TOP PAGE 

              お断り2019年3月19日にココログが全面リニューアルされました。それにより、スマホでは見やすくなったかもしれませんが、パソコン画面では字が小さくなるなど見にくくなってしまいました。リニューアルに対応するよう努めていますが、それが不十分な点がありましたらご容赦ください。 

ご訪問、ありがとうございます。

このHPは、「生駒の神話研究会」(連絡先)の公式HPです。

右のカテゴリー(これが表示されない時⇒ここをクリック)よりお入り下さい。通読される場合は下へお進みください(下へ進めない時⇒ここをクリック)。

書き足しを重ねています。その際、新しい記載と古い記載との齟齬は修正するように努めていますが、記事の量の増加により、それが出来ていない場合もあるかと思いますがご寛容ください。

 

このHPまとめの記事

 ~このHPは書き足すうちに大量の情報が載るものとなってしまいました。すべての情報をお読みいただくことは時間がかかります。お時間のない方にもお読みいただきたいものとしてこのまとめの記事を記載いたしました。~

(1)「生駒の神話」とは、生駒を舞台にした神話です。生駒を舞台にした神話には、いわゆる「神武東征」と呼ばれているものがありますが、日本書紀に書かれたその神話の内容の概略は、次の通りです。

 九州にいたイワレヒコは、ニギハヤヒが治めている内うちつ国(生駒山の向こうにある日本の中心/現在の生駒から奈良盆地)を奪うために、瀬戸内海を東に向かい難波の海の東海岸に上陸して生駒山を越えようとした。しかし、ニギハヤヒの盟友であるナガスネヒコによって撃退された。東に向かって進軍したのは太陽に逆らうことになったので敗退したと考え、迂回して太陽を背にして侵攻せんとした。迂回の先々で、先住民を殺しながら、うちつ国に到着し、再度ナガスネヒコと会い見えたが、今度も苦戦した。そのとき、金色の鵄が突然に飛来して閃光を放ってナガスネヒコをして戦わさせなくし、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺害して国を譲ったので、イワレヒコは内つ国を手に入れ、神武天皇として即位できた。

 この神話は、一見するだけだと、次のように疑問の多いものとなっています。

  ①古代の日本人は、他者が暮らしている国をかってに奪うことを肯定していたのか。

  ②古代の日本人は、 先住民の生存権を認めていなかったのか。

  ③古代の日本人は、 盟友を裏切る行為を肯定していたのか。

  ④古代の日本人は、 自分や愛すべきもの(この場合は自分が暮らす国の人々)の尊厳を守ろうとしない腰抜けを肯定していたのか。

 上記の疑問は、古代の日本人は、他者の尊厳を認めない、また、自らの尊厳も守ろうとしない人々だったのか、ということを突き付けるものとなっています。この疑問を放置すれば、古代の日本人、ひいては、今日の日本人までもが人間の尊厳を認めない、そこまでは言い過ぎとすれば、軽んじる民族となってしまいます。

 そのことを意識しながら、生駒の神話に関する書物を読んでいたとき、次の2つのことに出会いました。

  生駒市誌の一文「色の鵄は、本来は長髄彦(また登美彦)の側のトーテム(神)ではなかったか。」(ご参照

  これらの論者は、ただ一点重要なことを見逃しているのです。神武東征の際に河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先住民とは一体何者であったのか、ということです。この点を不問にしているため、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている。」<谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」 より>(ご参照

 上の2つは、 外国向けに日本という国の正統性を主張するためにつくられた日本書紀の作者の作為(「金色の鵄はナガスネヒコの守護神ではない」「ナガスネヒコは賊に過ぎない」とする)を指摘しています。

    記紀の作為はなぜおこなわれたか?

 上の①と②を頭に置きながら、右のカテゴリー「03 参考文献等」「06 資料」に掲載のものを読み調べることで、記紀等によって捏造されて伝えられてきた生駒の神話の元の姿を読み解き、その骨格を復元し、次の生駒の神話のストーリーの骨子としてまとめました。なお、この作業は、生駒の神話(生駒を舞台とする日本神話)を日本人のアイデンティティとして再生するものです(ご参照)。

 ①生駒の神話のストーリーの骨子 

 ②①の【解説付版】 

 ③①は改訂版ですが、改訂前のものを、生駒検定<全国版>の第1問の問題文としています⇒そのWEB版その文書版.pdf

 上のストーリーの骨子は、これらの立脚点)に立ち、これらの留意点を踏まえこれらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム) に沿って、打ち出したものです。打ち出す際に作成した、ストーリーの青写真が「生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>.pdfです。

   )立脚点の1つが、邪馬〇国の名称・所在地論争に終止符を打つ論である 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征

(2)ストーリーの骨子の【解説付版】をお読みいただければお分かりのように、元の生駒の神話は、上記の疑問を抱かせるものとは全く反対の内容をもつ神話で、未来(つまり今日)に向かって、次のようなメッセージを発している神話です。

 ①生駒の神話と現在  

 ②<ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?>これが、日本神話の最大の謎であり、その答が本当の生駒の神話の真意(元の生駒の神話の内容)であり、現代・未来への最大のメッセージとなっています。

金の鵄」が飛び立った生駒は、非戦・避戦の精神の発祥の地といえます。 

(3)記紀神話は、神武東征のように特定の人・勢力が作った(捏造した)ものですが、「生駒の神話」は「特定の人・勢力」ではなく「人々」がつくったものでした。それでは、なぜ人々はそれを作ったのでしょうか。

「生駒の神話」はなぜつくられたのか。

 

その他、このHP各所に掲載の記事の中で、できればお読みいただきたい記事

生駒の神話は、

 ①縄文から弥生への交代期のショックで発生した長髄彦伝承を基にするもの(ご参照.pdf)。

 ②縄文から弥生への移行期における里山の誕生の過程を反映したもの(ご参照.pdf )。

 戦い忌避神話であり、戦い忌避伝承である生駒伝承と符号・共鳴しており、「縁起の法」の神話化であるとも考えられる<縁起の法ご参照>。

生駒の神話のストーリーの骨子を打ち出すために参考にした資料のうち、最低限、目を通していただきたい資料

 ①生駒の地理、古道、古蹟、地名の位置がわかる地図、地形が分かる写真

 ②生駒市誌  富雄町史  先代旧事本紀  古史古伝

 ③村井康彦『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfこの書物が画期をなす理由・この書物を読むための基礎知識.pdf紹介記事

 ④嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf→右図が表紙07

   下記のような立ち位置で著されたことにより、この書物もまた記紀神話を読み解く上で画期をなすものとなっています。

   立ち位置:「神話や由緒には創作や事実を脚色したものが多く、事実がそのまま記されているわけではないのですが、全くの作り話というわけでもなく、何らかの事実を元に再編したり都合よく脚色したりして創られているようですので、その中に含まれている「事実の欠片」と思われるものを拾い出し、古代の地形地域の伝承地域資料に残されている事実や世界の歴史などと照らし合わせてみると、『納得できなかった教科書の歴史』とは全く違う歴史が納得できる形で表れてくるのです。」(14.10.17のブログより)

生駒の神話の舞台について・・・生駒の山生駒山地矢田丘陵(平群の山)西之京丘陵(京阪名丘陵・跡見の岳)豊秋津洲とは、まだ島・半島であったときの生駒のこと

<生駒市「神話と里山の都市」構想を策定・提案・広報している大事なことは皆で考え決めよう会と連携協力しています。>

 

 

 

生駒の神話のストーリー  

ああああああああ

これらの立脚点に立ち、これらの留意点を踏まえ、これらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)

】【1】の枠組みに沿って打ち出した生駒の神話のストーリーの骨子

 ①生駒の神話のストーリーの骨子の改訂版(最新版)

 ②①の【解説付版】 

 ③改訂前のものを生駒検定<全国版>の第1問の問題文としています⇒そのWEB版その文書版.pdf    

】【1】の枠組みに沿ってとりまとめた青写真⇒「生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>.pdf (一分改訂予定)

生駒の神話のストーリーの背景⇒邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征

各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に『新編 生駒の神話』を創作中。

ストーリー各種

(1)石切劔箭神社の由緒 

(2)歴史街道・人物往来<神武天皇>: ①.jpg②.jpg / ③.pdf

87(3)いこま歴史探訪 神話の里生駒-長髄彦伝説‐<→その一場面(左が長髄彦軍 ・ 右が神武軍)<クリックで拡大>

 *

『新編 生駒の神話』<創作途中> 

~『新編 生駒の神話』とは各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に、文献リテラシー(※)を用いて、これらの立脚点に立ち、これらの留意点を踏まえ、これらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)に沿って、生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>を青写真にし、これを骨子にしてとりまとめ創作したものです。~
     (※)リテラシー・・・適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現し、その真意を把握する力。

饒速日尊、葦原の中国に降臨す(『先代旧事本紀』より)・・・この部分は添削する。 

天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。

 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。

 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。

 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。

 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。

 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」

 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

 天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連(おわりのむらじ)らの祖。天鈿売命(あまのうずめのみこと)猿女君(さるめのきみ)らの祖。天太玉命(あまのふとたまのみこと)忌部首(いむべのおびと)らの祖。天児屋命(あまのこやねのみこと)中臣連(なかとみむらじ)らの祖。天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。天道根命(あまのみちねのみこと)川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。天神玉命(あまのかむたまのみこと)三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。天椹野命(あまのくぬのみこと)中跡直(なかとのあたい)らの祖。天糠戸命(あまのぬかとのみこと)鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。天明玉命(あまのあかるたまのみこと)玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。天牟良雲命(あまのむらくものみこと)度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。天背男命(あまのせおのみこと)山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。天御陰命(あまのみかげのみこと)凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。天造日女命(あまのつくりひめのみこと)阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。天世平命(あまのよむけのみこと)久我直(くがのあたい)らの祖。天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。天背斗女命(あまのせとめのみこと)尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)間人連(はしひとのむらじ)らの祖。天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。天三降命(あまのみくだりのみこと)豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。天日神命(あまのひのかみのみこと)対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。乳速日命(ちはやひのみこと)広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。八坂彦命(やさかひこのみこと)伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。伊佐布魂命(いさふたまのみこと)倭文連(しどりのむらじ)らの祖。伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。活玉命(いくたまのみこと)新田部直(にいたべのあたい)の祖。少彦根命(すくなひこねのみこと)鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。事湯彦命(ことゆつひこのみこと)取尾連(とりおのむらじ)らの祖。八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。天下春命(あまのしたはるのみこと)武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。月神命(つきのかみのみこと)壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。

 また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。

 物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。

 五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。

 二田造(ふただのみやつこ)。大庭造(おおばのみやつこ)。舎人造(とねりのみやつこ)。勇蘇造(ゆそのみやつこ)。坂戸造(さかとのみやつこ)。

 天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

 二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

 船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。

 船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)。

船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)。

 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日尊は亡くなられた。その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)に仰せになった。「私の神の御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。だから、お前は天降って復命するように」このようにご命命になった。速飄神は勅を受けて天降り、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで、天に帰りのぼって復命して申しあげた。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄の神を遣わし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれた。そして天上で葬った。

饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。

これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば味間見命(うましまみのみこと)と名づけなさい。もし女子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけなさい」産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。

 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。

 饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。

宇摩志麻治命

 天香語山命の弟、宇摩志麻治命。または味間見命といい、または可美真手命(うましまでのみこと)という。 

 天孫天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊は、天下を治めようと思われて、軍をおこして東征されたが、所々にご命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中つ国の豪族・長髄彦は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴し、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、「天神の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない」といい、ついに兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍は連戦したが、勝つ事ができなかった。

 このとき、宇摩志麻治命は伯父の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。そうして衆を率いて帰順した。

 天孫は、宇摩志麻治命に仰せになった。「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」

 そして特にほめたたえ、神剣を与えることで、その大きな勲功にお応えになった。この神剣は、韴霊(ふつのみたま)剣、またの名は布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神というのがこれである。

 また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊にお授けになった天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれて、さらに寵愛を増された。また、宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて国内を平定して復命した。

 天孫磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮殿を造られた。辛酉年の一月一日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位につかれた。この年を、天皇の治世元年とする。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。 

 宇摩志麻治命がまず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾を立てて斎き祭った。五十櫛という、または斎木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。そうして、天つしるしの瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。「殿内の近くに侍りなさい」(近く殿の内に宿せよ〈すくせよ〉)そのためこれを足尼(すくね)と名づけた。足尼という号は、ここから始まった。

 高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率い、天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。天児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申しあげた。宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾を立てて厳かでいかめしい様子をつくった。道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なことを伝えられた。

 ときに、皇子・大夫たちは、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。このように都を建てて即位され、年の初めに儀式をするのは、共にこのときから始まった。

 宇摩志麻治命は十一月一日の庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこのときに始まった。天皇は宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の亡父の饒速日尊が天から授けられてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りとせよ」いわゆる“御鎮祭”がこれである。

 およそ、その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と大きな声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことをいう。 

 治世二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」 

 この日、物部連らの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は、ともに食国の政事を行う大夫に任じられた。その天日方奇日方命は、皇后の兄である。食国の政事を行う大夫とは、今でいう大連・大臣にあたる。

 そうして宇摩志麻治命は、天つしるしの瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、石上の大神をお祀りした。詳しくは以下に述べる。

瓊々杵尊降臨(『先代旧事本紀』より)・・・この部分は添削する。  

天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)は天降って、筑紫の日向の襲の槵触二上峯にいらっしゃった。

ウガヤフキアエズノミコト誕生

 (略)彦波瀲武鸕草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、天孫・彦火々出見尊[また火折尊ともいう]の第三子である。母を豊玉姫命という。海神の上の娘である。豊玉姫命の妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)を立てて皇妃とされた。すなわち、海神の下の娘で、鸕草葺不合尊の叔母にあたる。四人の御子をお生みになった。子の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)[賊の矢にあたって亡くなった]。次に、稲飯命(いなひのみこと)[海に没して鋤持神となった]。次に、三毛野命(みけいりぬのみこと)[常世の郷に行かれた]。次に、磐余彦命(いわれひこのみこと)。

イワレヒコの東征出発(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。  

 神日本磐余彦天皇の諱(ただのみな/実名)は、彦火火出見(ホホデミ)という。鸕が草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は王依姫といい、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の二番目の娘である。天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。成長されて、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶とって妃とされた。手研耳命(たぎしのみこと)を生まれた。四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、「昔、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天照大神が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を、祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた、塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと『東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天・の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳(たいさい/12年の周期で巡行する木星の異名)の甲寅(きのえとら)である。

 その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向われた。速吸之門(はやすいなと/豊予海峡)においでになると、一人の漁人(あま)が小舟に乗ってやってきた。天皇は呼びよせてお尋ねになり、「お前は誰か」といわれた。答えて「私は土着の神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦に釣りにきており、天神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」という。また尋ねていわれる。「お前は私のために道案内をしてくれるか」と。「御案内しましょう」という。

 天皇は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差出し、つかまらせて舟の中に引き入れ、水先案内とされた。そこで特に名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直(やまとのあたい)らの先祖である。筑紫の国の宇佐についた。すると宇佐の国造の先祖で宇佐津彦(うさつひこ)・宇佐津姫(うさつひめ)という者があった。宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮か)を造っておもてなしをした。このときに宇佐津姫を侍臣(おもとまえつかみ)の天種千命(あまのたねのみこと)に娶(め)あわされた。天種子命は中臣氏の先祖である。

 十一月九日、天皇は筑紫の国の岡水門(おかのみなと)につかれた。

 十二月二十七日、安芸国について埃宮(えのみや)においでになった。翌年乙卯(きのとう)春三月六日に、吉備国に移られ、行館(かりのみや)を造っておはいりになった。これを高島宮という。三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

 戊午(つちおえうま)の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。舳艫(じくろ/船首と船尾)相つぎ、まさに難波碕(なにはのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国(なみはやのくに)とした。また浪花(なみはな)ともいう。今難波(なにわ)というのはなまったものである。

 三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

3-2邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征基づいた記述追記

草香の戦い(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

 夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。そのときに長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞き、「天神の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。流れ矢が当たって五瀬命の肘脛(ひぎはぎ)に当たった。天皇の軍は進むことができなかった。天皇はこれを憂えて、はかりごとをめぐらされた。

 「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」といわれた。皆は「そのとおりです」という。そこで軍中に告げていわれた。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。草香津(くさかのつ)に引き返し、盾をたてて雄たけびをし士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてつ)とよんだ。いま蓼津(たでつ)というのは、なまっているのである。

 初め孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。それでその木を指して、「恩は母のようだ」といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきのむら)といった。今「おものき」というのは、なまったものである。

イワレヒコ軍の迂回(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

    愛瀰詩烏(えみしを)毘人嚢利(ひだり)毛々那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

長髄彦と金鵄(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

 十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。そして歌っていわれた。

  ミツミツシ、クメノコラ(久米之子等)ガ、「カキモトニ」アハフ(粟田)ニハ、カミラ(韮)ヒトモト(一本)、ソノガモト(其根茎)、ソネメツナギテ(其根茎繋)、ウチテシヤマム(撃而止)<天皇の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう>

 また歌っていう。

  ミツミツシ、クメノコラガ、カキモト(垣下)ニ、ヴヱシハジカミ(植韮)、クチビヒク(口疼)、ワレハワスレズ(我不忘)、ウチテシヤマム<天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう>

