しるしの物)があるだろう。それを示しなさい」と。長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢(あまのははや/蛇の呪力を負った矢)と歩靫(かちゆき/徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ/矢を入れて携行する道具)を天皇に示した。天皇はご覧になって、「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。長髄彦はその天神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。けれども兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。そして間違った考えを捨てず、改心の気持がない。饒連日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒連日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。

6-2長髄彦 とイワレヒコの戦い 

(7)イワレヒコの橿原即位(『日本書紀』より)

 辛酉(かのととり)の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。この年を天皇の元年とする。・・・・・古語にも、これを称して次のようにいう。「・・・・・始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト/始めて天下を治められた天皇)」と申し、名づけて神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイハレヒコホホデミノスメラミコト)という。

 四年春二月二十三日、詔して「わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。

 三十一年夏四月一日、天皇の御巡幸があった。腋上(わきかみ)の味間(ほほま)の丘に登られ、国のかたちを望見していわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲(あきつしま)の名ができた。昔、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)がこの国を名づけて、「日本は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていて良く整った国」といわれた。また大己貴大神(おおあなむちのおおかみ)は名づけて「玉牆の内つ国(美しい垣のような山に囲まれた国)」といわれた。

 饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「空見つ日本(やまと)の国(大空から眺めて、よい国だと選ばれた日本の国)」という。

(8)その後の長髄彦の行方は定かではない。しかし、奥州では「長髄彦は兄アビヒコと共に日高見(東北地方)の地を新たな故国として移住し、先住民族と合流してアラバキ族と名乗り、日高見の国を長く治めた」と伝えられるなど、各地で長髄彦の精神(愛瀰詩えみしの心)は受け継がれている。

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古代日本の地形   

 魏志倭人伝に「倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島さんとうに依りて国邑くにむらをなす」となっているように、卑弥呼の時代(弥生時代後半)になっても、「山島」(山が海ぎわまで迫っていて平地に乏しい地形)と呼ばれる地形が日本の地形であった(奈良湖河内湾ご参考)

 つまり、日本列島は島と海辺と川と山だけで、のちの平野部分はほとんど海水で覆われていた(現在の平野を流れている川は、海水が引いたのちの海の跡である)。そのため、「国生み神話」(ご参照)にも平野(平地)を生んだという表現はない。

 現在とは異なり、平地に乏しい分ぶん海は内陸深く入り込み入江となっており、現代人の想像以上に、船を使えば、短時間で遠くでもどこへでもいくことができた(陸路はほとんど、必要なかったし、なかった。現在でも近江八幡などでは田んぼにいくのに船で行く。そんな感じだった)。

 現在の平野部分はほとんど海水で覆われていて、海は内陸深く入り込み入江となっていた。このことを押さえておかないと古代の日本のことは理解できない。

 その例として、玄界灘と有明海の間は、現在では陸地になって船は通行できないが、魏志倭人伝が書かれた時代には水道となっており船が行き来していた(ご参照)。現在の地形だけを考慮して魏志倭人伝の記載に従って邪馬台国の位置を探すことをしている(古代には玄界灘と有明海の間は水道となっていて船が通行していたなど古代の地形を考慮していない)から、邪馬台国はどこにあったかがいつまでたっても分からないのである。

 なお、現在内陸にありながら「津」「崎」「浦」「櫛羅くじら」など海にかかわる文字を含む地名のつくところや貝塚のあるところは古代は海辺であったところである。

 最近頻発している水害の被害地の多くは古代に海水で覆われていたところで、防災についても、古代の地形を考慮すべきとの意見が出されていて、古代に海水で覆われていたところでは、そのことを考慮すべきときにきている。

 古代の地形を重視しようという機運は、古代史研究、防災事業のほか、まちづくり・観光等の分野でも高まってきており、それを背景に人気番組となったのがブラタモリである。

 なお、気候についても考慮しなければ疑問が増える。たとえば、現在冬になれば雪で覆われるようなところになぜ三内丸山のような大規模集落があったのか、など。

なぜ*

  

日本古代の謎・疑問 <作文中>

【1】以外の謎

(3)アマテラスは江戸時代までは男だった、というのは本当?

(2)卑弥呼、蘇我蝦夷・蘇我馬子という侮蔑的な名前がなぜ付けられているのか。

(1)伊勢神宮はなぜ、日向、出雲、大和から遠い伊勢に建てられているのか。関連して、天皇はなぜ明治になるまで、伊勢神宮に参拝しなかったのか。

記紀の謎

(7)皇軍の悪行を堂々と誇らしげに述べる(講談社学術文庫版P.96など)のはなぜか?

(6)日本書紀には「長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。 」とあるが、なぜ長髄の邑を鵄の邑と改名されたのか?⇒鵄は長髄彦(=長髄の邑の指導者の意)の守護神であった(ご参照)から。  

(5)日本書紀の一書に古事記が出てこないのはなぜか。 

(4)なぜ、ツクヨミの出番は少ないのか。

(3)なぜ、今日では口に出して読めと言われればセクハラになる(=女神を辱めて殺すという口に出しては読めない)ような記述がなされているのか。

(2)「記」と「紀」に食い違う記述があるのはなぜか。

(1)なぜ、次のことを語っていない(隠している)のか?

  ①邪馬台国、卑弥呼<下に注> ②奴国または伊都(委奴/イト)国 ③奴国王または委奴国王が後漢の光武帝に朝貢して「漢委奴国王」の金印をもらったこと ④倭国王または伊都(委奴)国王の帥升スイショウが後漢み遣使したこと ⑤卑弥呼が魏の明帝に遣使して「親魏倭王」の印綬をもらったこと ⑥銅鐸

⇒<答>天孫族(天津族)は、中国に朝貢していた邪馬台ヤマタイ国を滅ぼしたことが不利益(中国に攻められるなど)にならないようにするため、それを隠すため、自らの国を邪馬台ヤマト国と称し、自らが作成した記紀には邪馬台ヤマタイ国およびそれにかかわること(①~⑤)は一切記さなかったから。記紀は自分たちに都合の悪いことは記さない(隠している)。なお、同じ理由(都合の悪いことを隠すため)で記紀は、かつて出雲族が日本列島中央部を治めていたことも、その舞台を「地理上の出雲」に限定した出雲神話というかたちで描いている。

 ⑥の銅鐸が語られていないのは、それが記紀を書いた天孫族が征服した各地の氏族の文化遺産だったからである。

<注>記紀のうち日本書紀には次の記述だけある。

 三十九年、この年太歳己未。——魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天使にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守の鄧夏は役人をつき添わして、洛陽にいかせた。

 

 

嶋恵さんのブログ「歴史探訪」

(1)歴史探訪(09.4.13 最初)歴史探訪(現在) ←すごい調査力と筆力

(2)(1)の抜粋

 ①(コメント欄)崇神と応神上と下百舌鳥・古市古墳群塩湖が淡水湖になってしまった理由右の続きギリシャ神話と日本神話が似ていると思うところ/(コメント欄)縄文時代が素晴らしかった」の意味『記紀』は、応神系王族を隠すためにウソのオハナシを並べ立てた江戸時代までの相撲は興業世界の神話と『古事記』の神話の相似「約束の地」元号についてカタクリと鹿と塩と人間『古事記』の仕掛け先住民の辿らされた運命 /成人T細胞白血病(ATL)ウィルス」の分布国家の成立過程歴史に見る人口変動カバネと骨品制(右の続き)カバネについて(右の続き)古代の姓についてミシマミゾクイの人物像プロファイリング靖国神社国家神道の成り立ち万世一系について高天原について5世紀後半のクーデターによる王統の交代(崇神系から応神系へ)瀬戸内海は元は、現在の奈良盆地のこと日本海と琵琶湖を結ぶ船越奈良の海とクジラ /(コメント欄)ここは田舎で何にもない渡来の波韓国ドラマを見れば古代日本のことがよくわかるこの記事のコメント欄ご参照)/河内湖

 ②トミのナガスネヒコ(ナガスネヒコ・ナガスネビコ/トミヒコ・トミビコ)に言及あり

   2014.10.112014.10.25 まとめ(100630) 「夫須美(結)大神」は最後の大国主・ナガスネビコである

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生駒の神話と天皇制  

(1)生駒の神話のストーリーの1つは、ニギハヤヒに支持されてトミのナガスネヒコが保持していた内つ国(倭やまと/生駒山脈の東側/縄文時代以後、海湾→海水湖→塩分の残る湖と湿地の盆地→塩分の残る湿地にまず生い茂る葦原の湿地盆地→塩分の抜けた湿原盆地→葦原を切り開いてつくられた水田と湿地の盆地→水田と乾地の盆地へと変化した奈良盆地)を治める資格が、ニギハヤヒの支持がイワレヒコに移ることによりイワレヒコに移り、それによりイワレヒコは神武天皇として即位でき、その後の天皇は、ニギハヤヒの子孫であるモノノベ(モノノフともいう)が行う儀式(いつのころからか大嘗祭と呼ばれる)によりヤマトを治める資格を付与されてきた、というものです。

(2)トミのナガスネヒコ(単にナガスネヒコまたはトミヒコともいう) の出自・本拠地は内つ国の北西にあるトミ(鳥見)で、ナガスネヒコとイワレヒコ の2回目の戦いの場所は内つ国の南東にあるトミ(鳥見)でした。トミヒコは、トミを出自とするヒコ(彦/優れた男子)の意で、その妹の名のトミヤヒメはトミを出自とするヒメ(媛/優れた女子)の意です。2つのトミ(鳥見)の位置はこの地図.jpgご参照。なお、トミはトビ(が変化したものです(ご参照)。

(3)(1)は、天皇の権威(ヤマトを治める資格)は、天皇に先天的に内在するものではなく(=万世一系の天皇家の祖霊に源泉があるのではなく/そもそも万世一系の思想と体系を創作したのは藤原不比等で、「万世一系」の語は、慶応3年10月の岩倉具視の「王政制復古議」が初出 )、外付けであることを今に伝えています。外付けとは、ニギハヤヒの魂(=倭の魂/稲魂)が付与されることで、神武天皇以後の天皇は、いつのころからか大嘗祭と呼ばれるようになる儀式によってそれが付与されたことです。北条泰時の革命により天皇がヤマトを治める資格を失って象徴天皇制が始まる(ご参照)と、大嘗祭は形だけのものになり、日本の象徴という天皇の地位は、武士(モノノフ)の後ろ盾という外付けにより維持されていくようになりました。そして、明治維新政府と大日本帝国政府の天皇の政治利用(神格化させて国民の統治と戦争動員に利用)を経て、戦後、日本国憲法は天皇の政治利用を防ぐため、日本国民統合の象徴という地位は日本国民の総意に基づくという外付けによって天皇に付与されると規定したのです。  

(4)内つ国を奪いに来たイワレヒコは、天津神でありながらナガスネヒコに撃退され、2度目の戦いでも、あろうことかナガスネヒコの守護神である金色のトビに助けられなければ敗北した(ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか? ご参照)ことは、生駒の神話(生駒を舞台とする日本神話)の謎(疑問)の1つですが、その答が(3)です。

(5)なお、イワレヒコは 倭を奪ったのではなく、国譲りされたのです。  参考:生駒の神話(ナガスネヒコ物語)の真意(生駒の神話は里山誕生の過程を反映したもの)

 

☆この記事の相互補完記事⇒「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」

国譲り  

参考:国譲り神話と憲法第9条

(2)この記事,jpgを読むと、日本の歴史は、縄文的世界観は弥生的人間観に「国譲り」し、弥生的人間観は近代的価値観に「国譲り」してきた歴史といえます。そして今や、近代的価値観は縄文的世界観に「国譲り」すべき時期がやってきたのではないでしょうか

国譲り神話.pdf もう一つ(諏訪)の国譲り伝承

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「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」

(1)新天皇が、新しく天皇の位についたことを公に告げる5つの儀式を総じて「即位の礼」といいます。それは、平成の天皇が令和の天皇に交代した際(2019年5月1日)は、次のような日程で行われます。

 「剣璽等継承 (けんじとうけいしょう)の儀」(5月1日/祝日/10分間/宮内庁担当の国事行為)→「即位後朝見(そくいごちょうけん)の儀(5月1日/祝日/10分間/宮内庁担当の国事行為)→「即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀 」(10月22日/祝日/内閣府担当の国事行為)→「祝賀御列(しゅくがおんれつ)の儀(10月22日/祝日/内閣府担当の国事行為) →「饗宴(きょうえん)の儀 」(10月22日<祝日>・10月25日・10月29日・10月31日/内閣府担当の国事行為)

  以上で、天皇即位にかかる“法的”・“政治的”な手続きは完了します。にもかかわらず、11月14日~15日には、国事行為ではなく皇室の祭祀である「大嘗だいじょう」が予定されています。

  これは、新天皇の身体に天皇霊を付ける儀式です。天皇霊とは、外来魂(身体に内在する魂ではなく外から来る魂)、つまり天つ国からの外来神まれびとのエッセンス(=「稲の魂」とする説が有力)で、天皇の権威の源泉です。天皇の権威の源泉は、万世一系の天皇家の祖霊ではないのです(「大嘗祭の本義」の解説.jpg ご参照 )。以上のように天皇の権威は外付けであって先天的なものではないということを周知させることは、神の子孫である (がゆえに「生まれながらにして=国民の意思に関係なく先天的に」国を治める権威を持つ)天皇のために団結するのが日本人のいいところ」などというカルト的言説を唱える人々が 改憲(=壊憲)運動を強めてきている中にあって、日本国民統合の象徴という地位は日本国民の総意に基づくという外付けによって天皇に付与されると規定する日本国憲法を守ることに役立ちます。

  折口信夫の「大嘗祭の本義」のこの部分を読むと、大嘗祭によって天皇は「倭やまとを治める資格」を得ることになります。このことは、縄文時代から弥生時代への交代期に生まれた長髄彦伝承を基につくられたと思われる生駒の神話長髄彦ながすねひこ物語 )を理解するうえで押さえておいてよいことと思われます。

(2)折口信夫の言によれば、もともと、天つ国(海の向こうを体現)からの外来神まれびと(=にぎはやひの命みこと/縄文人と住み分け・共存してきた先発渡来人を体現 )のエッセンスを付与されて「やまとを治める資格」をもっていたのは登美の長髄ながすね(単に長髄彦または登美彦ともいう/生駒の神話の主人公/縄文人を体現)でしたが、外来神まれびとのエッセンスがいわれひこの命(後発渡来人を体現)に移ることによりいわれひこの命 は「倭やまとを治める資格」を得て即位して神武天皇となったことになります。そして、長髄彦といわれひこの命が戦ったとき、現在の生駒市北部の富雄川流域地域<かつてトビが変化してトミ(鳥見・登美)と呼ばれていた(ご参照)>を飛び立ちいわれひこの命の弓の先にとまって雷光のように光り輝いて長髄彦(登美彦)に力戦させないようにした 「金鵄きんし(金のとび)」は、 「倭やまとを治める資格」をいわれひこの命に移す(国譲りする)ことで戦い(殺戮)を止めるためににぎはやひの命が遣わした使者、もしくはにぎはやひの命自身であり、縄文人であるがゆえに殺戮を知らなかった長髄彦が、「戦い=殺戮」することで堕落することから長髄彦を守る守護神でもあったのです。(縄文時代に「殺戮=戦争」がなかったことについてはこのページの記事をご参照) 

(3)にぎはやひの命の子孫は物部(もののべ/モノノフ)氏と呼ばれ、「大嘗祭の本義」のこの部分によれば天皇に権威(=倭を治める資格)を付与する任務を司りました(ご参照)。のち、物部氏は武士(もののふ)となったと言い伝えられるようになり、やがて、その最高指導者たる鎌倉幕府3代執権・北条泰時は「(日本史上唯一の)革命」、つまり「朝廷=天皇権力」の打倒を断行し(かつて自分たちの先祖であるにぎはやひの命が戦いを回避するために国譲りした国を奪い返し)、現在に至る象徴天皇制(武士や国民など何らからの後ろ盾やお墨付きによって日本の象徴的な地位が維持される制)を創出しました(日本唯一の「革命家」とは 既存権力と戦った北条泰時 ご参照)。

(4)北条泰時が創始した象徴天皇制は、民衆から忘れ去られていた天皇を担ぎ出した明治維新政府と大日本帝国政府によって停止させられ、疑似天皇独裁という形で天皇が政治的に利用されることで日本の破滅がもたらされました。その反省から、戦後、天皇が政治利用されないよう 、象徴という天皇の地位は国民の総意によって与えられるのだということが見える化されるよう憲法で象徴天皇制が成文化されたのです。 

