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『新編 生駒の神話』<創作中> 

生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)の大要.pdf


【3
】「生駒の神話の骨子」を生駒検定<全国版>の第1問の問題文としました⇒そのWEB版その文書版.pdf

Photo生駒の神話(長髄彦伝説)の概略<→その一場面(左が長髄彦軍 ・ 右が神武軍)<クリックで拡大

【1】『新編 生駒の神話』<創作中>  

(1)饒速日尊、葦原の中国に降臨す(『先代旧事本紀』より) 

天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。

 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。

 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。

 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。

 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。

 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」

 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

 天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連(おわりのむらじ)らの祖。天鈿売命(あまのうずめのみこと)猿女君(さるめのきみ)らの祖。天太玉命(あまのふとたまのみこと)忌部首(いむべのおびと)らの祖。天児屋命(あまのこやねのみこと)中臣連(なかとみむらじ)らの祖。天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。天道根命(あまのみちねのみこと)川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。天神玉命(あまのかむたまのみこと)三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。天椹野命(あまのくぬのみこと)中跡直(なかとのあたい)らの祖。天糠戸命(あまのぬかとのみこと)鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。天明玉命(あまのあかるたまのみこと)玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。天牟良雲命(あまのむらくものみこと)度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。天背男命(あまのせおのみこと)山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。天御陰命(あまのみかげのみこと)凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。天造日女命(あまのつくりひめのみこと)阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。天世平命(あまのよむけのみこと)久我直(くがのあたい)らの祖。天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。天背斗女命(あまのせとめのみこと)尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)間人連(はしひとのむらじ)らの祖。天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。天三降命(あまのみくだりのみこと)豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。天日神命(あまのひのかみのみこと)対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。乳速日命(ちはやひのみこと)広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。八坂彦命(やさかひこのみこと)伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。伊佐布魂命(いさふたまのみこと)倭文連(しどりのむらじ)らの祖。伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。活玉命(いくたまのみこと)新田部直(にいたべのあたい)の祖。少彦根命(すくなひこねのみこと)鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。事湯彦命(ことゆつひこのみこと)取尾連(とりおのむらじ)らの祖。八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。天下春命(あまのしたはるのみこと)武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。月神命(つきのかみのみこと)壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。

 また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。

 物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。

 五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。

 二田造(ふただのみやつこ)。大庭造(おおばのみやつこ)。舎人造(とねりのみやつこ)。勇蘇造(ゆそのみやつこ)。坂戸造(さかとのみやつこ)。

 天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

 二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

 船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。

 船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)。

船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)。

 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日尊は亡くなられた。その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)に仰せになった。「私の神の御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。だから、お前は天降って復命するように」このようにご命命になった。速飄神は勅を受けて天降り、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで、天に帰りのぼって復命して申しあげた。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄の神を遣わし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれた。そして天上で葬った。

饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。

 これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば味間見命(うましまみのみこと)と名づけなさい。もし女子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけなさい」産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。

 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。

 饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。

宇摩志麻治命

 天香語山命の弟、宇摩志麻治命。または味間見命といい、または可美真手命(うましまでのみこと)という。

 天孫天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊は、天下を治めようと思われて、軍をおこして東征されたが、所々にご命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中つ国の豪族・長髄彦は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴し、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、「天神の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない」といい、ついに兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍は連戦したが、勝つ事ができなかった。

 このとき、宇摩志麻治命は伯父の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。そうして衆を率いて帰順した。

 天孫は、宇摩志麻治命に仰せになった。「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」

 そして特にほめたたえ、神剣を与えることで、その大きな勲功にお応えになった。この神剣は、韴霊(ふつのみたま)剣、またの名は布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神というのがこれである。

 また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊にお授けになった天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれて、さらに寵愛を増された。また、宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて国内を平定して復命した。

 天孫磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮殿を造られた。辛酉年の一月一日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位につかれた。この年を、天皇の治世元年とする。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。

 宇摩志麻治命がまず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾を立てて斎き祭った。五十櫛という、または斎木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。そうして、天つしるしの瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。「殿内の近くに侍りなさい」(近く殿の内に宿せよ〈すくせよ〉)そのためこれを足尼(すくね)と名づけた。足尼という号は、ここから始まった。

 高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率い、天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。天児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申しあげた。宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾を立てて厳かでいかめしい様子をつくった。道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なことを伝えられた。

 ときに、皇子・大夫たちは、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。このように都を建てて即位され、年の初めに儀式をするのは、共にこのときから始まった。

 宇摩志麻治命は十一月一日の庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこのときに始まった。天皇は宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の亡父の饒速日尊が天から授けられてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りとせよ」いわゆる“御鎮祭”がこれである。

 およそ、その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と大きな声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことをいう。

 治世二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」

 この日、物部連らの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は、ともに食国の政事を行う大夫に任じられた。その天日方奇日方命は、皇后の兄である。食国の政事を行う大夫とは、今でいう大連・大臣にあたる。

 そうして宇摩志麻治命は、天つしるしの瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、石上の大神をお祀りした。詳しくは以下に述べる。

(2)瓊々杵尊降臨(『先代旧事本紀』より) 

天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)は天降って、筑紫の日向の襲の槵触二上峯にいらっしゃった。

ウガヤフキアエズノミコト誕生

 (略)彦波瀲武鸕草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、天孫・彦火々出見尊[また火折尊ともいう]の第三子である。母を豊玉姫命という。海神の上の娘である。豊玉姫命の妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)を立てて皇妃とされた。すなわち、海神の下の娘で、鸕草葺不合尊の叔母にあたる。四人の御子をお生みになった。子の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)[賊の矢にあたって亡くなった]。次に、稲飯命(いなひのみこと)[海に没して鋤持神となった]。次に、三毛野命(みけいりぬのみこと)[常世の郷に行かれた]。次に、磐余彦命(いわれひこのみこと)。

(3)イワレヒコの東征出発(『日本書紀』より)

 神日本磐余彦天皇の諱(ただのみな/実名)は、彦火火出見(ホホデミ)という。鸕が草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は王依姫といい、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の二番目の娘である。天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。成長されて、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶とって妃とされた。手研耳命(たぎしのみこと)を生まれた。四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、「昔、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天照大神が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を、祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた、塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと『東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天・の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳(たいさい/12年の周期で巡行する木星の異名)の甲寅(きのえとら)である。

 その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向われた。速吸之門(はやすいなと/豊予海峡)においでになると、一人の漁人(あま)が小舟に乗ってやってきた。天皇は呼びよせてお尋ねになり、「お前は誰か」といわれた。答えて「私は土着の神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦に釣りにきており、天神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」という。また尋ねていわれる。「お前は私のために道案内をしてくれるか」と。「御案内しましょう」という。

 天皇は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差出し、つかまらせて舟の中に引き入れ、水先案内とされた。そこで特に名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直(やまとのあたい)らの先祖である。筑紫の国の宇佐についた。すると宇佐の国造の先祖で宇佐津彦(うさつひこ)・宇佐津姫(うさつひめ)という者があった。宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮か)を造っておもてなしをした。このときに宇佐津姫を侍臣(おもとまえつかみ)の天種千命(あまのたねのみこと)に娶(め)あわされた。天種子命は中臣氏の先祖である。

 十一月九日、天皇は筑紫の国の岡水門(おかのみなと)につかれた。

 十二月二十七日、安芸国について埃宮(えのみや)においでになった。翌年乙卯(きのとう)春三月六日に、吉備国に移られ、行館(かりのみや)を造っておはいりになった。これを高島宮という。三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

 戊午(つちおえうま)の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。舳艫(じくろ/船首と船尾)相つぎ、まさに難波碕(なにはのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国(なみはやのくに)とした。また浪花(なみはな)ともいう。今難波(なにわ)というのはなまったものである。

 三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

(4)草香の戦い(『日本書紀』より)

 夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。そのときに長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞き、「天神の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。流れ矢が当たって五瀬命の肘脛(ひぎはぎ)に当たった。天皇の軍は進むことができなかった。天皇はこれを憂えて、はかりごとをめぐらされた。

 「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」といわれた。皆は「そのとおりです」という。そこで軍中に告げていわれた。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。草香津(くさかのつ)に引き返し、盾をたてて雄たけびをし士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてつ)とよんだ。いま蓼津(たでつ)というのは、なまっているのである。

 初め孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。それでその木を指して、「恩は母のようだ」といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきのむら)といった。今「おものき」というのは、なまったものである。

(5)イワレヒコ軍の迂回(『日本書紀』より)

    愛瀰詩烏(えみしを)毘人嚢利(ひだり)毛々那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

(6)長髄彦と金鵄(『日本書紀』より)

 十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。そして歌っていわれた。

  ミツミツシ、クメノコラ(久米之子等)ガ、「カキモトニ」アハフ(粟田)ニハ、カミラ(韮)ヒトモト(一本)、ソノガモト(其根茎)、ソネメツナギテ(其根茎繋)、ウチテシヤマム(撃而止)<天皇の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう>

 また歌っていう。

  ミツミツシ、クメノコラガ、カキモト(垣下)ニ、ヴヱシハジカミ(植韮)、クチビヒク(口疼)、ワレハワスレズ(我不忘)、ウチテシヤマム<天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう>

 また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは歌った人を指して名づけたのである。

 さて長髄彦は使いを送って、天皇に言上し、「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒連日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽者でしょう」と。天皇がいわれる。「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表(しるし/しるしの物)があるだろう。それを示しなさい」と。長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢(あまのははや/蛇の呪力を負った矢)と歩靫(かちゆき/徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ/矢を入れて携行する道具)を天皇に示した。天皇はご覧になって、「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。長髄彦はその天神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。けれども兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。そして間違った考えを捨てず、改心の気持がない。饒連日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒連日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。

(7)イワレヒコの橿原即位(『日本書紀』より)

 辛酉(かのととり)の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。この年を天皇の元年とする。・・・・・古語にも、これを称して次のようにいう。「・・・・・始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト/始めて天下を治められた天皇)」と申し、名づけて神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイハレヒコホホデミノスメラミコト)という。

 四年春二月二十三日、詔して「わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。

 三十一年夏四月一日、天皇の御巡幸があった。腋上(わきかみ)の味間(ほほま)の丘に登られ、国のかたちを望見していわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲(あきつしま)の名ができた。昔、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)がこの国を名づけて、「日本は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていて良く整った国」といわれた。また大己貴大神(おおあなむちのおおかみ)は名づけて「玉牆の内つ国(美しい垣のような山に囲まれた国)」といわれた。

 饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「空見つ日本(やまと)の国(大空から眺めて、よい国だと選ばれた日本の国)」という。

(8)その後の長髄彦の行方は定かではない。しかし、奥州では「長髄彦は兄アビヒコと共に日高見(東北地方)の地を新たな故国として移住し、先住民族と合流してアラバキ族と名乗り、日高見の国を長く治めた」と伝えられるなど、各地で長髄彦の精神(愛瀰詩えみしの心)は受け継がれている。

解 説 

【1】この昔の物語の名前 

(*)昔の話の呼び方には、説話・民話・昔話・伝説・伝承・神話・俗話・寓意などがあり、それらを基にしながら創作した話は、新訳・新編・翻案・訳編などといいますが、取り敢えず、『新編 生駒の神話』といたします(今後、変更することがあるかも知れません)。 

【2】この物語を記すにあたって依拠・参考にしたもの⇒参考文献等ご参照

【3】主人公⇒長髄彦

   舞台⇒奈良(大和)湖河内(古大阪)湾  豊秋津洲とよあきつしま

【4】物語の構成 

(1)できるだけ【2】の依拠・参考にしたものに記されたものから、物語を構成する上で最適な記述を選び、それらを組み合わせて筋の通った物語を構成するように努めました(このような、既述の文献に記されたものを組み合わせて神話を構成していく方法は記紀と同様のやり方です)。 

(2)その際、生駒の神話は郷土生駒の人物・神を魅力的に描かねばならないことは当然であり(それが郷土の昔の話というもの)、そのような人物・神について、魅力を減じさせるような通説・記述※は、できるだけ荒唐無稽にならないように、あるいは、異説があればそれに沿って、魅力が減じないように解釈・記述し直しました。神話というものは本来、口から耳へ、耳から口へと語り伝えられた、口頭による伝承として存在し、記録のさいに、筆録の目的、あるいは筆録者の条件によって、整理されることが多く、削除・省略があったり、逆に付加があったりもし、そこには潤色や作為が作用するものとされています(上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdfご参照)。

    ※例えば、長髄彦は性質がよくなく、義理の弟(妹の婿)である神または甥(妹の息子)に裏切られて殺されてしまうのが通説(書紀や旧事紀の記述)で、そのように通説は長髄彦やその義理の弟(妹の婿)である神や甥(妹の息子)を悪く描いています。 

(3)普遍性(多くの人が理解できる内容)を得るため、まったくの創作(【2】に記したものにまったく依拠しないもの)はできるだけ避けるように努めましたが、【5】に記された疑問点(記紀等の通説が述べていないこと、矛盾することなど)は、解明し、または筋の通るように解釈し直しました。 