 また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは歌った人を指して名づけたのである。

 さて長髄彦は使いを送って、天皇に言上し、「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒連日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽者でしょう」と。天皇がいわれる。「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表(しるし/しるしの物)があるだろう。それを示しなさい」と。長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢(あまのははや/蛇の呪力を負った矢)と歩靫(かちゆき/徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ/矢を入れて携行する道具)を天皇に示した。天皇はご覧になって、「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。長髄彦はその天神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。けれども兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。そして間違った考えを捨てず、改心の気持がない。饒連日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒連日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。

6-2長髄彦 とイワレヒコの戦いに基づいた記述追記

6-3ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?基づいた記述追記

イワレヒコの橿原即位(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

 辛酉(かのととり)の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。この年を天皇の元年とする。・・・・・古語にも、これを称して次のようにいう。「・・・・・始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト/始めて天下を治められた天皇)」と申し、名づけて神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイハレヒコホホデミノスメラミコト)という。

 四年春二月二十三日、詔して「わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。

 三十一年夏四月一日、天皇の御巡幸があった。腋上(わきかみ)の味間(ほほま)の丘に登られ、国のかたちを望見していわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲(あきつしま)の名ができた。昔、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)がこの国を名づけて、「日本は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていて良く整った国」といわれた。また大己貴大神(おおあなむちのおおかみ)は名づけて「玉牆の内つ国(美しい垣のような山に囲まれた国)」といわれた。

 饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「空見つ日本(やまと)の国(大空から眺めて、よい国だと選ばれた日本の国)」という。

その後の長髄彦の行方・・・文献に記された下記のことを考慮しながら記述

は定かではない。しかし、奥州では「長髄彦は兄アビヒコと共に日高見(東北地方)の地を新たな故国として移住し、先住民族と合流してアラバキ族と名乗り、日高見の国を長く治めた」と伝えられるなど、各地で長髄彦の精神(愛瀰詩えみしの心)は受け継がれている。

解 説 

新編 生駒の神話』についての解説

【1】この昔の物語の名前 

(*)昔の話の呼び方には、説話・民話・昔話・伝説・伝承・神話・俗話・寓意などがあり、それらを基にしながら創作した話は、新訳・新編・翻案・訳編などといいますが、取り敢えず、『新編 生駒の神話』といたします(今後、変更することがあるかも知れません)。 

【2】この物語を記すにあたって依拠・参考にしたもの⇒参考文献等ご参照

【3】主人公・舞台

主人公 長髄彦  饒速日

舞台 奈良(大和)湖河内(古大阪)湾  豊秋津洲とよあきつしま

      長髄彦饒速日の本拠地・・・生駒神話ゆかりの古蹟が集中している生駒四河川の源流・分水嶺地帯(生駒の地図・写真ご参照)とそ周辺

      神武東征の目的地・・・当初は長髄彦饒速日の本拠地であったが、のち、移行した(神武東征ご参照)。  

【4】物語の構成 

(1)【3】を主人公・舞台とし、できるだけ【2】の依拠・参考にしたものに記されたものから、物語を構成する上で最適な記述を選び、それらを組み合わせて筋の通った物語を構成するように努めました(このような、既述の文献に記されたものを組み合わせて神話を構成していく方法は記紀と同様のやり方です)。 

(2)その際、生駒の神話は郷土生駒の人物・神を魅力的に描かねばならないことは当然であり(それが郷土の昔の話というもの)、そのような人物・神について、魅力を減じさせるような通説・記述※は、できるだけ荒唐無稽にならないように、あるいは、異説があればそれに沿って、魅力が減じないように解釈・記述し直しました。神話というものは本来、口から耳へ、耳から口へと語り伝えられた、口頭による伝承として存在し、記録のさいに、筆録の目的、あるいは筆録者の条件によって、整理されることが多く、削除・省略があったり、逆に付加があったりもし、そこには潤色や作為が作用するものとされています(上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdfご参照)。

    ※例えば、長髄彦は性質がよくなく、義理の弟(妹の婿)である神または甥(妹の息子)に裏切られて殺されてしまうのが通説(書紀や旧事紀の記述)で、そのように通説は長髄彦やその義理の弟(妹の婿)である神や甥(妹の息子)を悪く描いています。 

(3)普遍性(多くの人が理解できる内容)を得るため、まったくの創作(【2】に記したものにまったく依拠しないもの)はできるだけ避けるように努めましたが、【5】に記された疑問点(記紀等の通説が述べていないこと、矛盾することなど)は、解明し、または筋の通るように解釈し直しました。 

(4)以上に従い、【5】に立脚し、【6】を踏まえて、この物語の枠組み(パラダイム)を設定した上で物語を構成していきます。

(*)物語の作り方/物語のでき方物語の組み立て方の参考例.pdfなど)

【5】立脚点<そのいくつかは、疑問点に対する答>

【6】留意点

生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)についての解説

【1】生駒の神話と現在 / 非戦・避戦の精神の系譜  「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」 / 生駒の神話と天皇制

戦い忌避神話である生駒神話は、戦い忌避伝承である生駒伝承と符号・共鳴している。生駒の神話は、「縁起の法」の神話化であるとも考えられる<縁起の法ご参照>。

Q&A

 Q.神武天皇はさほど高くない生駒山をなぜ越えられなかったのでしょう?

  A.現代の内陸の移動手段は車ですが、車で移動する場合、陸路を走ってきて、水深1メートル程度の川にぶつかり橋がない場合、たとえその川の幅がさほど広くなく1メートル程度でも越えられません。

   古代には車はなく内陸でも移動手段は船です(入江・川・湖沼に道があった)。船で移動する場合、水上を走ってきて、高さ100メートル程度の山にぶつかり水路がない場合、たとえその山の奥行がさほど深くなく100メートル程度でも越えられません。だから神武は生駒山を超えられなかったのです。

   古代にあっては、海・川・湖沼こそが道であり遠隔地をつなぐもので、陸こそ障壁だったのです。日本列島を囲んでいた海は障壁どころか、その反対の遠隔地をつなぐものだったのです。

日本古代の謎

 

    

 

 

参考文献等  

【1】生駒市誌  富雄町史  大和志料 

【2】古事記古事記<リンク>/原文<リンク>/現代語訳<青空文庫>) 日本書紀日本書紀<リンク>/原文<リンク>)  先代旧事本紀  古語拾遺  万葉集(原文・訓読・仮名)<リンク>ミラー

  記紀について先代旧事本紀・古語拾遺 概要.pdf

  古事記と日本書紀はどう違うか(リンク) / 古事記と日本書紀の違い(リンク)「古事記は国内向けに天皇の正統性を訴えるもので、日本書紀は外国向けに日本という国の正統性を主張するもの」

【3】新撰姓氏録新撰姓氏録概要.pdf>  各地の風土記.pdf

【4】各地の神社伝承・民間伝承 

【5】海外の文献

【6】学者・研究者の説

(1)小林達雄「縄文人の世界」「縄文の思考」   谷川健一「白鳥伝説」 「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」「列島縦断地名逍遥」「古代史と民俗学」.pdf  古田武彦「真実の東北王朝」「古代通史」「邪馬一国への道標」.pdf「盗まれた神話 記・紀の秘密」.pdf古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち.pdf <古田武彦氏のいくつかの著作はここで読むことができます。>   喜田貞吉「本州における蝦夷の末路」   梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」「神々の流竄」   森浩一「日本神話の考古学」   鳥越憲三郎「神々と天皇の間」   井上光貞「日本国家の起源」「神話から歴史へ(日本の歴史1)」   直木孝次郎 「日本神話と古代国家」   上田正昭・鎌田純一 「日本の神々 「先代旧事本紀」の復権」   上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdf  金関恕+大阪府弥生文化博物館 「弥生文化の成立」   関裕二 諸著作   折口信夫の著作   原田常治「古代日本正史」   前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説    樋口清之「逆・日本史 3」.pdf「逆・日本史 4」.pdf「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)    竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf「日本史の謎は『地形』で解ける」3部作.pdf   武光 誠「地図で読む「古事記」「日本書紀」.pdf   長野正孝「古代史の謎は『海路』で解ける」.pdfリンク)  富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-.pdf  松木武彦「日本の歴史一 列島創世記」.pdf  中沢新一「熊から王へ」.pdf「大阪アースダイバー.pdf

(2)村井康彦『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfこの書物が画期をなす理由・この書物を読むための基礎知識.pdf紹介記事

(3)嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf →右図が表紙07

 ①下記のような立ち位置で著されたことにより、この書物もまた神話(が生まれた)時代を解明する上で画期をなすものとなりました。

   立ち位置:「神話や由緒には創作や事実を脚色したものが多く、事実がそのまま記されているわけではないのですが、全くの作り話というわけでもなく、何らかの事実を元に再編したり都合よく脚色したりして創られているようですので、その中に含まれている「事実の欠片」と思われるものを拾い出し、古代の地形地域の伝承地域資料に残されている事実や世界の歴史などと照らし合わせてみると、『納得できなかった教科書の歴史』とは全く違う歴史が納得できる形で表れてくるのです。」(14.10.17のブログより)

 ②この書物の基になり、続編たるブログが歴史探訪(09.4.13発進)

【7】在野歴史研究家の調査に基づく説、作家・小説家の小説・小論 

 松本清張「古代探求」.pdf清張通史② 空白の世紀  /司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 1」生きている出雲.pdf 「同左」長髄彦.pdf「城塞」.pdf高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」ここにも「火怨」の抜粋あり)・「炎立つ」  /畠山紘明「秋田安東氏物語」  /黒岩重吾「古代史への旅」.pdf

 原田常治「古代日本正史」・「上代日本正史」/小椋一葉「消された覇王」<これらは、神社伝承の調査に立脚し、文献重視に偏重するアカデミズムへの批判の書でもある。>

【8】昔の話を参考にしている作品

 宮崎駿「となりのトトロ」「もののけ姫」(リンク)「千と千尋の神隠し「もののけ姫」のアシタカ〔ヒコ〕はナガスネヒコ、「千と千尋の神隠し」のハク(ニギハヤミコハクヌシ)はニギハヤヒノミコトをモデルにしているともいわれています。)  手塚治「火の鳥」「ブッダ」(「火の鳥」の黎明編では騎馬民族征服王朝説が採用されているともいわれています。 

【9】古史古伝   諸文献  示唆に富む資料・言葉   生駒ふるさとミュージアムの「歴史と文化入門講座」  生駒ふるさとミュージアムの「生駒の歴史と文化に関する講演会」等   「生駒谷の祭りと伝承」<抜粋>.pdf

【10】地図・遺跡こちら

【11】ラブリータウンいこま<09(H21)年10月15日号>テーマ : 長髄彦伝説

【12】文献比較 名称.pdf   文献比較 事件.pdf   文献比較 系図.pdf 

  

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「生駒の神話」(という物語)はなぜつくられたのか。

(1)縄文から弥生への移行の時代は、次の2つの点で日本列島に暮らす人々にとって根本的な転換期だった。

 ①これまでの狩猟採集漁労経済(神から授けられたものを取得し平等に分配する)から水田耕作経済(生産手段で作ったものを収穫し、余剰生産が生じる余地が生まれることで不平等分配がもたらされる)へ。

 ②これまでの狩猟採集漁労経済では生産手段と不平等分配がなかったので国家(武力を属性に持つ支配・抑圧機構)が生まれなかったが、水田耕作経済では生産手段(生産に必要な土地や農具など)と余剰生産物(全員が生きていくのに必要な量以上に生産できた物)の所有化に伴い私有財産制が生まれた。それは、貧富の差を生じさせ、私有財産を多く持つ者がそれを持たない者や多くは持てない者を武力によって支配・抑圧する必要性を生じさせ国家が作られていった。 

(2)人々は、(1)のようなこれまで体験したことのない事態を共通理解し、これからどうすべきかを共有する必要に迫られた。そこで、人々がつくったのが「生駒の神話」という物語であった。

 人類の歴史を描いた「サピエンス全史」や人類の行く末を占った「ホモ・デウス」を著した世界的に著名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「大多数の人にとって世界を理解するのは『物語』を通じてです。」と言っている。

補記1

 この文書.jpgに依拠して縄文から弥生への移行期の転換のプロセス(経済様式)を記すと次のようになります。

➀非定住・狩猟採集漁労→➁定住・狩猟採集漁労→③小規模(非灌漑)農耕→➃国家形成(人民の隷属化)・大規模(灌漑)農耕

そして、「生駒の神話」の登場人物を各経済様式の指導者にあてはめると次のようになります。

 ➁ナガスネヒコ  ➂ニギハヤヒ(スサノオの縁者)  ➃イワレヒコ(アマテラスの子孫)

 補記2

  なお、701年の大宝律令制定で確立された律令制国家をつくった勢力が、国家維持に資するために「生駒の神話」を神武東征神話(記紀に記された神話=記紀神話、の1つ)へと改竄(国家を形成する者を是とし、それに抵抗する者を非とする)しました。そのため、記紀リテラシー(小辞典ご参照)により、「生駒の神話」を復元しなければならないのです。

 

 

 

すべての古道は、非日常(解放区)としての寺社をめざす   

(1)生駒の古道は、すべて、伊勢街道(伊勢神宮をめざす)または熊野街道(熊野大社をめざす)または宝山寺参詣道(宝山寺をめざす)です。

(2)次の文を読むと、江戸時代、一度に何百万人もの人々が、日常の封建的な束縛から解放されて自分を取り戻すための非日常(解放区)を得るために伊勢街道を伊勢神宮に向かったことがわかります。このように、人々は、非日常を得るために、伊勢街道と同様に、熊野街道を熊野大社に向かい、宝山寺参詣道を宝山寺に向かったのでしょう。そのために、現在では古道となっている街道・参詣道はつくられたのです。今でも、ところどころに古道標・石仏・茶屋跡などが残っている古道を歩くと解放的な気分に浸れるのはそのためなのでしょう。なお、民俗学では「黄泉(よみ)の国から帰ったイザナギが目を洗うと神々が生まれるとされたように、けがれが祓(はら)われると逆転して神になるという民間伝承は多い。寺院や神社も、けがれの吸引・浄化装置として働いてきました。」<この文書ミラーより/太字は引用者による>としています。日本では人々は古来、(=日常を生きる力)のカレ(=枯れてしまうこと)の時には、「ケのカレ=ケガレ(穢れ)」(古代日本では、彦や比古をビコともヒコともいうように、濁点があってもなくても同じでした)を祓はらう(生きる力を復元する)ための非日常(解放区)の場・時間(=ハレ)を寺社に求めたのでしょう。

  「おかげでさ するりとな ぬけたとさ」。こう歌い踊りながら歩いたという。江戸時代の伊勢参りの集団、「おかげ参り」の一行である。親や主人に無断で抜け出した子どもや奉公人の「抜け参り」も多かった▲何度か発生した大規模なおかげ参りは一度に何百万という人数に達したという。着の身着のままで抜け出した人々はまず施(せ)行(ぎょう)を受ける印となるひしゃくを与えられ、食物や路銀(ろぎん)、寝場所などを道筋の家々から施されて伊勢へ向かった▲ちなみに勝海舟(かつかいしゅう)の父親・小吉(こきち)は少年時代に家出したおり、ひしゃくを持って家々を回り、1日で米麦5升と120文の銭を施されたと記している。庶民の旅へのあこがれと、その夢をかなえた江戸時代の旅文化には本当に驚かされる<この文.pdfより/太字は引用者による >

(3)近代になっても、寺社が人々にとって非日常を得られる場所として求められたことは変わらず、その求めに応じて、人々を寺社に向かわせるために、街道に替えて電車道がつくられました(この記事ミラーご参照 )。生駒トンネルを建造して大軌(大阪電気軌道/現近鉄奈良線)を開業させたのも、大阪方面から奈良の寺社と宝山寺に参詣者を運ぶためでした。だからこそ、大勢の犠牲者を出すような難工事と莫大な工事費の出費を伴う生駒トンネルの建造が断行されたのでしょう。生駒トンネル建造の困難さは、生駒から遠く離れた東京で暮らしていた宇野浩二の耳にまで届いており、彼は、生駒検定<全国版><問24>生駒ゆかりの諸群像小問(2)の文の中で「数年の歳月と巨額の金額をつひやし十数人の人の命を犠牲にして、やっと、トンネルを通じた」と述べています。かかるトンネル工事を断行させた力は、江戸時代に一度に何百万人もの人々を伊勢神宮へと向かわせたのと同じ力でした。

(4)今日では、人々の「自分(主体性)を取り戻す場(自分自身を理解する機会)」はさまざまとなっており、人類の歴史を描いた「サピエンス全史」や人類の行く末を占った「ホモ・デウス」を著した世界的に著名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、この記事ミラーの中で次にように言っています。

   方法はたくさんあります。私自身は(1日2時間の)瞑想を実践していますが、心理士に合うとか、芸術に触れてもいい。山登りやハイキングを、自分自身を理解する機会としても使えるでしょう。<太字は引用者による>

 

(*)この記事は、生駒検定<全国版>問(13)歴史を見つめてきた暗峠(くらがりとうげ)小問⑥解説の資料としても掲載しています。また、生駒検定<全国版>問(26)生駒の歴史<続き>の生駒トンネルの着工・竣工、大軌開業のシーンのご参考としても掲載しています。

生駒神話の小辞典  

     【神々の総称いろいろ】【日本の神の一覧(リンク)】

葦原中国(あしはらのなかつくに)

阿弖流為(アテルイ)Wikipedia高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」 /「アテルイの悲劇」については、生駒の神話と現在の(2)をご参照 不屈の英雄 アテルイ ~古代東北の底力~