(5)大嘗祭は、「倭やまとを治める資格」が長髄彦(登美彦 )からいわれひこの命(即位して神武天皇)に移って以来(もちろんこれは神話上のことで、史実は、欠史八代等の架空の天皇時代を経た第10代天皇の崇神天皇あたり以後)、天皇に倭を治める権威を与えるものとして行われてきましたが、北条泰時の革命により、天皇に倭を治める権威を与えるというのは形式的なものとなり実質的には天皇家(皇室)の 祭祀に過ぎなくなり、戦後は(日本国憲法の下では)単なる宗教的な家内伝統行事となり、そんなものに税金を使用するのが可なのかが当然に問題となっています(大嘗祭に税金使うのは「違憲」政教分離原則に反すると提訴ミラーご参照 )。 

☆この記事の相互補完記事⇒ 生駒の神話と天皇制

「邪馬台国=富雄川流域」説       

   ~以下は、「邪馬台国=富雄川流域」説を支持する資料~

(4)長髄彦ナガスネヒコは「「生駒地域の首長だっただけでなく、饒速日命にぎはやひのみことの率いる邪馬台国連合の総大将であった」<村井康彦著『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』(岩波書店).pdf

(3)「卑弥呼=三炊屋媛」説 ・ 「長髄彦=卑弥呼の兄 」説 ・ 「長髄彦の意味=富雄の丘陵の大夫」説⇒神話語句(人名・地名等)を縄文語(アイヌ語)で読むと。 をご参照

(2)「富雄丸山古墳=卑弥呼の墓」説

(1)前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説 

富雄丸山古墳    

 ⑥直径109mと判明(報道記事.jpg報道記事.jpg

 ⑤最大の円墳 空から確認.jpg

 ④4世紀後半の富雄丸山古墳.jpg

 ③「富雄丸山古墳=卑弥呼の墓」説(関連 : 「邪馬台国=富雄川流域」説

 ②「最大の円墳」であることが判明ミラー

 ①②の前(「円墳としては最大級の規模」といわれていたとき)の資料⇒出土品説明  ・ 説明所在地説明

「富雄丸山古墳=卑弥呼の墓」説

前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説 より> (参考:富雄丸山古墳「邪馬台国=富雄川流域」説

                    (太字は引用者による)

6「卑弥呼の墓」を探そう。

 「卑弥呼の墓」は、少なくとも魏の明帝より賜った「親魏倭王」の印よりは見つけやすいでしょうが、しかし、(引用者: 魏志倭人伝が卑弥呼が葬られた墓の大きさとする)「径百余歩」のこの女王にふさわしい墓が、私たちの探索地域である生駒山周縁に存在するのでしょうか。わずかに残る考古学的物的証拠を手がかりに、この探索の旅に出かけてみましょう。

 近鉄奈良線で大阪難波から三〇分ほど、準急列車に乗ります。大阪と奈良の県境、生駒トンネルをくぐると、ほどなく富雄駅に到着します。駅から徒歩で富雄川沿いに10分ほど北に行くと、バス停「出垣内(でかいと)」があります。その横一帯の影蒼とした小高い丘の中に、戦前の学者たちが定めた「神武聖蹟」があります。神武天皇が東征の最終局面において「本陣」を張ったところと言うのです。「聖林研究所」という私有地の中に苔むした小さな石碑と小規模の墳墓があります。

 ここが「日本書紀」『巻三』における「神武東征」の最終戦争勝利の地として定められました。なるほど、地形的に見ると、「日本書紀」の記述にたいそうかなっています。

 神武天皇は生駒山の大阪寄りの地「孔舎衛坂(くさえさか)」で緒戦を行いましたが、これが激戦で、総司令官でしょうか、長兄である五瀬彦を失う大敗北となります。その敗戦に懲りて、その後の戦いは常に敵軍の東に陣取ろうとします。東に陣を取るのが神意であると考えたので奈良盆地でも東側に陣を張り、三輪山を神体とし、「纏向遺跡」あたりを神域としたのです。この富雄川岸の「神武聖蹟」も敵陣の東岸であり「日本書紀」の記述にかなっています。

 そして生駒山を背にして最後まで抵抗する敵将の長髄彦、ついに「決戦」に臨む侵攻軍。大和盆地を挟んで生駒の西軍と三輪の東軍が対峙したのです。

 「決戦」はこの地で行われたと推理する戦前の学者の慧眼に、謙虚に敬意を表したいと思います。富雄川を挟んで西側にも小高い丘があり、そこが「まつろわぬ」最後の人物、長髄彦の軍陣と見た学者たちの判断は、地形上からも非常に納得できます。饒速日命の裏切りにあって、あえない最後となった敵将、長髄彦の伝承墓地がその丘の上にありますが、彼には源義経のように北に逃亡したという伝承もあり、今後とも、長髄彦の行方は見逃せません

 攻める神武天皇軍、すなわち「大和朝廷」と、守る長髄彦軍の決戦場は、「生駒市田原」つまり近鉄学研都市線の「白庭台訳」周辺から「奈良市富雄」、近鉄奈良線「富雄駅」周辺だったのです。

「日本書紀」にいう神武天皇がついに攻略した「中洲(うちつくに)」は、広く見て、「魏志倭人伝」の「伊支馬=生駒」の中心地で、この地域が最もふさわしいのです。

 「中洲」、この奈良県北西部の地域は「水運」、「水利」、「防衛」の上で極めて有利な地形であることが畿内全体を俯瞰して見ると一目瞭然に理解できます。このあたり一帯は、私市から交野そして淀川へ下り出る北水路の天野川の水源であり、かつまた大和川から河内湖に出る南水路の始点、富雄川の水源でもあります。すなわち北出口と南出口の始発・終点の好位置であり、比較的ながらかな丘に囲まれた周辺地形を鑑みますと、「邪馬台国」首都域として絶好の地域ではないか、正しく「登美の地」は、「美し国」です。

 私は戦前の学者たちの歴史的嗅覚のようなものに敬意を表します。それは、多分、戦後世代のわれわれよりも、より切実に「戦争」を前提にして地形を考察した点で、「邪馬台国」の時代と共通するものがあると思われるからです。近世になって、平地に城が作られるようになるまで、国家防衛の基本、すなわち首都造作は、まず、水利、次に、丘陵という自然地形の盾を主眼に計画されます。その発想をもって「邪馬台国」の首都を考察することが重要だと考えます。

 「生駒市田原」から富雄川をやや南に「大和郡山市」方面に下ると、生駒山を西北に仰ぐ鬱蒼とした小高い森に「登禰神社」があります。この周辺地域も「邪馬台国」の首都城であると見ます。「登禰神社」の祭神はもちろん「饒速日命」ですが、そればかりでなく神武天皇がともに祭られています。「登禰神社」が「登美彦」といわれた「長髄彦」を祭神としているのではなく、「神武天皇」と「饒速日命」を祭神としていることは、「邪馬台国」の謎を考察する上で、きわめて意味深長なポイントであることを発見しました。包括的に「邪馬台国」を語るために、このことは記憶にとどめていただきたいと思います。

 さらに富雄川に沿って、やや南に下ると大和郡山市に「矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社」かあります

が、ここもまた「饒速日命」が祭神です。

 この周辺が「邪馬台国」であると述べられたのは、大阪教育大学の名誉教授であった故鳥越憲三郎氏です。先生は「物部氏」を探求する中から、そのように論じられましたが、惜しくも先年他界されました。

 卑弥呼の墓は「径百余歩」の形状をもって、この「中洲」のどこに存在するのでしょうか。

 「径百余歩」は相当な規模ですので、消滅することなく具体的に存在しているはずです。

 私は、今見るように「邪馬台国」の中心の首都城を富雄川流域に推定しました。それは、神武東征軍が「中洲」として攻略した地域ですし、「魏志倭人伝」の「伊支馬」地方そのものだからですが、顕著な古墳が非常に少ない地域です。しかし、それがかえって「古墳時代」の大和朝廷との断絶を感じさせます。「往馬大社」の権禰宜の方が、「この生駒山周辺は、考古学的にまったく地味な地域です」と嘆いていらっしゃいましたが、それはむしろ自然なことではないでしょうか。

 確かに、この富雄川流域は、「纏向遺跡」や伝神功皇后陵などが含まれる「佐紀古墳群」のように、考古学者にとっては、あまり魅力的な地域ではないかもしれませんが、しかし、私はいわゆる「前方後円墳」を「邪馬台国」と同時代の墳墓とする考えにはなじめないので、「卑弥呼の墓」の探索は、むしろ巨大な前方後円墳のない地域に魅力を感じるのです。

 そもそも卑弥呼のような祭祀を司る人物に、権威の象徴として、墳墓の巨大性を求めていいものでしょうか。私が「箸墓」の被葬者が卑弥呼であるという考えに同意できないのはその点で、「前方後円墳」のような巨大な墳墓がふさわしいのは、卑弥呼のような鬼道によってヒトをまとめる司祭的人物ではなく、人民を十分に駆使できる巨大権力を手中にした武人的な大王なのだというのが常識的な判断ではないでしょうか。

 卑弥呼が死んで作られたのは「径百余歩」の塚です。

 当時、魏において「単位」として利用されていた「歩」は1.4メートルでした。この数値を当てはめると、百数十メートの直径となります。しかし、卑弥呼の墓を円墳と考えると、一〇〇メートル級の円墳というのは日本最大級です。

 あるいは、普遍的な距離判断値としての「歩」すなわち成人の歩幅なのでしょうか。そしてまた、単位としての「歩」は、時代と国によって違いが見られます。日本の律令制度下では「歩」は面積単位となっており、六尺約一八〇センチ平方で、「一歩」は、すなわち「一坪」と同じです。

 また、「径百余歩」を「直径が歩いて百歩余」と、取れるかもしれません。あるいは、「余」という使い方から、陳寿に100メートル前後の「それほど巨大な」という蓋然的な意識があったのかもしれません。

 「径百余歩」の卑弥呼の墓は、奈良県内に数多く存在する大型の「前方後円墳」よりも、一四〇~八〇メートル級の円墳が求められるのではないでしょうか。それでも「前方後円墳」が発生する以前の、佐賀県「吉野ヶ里遺跡」に存在する弥生の墳丘墓が、約四〇メートルであるのに比較すると、八〇数メートルでも随分大きいのです。八〇メートル程の円墳となると近畿最大級、あるいはひょっとすると西日本最大級となるかもしれません。私たちはそれをこの「中洲」に求めなければならないのです。

 さて、私たちは大阪と奈良を結ぶ高速道路を横切り、やや南に富雄川を下ります。最初の丸山橋を矢田丘陵方面に渡って、奈良の三人梅林の一つ「追分梅林」に向かい、緩やかな坂道をのぼると、その住宅街の中に「丸山古墳」と呼ばれる小さい森が見えて来ます。

 「丸山古墳」は、昭和四七年に、近隣が「若草台住宅」として開発されることにともなって、「橿原考古学研究所」が発掘調査したところです。その調査報告書はこの周辺の伝承に結びつけて、物部氏に近い人物ではないかと考察していますが、それ以上の研究が進んでいるわけではありません。どうやら明治十二年ころに盗掘されているらしいことが分かりました。)

 この「丸山古墳」から魏の「三角縁神獣鏡」が四枚、すなわち画文(もん)帯神獣鏡、三角縁五神神獣鏡、三角縁四神神獣鏡、三角縁(ぶち)盤龍鏡(すべて天理大学蔵)が出土しています。また、装身具の管玉、碧玉製の腕飾(鍬<くわ>形石)、銅製の腕飾(銅釧<どうせん>)、その他斧頭形<ふとうけい>石製品(京都国立博物館蔵)などが多数出土しました。これらは大部分が祭祀用品や装身具であり、弥生時代の「呪術的副葬品」と言われるものです。現在、重要文化財に指定され、京都国立博物館と天理大学参考館に分かれて蔵品となっています。男性の呪術者は一般的に考えにくいのでこの「丸山古墳」は、副葬品から見て、弥生時代末期の王級の女性の墓と言えるのではないでしょうか。

 そして、この「丸山古墳」は近畿最大級八六メートルの円墳ですが、私たちが探し求めている「径百余歩」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。この円墳に「卑弥呼」が埋葬されていたと言えないでしょうか。

 私が「古事記は神話ではない」に衝撃を受けて、「邪馬台国」を研究し始めた頃、三一書房から「邪馬台国を探る」という書物が出版されました。大山峻峰先生の労作です。先生は、長く三重県の教育委員長をなされていた在野の研究者ですが、その書物で、大山先生は、この「丸山古墳」を含んで、奈良県桜井市や黄金塚古墳の存在する奈良市山町の奈良北西部を「邪馬台国」と位置づけられました。犬山先生は「三角縁神獣鏡」の出土状況を根拠になされているものです。

 ともあれ、丸山古墳が実は「卑弥呼の墓」だったのではないかと着想したときには、大きな衝撃がありました。それは、不思議と誰にも言えない発見のように感じられました。十分な確信が得られるまでは、書物にして説を立ててはならないと固く決意したことを覚えています。

 この丸山古墳から出土した「三角縁神獣鏡」はきめの細かいと言われる舶製鏡で、同じ鋳型から作られた「同範鏡」ではないオリジナルな魏鏡です。

 「三角縁神獣鏡」は、奈良県天理市の「纏向遺跡」にある「黒塚古墳」から三三面、京都府山城町の「椿井大塚山古墳」から三二面出土しましたが、いずれもその他の副葬品には「甲冑、刀剣、鉄鏃」が多く出土し、女性の被葬者が想定しにくくなっています。

 もちろん鏡が多く出土するだけで卑弥呼の墓と関連付けることは出来ませんし、一度に、あまりに多数の鏡が出土するは、むしろ「大和朝廷」の権力構造を連想させ、「邪馬台国」にふさわしくないように思います。

 「丸山古墳」の真横にはやや小ぶりの「茶臼山古墳」があって、姿は目立つけれども、現在は荒れています。現在、考古学界では、この「丸山古墳」の被葬者を「物部氏」の関係者とまでしか判断していません。

 私は「邪馬台国」の首都圏が富雄川流域だと特定しました。

 そして、「丸山古墳」が近畿地方最大の円墳であること、またその位置的な整合性、副葬品から判断して、「卑弥呼の墓」の有力な候補地ではないかと考えています。

 この「丸山古墳」から富雄川を挟んで、東真向かいに、先ほど訪れた「登禰神社」の森が見えます。そして「丸山古墳」の西の背後は、矢田丘陵、追分梅林を抜けて、「往馬大社」、そこから生駒山を越えて、大阪側の枚岡、日下、石切周辺に抜ける古代の直線峠道「暗がり峠」につながっていきます。

 また、逆方向に「丸山古墳」から、東方面すなわち奈良市内に向かうと、「イクメイリヒコイサチ」の陵、第一一代垂仁天皇陵に至ります。この垂仁天皇も「邪馬台国とは何か」を考える上で、大いに想像力の働く存在です。

神話語句(人名・地名等)を縄文語(アイヌ語)で読むと。   

~以下、このページを参照して記述~  凡例 : 神話語句=「縄文語(アイヌ語)」=「現代語」=意味

(1)豊秋津洲=「ト・ヤ・アカテュル」=「ト(海/湖)・ヤ(岸の)・<アカ(尾根)テュ(峰)>(山稜)ル(路/跡)」

(2)卑弥呼=「ヘ・カ」=「光る・泉の・表面」=水鏡・・・(推論)北九州にあった地域集団連合体(邪馬台国)の巫女

  三炊屋媛=「メ・カ・キヤィ」=「泉の・表面の・光」=鏡媛・・・(推論)トミ(富雄川流域地域)にあった地域集団連合体(これを邪馬台国とする説もあり)の巫女

  (倭)迹迹日百襲姫(やまと)ととひももそひめ=「(ヤマト・)タッタ・へ・モ・メ・ソ」=「踊り・光る・小さな・泉の・表面」=鏡の巫女

  ⇒以上から、 卑弥呼三炊屋媛=迹迹日百襲姫・・・ともに巫女という共通点を持つ

(3)長髄彦=「ナィ・カ・シ・ニェ/シクル」=「川岸の崖の林/大夫」・・・(推論)かかる地形のある地域の大夫(指導者)。かかる指導者は各地にいて、うち、トミ(富雄川流域地域)のそれを「トミのナガスネヒコ」というが、日本神話では「トミのナガスネヒコ」を略して「ナガスネヒコ」または「トミヒコ」という場合が多い。

  ⇒(2)を考慮すると、トミの長髄彦=三炊屋媛の兄=倭迹迹日百襲姫と同様の巫女の兄=卑弥呼と同様の巫女の兄

  ・トミの長髄彦は、 倭迹迹日百襲姫(という巫女)の兄である(欠史八代の中の)第八代孝元天皇と同様に巫女の兄である

(4)(大日本)根子彦国牽(おおやまと)ねこひこ-くにくる(これは、日本書紀での和風諡号しごう/8世紀後半に淡海三船が撰進した漢風諡号が孝元天皇)=「ナィ・カ/シク/クッ・ニクリ」=「川岸/大夫/崖の林」