(4)以上に従い、【5】に立脚し、【6】を踏まえて物語を構成していきます。

(*)物語の作り方/物語のでき方物語の組み立て方の参考例.pdfなど)

【5】立脚点<そのいくつかは、疑問点に対する答/この物語の枠組み(パラダイム)も含む

【6】留意点

【7】生駒の神話と現在   生駒の神話の謎・疑問を解く鍵<生駒の神話(ナガスネヒコ物語)の真意>(生駒の神話は里山誕生の過程を反映したもの)

 

縄文から弥生への交代期のショックが長髄彦伝承を発生させたと考えられる(ご参照.pdf)。

戦い忌避神話である生駒神話は、戦い忌避伝承である生駒伝承と符号・共鳴している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献等

【1】生駒市誌  富雄町史  大和志料 

【2】古事記古事記<リンク>/原文<リンク>) 日本書紀日本書紀<リンク>/原文<リンク>)  先代旧事本紀  古語拾遺

  記紀について先代旧事本紀・古語拾遺 概要.pdf

 古事記と日本書紀はどう違うか(リンク) / 古事記と日本書紀の違い(リンク)「古事記は国内向けに天皇の正統性を訴えるもので、日本書紀は外国向けに日本という国の正統性を主張するもの」

【3】新撰姓氏録新撰姓氏録概要.pdf>  各地の風土記.pdf

【4】各地の神社伝承・民間伝承 

【5】海外の文献

【6】学者・研究者の説

(1)小林達雄「縄文人の世界」「縄文の思考」   谷川健一「白鳥伝説」 「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」「列島縦断地名逍遥」「古代史と民俗学」.pdf  古田武彦「真実の東北王朝」「古代通史」「邪馬一国への道標」.pdf「盗まれた神話 記・紀の秘密」.pdf古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち.pdf <古田武彦氏のいくつかの著作はここで読むことができます。>   喜田貞吉「本州における蝦夷の末路」   梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」「神々の流竄」   森浩一「日本神話の考古学」   鳥越憲三郎「神々と天皇の間」   井上光貞「日本国家の起源」「神話から歴史へ(日本の歴史1)」   直木孝次郎 「日本神話と古代国家」   上田正昭・鎌田純一 「日本の神々 「先代旧事本紀」の復権」   上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdf  金関恕+大阪府弥生文化博物館 「弥生文化の成立」   関裕二 諸著作   折口信夫の著作   原田常治「古代日本正史」   前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説    樋口清之「逆・日本史 3」.pdf「逆・日本史 4」.pdf「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)    竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf「日本史の謎は『地形』で解ける」3部作.pdf   武光 誠「地図で読む「古事記」「日本書紀」.pdf   司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 1」.pdf   長野正孝「古代史の謎は『海路』で解ける」.pdfリンク)  富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-.pdf  松木武彦「日本の歴史一 列島創世記」.pdf  中沢新一「熊から王へ」.pdf「大阪アースダイバー.pdf

(2)村井康彦著『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』(岩波書店).pdfこの書物が画期をなす理由紹介記事

(3)07嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf⇒下記のような立ち位置で著されたことにより、この書物もまた記紀神話を解明する上で画期をなすものとなりました。この書物の基になり、続編たるブログが歴史探訪(09.4.13発進) →右図は表紙(クリックで拡大)

    立ち位置:「神話や由緒には創作や事実を脚色したものが多く、事実がそのまま記されているわけではないのですが、全くの作り話というわけでもなく、何らかの事実を元に再編したり都合よく脚色したりして創られているようですので、その中に含まれている「事実の欠片」と思われるものを拾い出し、古代の地形地域の伝承地域資料に残されている事実や世界の歴史などと照らし合わせてみると、『納得できなかった教科書の歴史』とは全く違う歴史が納得できる形で表れてくるのです。」(14.10.17のブログより)

【7】在野歴史研究家の調査に基づく説、作家・小説家の小説・小論 

 松本清張「古代探求」.pdf清張通史② 空白の世紀  /司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 1」.pdf 「城塞」.pdf高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」・「炎立つ」  /畠山紘明「秋田安東氏物語」  /黒岩重吾「古代史への旅」.pdf

 原田常治「古代日本正史」・「上代日本正史」/小椋一葉「消された覇王」<これらは、神社伝承の調査に立脚し、文献重視に偏重するアカデミズムへの批判の書でもある。>

【8】昔の話を参考にしている作品

 宮崎駿「となりのトトロ」「もののけ姫」(リンク)「千と千尋の神隠し「もののけ姫」のアシタカ〔ヒコ〕はナガスネヒコ、「千と千尋の神隠し」のハク(ニギハヤミコハクヌシ)はニギハヤヒノミコトをモデルにしているともいわれています。)  手塚治「火の鳥」「ブッダ」(「火の鳥」の黎明編では騎馬民族征服王朝説が採用されているともいわれています。 

【9】古史古伝   諸文献   示唆に富む資料・言葉

【10】地図・遺跡こちら

【11】ラブリータウンいこま<09(H21)年10月15日号>テーマ : 長髄彦伝説

【12】文献比較 名称.pdf   文献比較 事件.pdf   文献比較 系図.pdf   

     

語句(キーワード ・ 地名含む)説明    

 【神々の総称いろいろ日本の神の一覧(リンク)】


葦原中国(あしはらのなかつくに)

アテルイ高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」/「アテルイの悲劇」については、生駒の神話と現在の(2)をご参照。

天降り(あまくだり)「天」と「海」は共に「あま」という言葉で同一視されていたので、「天あま降り(降臨)」は、「海あま降り(渡来)」のこと。

天津神天津族(あまつかみ・あまつぞく)⇒神々の総称いろいろ

「生駒」の語源・由来

〇生駒山⇒生駒山新日本風土記 生駒山万葉神事語辞典より

伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ).pdf

出雲勢力出雲民族・出雲族・出雲神族) 出雲に渡来した渡来人で、出雲を本貫ほんがん(出身地)とする。播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも耕作地を拡大(出雲勢力が各地に進出したルートは、日本海から丹後を通って近江、近畿へ。もう一つは吉備経由で瀬戸内海へ)。先住民(縄文人)と協力・協同、住み分けて形成した国を「出雲の国」という。記紀神話では、彼らの長はスサノオ-大国主(農耕を広めたので、農耕地の神社で祀られること多し)。なお、協力・協同した先住民(縄文人)も出雲勢力という場合も多い。

出雲系の神々 神々の総称いろいろ

磐舟(いわふね)船底に、船の重心を低くして転覆を防ぐための重石おもしにする大きな石を敷き詰めていた船。重心が低くなると浸水したら沈没してしまうので気密性が高くて浸水しにくかったと考えられる。

内つ国(うちつくに) 都のある国(大和国)/都に近い地方(畿内・近畿地方)/外国に対して日本の国

愛瀰詩えみし.pdf

大八洲国(おおやしまぐに) 多くの島からなる国の意で、日本の異称。略称は大八洲八島八嶋

河内湖かわちこ(深野池)・河内潟・河内湾

(神武東征神話の)金の鵄とび(金鵄きんし

クサカ(日下・草香・孔舎衙)

狗奴国東遷説.pdf

国生み神話

国津神・国津族(くにつかみ・くにつぞく)神々の総称いろいろ

国譲り神話.pdf  

降臨天降り(あまくだり)へ

殺戮.pdf

里山(さとやま)「(学研高山)第2工区=里山」の過去・現在・未来奈良高山里山研究会より)をご参照

三貴子(さんきし) 天照大神・月読命(ツクヨミノミコト)・素戔嗚尊(スサノオノミコト)の三大神のこと。

蛇神(じゃしん・へびがみ) 

縄文時代の語句⇒縄文と弥生

神武東征

高天原(たかまがはら) 天津神々のすむ天上界。天香具山で祭祀が行われ、神々は稲田をつくり、機織女たちは織殿に奉仕している。最高支配者は三貴子の一人天照大神と高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の二神で、玉座である天の磐座(あまのいわくら)に座している。「高天原」が天上にあるという考えは本居宣長が広めたと言われているが、歴史的には、渡来して九州にいた集団(神話では天津神という)の国のこと。

直越道(ただごえのみち)

哮峯(たけるのみね/たけるがみね)⇒鳥越憲三郎「神々と天皇の間」ご参照

近淡海.pdf(ちかつあわうみ)  

天孫・天孫族(てんそん・てんそんぞく)⇒神々の総称いろいろ 

常世国(とこよのくに) 海の彼方の遥か遠くにある地、または世界。ここにどのような幻想を抱くかによって常世国の性格は変化する。これが常世国がいくつもの性格を兼ね備えている理由とされる。

トミ(鳥見・登美・富)・富雄トミ神社<リンク>

豊秋津洲(とよあきつしま)

豊葦原中国(とよあしはらなかつくに) 葦原中国あしはらのなかつくにと同じ。

長髄彦(ナガスネヒコ)

中洲(なかつくに・なかす・ながす) 国の中心・中心の国・大和

  南北2つの鳥見とみ(登美とみ)は中洲(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね(長髄ながすね/なかすね)彦であった。 

 なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄トビ)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。

奈良湖ならこ(大和湖)

根の国(ねのくに) 高天原も異界であった根の国も元は葦原中国と水平の位置にあったのが、高天原を天上に置いたために根の国は地下にあるとされるようになった。その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂としている記述が『古事記』にあり、一般には死者の国である黄泉の国と同一視されるようになった。

日の本(ヒノモト)/日高見(ひだかみ)

卑弥呼.pdf(ヒミコ)

日向三代(ひむかさんだい) 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨から、神武天皇を生む草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)までの三代(ホノニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアヘズ)のこと。

日向勢力日向民族・日向族) 日向に渡来した渡来人。彼らの渡来を記紀神話では、天孫降臨という。そのため、天孫族ともいう。また、天津(天つ)族、天津(天つ)民族ともいう。津(つ)は「の」の意。記紀神話では、彼らの神を天津神(天つ神)といい、彼ら以外の神を国津神(国つ神)という。また、記紀神話では彼らの長はニニギ-イワレヒコ。

琵琶湖びわこ.pdf

深野池ふこうのいけ河内湖(深野池)・河内潟・河内湾

真弓塚.pdf

まれびと(マレビト/稀人・客人)

尊・命(みこと) 『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ以外の神は、「命」と明確に区別している。ちなみに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は悪行を重ねたにもかかわらず「尊」である。

三輪氏(みわうじ) 新撰姓氏録(P.250)には、「素佐能雄命六世孫大国主之後也(スサノオ6世孫の大国主の後裔なり)」と記されている。大三輪氏おおみわうじ神氏みわうじ大神氏おおみわうじとも表記する。

邪馬台国東遷説

ヤマト.pdf

  「日下の草香」「飛ぶ鳥の明日香」から「日下」「飛鳥」の読みができたように「倭人住む山門」から「倭」で「やまと」と読むようになった、との説あり。

 

大和湖やまとこ(奈良湖)

弓矢 

黄泉の国(よみのくに) 死の国。ここの竈で煮炊きされた食べ物を一口でも食べると、現世には帰れない(黄泉戸喫〈よもつへぐい〉)。これは世界各地の死の国の言い伝えと一致する。黄泉平坂で現世と分けられている。根の国と異なるという考えや同じとする考え方がある。同じとする学者が、黄泉の国は地下にあるものと考えているが、必ずしも葦原中国に対して地下にあるわけではない。

黄泉平坂(よもつひらさか) 現世と黄泉の国とのあいだにある坂の名称。以前は自由に行き来できたようだが、伊邪那岐イザナギノミコトと伊邪那美イザナミノミコトの決別のとき、伊邪那岐によって封印された。道祖神はこの境を守るために祭られたのだともいわれる。 

 
霊畤(れいじ)「まつりのにわ」という意味。大嘗祭(おおなめさい・だいじょうさい/新天皇が即位後最初に行なう新嘗祭)を行う場所。大嘗祭・新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)共、その年の新穀・新酒をもって先祖の神々を祀るという意味においては同じだが、大嘗祭は、皇位継承と重大な意義を持っていて、大嘗祭が行われて始めて皇位継承の名実共に備わるといわれ、一代一度の極めて重大な式典。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地図・地形・遺跡

地図

(1)白谷/桧窪山/住吉神社(龍ヶ淵・星ヶ森はここにあった).jpg  素盞嗚神社・真弓塚.jpg  竜王山.jpg

(2)遺蹟案内図(『生駒市史』より).pdf  神武東征説明図(『生駒市史』より).pdf

(3)日本列島をユーラシア大陸からみると : 環日本海諸国図Ⅰ ・ 環日本海諸国図Ⅱ

(4)長髄彦の本拠地に比定される白谷が開発される前の地図.jpg

(5)大和は東西南北に走る水系によって日本海・瀬戸内・太平洋を結ぶ(この地図ご参照)/近畿地方の一級水系大和川水系奈良県の水系淀川水系

地図と説明

(1)河内湖かわちこ(深野池)・河内潟・河内湾

(2)奈良湖ならこ(大和湖)