天降り(あまくだり)「天」と「海」は共に「あま」という言葉で同一視されていたので、「天あま降り(降臨)」は、「海あま降り(渡来)」のこと。

天津神天津族(あまつかみ・あまつぞく)⇒神々の総称いろいろへ 「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

「生駒」の語源・由来

生駒山地(生駒連峰)

生駒山生駒山のこと 古代日本における生駒山の不思議と謎新日本風土記 生駒山万葉神事語辞典より

生駒山越の峠道

伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ).pdf

出雲勢力出雲民族・出雲族・出雲神族) 出雲に渡来した渡来人で、出雲を本貫ほんがん(出身地)とする。播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも耕作地を拡大(出雲勢力が各地に進出したルートは、日本海から丹後を通って近江、近畿へ。もう一つは吉備経由で瀬戸内海へ)。先住民(縄文人)と協力・協同、住み分けて形成した国を「出雲の国」という。記紀神話では、彼らの長はスサノオ-大国主(農耕を広めたので、農耕地の神社で祀られること多し)。なお、協力・協同した先住民(縄文人)も出雲勢力という場合も多い。「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

出雲系の神々 神々の総称いろいろ

磐座(いわくら)祭祀の対象となった巨石

磐舟(いわふね)船底に、船の重心を低くして転覆を防ぐための重石おもしにする大きな石を敷き詰めていた船。重心が低くなると浸水したら沈没してしまうので気密性が高くて浸水しにくかったと考えられる。

内つ国(うちつくに)都のある国(大和国/倭やまと)/都に近い地方(畿内・近畿地方)/外国に対して日本の国  中洲(なかつくに・なかす・ながす)国ともいう。 

愛瀰詩えみし.pdf

縁起の法・・・前5世紀前後に唱えられたこの法に生駒の神話が影響を受けているとの指摘がある。

大八洲国(おおやしまぐに) 多くの島からなる国の意で、日本の異称。略称は大八洲八島八嶋

 

河内湾・河内潟・河内湖

記紀リテラシー・・・古事記は国内向けに天皇の正統性を訴えるために、日本書紀は外国向けに日本という国の正統性を主張するためにつくられたものですが、説得性を持たすために、人々の間に伝えられてきた神話や伝承を記紀をつくる目的にあうように変えて取り入れています。そこで、記紀を読む際には、元の内容がどうだったのを判断するリテラシー(適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現し、その真意を把握する力)が必須です。

〇(先史・古代の)京都(瀬戸内海と日本海の陸内港)

金の鵄とび(金鵄きんし

クサカ(日下・草香・孔舎衙/草香山(饒速日山)

日下くさかの直越(の道)直越(の)道(ただごえのみち)

狗奴国(くぬこく・くなのくに・くなこく)・・・邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征    狗奴国東遷説.pdf  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

国生み神話

国津神・国津族(くにつかみ・くにつぞく)⇒神々の総称いろいろ  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照    

国譲り

降臨天降り(あまくだり)へ

 

「坂」

「殺戮」 

里山 

三貴子(さんきし) 天照大神・月読命(ツクヨミノミコト)・素戔嗚尊(スサノオノミコト)の三大神のこと。

式内社(しきないしゃ) 当時「官社」とされていた全国の神社一覧である、927年成立の延喜式神名帳に記載された「官社」の地位にあった神社。なお、式内社のうち、大社に列格されているものは式内大社と呼ばれる。  

蛇神(じゃしん・へびがみ) 

縄文のこと(縄文時代・縄文人・縄文文化)⇒縄文と弥生

神武東征 

住吉神社

大嘗祭(だいじょうさい)⇒ 長髄彦 とイワレヒコの戦い ご参照  

太陽信仰

高天原(たかまがはら) 天津神々のすむ天上界。天香具山で祭祀が行われ、神々は稲田をつくり、機織女たちは織殿に奉仕している。最高支配者は三貴子の一人天照大神と高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の二神で、玉座である天の磐座(あまのいわくら)に座している。「高天原」が天上にあるという考えは本居宣長が広めたと言われているが、歴史的には、渡来して九州にいた集団(神話では天津神という)  高天原天上説は本居宣長の創作

直越(の)道(ただごえのみち)

高見の烽(とぶひ) 

哮峰(峯)(たけるのみね/たけるがみね)⇒生駒の神話ゆかりの古蹟 ご参照

近淡海.pdf(ちかつあわうみ) 

長弓寺 

天孫・天孫族(てんそん・てんそんぞく)⇒神々の総称いろいろへ  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

常世国(とこよのくに) 海の彼方の遥か遠くにある地、または世界。ここにどのような幻想を抱くかによって常世国の性格は変化する。これが常世国がいくつもの性格を兼ね備えている理由とされる。

飛火(とぶひ)が岡 

トミ(鳥見・登美・富)・トビ・富雄トミ神社<リンク>

鳥見霊畤(とみのれいじ) 天下を平定した神武天皇が鳥見山中に設けたとされる神々を祀る場のこと。霊畤の項もご参照。ここに鳥見霊畤があったとの伝承地としては、奈良県下では、王龍寺、鳥見旧跡、大倭神宮、奈良市石木町の登彌神社、天理市の大国見山、桜井市の鳥見山(麓・頂上)、宇陀市・榛原町の鳥見山、吉野村(萩原・上小野榛原・下小野榛原)の8カ所ある(前4つについては、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照)。 

富雄丸山古墳

鳥見白庭山(とみはくていざん)⇒  饒速日 (ニギハヤヒ)へ 

鳥見山(とみやま・とりみやま)  桜井・宇陀両市の境と桜井市内の2か所にあり(地図.jpgご参照)、これらの付近がナガスネ彦とイワレ彦の2回目の戦い(トミの戦い、と名付けられるのはないか)の場所といえる。なお、西の鳥見山付近には外山(トビ)の地名が多くある(地図.jpgご参照)。

豊秋津洲(とよあきつしま・とよあきづしま・ とよあきずしま

豊葦原中国(とよあしはらなかつくに) 葦原中国(あしはらのなかつくに)と同じ。

 

長髄彦(ナガスネヒコ)

〇 なかつくに(中国・中つ国・中津国) 葦原中国(あしはらのなかつくに) ともいう。

中洲(なかつくに・なかす・ながす) 国の中心・中心の国・大和  内つ国(うちつくに)ともいう。

   南北2つの鳥見とみ(登美とみ)は中洲(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね(長髄ながすね/なかすね)彦であった。 

  なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄トビ)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。

奈良湖ならこ(大和湖)

〇 饒速日 (ニギハヤヒ)

饒速日山クサカ(日下・草香・孔舎衙/草香山(饒速日山) 

西ノ京丘陵(京阪奈丘陵)

根の国(ねのくに) 高天原も異界であった根の国も元は葦原中国と水平の位置にあったのが、高天原を天上に置いたために根の国は地下にあるとされるようになった。その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂としている記述が『古事記』にあり、一般には死者の国である黄泉の国と同一視されるようになった。

〔鳥見とみ〕白庭山(はくていざん)⇒  饒速日 (ニギハヤヒ)へ   

日の本(ヒノモト)/日高見(ひだかみ)

卑弥呼.pdf(ヒミコ)

向三代(ひむかさんだい) 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨から、神武天皇を生む草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)までの三代(ホノニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアヘズ)のこと。

日向勢力日向民族・日向族) 日向に渡来した渡来人。彼らの渡来を記紀神話では、天孫降臨という。そのため、天孫族ともいう。また、天津(天つ)族、天津(天つ)民族ともいう。津(つ)は「の」の意。記紀神話では、彼らの神を天津神(天つ神)といい、彼ら以外の神を国津神(国つ神)という。また、記紀神話では彼らの長はニニギ-イワレヒコ。

非戦・避戦の精神

琵琶湖.pdf

深野池(ふこうのいけ)⇒河内湾・河内潟・河内湖

平群の山(矢田丘陵)

真弓塚

〔富雄〕丸山古墳

まれびと(マレビト/稀人・客人)

尊・命(みこと) 『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ以外の神は、「命」と明確に区別している。ちなみに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は悪行を重ねたにもかかわらず「尊」である。

瑞穂(みずほ) 稲のこと 葦を指すこともあったとされる<内つ国のあった奈良盆地は、縄文時代以後、海湾→海水湖→塩分の残る湖と湿地の盆地→塩分の残る湿地にまず生い茂る葦原の湿地盆地→塩分の抜けた湿原盆地→水田(葦を刈り取った後の湿地は稲作に適した土地になった)と湿地の盆地→水田と乾地の盆地へと変化した。>  

三輪氏(みわうじ) 新撰姓氏録(P.250)には、「素佐能雄命六世孫大国主之後也(スサノオ6世孫の大国主の後裔なり)」と記されている。大三輪氏おおみわうじ・神氏みわうじ・大神氏おおみわうじとも表記する。

〇(生駒の)モリ.pdf

矢田丘陵(平群の山)

邪馬台国  邪馬〇国の名称・所在地論争に終止符を打つ論 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征  

大和政権  邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征    

ヤマト.pdf  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照   

  「日下の草香」「飛ぶ鳥の明日香」から「日下」「飛鳥」の読みができたように「倭人住む山門」から「倭」で「やまと」と読むようになった、との説あり。

大和湖やまとこ(奈良湖)

弥生のこと(弥生時代・弥生人・弥生文化)⇒縄文と弥生

弓矢 

黄泉の国(よみのくに) 死の国。ここの竈で煮炊きされた食べ物を一口でも食べると、現世には帰れない(黄泉戸喫〈よもつへぐい〉)。これは世界各地の死の国の言い伝えと一致する。黄泉平坂で現世と分けられている。根の国と異なるという考えや同じとする考え方がある。同じとする学者が、黄泉の国は地下にあるものと考えているが、必ずしも葦原中国に対して地下にあるわけではない。

黄泉平坂(よもつひらさか) 現世と黄泉の国とのあいだにある坂の名称。以前は自由に行き来できたようだが、伊邪那岐イザナギノミコトと伊邪那美イザナミノミコトの決別のとき、伊邪那岐によって封印された。道祖神はこの境を守るために祭られたのだともいわれる。 

霊畤(れいじ)「まつりのにわ」という意味。大嘗祭(おおなめさい・だいじょうさい/新天皇が即位後最初に行なう新嘗祭)を行う場所。大嘗祭・新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)共、その年の新穀・新酒をもって先祖の神々を祀るという意味においては同じだが、大嘗祭は、皇位継承と重大な意義を持っていて、大嘗祭が行われて始めて皇位継承の名実共に備わるといわれ、一代一度の極めて重大な式典。

 

記紀の作為(神武東征神話の捏造)はなぜおこなわれたか?

 人類の歴史を描いた「サピエンス全史」や人類の行く末を占った「ホモ・デウス」を著した世界的に著名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「大多数の人にとって世界を理解するのは『物語』を通じてです。事実や統計に基づいて、ではありません」といっています<この記事ミラーの中で>。現在においてもそうですから、事実を記録した文書や統計等がない時代においては、なおさらそうであったでしょう。縄文から弥生への移行という激動の世界を理解するためにつくられていた「物語=神話」は、記紀の作者によって神武東征神話へと改竄されたのです。その理由は以下の通りです。

(答記紀には、二つのフィルターがかかっている .pdfご参照

(答「ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』によると、人間が『カリスマ』を生んでしまうのは現在の人類と同じホモ・サピエンスが身につけた認知的能力に由来するらしい。我らホモ・サピエンスは神話や守護神といった虚構を生み出し、共通の虚構を信じることで何百人、何千人という規模の協力を可能にした。」<毎日新聞(19.9.22)/今週の本棚 より>とのことであり、神武天皇をカリスマとし、金鵄はその守護神、ナガスネヒコは賊という虚構を生み出し、それらを共通の虚構として信じこませることで人民を統治するため。この虚構は、金鵄勲章なるものが端的に示しているように戦前の戦争期に大いに利用され、今日に至ってもその役割を維持しています。  

(答)のちの大和王権に連なる後期渡来人は、縄文人や前期渡来人が住む領域に侵入してクニづくりを進めた。それを正当化するためには、侵入される側の縄文人(ナガスネヒコが体現)は賊、前期渡来人(ニギハヤヒが体現)はその仲間、 侵入する側の後期渡来人(イワレヒコが体現)は解放者という虚構(改ざんされた神話) を人々に信じさせることが必要だったから、正邪を逆転させました(抑圧・侵略する者を正当・正統とし、それに抵抗する者を邪悪・賊とした)。

 同様に、大和王権やそれに連なる勢力は、母系制・双系氏族による生産経済(農耕・牧畜)を否定し、父系制・父権制氏族、更には部族による生産経済への移行を進め、ついには、氏族単位で田畑が占有・使用される土地制度を解体し、小さな地縁集団(戸)に土地を分配する班田収受を断行しながら、中央集権国家を形成していったことを正当化するために、スサノオ(日本に渡来して農耕・牧畜を紹介・開始し、「八岐大蛇=斐伊川」を「退治=治水」するなど、母系制・双系制氏族による生産を進めた初期農耕民を体現)を秩序破壊者とし、その秩序破壊者をアマテラス(母系制・双系制氏族による生産を否定しながら国家の形成・強化をめざした勢力を体現)が追放するという虚構(改ざんされた神話)を人々に信じさせることが必要だったから、正邪を逆転させました(スサノオは日本に水田耕作を紹介し広めた五穀豊穣の神であったのに乱暴狼藉の秩序破壊者とされました)。

 正邪逆転は、縄文人(ナガスネヒコが体現/取得物は平等に分配する狩猟採集漁労経済)や前期渡来人(スサノオ、その縁者のニギハヤヒが体現/収穫物は平等に分配する母系制・双系制氏族による初期水田耕作経済)の経済を否定し、後期渡来人(イワレヒコ、その先祖のアマテラスが体現/父系制・父権制氏族、更には部族による、不平等分配をもたらす余剰生産を生じる水田耕作経済)の経済を正当化する上で必要でした。

追記

「正邪逆転の妄想」

(1)神武東征神話は、クニを奪われようとした人々、ずっと平和に暮らしていた先住の人々、盟友に裏切られる者、自分や愛すべきもの(自分が暮らすクニの人々)の尊厳を守ろうとする者、を賊とする正邪逆転の神話です。この神話は現在に至るまで日本に生き続けて、知らず知らずのうちに一部の人々に正邪逆転を疑問に思わないよう感性に悪影響を与え、「正邪逆転の妄想」を植え付けてきました。(邪と悪の違い・・・悪は正に立ち返ることはないが、邪はイワレヒコや邪鬼のように、改心によって正に立ち返ることができる。)

 妄とは善悪の分別が欠けること、妄想とは誤った確信のことで、「正邪逆転の妄想」 とは、正を邪とし邪を正とする、誤った確信のことで、抑圧する者・侵略する者・支配する者・力の強い者を正とし、それらに抵抗する者を賊(反逆者)として邪とする妄想です。

(2)今日の日本では、「正邪逆転の妄想」 は、権威主義(「権威=力」ある者を正としてそれに従うべきとし、それに抵抗する者は「賊=反逆者」とする思想・行動)として多くの国民が受動し、権威主義<ご参照.jpg>が「空気」になってしまっています。それを見える化した分かりやすい事例として、次のことが挙げられます。

 ①大阪府の維新知事に私学助成のお願いをしに来た高校生に対し、維新知事は「日本は自己責任が原則。それが嫌なら、あなたが政治家になって国を変えるか、日本から出て行くしかない」と冷たく言い放ち、勇気を出して請願しに来た高校生を泣かせた<詳細⇒ご参照ミラー> 。このことについて、「知事はわがまま高校生をよくぞ叱ってくれた」と、純粋な高校生を冷酷に扱った維新政治家を批判するどころか、逆に称賛する府民が少なからずいた。

  なお、この維新知事が大阪市長だったときに導入した公募民間校長制度で採用された民間校長は、きっちり「正邪逆転の妄想」を児童に浸透させようという犯罪(違憲行為)を犯しています(この記事.jpgご参照)。

 ②<自分をホームレスにし生活保護を受けざるを得ない社会状況を作り出した勢力に抵抗するどころか、逆にその勢力を正として支持応援する>参院選の投票日前日の20日夜。東京・秋葉原の駅前は、日の丸で揺れていた。30メートル先でマイクを握る安倍晋三首相に向けて、東京都調布市の無職男性(23)も手旗を振った。4年ほど前にホームレスとなり、いまは生活保護を受ける。だが選挙で重視するのは、雇用や社会保障より安全保障だという。「憲法改正して自衛隊を明記すべきという安倍さんの話に共感できる」。翌日、自民の候補者に1票を投じた

 <100点満点で10点という低評価を下す政権に抵抗するどころか、逆に、抵抗する者を邪とする>/100点満点で10点。東京都多摩市の会社員男性(49)は、安倍政権に厳しい点をつける。アベノミクスで暮らしが豊かになった実感はない。高級スポーツ用品店に勤務。金銭的に余裕のない客ほど文句を言う。「みんながイライラしているような気がする」。人手は足りず、仕事は減らないのに、手取りは減った。同僚は缶コーヒー1本の出費もためらい、水筒を持参するようになった。自分の暮らしぶりは「中の下」だという。独身で、両親の面倒をみながら実家で暮らす。野党には、老後不安への解消策を示してほしいと思う。だが夜遅く帰宅して見るテレビやネットでの野党の姿は、国会で揚げ足取りをしているように映るのだという。「野党は個人攻撃で話が進まない。安倍さんは日本のためによかれと思ってやっている姿勢が見える」。選挙区も比例区も自民に入れた。