  ⇒ここから、トミの長髄彦=孝元天皇という説が出されている

(5)(3)の「川岸の崖の林」と(4)の「川岸/崖の林」は、トミの長髄彦=孝元天皇が拠点とした富雄川流域の丘陵を指すと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物語の作り方/物語のでき方 

(6)神話・伝承など言い伝えをもとにイマジネーションを加えることで真実・真理が見えてくる。ポスト真実(post-truth<ポスト・ツゥルース>/世論の形成において事実や真実が、感情や個人的信念への訴えかけより影響力に欠けている状況/事実や真実が重視されなくなった時代)の時代を突破する鍵は神話・伝承にある

(5)『君の名は。』大ヒットの理由⇒新海誠監督が自ら読み解く大ヒットの理由を勝手に分析してみました爆発的ヒットの秘密大ヒットした3つの理由大ヒットはなぜ“事件”なのか?中国でも大ヒット その理由は大傑作となった7の理由NAVERまとめ

(4)映画ヒットの方程式.jpg

(3)普遍的に人類の心をとらえる英雄物語の基本パターン(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」が明示)⇒ご参照1.pdfご参照2

(2)現代人にもプログラムされている神話的思考

(1)物語の組み立て方の参考例.pdf

ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)といえるのではないか

 次の引用文のようにヒトは中心からではなく周縁から生成されていく。クニも同様ではないか。

 まず世界を俯瞰ふかんし中心軸を決めてから細部を作っていく。これは・・・・・人間の思考法の常である。ものごとを設計的に考えること。ところが・・・・・生命体は本来、地方分権的なシステムであり、軸は後になってからできる。・・・・・細胞の集合体が押し合いへし合いしながら、前後左右から押し込められた襞ひだとして中心軸ができ、それが固くなって背骨になった。これはたとえばヒトが受精卵から出発し、徐々にその形を成していく発生の過程でも再現される。「設計的」の反対語は「発生的」であり、設計的思考が得意なヒトは、逆説的ながら、中心からではなく周縁から生成されていく。<人間は中心から ヒトは周縁から.pdfより引用>

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トミ(鳥見・登美・富)・トビ・富雄 

)南北2つの鳥見とみ登美とみ)は中洲なかす/ながす(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね長髄ながすね/なかすねであった。 

 なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄トビ)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。

トビ・トミ=ナガ=蛇神=化して鳥(トビ) : 以下の項目所収

  ①トミはトビが変化したものトビ・トミ=ナガ=蛇神.pdfご参照。

  ②出雲では、「富」を「とび」と読む(「富村」は「とびむら」と読む)⇒ご参照 富とび神社あり

  (登美彦(長髄彦)の「登美」というのはトビすなわち大蛇神(生駒山の山ノ神であり、登美彦のトーテム)であって、それが時に「化して鳥(トビ)」となった⇒卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-ご参照。

地名としての「トミ」・富雄川<リンク>   トビ/トミ(「神に関する古語の研究」より)

「鳥見」の注として、岩波版日本書紀は次のように記している⇒奈良県生駒市の北部から奈良市の西端部にわたる地域。この地は『続日本紀』の和銅7年11月条に登美郷として現われ、以後平安・鎌倉・室町・江戸の各時代を通じて鳥見庄または鳥見谷の名を伝え、その地内を貫流する富雄川も、もと富河または鳥見川と呼ばれていた。  

(6富雄川とみおがわは、昔、トミ(富・鳥見・登美・登弥・等彌・迹見などいろんな字が充てられてきました/鵄トビから変化したともいわれています)と呼ばれた地域を流れたので「とみがわ(富河・鳥見川)/とみおがわ(鳥見小河・富小川)/とみのおがわ(登美の小河・富の小川)」と呼ばれていたのが、いつしか富雄川と呼ばれるようになりました。日本書紀では、長髄彦ながすねひこが内つ国うちつくに(生駒山地の東側)をわが国といっており、古事記は、長髄彦のことを登美那賀須泥毘古とみのながすねひこ・登美毘古とみひこ表記していることから、生駒神話の主人公である登美彦(長髄彦)の本拠地は富雄川流域のトミ地域(現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域)とされています。~「生駒検定 <問20> 生駒の川は神話や伝説、伝承に彩られている」より 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

折口信夫の著作 

(3)「大倭宮廷の剏業期」.pdf

(2)「日本文学啓蒙」.pdf

(1)「大嘗祭の本義」全文

参考 : 梅原猛『海人と天皇-日本とは何か-』注記(執筆:西川照子)

折口信夫の長髄彦論  

梅原猛『海人と天皇-日本とは何か-』注記(執筆:西川照子)

 

))「大倭宮廷の剏業期」.pdfの「鳥見彦・長髄彦」へ

 

「日本文学啓蒙」の「鎮魂歌」.pdf

 

「大嘗祭の本義」全文)<「大嘗祭の本義」の解説.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

梅原猛『海人と天皇-日本とは何か-』注記(執筆:西川照子)

 長髄彦:トミビコとも言う(『古事記』)。登美、鳥見の字を当てる。妹の名は三炊屋媛、長髄姫あるいはトミヤヒメ。ニギハヤヒの妻。ニギハヤヒは、義兄・長髄彦を殺す。天磐船に乗って天降った、天孫・ニギハヤヒは、なぜ、大和の鳥見に居していたと思われる長髄彦と兄弟関係を結びながら、神武の大和入りに際して、義兄を殺すのか。ニギハヤヒは神武以前の「大和の王」である。しかし神武がニギハヤヒを征服すると、ニギハヤヒの“天皇”としての威霊を支えていた「トミビコ・トミヤヒメ」の兄妹神の力も滅びるのである。つまり長髄彦の死は、ニギハヤヒの神としての零落を示すのである。ここで、ニギハヤヒと長髄彦の関係は逆転する。長髄彦を殺したニギハヤヒは、その霊を祀らねばならぬ。故に彼は「霊部/モノノベ」(物部)となるのである。「神」は零落し、「神を祀る者」となる(折口信夫『鳥見彦・長髄彦』参照<引用者:折口信夫『鳥見彦・長髄彦』はここ.pdfに記載されています神々の系譜より引用>

日の本(ヒノモト)/日高見(ひだかみ)

(1)長髄彦の移住と共に、大和の国の呼称であった日の本や日高見(日が高々と見える良い国)も安日彦あびひこ(長髄彦の兄、または義兄弟)の故国(現在の東北)に運ばれ、やがてそこで住む人々は、自分たちの住む地域をヒノモト・日高見と呼ぶようになった。

(2)大祓詞おおはらえのことばでは、大和の国を「大倭日高見国おおやまとひだかみのくに」と呼んでいる。また、古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされている、古史古伝『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』の、「東日流つがる」とは「日の本が東に流れた」という意である。

佐保姫と竜田姫、そして登美彦<佐保姫・桜・稲作・弥生/竜田姫・紅葉・狩猟・縄文>     

◎古来、春の野山を彩る女神を佐保姫さほひめといい、秋の草木を染め抜く女神を竜田姫たったひめと呼ぶ。いまふうの言葉で言うなら春のパレット、秋のパレットである▼春は桜、秋なら紅葉。どちらが心にしみいるか、と先頃の本紙別刷り「be」でアンケートをしていた。結果は桜派が51%、紅葉派は49%。がっぷり四つと相撲に例えては、姫にそぐわないか。~以上、「天声人語」(15.12.3/朝日新聞)より~

10西之京丘陵と佐保・佐紀丘陵~笠置山地の間を流れるのが佐保川で、この川の流域の山の神霊が佐保姫。生駒山地と矢田丘陵の間を流れるのが竜田川で、この川の流域の山の神霊が竜田姫。両川を取り持つように西之京丘陵と矢田丘陵の間を流れるのが富雄とみお(登美の小とみのお川とも呼べる)で、この川の流域を本拠地とするのが「登美彦長髄彦」で、彼は2人の姫にはさまれています。 <右地図ご参照(クリックで拡大)

◎佐保姫・桜・稲作・弥生/竜田姫・紅葉・狩猟・縄文

 花見には稲作農耕の豊穣をもたらす桜の霊力への信仰があるように、秋の狩猟開始期にあたる紅葉狩り(もみじがり)には山や狩猟文化との深い関わりが想像される<朝日新聞(12.11.22)>

   ※弥生時代、人々は桜の花が咲き始めると水田の準備に取りかかり、籾もみを蒔いた。桜の「サ」は、早苗(サナエ)、早乙女(サオトメ)、五月(サツキ)の「サ」と同じく山の女神を意味する言葉であり、「クラ」は神霊が依り鎮まる「座」を意味しているといわれている。つまり桜は、山から下りてくる農耕の神が田に入る前に宿る神聖な樹なのである。稲作農耕をなりわいとする弥生人にとって最も大切な稲作の開始時期を、桜が教えてくれていたのである。

   ○09_2華やかな一色に染まり、盛りとととに風に吹かれてさっと散る。その散り際がよしと愛でられるよりも、寒空に散るもみぢを好む人は多い(→右に掲載の「折々のことば」<クリックで拡大>より)。

◎この記事は、生駒検定<問20>解説欄に記載されています。

 

縄文(縄文時代・縄文人)と弥生(弥生時代・弥生人) 

縄文

15未来への縄文の扉を開けよう

(14)せめて人間が食するものは人間の手で殺すべきではないか、それが相手に対する礼儀ではないか」.jpg←縄文の精神

(13)縄文中期土器の特色の中で、常に注目の的となるものは生々しく活力にあふれた蛇の造型吉野裕子「蛇 日本の蛇信仰」.pdfご参照)

(12)縄文社会(狩猟民の社会)は対称性(非野蛮=非「文明」/「文化」)の社会であった(「熊から王へ」.pdご参照)。

(11)「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」( ユネスコ世界遺産センター 世界遺産暫定一覧表 記載内容(和訳))

(10)縄文人の世界観(大島直行)

(9)「NHKスペシャル アジア巨大遺跡・第4集 奇跡の大集落~1万年 持続の秘密~

(8)日本列島先住の狩猟採集民「山人やまびと」の「協同自助」的な生活に未来の可能性が見られる.pdf

(7)アイヌ学入門.pdf←アイヌ学の名著

(6)縄文人の植物利用.pdf

(5)天台本覚論とアイヌ思想.pdf

(4)琉球王国と縄文文化.pdf

(3)オセドウ貝塚 : 安日彦・長髄彦の遺骸を再葬した墓地とされる。

(2)アイヌ民族と沖縄の人たちは似た遺伝的特徴を持つ.pdf

(1)縄文時代の様子

  ⑧狩猟採集時代のヒトの運動量はサッカー選手や長距離ランナーに匹敵していた(ご参照)。

  ⑦縄文カレンダーミラー

  ⑥小林達雄『縄文人の世界』「縄文の思考』 

  ⑤縄文像の現在.pdf

  ④遥かなる縄文の記憶~科学の目で見た縄文~

  ③DNAが示す作物の道.pdf

  ②縄文クッキー材料かたちをつくる焼く

  ①「狩猟採集民は放浪の民であり、農耕民は定住者」。そんな固定観念に対し、「事実は正反対である」・・・・・。限られた土地に身を託して子孫を増やし、遅かれ早かれ移動の必要に迫られる農耕民こそ流浪の定めを負う。逆に、獲物の棲息範囲という特定の地域に生活基盤を置く狩猟採集民はあくまでも定住者だ・・・・・。~書評『エデンの彼方(ヒュー・ブロディ著/池央耿訳)』<日経新聞(04.1.18)>より~

縄文・弥生

(*) 戦争は、人間の本能ではなく、日本では縄文時代にはなく、弥生時代から始まった

(12)仮説:神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年(ごろ)が、縄文と弥生の境界(この前後が縄文から弥生への移行期) 

(11)縄文から弥生への交代期のショックが伝承の発生をうながしたご参照.pdf)。

(10)ATLウイルス・キャリア 日本人のルーツを知る手がかりになるか?

(9)縄文の文化と弥生の文化とのもっとも本質的な違い(国家の成立に伴い、問題の解決に暴力を用いる行動理念が社会の軸になっていった。)

(8)縄文~弥生時代の各地域の人口密度.jpg

(7)温暖化→平野(水稲耕作適地)出現→弥生時代開始<安斎正人「縄文人の生活世界」.pdfドご参照>

(6)縄文時代から弥生時代への移行を背景とする神話が生駒の神話ではないか。

(5)縄文系と弥生系.pdf  縄文と弥生.jpg

(4)縄文・弥生 文化の出会い.pdf  縄文人と弥生人の出会い.pdf

(3)縄文人と弥生人は平和的に共存.jpg  縄文人(在来人・狩猟採集生活者)と弥生人(渡来人・農耕者)は共存し、縄文から弥生へはゆっくりと平和的に移行した.pdf  弥生時代には縄文的な焼き畑の稲作も続いていた.pdf」  縄文・弥生 交錯する境界.pdf  縄文農耕論.pdf  考古学 覆される通説.pdf  新たな弥生像.pdf    

(2)人類の知性は狩猟採集時代の終わりとともに低下し始めた.pdf

(1)佐保姫と竜田姫、そして登美彦<佐保姫・桜・稲作・弥生/竜田姫・紅葉・狩猟・縄文>

弥生

(2)「国生み」は海洋民の伝承・「出雲」の「雲」に道教思想.jpg

(1)弥生人は海人的性格も備えていた。.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クサカ(日下・草香・孔舎衙) 摂河泉(摂津・河内・和泉の三国)の大眺望

       クサカの位置は、河内湖かわちこ(深野池)・河内潟・河内湾をご参照。

(4)司馬遼太郎さんは、その著「城塞」.pdfの中で、生駒神話の舞台の1つである孔舎衙坂には現在は阪奈道路が通っており、その途中で眼下にひらける摂河泉(摂津・河内・和泉の三国)の大眺望が「日本のどこよりもすき」と記していますが、そのビューポイントは、この阪奈道路の地図.jpgに「摂河泉の眺望」と印字したところ(その写真.jpg)でしょう<そこで撮影した摂河泉の大眺望.jpg>。

(3)神武東征伝承に記載されている古戦場の「孔舎衛坂くさえのさか」の衛は衙の誤字といわれている。従って「孔舎衙坂くさかのさか」が正しく、駅名には孔舎衛坂駅はあるが、実際にクサエの坂という地名は存在しない。<進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像」.pdfご参照>

   1211近畿日本鉄道も混乱していた⇒「孔舎坂」表記の切符<→(このページより引用)>と「孔舎坂」表記の切符<→(このページより引用)>の2つを発行していた(読みは、両方とも「くさえざか」)。

(2)「日下」の地名について

  ③日は草の簡体字だから(草の十の部分を省略したのだから)「日下」は「くさか」と読める、との説あり。

  ②アイヌ語(エミシ語)で「クサ」は「船を着ける」、「カ」は「岸」の意、との説あり。

  ① 「日下」地名について<リンク>

(1)以下、谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用

 『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。・・・・・「日の下(ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるようになった。「日の下(ヒノモ上)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。

古代日本における生駒山の不思議と謎  

(1)伊勢神宮の20年に1度の遷宮と出雲大社の60年ぶりの遷宮が重なった2013(H25)年にはこの2つの位置関係が注目され、この2つを結ぶ線は平城京の真上を通るという不思議が指摘されています(解説記事.pdf)。同様の古代日本における不思議は、以下のように生駒山についても存在します。

 

<1>「大和岩雄『日本の神々3』白水社」の中で指摘されているもの

 

 ①Kentei2ikomayama生駒山の最高峰地図.jpgから真西に難波宮地図.jpg解説)がある(いずれも北緯34度40分)。<右地図ご参照(クリックで拡大)

 

     奈良・大阪 太陽の道

 

 ②磐船神社哮ヶ峯たけるがみね=生駒山の北端」にある / 太陽神の性格を持つ饒速日命にぎはやひのみことを祀る)は難波宮大極殿跡からみて、ちょうど夏至の日の出の位置にあたる。

 

 ③日本最古の神宮である石上神宮いそのかみじんぐう饒速日命の子である宇摩志麻治命うましまじのみことなどを祀る)からみると、生駒山の山頂に、夏至の夕日が落ちる。

 

<2>「東アジアの古代文化」(第78号 '94年冬)大和書房で指摘されているもの

 

 ○大隅宮(応神天皇の宮)からは、生駒山が冬至の日の出線上にある。

 