(3)富雄街道の歴史.pdf    記紀神話の舞台となった富雄川流域の遺蹟とその地図(リンク)  生駒の散歩道 北生駒 神話コース(リンク)

(4)東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究より⇒河内湖周辺の渡来人関連遺跡等.pdf古代の難波と住吉.pdf

(5)富雄丸山古墳(円墳としては最大級の規模) : 出土品説明  ・ 説明所在地説明

説明

(3)古代、京都は瀬戸内海と日本海の陸内港(「逆・日本史 3」.pdfの第一章をご参照)

(2)時代別生駒の遺跡

(1)真弓塚.pdf

その他

(1)奈良盆地歴史地理データベース

】過去のことを正しく知るためには、過去の地形を知らなければならない。

(3)奈良時代、木津川に泉津いずみのつと呼ばれた港があり、この港でおろされた荷が平城京に運ばれた。この木津川を東にさかのぼると名張盆地、北に行くと巨椋おぐら池、さらに北へさかのぼれば宇治川を経て琵琶湖、その先は北陸、日本海。西へ下れば淀川を経て大阪湾、瀬戸内海。

(2)Q.草の舟での3万年前の航海(与那国島→西表島)再現実験(16.7.17~16.7.18)の失敗(ご参照)の原因は? A.3万年前の海と陸が今と同じだったはずだという思い込みが原因です(ご参照)。

(1)海のない信州になぜ「御船祭り」があるのか⇒信州の御船祭りに答あり。

資 料 

(*)縄文と弥生  ミニ知識  アイヌ語辞典   地名由来辞典  ポリネシア語で解く日本の地名・・・  物語の作り方/物語のでき方

(29)Q.草の舟での3万年前の航海(与那国島→西表島)再現実験(16.7.17~16.7.18)の失敗(ご参照)の原因は? A.3万年前の海と陸が今と同じだったはずだという思い込みが原因です(ご参照)。

(28)異国から訪れた旅人がもたらす風聞は、娯楽であり、情報でもあった

(27)「神功皇后と鶏」の生駒伝承(戦い忌避伝承)の真意は、長髄彦が堕落しないよう彼が神武天皇と戦う(殺戮する=命あるものを食べるため以外の目的で殺す)のを金の鵄(鳥)が止めたという生駒神話()のそれと符合しています(生駒検定<全国版>問21 生駒伝承ご参照)。「神功皇后と鶏」の生駒伝承は「戦い忌避伝承」であり、生駒神話は「戦い忌避神話」と」いえます。

(26)J-SHIS(地震ハザードステーション)PhotoJ-SHIS Map生駒周辺.pdf<→右図(クリックで拡大)>を見ると、縄文~弥生時代に島・半島であった生駒と海であった大阪湾・奈良盆地・京都盆地との対比が明確です。

(25)海のない信州になぜ「御船祭り」があるのか⇒信州の御船祭りをご参照。

(24)ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)といえるのではないか

(23)普遍的に人類の心をとらえる英雄物語の基本パターン(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」が明示)⇒ご参照1.pdfご参照2

(22)現代人にもプログラムされている神話的思考

(21)佐保姫と竜田姫、そして登美彦

(20)古代地名検索システム

(19)この記事によればこの地図の櫛羅くじら(海抜約122m)付近まで海だったとのこと(地図の櫛羅表記の南西にある神社が海抜145mの鴨山口神社)。

(18)創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf

(17)「山人」の「協同自助」的な生活に未来の可能性が見られる.pdf

(16)「国生み」は海洋民の伝承・「出雲」の「雲」に道教思想.jpg  考古学から神武を探る.pdf

(15)トビ・トミ=ナガ=蛇神

(14)保津川の曳き舟再現

(13)倭人伝の国々をアイヌ語で読んでみると、「島」「森」「半島」「沼」「川」「水草」「葭あし」「谷・窪地」「河口」「滝」「港」という語が多用されていることが分かる⇒アイヌ語で読む倭の国々(リンク)ご参照(なお、ヤマタイ国は以下のよう)   

邪馬壱(邪馬臺)  やまい
(やまたい) 
yam-i(yam-tai)
      yam=栗 i=場所 tai=森 
豊かな栗の森のある国
       

(12「地名の改悪」は戦後日本の愚行.pdf  広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン

(11)富雄川と「富の小川」(リンク)  富雄駅は42(S16)年9月~53(S28)年4月に鵄邑(とびのむら)駅.jpgと改称されていた(当時の地図)。

(10)近代戦争以前の戦い : 例外だった白兵戦 戦場での負傷、大半は飛び道具.pdf

(9)『真説・古代史』補充編「神武東侵」 : Ⅳ(イワレヒコは恐らく登美毘古に勝てなかったのだ)

(8)神武はついに長髄彦を倒せなかった

(7)神武が来た道  神武東侵  古田史学の真髄(神武東侵について・天孫降臨について、など)

(6)アマテラスの原像.pdf   創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf.pdf

(5)日本神話に見る日本文化考  左のワード版

(4)絵古事記(リンク)

(3)記紀・万葉は古代のムラ段階から継承してきた少数民族的伝統 : 自然と共生し節度ある欲望を生きる少数民族の文化は、自然破壊と欲望の開放という近代化の行きつく荒廃に対する最後の防波堤.pdf

(2)戦争は人間の本能ではない 

(1)日本服飾史資料(リンク)勾玉三部作服飾(リンク).mht

(0)参考 : 日本古語大辞典(刀江書院)  日本書紀を語る講演会ミラー  旧版地図の入手方法(リンク)

物語の作り方/物語のでき方 

(6)神話・伝承など言い伝えをもとにイマジネーションを加えることで真実・真理が見えてくる。ポスト真実(post-truth<ポスト・ツゥルース>/世論の形成において事実や真実が、感情や個人的信念への訴えかけより影響力に欠けている状況/事実や真実が重視されなくなった時代)の時代を突破する鍵は神話・伝承にある

(5)『君の名は。』大ヒットの理由⇒新海誠監督が自ら読み解く大ヒットの理由を勝手に分析してみました爆発的ヒットの秘密大ヒットした3つの理由大ヒットはなぜ“事件”なのか?中国でも大ヒット その理由は大傑作となった7の理由NAVERまとめ

(4)映画ヒットの方程式.jpg

(3)普遍的に人類の心をとらえる英雄物語の基本パターン(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」が明示)⇒ご参照1.pdfご参照2

(2)現代人にもプログラムされている神話的思考

(1)物語の組み立て方の参考例.pdf

ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)といえるのではないか

 次の引用文のようにヒトは中心からではなく周縁から生成されていく。クニも同様ではないか。

 まず世界を俯瞰ふかんし中心軸を決めてから細部を作っていく。これは・・・・・人間の思考法の常である。ものごとを設計的に考えること。ところが・・・・・生命体は本来、地方分権的なシステムであり、軸は後になってからできる。・・・・・細胞の集合体が押し合いへし合いしながら、前後左右から押し込められた襞ひだとして中心軸ができ、それが固くなって背骨になった。これはたとえばヒトが受精卵から出発し、徐々にその形を成していく発生の過程でも再現される。「設計的」の反対語は「発生的」であり、設計的思考が得意なヒトは、逆説的ながら、中心からではなく周縁から生成されていく。<人間は中心から ヒトは周縁から.pdfより引用>

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トミ(鳥見・登美・富)・富雄 

)南北2つの鳥見とみ登美とみ)は中洲なかす/ながす(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね(長髄ながすね/なかすね)彦であった。 

 なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄トビ)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。

トビ・トミ=ナガ=蛇神=化して鳥(トビ) : 以下の項目所収

  ①トミトビが変化したもの⇒トビ・トミ=ナガ=蛇神.pdfご参照。

  ②出雲では、「富」を「とび」と読む(「富村」は「とびむら」と読む)⇒ご参照

)登美彦の「登美」というのはトビすなわち大蛇神(生駒山の山ノ神であり、登美彦のトーテム)であって、それが時に「化して鳥(トビ)」となった⇒卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-ご参照。

地名としての「トミ」・富雄川<リンク>   トビ/トミ(「神に関する古語の研究」より)

折口信夫の著作 

(3)「大倭宮廷の剏業期」.pdf

(2)「日本文学啓蒙」.pdf

(1)「大嘗祭の本義」全文

参考 : 梅原猛『海人と天皇-日本とは何か-』注記(執筆:西川照子)

折口信夫の長髄彦論

「09.pdf」をダウンロード

梅原猛『海人と天皇-日本とは何か-』注記(執筆:西川照子)

))「大倭宮廷の剏業期」.pdfの「鳥見彦・長髄彦」へ

「日本文学啓蒙」の「鎮魂歌」.pdf

「大嘗祭の本義」全文

梅原猛『海人と天皇-日本とは何か-』注記(執筆:西川照子)

 長髄彦:トミビコとも言う(『古事記』)。登美、鳥見の字を当てる。妹の名は三炊屋媛、長髄姫あるいはトミヤヒメ。ニギハヤヒの妻。ニギハヤヒは、義兄・長髄彦を殺す。天磐船に乗って天降った、天孫・ニギハヤヒは、なぜ、大和の鳥見に居していたと思われる長髄彦と兄弟関係を結びながら、神武の大和入りに際して、義兄を殺すのか。ニギハヤヒは神武以前の「大和の王」である。しかし神武がニギハヤヒを征服すると、ニギハヤヒの“天皇”としての威霊を支えていた「トミビコ・トミヤヒメ」の兄妹神の力も滅びるのである。つまり長髄彦の死は、ニギハヤヒの神としての零落を示すのである。ここで、ニギハヤヒと長髄彦の関係は逆転する。長髄彦を殺したニギハヤヒは、その霊を祀らねばならぬ。故に彼は「霊部/モノノベ」(物部)となるのである。「神」は零落し、「神を祀る者」となる(折口信夫『鳥見彦・長髄彦』参照<引用者:折口信夫『鳥見彦・長髄彦』はここ.pdfに記載されています神々の系譜より引用>

日の本(ヒノモト)/日高見(ひだかみ)

(1)長髄彦の移住と共に、大和の国の呼称であった日の本や日高見(日が高々と見える良い国)も安日彦あびひこ(長髄彦の兄、または義兄弟)の故国(現在の東北)に運ばれ、やがてそこで住む人々は、自分たちの住む地域をヒノモト・日高見と呼ぶようになった。

(2)大祓詞おおはらえのことばでは、大和の国を「大倭日高見国おおやまとひだかみのくに」と呼んでいる。また、古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされている、古史古伝『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』の、「東日流つがる」とは「日の本が東に流れた」という意である。

佐保姫と竜田姫、そして登美彦<佐保姫・桜・稲作・弥生/竜田姫・紅葉・狩猟・縄文>     

◎古来、春の野山を彩る女神を佐保姫さほひめといい、秋の草木を染め抜く女神を竜田姫たったひめと呼ぶ。いまふうの言葉で言うなら春のパレット、秋のパレットである▼春は桜、秋なら紅葉。どちらが心にしみいるか、と先頃の本紙別刷り「be」でアンケートをしていた。結果は桜派が51%、紅葉派は49%。がっぷり四つと相撲に例えては、姫にそぐわないか。~以上、「天声人語」(15.12.3/朝日新聞)より~

10西之京丘陵と佐保・佐紀丘陵~笠置山地の間を流れるのが佐保川で、この川の流域の山の神霊が佐保姫。生駒山地と矢田丘陵の間を流れるのが竜田川で、この川の流域の山の神霊が竜田姫。両川を取り持つように西之京丘陵と矢田丘陵の間を流れるのが富雄とみお(登美の小とみのお川とも呼べる)で、この川の流域を本拠地とするのが「登美彦長髄彦」で、彼は2人の姫にはさまれています。 <右地図ご参照(クリックで拡大)

◎佐保姫・桜・稲作・弥生/竜田姫・紅葉・狩猟・縄文

 花見には稲作農耕の豊穣をもたらす桜の霊力への信仰があるように、秋の狩猟開始期にあたる紅葉狩り(もみじがり)には山や狩猟文化との深い関わりが想像される<朝日新聞(12.11.22)>

   ※弥生時代、人々は桜の花が咲き始めると水田の準備に取りかかり、籾もみを蒔いた。桜の「サ」は、早苗(サナエ)、早乙女(サオトメ)、五月(サツキ)の「サ」と同じく山の女神を意味する言葉であり、「クラ」は神霊が依り鎮まる「座」を意味しているといわれている。つまり桜は、山から下りてくる農耕の神が田に入る前に宿る神聖な樹なのである。稲作農耕をなりわいとする弥生人にとって最も大切な稲作の開始時期を、桜が教えてくれていたのである。

   ○09_2華やかな一色に染まり、盛りとととに風に吹かれてさっと散る。その散り際がよしと愛でられるよりも、寒空に散るもみぢを好む人は多い(→右に掲載の「折々のことば」<クリックで拡大>より)。

◎この記事は、生駒検定<問20>解説欄に記載されています。

 

縄文(縄文時代・縄文人)と弥生(弥生時代・弥生人)  