以上の2つの文(< >は引用者による) は、共に、朝日新聞(19.7.23)「『安倍支持』の空気」(全文ミラー)より

 ③権力側の容疑者が起訴される直前に権力の指示で不起訴とされるという不条理を正そうとするする伊藤詩織さんや権力の不都合な真実を追求する望月衣塑子さんや政府与党の悪政を厳しく批判する福島瑞穂議員・辻本清美議員を、権力に抑圧される側の民衆が、女はおとなしくしているものだという女性蔑視や「女性嫌悪(ミソジニー)」<ご参照>もあいまってバッシングしている。<これも、民衆が正邪逆転の妄想に囚われているからです。>

 なお、日本の「女性嫌悪(ミソジニー)」は、 憲法改悪や靖国神社参拝等を主張して首相にすり寄る女性の与党議員のように権力者(=抑圧者)に組みする女性は是とし、上述の議員のように権力者に抵抗する女性を非とするので、これは、正邪逆転の妄想そのものともいえます。

(3)「正邪逆転の妄想」はアメリカ人の多くも囚われています。かかる状況をもたらしたものに「西部劇」がありました。これは、侵略する白人を正とし、抵抗する先住民を邪とする物語です。日本でも、50年代から60年代にかけてテレビで盛んに放映され、それを視聴した多くの児童少年が、「西部劇」 がもたらす「正邪逆転の妄想」 に囚われていきました。なお、共に1970年に公開されたソルジャー・ブルー小さな巨人を見た人は、この妄想から解放されていきました。

 しかし、アメリカには、現在もなお、多くの人々が「正邪逆転の妄想」に囚われてます。それを利用して、コロナ禍対策の無作為で支持を低下させているトランプ大統領は再選を果たそうと目論んでいます。力の強い者が正で、抵抗する者は邪ということを見える化して、その妄想を拡大することで支持を拡大しようというわけです(ご参照ミラー)。トランプの再選実現プランのあと1つは中国敵視政策の強化です。今のトランプのやり方をみていると、まさに、悪党最後の砦は、「偏狭ナショナリズム=排外主義」と「正邪逆転の妄想」と言えます。トランプは、「女性嫌悪(ミソジニー)」 の助けを借りて大統領に当選できた<ご参照> のですが、再選はそれだけでは実現不可能なので、ついに悪党最後の2つの砦の助けを借りようとしているのです。さすがの米国民もかかる者の再選を許すことはないだろうと思いますが・・・。

 

 

 

 

 

生駒の古道等の概念図   

)概念図<善根寺越・日下越・古堤街道南道(一部)・八丁門越(一部)・宮山周辺.jpg>  添付写真.jpg

    別紙(くさか園地)  別図A.jpg(四道集中分岐付近の概念図)  別図B.jpg(宮山(石切神社元宮)周辺の概念図)  別図C.jpg(生駒駅発着の生駒山登山道)<添付写真(その1).jpg添付写真(その2).jpg

)概念図<辻子谷越宝山寺参詣道主要部(石切~宝山寺)>  添付写真

)概念図<庄兵ヱ道北部(宝山寺~国道308号)/暗峠・宝山寺道(暗峠~宝山寺)>  添付写真

)概念図<生駒山上~暗峠~「鳥見霊畤趾磐座」の碑~南生駒駅/庄兵ヱ道南部(国道308号~千光寺)>  添付写真

矢田丘陵

  ①北部北半分・・・概念図<北部北半分(生駒白谷~市総合公園)>  添付写真

  ②北部南半分・・・矢田丘陵遊歩道のページに掲載のハイキングマップが案内役になリます。ただし、椚峠(県道との出合い)での出入り口がわかりにくいので「椚峠 案内」.pdfをご活用。  

  ③南部北半分・・・矢田丘陵遊歩道のページに掲載のハイキングマップ歩く・ならのページに掲載のルートマップの両方に記載があり、この両方が案内役になります。ただし、矢田峠付近は道が入り組んでいて迷いやすいので、矢田峠に設置の道標に記載の案内図.pdf(19.12現在、道標は倒れて横たわっている)をご活用。 

  ④南部南半分・・・歩く・ならのページに掲載のルートマップ(3分割されていますが、くっつけて1枚ものにすればぐっとわかりやすくなります)が案内役になります。ただし、松尾山・白石畑とその一帯は、道標があるところでもわかりにくく、道標がないところでは迷いやすいのので、松尾山・白石畑の概念図 北.jpg同 南.jpgこの南北2つを合わせた概念図.jpg添付写真.pdfと磁石を併用して道標代わりにしてください。

資 料     

(*)縄文と弥生  ミニ知識  アイヌ語辞典   地名由来辞典  ポリネシア語で解く日本の地名・・・  物語の作り方/物語のでき方

(33)神武天皇聖蹟調査報告(編集:文部省/1942年)<抜粋>  神武天皇聖蹟顕彰碑・伝承碑まとめ<リンク> 

(32)三角縁神獣鏡国産説.jpg

(31)『世界神話学入門』

(30)「邪馬台国=富雄川流域」説

(29)Q.草の舟での3万年前の航海(与那国島→西表島)再現実験(16.7.17~16.7.18)の失敗(ご参照)の原因は? A.3万年前の海と陸が今と同じだったはずだという思い込みが原因です(ご参照)。 

(28異国から訪れた旅人がもたらす風聞は、娯楽であり、情報でもあった

(27)「后と鶏」の生駒伝承(戦い忌避伝承)の真意は、長髄彦が堕落しないよう彼が神武天皇と戦う(殺戮する=命あるものを食べるため以外の目的で殺す)のを金の鵄(鳥)が止めたという生駒神話のそれと符合しています(生駒検定<全国版>問21 生駒伝承ご参照)。「神功皇后と鶏」の生駒伝承は「戦い忌避伝承」であり、生駒神話は「戦い忌避神話」と」いえます。

(26)J-SHIS(地震ハザードステーション)PhotoJ-SHIS Map生駒周辺.pdf<→右図(クリックで拡大)>を見ると、縄文~弥生時代に島・半島であった生駒と海であった大阪湾・奈良盆地・京都盆地との対比が明確です。

(25)海のない信州になぜ「御船祭り」があるのか⇒信州の御船祭りをご参照。

(24)ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)といえるのではないか 

(23)普遍的に人類の心をとらえる英雄物語の基本パターン(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」が明示)⇒ご参照1.pdfご参照2

(22)現代人にもプログラムされている神話的思 

(21)佐保姫と竜田姫、そして登美彦

(20)古代地名検索システム

(19)この記事によればこの地図の櫛羅くじら(海抜約122m)付近まで海だったとのこと(地図の櫛羅表記の南西にある神社が海抜145mの鴨山口神社)。

(18)創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf

(17)「山人」の「協同自助」的な生活に未来の可能性が見られる.pdf

(16)「国生み」は海洋民の伝承・「出雲」の「雲」に道教思想.jpg  考古学から神武を探る.pdf 

(15)トビ・トミ=ナガ=蛇神

(14)保津川の曳き舟再現

(13)倭人伝の国々をアイヌ語で読んでみると、「島」「森」「半島」「沼」「川」「水草」「葭あし」「谷・窪地」「河口」「滝」「港」という語が多用されていることが分かる⇒アイヌ語で読む倭の国々(リンク)ご参照(なお、ヤマタイ国は以下のよう)  

邪馬壱(邪馬臺)  やまい
(やまたい) 
yam-i(yam-tai)
      yam=栗 i=場所 tai=森 
豊かな栗の森のある国
       

(12「地名の改悪」は戦後日本の愚行.pdf  広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン

(11)富雄川と「富の小川」(リンク)  富雄駅は42(S16)年9月~53(S28)年4月に鵄邑(とびのむら)駅.jpgと改称されていた(当時の地図)。

(10)近代戦争以前の戦い : 例外だった白兵戦 戦場での負傷、大半は飛び道具.pdf

(9)『真説・古代史』補充編「神武東侵」 : Ⅳ(イワレヒコは恐らく登美毘古に勝てなかったのだ) 

(8)神武はついに長髄彦を倒せなかった 

(7)神武が来た道  神武東侵  古田史学の真髄(神武東侵について・天孫降臨について、など)

(6)アマテラスの原像.pdf   創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf.pdf

(5)日本神話に見る日本文化考  左のワード版 

(4)絵古事記(リンク)

(3)記紀・万葉は古代のムラ段階から継承してきた少数民族的伝統 : 自然と共生し節度ある欲望を生きる少数民族の文化は、自然破壊と欲望の開放という近代化の行きつく荒廃に対する最後の防波堤.pdf 

(2)戦争は、人間の本能ではなく、日本では縄文時代にはなく、弥生時代から始まった 

(1)日本服飾史資料(リンク)勾玉三部作服飾(リンク).mht

(0)参考 : 日本古語大辞典(刀江書院)  日本書紀を語る講演会ミラー  旧版地図の入手方法(リンク)

 

「生駒の神話」のストーリー(その骨子)【解説付版】<2020.4/その後、随時添削>

【解説付版】でない方

(図版はクリックで拡大できます。)

生駒の神話が生まれた時代とその舞台

 ①この神話が生まれた時代は、弥生時代、つまり、海の向こうからやってきた渡来人がもたらした水田耕作が西から東に伝 播した、縄文(狩猟採集漁労)から弥生(水田耕作が主業で狩猟採集漁労は副業)への移行期。

04  ② その舞台⇒右地図ご参照

   ・大阪(河内)平野・・・弥生時代の中頃(2000年前ごろ)までまだ海(河内湾)でした。淀川と大和川が土砂を運ぶことで潟化(外海との隔離化)が進み(河内潟)、弥生時代の後期の1700年前ごろにはまだ海と繋がる湖(河内湖)となり、その後も湿地化・乾地化が徐々に進行し、江戸時代には湖は池(深野池ふこうのいけ)となりました(河内湾・河内潟・河内湖 ご参照)。

   ・奈良盆地・・・大阪(河内)平野が河内湾であったころは奈良盆地は海と繋がる奈良湖(海水湖)でしたが、大阪(河内)平野の湿地化・乾地化に歩調を合わせて、海水湖→海ときり切り離された淡水湖→湿原盆地→乾地盆地と姿を変えていきました(奈良湖ご参照)。

   ・日本神話の「国生み神話」においてイザナギ・イザナミが産んだ豊秋津洲とは生駒のこと(豊秋津洲とは、まだ島・半島であったときの生駒のことご参照)で、ここが生駒の神話の舞台となりました。

「生駒の神話」のストーリー(その骨子) 

~ <※>が解説部分 ~  

海の向こうからやってきて日向(ひむか/現宮崎県)の国を治めていたイワレ彦<※1>は、九州を征したのち、内つ国(うちつくに/国の中心/生駒山の東側/現在の生駒~奈良盆地周辺)を征服せんと瀬戸内海を東進して難波(なにわ/現77_20200121170801 大阪平野右写真/大阪平野は、生駒の神話が生まれた弥生時代に、海湾から海と繋がる湖へ)にいたり、そこより生駒山を越えようとした<※2>。

   <※1-1>神話のイワレヒコは、歴史的には「遅い時期にやって来た渡来人」

   ※1-2神話では、イワレヒコは、日向に「天あま降り(降臨)」してきたニニギノミコトという神のひ孫となっているが、神話で「天(あま)から降りてきた」とは、歴史的には「海(あま)の向こうから渡来してきた」こと。神話を歴史であるかのように教えさせられていた戦前の小学校では、教師は生徒から「天から降りるって落っこちはしませんか」と質問されて答えに窮したという(ご参照.jpg)。

       神話系図 天照大神天忍穂耳尊アメノオシホミミノミコト瓊瓊杵尊ニニギノミコト 火折尊ホオリノミコト(彦火火出見尊ヒコホホデミノミコト鸕鶿草葺不合ウガヤフキアエズノミコトイワレヒコ(実名は、火折尊の別名と同じ彦火火出見尊/即位して神武天皇

   <※2>神話の「神武東遷」は、歴史的には「邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征 」に記載されている出来事。

このとき、内つ国ではナガスネ彦<※1>が、イワレヒコより先に海の向こうから内つ国にやってきたニギハヤヒ<※2>と共に、戦う(人間を殺す)ことのない平和なクニづくりをしており、狩猟採集漁労に生きるナガスネヒコたちは、武器でない狩猟用の弓矢しか持たなかったが、侵攻軍を撃退するため、雨のように矢を放った。侵攻軍を射抜くためではなく、前進してくる侵攻軍の眼前に天から降ってくる矢で鉄壁の壁をつくることで、侵攻を許さない意思を突きつけ、侵攻を阻むために。ナガスネヒコたちは、投石や落岩等も駆使して、侵攻軍を殺すことなく撃退した(クサカの戦い)<※3>。

   <※1>神話のナガスネヒコは、歴史的には「列島先住民(縄文人)」

          このページ<日本列島先住民族=狩猟採集民族=縄文人> についてご参照   縄文と弥生ご参照 

   <※2-1神話のニギハヤヒは、歴史的には「早い時期にやって来た渡来人」。

           この渡来人たちは、水田耕作民であり、狩猟採集漁労民の列島先住民(縄文人)と衝突したものの、「遅い時期にやって来た渡来人」 とは異なって、住み分け(狩猟採集漁労の妨げにならない範囲で水田耕作をさせてほしいこと)と友好を懇願するという態度を崩さなかったため、衝突は戦いにまで発展せず、両者は住み分け・共存・融和してクニづくりをしていった。かかる歴史を神話は、「イワレヒコの妹のミカシキヤ姫とニギハヤヒは婚姻しウマシマジを産んだ」と物語っています。

   <※2-2>神話では、イワレ彦は東征開始前に東征する動機を次のように語っています。

        (海の神である)塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと「東の方に美(うま)し(良い)土地がある。青い山が四方を囲んでいる。その中に天磐船(あめのいわふね)に乗って飛び降って来た者がいる」とのこと。思うに、その土地は大業を広め、天下を治めるのち良い場所だろう。きっとこの国の中心だろう。その飛び降って来た者とは饒速日(ニギハヤヒ)というものだろう。その土地に行って、都をつくろうではないか。

          これは、「遅い時期にやって来た渡来人」が列島の中心であった内つ国に進出しようとする前に、すでに「早い時期にやって来た渡来人」は内つ国に住まいしていたことを物語っています。

   <※2-3> なお、ニギハヤヒは磐船に乗って哮峰たけるがみねご参照)に飛び降り、〔鳥見とみ〕白庭山はくていざんご参照)に遷ったとの神話もあります。これは弥生時代の早い時期にはまだ、天野川上流まで内海(ないかい)となっており(これは、海の神を祀る住吉神社<ご参照>が天野川源流に建立されていることでも分かります)、「早い時期にやって来た渡来人」が、船に乗って天野川上流までやってきて、白庭山の候補地である住吉神社付近に上陸したことを物語っています。  

   <※3「殺戮」 は悪というより不可能なものというのが縄文人の本然の性であった(このページの「縄文人の本然の性とは何か」ご参照)ため、ナガスネ彦は侵攻軍を撃退するためには「戦わず(「殺戮」せず)して勝つ」ことをしました。これは、前6~5世紀の孫子の「戦わずして勝つ」兵法(1つ目は外交交渉、2つ目は智略活動、3つ目は相手の戦意を喪失させる構え)の3つ目の兵法であったといえます。   

 ただ、イワレヒコの兄である五瀬命(いつせのみこと)は、流れ矢に当たってひじを負傷した が、他者の幸せを祈って執着を絶つことで回復力を高めることをせず、逆に、他者に報復するとの執着を捨てなかったことで体力を低下させ、重傷ではない傷が原因となってのちに死亡した。

   五瀬命のエピソード

      ①五瀬命 は「ナガスネ彦の放った矢に当たって壮絶な死を遂げられた」とした方が、侵攻軍の報復心を高めることになるのに、わざわざ、「(司令官でありながら)流れ矢に当たってひじを負傷(するというお粗末な行為を)し、(更にお粗末なことに傷の手当てが不十分だったので、重傷ではない傷が原因で)1か月後に死亡し(て報復できなかったというお粗末な結果に終わっ)た」というような侵攻軍の士気を低下させる、または、侵攻軍がお粗末な軍隊であることを印象付けるようなエピソードが挿入されていることが、書紀の謎の1つとなっていますが、その答えは、「日本書紀」は「非戦の書」でもあるからです。

      ➁このエピソードは、「他者の幸せを願うことで自己の執着を絶つことをしないこと」または「執着(この場合は、他者に報復することに執着)を保持すること」は「心身の力を低下させる」または「生きることの苦しみから自己を解放させ得ない」ことを教えています。このことは、生駒の神話が、前5世紀前後にブッダが唱えた縁起の法の影響を受けているのではないかとの指摘がある理由の1つとなっています。      

      ③すべての自然に神は宿り、人間に恵みを授けてくれる。しかし、自然=神はときに人間にとって他者となって怒り、災難=祟りをももたらす。それを鎮めるためにも「他者への感謝」を捧げなければならない。「感謝することで災難を回避する」というのが縄文人の発想である。この発想の大切さを後世に伝えるために、このエピソードは、わざわざ神話に挿入された。