<*>これらの不思議は、饒速日命と太陽信仰のかかわりに関係があるのではといわれており、生駒山は古代日本において特別な位置を占めていたようです。

 

Photo (2)古事記(記)は天皇の権力の正統性の確立を、日本書紀(紀)は皇室の歴史上での位置づけをそれぞれ目的として書かれたともいわれています。このような「記紀」がなぜ皇軍の栄光を貶おとしめるような生駒山(孔舎衛坂くさえのさか)の戦い(皇軍-即位して神武天皇となる磐余彦尊いわれひこのみことの軍-が長髄彦ながすねひこ軍に敗北)<右図:孔舎衛坂の戦場位置→(クリックで拡大>を記載せざるを得なかったのかも生駒山をめぐる謎となっています。また、「記紀」では、皇軍が生駒山の戦いで敗北したのは、太陽が沈む西から太陽が昇る東にいる敵(長髄彦、その義弟は饒速日命)に立ち向ったためとしています。これも、生駒山と太陽信仰のかかわりを示唆しています。

 

(*)参考:生駒山の位相トポロジー.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「生駒」の語源・由来・いわれ

生駒検定<全国版>問17の問題文と解答・解説ご参照

国譲り神話と長髄彦神話

国譲り神話と長髄彦神話.pdf

各地の神社伝承・民間伝承      

(2磐船神社の御由緒<抜粋>.pdf

(1石切劍箭いしきりつるぎや神社の由緒:饒速日・長脛彦が治める鳥見(登美)の里(河内と大和の里一帯)から近畿地方の稲作文化が始まったとしています。

トビ・トミ=ナガ=蛇神=化して鳥(トビ)-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち

(1)トビ・トミ=ナガ=蛇神=化して鳥(トビ).pdf朱と蛇神をめぐる古代日本人たち 

(2)資料

 

 吉野裕子「蛇 日本の蛇信仰」.pdf

 

 ⑨ナーガ(Wikipedia)

 

 ⑧蛇口の語源・由来

 

 ⑦「蛇」は古来より崇められてきた(月・水・蛇は不死の象徴/縄文土器の縄は蛇のこと)⇒現代人にもプログラムされている神話的思考

 

 ⑥アジア神仙思想が生んだ鳥と蛇の合体神

 

 ⑤神話の鳥と蛇を追って八部衆に、龍(Nagaナーガ、りゅう)と迦楼羅(Garudaガルーダ、かるら)がいる。

 

 ④アジアの遺跡の「蛇神」と「聖鳥」.pdf

 

 ③くれふし山の蛇「常陸国風土記 -那賀の郡」

 

 ②奈良市の中山なかやま町の旧字外山そとやまには八幡はちまん神社(この地図.pdfの右下の外山に、神社名の表記はないが神社マークがあるのがこの神社)があるが、中山の中は「ナカ」と表記できる。外山は昔は「トベ」と読んでいたのかもしれない。八幡は「ヤワタ」とも読める。「ナカ」「トベ」「ヤワタ」はいずれも「蛇神」をさす呼称で、長髄彦のトーテム(守り神)であった金色の鵄は霊蛇神であった⇒(1)ご参照

 

  この中山町の八幡神社は北隣の押熊おしくま町の八幡神社に勧請され、押熊の八幡神社は忍熊おしくま王子を祀っているが、一説では、大和を攻めて即位したのは神武ではなく河内王朝の応神で、長髄彦は忍熊王だったとのことである<歴史倶楽部・ANNEX「饒速日尊墳墓を探して」(ご注意:クリックするとサウンドが流れます)をご参照>。

 

 ①出雲では、「富」を「とび」と読む(「富村」は「とびむら」と読む)⇒ご参照

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神武東征とは  

(1)記紀には大国主の物語として記されていないが、実際は、六代目大国主の長髄彦と天津族(神武=実際は崇神)との戦いであった(「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdfの第三章・第一三章ご参照)。

)記紀等に記された神武東征とは?(まとめ)<リンク>

國覓クニマ(住むのに適したよい土地を探し求めること)ではなかったか⇒折口信夫「大倭宮廷の剏業期」.pdfの「語部」の項ご参照

谷川健一「列島縦断地名逍遥」より       

       (文中の太字は引用者による)

 『魏志』東夷伝倭人の条の冒頭は「倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島(谷川氏は山島に付点をしている)に依りて国邑をなす」となっている。「山島」という語は、山が海ぎわまで迫っていて平地に乏しい倭国の地形をよく捉えている。日本には大陸国家のように大平原の文明は育たなかった。平原の文明に特徴的なのは人間の力による計画性である。しかし、日本には海山のあいだに自然発生した小集落が村落を形成し、やがて都邑に発達したものがほとんどである。山民、海民のいとなみかから生まれた地名が太古から今日までつづいてきた所以である。

 「山島に依りて」という言葉にふさわしく先史時代から海に漁すなどりし、山に獲物を追った海民、山民の後裔である海部あまべ、山部やまべ・・・・・。

殺戮

 戮りくにははずかしめという意があり、殺戮とは、命の尊厳を踏みにじる殺し方をいう。つまり、「食べるため以外のために殺す」ことをいう。

 殺戮により人間は堕落する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(神武東征神話の)金の鵄(金鵄)  

<1>(神武東征神話の)金の鵄とび(金鵄きんし)について、以下、生駒市誌より引用

 金色の鵄は、本来は長髄彦(また登美彦)の側のトーテム(神)ではなかったか。登美彦の登美(トミ・トビ)と、鵄(トビ)と通ずるようである。そしてこれは生駒の「山ノ神」であり、霊蛇神であったものであろう。さきの『宇佐宮託宣集』に八幡神の発現の記事としてみられた「霊蛇、化鳥」の図式すなわち「金色の蛇(トビ)→金色の鳥(トビ)」が、まさにその原型をとどめる形でここに神武東征に明示されたものではないかと思われる。

 さらに蛇神の呼称は数多くあり、トビ(トベ)・ナガ(ナガラ)のほかヤアタ(ヤワタ)・ミワ(ミイ)などが、後世になって混在したことも考えられる。長髄彦の名も、スネが長いというのが本来ではなくて、長=ナガ=蛇神の呼称であり、したがって古事記の登美彦(トミ・トビ)の名のほうか原型であったとおもわれる。妹をトミヤ姫とするのかその一証である。それが、トビもナガも、ともに蛇神の呼称であったゆえに混淆したのではなかろうか。それはとも角として、「金の鵄」にかかる伝承の真意は「霊蛇、化鳥(トビ)」という原型をのこしたものとして解されるべきであろうとおもう。

<2>(神武東征神話の)金の鵄とび(金鵄きんし)について

 ①生駒市誌より引用⇒トビ・トミ=ナガ=蛇神=化して鳥(トビ).pdf

 ②富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-」.pdfもご参照

<3>長髄彦(ナガスネヒコ)守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?⇒答え

<4>ご参照:蛇神(じゃしん・へびがみ)

葦原中国(あしはらのなかつくに)    

(1)記紀神話では、高天原(天津神が住んでいるとされた場所)と黄泉よみの国(地下の死者の世界)の間にある人間が住む世界。「つ」は現代語の「の」に相当する。葦あしの群生する地上の世界をさしてこう名づけられた。(高天原や黄泉の国については日本神話のことばご参照

(2)葦原中国を代表する舞台(葦原中国の中心部)はどこか。

 ①従来は、出雲であるとされてきた。

 ②近年、有力となってきた説

 古代の海が退きはじめて海面が下がった跡の干潟や湿地一面に葦あしが生い茂っていた日本列島の中央に位置し、水路を通じて日本国中のみならず世界にも繋がっていて、もっとも交通や物流の便の良い地するところが葦原中国を代表する舞台(葦原中国の中心部)だとすれば、それは、大阪平野・奈良盆地・京都盆地一帯、または、それより狭く奈良盆地がそうであるといえるでしょう。  葦あし/ヨシ原の水路は現在でも、物を運んだり、水田に行くときに利用されている ⇒近江八幡の水郷(葦原)の写真.jpgHP「光のカケラ」より

国生み(国産み)神話/豊秋津洲(とよあきつしま)

(1)国生み(国産み)神話⇒生駒検定<全国版>問15の問題文と解答・解説ご参照

(2)豊秋津洲=縄文語(アイヌ語)で「ト・ヤ・アカテュル」=「ト(海/湖)・ヤ(岸の)・<アカ(尾根)テュ(峰)>(山稜)ル(路/跡)」~このページより~

(*)この記事のPOSTED COMMENTに「お姉さんの正体は日本神話の国産みと関係があるのではないか」との記述あり。

弓矢 それは古代人にとって特別の意味を持っていた。が・・・。

弓矢の発明というのは、人類の歴史を、弓矢前と後に分かつ大きな事件です。その場合、われわれ現代人のいい方だったら、あれは人間が発明した、と簡単にいいますよね。しかし古代人はそうはいわなかったと思うんです。どう思ったかというと、神様が弓矢を与え給うたと。そりゃあんなにしなう竹なんていう存在、人間が作ったものじゃないですから。なんか知らんが人間がこの地上に生まれてみたら竹があった、っていうようなもんでしょう。そういう意味じゃ、まさに神から賜わったものであると考えたでしょう。そして弓矢によって、極端ないい方をすれば、いままでの悲しみの時代が喜びの時代に変わった。これは神様が弓矢をわれわれに給うたおかげである。これが古代人の考え方だと思うんです。<古田武彦『古代通史』より>

)弓矢は、縄文人にとって(1)のように特別の意味をもっていた。つまり、「狩猟道具=命をいただくためのもの」として神から賜ったものであった。しかし弓矢は、「国家」(=統治機関=権力=抑圧機構)Photoというものが成立し始める時代(弥生時代)の到来とともに「武器=命を奪うためのもの」に変質してしまった。それにより、殺戮が始まった。縄文時代の石鏃せきぞくが弥生時代に入って鉄製の鏃やじりに取って替わられたことがそれを示している(右図<クリックで拡大>ご参照)。右図は「NHK 高校講座 日本史 弥生文化と小国家の形成(15.5.1)」(動画文字と画像)より。

 縄文 弓矢は狩猟に必要→石鏃作成

 弥生 国家の成立→弓矢を戦いのための武器に悪転用→鉄製の鏃作成

)参考

 ○弓矢の発明には250万年の工夫の積み重ねが必要だった。

「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)

       このパラダイムの根拠となった資料

 

(1)日本列島には、先住民(縄文人)が住んでいた。

   ①彼らの生業は、主が狩猟・採集・漁撈、従が簡易農耕(陸稲など)。

   ②奈良湖ならこ周辺地<生駒神話の舞台>の指導者はトミのナガスネヒコ(単に、ナガスネヒコ、または、トミヒコとも呼ばれる)である。「トミの」はトミ地域(奈良湖の北西部と南東部の2地域にある)を本貫ほんがん(出身地)・根拠地とするの意で、その名は、地形詞(地形を示す名詞)のナガスネにヒコ(指導者等の優れた男子の意)を付けたもの。奈良湖周辺地の指導者たるナガスネヒコが、そこでの「国譲り」ののち、東北(東日流つがる)に来て先住民(縄文人)の指導者となった(参考)。なお、阿弖流為アテルイ東北におけるナガスネヒコの子孫である

   ③弓矢は彼らにとって特別の意味を持つ<留意点の(6)ご参照>。

 

(2)早期(先発)渡来人(早い時期に渡来)が日本列島に

   ①彼らの主な生業は農耕(水田=水稲耕作)

   ②出雲に渡来したものの長は、神話・伝承ではスサノオ-ニギハヤヒ

   ③出雲に渡来したものが大和に進出したことを、記紀神話ではニギハヤヒの降臨という(記紀神話では、海の向こうから、あるいは、海路でやって来ることを降臨という)。彼らは、日本海・近淡海ちかつあわうみ(現琵琶湖)方面から南進してきた。だから、記紀神話ではニギハヤヒは、当時大阪湾に突き出た半島だった生駒山.jpgの北端(哮ヶ峯たけるがみね)に降臨したとなっている。現在、琵琶湖から大阪湾にそそぐ淀川の支流である天あまの川の源流(哮ヶ峯の近くにある)にある住吉神社には海・航海の神である住吉大神とともにニギハヤヒが祀られている。このことは、出雲から進出してきた人々は、当時入江であったこの付近で上陸したことを伝えている。

 

(3)先住民(縄文人)と先発渡来人

   ①両者は協力・協働、住み分け・共存から結合へ。

   ②先住民(縄文人)と渡来人の結合が進行すると、弥生人が形成されていった(ただし、日本列島の南北両端ではその結合・形成は行なわれなかった/または、弥生人との結合を避けた先住民は日本列島の南北端に移動した)。先住民(縄文人)と先発渡来人の結合を伝えるものが、記紀神話では、ナガスネヒコの妹(娘という説もあり)であるトミヤヒメとニギハヤヒの婚姻。

   ③出雲に渡来したものは、播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも進出<注>。出雲を本貫(出身地)とする彼らを出雲族(出雲勢力・出雲民族)という。この出雲族が先住民(縄文人)と協力・協同、住み分け・共存から結合する中で形成した地域小国家連合体を「出雲の国という。

     <注>古代には、のちの平野部分はほとんど海水で覆われていて、内陸の川の幅も広く、その源流部分も入江となっていた古代日本の地形ご参照)。そのため出雲族は海運・水運をフルに活用して、日本海、現在流域を播但線や山陰本線などが走る川、日本海と繋がっていた琵琶湖・河内湾を通って播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも進出していった。  

   ④弥生人が水田(水稲)耕作を拡める過程で里山が形成されていった。 (参考)里山の形成とは、原生林(1次自然=照葉樹林)を切り開き(破壊し)て田畑をつくり、破壊された自然が2次自然=落葉広葉樹林として復活・再生することといえる(これを描いたのがもののけ姫)。

 

(4)後発渡来人(遅い時期に渡来)が日本列島に

   ①彼らの主な生業は前期渡来人と同様(本格的農耕)→早期(先発)渡来人との土地・水争い→先住者(先住民・早期渡来人)との協力・協同、住み分けはできず。

   ②(早期渡来人がすでに北九州にいたので)日向に渡来したものの長はニニギ-イワレヒコ

   ③後発渡来を記紀神話では天孫降臨という(ニギハヤヒの降臨を第1次天孫降臨、ニニギの降臨を第2次天孫降臨という場合もある)。

   ④日向に渡来したものは、薩摩にも進出。彼らを日向族(日向勢力・日向民族)、または天孫族、天津(天つ)族、天津(天つ)民族という。津は「の」の意。

   ⑤記紀神話では、彼らの神を天津神(天つ神)といい、先住者(先住民・早期渡来人)の神を国津神(国つ神)という。

 

(5)(2)以後、日本列島各地に部族連合の国(地域小国家の連合体)が形成されていった。

    中国の史料では、そのうちのいくつかに名を与えている。邪馬台国・狗奴国など。

 

(6)各地に形成された国々の関係を次のように捉えるのが最も妥当的である。つまり、次のように捉えると、記紀神話、各地の神社伝承・民間伝承、郷土史料、海外の文献、そして各地の古代の地形・地名、遺跡・遺物と照らし合わせても、最も矛盾なく合理的に説明できる。

   ①「出雲の国」は日本列島の中央部を治めていた。

      日本列島の中央部とは、古代に海であった奈良盆地、それと繋がる河内(大阪)湾および古代に海であった京都盆地、それと繋がる琵琶湖(塩津海道により日本海と結ばれていた)<古代日本列島中央部の概念図.gif>。この地域は、北方日本海地域・西方瀬戸内海地域・南方太平洋地域・東方地域の結節点にあたり、ひと・モノ・情報の交流・流通の中心であった。

   ②辺境の地にあった日向勢力(天孫族)の国(=狗奴国は、北九州の国(邪馬台ヤマタイ国)を支配下に入れた(いわゆる「神武東征」はここまで)。のち、瀬戸内海を船団で東進し、ナガスネヒコニギハヤヒが指導者であった日本列島の中央部を中枢としていた「出雲の国」に迫って「国譲り」させた。これを記紀は「神武東征(東遷)」というが、史実は、神武東征(東遷)ではなく「崇神東征」で、崇神が東征により河内王朝を開いた。

      (参考)辺境の地にあった勢力が中央部に進出したり中央部を統治する例.pdfは多い。

   ③天孫族(天津族)は、中国に朝貢していた邪馬台ヤマタイを滅ぼしたことが不利益(邪馬台国から朝貢を受けていた中国に攻められるなど)にならないようにするため、それを隠すため、自らの国を邪馬台ヤマト国と称し、自らが作成した記紀には一切邪馬台国のことは記さなかった(これが、記紀に邪馬台国の記載がない謎の答である)。また、かつて出雲族が日本列島中央部を治めていたことも隠すため、記紀で、舞台を「地理上の出雲」に限定した出雲神話を描いている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?