【1】縄文

(13)縄文中期土器の特色の中で、常に注目の的となるものは生々しく活力にあふれた蛇の造型吉野裕子「蛇 日本の蛇信仰」.pdfご参照)

(12)縄文社会(狩猟民の社会)は対称性(非野蛮=非「文明」/「文化」)の社会であった(「熊から王へ」.pdご参照)。

(11)「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」( ユネスコ世界遺産センター 世界遺産暫定一覧表 記載内容(和訳))

(10)縄文人の世界観(大島直行)

(9)「NHKスペシャル アジア巨大遺跡・第4集 奇跡の大集落~1万年 持続の秘密~

(8)日本列島先住の狩猟採集民「山人やまびと」の「協同自助」的な生活に未来の可能性が見られる.pdf

(7)アイヌ学入門.pdf←アイヌ学の名著

(6)縄文人の植物利用.pdf

(5)天台本覚論とアイヌ思想.pdf

(4)琉球王国と縄文文化.pdf

(3)オセドウ貝塚 : 安日彦・長髄彦の遺骸を再葬した墓地とされる。

(2)アイヌ民族と沖縄の人たちは似た遺伝的特徴を持つ.pdf

(1)縄文時代の様子

  ⑧狩猟採集時代のヒトの運動量はサッカー選手や長距離ランナーに匹敵していた(ご参照)。

  ⑦縄文カレンダーミラー

  ⑥小林達雄『縄文人の世界』「縄文の思考』 

  ⑤縄文像の現在.pdf

  ④遥かなる縄文の記憶~科学の目で見た縄文~

  ③DNAが示す作物の道.pdf

  ②縄文クッキー材料かたちをつくる焼く

  ①「狩猟採集民は放浪の民であり、農耕民は定住者」。そんな固定観念に対し、「事実は正反対である」・・・・・。限られた土地に身を託して子孫を増やし、遅かれ早かれ移動の必要に迫られる農耕民こそ流浪の定めを負う。逆に、獲物の棲息範囲という特定の地域に生活基盤を置く狩猟採集民はあくまでも定住者だ・・・・・。~書評『エデンの彼方(ヒュー・ブロディ著/池央耿訳)』<日経新聞(04.1.18)>より~

【2】縄文・弥生

(12)縄文から弥生への交代期のショックが伝承の発生をうながしたご参照.pdf)。

(11)ATLウイルス・キャリア 日本人のルーツを知る手がかりになるか?

(10)縄文の文化と弥生の文化とのもっとも本質的な違い(国家の成立に伴い、問題の解決に暴力を用いる行動理念が社会の軸になっていった。)

(9)縄文~弥生時代の各地域の人口密度.jpg

(8)温暖化→平野(水稲耕作適地)出現→弥生時代開始<安斎正人「縄文人の生活世界」.pdfドご参照>

(7)縄文時代から弥生時代への移行を背景とする神話が生駒の神話ではないか。

(6)縄文系と弥生系.pdf  縄文と弥生.jpg

(5)縄文・弥生 文化の出会い.pdf  縄文人と弥生人の出会い.pdf

(4)縄文人と弥生人は平和的に共存.jpg  縄文人(在来人・狩猟採集生活者)と弥生人(渡来人・農耕者)は共存し、縄文から弥生へはゆっくりと平和的に移行した.pdf  弥生時代には縄文的な焼き畑の稲作も続いていた.pdf」  縄文・弥生 交錯する境界.pdf  縄文農耕論.pdf  考古学 覆される通説.pdf  新たな弥生像.pdf    

(3)人類の知性は狩猟採集時代の終わりとともに低下し始めた.pdf

(2) 戦争は人間の本能ではない

(1)佐保姫と竜田姫、そして登美彦<佐保姫・桜・稲作・弥生/竜田姫・紅葉・狩猟・縄文>

【3】弥生

(2)「国生み」は海洋民の伝承・「出雲」の「雲」に道教思想.jpg

(1)弥生人は海人的性格も備えていた。.pdf

クサカ(日下・草香・孔舎衙) 摂河泉(摂津・河内・和泉の三国)の大眺望

       クサカの位置は、河内湖かわちこ(深野池)・河内潟・河内湾をご参照。

(5)司馬遼太郎さんは、その著「城塞」.pdfの中で、生駒神話の舞台の1つである孔舎衙坂には現在は阪奈道路が通っており、その途中で眼下にひらける摂河泉(摂津・河内・和泉の三国)の大眺望が「日本のどこよりもすき」と記していますが、そのビューポイントは、この阪奈道路の地図.jpgに「摂河泉の眺望」と印字したところ(その写真.jpg)でしょう<そこで撮影した摂河泉の大眺望.jpg>。

(4)アイヌ語(エミシ語)で「クサ」は「船を着ける」、「カ」は「岸」の意、との説あり。

(3)神武東征伝承に記載されている古戦場の「孔舎衛坂くさえのさか」の衛は衙の誤字といわれている。従って「孔舎衙坂くさかのさか」が正しく、駅名には孔舎衛坂駅はあるが、実際にクサエの坂という地名は存在しない。<進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像」.pdfご参照>

   1211近畿日本鉄道も混乱していた⇒「孔舎坂」表記の切符<→(このページより引用)>と「孔舎坂」表記の切符<→(このページより引用)>の2つを発行していた(読みは、両方とも「くさえざか」)。

(2) 「日下」地名について<リンク>

(1)以下、谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用

 『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。・・・・・「日の下(ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるようになった。「日の下(ヒノモ上)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。

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古代日本における生駒山の不思議と謎   

(1)伊勢神宮の20年に1度の遷宮と出雲大社の60年ぶりの遷宮が重なった2013(H25)年にはこの2つの位置関係が注目され、この2つを結ぶ線は平城京の真上を通るという不思議が指摘されています(解説記事.pdf)。同様の古代日本における不思議は、以下のように生駒山についても存在します。

<1>「大和岩雄『日本の神々3』白水社」の中で指摘されているもの

 ①Kentei2ikomayama生駒山の最高峰地図.jpgから真西に難波宮地図.jpg解説)がある(いずれも北緯34度40分)。<右地図ご参照(クリックで拡大)

     奈良・大阪 太陽の道

 ②磐船神社哮ヶ峯たけるがみね=生駒山の北端」にある / 太陽神の性格を持つ饒速日命にぎはやひのみことを祀る)は難波宮大極殿跡からみて、ちょうど夏至の日の出の位置にあたる。

 ③日本最古の神宮である石上神宮いそのかみじんぐう饒速日命の子である宇摩志麻治命うましまじのみことなどを祀る)からみると、生駒山の山頂に、夏至の夕日が落ちる。

<2>「東アジアの古代文化」(第78号 '94年冬)大和書房で指摘されているもの

 ○大隅宮(応神天皇の宮)からは、生駒山が冬至の日の出線上にある。

<*>これらの不思議は、饒速日命と太陽信仰のかかわりに関係があるのではといわれており、生駒山は古代日本において特別な位置を占めていたようです。

Photo (2)古事記(記)は天皇の権力の正統性の確立を、日本書紀(紀)は皇室の歴史上での位置づけをそれぞれ目的として書かれたともいわれています。このような「記紀」がなぜ皇軍の栄光を貶おとしめるような生駒山(孔舎衛坂くさえのさか)の戦い(皇軍-即位して神武天皇となる磐余彦尊いわれひこのみことの軍-が長髄彦ながすねひこ軍に敗北)<右図:孔舎衛坂の戦場位置→(クリックで拡大>を記載せざるを得なかったのかも生駒山をめぐる謎となっています。また、「記紀」では、皇軍が生駒山の戦いで敗北したのは、太陽が沈む西から太陽が昇る東にいる敵(長髄彦、その義弟は饒速日命)に立ち向ったためとしています。これも、生駒山と太陽信仰のかかわりを示唆しています。

「生駒」の語源・由来・いわれ

生駒検定<全国版>問17の問題文と解答・解説ご参照

国譲り神話と長髄彦神話

国譲り神話と長髄彦神話.pdf

各地の神社伝承・民間伝承      

(2磐船神社の御由緒<抜粋>.pdf

(1石切劍箭いしきりつるぎや神社の由緒:饒速日・長脛彦が治める鳥見(登美)の里(河内と大和の里一帯)から近畿地方の稲作文化が始まったとしています。

トビ・トミ=ナガ=蛇神=化して鳥(トビ)

(1)トビ・トミ=ナガ=蛇神=化して鳥(トビ).pdf  

(2)資料

 吉野裕子「蛇 日本の蛇信仰」.pdf

 ⑨ナーガ(Wikipedia)

 ⑧蛇口の語源・由来

 ⑦「蛇」は古来より崇められてきた(月・水・蛇は不死の象徴/縄文土器の縄は蛇のこと)⇒現代人にもプログラムされている神話的思考

 ⑥アジア神仙思想が生んだ鳥と蛇の合体神

 ⑤神話の鳥と蛇を追って八部衆に、龍(Nagaナーガ、りゅう)と迦楼羅(Garudaガルーダ、かるら)がいる。

 ④アジアの遺跡の「蛇神」と「聖鳥」.pdf

 ③くれふし山の蛇「常陸国風土記 -那賀の郡」

 ②奈良市の中山なかやま町の旧字外山そとやまには八幡はちまん神社(この地図.pdfの右下の外山に、神社名の表記はないが神社マークがあるのがこの神社)があるが、中山の中は「ナカ」と表記できる。外山は昔は「トベ」と読んでいたのかもしれない。八幡は「ヤワタ」とも読める。「ナカ」「トベ」「ヤワタ」はいずれも「蛇神」をさす呼称で、長髄彦のトーテム(守り神)であった金色の鵄は霊蛇神であった⇒(1)ご参照

  この中山町の八幡神社は北隣の押熊おしくま町の八幡神社に勧請され、押熊の八幡神社は忍熊おしくま王子を祀っているが、一説では、大和を攻めて即位したのは神武ではなく河内王朝の応神で、長髄彦は忍熊王だったとのことである<歴史倶楽部・ANNEX「饒速日尊墳墓を探して」(ご注意:クリックするとサウンドが流れます)をご参照>。

 ①出雲では、「富」を「とび」と読む(「富村」は「とびむら」と読む)⇒ご参照

神武東征とは  

(1)記紀には大国主の物語として記されていないが、実際は、六代目大国主の長髄彦と天津族(神武=実際は崇神)との戦いであった(「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdfの第三章・第一三章ご参照)。

)記紀等に記された神武東征とは?(まとめ)<リンク>

國覓クニマ(住むのに適したよい土地を探し求めること)ではなかったか⇒折口信夫「大倭宮廷の剏業期」.pdfの「語部」の項ご参照

谷川健一「列島縦断地名逍遥」より       

       (文中の太字は引用者による)

 『魏志』東夷伝倭人の条の冒頭は「倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島(谷川氏は山島に付点をしている)に依りて国邑をなす」となっている。「山島」という語は、山が海ぎわまで迫っていて平地に乏しい倭国の地形をよく捉えている。日本には大陸国家のように大平原の文明は育たなかった。平原の文明に特徴的なのは人間の力による計画性である。しかし、日本には海山のあいだに自然発生した小集落が村落を形成し、やがて都邑に発達したものがほとんどである。山民、海民のいとなみかから生まれた地名が太古から今日までつづいてきた所以である。

 「山島に依りて」という言葉にふさわしく先史時代から海に漁すなどりし、山に獲物を追った海民、山民の後裔である海部あまべ、山部やまべ・・・・・。

殺戮

 戮りくにははずかしめという意があり、殺戮とは、命の尊厳を踏みにじる殺し方をいう。つまり、「食べるため以外のために殺す」ことすべてをいう。

(神武東征神話の)金の鵄(金鵄)  

<1>(神武東征神話の)金の鵄とび(金鵄きんし)について、以下、生駒市誌より引用

 金色の鵄は、本来は長髄彦(また登美彦)の側のトーテム(神)ではなかったか。登美彦の登美(トミ・トビ)と、鵄(トビ)と通ずるようである。そしてこれは生駒の「山ノ神」であり、霊蛇神であったものであろう。さきの『宇佐宮託宣集』に八幡神の発現の記事としてみられた「霊蛇、化鳥」の図式すなわち「金色の蛇(トビ)→金色の鳥(トビ)」が、まさにその原型をとどめる形でここに神武東征に明示されたものではないかと思われる。

 さらに蛇神の呼称は数多くあり、トビ(トベ)・ナガ(ナガラ)のほかヤアタ(ヤワタ)・ミワ(ミイ)などが、後世になって混在したことも考えられる。長髄彦の名も、スネが長いというのが本来ではなくて、長=ナガ=蛇神の呼称であり、したがって古事記の登美彦(トミ・トビ)の名のほうか原型であったとおもわれる。妹をトミヤ姫とするのかその一証である。それが、トビもナガも、ともに蛇神の呼称であったゆえに混淆したのではなかろうか。それはとも角として、「金の鵄」にかかる伝承の真意は「霊蛇、化鳥(トビ)」という原型をのこしたものとして解されるべきであろうとおもう。