内つ国征服に執着する侵攻軍は、太陽に向かって進んだので撃退された<>と思い、迂回して南東方向から太陽を背に内つ国を攻撃しようと考えた。

   <>生駒の神話は何らかの 太陽信仰とのかかわりがあったとされています。

侵攻軍は迂回ルートを進む途上、その先々で、食糧・寝所・休養所等を得るために、ナガスネヒコたちと同様にこれまで戦う(人間を殺す)ことのない世界に生きてきて戦うということなど知らなかった人々<>を一方的な攻撃や謀略によって殺戮(食べるため以外の目的で殺すこと)した。

   >神話上のこれらの人々も、歴史的にはナガスネヒコたちと同じ「列島先住民(縄文人)」。彼らはなぜ団結して戦わなかったのかという疑問も湧きますが、そもそも戦うという概念がなかったということの他に、これまで外敵と戦うことがなかったので、団結して生きていくという概念はあったものの、団結して戦う必要がなかったため、その概念をもっていなかったのです。このことも神話は伝えています。  

侵攻軍が殺戮しているという知らせを受けて怒りをたぎらせたナガスネヒコたちは、再び侵攻軍と会い見まえた時(トミの戦い)、侵攻軍をせん滅(殺戮)せんとして、狩猟(食べるために動物の命をいただくこと)のために神から授けられた弓矢 を武器に変え、彼らは軍隊に変質した。

   >弓矢については、弓矢ご参照

ナガスネヒコ軍が、侵攻軍をせん滅するため矢を一斉に放とうとしたまさにそのとき、ナガスネ彦たちのトーテム(守護神)である金の鵄(金鵄)が突然に飛来し※1 、激烈な閃光を放ってナガスネヒコたちから弓矢を取り上げ全員を打ちのめして殺戮を阻止し、殺戮することで堕落することからナガスネヒコたちを守った※2 。侵攻軍もまた、命の尊厳をないがしろにする者を許さない金の鵄の激烈な畏敬・畏怖の力で全員が打ちのめされひれ伏し改心した※3>。金の鵄は、堕落していたイワレヒコたちをも救済したのである<※4>。

01    ※1>金の鵄は、北の鳥見(トミ)<奈良湖北西部/金鵄発祥の地>を発し、奈良湖上空を飛翔して、南の鳥見(トミ)<奈良湖南東部/金鵄飛来の地>のトミの戦いの地に飛来しました(2つのトミの位置は右地図ご参照)。なお、トミはトビが変化したもの<トミ(鳥見・登美・富)・トビ・富雄ご参照>。 

   <※2ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?ご参照

   <※3>このことを記紀は述べていません(隠している)。

   <※4>金の鵄はナガスネヒコたちの守護神ですが、イワレヒコたちをも救済したのです。これを、記紀の作者は、あたかも金の鵄はイワレヒコたちを援けて、賊軍たるナガスネヒコを戦わせなくした、というように改竄したのです。  

そののち、ナガスネ彦・イワレ彦・ニギハヤヒの三者は話し合いをした。それの内容は次のようであった。

 ①ナガスネ彦は、殺戮者は殺害されるべきであり、それを実行するためであれば、自らの、殺戮が 必要ない・できない、という本然の性(非戦・避戦の精神)を失ってもやむを得ない、という考えを改めなかった。

 ②イワレ彦は、これまでの自らの殺戮を心から反省し、先住民の本然の性を我がものとして殺戮の無い平和なクニづくりをしていくとの不退転の決意を述べた<※1> 。

 ③ニギハヤヒは、何度もナガスネ彦を説得したができず、涙を呑んでナガスネ彦を追放することを決意した。<※2>

   <※1>イワレ彦(渡来人を体現)がナガスネ彦(先住民を体現)との出合いの中で、先住民の本然の性を我がものとしたことは、先住民の本然の性(=非戦・避戦の精神)が、 先住民と渡来人の融合によって形成された日本人の集団集合の無意識となったことを神話的に表現したものです。  

   <※2>この部分を日本書紀は、「饒速日命は・・・・・長髄彦は、性質がねじけたところがあり、・・・・・ということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。」という風に改竄している。また、ナガスネ彦の最後は、古文献によって異なる(このページご参照)。 

三者の話し合い後、 ニギハヤヒは、平和なクニづくりを行うという約束の下に※1 、殺戮を反省し改心して殺戮者から統治者に変身を遂げた<※2>イワレヒコに内つ国を国譲り※3>し、イワレヒコは神武天皇として即位でき、ニギハヤヒは即位した天皇に「の魂たま」<倭(わ・やまと/のちの日本)を治める魂(たま・モノ)>を付与する※4モノノベ(魂モノの部 )の祖となった。一方、金の鵄の守護がなければ殺戮することで堕落していたナガスネ彦は指導者の資格を失い内つ国を追われたニギハヤヒは本然の性を持ちながらこれを放棄したナガスネ彦ではなく、先住民の本然の性を我がものとしたイワレ彦に未来を切り開く希望を見出し、彼にそれを託したのである。

 ナガスネ彦は北方に去った。ニギハヤヒとその妻にしてナガスネ彦の妹であるミカシキヤ姫とその子のウマシマジをはじめ、ナガスネ彦を愛する人々に見守られて・・・・・。イワレ彦も高台から、家臣と共に、ナガスネ彦を姿が見えなくなってもいつまでも膝ま付き頭を垂れて見送った。イワレ彦ははっきりと理解していた。 これからの統治者になるものは、殺戮が「必要ない」「出来ない」人間ではなく、それを「決してやらない」 「許さない」人間だということを。ナガスネ彦は、自分がいなくても、そのような者が統治するクニづくりができるようにするため、自らは敢えて追放される状況・立場に身を置いたのだということを・・・・・。     。  

   <※1>神武以後の天皇はこの約束を守ったか⇒(景行天皇父子の)「言向和平」説話このページご参照)が古事記<景行記>に記載されていることを見ると、約束を守る努力はされていたことが分かります。 

   <※2>統治者とは、当初はクニを統(す)べり(争いなくまとめ)治める(ととのえる)者であった(※a)が、クニに国家(権力機構)が確立していく(※b)と、国家を統治する(「権力=強制力」でおさえととのえる)者となっていった。 

      (※a)クニを統(す)る(争いなくまとめる)尊者は、「皇(スラ)尊or命(ミコト)」と呼ばれましたた。もともと日本語では「寒い」を「さい」 とも「さい」 ともいうように、また、馬は「ば」(良馬など)とも「ま」(絵馬など) とも読むように、「は行」の濁点文字「ま行」の文字になることがあり、「すべる」が「すめる」になり、これに「皇」という漢字が当てられたと思われます。

      (※b)農耕・牧畜民である渡来人がクニで本格農業(農耕)を展開していく中で国家が成立していきましたが、「農業(農耕)」と「国家(の成立)」については、それに関する記事(その1ミラーその2.jpgその3.pdfその4ミラー)をご参照ください。なお、国家成立の世界史的図式はこれです⇒「狩猟採集時代から農耕と定住の時代に入ったときのは大きな価値観の転換があった。手に入るもので満足し、食料が手に入らなくなったら移動するというその日暮らしから、計画を立て努力して働く暮らしになった。それまで考えつきもしなかった、蓄財が可能になった。都市が生まれ、職業が分化し、貨幣で物やサービスのやり取りをするようになった。そして、権力と不平等と搾取が生まれた。」(この記事ミラーより)

   <※3-1 国譲りご参照。「改心し2度と「殺戮」 はせず平和なクニづくりを行うという約束をしたものに国譲りされた」という神話は、日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」が創り出したものでした。

   <※3-2 >イワレ彦をして改心させ統治者(クニを争いなくまとめととのえる者)たらしめたのは、これまで彼によって殺戮された死者でした。金の鵄が放った激烈な閃光は死者のエネルゲイア(正す力)だったのです。権力への歯止めの主体は死者であることを見える化しているのは、アジア太平洋戦争の死者(300万人以上の日本人と3000万人以上の諸国民)のエネルゲイアによって制定された日本国憲法第9条ですが、それは、神話のなかでもすでに表現されていたのです。権力への歯止めの主体に死者がなることで、その死は犬死(不本意な無念の死)の状態から救われるのです。

   <※4-1 >これを行なう儀式を大嘗祭いじょうさいといい(これは、毎年おこなわれる単なる五穀豊穣を祈るだけの儀式ではなく、天皇即位後1回のみおこなわれる最重要な儀式)、これによって「倭の魂」を付与されなければ、即位の儀式をしただけでは日本を治める資格をもった天皇にはなれません。

   <※4-2大嘗祭はいわば強固な非戦・避戦の精神をもったもののみに天皇の資格を与える儀式ですが、象徴天皇制となった今日では、日本を治めるのは天皇ではないので、大嘗祭は必要なくなったにもかかわらず、天皇が日本を治めることになっていた戦前のやり方を見直すことなく踏襲して今日もなお、天皇の代替わり時に実施されています(「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」ご参照)。大嘗祭という決定的な儀式に触ることは、天皇陵とされている古墳に触る以上に権力者にとってリスクの大きいものだからです。 

   <※4-3の魂たま」は「和の魂たま」(和魂わこん)と言い換えることができます。「和魂」とは、「敵対するものを融和させる」「争いを治める」魂のことで敵対するものを融和させ、争いを治める英知」=非戦・避戦の精神と言い換えることができます。これは神話では、ニギハヤヒとして登場します。「和魂=ニギハヤヒ」はナガスネヒコと共にありましたが、ナガスネヒコが「殺戮」 の意思をもった瞬間にナガスネヒコを離れ、金の鵄を遣わして、または、自身が金の鵄に化身してナガスネヒコを打ちのめしました。そして改心した(つまり、2度と「殺戮」はしないと決意した)イワレヒコにつき、倭を治める資格を与えました。そして、歴代の天皇に付与されていきました。<以上は、この見解を参考にして記しました>

         「倭=和」は、穏やかで仲良くすることで、「大倭やまと=大和やまと」はみんなが仲良くすることであり、「大和の国=日本」は、「和魂」を付与された(身につけた)天皇が治めるクニです。神話でいう「和魂」を付与された(身につけた)イワレヒコが神武天皇として即位したことは、歴史的には「大和の国=日本」というクニがつくられたことを示しています。しかし、クニに、「武力=暴力=強制力」を属性とする国家が確立していくと、上記したように、当初はクニを統(す)べり(争いなくまとめ)治める(ととのえる)者であった統治者は、国家を統治する(「権力=強制力」でおさえととのえる)者となっていき、統治者としての天皇は「和魂」と「権力」とのはざまに置かれ苦悩することになります。

          その苦悩を最も見える化した天皇が聖武天皇です。彼が、縁起の法<全てのものは支え合っている(ので殺戮などありえない)という教え>を根本の教えとする仏教を信奉し、行基に命じて大仏を建立させ、各地に寺院を建てさせたことは、それを見える化させました。また、彼が遷都を繰り返した背景には、その苦悩があったという見方も可能です(遷都が繰り返されたことによる平城京の荒廃を嘆く声については、万葉集 巻6-1047の歌をご参照

          天皇の苦悩は思いがけないかたちで解消されます。鎌倉幕府3代執権・北条泰時が「(日本史上唯一の)革命」、つまり「朝廷=天皇権力」の打倒を断行し、現在に至る象徴天皇制(武士や国民など何らからの後ろ盾やお墨付きによって日本の象徴的な地位が維持される制)を創出することで天皇は「権力」から切り離され、「和魂」と「権力」とのはざまから解放されました。(北条泰時の「革命」については、これをご参照)

          「権力」と切り離され「象徴」となった天皇は、視覚的にも聴覚的にも人々の前に姿を現すことは許されず、権力者は天皇を隠しました。そのため、権力者を除いて人々は天皇の存在を忘れていきました。なのに、権力者は天皇を廃止しようとはせず、廃止せんとした権力者もついに廃止できませんでした。天皇を廃止することは、殺戮が行われる時代にあって、縄文時代に起源を持ち日本人の心の核心となってきた「和魂」(=日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」)を抹殺することであり、それはあまりにも恐れ(=祟り)多いことであったからです。

          その後、明治維新で天皇は再び「和魂」と「権力」とのはざまにおかれました。特に、昭和天皇は、帝国陸軍によって「和魂」(=非戦の意思)を踏みにじられ「権力」の行使(宣戦)を強制されました(ご参照ミラー)。

          天皇は、昭和の敗戦で日本国憲法が成立すると約80年ぶりに「権力」から切り離されました。日本国憲法成立まで「権力」を付与されることで苦悩した昭和天皇を間近で見ていた平成天皇は、「和魂」の発揮に注力することで「権力」からの独立に努め、象徴天皇制を守り固めました。そして、自分の死後も象徴天皇制が守られていくことを確信するために、違憲(第四条「天皇は国政に関する権能を有しない」違反 )を覚悟で、生前退位を断行しました。それに対し違憲との疑義があると唱える学者も激しく抗議はしませんでした。それは「権力」の行使ではなく、「和魂」の発揮だったからです。こうして、生前退位は事実上の大嘗祭(次期天皇に「和魂」を付与する儀式)となり、大嘗祭は不要となりました。これは、平成天皇、皇位継承者第一・二位の一致した考えで、それが、皇位継承者第二位(秋篠宮)による政府決定と異なる異例の発言(大嘗祭は、国費ではなく、天皇一家の私的活動費である「内廷費」でまかなう身の丈にあった儀式とすることが「本来の姿」 )の背景と思われます。おそらく、令和天皇もしかるべき時期に生前退位し、そのときは大嘗祭はおこなわれないか、「内定費」でまかなうささやかなものとなるでしょう。

          なお、平成天皇の「和魂」の発揮が見える化したのがこの場面でした(左場面の解説記事.pdf)。

   <※4-4> 歴史的には、ニギハヤヒは「早い時期にやってきた渡来人」のことで、先住民(縄文人/神話上はナガスネヒコ)と相対した際に、縄文人の本然の性ご参照)に畏怖・畏敬を受け、縄文人に教わりながら「敵対するものを融和させ、争いを治める英知」 を身につけ、先住民と共存・融合していきました。つまり、神話でいう「和魂=ニギハヤヒ 」は歴史的には「和魂(非戦・避戦の英知)=渡来人が先住民より学び会得した英知」のことです。そして、共存・融合を進めていた「早い時期にやってきた渡来人」と先住民は、 「殺戮 の体験がある※1、遅い時期にやってきた渡来人※2」がやってきたとき、「非戦・避戦の英知」を発揮して衝撃を与え、衝突・争いは最小限におさめようと努めながら彼らを受け入れ、縄文(狩猟採集漁労)と弥生(水田耕作)を融合させた里山をつくっていきました(これが、神話では国譲りと表現されています)※3。次第に形成された国家の力が強まるにつれ、その制御はむずかしくなっていきました(中国の歴史書がいう倭国大乱など)。しかし、一方、縄文人の本然の性は、縄文人と渡来人とが融合して形成されていった日本人(大和民族=大いなる和の民族)の「和の精神」(集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」)となりました。この精神は、日本において国家の権力を制御できない時代(今日まで2000年程度)には、押さえられてきましたが、今日では、逆に、この精神が国家の権力の暴走を抑えています(今のところは)。 

     ※1 遅い時期にやってきた渡来人の殺戮の体験を、神話では、イワレヒコ率いる侵攻軍の殺戮として語っています。 

     ※2 先住民と「早い時期にやってきた渡来人」との出会いは、「非所有」vs「所有」という形をとりましたが、先住民+「早い時期にやってきた渡来人」と「遅い時期にやってきた渡来人」との出会いは、「非所有」+「所有」vs「所有」という形をとりました。

     ※3 日本では、国譲り(先住民は移住民の土地所有を認め、共存・融合しながら、人と生き物が共に暮らす里山を形成していった)が行われたのに対し、北米・南米・オセアニアでは、移住民によって先住民(ネイティブ=アメリカン・アボリジニなど)や生き物(バッファロー・カンガルーなど)は絶滅させられ、または、大量殺戮された。この違いは、時代の違いから生じただけなのでしょうか

   <※4-5>イワレヒコを殺戮せんとして「縄文人の本然の性」(ご参照)を捨て去ろうとしたナガスネヒコが打ちのめされ指導者の資格を失い内つ国を去らざるを得なかったことは、縄文人が渡来人と融合して日本人を形成しても、「縄文人の本然の性」は失われることはないことを伝えています。また、殺戮してきたイワレヒコが改心して「縄文人の本然の性」を受け入れたことで天皇に即位できたことは、渡来人が縄文人と融合して日本人を形成するのは「縄文人の本然の性」 を受けついでいくことを伝えています。つまり、ナガスネヒコとイワレヒコの神話(物語)は、日本人が形成されたとき、「縄文人の本然の性」が日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」 となったことを伝えています。  

全体の解説> 

)生駒の神話は、縄文人の本然の性ご参照)が、日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」 となった過程を示す物語りであるといえます。その過程を図式化すれば次のようになるでしょう。

  ①ナガスネヒコの本然の性(縄文人の「非戦・避戦の精神」)は、未否定(否定されるという試練を受けたことのない状態=即自)だった。

  ②ナガスネヒコの本然の性は、イワレヒコ(遅くに渡来した弥生人)の「武力=実力=暴力=強制力」によって否定されそうになるという試練を受けた(対自)

  ③ニギハヤヒ(早くに渡来していた弥生人で縄文人との住み分け共存を実現していた)が、本然の性の否定を否定した。それによって、ナガスネヒコの本然の性は、いかなる試練があろうとも(強制力を属性とする国家の権力によって抑え込まれることはあっても)滅ぶことのない、(縄文人と弥生人の融合によって形成された)日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神 」となった(否定を否定することで否定されざる次元へと引き上げられた=止揚)。