<答>縄文人(ナガスネヒコ)の本然の性が失われるのを阻止するためである。

<解説>縄文人の本然の性とは何か。

 長髄彦(ナガスネヒコ)は縄文人の指導者である。

 縄文人は、狩猟採集民族であり無駄な殺し(殺戮)はしない。狩猟採集民族は、自ら食料をつくることはせず自然(神)が授けたものを受け取るのみであり、食料は他者=自然(神)のものであり、自分のものではないからである(自然から恵まれた食糧をアイヌ語で「ハル」という)。そもそも、無駄に殺すことは、自らの生命を維持するに不可欠な食料を無駄にすることである。また、最小限の殺しにより授かった生命を食べることにより、その生命を自らの心身に取り入れる。そのことで、殺されたものは生き続けるのである。<殺すのは自らと他者を生かすため=(自らの心身に取り入れることのない生命は)殺さない・殺せない>これが狩猟採集民族=縄文人の本然の性である。縄文人にとって食べるため以外のために殺すことは悪というより、不可能なものである。この本然の性が失われようとしたとき、どうなるか。それが、この物語の中で示されたのである。守り神は本然の性が失われないように見守る神であり、<本然の性が失われる=そのものがそのものでなくなる>危機のときに立ち現れる。

 神=自然は、縄文人が本然の性(「自然に=生まれながらに」持っている性質)を失わないことを約束に、食を獲得し命を維持するための道具として弓矢を縄文人に与えた。これにより縄文人は喜びの時代を手に入れた(留意点の(6)<弓矢は古代人にとって特別の意味を持つ>ご参照>。

 従って、ナガスネヒコが弓矢(弓矢は古代人にとって特別の意味を持つ)を用いて戦う(食べるため以外のために殺す)ことは、縄文人の「本然の性を失わさせる」(=そのものがそのものでなくならせる=存在価値のないものに転落させる)行為である。そのため、ナガスネヒコ率いる縄文人を守る(本然の性を失わさせない=そのものがそのものでなくならせない=存在価値のないものに転落させない)ために守り神(「神=自然」の化身)たる「金の鵄」がナガスネヒコ軍の戦闘を止めたのである。

 補足:遊動的な日本列島先住の狩猟採集民「山人やまびと」(縄文人)は、土地の共同所有や生産の協同自助の生活をしていた(殺戮を惹起する契機を孕む闘争・抗争が不要な生き方をしていた)。かかる生き方に、現代の抑圧の世界構造(「資本=ネーション=国家」)に対抗し、それを乗り越える未来の可能性を見出すことができるとの見方(「山人」に見る未来の可能性.pdfご参照)は卓見である。

ご参照:国譲り神話と長髄彦神話.pdf

*。これに対抗し、乗り越える未来の可能性を

「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)の根拠となった資料

 ~下記の資料を根拠に「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)を設定しました~

(1)原住民族(長髄彦)等を支配した銅器文明の支持者(饒速日命)もやがて、鉄器によって更に強く武装した民族(天孫民族)の征服にあって消えて行った。生駒市誌より>

(2)銅鐸祭祀のおこなわれた地方は物部王国と称すべきものがあり、蝦夷と協同した統治形態があった。谷川健一「白鳥伝説」 より>

(3)おそらく長髄彦は、縄文土着の民であり、饒連日は弥生渡来の民であったにちがいない。おそらく弥生中期ごろまで、このような土着縄文民と渡来弥生民との協力からなる権力が、この地を治めていたのであろう。しかしこの権力は、南九州からやってきたはなはだ武力の優れた弥生民によって征服された。梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」より>

(4)く三世紀末か四世紀の初めごろに、九州北部から新しい朝鮮からの渡来集団が畿内に強引に入ってきた。それはまさに割り込みであった。この北部九州からの新来集団は、それまでの「北九州国家」ではない。むしろ従来の「北九州国家」はこの半島からの新鋭集団に包含され、「女王国」の性格も新来者の性格に同化されたであろう。おそらく「倭人伝」にみえる女王国の強敵「狗奴国」もその新勢力の前に敗退したにちがいない。そうしてこれが九州北部に一世紀ぐらいいて勢力を増大させ、五世紀末ごろに畿内にむかって東進を問始したのであろう。これが天皇家の祖先勢力であり、いわゆる「天孫民族」と呼ばれるものであろう。その部族の小首長たちが『記・紀』でいう「天つ神」である。これに対して先住の在地部族の首長たちはすべて「国つ神」となる。<松本清張「古代探求」.pdfより>

(5-1)近畿の先住者(銅鐸圏の住民)に対しては“敬意”ある表現をなした「侵入者」だった。しかし、その近畿の地ですでに“偉大な成長”をとげるにつれ、東北地方周辺の勇者に対し、「蝦夷」と呼び、彼等に対し、さまざまの「差別用語」を累積し尽くすまでに堕落したのであった。古田武彦「真実の東北王朝」より>

(5-2)第一。日本列島内の関東及び西日本の人々、つまり一般庶民は、この東北地方周辺の人々を「えみし」と呼び、敬意を隠さなかった。これは、旧石器・縄文以来の「先進文明の地帯」がこの地帯であったから、当然であった。 第二。ところが、弥生期以降、中国大陸・朝鮮半島から金属器文明が流入するに及んで、情勢は一変した。先ず、九州王朝、つづいて近畿天皇家(分王朝)が成立し、そこを新しき「文明中枢」として、かつての「先進文明地帯」に対する。差別主義の病”が発生した。中国の“発明”した文字(「蝦夷」)と共に、差別思想をもまた、浅はかに「輸入」し、無法に「模倣」することとなった。これが、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』等に“満ちあふれた”「蝦夷」字使用の歴史的意義なのである。古田武彦「真実の東北王朝」より>

(6)水田稲作や金属器、大陸系磨製石器や大型壷、農耕祭祀や環濠集落などは、列島で自生したものではなく、南部朝鮮から持ちこまれたものであった。これら渡来してきた要素と、甕や打製石器、あるいは竪穴住居や木器や漆器など、縄紋時代から引き継がれたたくさんの要素とが組み合わさって弥生文化が形成される。もちろん、二つの文化はそれぞれの担い手がいたのであって、いまそれを縄紋人と渡来人・外来人とよぶとすれば、北部九州とその周縁地域では、玄界灘を越えて渡来してきた人びとの数や回数とその時期によって、弥生文化の質や方向性が決定されるだろうし、瀬戸内や大阪湾沿岸の地域では、外来の人びとの故郷や持ちこまれた文化の程度によって、どのような弥生文化が誕生するかが決まってくる。もっと東方の地域では、外来の人びとが移住してきた段階、新しい文化を構成する〈ものや情報〉だけが伝わってきた段階など、いろいろなケースが考えられよう。金関恕+大阪府弥生文化博物館 「弥生文化の成立」より>

(7)村井康彦『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdf嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf 

留意点   

(9)古代日本の地形

(8)神武東征神話は、狗奴国東遷(狗奴国東遷説.pdfご参照)の歴史的記憶の反映ではないか。

 

(7)人名・地名は、必ずしも特定の1人・1箇所を指すものではない。

 

<2>語部かたりべの物語に現れる神名・人名は、真の名を伝えることが少く、多くはその地の主ぬし或は有力者なるがために、地名に直に性別を表す語尾(ヒコ・ヒメ)をつけることが多い(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」.pdfの「鳥見彦・長髄彦」の項をご参照)。

 

<1>例

 

  ①長髄彦」とは 「長洲根(ながすね)彦」 という、やはり地形詞(引用者注:地形を示す名詞)なのである。あるいは、河内湾の湾入部(大阪城から南方まで、突出した 「長洲」になっていた。)や筑紫の志賀島のつけ根のところ(現在、つながっている)など、「長洲根」と称さるべき地形は、決して少なしとしないのである。その地の 勇者たちをしめす名称、それが「ながすねひこ」なのである。従って各地に生じうる名だ。<古田武彦「真実の東北王朝」> →長髄彦は、大和・河内にも日高見にもいた。筑紫にもいたかもしれない。

 

  ②鳥見という地名は各地にある。大和ではこの地のほか磯城郡外山や宇陀郡中富などがあり、櫻井町・藤原町附近である。神武天皇傅承には鳥見の地は鳥見山中の霊畤と鵄邑との二つが見える。・・・・・鳥見地方は古くはかなり廣地域であったことがしれる。・・・・・鵄邑は北倭・富雄地方、鳥見山中の霊畤の設けられた鳥見山は櫻井町外山としたのは、現在断案し得る最も妥当なものといわねばならない。<以上、富雄町史より> 大和盆地の西北部と東南部に二つのトミと呼ばれる地域があったことはたしかである(引用者:この地図.jpgご参照)。私の考えでは、大和盆地の西北部にいたナガスネヒコが大和盆地の東南部でも勢力をつよめていって、神武の軍を防いだのだろうと思う。<以上、谷川健一「白鳥伝説」より> →長髄彦・ニギハヤヒの本拠地は白谷(奈良湖北西)、長髄彦とイワレヒコの決戦地は外山付近(奈良湖南東)、金鵄は白谷付近より飛び立ち奈良湖上空を飛翔して決戦地に急行した。

 

  ③そこで、この系譜と大国主の別名を対応させてみると
一代目大国主は ヤシマジヌミノカミ…………………タケミナカタA
二代目大国主は フワノモジクヌスヌノカミ…………オオナムチノカミ
三代目大国主は フカブチノミズヤレハナノカミ……アシハラシコオノカミ
四代目大国士は オミズヌノカミ………………………ウツシクニタマノカミ
五代目大国主は アメノフユキヌノカミ………………ヤチホコノカミ
六代目大国主は オオクニヌシノカミ…………………ナガスネビコ
となります。これを念頭に置いて『古事記』の大国主の物語を読み直してみると、出雲神話はスサノオからいきなり六世の孫の話に飛んでしまっているのではなく、順番を追って書いてあることが分かりました。<嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf

 

  ④邪馬台国の女王・卑弥呼を特定の個人にあてはめるには無理がある。卑弥呼は北九州にも、大和にも、またその他の地方にもいていいのである。卑弥呼は、特定の個人を指す固有名詞ではなく、「ヒメミコ」を意味する普通名詞なのである。ヒメは女性、ミコは巫女である。<樋口清之「逆・日本史 3」.pdf

 

(6)弓矢は古代人にとって特別の意味を持つ

 

(5)①・②→縄文人は「強いが戦わない」。それゆえ、敵であるイワレヒコ軍でさえも「敬意を表せざるを得ない」人々である。『日本書紀』はこのように言っているかのようにとれる。

 

 ①『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。  詩烏(えみしを)毘利(ひだり)毛毛那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず) 「ひだり」は“一人。「ももなひと」は”百(もの)な人。岩波『日本古典文学大系』本による。二〇五ページ)  この「愛詩」は、神武の軍の相手方、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、「夷(えみし)を」という“文字”を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の“天子中心の夷蛮称呼”の文字だ。・・・・・第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという“差別文字”を当てていない。「愛詩」という、まことに麗わしい文字が用いられている。これは、決して″軽蔑語″ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「」は“水の盛なさま”。彼等は“尊敬”されているのだ。  さらに、内容も、そうだ。“この「えみし」は、一人で百人に当るほど強い”といって、その武勇をはめたたえているのだ。もちろん、その結論は、“そんなに強い、といわれる彼等さえ、わたしたち(神武の軍)には、全く抵抗さえしなかったという、自己賛美、いわゆる“手前味噌”に終わっている。しかし、その前提をなす「えみし」観、それは、以上のようだ。「軽蔑」でなく、「敬意」なのである。――これは、何か。<古田武彦「真実の東北王朝」より>

 

 ②『日本書紀』の神武東征の条をみると、天皇の軍隊の中核をなしていたのは大伴氏と、それにひきいられた久米部であったことが分かる。・・・・・『古事記』には、久米部がナガスネヒコを撃破したときの歌が、幾首か載っている。その一つに、   神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石(おひし)に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這(は)ひ廻(もとほり)り 撃ちてし止まむ   という歌がある。『古事記伝』をはじめとして、従来の解釈は、ナガスネヒコの軍隊を隙間もなくとりかこむ形容に、シタダミという貝が大きい石の上をはいまわる格好をもち出しかのだ、としている。すなわちシタダミは天皇の軍のたとえとしてもち出したものと理解されている。しかし実際はそうではなく、シタダミは逃げ足の早い敵の形容と解すべきである。私は先年、能登半島に旅行したとき、七尾湾の海岸で岩をはっているシタダミをとっている老人に出会った。その老人から、シタダミは、天候に敏感で、嵐などの悪天候になりそうなときは、それを予知していちはやく岩の裏面にかくれるという話を聞いた。シタダミのこうした習性を逃げ足の早い敵になぞらえたものであることがそのとき分った。・・・・・その久米歌の一つに、   夷(えみし)を 一人(ひだり) 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たたかい)もぜず   という歌かある。この歌についてはさきにも触れたが、夷は『日本書紀』の原文では、「愛瀰詩(えみし)」となっている。この歌の意は、蝦夷は一人で百人に当たることのできる強い兵士だと人は言うけれども、自分たち来目(くめ)部に対してはなんの抵抗もしない、というのである。<谷川健一「白鳥伝説」より

 

(4)①・②・③→長髄彦・ニギハヤヒの本拠地は白谷(奈良湖北西)、長髄彦とイワレヒコの決戦地は外山付近(奈良湖南東)、金鵄は白谷付近より飛び立ち奈良湖上空を飛翔して決戦地に急行した。

 

 ③長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところと推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし/(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。<生駒市誌より>

 

 ②鳥見地方は古くはかなり廣地域であったことがしれる。かくてこれらを綜合考証して、昭和十五年に神武天皇聖蹟調査委員会が、邑は北倭・富雄地方、鳥見山中の霊畤の設けられた鳥見山は櫻井町外山としたのは、現在断案し得る最も妥当なものといわねばならない。<富雄町史より>

 

 ①大和盆地の西北部と東南部に二つのトミと呼ばれる地域があったことはたしかである。私の考えでは、大和盆地の西北部にいたナガスネヒコが大和盆地の東南部でも勢力をつよめていって、神武の軍を防いだのだろうと思う。<谷川健一「白鳥伝説」より

 

(3)スサノオは出雲に降臨(神話用語の「降臨」は歴史用語では「渡来」という)し、各地に稲作技術を広めた。その子、ニギハヤヒも父に協力して大和に降臨し、稲作技術を広めた。彼らを1次降臨勢力(出雲勢力)という。その後、アマテラスニニギを日向に降臨させた。そのひ孫がイワレヒコである。彼らを第2次降臨勢力(日向勢力)という。この第2次降臨勢力の子孫は、第1次降臨勢力の業績を隠すために、「記紀」の中で、スサノオは稲作の敵対勢力であるかのように描いた。しかし、稲作技術を広めたスサノオとニギハヤヒへの人々の感謝の心を消し去ることは出来ず、彼らは全国各地の神社で稲作技術を伝来した福の神あるいは村の鎮守として祭られ、信仰を集めている。

 

(2)「長髄彦」とは 「長洲根(ながすね)彦」 という、やはり地形詞(引用者注:地形を示す名詞)なのである。あるいは、河内湾の湾入部(大阪城から南方まで、突出した 「長洲」になっていた。)や筑紫の志賀島のつけ根のところ(現在、つながっている)など、 「長洲根」と称さるべき地形は、決して少なしとしないのである。その地の 勇者たちをしめす名称、それが「ながすねひこ」なのである。従って各地に生じうる名だ。<古田武彦「真実の東北王朝」より

 

(1)弥生時代、陸地を歩くには、尾根筋か、けものみちしかなかった。見通しは利かず、どんな危険が待ち伏せしているかも分からなかった。そこで当時の旅行は、第一次的には海や川や湖沼などの水路を利用して、目的地に達したと思われる。陸地を通ることは第二次的であった。それはアイヌはもちろん、明治になって北海道の入植開拓者がもっぱら川を交通路として、舟で移動していたことからも分かる。<谷川健一「白鳥伝説」より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記紀について     

(5)記紀に記載の「大和王権がその由来と正当性を説くために創作された政治的神話」が信じられるためには、「地方の神々や共同体で口承されていた神話」を巻き込んでいく必要があった(ご参照.pdf)。

(4)記紀の二つがほぼ同時期に編まれたのはなぜか.pdf

(3)記紀・万葉は古代のムラ段階から継承してきた少数民族的伝統 : 自然と共生し節度ある欲望を生きる少数民族の文化は、自然破壊と欲望の開放という近代化の行きつく荒廃に対する最後の防波堤.pdf