<2>(神武東征神話の)金の鵄とび(金鵄きんし)について

 ①生駒市誌より引用⇒トビ・トミ=ナガ=蛇神=化して鳥(トビ).pdf

 ②富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-」.pdfもご参照

<3>長髄彦(ナガスネヒコ)守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?⇒答え

<4>ご参照:蛇神(じゃしん・へびがみ)

葦原中国(あしはらのなかつくに)    

(1)記紀神話では、高天原(天津神が住んでいるとされた場所)と黄泉よみの国(地下の死者の世界)の間にある人間が住む世界。「つ」は現代語の「の」に相当する。葦あしの群生する地上の世界をさしてこう名づけられた。(高天原や黄泉の国については日本神話のことばご参照

(2)葦原中国を代表する舞台(葦原中国の中心部)はどこか。

 ①従来は、出雲であるとされてきた。

 ②近年、有力となってきた説

 古代の海が退きはじめて海面が下がった跡の干潟や湿地一面に葦あしが生い茂っていた日本列島の中央に位置し、水路を通じて日本国中のみならず世界にも繋がっていて、もっとも交通や物流の便の良い地するところが葦原中国を代表する舞台(葦原中国の中心部)だとすれば、それは、大阪平野・奈良盆地・京都盆地一帯、または、それより狭く奈良盆地がそうであるといえるでしょう。  葦あし/ヨシ原の水路は現在でも、物を運んだり、水田に行くときに利用されている ⇒近江八幡の水郷(葦原)の写真.jpgHP「光のカケラ」より

国生み神話 豊秋津洲(とよあきつしま)

 生駒検定<全国版>問15の問題文と解答・解説ご参照

弓矢 それは古代人にとって特別の意味を持っていた。が・・・。

弓矢の発明というのは、人類の歴史を、弓矢前と後に分かつ大きな事件です。その場合、われわれ現代人のいい方だったら、あれは人間が発明した、と簡単にいいますよね。しかし古代人はそうはいわなかったと思うんです。どう思ったかというと、神様が弓矢を与え給うたと。そりゃあんなにしなう竹なんていう存在、人間が作ったものじゃないですから。なんか知らんが人間がこの地上に生まれてみたら竹があった、っていうようなもんでしょう。そういう意味じゃ、まさに神から賜わったものであると考えたでしょう。そして弓矢によって、極端ないい方をすれば、いままでの悲しみの時代が喜びの時代に変わった。これは神様が弓矢をわれわれに給うたおかげである。これが古代人の考え方だと思うんです。<古田武彦『古代通史』より>

)弓矢は、縄文人にとって(1)のように特別の意味をもっていた。つまり、「狩猟道具=命をいただくためのもの」として神から賜ったものであった。しかし弓矢は、「国家」(=統治機関=権力=抑圧機構)Photoというものが成立し始める時代(弥生時代)の到来とともに「武器=命を奪うためのもの」に変質してしまった。それにより、殺戮が始まった。縄文時代の石鏃せきぞくが弥生時代に入って鉄製の鏃やじりに取って替わられたことがそれを示している(右図<クリックで拡大>ご参照)。右図は「NHK 高校講座 日本史 弥生文化と小国家の形成(15.5.1)」(動画文字と画像)より。

 縄文 弓矢は狩猟に必要→石鏃作成

 弥生 国家の成立→弓矢を戦いのための武器に悪転用→鉄製の鏃作成

)参考

 ○弓矢の発明には250万年の工夫の積み重ねが必要だった。

「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)

(1)日本列島には、先住民(縄文人)が住んでいた。

   ①彼らの生業は、主が狩猟・採集・漁撈、従が簡易農耕(陸稲など)。

   ②奈良湖ならこ周辺地の指導者はナガスネヒコと呼ばれていた。これは、地形詞(地形を示す名詞)であり、東北にもナガスネヒコと呼ばれた先住民(縄文人)の指導者がいた。奈良湖周辺地の指導者たるナガスネヒコが、そこでの「国譲り」ののち、東北(東日流つがる)に来て先住民(縄文人)の指導者となったともいわれている(参考)。なお、阿弖流為アテルイ東北のナガスネヒコの子孫である

   ③弓矢は彼らにとって特別の意味を持つ<留意点の(6)ご参照>。

 

(2)前期渡来人が日本列島に

   ①彼らの主な生業は農耕(水田=水稲耕作)

   ②出雲に渡来したものの長は、記紀神話ではスサノオ-大国主

   ③出雲に渡来したものが大和に進出したことを、記紀神話ではニギハヤヒの降臨という。彼らは、日本海・近淡海ちかつあわうみ(現琵琶湖)方面から南進してきたようだ。だから、記紀神話ではニギハヤヒは、当時大阪湾に突き出た半島だった生駒山.jpgの北端(哮ヶ峯たけるがみね)に降臨したとなっている。

 

(3)先住民(縄文人)と前期渡来人

   ①両者は協力・協同、住み分け。

   ②先住民(縄文人)と渡来人の結合が進行すると、弥生人が形成されていった(ただし、日本列島の南北両端ではその結合・形成は行なわれなかった/または、弥生人との結合を避けた先住民は日本列島の南北端に移動した)。先住民(縄文人)と前期渡来人の結合を示すものが、記紀神話では、ナガスネヒコの妹(娘という説もあり)とニギハヤヒの婚姻。

   ③出雲に渡来したものは、播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも耕作地を拡大。出雲を本貫ほんがん(出身地)とする彼らを出雲勢力(出雲民族・出雲族)という。この出雲勢力が先住民(縄文人)と協力・協同、住み分けて形成した国を「出雲の国」という。

   ④渡来人が水田(水稲)耕作を拡める過程で里山が形成されていった。 (参考)里山の形成とは、原生林(1次自然=照葉樹林)を切り開き(破壊し)て田畑をつくり、破壊された自然が2次自然=落葉広葉樹林として復活・再生することといえる(これを描いたのがもののけ)。

 

(4)後期渡来人が日本列島に

   ①彼らの主な生業は前期渡来人と同様(本格的農耕)→前期渡来人との土地・水争い→先住者(先住民・前期渡来人)との協力・協同、住み分けはできず。

   ②日向に渡来したものの長はニニギ-イワレヒコ

   ③後期渡来を神話では天孫降臨という(ニギハヤヒの降臨を第1次天孫降臨、ニニギの降臨を第2次天孫降臨という場合もある)。

   ④日向に渡来したものは、薩摩にも耕作地を拡大。彼らを日向勢力(日向民族・日向族)、または天孫族、天津(天つ)族、天津(天つ)民族という。津(つ)は「の」の意。

   ⑤記紀神話では、彼らの神を天津神(天つ神)といい、先住者(先住民・前期渡来人)の神を国津神(国つ神)という。

 

(5)(2)以後、日本列島各地に部族連合の国が形成されていった。

    中国の史料では、そのうちのいくつかに名を与えている。邪馬台国・狗奴国など。

 

(6)各地に形成された国々の関係を次のように捉えるのが最も妥当的である。つまり、次のように捉えると、記紀神話、各地の神社伝承・民間伝承、郷土史料、海外の文献、そして各地の古代の地形・地名、遺跡・遺物と照らし合わせても、最も矛盾なく合理的に説明できる。

   ①「出雲の国」は日本列島の中央部を治めていた。

      日本列島の中央部とは、古代に海であった奈良盆地、それと繋がる河内(大阪)湾および古代に海であった京都盆地、それと繋がる琵琶湖(塩津海道により日本海と結ばれていた)<古代日本列島中央部の概念図.gif>。この地域は、北方日本海地域・西方瀬戸内海地域・南方太平洋地域・東方地域の結節点にあたり、ひと・モノ・情報の交流・流通の中心であった。

   
   ②辺境の地にあった日向勢力(天孫族)の国は、北九州の国(ヤマタイ国)を支配下に入れたのち、瀬戸内海を船団で東進し、ナガスネヒコとニギハヤヒが指導者であった日本列島の中央部を中枢としていた「出雲の国」に迫って「国譲り」させた(これが、記紀でいう「神武東征」)。

      (参考)辺境の地にあった勢力が中央部に進出したり中央部を統治する例.pdfは多い。

     
   ③天孫族は、中国に朝貢していたヤマタイ国を滅ぼしたことが不利益(中国より圧迫されるなど)にならないようにするため、それを隠すため、自らの国をヤマト国と称し、自らが作成した記紀にヤマタイ国のことは一切記さなかった。また、かつて出雲勢力が日本列島中央部を治めていたことを隠すため、記紀では出雲神話を「地理上の出雲」での話として描いている。

ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?

<答>縄文人(ナガスネヒコ)の本然の性が失われるのを阻止するためである。

<解説>縄文人の本然の性とは何か。

 長髄彦(ナガスネヒコ)は縄文人の指導者である。

 縄文人は、狩猟採集民族であり無駄な殺し(殺戮)はしない。狩猟採集民族は、自ら食料をつくることはせず自然(神)が授けたものを受け取るのみであり、食料は他者=自然(神)のものであり、自分のものではないからである(自然から恵まれた食糧をアイヌ語で「ハル」という)。そもそも、無駄に殺すことは、自らの生命を維持するに不可欠な食料を無駄にすることである。また、最小限の殺しにより授かった生命を食べることにより、その生命を自らの心身に取り入れる。そのことで、殺されたものは生き続けるのである。<殺すのは自らと他者を生かすため=(自らの心身に取り入れることのない生命は)殺さない・殺せない>これが狩猟採集民族=縄文人の本然の性である。縄文人にとって食べるため以外のために殺すことは悪というより、不可能なものである。この本然の性が失われようとしたとき、どうなるか。それが、この物語の中で示されたのである。守り神は本然の性が失われないように見守る神であり、<本然の性が失われる=そのものがそのものでなくなる>危機のときに立ち現れる。

 神=自然は、縄文人が本然の性(「自然に=生まれながらに」持っている性質)を失わないことを約束に、食を獲得し命を維持するための道具として弓矢を縄文人に与えた。これにより縄文人は喜びの時代を手に入れた(留意点の(6)<弓矢は古代人にとって特別の意味を持つ>ご参照>。

 従って、ナガスネヒコが弓矢(弓矢は古代人にとって特別の意味を持つ)を用いて戦う(食べるため以外のために殺す)ことは、縄文人の「本然の性を失わさせる」(=そのものがそのものでなくならせる=存在価値のないものに転落させる)行為である。そのため、ナガスネヒコ率いる縄文人を守る(本然の性を失わさせない=そのものがそのものでなくならせない=存在価値のないものに転落させない)ために守り神(「神=自然」の化身)たる「金の鵄」がナガスネヒコ軍の戦闘を止めたのである。

 補足:遊動的な日本列島先住の狩猟採集民「山人やまびと」(縄文人)は、土地の共同所有や生産の協同自助の生活をしていた(殺戮を惹起する契機を孕む闘争・抗争が不要な生き方をしていた)。かかる生き方に、現代の抑圧の世界構造(「資本=ネーション=国家」)に対抗し、それを乗り越える未来の可能性を見出すことができるとの見方(「山人」に見る未来の可能性.pdfご参照)は卓見である。

ご参照:国譲り神話と長髄彦神話.pdf

*。これに対抗し、乗り越える未来の可能性を

この物語の枠組み(パラダイム)

 下記のような資料を踏まえた上で、これをこの物語の枠組み(パラダイム)とします。

(1)原住民族(長髄彦)等を支配した銅器文明の支持者(饒速日命)もやがて、鉄器によって更に強く武装した民族(天孫民族)の征服にあって消えて行った。生駒市誌より>

(2)銅鐸祭祀のおこなわれた地方は物部王国と称すべきものがあり、蝦夷と協同した統治形態があった。谷川健一「白鳥伝説」 より>

(3)おそらく長髄彦は、縄文土着の民であり、饒連日は弥生渡来の民であったにちがいない。おそらく弥生中期ごろまで、このような土着縄文民と渡来弥生民との協力からなる権力が、この地を治めていたのであろう。しかしこの権力は、南九州からやってきたはなはだ武力の優れた弥生民によって征服された。梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」より>

(4)く三世紀末か四世紀の初めごろに、九州北部から新しい朝鮮からの渡来集団が畿内に強引に入ってきた。それはまさに割り込みであった。この北部九州からの新来集団は、それまでの「北九州国家」ではない。むしろ従来の「北九州国家」はこの半島からの新鋭集団に包含され、「女王国」の性格も新来者の性格に同化されたであろう。おそらく「倭人伝」にみえる女王国の強敵「狗奴国」もその新勢力の前に敗退したにちがいない。そうしてこれが九州北部に一世紀ぐらいいて勢力を増大させ、五世紀末ごろに畿内にむかって東進を問始したのであろう。これが天皇家の祖先勢力であり、いわゆる「天孫民族」と呼ばれるものであろう。その部族の小首長たちが『記・紀』でいう「天つ神」である。これに対して先住の在地部族の首長たちはすべて「国つ神」となる。<松本清張「古代探求」.pdfより>