)(1)の図式は、次の図式とパラレルになっています。

  ①縄文人は、一次自然(原生林等の手つかずの自然)にて生きていた。

  ②渡来人=弥生人は、水田耕作をするため一次自然(原生林等)を否定(破壊)した。

  ③間もなく、一次自然(原生林等)の否定(破壊)の否定(自然の再生)により、縄文人と弥生人が融合して形成された日本人が生きる「縄文と弥生の要素が融合した、人と生き物が共に暮らす命響き合う美しい自然の世界」=「里山二次自然)」が広がっていった。 

)神武東征の最後の記述が、日本書紀と古事記とで大きく異なっています。前者では、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺害して戦いを終わらせてイワレヒコに帰順(国譲り)した、とあり、後者では、イワレヒコは戦い前に「撃ちてしやまむ」と歌って気勢をあげたが、そのあと、戦いの描写はなく、いきなり、ニギハヤヒの帰順の話に移り、ナガスネヒコがどうなったのかの記述がありません。ただ、いずれも「イワレヒコはナガスネヒコに勝利した」との記述がないことは共通しています。

 記紀の記述が全く異なっており、いずれも「イワレヒコはナガスネヒコに勝利した」と記述ができなかった、との記紀の謎に対する答は、国家統治の必要性から作成された記紀ともに次のことを隠しているから、です。

 イワレヒコ(遅くに渡来した人々/国家形成意欲強し)は、ニギハヤヒ(早くに渡来し、先住の人々と融合・共存していた人々/国家形成意欲弱し)の介添え・忠告・助言を受けて、 ナガスネヒコ(先住の人々=縄文人/国家形成の必要がないので、その意欲なし)の気高さの畏敬・畏怖の力に打たれ、殺戮を反省して改心し、みんなが融合・共存していくクニをつくっていくことを約束することで、受け入れられた(クニづくりを許された)。そして、その約束を守ることが、大和(大なる和)の国の原点となり、それを確認する儀式として大嘗祭(ご参照)が、天皇が即位する際に行われることが慣習となった。

 記紀の作者は、クニの原点に、国家統治者の祖先が戦いで勝てないながら、もしくは、敗北しながら、「反省して改心した」ことで受け入れられた(クニづくりを許された/国譲りされた) ということは書けなかったのです。

 こうして、イワレヒコ(遅くに渡来した人々)が受け入れられたのちも、彼らが統治する国家が形成されるまでには相当の時間を要しました。このことを反映した記述が「欠史八代」です。

  

「生駒の神話」のストーリー(その骨子)<最新版/2020.4>

【解説付版】

(図版はクリックで拡大できます。)

(1)海の向こうからやってきて日向(ひむか/現宮崎県)の国を治めていたイワレ彦は、九州を征したのち、内つ国(うちつくに/国の中心/生駒山の東側/現在の生駒~奈良盆地周辺)を征服せんと瀬戸内海を東進して難波(なにわ/現大阪平野/生駒の神話が生まれた縄文時代から弥生時代への移行期はまだ大部分は海)にいたり、そこより生駒山を越えようとした。

77_20200121170801(2)このとき、内つ国ではナガスネ彦が、イワレ彦より先に海の向こうから内つ国にやってきたニギハヤヒと共に、戦う(人間を殺す)ことのない平和なクニづくりをしており、狩猟採集漁労に生きるナガスネ彦たちは、武器でない狩猟用の弓矢しか持たなかったが、侵攻軍を撃退するため、雨のように矢を放った。侵攻軍を射抜くためではなく、前進してくる侵攻軍の眼前に天から降ってくる矢で鉄壁の壁をつくることで、侵攻を許さない意思を突きつけ、侵攻を阻むために。ナガスネ彦たちは、投石や落岩等も駆使して、侵攻軍を殺すことなく撃退した(クサカの戦い)。

 ただ、イワレ彦の兄である五瀬命(いつせのみこと)は、流れ矢に当たってひじを負傷したが、他者の幸せを祈ることで回復力を高めることをせず、逆に、他者に報復するとの執着心を捨てなかったことで体力を低下させ、重傷ではない傷が原因となってのちに死亡した。

(3)内つ国征服に執着する侵攻軍は、太陽に向かって進んだので撃退されたと思い、迂回して南東方向から太陽を背に内つ国を攻撃しようと考えた。

(4)侵攻軍は迂回ルートを進む途上、その先々で、食糧・寝所・休養所等を得るために、ナガスネ彦たちと同様にこれまで戦う(人間を殺す)ことのない世界に生きてきて戦うということなど知らなかった人々を一方的な攻撃や謀略によって殺戮(食べるため以外の目的で殺すこと)した。

(5)侵攻軍が殺戮しているという知らせを受けて怒りをたぎらせたナガスネ彦たちは、再び侵攻軍と会い見まえた時(トミの戦い)、進攻軍をせん滅(殺戮)せんとして、狩猟(食べるために動物の命をいただくこと)のために神から授けられた弓矢を武器に変え、彼らは軍隊に変質した。

78_20200121171601(6)ナガスネ彦軍が、侵攻軍をせん滅するため矢を一斉に放とうとしたまさにそのとき、ナガスネ彦たちのトーテム(守護神)である金の鵄(金鵄)が突然に飛来し、激烈な閃光を放ってナガスネ彦たちから弓矢を取り上げ全員を打ちのめして殺戮を阻止し、殺戮することで堕落することからナガスネ彦たちを守った。侵攻軍もまた、命の尊厳をないがしろにする者を許さない金の鵄の激烈な畏敬・畏怖の力で全員が打ちのめされひれ伏し改心した。金の鵄は、堕落していたイワレ彦たちをも救済したのである。

(7)そののち、ナガスネ彦・イワレ彦・ニギハヤヒの三者は話し合いをした。それの内容は次のようであった。

 ①ナガスネ彦は、殺戮者は殺害されるべきであり、それを実行するためであれば、自らの、殺戮を しない・必要ない・できない、という本然の性(非戦・避戦の精神)を失ってもやむを得ない、という考えを改めなかった。

 ②イワレ彦は、これまでの自らの殺戮を心から反省し、先住民の本然の性を我がものとして殺戮の無い平和なクニづくりをしていくとの不退転の決意を述べた。

 ③ニギハヤヒは、何度もナガスネ彦を説得したができず、涙を呑んでナガスネ彦を追放することを決意した。

(8)三者の話し合い後、ニギハヤヒは、平和なクニづくりを行うという約束の下に、殺戮を反省して改心したイワレ彦に内つ国を国譲りし、イワレ彦は神武天皇として即位でき、ニギハヤヒは即位した天皇に倭(わ・やまと/のちの日本)を治める魂(たま・モノ)を付与するモノノベ<魂モノの部>の祖となった。一方、金の鵄の守護がなければ殺戮することで堕落していたナガスネ彦は指導者の資格を失い内つ国を追われた。ニギハヤヒは本然の性を持ちながらこれを放棄したナガスネ彦ではなく、先住民の本然の性を我がものとしたイワレ彦に未来を切り開く希望を見出し、彼にそれを託したのである。

 ナガスネ彦は北方に去った。ニギハヤヒとその妻にしてナガスネ彦の妹であるミカシキヤ姫とその子のウマシマジをはじめ、ナガスネ彦を愛する人々に見守られて・・・・・。イワレ彦も高台から、家臣と共に、ナガスネ彦を姿が見えなくなってもいつまでも膝ま付き頭を垂れて見送った。イワレ彦ははっきりと理解していた。 これからの統治者になるものは、殺戮が「必要ない」「出来ない」人間ではなく、それを「決してやらない」 「許さない」人間だということを。ナガスネ彦は、自分がいなくても、そのような者が統治するクニづくりができるようにするため、自らは敢えて追放される状況・立場に身を置いたのだということを・・・・・。    

生駒三山系の城砦 

<生駒三山系とは、生駒四河川源流・分水嶺地帯(生駒の地理ご参照)に収れんしている

生駒山地・矢田丘陵・西之京丘陵のことである。>

各城砦の位置については、生駒の地理を把握してから、右の「城砦位置地図」をご参照ください。 

74_20200210010301生駒山地の城砦<北から順に>(mは標高/比高)

 西麓の平城たる交野(私部)城(現交野市私部6丁目)リンク>、 山中山城の天王畑城(現京田辺市天王高ヶ峯)リンク>・高山城(現生駒市高山町)(217/40)Wikipedia打田城(現京田辺市打田宮前)リンク>、西麓の丘城たる岡山城(現四條畷市岡山2丁目)(40/30)リンク>、山中の小松(山)城(現ゴルフクラブ四條畷内)リンクリンク>、東麓の田原谷入口東側の八丁岩にあった田原砦(現生駒市北田原町)山中の清滝城(場所不特定)リンクリンク、西麓の山城たる茶臼山砦(現四條畷市南野6丁目)(83/30)リンク>、東麓の田原谷の山城たる北田原城(現生駒市北田原町)(196/45)リンク>、 生駒山地北西枝にある飯盛山上の山城たる飯盛山城(現四條畷市市野)(314/260)西麓の山城たる野崎城(現大東市野崎2丁目)(114/65)Wikipediaリンク> 、 東麓の田原谷の丘城たる田原城(現四條畷市上田原八の坪)(180/30)Wikipediaリンク> 、山中の竜間砦(不詳)、東麓の生駒谷の、丘城たる田原(俵)口城(現生駒市俵口町)<長福寺の裏山に所在/リンク>・丘城たる菜畑城(現生駒市西菜畑町)(155/15)リンク>・東菜畑城(生駒市壱分町)(不詳/矢田丘陵西麓の生駒谷にあったかもしれない) ・萩原城(不詳)、東麓の平群谷の、丘城たる下垣内城(現平群町字古城 平群中央公園内)リンク(78/20)・丘城たる大和西宮城(現平群町西宮 平群中央公園内)(92/30)リンク> 、東側中腹の久安寺の山城たる赤坂城(現平群町久安寺)リンク>、 山中の、山城たる高安城(現平群町久安寺) (487/-)・山城たる信貴山城(現平群町信貴畑)(433/340)、高安山と信貴山の中間部の山城たるクズレ川南城(現平群町久安寺) リンク>、朝護孫子寺境内の丘城たる南畑城現平群町信貴畑) リンク>、西麓の恩智神社近くの山城たる恩智城(現八尾市恩智中町5丁目)(44/20)リンク>、南端部分の山城たる立野城(現三郷町城山台2丁目)リンク>、があった。~野崎・長福寺・菜畑・萩原・下垣内・西宮・久安寺・高安山・信貴山・朝護孫子寺・恩智神社・立野の位置については、このページ「生駒山越の(峠)道」と「平群の山(矢田丘陵)越の(峠)道」 の地図ご参照~

(1)と(2)の参考のリンク先

城郭放浪記(地図充実) /城跡探訪 (地図あり)古城盛衰記(地図あり) 奈良の城郭(地図ありもあり) 城跡めぐり備忘録 (地図あり) / ニッポン城めぐり (地図あり) /  お城の旅日記  

矢田丘陵の城砦<北から順に>(mは標高/比高)

 東麓の鳥見谷の丘城たる春日城(現奈良市二名4丁目)リンク>、東菜畑城(生駒市壱分町)(不詳/生駒山地東麓の生駒谷にあったかもしれない)、東麓の鳥見谷の丘城たる角山城(現奈良市中町)リンク>、萩野城(現生駒市萩の台)(不詳) 、東麓の鳥見谷の 丘城たる大和田城(80/10)(現奈良市大和田町字城山)リンク)、西麓の平群谷の、丘城たる上庄北城(現平群町上庄1丁目)(110/20)Wikipediaリンク>・丘城たる上庄南城(現平群町上庄3丁目)リンク> 、矢田城(現大和郡山市矢田町)(不詳) 、西麓の平群谷の山城たる三里みさと(194/110)(現平群町三里)リンクリンク>、東麓の鳥見谷の平城たる小泉城(現大和郡山市小泉町)リンク> 、西麓の平群谷の山城たる椿井城(現平群町椿井)(318/230)リンク>(竜田川をはさみ向こう側の生駒山地東麓の平群谷には丘城たる大和西宮城あり)、があった。 ~上庄・三里・大和小泉・椿井・西宮の位置については、このページ「生駒山越の(峠)道」と「平群の山(矢田丘陵)越の(峠)道」 の地図 ご参照~

 

西ノ京丘陵の南端には大和郡山城があった。

参考・・・兵庫県には1000城、大阪府には500城、京都府には1000城以上、滋賀県には1000城、奈良県には400城、和歌山県には600城、あったという。

長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵   

(1)トミのナガスネヒコ<単に長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)または登美彦(トミヒコ/トミビコ)ともいう>について / 矢田丘陵のこと

 
(2)<生駒市誌より>矢田山脈(引用者:矢田丘陵ともいう)の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦・・・・・は、その名の示す通り、長いすねの様な形―長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰に天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところ)と推当し(引用者:白谷バス停近くに 「鳥見白庭山」の碑が建てられている)之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟(引用者:「金鵄発祥之處」の碑が建てられている)と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。/(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。

   引用者:古跡(哮峰・「鳥見白庭山」の碑・「金鵄発祥之處」の碑 )の位置については、古跡地図をご参照。

(3)「(矢田丘陵の)神武峯(峰)<引用者注>は、神武天皇が長髄彦との戦いで進入した道筋と伝えられています」(生駒の古道)とのことも、矢田丘陵と長髄彦との関係の深さを今に伝えている。 

   <引用者注>神武峰については、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照

生駒の地理、古道、古蹟、地名の位置がわかる地図、地形がわかる写真   

(いずれの図もクリックで拡大できます)

生駒の地理 

 42 生駒山が列島中心部にあることを示す地図(生駒検定<全国版><問5>不思議な旅する蝶解説より)

生駒の古道

生駒の神話ゆかりの古蹟

生駒三山系の城砦

地名の位置がわかる地図

 〇桧窪山・白谷・住吉神社・・・生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照    長弓寺・真弓塚・素盞嗚神社・・・長弓寺・真弓塚ご参照   天照山てんしょうやま旗立山はたたてやま・・・「生駒山の飛火が岡」の「高見の烽」 または生駒検定<問2>ご参照   (富雄川源流の)龍王山りゅうおうざん・・・生駒検定<問20>の解答・解説ご参照   トミ(鳥見)地域(現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域)・・・生駒検定<問20>の解答・解説ご参照  

 〇三国境・・・大和・河内・山城の三国境の謎(疑問)ご参照

(6)地形がわかる写真・図

 司馬遼太郎さんが日本のどこよりも好きだった摂河泉の大眺望・・・生駒山のことご参照

 〇生駒山上から見た大阪平野の夜景・・・生駒山のことご参照

 〇トンボの目線の高さから見た大阪の街並み ・・生駒山のことご参照

 〇作家の森見登美彦さんの故郷にある真弓塚のすぐ下から見た生駒山の遠景・・・劇場アニメ「ペンギン・ハイウェイ」の場面・美術設定等 VS その実物写真ご参照

 〇貝原益軒が「桃源郷」と讃えた(生駒検定<問18>生駒に「桃源郷」があった!ご参照)景観の面影が今も残っており優れた景観形成のモデル<となっている北田原地区の写真・・・生駒検定<問18>の解答・解説ご参照

 〇般若窟ミラー

参考資料

 〇日本列島をユーラシア大陸からみると : 環日本海諸国図Ⅰ ・ 環日本海諸国図Ⅱ 奈良盆地歴史地理データベース

 〇生駒の散歩道 北生駒 神話コース(リンク)/ 富雄街道の歴史.pdf

 〇遺蹟案内図(『生駒市史』より).pdf神武東征説明図(『生駒市史』より).pdf記紀神話の舞台となった富雄川流域の遺蹟とその地図(リンク)時代別生駒の遺跡

 〇東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究より⇒河内湖周辺の渡来人関連遺跡等.pdf古代の難波と住吉.pdf

 

 

 

 

饒速日(ニギハヤヒ)

wikipedia

生駒市誌は、生駒の神話の主人公のナガスネヒコ矢田丘陵(矢田山脈・矢田山系)饒速日のことを次のように記しています(一部修正して引用)。  

 矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦は、その名の示す通り、長いすねの様な形長背嶺(ながそね)をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。 / 長髄は長背嶺の転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷(現在は生駒市の白庭台住宅地になっている)<※1>を以て鳥見白庭山とみはくていざん※2と推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。/生駒市上町(引用者 : この上町の一部が白庭台住宅地となった)一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。

 <※1> 引用者:白谷の位置は、この地図ご参照。  白谷バス停(付近一帯が白谷)・「鳥見白庭山 」の碑・哮峰・「金鵄発祥の處」の碑(「トビ山」に立つ)の位置は、このページの「古蹟地図」ご参照。

 <※2>引用者 : 鳥見白庭庭は、哮峰いかるがだけ・いかるがのみね(現岩船神社の少し北にあり)に天下った饒速日命長髄彦に擁立されて遷座した(移り住んだ)ところ。神話で「天あま下った」は歴史的には「(海あまを南に下って)渡来した」こと(ご参照)。  

この記事によれば、

  ①白庭山は鳥見谷の上かみある。

  ②南田原や高山や上村かみむらを鳥見谷と称したとある。また、この記事によれば、住吉神社も白庭山の候補地とある。従って、鳥見白庭山は、住吉神社~白谷の地域、つまり生駒四河川の水源・分水嶺地帯生駒の地理ご参照)にあったとできるのではないか。 