(2)記紀同一視改める必要あり.pdf

(1)記紀の概要

  ①古事記…(略称「記」)その序によれば和銅5(712)年太安万侶によって献上された、現代に伝わる日本最古の歴史書。上・中・下の全3巻に分かれる。原本は存在していないが、後世の写本の古事記の序文に書かれた和銅年及び月日によって、年代が確認されている。成立の経緯を記している序によれば、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもの。一般的に「誦習」は「暗誦」することと考えられているが、荻原浅男氏(小学館日本古典文学全集)は、「古記録を見ながら古語で節をつけ、繰り返し朗読する意に解すべきであろう」という。『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、天武天皇の命で編纂されていることから、勅撰と考えることも出来る。天皇と祭神を結びつける事により、天皇の権力の正統性を確立することを目的としていたと見ることも出来る。史料の上では成立過程や皇室の関与に不明点や矛盾点が多く、古事記偽書説の論拠となっている。<Wikipediaの文を基に記述>  ニュースの本棚 : 古事記1300年.mht

  ②日本書紀…(略称「書紀」「紀」)日本における伝存最古の正史で、六国史(古代日本の律令国家が編纂した6つの一連の正史のこと)の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、養老4(720)年に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。なお、書紀によれば、推古天皇28(620)年に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4(645)年の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。書紀は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は、異伝、異説を記した現存しない書が書紀の編纂に利用されたことを示すといわれている。書紀では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には書名を明らかにしているものがあるが、いずれも現存しない。書紀の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。<Wikipediaより>

古史古伝      

*古史古伝とは、日本の古代について書かれているとされる古文献。アカデミズム(正統歴史学界)からは認められずに黙示されるか偽書とされている。多くは、被征服者側の視点で書かれており、記紀が征服者側(権力者側)の論理で編纂されたのとは対照的な内容になっている。 

(1)『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし) 

  ①古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされている。いわゆる和田家文書を代表する文献。この本の多くを占めるのは、秋田孝季・その妹のりく・その夫の和田吉次たちが神社や仏閣などに蔵されていた文書を“写し採った”もので、彼ら自身が執筆した文章もあるとされる。すでに偽書であることが判明しているという説と真書だとする説がある。偽作であるだけでなく、古文書学で定義される古文書の様式を持っていないという点でも厳密には古文書と言い難いという指摘もある。しかし関係者の間では「古文書」という呼び方が定着している。 

  ②イワレヒコノミコトとの戦い後、長髄彦ナガスネヒコは兄アビヒコと共に日高見(東北地方)の地を新たな故国として移住し、先住民族と合流して「アラバキ族」と名乗り、日高見の国を長く治めたと記述している。なお、「東日流」とは「日の本が東に流れた」という意である。

 

  *内容のあらまし⇒東日流外三郡誌の世界ご参照

(2)『先代旧事本紀大成経』…陸奥国一之宮鹽竈(しおがま)神社の鹽竈大神をナガスネヒコであるとしている。 

(3)『秀真伝』(ほつまつたゑ)

 

  ①ヲシテ(神代文字のひとつとされる)を使い五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)で構成された日本の古文書。その成立時期は不詳だが、少なくとも江戸時代中期まで遡ると考えられている。<Wikipediaより>

  ②ひらかな漢字訳<出典(株式会社 日本翻訳センター URL:http://www.jtc.co.jp/ URL:http://www.hotsuma.gr.jp/)>  カタカナ訳・語源考察・漢字読み下し<出典:ほつまつたゑ 解読ガイド

(4)『上記』(うえつふみ)…ウガヤフキアエズ王朝に始まる神武天皇以前の歴史(神武天皇はウガヤフキアエズ王朝の第73代)や、天文学、暦学、医学、農業・漁業・冶金等の産業技術、民話、民俗等についての記事を含む博物誌的なもの。神代文字(豊国文字)で書かれているとされる。序文によると、1223(貞応2)年に源頼朝の落胤とも伝えられている豊後国守護の大友能直が、古文書をもとに編纂したとされている。<Wikipediaより>

(5)古史古伝には、竹内文書・九鬼文書・物部文書・富士文書・カタカムナ文献・三笠文などもある。

(6)古史古文  古史古伝とは?  

トミのナガスネヒコ<単に長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)または登美彦(トミヒコ/トミビコ)ともいう>について 

Q1. 長髄彦(wikipediaは、『記紀』『先代旧事本紀せんだいくじほんぎ』『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし』などに登場する<これらの文献については、参考文献等をご参照>ものの、Photo明治に入って“逆賊”だと再認定されて以来、最近までほとんど研究されることなく「何者であるか?」が謎であった※が、生駒の神話(生駒を舞台とする日本神話)<映像で見る生駒の神話→その一場面(左が長髄彦軍・右が神武軍/クリックで拡大)>の主人公である「長髄彦とは何者だろうか? <以下、信頼できる説>

   ※ 「これらの論者は、ただ一点重要なことを見逃しているのです。神武東征の際に河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先住民とは一体何者であったのか、ということです。この点を不問にしているため、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている。」<谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」 より>

 A1.「矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦(ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。」「長いすねの様な形-長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。」<生駒市誌

 A2.「鳥見谷にもいわば鳥見国ができ、その首長が神武天皇の頃では長髄彦」<富雄町史

 A3.「「生駒地域の首長だっただけでなく、饒速日命にぎはやひのみことの率いる邪馬台国連合の総大将であった」<村井康彦著『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』(岩波書店).pdf

 A4.「6代目にして最後の大国主」<嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」pdf

 A5.オオクニヌシノミコトの正当な後継者として、神武帝の侵入以前の大和の支配者」< 梅原猛「神々の流竄」> 「おそらく長髄彦は、縄文土着の民」<梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」

 A6.「原住民の首長のナガスネヒコ」<谷川健一「白鳥伝説」 > 「大和地方の「登美(とみ)」におりました豪族」「ナガスネヒコというのは「スネの長い」異族の形容詞であったと思われます。「なかすね」、「中洲根」とも表現されており、日本列島の真ん中の美しい地味の肥えた大和を支配していた。」<谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」 >

 A7.銅鐸文化圏最大の豪族であり、同時に、銅鐸祭祀国最後の王(引用者:首長というべき)」<木村武俊「長髄彦の謎」.pdf

 A8.南北2つの鳥見とみ(登美とみ)は中洲なかす/ながす(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね(長髄ながすね/なかすね)彦であった。

    首長とは、「国家や政府というものをもたない人々の社会、つまり対称性の社会の指導者のこと<中沢新一「熊から王へ」.pdfの(P.136~)(P.193~)あたりをご参照>。

    なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。

 A9.「長髄彦・・・・・銅鐸国家側の中心人物」<「古田武彦「古代通史」

 A10.長髄彦=卑弥呼の兄 」説<「邪馬台国=富雄川流域」説ご参照>

 

Q2.長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)の意は?<諸説あり>

 ①日本の古語には清音と濁音の区別がなかったのでナガスネヒコともナガスネビコとも言う。ナガスネヒコの元の名は中洲根彦という。中洲根彦とは、中洲(ナカス・ナガス/なかつくに=中心の国/倭=現在の奈良県)の根(ネ/根本・基礎)をつくった彦(ヒコ・ビコ/おおいなるひと・すぐれたひと)という意味を持つ(従って、長髄彦は、長い髄(脛/スネ)の彦(男性)という意味ではない)。

 ②『日本書紀』には「長髄は是邑の本の号(な)なり。因りて亦以て人の名とす」とある。これについて池田(末規)氏はナガスネは中洲根であり、中洲は大和、ネは大和島根のネであろうと言っている(引用者注↓)。『日本書紀』に神武の軍隊が「胆駒山をこえて中洲(うちつくに)に入らむと欲す」とあるが、この中洲をナカスとすればその中心になるのが中洲根ということになる。そこにいた異族であるので長い髄の強敵という名を奉られたのである。谷川健一「白鳥伝説」

 (引用者注)大和島は大和の国または大和地方のことで、「根(ネ)」は、日本古語大辞典(刀江書院)に記載の「根」の意味.pdfによれば、「敬称」「発音を便にする(語調を整える)ための接尾語」です。<例>垣根・杵根・岩根など。

 (参考)日本書紀の神武天皇紀の一節

    皇師勒兵、歩趣龍田。而其路狭嶮、人不得並行。乃還更欲東踰膽駒山、而入中洲。 <読み下し>皇師みいくさは兵つわものを(ととのへて、歩かちより龍田に趣おもぶく。而して其の路狭さく嶮さがしくして、人並なみ行くことを得ず。乃ち還かへりて更に東ひむがしの膽駒山いこまやまを踰こえて、中洲(ナガス・ナカス/なかつくに・うちつくに)に入らむ。

 ③矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦・・・・・は、その名の示す通り、長いすねの様な形―長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところ)と推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。 <生駒市誌 

 ④(「長髄彦」とは 「長洲根(ながすね)彦」 という、やはり地形詞(引用者注:地形を示す名詞)なのである。あるいは、河内湾の湾入部(大阪城から南方まで、突出した 「長洲」になっていた。)や筑紫の志賀島のつけ根のところ(現在、つながっている)など、「長洲根」と称さるべき地形は、決して少なしとしないのである。その地の 勇者たちをしめす名称、それが「ながすねひこ」なのである。従って各地に生じうる名だ。<古田武彦「真実の東北王朝」>→長髄彦は、大和・河内にも日高見にもいた。筑紫にもいたかもしれない。記紀に登場する長髄彦は「大和・河内の長髄彦」であった。

 ⑤『古地名の謎(近畿アイヌ地名の研究)』<畑中友次氏著/大阪市立大学新聞会/57(S32).8> : 長曽根(長髄彦)は現代語に直すと中州(大和)根(川)彦(男子、英雄)の意。

  報告者:この説によると「ナガスネヒコは、大和を流れる川である富雄川流域地方の指導者」の意となるでしょう。

 ⑥語部かたりべの物語に現れる神・人は、その地の主ヌシ或は有力者であり、その名は、地名に性別を表す語尾(ヒコ・ヒメ)をつける事が多い(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」.pdfの「鳥見彦・長髄彦」の項ご参照)ので、鳥見彦・長髄彦とは、鳥見(登美)・長髄(中洲根)の主・有力者の意であったのでは。

 ⑦「蛇神の呼称は数多くあり、トビ(トベ)・ナガ(ナガラ)のほかヤアタ(ヤワタ)・ミワ(ミイ)などが、後世になって混在したことも考えられる。長髄彦の名も、スネが長いというのが本来ではなくて、長=ナガ=蛇神の呼称であり、したがって古事記の登美彦(トミ・トビ)の名のほうか原型であったとおもわれる。妹をトミヤ姫とするのがその一証である。それが、トビもナガも、ともに蛇神の呼称であったゆえに混淆したのではなかろうか。」<生駒市誌

 ⑧日本の竜神信仰(竜を雨・水の神とする信仰)について述べた日本の竜神・竜王には「日本の竜神信仰においては中国伝来の竜と日本の水神・蛇信仰が習合しており」とあり、ここには「ナーガはインドで古くから信仰されていた蛇神」とあることから、古代の日本には「竜神=ナーガ(蛇神)」信仰があったと推測され、ナガスネヒコのナガの由来をそこに求めることもできる。「ナーガ(ナガ)=蛇神」については、トビ・トミ=ナガ=蛇神ご参照。

 ⑨中洲(ナカス・ナガス)とは水(海・川)の中に浮かぶようにして在る「洲しま=島」のことで、神世界と人間世界の境(中継地)であり、古代、海底であった大阪平野に浮かぶ島であった「生駒=豊秋津洲」もその1つであり、この地を中心とする一帯の指導者が「中洲根彦」であった。中洲根彦とは、中洲を中心とする一帯の彦(おおいなるひと=指導者)の意である。なお、根は、垣根・性根等の根とおなじく語調を整えるもので、中洲彦というより中洲根彦とした方が整った語調となるのでそうなった。そして、中洲根彦は表記されるときは長髄彦と表記された。

  参考:「もののけ姫」を読み解くでは次のように述べられている。「死にかけたアシタカをサンが連れていった場所、それは森の深部にある不思議な中洲(島)であった(引用者:シシ神の森の中洲.jpgのこと)。・・・・・そこは生と死の境目の島・・・・・。いわば、森の心臓部である。・・・・・中州は、水(神界)と地(俗界)のせめぎあう土地として神聖視されていた。中世に中州で市を開いた職人たちが多かったのもこのためと言われる。『古事記』のイザナギ・イザナミ神話でも、一面の泥海を矛でかき回して出来た中州島(オノゴロ島)に降り立って結婚したとある。天と地を結ぶ場所、生と死を司る場所の典型と解釈すべきではないか。」

 ⑩ 「長髄彦の意味=富雄の丘陵の大夫」説<「邪馬台国=富雄川流域」説ご参照>

 ⑪狩猟採集民(縄文人)は走る能力が高く山野を早く走った(走るために生まれてきたのが人類ご参照)。それを見た弥生人は驚き、縄文人の指導者ことを長髄彦と呼んだ。それには、畏敬の意が込められていたが、やがて、弥生人は、縄文人が早く走れるという自分たちの理解しにくい気持ちを侮蔑の気持ちに変換して縄文人を七束脛ナナツカハギ・八束脛ヤツカハギ・土蜘蛛ツチグモなどと呼ぶようになっていった。

Q3(神武東征神話にも登場する)金の鵄はナガスネヒコの守り神であるが、ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?答え

 

Q4.長髄彦神話(長髄彦物語/長髄彦伝説/長髄彦伝承)とは?/国譲り神話と長髄彦との関わりは?⇒答えは、国譲り神話と長髄彦神話.pdfに記載あり。

 

Q5.登美(トミ)の長髄彦(登美彦)の「トミ」とは⇒答えは、進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像」.pdfに記載あり。

 

Q6 長髄彦の最後(=結論という最も重要な事)は、文献によってどのように違うか。

 ①古事記・・・<ここに邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)が、伊波礼毘古命のもとに参上して、天つ神の御子に申しあげるには、「天つ神の御子が天降って来られたと聞きましたので、あとを追って天降って参りました」と申して、やがて天つ神の子であるしるしの宝物を献って、お仕え申しあげた。>と記すだけで、 長髄彦の最後のことは一切記していない(隠している)

 ②日本書紀・・・<饒速日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。また、かの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。 >と記す 

 ③先代旧事本紀せんだいくじほんき・・・<宇摩志麻治命は、もとより天神が深く恵みを垂れるのは、天孫に対してだけであることを知っていた。また、かの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分かりそうもないことを見て、伯父である長髄彦を殺害した。そして、その部下たちを率いて帰順された。 >と記す

 ④東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし・・・<イワレヒコノミコトとの戦い後、長髄彦ナガスネヒコは兄アビヒコと共に日高見(東北地方)の地を新たな故国として移住し、先住民族と合流して「アラバキ族」と名乗り、日高見の国を長く治めた>と記している。なお、「東日流つがる」とは「日の本が東に流れた」という意である。  

 

参考文献

 ④長髄彦への言及あり⇒トビ・トミ=ナガ=蛇神=化して鳥(トビ).pdf朱と蛇神をめぐる古代日本人たち

 ③木村武俊「長髄彦の謎」.pdf

 ②進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像」.pdf

 ①折口信夫の長髄彦論

参考

 ⑦このページの「トミのナガスネヒコに言及あり」をご参照

 ⑥長髄彦を祀る神社

  村井康彦著『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfに「富雄川・・・・・流域には長髄彦の遺蹟が点在している・・・・・。とくに伊弉諾いざなぎ神社(生駒市上町、長弓寺内旧牛頭天王社)、添御県坐そうのみあがたにいます神社(奈良市三碓)および登弥とみ神社(奈良市石木町)はそれぞれ上鳥見かみとみ・中なか鳥見・下しも鳥見の鎮守とされ、富雄川流域の住民と深いつながりをもってきた。」との記述あり。

  ・添御県坐神社のご由緒に次の記述あり⇒祭神のうち武乳速之(たけちばやの)命の真の名は添御県の一帯を開発し、治めていた首長のな那賀須泥彦(ながすねひこ)とされ、鎮座の起源は奈良時代以前のおよそ古墳時代まで遡ることができます。

  ・【ナガスネヒコを祀る神社】<リンク>

     ・廣瀬大社 - 御祭神はトヨウケビメとウカノミタマが習合、実はナガスネヒコ?
     ・添御県坐神社(三碓) - ナガスネヒコともされる神、南北朝期の重文・社殿のある古社
     ・富都神社 - 由緒不詳も「布都」「登美」で物部色が濃厚、近世には牛頭天王
     ・櫛玉命神社(明日香村) - 玉作連の祖神、長髄彦・饒速日命とも、広瀬郡式内との関係は?