(5-1)近畿の先住者(銅鐸圏の住民)に対しては“敬意”ある表現をなした「侵入者」だった。しかし、その近畿の地ですでに“偉大な成長”をとげるにつれ、東北地方周辺の勇者に対し、「蝦夷」と呼び、彼等に対し、さまざまの「差別用語」を累積し尽くすまでに堕落したのであった。古田武彦「真実の東北王朝」より>

(5-2)第一。日本列島内の関東及び西日本の人々、つまり一般庶民は、この東北地方周辺の人々を「えみし」と呼び、敬意を隠さなかった。これは、旧石器・縄文以来の「先進文明の地帯」がこの地帯であったから、当然であった。 第二。ところが、弥生期以降、中国大陸・朝鮮半島から金属器文明が流入するに及んで、情勢は一変した。先ず、九州王朝、つづいて近畿天皇家(分王朝)が成立し、そこを新しき「文明中枢」として、かつての「先進文明地帯」に対する。差別主義の病”が発生した。中国の“発明”した文字(「蝦夷」)と共に、差別思想をもまた、浅はかに「輸入」し、無法に「模倣」することとなった。これが、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』等に“満ちあふれた”「蝦夷」字使用の歴史的意義なのである。古田武彦「真実の東北王朝」より>

(6)水田稲作や金属器、大陸系磨製石器や大型壷、農耕祭祀や環濠集落などは、列島で自生したものではなく、南部朝鮮から持ちこまれたものであった。これら渡来してきた要素と、甕や打製石器、あるいは竪穴住居や木器や漆器など、縄紋時代から引き継がれたたくさんの要素とが組み合わさって弥生文化が形成される。もちろん、二つの文化はそれぞれの担い手がいたのであって、いまそれを縄紋人と渡来人・外来人とよぶとすれば、北部九州とその周縁地域では、玄界灘を越えて渡来してきた人びとの数や回数とその時期によって、弥生文化の質や方向性が決定されるだろうし、瀬戸内や大阪湾沿岸の地域では、外来の人びとの故郷や持ちこまれた文化の程度によって、どのような弥生文化が誕生するかが決まってくる。もっと東方の地域では、外来の人びとが移住してきた段階、新しい文化を構成する〈ものや情報〉だけが伝わってきた段階など、いろいろなケースが考えられよう。金関恕+大阪府弥生文化博物館 「弥生文化の成立」より>

(7)<より>

留意点   

(8)神武東征神話は、狗奴国東遷(狗奴国東遷説.pdfご参照)の歴史的記憶の反映ではないか。

(7)人名・地名は、必ずしも特定の1人・1箇所を指すものではない。

<2>語部かたりべの物語に現れる神名・人名は、真の名を伝えることが少く、多くはその地の主ぬし或は有力者なるがために、地名に直に性別を表す語尾(ヒコ・ヒメ)をつけることが多い(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」.pdfの「鳥見彦・長髄彦」の項をご参照)。

<1>例

  ①長髄彦」とは 「長洲根(ながすね)彦」 という、やはり地形詞(引用者注:地形を示す名詞)なのである。あるいは、河内湾の湾入部(大阪城から南方まで、突出した 「長洲」になっていた。)や筑紫の志賀島のつけ根のところ(現在、つながっている)など、「長洲根」と称さるべき地形は、決して少なしとしないのである。その地の 勇者たちをしめす名称、それが「ながすねひこ」なのである。従って各地に生じうる名だ。<古田武彦「真実の東北王朝」> →長髄彦は、大和・河内にも日高見にもいた。筑紫にもいたかもしれない。

  ②鳥見という地名は各地にある。大和ではこの地のほか磯城郡外山や宇陀郡中富などがあり、櫻井町・藤原町附近である。神武天皇傅承には鳥見の地は鳥見山中の霊畤と鵄邑との二つが見える。・・・・・鳥見地方は古くはかなり廣地域であったことがしれる。・・・・・鵄邑は北倭・富雄地方、鳥見山中の霊畤の設けられた鳥見山は櫻井町外山としたのは、現在断案し得る最も妥当なものといわねばならない。<以上、富雄町史より> 大和盆地の西北部と東南部に二つのトミと呼ばれる地域があったことはたしかである(引用者:この地図.jpgご参照)。私の考えでは、大和盆地の西北部にいたナガスネヒコが大和盆地の東南部でも勢力をつよめていって、神武の軍を防いだのだろうと思う。<以上、谷川健一「白鳥伝説」より> →長髄彦・ニギハヤヒの本拠地は白谷(奈良湖北西)、長髄彦とイワレヒコの決戦地は外山付近(奈良湖南東)、金鵄は白谷付近より飛び立ち奈良湖上空を飛翔して決戦地に急行した。

  ③そこで、この系譜と大国主の別名を対応させてみると
一代目大国主は ヤシマジヌミノカミ…………………タケミナカタA
二代目大国主は フワノモジクヌスヌノカミ…………オオナムチノカミ
三代目大国主は フカブチノミズヤレハナノカミ……アシハラシコオノカミ
四代目大国士は オミズヌノカミ………………………ウツシクニタマノカミ
五代目大国主は アメノフユキヌノカミ………………ヤチホコノカミ
六代目大国主は オオクニヌシノカミ…………………ナガスネビコ
となります。これを念頭に置いて『古事記』の大国主の物語を読み直してみると、出雲神話はスサノオからいきなり六世の孫の話に飛んでしまっているのではなく、順番を追って書いてあることが分かりました。<嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf

  ④邪馬台国の女王・卑弥呼を特定の個人にあてはめるには無理がある。卑弥呼は北九州にも、大和にも、またその他の地方にもいていいのである。卑弥呼は、特定の個人を指す固有名詞ではなく、「ヒメミコ」を意味する普通名詞なのである。ヒメは女性、ミコは巫女である。<樋口清之「逆・日本史 3」.pdf

(6)弓矢は古代人にとって特別の意味を持つ

(5)①・②→縄文人は「強いが戦わない」。それゆえ、敵であるイワレヒコ軍でさえも「敬意を表せざるを得ない」人々である。『日本書紀』はこのように言っているかのようにとれる。

 ①『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。  詩烏(えみしを)毘利(ひだり)毛毛那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず) 「ひだり」は“一人。「ももなひと」は”百(もの)な人。岩波『日本古典文学大系』本による。二〇五ページ)  この「愛詩」は、神武の軍の相手方、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、「夷(えみし)を」という“文字”を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の“天子中心の夷蛮称呼”の文字だ。・・・・・第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという“差別文字”を当てていない。「愛詩」という、まことに麗わしい文字が用いられている。これは、決して″軽蔑語″ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「」は“水の盛なさま”。彼等は“尊敬”されているのだ。  さらに、内容も、そうだ。“この「えみし」は、一人で百人に当るほど強い”といって、その武勇をはめたたえているのだ。もちろん、その結論は、“そんなに強い、といわれる彼等さえ、わたしたち(神武の軍)には、全く抵抗さえしなかったという、自己賛美、いわゆる“手前味噌”に終わっている。しかし、その前提をなす「えみし」観、それは、以上のようだ。「軽蔑」でなく、「敬意」なのである。――これは、何か。<古田武彦「真実の東北王朝」より>

 ②『日本書紀』の神武東征の条をみると、天皇の軍隊の中核をなしていたのは大伴氏と、それにひきいられた久米部であったことが分かる。・・・・・『古事記』には、久米部がナガスネヒコを撃破したときの歌が、幾首か載っている。その一つに、   神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石(おひし)に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這(は)ひ廻(もとほり)り 撃ちてし止まむ   という歌がある。『古事記伝』をはじめとして、従来の解釈は、ナガスネヒコの軍隊を隙間もなくとりかこむ形容に、シタダミという貝が大きい石の上をはいまわる格好をもち出しかのだ、としている。すなわちシタダミは天皇の軍のたとえとしてもち出したものと理解されている。しかし実際はそうではなく、シタダミは逃げ足の早い敵の形容と解すべきである。私は先年、能登半島に旅行したとき、七尾湾の海岸で岩をはっているシタダミをとっている老人に出会った。その老人から、シタダミは、天候に敏感で、嵐などの悪天候になりそうなときは、それを予知していちはやく岩の裏面にかくれるという話を聞いた。シタダミのこうした習性を逃げ足の早い敵になぞらえたものであることがそのとき分った。・・・・・その久米歌の一つに、   夷(えみし)を 一人(ひだり) 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たたかい)もぜず   という歌かある。この歌についてはさきにも触れたが、夷は『日本書紀』の原文では、「愛瀰詩(えみし)」となっている。この歌の意は、蝦夷は一人で百人に当たることのできる強い兵士だと人は言うけれども、自分たち来目(くめ)部に対してはなんの抵抗もしない、というのである。<谷川健一「白鳥伝説」より

(4)①・②・③→長髄彦・ニギハヤヒの本拠地は白谷(奈良湖北西)、長髄彦とイワレヒコの決戦地は外山付近(奈良湖南東)、金鵄は白谷付近より飛び立ち奈良湖上空を飛翔して決戦地に急行した。

 ③長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところと推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし/(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。<生駒市誌より>

 ②鳥見地方は古くはかなり廣地域であったことがしれる。かくてこれらを綜合考証して、昭和十五年に神武天皇聖蹟調査委員会が、邑は北倭・富雄地方、鳥見山中の霊畤の設けられた鳥見山は櫻井町外山としたのは、現在断案し得る最も妥当なものといわねばならない。<富雄町史より>

 ①大和盆地の西北部と東南部に二つのトミと呼ばれる地域があったことはたしかである。私の考えでは、大和盆地の西北部にいたナガスネヒコが大和盆地の東南部でも勢力をつよめていって、神武の軍を防いだのだろうと思う。<谷川健一「白鳥伝説」より

(3)スサノオは出雲に降臨(神話用語の「降臨」は歴史用語では「渡来」という)し、各地に稲作技術を広めた。その子、ニギハヤヒも父に協力して大和に降臨し、稲作技術を広めた。彼らを1次降臨勢力(出雲勢力)という。その後、アマテラスニニギを日向に降臨させた。そのひ孫がイワレヒコである。彼らを第2次降臨勢力(日向勢力)という。この第2次降臨勢力の子孫は、第1次降臨勢力の業績を隠すために、「記紀」の中で、スサノオは稲作の敵対勢力であるかのように描いた。しかし、稲作技術を広めたスサノオとニギハヤヒへの人々の感謝の心を消し去ることは出来ず、彼らは全国各地の神社で稲作技術を伝来した福の神あるいは村の鎮守として祭られ、信仰を集めている。

(2)「長髄彦」とは 「長洲根(ながすね)彦」 という、やはり地形詞(引用者注:地形を示す名詞)なのである。あるいは、河内湾の湾入部(大阪城から南方まで、突出した 「長洲」になっていた。)や筑紫の志賀島のつけ根のところ(現在、つながっている)など、 「長洲根」と称さるべき地形は、決して少なしとしないのである。その地の 勇者たちをしめす名称、それが「ながすねひこ」なのである。従って各地に生じうる名だ。<古田武彦「真実の東北王朝」より

(1)弥生時代、陸地を歩くには、尾根筋か、けものみちしかなかった。見通しは利かず、どんな危険が待ち伏せしているかも分からなかった。そこで当時の旅行は、第一次的には海や川や湖沼などの水路を利用して、目的地に達したと思われる。陸地を通ることは第二次的であった。それはアイヌはもちろん、明治になって北海道の入植開拓者がもっぱら川を交通路として、舟で移動していたことからも分かる。<谷川健一「白鳥伝説」より

記紀について     

(5)記紀に記載の「大和王権がその由来と正当性を説くために創作された政治的神話」が信じられるためには、「地方の神々や共同体で口承されていた神話」を巻き込んでいく必要があった(ご参照.pdf)。

(4)記紀の二つがほぼ同時期に編まれたのはなぜか.pdf

(3)記紀・万葉は古代のムラ段階から継承してきた少数民族的伝統 : 自然と共生し節度ある欲望を生きる少数民族の文化は、自然破壊と欲望の開放という近代化の行きつく荒廃に対する最後の防波堤.pdf

(2)記紀同一視改める必要あり.pdf

(1)記紀の概要

  ①古事記…(略称「記」)その序によれば和銅5(712)年太安万侶によって献上された、現代に伝わる日本最古の歴史書。上・中・下の全3巻に分かれる。原本は存在していないが、後世の写本の古事記の序文に書かれた和銅年及び月日によって、年代が確認されている。成立の経緯を記している序によれば、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもの。一般的に「誦習」は「暗誦」することと考えられているが、荻原浅男氏(小学館日本古典文学全集)は、「古記録を見ながら古語で節をつけ、繰り返し朗読する意に解すべきであろう」という。『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、天武天皇の命で編纂されていることから、勅撰と考えることも出来る。天皇と祭神を結びつける事により、天皇の権力の正統性を確立することを目的としていたと見ることも出来る。史料の上では成立過程や皇室の関与に不明点や矛盾点が多く、古事記偽書説の論拠となっている。<Wikipediaの文を基に記述>  ニュースの本棚 : 古事記1300年.mht