〇リンク・・・饒速日(ニギハヤヒ)とは?(まとめ)   折口信夫のニギハヤヒ 

可美真手命(ウマシマデのミコト)が饒速日命を祀ったとも、その両者が祀られているとも、饒速日命が降臨したとも言い伝えられている石切神社の元宮がある宮山の位置とそこへの行き方については、この概念図をご参照 

 

平群の山越(矢田丘陵越)の道   

矢田丘陵は、記紀・万葉集では「平群の山」、また、以前は「後生駒山脈」とも

呼ばれていました。

平群の山越やまごえは、生駒山地と矢田丘陵の間を流れる竜田川流域(その上流は生駒谷、下流は平群谷という/この流域を通るのが清滝街道)と、矢田丘陵と西之京丘陵の間を流れる富雄川流域(鳥見谷)を結ぶ峠道です(生駒の地理ご参照)。

 

)平群の山越(矢田丘陵越)の道の定説はありませんが、北から記すと次のようになるでしょう。

   <生駒山地と矢田丘陵の峠道はだいたいこのあたりを通っていただろうということを示す地図は生駒の古道を示す地図 ご参照 

 〇 白谷しらたに越・・・これだけは、竜田川流域と富雄川流域を結ぶ道ではなく、天野川源流域の田原谷の南部(西部が現四条畷上田原、東部が現生駒市南田原)と富雄川流域を結ぶ道。白谷(現生駒市上町・白庭台)を越える。なお、白谷は鳥見白庭山とみはくていざんに比定されており、白庭台はそれに由来するといわれている。 天野川源流域・富雄川・白谷の記載ある地図

 〇 王龍寺越・・・生駒谷の小明~王龍寺西村(長弓の近く)

 〇 椚くぬぎ越・・・生駒谷の菜畑の傍示の辻(現菜畑駅東側) ~椚峠(標高 171m/データベース)~三碓の上鳥見かみつとみ橋(本来は中鳥見橋にすべき。富雄町史では「中鳥見庄は三碓」と明記されている)

 岩鼻いわのはな越・・・生駒谷の一分~神武峰(標高 259m)<生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照>の北側~黒谷・中村(現奈良市中町) この道は現在、矢田丘陵遊歩道(矢田丘陵の当該記事ご参照)の途中下山ルート(西側は生駒市福祉センター方面、東側は奈良市帝塚山住宅地方面)となっています。前者を示す道標の写真.jpg後者を示す道標の写真.jpg

 〇 榁木むろのき・・・生駒谷の小瀬~榁木峠(標高 268m)~砂茶屋の下鳥見しもつとみ

 〇 金剛山寺(矢田寺)越(矢田越)・・・複数あった。暗越をして生駒谷に入り、乙田から矢田峠を越えて矢田寺へ下る。榁木峠を越え、現在のこどもの森辺りを大回りして矢田寺へ。平群谷の元山上口から矢田峠を越えて矢田寺へ下る。 矢田寺からは大和郡山へ下る道があった。

 〇 松尾越・・・十三越・おうと越・立石越・信貴越などの生駒越をして平群谷に入り、椿井写真・平等寺から白石畑を経て松尾寺へ。松尾寺からは、矢田寺や大和小泉に下る道vがあった・ 

平群の山越(矢田丘陵越)の道は、生駒山越(いこまやまごえ)の(峠)道とつながっていました。

    なお、山越の道は川沿の街道に合流していましたが、竜田川の全流域(源流域から大和川に合流するまで/生駒谷・平群谷全域)に沿った街道を清滝街道または磐船街道といい、富雄川に沿った(鳥見谷の) 街道には、上津鳥見路かみつとみじ古堤ふるづつみ街道などがありました(生駒の古道を示す地図のページに記載の「生駒山 直越」と「矢田丘陵越」 の地図ご参照)。

 

(*)参考:生駒山のこと

 

谷川健一さんの説・・・「草香・日下」「日の下」「直越」「草香山(饒速日山)」

谷川健一「白鳥伝説」より引用

凡例:(上P.17)=「小学館ライブラリー版」上巻の17ページ  

文中の太字部分と小文字のふりがなは引用者による。( )内のふりがなは原文の通り。 

太陽の昇る難波、その東の日下(上P.49)

 勝井(純)は「日下の直越」を実地に踏査している(下に引用者注)。それによると、日下の直越の路は現在の東大敗市善根寺の春日神社の前を東北にむかって、尊上山の中腹を斜めにのぽり、その頂上から東南に走る低い尾根伝いの道をたどる。

 そこから八幡山の頂上である旧神社のあたりを通って、恵比須山から厄山にいたる。厄山から国見山方面に通じている道に饒速日山(引用者:ヤマレコさんによればここ)がある。それは生駒山の北にそばだっていて、その頂上には、底無しの井戸と称するものが八つある。その饒速日山から生駒市の俵口にいたる道路を、現地では直越ただごえ/じきごえと呼んでいる。

 饒速日山は一名草香山ともいわれている。先述の万葉歌の中で、草香山が重要な意味をもつのは、そこが太陽信仰の対象となっていたためである。饒速日山は神体山として礼拝されていた。もとは社殿もなかった。おそらくそれは天照御魂(あまてるみたま)神社の原型であった。つまり草香山にのばる太陽が礼拝されていたのではないか。

 勝井によれば(下に引用者注)、のちにニギハヤヒを祀る上ノ社が饒速日山の頂上にもうけられ、それに対して、奈良県生駒郡富雄村(現在生駒市上町)の長弓寺にある登弥神社と、東大阪市の石切剣箭(つるぎや)神社を下ノ社と呼んだのだという。そのあと、物部氏がほろぶと、山上のニギハヤヒの神霊はそれぞれ下ノ社に移されたのだという。

 饒速日山に源を発し、西北に流れて、善根寺の車谷を下って、春日神社の付近を通り、旧の日下池にそそぐ川を今日でも「日の川」と称している。このことは、「日の御前」という呼称とともに、そこが太陽信仰とふかい関連をもつことを如実に示している。

       (引用者注)勝井純『神武天皇御東遷聖蹟考』をご参照

谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用

 『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。・・・・・「日の下(ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるようになった。「日の下(ヒノモト)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。

谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用

 いまの東大阪市の「日下」といいますと、生駒山脈の西側にあります。

 『万葉集』の巻六には、草香山を通るときに、神社忌寸老麿(かみこそのいみきおゆまろ)という人が読んだつぎのような歌があります。

    「直越(ただごえ)のこの道にてし押し照るや難波の海と名づけけらしも」

 「直越」とは、「草香の直越」と言われていまして、大和から河内へ抜ける道です。大和から難波へ越える直越の道を草香山までのぼってみると、難波潟に日の光が照り付けているのが見える。「この道にてし」の「し」は強意で、この道でこそ、押し照る難波の海と名づけた理由がよくわかる、という歌であります。

  これだけではたんなる叙景の歌にすぎないように思われますが、それ以上の意味が含まれています。「直越」というのは『古事記』で雄略帝が「日下の直越の道より河内に幸行でましき」と歌ったその「日下の直越」のことです。大和から河内に出るのはこの道が一番近道であったので、「直越の道」と呼ばれ、その道の頂上が草香山と称せられていたのです。

  現在も、生駒山地のその山を「草香山」と申します。それは、いまの東大阪市の「日下町」の東側にありまして、「饒速日山」とも申します。その「草香」の「直越」と申すところの道にやってきてはじめて、「押し照るや難波の海」と名づけられた意味がわかったというわけです。要するに、「草香山」つまり饒速日山を過ぎるときに、その難波潟をみながら詠んだ歌なのであります。

生駒山のこと

生駒山地(連峰/山脈)についてはこちら 

(地図・写真はクリックで拡大できます

生駒山の生駒全体の地形におけるその位置とそれをとりまく地理環境・・・生駒の地理ご参照

生駒山は、生駒山地(連峰/山脈)の全部または部分をいう場合、その主峰wikipedia) とその近くの峰々をいう場合、標高642mの主峰のみをいう場合、の3通りがありますが、このサイトでは、主に生駒市域の生駒山地のことについて記載します。> 

以下、<問〇〇>とあるのは、生駒検定<全国版>の問の番号です。

古来、生駒山は、膽駒山、射駒山 、伊駒山 、伊古麻山 、伊故麻山 、生馬山 、往馬山などさまざまな字があてられてきたが、語源は、縄文語(現アイヌ語)で「鹿がそこにいる」山・・・<問17>「生駒」の語源・由来ご参考

◎日本神話でイザナギ・イザナギの男女2神がつくった豊秋津洲とよあきつしまは生駒山のこと・・・<問15>神話の里(その2)~「国生み神話」の舞台~ ご参照 

◎生駒山は、生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)の舞台・・・<問1>神話の里(その1)~生駒神話(生駒を舞台とする日本神話)~  

   神日本磐余彦天皇カムヤマトイハレヒコノスメラミコト(神武天皇)「塩土の翁しおつちのおじに聞くと『東の方(引用者注 : 生駒山の向こう側)によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟いわふねに乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日にぎはやひというものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる。」(日本書紀<現代語訳> より)

05

生駒山のてっぺんから見た大阪平野の夜景(→右写真<クリックで拡大/以下同じ> )<この夜景が広がるところ、かつては海原であった>

司馬遼太郎「城塞」生駒山記述部分抜粋.pdfより

29   司馬遼太郎さんが日本のどこよりも好きだった摂河泉の大眺望(→右写真)<この平野が広がるところかつては海原であり、この写真を撮ったあたりで、生駒山に向かって進攻してくるイワレヒコ軍をナガスネヒコは睥睨へいげいしていたのではないか。>  この写真は、この阪奈道路の地図に「摂河泉の眺望」と印字したところ(その写真)で撮影(ここは車を止める場所がなく、撮影チャンスは後続車両がない一瞬ですが、徒歩道があるので、それを利用すればゆっくりと撮影できます)

76maid-in-osaka_20200108182502 ◎トンボの目線の高さから見た大阪の街並み<出典:この記事.jpg(→右図)

◎生駒山の謎・・・<問2>謎多き山「生駒山」<解説に、古代日本における生駒山の不思議と謎あり>ご参照

◎生駒山地のほぼ中央を東西に横切るのが暗越・・・<問13>歴史を見つめてきた暗峠」ご参照

生駒山地を越えて河内(現大阪府)と生駒谷・平群谷を結んでいたのが生駒山越の峠道 、そのいくつかと結ばれていたのが、矢田丘陵を越えて生駒谷・平群谷と鳥見谷を結んでいた平群の山越(矢田丘陵越)の道

◎作品中の生駒山

 ・古来、生駒山は人々から愛され、和歌や俳句に詠まれてきた・・・<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。 ご参照   うたまくら ゆかし生駒山暗がりの道の句とふみ <共に、生駒市誌より>

 ・矢田丘陵(平群の山)とセットで詠まれることもあった・・・生駒山と矢田丘陵(記紀・万葉では平群の山)は、古事記<雄略記>に登場 ご参照

 ・生駒山を舞台とする小説・・・<1919(T8).1.1・1.15>「赤い鳥」(1・2月号)にて、生駒山も舞台とする、芥川龍之介作「犬と笛」が発表される・・<問23>短編小説「犬と笛」ご参照

 ・司馬遼太郎「城塞」生駒山記述部分抜粋.pdf

 ・暗峠にかかる小説や俳句については、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」ご参照

ナガスネヒコ、東征軍が河内湾に侵入したことをいち早く知ることができた。古代、生駒山には高見の烽(とぶひ)が設置されていた。生駒山には、南北朝時代に見張り場があった。 生駒山には、江戸時代から近代に至るまで「旗振山はたふりやま(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」があった。今日でも、生駒山上にはテレビ塔が林立している。⇒このように、古代より、生駒山は、遠近の情報を収集・伝達するステーションでもありました。そうであった理由は、上掲の2つの写真を見ればわかります。 

生駒出身の作家で、生駒北部のまちを舞台にした小説「ペンギン・ハイウェイ」(<問22>小説「ペンギン・ハイウェイ」 ご参照)の作者の森見登美彦さんは生駒山をこのように語っています⇒その1その2「太陽と乙女」<抜粋>より)

 森見さんは、浪人時代、大阪の予備校(難波の代々木ゼミナール)からの帰りに生駒山を歩き回ったそうです(ご参照.pdf照)。   森見さんのおすすめスポットは、古代の雰囲気が漂う生駒山と大和文華館だそうです(ご参照.pdf)<司馬遼太郎さんの「城塞」.pdfの冒頭部分を読むと、生駒山が古代の雰囲気を漂わせている理由がわかります>。

40 右の写真は、森見さんが育った場所にある真弓塚(この地図ご参照)のすぐ下から見た生駒山です(劇場アニメ「ペンギン・ハイウェイ」の場面・美術設定等 VS その実物写真より引用し、下の文を追記)。森見さんはここから見た生駒山を見るのが好きで、写真引用元にもあるように、森見さんの小説ペンギン・ハイウェイを原作とするアニメ映画「ペンギン・ハイウェイ」の舞台背景となっています。  

◎生駒山東麓に伝わる伝承・・・<問21>生駒伝承(解説に、生駒伝承「神功皇后と鶏」と「生駒の産土神の鶏追とりお)掲載 )ご参照

◎生駒山東稜ゆかりの歴史群像  

  ・蘇我入鹿は645年の乙巳の変で倒されたが、その前々々年の642年に入鹿は山背大兄王やましろのおおえのおうを攻撃し、王は生駒山中に逃げた・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(13)ご参照。なお、山背大兄王が隠れたとされる生駒山は実は矢田丘陵のこと、との説があります(ご参照ミラー)。  

  ・行基・・・<問3>生駒を愛し今も生駒に眠る偉人ご参照

  ・忍性・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像(8)ご参照 

◎生駒山東稜の宝山寺

  ・伝承によれば、655年、役行者が、山背大兄王が逃げ込んだあたりの生駒山中を修験道場とし、ここに都史陀山大聖無動寺としださんだいしょうむどうじを建て、時が過ぎ、1678に湛海律師がこのお寺を再興して、歓喜天を祀り、寺名を宝山寺と改名した。 

  ・1918(T7)年>泉鏡花作「紫障子」発表。この作品の中で、宝山寺の浴油供よくゆくが登場・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(7)ご参照

  ・<1951(S26).9~1952(S27).11> 宇野浩二作「芥川龍之介」が「文学界」に連載された。1953(S28).5 刊行。この作品によると、芥川龍之介が、直木三十五、宇野浩二と共に宝山寺方面に遊行した・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(2)ご参照

  ・<1981(S56). 8>宝山寺も舞台とする、映画「男はつらいよ(第27作)~浪花の恋の寅次郎~」公開・・・<問10>「男はつらいよ」生駒の巻ご参照

◎生駒山には、日本初のケーブルがあり、その終点にある生駒山上遊園地には日本最古の飛行塔がある・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)-③ご参照

◎生駒山上遊園地や宝山寺はロケ地になっている・・・生駒市のロケ地ご参照

◎生駒山の自然

  ・二ホンリスが生息・・・<問6>息づく野生動物ご参照

  ・不思議な「旅する蝶」アサギマダラが、旅の途中で休息する・・・<問5>不思議な「旅する蝶」ご参照

◎<1930年代前半>ブルーノ・タウトが、生駒山嶺小都市計画を立案・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(1)ご参照

生駒山は火山か?