 ⑤「長彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」生駒の神話と天皇制 

 長髄彦の墓

  ・「司馬遼太郎が考えたこと 1」長髄彦.pdf

  ・鍋塚(なべつか)古墳  

  ・オセドウ貝塚 : 安日彦・長髄彦の遺骸を再葬した墓地とされる。

 ③古史古伝「先代旧事本紀大成経」は陸奥国一之宮鹽竈しおがま神社の鹽竈大神をナガスネヒコであるとしている。

 ②金色の鵄は、長髄彦のトーテム(守り神)で、生駒の「山ノ神」であり、霊蛇神であった(トビ・トミ=ナガ=蛇神.pdf ご参照)。

 ①長髄彦の後裔とその奉斎神社

 

河内湖(深野池)・河内潟・河内湾

       河内湖は江戸時代には深野池ふこうのいけと呼ばれた。

【1】地図

古代の河内平野と大和盆地.jpg

浮かぶ生駒山地(『生駒市誌』より).pdf

縄文海進の海岸線(縄文から弥生を経て8世紀くらいまで、日本海~大阪湾(河内湾・河内湖・河内潟)~奈良盆地(奈良湖)は水路で結ばれていた。そして、天野川も今より広くニギハヤヒが天の磐船で遡るには充分だったはず。)   古代地形想定図

近畿地区の確率論的地震動予測地図(表層地盤の揺れやすさを示した地図).jpg出典地図元

地図<古田武彦『真実の東北王朝』より>

関裕二『物部氏の正体』より

縄文時代~弥生時代の大阪の地形図(「平野区誌」掲載)

河内湖大和国建国の始祖王饒速日尊(大歳)より

河内湾・大和湖.jpg 

河内湖.gif邪馬台国の会HPより

08_3数値地図5mメッシュ(標高).jpg大阪高低差学会のHPより<→右図>

1万年前の畿内地方中心部(概念図).jpg折節の記より

古墳時代(3~6世紀)の河内・大和地方の地図と古墳群の分布図猪甘津の橋と猪飼野今昔より

但馬二千年桂古代地図

大阪平野(河内湖・河内湾)の変遷

古代大阪湾の地図

大阪湾の歴史

【2】地図と資料

森浩一『日本の神話の考古学』より

淀川河川事務所 淀川の成り立ちと人とのかかわりミラー

国交省近畿地方整備局 大阪湾環境データベース

河内湾→河内潟→河内湖.pdf東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究より)

奈良盆地周辺の地形の変遷(国土地理院/2010)

嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf

近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院)/pdf

吉本隆明「ハイ・イメージ論 Ⅰ」.pdf

竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf

【3】資料

樋口清之 「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)

大阪城天守閣の高さと琵琶湖の水面は同じ高さ琵琶湖の特徴

05生駒山のてっぺんから見た大阪平野の夜景(→右の写真<クリックで拡大>)<この夜景が広がるところ、かつては海原であった>

大和湖(奈良湖)

     「大和湖(奈良湖)=奈良盆地」は、縄文時代以後、海湾→海水湖→塩分の残る湖と湿地の盆地→塩分のあるところにまず茂る植物である葦原の湿地盆地→塩分の抜けた湿原盆地→水田と湿地の盆地→水田と乾地の盆地へと変化した

【1】地図 <右に掲載の地図はクリックで拡大できます。>53narakojpg53

Ukabuikoma_240jishindouyosoku_3

近畿地区の確率論的地震動予測地図(表層地盤の揺れやすさを示した地図).jpg出典地図元<→上左>

浮かぶ生駒山地.jpg生駒市誌より)<→上中>

奈良湖推定図.jpg出典図版作成者のHP<→上右>

奈良盆地周辺の地形の変遷(国土地理院/2010)

5moosakakouteisa01 河内湾・大和湖.jpg<→中左> Kawatiwanyamatokomiyakotuki

奈良盆地の盆地湖.gif邪馬台国の会のHPより)<→中中>

    奈良盆地の北西と南東に2つの鳥見トミ.jpgがある。

数値地図5mメッシュ(標高).jpg大阪高低差学会のHPより)<→中右>

1万年前の畿内地方中心部(概念図).jpg折節の記より)<→下左>

HighimagetizuPhoto_6Kaguyamagainenzu海面が+60mだった頃の生駒市.jpg→下中>  Sea level rise : +60m  

1万年前ごろの近畿地方の変成ランドサット映像(想像).jpg<→下右>

古代の河内平野と大和盆地.jpg

縄文海進の海岸線(縄文から弥生を経て8世紀くらいまで、日本海~大阪湾(河内湾・河内湖・河内潟)~奈良盆地(奈良湖)は水路で結ばれていた)  古代地形想定図

参考 : 古代畿内の都位置図.jpg大阪歴史博物館展示sultt。旅行的意義さんのHPより> 古代畿内の都位置図.jpg柏原市歴史資料館展示親父のつぶやき。さんのHPより引用して加工>

古墳時代(3~6世紀)の河内・大和地方の地図と古墳群の分布図猪甘津の橋と猪飼野今昔より

但馬二千年桂古代地図

Photo_6Photo_3J-SHIS(地震ハザードステーション)J-SHIS Map生駒周辺.pdf<→左図(クリックで拡大)を見ると、縄文~弥生時代に島・半島であった生駒と海であった大阪湾・奈良盆地・京都盆地<→右図(クリックで拡大)との対比が明確です。

【2】資料と地図

嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf【1】の海面が+60mだった頃の生駒市所収

近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院)/pdf

吉本隆明「ハイ・イメージ論 Ⅰ」.pdfz(【1】の1万年前ごろの近畿地方の変成ランドサット映像(想像)所収

竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf【1】の近畿地区の確率論的地震動予測地図奈良湖推定図所収

奈良盆地:地形・地質・水系

【3】資料

樋口清之 「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)

奈良県生駒市高山地区の重力探査から推定される活構造本文

大和盆地の原風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高橋克彦 「火怨 北の燿星アテルイ」

                 (文中の太字は引用者による)

 「蝦夷はもともと出雲に暮らしていた。出雲の斐伊ひい川流域が蝦夷の本拠。斐伊を本もととするゆえ斐本ひのもとの民と名乗った。それがいつしか日本と変えられて今に至っておる。宮古や玉山金山の辺りを下閉伊(現在の岩手県下閉伊郡しもへいぐん)と呼ぶのもその名残」

 なるほど、と阿弖流為たちは傾いた。

 「大昔の話ゆえ俺もよくは知らぬ。祖父や親父は俺が物部を継ぐからにはと、たびたび聞かせてくれたが、そんなのんびりとした世ではなくなっていた。昔のことがわかったとて朝廷に勝てるわけではない。それでも、そなたより多少知っている。

 天鈴(引用者:物部一族の長。祖先は都から陸奥に逃れてきて以来、蝦夷を支援し、それと運命を一つにしてきた)は蝦夷と物部の繋がりを話した。

 「出雲を纏まとめた大国主命が蝦夷の祖先に当たることは俺の親父から聞いておろう」

 阿弖流為は首を縦に動かした。

 「その大国主命の子に長髄彦という者が居て、大和を纏めていた。一方、我ら物部の先祖はニギハヤヒの神に従って海を渡り、この国にやってきた。ニギハヤヒの神は今の天皇の遠祖と言われるスサノオの命の子であったらしい。本来なら大国主命と敵対関係にある。なのにニギハヤヒの神は長髄彦の妹を妻に娶めとって大国主命の親族となった」

 「なぜにござる」

 「強引に国を奪うをよしとさなんだのであろう。そこに今の天皇の祖先たちが乗り込んできた。大国主命を幽閉し、力で国を奪わんとしたが、長髄彦は激しく抗あらがった。結局、長髄彦は敗れて東日流つがるへと逃れた。ニギハヤヒの神は同族であったがためになんとか処刑を免れ、我ら物部も朝廷に従うことになった。しかし、一度は敵対した物部への疑念はいつまでも晴れぬ。冷遇が目立つようになり、ついには都を追われた。東日流を頼るしかはくなったとき、そなたらの祖先らは我ら物部を喜んで受け入れてくれた。以来、物部と蝦夷はしっかりと手を結んでいる」

 「この国のすべてが、もともとは我らすべてのものであったと?」

 「そうだ。力で奪ったくせして朝廷は出雲の民から継承したものだと言っておる。蝦夷を執拗に憎むのは、己の罪を認めたくない心の表れであろう。獣に近い者ゆえに追いやって当たり前と己に言い聞かせておるのだ」

 「…………」

 「同族でありながら裏切った物部はもっと憎い。陸奥にひっそりと暮らしておれば文句はつけぬが、もし蝦夷への支援が明瞭となったときはただでは済むまい。いや、あるいは薄々と気付いていればこそ五万もの兵力を投じてきたのかも知れぬな」

樋口清之 「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)<1965年11月>

                                        (太字は引用者による。)

 日本の地帯構造線の動きは第三期末から活溌で、洪積期を終え沖積期に入っても絶えず隆起・沈降を繰り返し、地形が変動しております。それは大体万を単位にして変動しますが、大和に関する限り次のようなことがわかる。地質学の立場から行なわれた詳細な地下地質の研究でわかったのでありますが、ほぼ長方形をしている現在の大和平野は、今から約一万年余り前、即ち洪積期の最終末の頃、山城平野に口を開いている海湾であった。海の塩水は大阪湾を満し、山城平野を満し、現在の奈良市の北にある奈良山の丘陵はなくて、それを越えて大和湾に北から南へ湾入していた。後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れて行くことになった。同時に紀伊半島が今の淀川・宇治川・琵琶湖を通り若狭湾に出る地帯構造線(淀川地帯構造線)に向って傾斜した。そこで大和湾中に孤立した海水は、先ず北に向って排出され、その時に押し流された土砂が堆積し現在の奈良山丘陵をつくったのです。かくて大和湾の海水は北への出口を防がれて湖となりますが、周囲の山から流れ込む天水はこの大和湖の水面を一層高め、やがて水は西の方を切って大阪湾に排出し始めます。この頃より、大和湖は海水湖より淡水湖に変って行く。この時に運ばれて堆積したものが、現在二上火山の麓を埋めている砂傑層です。更にここがつまると、今度はその北側に水路を移すが、これが竜田川の渓谷を通って大阪湾に流れ出る現在の大和川ということになるわけです。つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面が次第に低下し、最後には干上って浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。

<上記部分は、 吉本隆明「ハイ・イメージ論 Ⅰ」.pdfに引用されています。>

ミニ知識

(7)どういう暮らしの人がどのような世界観を持つかという民族学の成果によれば、狩猟採集民は動物神崇拝と骨からの再生、農耕民は母系原理と祖先崇拝、牧畜民は父なる唯一神と父系原理を持つ。

(6)ピグミーやブッシュマンなど、アフリカの狩猟採集民・・・・・が狩りで仕留めた獲物の所有権はハンターではなく、弓矢ややりなどの持ち主にあるという。ただし道具は頻繁に貸し借りされ、特定の狩猟名人や道具の持ち主が富を独占しないよう分配が工夫されている。<枝雀落語とピケティ教授より引用>

(5)「」は「ミヤコ」であるが、ミは「神」、天皇につける敬称。ヤは「屋」、コは「ここ、そこ」の場をいう「コ」。つまり、「都」は天皇の住まいの所在地をいう。」

(4)「狩猟採集民は放浪の民であり、農耕民は定住者」。そんな固定観念に対し、「事実は正反対である」・・・・・。限られた土地に身を託して子孫を増やし、遅かれ早かれ移動の必要に迫られる農耕民こそ流浪の定めを負う。逆に、獲物の棲息範囲という特定の地域に生活基盤を置く狩猟採集民はあくまでも定住者だ・・・・・。~書評『エデンの彼方(ヒュー・ブロディ著/池央耿訳)』<日経新聞(04.1.18)>より~


(3)三炊屋(ミカシキヤ)姫の名前の音(mik-asi-kiya)に入っているアイヌ語単語群は、mike(照る)、kasi(上)、kiyay(光)。

(2)生駒山最高峰から真西に難波宮があり、磐船神社は難波宮大極殿跡からみて、ちょうど夏至の日の出の位置にあたる。さらに、ヤマトの石上神宮からみると、生駒山の山頂に、夏至の夕日が落ちるのだという(大和岩雄『日本の神々3』白水社)。<関裕二『物部氏の正体』>

(1)日本人にとって大切なお米は、稲穂に雷が落ちなければ、実らないと信じられていた。稲の精と雷の精が結びつかなければ、子=稲穂は実らないという発想だ。そこで、雷光を「稲妻」というのである。<関裕二『いま蘇る縄文王国の全貌』>

諸文献 

(11)吉野裕子「蛇 日本の蛇信仰」.pdf左書のメモ(リンク)>

 

(10)松尾 光「古代の社会と人物」.pdfなか見検索


(9)木村武俊「長髄彦の謎」.pdf


(8)進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像」.pdf

 

(7)『古地名の謎(近畿アイヌ地名の研究)』<畑中友次氏著/大阪市立大学新聞会/57(S32).8> : ナガスネヒコ(長髄彦)は、中州(大和)根(川)彦(男・英雄)の意ではないか。

(6)勝井純『神武天皇御東遷聖蹟考』

(5)折口信夫の長髄彦論

(4)神武天皇聖績調査報告(編集:文部省/1942年)


(3)『下伊駒安陪姓之家譜』(下国家譜)                   

 

「安日長髄は大和国伊駒嶽に篭り、すでに日本の大魔王になっていた。だが、日向国吾田邑より東征してきた神武天皇に敗れ、死罪を赦されて都遐流卒都破魔(つかるそっとはま)に流された。その安東浦に蟄居し、代々安東太を名のった。」 <(1)・(2)・(3)は安日伝説より転載>

(2)『曽我物語・真名本』

 「神武天王が世に出て、安日と代を争う時、天より霊剣三腰があまくだり、安日の悪逆を鎮めた。天王は戦いに勝ち、安日一族を下東国外浜へ追いやった。今いう醜蛮、これなり。この神武天王が人代百王の始めの帝である。」

(1)マタギの秘伝書『山達由来之事』(山達根元記):蝦夷(えみし)の祖を安日とする伝承を伝える。

示唆に富む資料・言葉      

(10)フィクションに対峙たいじするのはファクトという言葉であって、トゥルースではない。事実であっても真実ではない真実を告げるにはどうしても微量のフィクションが要るのではないか。だからルポルタージュ文学では、著者の責任において一歩だけ文学に近寄る。<池澤夏樹 終わりと始まり~ルポルタージュ~(朝日新聞 16.12.8)>⇒言い伝え(神話・伝承)をもとにイマジネーションを加えることで、真実・真理が見えてくる。 

(9)僕は歴史家ではないから、事実をもとにイマジネーションを加える。そこから逆に歴史の実相が見えてくるのではないか。<映画監督 原田眞人(朝日新聞 16.12.29)>⇒言い伝え(神話・伝承)をもとにイマジネーションを加えることで、真実・真理が見えてくる。

(8)・・・・・人間は言葉の動物だ。言葉によって世界を切り分け、掌握しようとする。「液体」に「水」「ジュース」「お茶」と名前を与えた瞬間、一つの存在はバラバラになっていく。言葉はあらゆるものを分化し、疎外を起動させる。人間もまた「私」と「あなた」に分断され、透明な関係から引き離される。そこに物語が加えられることで、自己同一性(アイデンティティ)が生れる。しかし、私が私であろうとする欲望は、他ならない私を苦しめる。自己であることへの執着は、世界からの疎外を加速させ、他者との切断を深化させる。・・・・・世界は言葉によって構成されている。だから、言葉を支配する者が、世界を変えてしまう。出鱈目でたらめな言葉がはびこる政治や社会に対抗するには、欲望によって構築された物語を解体する物語を手に入れなければならない・・・・・。<書評「夜は終わらない(星野智幸著)」中島岳志評(毎日新聞 14.7.13)より>

(7) 古代神話の中では、蛇はよく人を導く役を果たしている。それは世界中どこの神話でも不思議に共通していることなの。ただそれが良い方向なのか、実際に導かれてみるまでは分からない。というか多くの場合、それは善きものであると同時に、悪しきものでもあるわけ ~村上春樹「木野」より~  参考 : 物語、神話につながる.pdf