  ②日本書紀…(略称「書紀」「紀」)日本における伝存最古の正史で、六国史(古代日本の律令国家が編纂した6つの一連の正史のこと)の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、養老4(720)年に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。なお、書紀によれば、推古天皇28(620)年に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4(645)年の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。書紀は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は、異伝、異説を記した現存しない書が書紀の編纂に利用されたことを示すといわれている。書紀では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には書名を明らかにしているものがあるが、いずれも現存しない。書紀の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。<Wikipediaより>

古史古伝      

*古史古伝とは、日本の古代について書かれているとされる古文献。アカデミズム(正統歴史学界)からは認められずに黙示されるか偽書とされている。多くは、被征服者側の視点で書かれており、記紀が征服者側(権力者側)の論理で編纂されたのとは対照的な内容になっている。 

(1)『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし) 

  ①古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされている。いわゆる和田家文書を代表する文献。この本の多くを占めるのは、秋田孝季・その妹のりく・その夫の和田吉次たちが神社や仏閣などに蔵されていた文書を“写し採った”もので、彼ら自身が執筆した文章もあるとされる。すでに偽書であることが判明しているという説と真書だとする説がある。偽作であるだけでなく、古文書学で定義される古文書の様式を持っていないという点でも厳密には古文書と言い難いという指摘もある。しかし関係者の間では「古文書」という呼び方が定着している。 

  ②イワレヒコノミコトとの戦い後、長髄彦ナガスネヒコは兄アビヒコと共に日高見(東北地方)の地を新たな故国として移住し、先住民族と合流して「アラバキ族」と名乗り、日高見の国を長く治めたと記述している。なお、「東日流」とは「日の本が東に流れた」という意である。

 

  *内容のあらまし⇒東日流外三郡誌の世界ご参照

(2)『先代旧事本紀大成経』…陸奥国一之宮鹽竈(しおがま)神社の鹽竈大神をナガスネヒコであるとしている。 

(3)『秀真伝』(ほつまつたゑ)

 

  ①ヲシテ(神代文字のひとつとされる)を使い五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)で構成された日本の古文書。その成立時期は不詳だが、少なくとも江戸時代中期まで遡ると考えられている。<Wikipediaより>

  ②ひらかな漢字訳<出典(株式会社 日本翻訳センター URL:http://www.jtc.co.jp/ URL:http://www.hotsuma.gr.jp/)>  カタカナ訳・語源考察・漢字読み下し<出典:ほつまつたゑ 解読ガイド

(4)『上記』(うえつふみ)…ウガヤフキアエズ王朝に始まる神武天皇以前の歴史(神武天皇はウガヤフキアエズ王朝の第73代)や、天文学、暦学、医学、農業・漁業・冶金等の産業技術、民話、民俗等についての記事を含む博物誌的なもの。神代文字(豊国文字)で書かれているとされる。序文によると、1223(貞応2)年に源頼朝の落胤とも伝えられている豊後国守護の大友能直が、古文書をもとに編纂したとされている。<Wikipediaより>

(5)古史古伝には、竹内文書・九鬼文書・物部文書・富士文書・カタカムナ文献・三笠文などもある。

(6)古史古文  古史古伝とは?  

長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)について

Q1. 長髄彦は、『記紀』『先代旧事本紀せんだいくじほんぎ』『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』などに登場する<これらの文献については、参考文献等をご参照>ものの、Photo明治に入って“逆賊”だと再認定されて以来、最近までほとんど研究されることなく「何者であるか?」が謎であった※が、生駒の神話生駒を舞台とする日本神話)<映像で見る生駒の神話その一場面(左が長髄彦軍・右が神武軍/クリックで拡大)>の主人公である「長髄彦とは何者だろうか? <以下、信頼できる説>

   ※ これらの論者は、ただ一点重要なことを見逃しているのです。神武東征の際に河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先住民とは一体何者であったのか、ということです。この点を不問にしているため、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている。」<谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」 より>

 A1.「矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦(ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。」「長いすねの様な形-長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。」<生駒市誌

 A2.「鳥見谷にもいわば鳥見国ができ、その首長が神武天皇の頃では長髄彦」<富雄町史

 A3.「「生駒地域の首長だっただけでなく、饒速日命にぎはやひのみことの率いる邪馬台国連合の総大将であった」<村井康彦著『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』(岩波書店).pdf

 A4.「6代目にして最後の大国主」<嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」pdf

 A5.オオクニヌシノミコトの正当な後継者として、神武帝の侵入以前の大和の支配者」< 梅原猛「神々の流竄」> 「おそらく長髄彦は、縄文土着の民」<梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」

 A6.「原住民の首長のナガスネヒコ」<谷川健一「白鳥伝説」 > 「大和地方の「登美(とみ)」におりました豪族」「ナガスネヒコというのは「スネの長い」異族の形容詞であったと思われます。「なかすね」、「中洲根」とも表現されており、日本列島の真ん中の美しい地味の肥えた大和を支配していた。」<谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」 

 A7.銅鐸文化圏最大の豪族であり、同時に、銅鐸祭祀国最後の王(引用者:首長というべき)」<木村武俊「長髄彦の謎」.pdf

 A8.南北2つの鳥見とみ(登美とみ)は中洲なかす/ながす(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね(長髄ながすね/なかすね)彦であった。

    首長とは、「国家や政府というものをもたない人々の社会、つまり対称性の社会の指導者のこと<中沢新一「熊から王へ」.pdfの(P.136~)(P.193~)あたりをご参照>。

    なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。

 A9.「長髄彦・・・・・銅鐸国家側の中心人物」<「古田武彦「古代通史」

Q2長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)の意は?<諸説あり>

 ①日本の古語には清音と濁音の区別がなかったのでナガスネヒコともナガスネビコとも言う。ナガスネヒコの元の名は中洲根彦という。中洲根彦とは、中洲(ナカス・ナガス/なかつくに=中心の国/倭=現在の奈良県)の根(ネ/根本・基礎)をつくった彦(ヒコ・ビコ/おおいなるひと・すぐれたひと)という意味を持つ(従って、長髄彦は、長い髄(脛/スネ)の彦(男性)という意味ではない)。

 ②『日本書紀』には「長髄は是邑の本の号(な)なり。因りて亦以て人の名とす」とある。これについて池田(末規)氏はナガスネは中洲根であり、中洲は大和、ネは大和島根のネであろうと言っている(引用者注↓)。『日本書紀』に神武の軍隊が「胆駒山をこえて中洲(うちつくに)に入らむと欲す」とあるが、この中洲をナカスとすればその中心になるのが中洲根ということになる。そこにいた異族であるので長い髄の強敵という名を奉られたのである。谷川健一「白鳥伝説」

 (引用者注)大和島は大和の国または大和地方のことで、「根(ネ)」は、日本古語大辞典(刀江書院)に記載の「根」の意味.pdfによれば、「敬称」「発音を便にする(語調を整える)ための接尾語」です。<例>垣根・杵根・岩根など。

 (参考)日本書紀の神武天皇紀の一節

    皇師勒兵、歩趣龍田。而其路狭嶮、人不得並行。乃還更欲東踰膽駒山、而入中洲。 <読み下し>皇師みいくさは兵つわものを(ととのへて、歩かちより龍田に趣おもぶく。而して其の路狭く嶮さがしくして、人並み行くことを得ず。乃ち還かへりて更に東ひむがしの膽駒山いこまやまを踰えて、中洲(ナガス・ナカス/なかつくに・うちつくに)に入らむ。

 ③長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところと推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし/(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。<生駒市誌

 ④(「長髄彦」とは 「長洲根(ながすね)彦」 という、やはり地形詞(引用者注:地形を示す名詞)なのである。あるいは、河内湾の湾入部(大阪城から南方まで、突出した 「長洲」になっていた。)や筑紫の志賀島のつけ根のところ(現在、つながっている)など、「長洲根」と称さるべき地形は、決して少なしとしないのである。その地の 勇者たちをしめす名称、それが「ながすねひこ」なのである。従って各地に生じうる名だ。<古田武彦「真実の東北王朝」>→長髄彦は、大和・河内にも日高見にもいた。筑紫にもいたかもしれない。記紀に登場する長髄彦は「大和・河内の長髄彦」であった。

 ⑤『古地名の謎(近畿アイヌ地名の研究)』<畑中友次氏著/大阪市立大学新聞会/57(S32).8> : 長曽根(長髄彦)は現代語に直すと中州(大和)根(川)彦(男子、英雄)の意。

  報告者:この説によると「ナガスネヒコは、大和を流れる川である富雄川流域地方の指導者」の意となるでしょう。

 ⑥語部かたりべの物語に現れる神・人は、その地の主ヌシ或は有力者であり、その名は、地名に性別を表す語尾(ヒコ・ヒメ)をつける事が多い(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」.pdfの「鳥見彦・長髄彦」の項ご参照)ので、鳥見彦・長髄彦とは、鳥見(登美)・長髄(中洲根)の主・有力者の意であったのでは。

 ⑦「蛇神の呼称は数多くあり、トビ(トベ)・ナガ(ナガラ)のほかヤアタ(ヤワタ)・ミワ(ミイ)などが、後世になって混在したことも考えられる。長髄彦の名も、スネが長いというのが本来ではなくて、長=ナガ=蛇神の呼称であり、したがって古事記の登美彦(トミ・トビ)の名のほうか原型であったとおもわれる。妹をトミヤ姫とするのがその一証である。それが、トビもナガも、ともに蛇神の呼称であったゆえに混淆したのではなかろうか。」<生駒市誌

 ⑧日本の竜神信仰(竜を雨・水の神とする信仰)について述べた日本の竜神・竜王には「日本の竜神信仰においては中国伝来の竜と日本の水神・蛇信仰が習合しており」とあり、ここには「ナーガはインドで古くから信仰されていた蛇神」とあることから、古代の日本には「竜神=ナーガ(蛇神)」信仰があったと推測され、ナガスネヒコのナガの由来をそこに求めることもできる。「ナーガ(ナガ)=蛇神」については、トビ・トミ=ナガ=蛇神ご参照。

 ⑨中洲(ナカス・ナガス)とは水(海・川)の中に浮かぶようにして在る「洲しま=島」のことで、神世界と人間世界の境(中継地)であり、古代、海底であった大阪平野に浮かぶ島であった「生駒=豊秋津洲」もその1つであり、この地を中心とする一帯の指導者が「中洲根彦」であった。中洲根彦とは、中洲を中心とする一帯の彦(おおいなるひと=指導者)の意である。なお、根は、垣根・性根等の根とおなじく語調を整えるもので、中洲彦というより中洲根彦とした方が整った語調となるのでそうなった。そして、中洲根彦は表記されるときは長髄彦と表記された。

  参考:「もののけ姫」を読み解くでは次のように述べられている。「死にかけたアシタカをサンが連れていった場所、それは森の深部にある不思議な中洲(島)であった(引用者:シシ神の森の中洲.jpgのこと)。・・・・・そこは生と死の境目の島・・・・・。いわば、森の心臓部である。・・・・・中州は、水(神界)と地(俗界)のせめぎあう土地として神聖視されていた。中世に中州で市を開いた職人たちが多かったのもこのためと言われる。『古事記』のイザナギ・イザナミ神話でも、一面の泥海を矛でかき回して出来た中州島(オノゴロ島)に降り立って結婚したとある。天と地を結ぶ場所、生と死を司る場所の典型と解釈すべきではないか。」

Q3神武東征神話にも登場する金の鵄はナガスネヒコの守り神であるが、ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?答え

Q4.長髄彦神話(長髄彦物語/長髄彦伝説/長髄彦伝承)とは?/国譲り神話と長髄彦との関わりは?⇒答えは、国譲り神話と長髄彦神話.pdfに記載あり。

Q5.登美(トミ)の長髄彦(登美彦)の「トミ」とは⇒答えは、進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像」.pdfに記載あり。

参考

 ⑥長髄彦を祀る神社

  ・長髄彦の後裔とその奉斎神社に「二つの鳥見にはそれぞれ式内社があり、城上郡(現桜井市)の等弥神社、添下郡(現奈良市)の登弥神社があげられる。後者は富雄川東沿岸の奈良市石木町に鎮座するが、その祭神のなかの一人に登美建速日命という神があり、同社の他の祭神からみて、この神が本来の祭神で登美彦すなわち長髄彦にあたると考えられる。」との記述があり、登弥神社には「西社殿に、神皇産霊神・登美建速日命・天児屋根命を祀る。」との記述あり。

  ・村井康彦著『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfに「富雄川・・・・・流域には長髄彦の遺蹟が点在している・・・・・。とくに伊弉諾いざなぎ神社(生駒市上町、長弓寺内旧牛頭天王社)、添御県坐そうのみあがたにいます神社(奈良市三碓)および登弥とみ神社(奈良市石木町)はそれぞれ上鳥見かみとみ・中なか鳥見・下しも鳥見の鎮守とされ、富雄川流域の住民と深いつながりをもってきた。」との記述あり。