◎生駒山をくぐるトンネル・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古 の(1)の ⑨ ご参照

◎生駒山上遊園地(スカイランドいこま )の駐車場はかつて「生駒山滑空場」だった・・・ご参照<リンク>  

記紀(古事記・日本書紀)に記された生駒山(既述以外)

 ・夏五月一日、大空に竜に乗った者が現われ、顔かたちは唐の人に似ていた。油を塗った青い絹で作られた笠をつけ、葛城山の方から、生駒山の方角に空を馳せて隠れた。正午頃に住吉の松嶺まつのみねの上から、西に向かって馳せ去った。<日本書紀 斉明紀>

◎古書に記された生駒山

 ・「住吉大社神代記」(成立期不明)の「胆駒神南備山いこまかんなびやま本紀」・・・「(生駒山の)四至(境界)、東限胆駒イコマ川(竜田川)、竜田公田(不詳)。南限賀志支利カシキリ坂(不詳)、山門ヤマト川(大和川)、白木シラキ坂(不詳)、江比須エビス「白鳥伝説」の上巻P.210をご参照)墓。西限母木オモノキ里公田(枚岡神社恩地神社あたり)、鳥坂トサカ里(高井田)。北限饒速日山(不詳)」

 ・「続日本紀」(794年完成)・・・平城京から見て生駒山は、東の春日山、北の奈良山と共に、西の鎮めの山として「三山鎮を作」す。  

◎ご参考・・・ 生駒山の位相トポロジー.pdf <リンク> / <問26>生駒の歴史  / 生駒山上遊園地・生駒山 トリビア

◎現在生駒山麓公園のあるところには、かつて、いこまテックという遊園地があった(Wikipediaご参照)。

この記事大阪電気軌道デボ1形電車のwikipedia)に生駒山頂上付近の近鉄奈良線の新生駒トンネルの上辺りのとある広場にデボ1形が放置されている」とある「とある広場」は、ここです。なお、定期的に塗装塗り替えされているようで「放置されている」というより保存されているようです。ただ、このような尾根の上のどこにあるかわからないような、一部の熱心な鉄道マニアが探しながらしかこない場所に保存されている理由は不明(謎)となっています。「とある広場」の位置は、このページに記載の別図C.jpg生駒駅発着の生駒山登山道)の<注14>のところです。

生駒山上遊園地からの夜景が、「クールジャパンアワード2019」に選ばれた・・・報道記事ミラー報道記事ミラー報道記事ミラーお知らせ記事ミラー   関連・・・生駒山上遊園地公式サイト「絶景ポイントミラー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生駒山地のこと

「生駒山のこと」はこちら

生駒山地(連峰/山脈)生駒全体の地形におけるその位置とそれをとりまく地理環境・・・生駒の地理ご参照  

 ➀生駒山地(wikipedia)は、北端は淀川にせまる男山おとこやま丘陵(甘南備かんなび丘陵の北端をなす/主峰の男山<標高143m>山頂には石清水八幡宮あり)をなし、南端は大和川(この川で南の金剛山地と区切られる)に至る。

 ②山容は、標高642mの主峰wikipedia)付近は蓋形をなし、その北側につづく北嶺は平均320mの嶺をなし、清滝峠(247m)を経て飯盛山付近で北東に張って淀川に至り、南側につづく南嶺は、455mの暗峠で高さを減じ、522mの大原山.jpgをはさんで、鳴川峠(402m)からは平均450~430mの嶺をなし、十三峠(431m)、高安山(488m)・信貴山(437m)を経て大和川に至り、そこに亀の瀬渓谷をつくり、それをはさんだ南側の金剛山地に連なる。

 ④この画面の山岳マップから生駒山地の航空写真をみることが出来ます。

 ⑤3Dの生駒山地・・・飯盛山~信貴山ヤマレコ<18. 4.14>より)/私市~恩智峠ヤマレコ<19. 3.31>より)/信貴山~私市」ヤマレコ<11.12. 3>より) /生駒山~信貴山」ヤマレコ<18.12. 2>より)/同左ヤマレコ<18. 4. 1>より)/飯盛山~鳴川峠ヤマレコ<19. 8.12>より)

 

)古くから、生駒山地を東西に越える峠道である生駒山越の(峠)道いこまの古道ご参照)が多くつくられてきた。 

    生駒山地東側中腹を南北に走る道として、「宝山寺の湛海さんから頼まれて、鬼取村の庄兵ヱが荒れ果てていた宝山寺から鳴川の千光寺までの道を整備した」との言い伝えが残っている庄兵ヱ道生駒南北の古道ご参照)もつくられた。

 

生駒神話ゆかりの古蹟

 北から順に、哮峰 、磐船神社饒速日山鳥見とみ旧跡 、があります(生駒山地の東側のみ)生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照> 。 

 

生駒山地の城塞・・・生駒の城塞ご参照

 

)生駒山地にまつわる話

 ①北部の山中に奈良県・大阪府・京都府の1県2府の境(大和・河内・山城の三国境みくにさかい)がありますが、その場所とされているところがなぜ2つ存在するのかの答がいまだに出ていません<大和・河内・山城の三国境の謎(疑問)ご参照)。

 ②本能寺の変が起こったとき、徳川家康は、当時滞在していた摂津・和泉の国境に位置する堺から河内の国飯盛山西麓を経て、本国三河の国岡崎城に命からがら帰還した際に三国境を越える天王道てんのうどう(現生駒市傍示~現京田辺市天王)走り抜けたとの説も有力です〔生駒検定<全国版><問14>歴史が息吹く生駒の古道の(2)ご参照〕

(6)ご参考・・・生駒山地縦走路 生駒山のハイキングマップ YAMAP (こちらの地図の方が分かりやすい?) ヤマレコ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

矢田丘陵(記紀・万葉では「平群の山」)のこと 

矢田丘陵地理など

 ①生駒の地理ご参照  

 ➁矢田丘陵(wikipedia)は、生駒山地(生駒山脈)と並立していることから、以前は、後生駒山脈と呼ばれることもありました。また、生駒山第1ヴァイオリン、平群の山は第2ヴァイオリンといえます。

 ③古くは、「斑鳩いかるが三十六峰」、「いかるかみねつづき」といわれました。そのゆえんは、法隆寺が立地する矢田丘陵南端付近は斑鳩と呼ばれ、矢田丘陵は、そこから北へ伸びる、36の峰続きであるからです。 

 矢田丘陵を越えて生駒谷・平群谷と鳥見谷とを結んでいたのが平群の山越(矢田丘陵越)の道で、それと結ばれていたのが、生駒山地を越えて生駒谷・平群谷と河内(現大阪府)とを結んでいた生駒山越の峠道です

 ⑤3D矢田丘陵全山縦走路ヤマレコさん<16. 2.28>より)

  3D矢田丘陵全山縦走路一覧・・・各縦走路を3D画面に切り替えることができます。

 ⑥この画面の山岳マップから生駒山地・矢田丘陵の航空写真をみることが出来ます。

 ⑦写真地図基準点(三角点等)地図 ←画面中央の山地が矢田丘陵です。

 

)矢田丘陵も生駒山とともに、生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)の舞台

長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵

神武東征の当初の目的地は、矢田丘陵北端に位する白谷を中心とする生駒四河川源流・分水嶺地域と思われます(神武東征の目的地は移行したご参照)。

 

)矢田丘陵の山中や麓には生駒神話ゆかりの古蹟があります

 北から順に、「鳥見白庭山」の碑、「長髄彦本拠」の碑、ひのくぼやま<桧窪山・檜の窪山・日の窪山>、住吉神社夫婦塚王龍寺神武峰矢田坐久志玉比古神社 <これらについては、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照>

 

矢田丘陵東麓には日本最大の円墳である富雄丸山古墳もあります。

 

矢田丘陵の城・・・生駒の城塞ご参照

 

日本書紀<景行紀>に登場 

(・・・・・は省略部分)

 天皇は・・・・・子湯県こゆのあがた(現宮崎県児湯郡)においでになり・・・・・そのとき東方を望まれて、お側のものにいわれるのに、「この国は真直に日の出る方に向いているなあ」と。それでその国を名付けて日向ひむかという。この日、野中の大石にのぼって、都をしのんで歌をよまれた。

   愛しきよし 従吾わぎへの家方かたゆ 雲くもち来も   やまとは 国の真区まほらば 畳たたなづく 青垣あをがき 山やまこもれる 倭やまとし 麗うるはし   命いのちの 全またけむ人ひとは 畳たたみ 平群の山の 白しらがしを 髻華うずに挿せ※ 此子このこ

   (歌の現代文訳)なつかしいなあ、我が家の方から、雲が湧いて流れてくるよ。  大和は最もすぐれた国。青々とした山が重なって、垣のように包んでいる。大和の国は美しいなあ。  命の満ち溢れた人は、平群の山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿しなさい。この子よ。

 と、これを国しのびの歌という(以上、歌部分は修正して講談社学術文庫版より引用/太字は引用者による)

      ※命の全けむ人・・・生命の完全な(命の満ち溢れた)人の意で、(生命力の衰えた高齢者でなく)若者のこと。       

      ※愛しきよし・・・「よ」は詠嘆、「し」は強調の序詞。なつかしいの意。従吾を修飾。

      畳薦も・・・まこもの葉を編んだ敷物を「一重」「二重」と数えるので、「重」から「平群」にかけた枕詞

      髻華に挿す・・・花や青葉の枝を髪に挿すこと。簪かんざしの起源と思われる。

      ※此子・・・その場にいる者に向かって、皆の者よとよびかける語。 

 

古事記<景行記> に登場

(・・・・・は省略部分)

 倭健命やまとたけるのみこと、・・・・・能煩野のぼのに到りまししとき、国を思しのいて歌曰うたひたまはく、

   倭やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山隠やまごもれる 倭しうるはし

 また歌曰うたひたまはく、

   いのちの 全またけむ人は たたみこも 平群の山の くま白檮(かし)※が葉を うずに挿せ その子

 この歌は国思歌くにしのひうたなり。

      くま檮(かし)・・・くま(熊)は「神」に通じる接頭語で、神聖なの意を添えたもの。

 (現代語訳)倭健命・・・・・能煩野のぼの(現鈴鹿山脈の野登山ののぼりやまの麓においでになった時、故郷の大和国をしのんでお歌いになった歌は、  大和国やまとのくには国々の中で最もよい国だ。重なり合って、青い垣をめぐらしたような山々、その山々に囲まれた大和は美しい国だ。 またお歌いになった歌は、 命の完全な人は、平群の山のくま樫の葉を髪に挿して、生命を謳歌するがよい。みなの者よ。 この二首は国思歌くにしのひうたという歌である(以上、講談社学術文庫版より引用 )

 

国思歌(国しのびの歌)になぜ平群山が詠われるのか 

 (5)の景行天皇が歌った3首と(6)の倭健命が歌った2首は、国思歌です(両者はほどんど同じ小異歌)。それは故郷を偲ぶ歌で、上代歌謡の1つです。上代歌謡とは、上代(ここでは、奈良時代以前)の歌謡のことです。歌謡とは、のちに和歌として整えられていく和歌の原型といえる、作者不明の、人々に親しまれた歌で、多くは文字に記されることなく失われてしまいましたが、その1部が古事記、日本書紀 、風土記、万葉集、古語拾遺、琴歌譜、仏足跡歌碑などに収録されており、古事記と日本書紀に収録されているそれは「記紀歌謡」と呼ばれています。

 歌謡は、なんらかの集つどいの時に歌われました。(5)の3首は景行天皇が、(6)の2首はその子ヤマトタケルノミコト(古事記では倭健命、日本書紀では日本武尊)が、それぞれ皆を集めて故郷を偲んだ集いのときのものです。この親子は、故郷を偲んだときにどちらも、「倭やまとは国のまほろ(ら)ば・・・・・」の歌謡を選んで歌い、続いて、故郷の青垣をなす山々の代表・象徴と思う平群山を詠んだ歌謡である「平群の山の・・・・・ 」の歌謡を歌ったのです。この親子にとって平群山はそれほど大切な山でした。 

 平群山は国思歌に詠われるほど、また、景行天皇・倭健命親子がそれを詠う歌謡を歌うほど、なぜ大切な山だったのでしょうか。

 その答え⇒平群山を詠んだ歌には必ずといってよいほどに「樫」(白樫しらかしまたは一位樫いちいがし)がでてきます。(5)・(6)の歌、(8)の歌、(10)の(1)の①の歌、すべてそうです。樫は、堅くて強く長もちし実(どんぐり)が沢山なる常緑の生命力あふれる長寿・豊穣を象徴する吉木で、その感化を受ければ霊力や生命力を授かると尊ばれていました。現在でも、カシ類を正月の門松や墓 ・神棚の供花としたり、田の水口や畑に立てたりして、家の繁盛や豊作を祈る習俗があちこちに残っています。平群山は、かかる樫が繁茂する山でした。 また、平群山は、(10)の(1)の①の歌に「藥獵くすりがり」がでてくるように、薬草摘みや狩猟が盛んな場所でした。このように平群山は、弥生時代になっても、弥生文化(自然に働きかけて自らが生命を育てる農耕文化で、それゆえ、飢饉と裏表の、欲望に歯止めをかけるのが難しい、土地と水を取り合う争いの文化。季節が替れば生命力が失われるかのように葉を落とす落葉広葉樹林文化)でない縄文文化(自然から生命を授かる狩猟採集文化で、それゆえ、飢饉のリスクの少ない、過度の欲望が生じない、土地と水を私有する必要がないので争いの必要ない文化。季節の変動に生命力を左右されないかのような常緑広葉樹林文化)が息づく、生命力を与えてくれる山だったからです。

 また、(5)・(6)の歌謡にある「平群の山の白がしが枝を髻華に挿せ」「平群の山の白檮(かし)が葉をうずに挿せ」というのは、人に生命力を授けると考えられていた樫の青葉の枝を髪に挿すことで生命力を充足する呪術的行為のことで、平群山では、国見(山に登り自分の居住地の方向を見て息災・繁栄を願う行為)などの何らかの集いのときにはそれがおこなわれていました。(5)・(6)の歌謡は、平群山での集いで生まれ、ひろまっていったと考えることもできます。 上代の大切な集いには歌垣wikipedia>もありました。それは、若い男女が山などに集まり、共同飲食しながら相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗です(歌謡をやり取りする集団お見合い・合コンといえば分かりやすいかも知れない)。平群山も歌垣が行われていた場所であり(具体的な場所は未確定)、景行天皇・倭健命親子が、(5)・(6)の歌謡を歌ったのは、平群山での、その歌謡を求愛相手に捧げた歌垣が懐なつかしかったからでもあったのでしょう。また、集いに参集してくれた、または、故郷にいる若い者たちに「生命力の強い樫を折りとって髻華にし、ますます健すこやかであれ」と呼びかけるためでもあったと思われます。

 なお、人間がつくったものでなく自然が人間に授けてくれた特定の植物が生命力を充足してくれるという縄文的な思考・行為は、現在もなお、葵祭あおいまつりで葵や桂、春日祭かすがさい日陰ひかげの蔓かずらを参加者が身につける風習や正月七日に七草粥ななくさがゆを食べる風習などに受け継がれています。

 以上のことを踏まえると、矢田丘陵と生駒谷という樫の繁茂地を持つ生駒市が、市の木として樫を選定した(ご参照)のは最良の選択であったといえます。生駒市の「市の木」が樫であることについては、生駒検定<全国版>問28「生駒市の木」に選ばれているのは何?!もご参照。

<追記>縄文時代、東日本はクリ・ウルシを利用する文化圏、西日本はカシを利用する文化圏であった、とされています。

古事記<雄略記>に登場

生駒山と矢田丘陵(記紀・万葉では平群の山)は、古事記<雄略記>に登場 ご参照

 

日本書紀<皇極紀>に登場か?

 この紀に記載されている「山背大兄王の非戦説話」(生駒検定<全国版><問24>生駒ゆかりの諸群像(13)ご参照)で、山背大兄王が隠れたとされる生駒山は実は矢田丘陵のこと、との説があります(ご参照ミラー)。

 

10万葉集の乞食者(ほかひびと)が鹿・蟹のために痛みを述べて作れし長歌二首

のうち鹿の歌に平群の山が詠われている

  

(11)このページを基に、

生駒検定<全国版><問2>古来、列島中央部にあってその存在感を示してきた「生駒山」、それに寄り添う「平群の山」(3)・(4)の問題を作成しました。

 

(12)資料

 平群の山(矢田丘陵)に おける松茸利用の歴史.pdf

山背大兄王が攻撃を逃れて生駒山中(矢田丘陵山中との説もあり)に隠れ、のち法隆寺に帰還しました<生駒検定 全国版 問24-(13)ご参照>。その際にたどったと推測されるルートをこの地図.jpgに青線で示しました。なお、宝山寺から法隆寺までの歩行時間は、矢田丘陵全山縦走(生駒白谷~法隆寺)の歩行時間が約4時間半であることを考えると5~6時間程度と思われます。

 

(13)歩行ルート

長距離自然歩道(環境省が計画を定め、各都道府県が整備管理運営)の近畿自然歩道(同じ長距離自然歩道で先行整備された東海道自然歩道と重複しないように整備された/ルート概要)の金剛生駒ふれあいルート (本線は<北から>ポンポン山~天王山~交野山~生駒山~高安山・信貴山~二上山~葛城山~金剛山)の枝線・・・信貴山から東北の方角へ~信貴畑~竜田川駅北~椿井つばい~白石畑しらいしばた~松尾寺・松尾山~矢田寺(金剛山寺)~東明寺~子どもの森~霊山寺/これは矢田丘陵を越えるみちと呼べる>

矢田丘陵遊歩道マップ掲載あり>(生駒市が整備管理運営)

 1)本ルート・・・(北から)生駒市総合公園(入口すぐにあすか野団地口バス停)~山中への入口~ドンデン池~展望広場~椚くぬぎ峠~神武峯(峰)下~榁木むろのき峠~小笹の辻~矢田峠

 2)下山ルート・・・ドンデン池少し南 ~小明寺垣内または図書会館付近/展望広場~東生駒1丁目/神武峯の北~福祉センター付近/神武峯の少し北~帝塚山住宅地(このルートは、奈良市側に下りるためマップでは矢田丘陵遊歩道の下山ルートになっていないが、事実上はそれである ) /榁木峠の北~きたやまスポーツ公園/榁木峠~南生駒駅(このルートは生駒市側に下りるにもかかわらずマップではなぜか矢田丘陵遊歩道の下山ルートになっていないが、事実上はそれである)/矢田峠~萩の台駅 

矢田山遊びの森ハイキングコース(奈良県が整備管理運営)・・・次の5コース(太字部分は矢田丘陵遊歩道と重複)

 1)子どもの森(横山口バス停から徒歩50分)~小笹の辻~矢田峠~松尾山・松尾寺(松尾寺口バス停まで徒歩30分)

 2)萩の台駅~矢田峠矢田寺(矢田寺前バス停まで徒歩10分)

 3)富雄駅~霊山寺~子どもの森~東明寺~矢田寺~国見台展望台~松尾山・松尾寺  

 4)竜田川駅(~椿井)または法隆寺駅(~矢田丘陵南端の法隆寺)~白石畑~松尾山・松尾寺(竜田川駅からのコースは金剛生駒ふれあいルートの枝線と重複)  

 5)椚峠~神武峯(峰)下~榁木峠~小笹の辻・・・1)と2)のコースも加味すると、結局、なぜか矢田丘陵遊歩道のうち椚峠~矢田峠~萩の台駅だけが矢田遊びの森ハイキングコースとされている(椚峠を越えて北側のコースはされていない)。