(6)反時代的密語 理想の旗を高く掲げよ

(5)子らも知る 文化の源

(4)チンパンジーとの共通の祖先から分かれて700万年、ホモ・サピエンスとして20万年、人類としての進化を考えると浮かび上がるのは「心」である。心は化石として残るものではなく知るのが難しいが、・・・・・「心は歴史の産物」であり、「人間は心によって行動する生きものである」・・・・・。アフリカから旅たつ狩猟採集時代、飛び道具を持ち世界中に広がる時代、農耕時代、都市とお金が生まれた時代の四段階・・・・・。狩猟採集の頃は、闘う者より協力し獲物を分かち合って暮らした人々が生き残ったようだ。分かち合いを喜ぶ心があったのだ。飛び道具は人類にとって有益だったが、一方で戦いや犯罪を深刻化させた。・・・・・農耕は未来を考える能力を与えたが、欲も動く。そしてお金。分かち合う心があるのに、進歩こそよしとしてお金への欲望を加速したために人々が共通の目的を持てなくなった・・・・・。

~書評『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか(NHKスぺシャル取材班著)』<毎日新聞(12.2.26)>より~

(3)映画『降りてゆく生き方』※のコンセプト

     ※(09 日/0904公開)作品紹介公式サイト(ミラー : HP作品概要ストーリーコンセプト) ○完全無農薬・無肥料の林檎栽培を確立した木村秋則さんをモデルにした映画 ○関連映像 : 新時代ファイル「降りてゆく生き方」<NHK新潟(approx.0906)>

(2)若者の心をつなぎとめる理想や物語を

(1)今も東北に生きる「ナガスネヒコの精神=愛瀰詩(エミシ)の精神」とは

   

「全国最悪」から「全国一」へ

~うたの旅人「岩手県民謡『南部牛追唄』」<朝日新聞(12.7.28)別刷り「be」>より~

 ・・・・・「南部牛追唄」に登場する旧沢内村(現岩手県西和賀町)は豪雪地帯だ。岩手県と秋田県との境に位置し、冬が厳しい東北地方の中でも、長年、とりわけ苦しい生活を強いられてきた。県道沿いの寺には、年貢の代わりに差し出された伝説の娘をまつる「お米(よね)地蔵」がある。

 ところが、その先にある沢内病院の向かいには、地蔵とは対照的な記念碑がある。「老人医療無料診療発祥の地」と記されたその碑は、村と住民が自らの手でつらく貧しい暮らしを克服した象徴だ。

 「生命村長」。住民にそう呼ぱれた深澤晟雄(ふかさわまさお)氏(1905~65)の胸像と資料館が、記念碑のそばに立つ。

 深澤氏が村長になった1957年、豪雪と多病多死と貧困は、どれも全国最悪の状況だった。積雪は3㍍、乳児死亡率は全国平均の約2倍。さらに、全世帯の1割が生活保護を受けていた。深澤氏はこの三悪の克服を村人に呼びかけた。

 まず、3年の分割払いでブルドー・ザーを買った。除雪に使い、冬季の交通を確保した。さらに、村に医師を招くため東北大学に日参した。3ヵ月の約束で派遣された若い医師は意気に燃え、2年がかりで村の医療計画をまとめ、15年にわたって村の健康作りを担う先頭に立つ。

 老人医療の無料化は、まず65歳以上を対象に60年に実施した。全国で初めての取り組みに対し、岩手県は法律違反だと指摘した。しかし、村は「憲法の生存権を実現する。国はあとからついてくる」と主張して一歩も引き下がらなかった。

 貧しい財政から費用を捻出するのは大変だったが、その後、村は無料とする年齢を60歳以上に拡大。村の自主財源は当時、1千万円に満たなかったが、約30%を医療費などの保健衛生費に充てた。

 実は、村の財政はブルドーザーの活躍で改善に向かっていた。除雪によって冬季も木炭や木材の搬出が可能となり、村人の収入は増加した。さらにブルドーザーで新田開拓などをしたため、米の政府売渡量は5年で2・5倍に伸びていた。

 全国最悪の乳児死亡率の改善には、保健師3人を採用し、取り組んだ。女性の保健師が吹雪の日も雪をかき分けて乳児のいる家を訪問し、62年、全国の自治体で初めて乳児死亡率ゼロを達成した。

 「お米」が人身御供にされたと伝わる時代から1世紀ほど後に、住民の総力で「全国最悪」から「全国一」になった。

 それから今年で、半世紀になる。今月22日、「乳児死亡ゼロ50周年の集い」が資料館で行われた。沢内病院の事務長だった米澤一男さん(69)は「節目節目で住民運動が起きて村を変えた。『命の行政』は、今も生きています」と誇る。

 ・・・・・葛巻町。ここもまた、住民の力で町の姿を大きく変えていた。

 町内の山には、乳牛や肉牛が群れる草地に、計15基の巨大な風車が立つ。風力発電だ。中学校の敷地には太陽光発電のパネルが420枚も並ぶ。牧場では牛の糞(ふん)でバイオマス発電をしていた。町のエネルギー自給率は166%を誇る。まさに「クリーンエネルギーの町」だ。

 東日本大震災で起きた東北電力福島第一原発の事故を受け、新エネルギーヘの転換が叫ばれているが、この町のクリーンエネルギー導入はそれより10年以上も前だ。きっかけは、88年ごろに持ち上がった産業廃棄物処理施設の建設計画だ。

 ふだんは寡黙な町民が「葛巻町の自然を守れ」と声を上げた。それが、ただ自然を守るだけでなく積極的に町の自然をアピールしようという動きに発展した。

 町議がデンマークの風力発電を視察した後、東京の風力発電会社と第三セクターを設立して99年、最初の風車3基を設置した。建設費は3億4千万円。半分を三セクが出し、残りは国の補助を受けた。町の出資は250万円。町はこの年、「新エネルギーの町」を宣言した。

 2003年には、畜産バイオマスプラントを稼働。05年には、新エネ大賞(資源エネルギー庁長官賞)も受賞した。

 林業対策の一環として始めた「くずまきワイン」は、今やブランドとなった。

 「JRの駅もない、温泉も出ない。何もなかったから、自分たちで何かするしかなかった」と、葛巻町農林環境エネルギー課の鈴口美知代さん(49)は言う。・・・・・。

縄文時代    

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反時代的密語 理想の旗を高く掲げよ

 ・・・・・近代文明とともに始まった環境破壊は日増しに広がり、今や人類そのものを滅ぼす大いなる危険となっている。・・・・・京都議定書は、この人類の滅亡を大幅に遅らせようとするための条約であろう・・・・・。

 近代という時代は二つの哲学によって支配されている。一つはデカルトの哲学である。それは理性をもった人間を世界の中心におき、その人間と自然することによって自然を支配し、それによって武力と経済力を獲得することを最大の善と考える思想である。もう一つの哲学は、国家の力を絶対化するホッブズの思想である。

 京都議定書の実施にもっとも熱心なのはヨーロッパ諸国であるが、近代文明を生み出したヨーロッパ諸国はその限界にも気づき始めたのではなかろうか・・・・・。しかしこの近代文明を移入し、かつて人類がもったことのないような巨大な軍事力と経済力をもつ超大国アメリカは、このような文明のもつ危険性について、ヨーロッパ諸国と比べて認識が乏しいのも当然といえば当然といえる。

 京都議定書の発効において、日本がアメリカとヨーロッパ諸国の調停を行うべく粘り強い努力をしたことは一応評価できるが、私はそれだけでは不十分であると思う。なぜなら、日本ほどこの問題において積極的に発言できる国は世界のどこにもないからである。

 この議定書が日本で、しかも京都において採択された意義は大きい。京都は、平安仏教すなわち天台仏教と真言密教を総合し、しかも浄土、禅、日蓮などの鎌倉仏教の思想的根拠を与えた天台本覚論が生まれたところである。天台本覚論は、動物ばかりか植物すら、すべての生きとし生けるものに仏の性があり、それらはやがて仏になれるという思想である。この思想こそ、約一万二千年前に農耕文明が起こる以前の狩猟・採集時代の人類の普遍的な哲学であったと思う。

 農耕文明が始まって人間を特別なものとする思想が生まれ、それが理性によって人間の他の生物に対する優越性を示すプラトンの哲学になる。この哲学はキリスト教に受け継がれ、人間の他の生物に対する支配権を主張する思想となる。キリスト教では、人間の上に神があったが、デカルト以来の近代哲学では、人間が世界の中心に座り、自然に対する絶対的支配権を行使する。

 このような近代思想に別れを告げ、人間は本来他の生きとし生けるものと同じものであり、そのような生とし生けるものと共存することを人間の使命と考える原初的人類の哲学に帰らねばならない・・・・・。

 柳田国男は、山の神すなわち森の神は田植えとともにから下りて田の神となり、そして稲刈りが終わるとまた山に帰るという。日本の神社には必ず森がある。日本人は縄文時代以来ずっと、神は森に住むと考えてきた。ところが、最初に都市文明をつくったシュメール人は、ギルガメシュ王が森の神を殺すという話で始まる「ギルガメシュ」という世界最古の叙事詩を残した。そして以後も西洋社会はこのような思想に従って森を壊して文明をつくった。しかし日本ではそのような森の神殺しは起こらず、森の神は少なくとも江戸時代の終わりまでは健在であった。西洋の近代文明の移入とともに日本の森の神も厳しい運命を迎えたが、それでも日本は先進国のなかで唯一、国土の約三分の二を占める森を有する。このような国は誇りをもって、二十一世紀以後の文明の最大の課題である環境問題において先頭に立つことができるはずである。

 戦後、日本人はエコノミックーアニマルといわれ、世界の人から羨まれつつバカにされてきた。そして現在でも日本人はいつも勝者にペコペコする、何らの定見のない民であると軽くみられている。それは残念至極なことである。私は、今こそ日本は環境立国の旗を高々と掲げ、伝統にもとづく日本の理想を世界に示すべきときであると思う。

「反時代的密語 理想の旗を高く掲げよ」(梅原猛・哲学者)<朝日新聞(05.3.1)>.pdfより~

子らも知る 文化の源

 ギリシャ・アテネのアクロポリスの美術館は、光が直接降り注いできます。大理石の彫像がバラ色に輝き、そのまま「ギリシヤ神話」の世界に誘われます。私自身、娘の懐妊を自覚したのは「デルフォイの神託」で知られるアポロン神殿で、天から授かった娘と思い、デルフィーヌと名付けました。

 ある年のバカンスで、パリからギリシャに旅立つ孫たちに「遊園地ばかりじゃなく、パルテノン神殿に連れていってもらいなさいね」といった私に、7歳になった孫息子が「それ、ゼウスの娘、アテナをまつった神殿でしょう」と即答して驚きました。フランス文化も元をたどれば、古代ギリシャに行き着きます。幼いときから古典を学び、人間のルーツに興味をもち、多くの人が教養を共有することで世界が広がり、個の力も強くなるように思います。

 いま、日本はつらく苦しく、並大抵ではない、困った立場にいます。古代アテナイに集った神々が織りなすさまざまな叡智。愛や執念、やさしさや悪さえ渦巻く、人間の底知れない力が、東北に、ひいては日本中に宿ることを、心から祈ります。

<俳優・作家 岸惠子さん>

~<「文化の扉 はじめてのギリシャ神話」朝日新聞(12.3.12)>より~

前田一武 『邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説 』 

第一部「日本書紀」から謎を解く。

一「日本書紀」の成立

 ・・・・・。

 あらかじめ「日本書紀」『巻三』「神武東征」の要点をまとめておくと、次のようになるでしょう。

 ① 東方に「美(うま)し国」があると、九州に根拠を持っていた天孫族が知ったこと。

 ② その「美し国」には名前の知られた「饒速目命」という同族が、すでに「降臨」していること。

 ③ 日向出身の四人の天孫族の兄弟が、倭の国家を支配するために、よき地を求めて、「美し国」に東征を開始したこと。

 ④ 途中、兵姑と徴兵のために、あるいは何らかの理由があって三年の歳月を吉備国、高島宮で過ごしたこと。その地を戊午の年の二月一一目に出陣したところ、河内国から敵将、「長髄彦」が、東征軍を「国を奪う侵略者」とみて、防戦を始めたこと。

 ⑤ 当初、「龍田」から侵入を試みたが、道が険しいため引き返し、中央突破を計画して生駒山麓から直接に敵陣「中洲」を攻略しようと考えたこと。

 ⑥ 緒戦、「孔舎衛坂」において激戦になり、苦戦のうえ敗退し、長兄の「五瀬彦」が負傷したこと。

 ⑦ 戦略として日の出る「東」にむかって戦うことは神意に反すると考えたこと。

 ⑧ 長兄「五瀬彦」は戦傷で死に、紀の国に埋葬したこと。

 ⑨ 東征軍はいわば敗残軍となり、結局、最も若い四番目の弟「若御毛沼」が最後まで戦うこととなったこと。

 ⑩ 河内を大きく「東」に迂回し、熊野方面から大和を目指したこと。後に神武天皇となる「若御毛沼」の上の二人の兄は、紀伊半島の大迂回中に発生した海難に嫌気がさして、「東征」から離脱したこと。

 ⑪ 紀伊半島に上陸し、歎難辛苦の末、大和の宇陀郡に潜入する東征軍は、ほとんど壊滅状態であったこと。

 ⑫ 謀略と説得によって、次第に大和の豪族を自陣に引き込んでいったこと。

 ⑬ やがて奈良盆地の「東」、三輪山を背に陣を構え、生駒山周辺の敵陣を西にすえたこと。

 ⑭ 東征軍は、敵将「長髄彦」には、戦闘では勝利できなかったこと。

 ⑮敵本陣の「中洲」は、「鳥見」と呼ばれる地域にあって、そこで最終戦があったこと。

 ⑯敵将「長髄彦」が、東征軍が仕掛けている戦闘の「正当性」を疑い、「論戦」を什掛けたこと。

 ⑰ 神武天皇は、「長髄彦」が見せる天孫支配の象徴、「天羽羽矢」と「歩靫」を「本物」だと認めたこと。

 ⑱ すなわち、「長髄彦」は単に一地域のまつろわぬ豪族ではなく、正統な王であること、つまり国家支配の正統性が「日本書紀」の作者から彼に与えられていること。

 ⑲ 「饒速日命」は「長髄彦」の妹婿であったが、天孫族であり、義兄が頑固で支配者の分際でないことを理解し、義兄を殺して東征軍に帰順し、物部氏の祖先となったこと。

 ⑳ 神武天皇はそののち、残党を平らげ、辛酉の年、橿原で即位したこと。

 以上がおおよそ「神武東征」の概略であり、また、「日本書紀」巻三の内容なのです。次章でこれを分析しながら、詳しく見て行きます。この中に「邪馬台国」の謎が隠されているに違いないのです。

 

二 神武東征

1 東の美(うま)し国へ

 ・・・・・。

 先代旧事本紀』は、この「饒速日命」が「河内国の哮峰」に降臨したと言いますが、この哮峰(いがるがのみね)は二箇所が考えられます。一つは地名に現存する奈良県生駒郡斑鳩町周辺です。もう一箇所は、大阪府交野市の「磐船神社」周辺です。「交野市」周辺には、物部氏ゆかりの小古墳が数多く存在します。いずれも、生駒山を取り囲む南北の比較的近い位置にあります。

 しかし、ここで重要なことは、本書のキーパーソンである彼が「天孫族」として、生駒山周縁に領地を保持し根付いていたということです。

 神武天皇の言う「東にある美しい国」とは、生駒山の周縁一体をさしているのです。それが「神武東征」の目的地であり、「日本書紀」の言う「東有美地 青山四周 其中亦有乗天磐船而飛降者」なのです。

 神武天皇の本格的な軍事侵攻の前に、「天孫」族が倭国の支配に深く関与していたということ、その中心地は生駒山の周縁であったということは、見逃すことができないポイントです。

 その政治形態は、「饒速日命」とその妻の兄「長髄彦」との二重支配であったことが次章で窺えます。祭祀は「天孫」族、饒速日命であり、政治権力は長髄彦でした。この権力の二重構造性は「魏志倭人伝」に描かれる卑弥呼と弟王の関係、「邪馬台国」の政治構造を想起させます。

 「美し国」とは「長髄彦」の国だったのです。

 

2我が国を奪う者

 東征軍は、途中、兵の募集や食料、兵器の調達などいわゆる兵姑のために、三年間、岡山県、吉備の国、高島宮で過ごします。三年はあるいは長く感じられるかも知れません。何らかの理由があって、攻勢に手間がかかったのです。この三年間は、出雲との連合軍編成の交渉期間ではなかったのかと推理します。「大和朝廷」と「出雲国」との、その後の深い関係を照らして考えると、この期間は「関係構築」の時間のように感じます。薩摩と長州が連合に至るのにも、それはどの「手間」がかかりました。

 そしていよいよ、戊午年の二月十一日に高島宮を出陣します。当然、河内国から「敵将・長髄彦」が、東征軍を「国を奪う侵略者」として、防戦を開始します。河内国が「美し国」の最前線であることがわかります。