 ⑤オセドウ貝塚 : 安日彦・長髄彦の遺骸を再葬した墓地とされる。

 ④折口信夫の長髄彦論

 ③古史古伝「先代旧事本紀大成経」は陸奥国一之宮鹽竈しおがま神社の鹽竈大神をナガスネヒコであるとしている。

 ②金色の鵄は、長髄彦のトーテム(守り神)で、生駒の「山ノ神」であり、霊蛇神であった(トビ・トミ=ナガ=蛇神.pdf ご参照)。

 ①長髄彦の後裔とその奉斎神社

河内湖(深野池)・河内潟・河内湾

       河内湖は江戸時代には深野池ふこうのいけと呼ばれた。

【1】地図

古代の河内平野と大和盆地.jpg

浮かぶ生駒山地(『生駒市誌』より).pdf

縄文海進の海岸線(縄文から弥生を経て8世紀くらいまで、日本海~大阪湾(河内湾・河内湖・河内潟)~奈良盆地(奈良湖)は水路で結ばれていた。そして、天野川も今より広くニギハヤヒが天の磐船で遡るには充分だったはず。)   古代地形想定図

近畿地区の確率論的地震動予測地図(表層地盤の揺れやすさを示した地図).jpg出典地図元

地図<古田武彦『真実の東北王朝』より>

関裕二『物部氏の正体』より

縄文時代~弥生時代の大阪の地形図(「平野区誌」掲載)

河内湖大和国建国の始祖王饒速日尊(大歳)より

河内湾・大和湖.jpg 

河内湖.gif邪馬台国の会HPより

08_3数値地図5mメッシュ(標高).jpg大阪高低差学会のHPより<→右図>

1万年前の畿内地方中心部(概念図).jpg折節の記より

古墳時代(3~6世紀)の河内・大和地方の地図と古墳群の分布図猪甘津の橋と猪飼野今昔より

但馬二千年桂古代地図

大阪平野(河内湖・河内湾)の変遷

古代大阪湾の地図

大阪湾の歴史

【2】地図と資料

森浩一『日本の神話の考古学』より

淀川河川事務所 淀川の成り立ちと人とのかかわりミラー

国交省近畿地方整備局 大阪湾環境データベース

河内湾→河内潟→河内湖.pdf東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究より)

奈良盆地周辺の地形の変遷(国土地理院/2010)

嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf

近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院)/pdf

吉本隆明「ハイ・イメージ論 Ⅰ」.pdf

竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf

【3】資料

樋口清之 「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)

大阪城天守閣の高さと琵琶湖の水面は同じ高さ琵琶湖の特徴

05生駒山のてっぺんから見た大阪平野の夜景(→右の写真<クリックで拡大>)<この夜景が広がるところ、かつては海原であった>

大和湖(奈良湖)

53narakojpg53Ukabuikoma_240jishindouyosoku_31】地図 <右に掲載の地図はクリックで拡大できます。>

近畿地区の確率論的地震動予測地図(表層地盤の揺れやすさを示した地図).jpg出典地図元<→上左>

浮かぶ生駒山地.jpg生駒市誌より)<→上中>

奈良湖推定図.jpg出典図版作成者のHP<→上右>

奈良盆地周辺の地形の変遷(国土地理院/2010)

5moosakakouteisaBontikoyamataikokunokaiKawatiwanyamatokomiyakotuki河内湾・大和湖.jpg<→中左>

奈良盆地の盆地湖.gif邪馬台国の会のHPより)<→中中>

    奈良盆地の北西と南東に2つの鳥見トミ.jpgがある。

数値地図5mメッシュ(標高).jpg大阪高低差学会のHPより)<→中右>

1万年前の畿内地方中心部(概念図).jpg折節の記より)<→下左>

HighimagetizuPhoto_6Kaguyamagainenzu海面が+60mだった頃の生駒市.jpg→下中>  Sea level rise : +60m  

1万年前ごろの近畿地方の変成ランドサット映像(想像).jpg<→下右>

古代の河内平野と大和盆地.jpg

縄文海進の海岸線(縄文から弥生を経て8世紀くらいまで、日本海~大阪湾(河内湾・河内湖・河内潟)~奈良盆地(奈良湖)は水路で結ばれていた)  古代地形想定図

参考 : 古代畿内の都位置図.jpg大阪歴史博物館展示sultt。旅行的意義さんのHPより> 古代畿内の都位置図.jpg柏原市歴史資料館展示親父のつぶやき。さんのHPより引用して加工>

古墳時代(3~6世紀)の河内・大和地方の地図と古墳群の分布図猪甘津の橋と猪飼野今昔より

但馬二千年桂古代地図

【2】資料と地図

嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf【1】の海面が+60mだった頃の生駒市所収

近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院)/pdf

吉本隆明「ハイ・イメージ論 Ⅰ」.pdfz(【1】の1万年前ごろの近畿地方の変成ランドサット映像(想像)所収

竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf【1】の近畿地区の確率論的地震動予測地図奈良湖推定図所収

奈良盆地:地形・地質・水系

【3】資料

樋口清之 「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)

奈良県生駒市高山地区の重力探査から推定される活構造本文

大和盆地の原風景

高橋克彦 「火怨 北の燿星アテルイ」

                 (文中の太字は引用者による)

 「蝦夷はもともと出雲に暮らしていた。出雲の斐伊ひい川流域が蝦夷の本拠。斐伊を本もととするゆえ斐本ひのもとの民と名乗った。それがいつしか日本と変えられて今に至っておる。宮古や玉山金山の辺りを下閉伊(現在の岩手県下閉伊郡しもへいぐん)と呼ぶのもその名残」

 なるほど、と阿弖流為たちは傾いた。

 「大昔の話ゆえ俺もよくは知らぬ。祖父や親父は俺が物部を継ぐからにはと、たびたび聞かせてくれたが、そんなのんびりとした世ではなくなっていた。昔のことがわかったとて朝廷に勝てるわけではない。それでも、そなたより多少知っている。

 天鈴(引用者:物部一族の長。祖先は都から陸奥に逃れてきて以来、蝦夷を支援し、それと運命を一つにしてきた)は蝦夷と物部の繋がりを話した。

 「出雲を纏まとめた大国主命が蝦夷の祖先に当たることは俺の親父から聞いておろう」

 阿弖流為は首を縦に動かした。

 「その大国主命の子に長髄彦という者が居て、大和を纏めていた。一方、我ら物部の先祖はニギハヤヒの神に従って海を渡り、この国にやってきた。ニギハヤヒの神は今の天皇の遠祖と言われるスサノオの命の子であったらしい。本来なら大国主命と敵対関係にある。なのにニギハヤヒの神は長髄彦の妹を妻に娶めとって大国主命の親族となった」

 「なぜにござる」

 「強引に国を奪うをよしとさなんだのであろう。そこに今の天皇の祖先たちが乗り込んできた。大国主命を幽閉し、力で国を奪わんとしたが、長髄彦は激しく抗あらがった。結局、長髄彦は敗れて東日流つがるへと逃れた。ニギハヤヒの神は同族であったがためになんとか処刑を免れ、我ら物部も朝廷に従うことになった。しかし、一度は敵対した物部への疑念はいつまでも晴れぬ。冷遇が目立つようになり、ついには都を追われた。東日流を頼るしかはくなったとき、そなたらの祖先らは我ら物部を喜んで受け入れてくれた。以来、物部と蝦夷はしっかりと手を結んでいる」

 「この国のすべてが、もともとは我らすべてのものであったと?」

 「そうだ。力で奪ったくせして朝廷は出雲の民から継承したものだと言っておる。蝦夷を執拗に憎むのは、己の罪を認めたくない心の表れであろう。獣に近い者ゆえに追いやって当たり前と己に言い聞かせておるのだ」

 「…………」

 「同族でありながら裏切った物部はもっと憎い。陸奥にひっそりと暮らしておれば文句はつけぬが、もし蝦夷への支援が明瞭となったときはただでは済むまい。いや、あるいは薄々と気付いていればこそ五万もの兵力を投じてきたのかも知れぬな」

樋口清之 「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)<1965年11月>

                                        (太字は引用者による。)

 日本の地帯構造線の動きは第三期末から活溌で、洪積期を終え沖積期に入っても絶えず隆起・沈降を繰り返し、地形が変動しております。それは大体万を単位にして変動しますが、大和に関する限り次のようなことがわかる。地質学の立場から行なわれた詳細な地下地質の研究でわかったのでありますが、ほぼ長方形をしている現在の大和平野は、今から約一万年余り前、即ち洪積期の最終末の頃、山城平野に口を開いている海湾であった。海の塩水は大阪湾を満し、山城平野を満し、現在の奈良市の北にある奈良山の丘陵はなくて、それを越えて大和湾に北から南へ湾入していた。後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れて行くことになった。同時に紀伊半島が今の淀川・宇治川・琵琶湖を通り若狭湾に出る地帯構造線(淀川地帯構造線)に向って傾斜した。そこで大和湾中に孤立した海水は、先ず北に向って排出され、その時に押し流された土砂が堆積し現在の奈良山丘陵をつくったのです。かくて大和湾の海水は北への出口を防がれて湖となりますが、周囲の山から流れ込む天水はこの大和湖の水面を一層高め、やがて水は西の方を切って大阪湾に排出し始めます。この頃より、大和湖は海水湖より淡水湖に変って行く。この時に運ばれて堆積したものが、現在二上火山の麓を埋めている砂傑層です。更にここがつまると、今度はその北側に水路を移すが、これが竜田川の渓谷を通って大阪湾に流れ出る現在の大和川ということになるわけです。つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面が次第に低下し、最後には干上って浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。

<上記部分は、 吉本隆明「ハイ・イメージ論 Ⅰ」.pdfに引用されています。>

ミニ知識

(7)どういう暮らしの人がどのような世界観を持つかという民族学の成果によれば、狩猟採集民は動物神崇拝と骨からの再生、農耕民は母系原理と祖先崇拝、牧畜民は父なる唯一神と父系原理を持つ。

(6)ピグミーやブッシュマンなど、アフリカの狩猟採集民・・・・・が狩りで仕留めた獲物の所有権はハンターではなく、弓矢ややりなどの持ち主にあるという。ただし道具は頻繁に貸し借りされ、特定の狩猟名人や道具の持ち主が富を独占しないよう分配が工夫されている。<枝雀落語とピケティ教授より引用>

(5)「」は「ミヤコ」であるが、ミは「神」、天皇につける敬称。ヤは「屋」、コは「ここ、そこ」の場をいう「コ」。つまり、「都」は天皇の住まいの所在地をいう。」

(4)「狩猟採集民は放浪の民であり、農耕民は定住者」。そんな固定観念に対し、「事実は正反対である」・・・・・。限られた土地に身を託して子孫を増やし、遅かれ早かれ移動の必要に迫られる農耕民こそ流浪の定めを負う。逆に、獲物の棲息範囲という特定の地域に生活基盤を置く狩猟採集民はあくまでも定住者だ・・・・・。~書評『エデンの彼方(ヒュー・ブロディ著/池央耿訳)』<日経新聞(04.1.18)>より~


(3)三炊屋(ミカシキヤ)姫の名前の音(mik-asi-kiya)に入っているアイヌ語単語群は、mike(照る)、kasi(上)、kiyay(光)。

(2)生駒山最高峰から真西に難波宮があり、磐船神社は難波宮大極殿跡からみて、ちょうど夏至の日の出の位置にあたる。さらに、ヤマトの石上神宮からみると、生駒山の山頂に、夏至の夕日が落ちるのだという(大和岩雄『日本の神々3』白水社)。<関裕二『物部氏の正体』>

(1)日本人にとって大切なお米は、稲穂に雷が落ちなければ、実らないと信じられていた。稲の精と雷の精が結びつかなければ、子=稲穂は実らないという発想だ。そこで、雷光を「稲妻」というのである。<関裕二『いま蘇る縄文王国の全貌』>

諸文献 

(11)吉野裕子「蛇 日本の蛇信仰」.pdf左書のメモ(リンク)>

 

(10)松尾 光「古代の社会と人物」.pdfなか見検索


(9)木村武俊「長髄彦の謎」.pdf


(8)進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像」.pdf

 

(7)『古地名の謎(近畿アイヌ地名の研究)』<畑中友次氏著/大阪市立大学新聞会/57(S32).8> : ナガスネヒコ(長髄彦)は、中州(大和)根(川)彦(男・英雄)の意ではないか。

(6)勝井純『神武天皇御東遷聖蹟考』

(5)折口信夫の長髄彦論

(4)神武天皇聖績調査報告(編集:文部省/1942年)


(3)『下伊駒安陪姓之家譜』(下国家譜)                   

 

「安日長髄は大和国伊駒嶽に篭り、すでに日本の大魔王になっていた。だが、日向国吾田邑より東征してきた神武天皇に敗れ、死罪を赦されて都遐流卒都破魔(つかるそっとはま)に流された。その安東浦に蟄居し、代々安東太を名のった。」 <(1)・(2)・(3)は安日伝説より転載>

(2)『曽我物語・真名本』

 「神武天王が世に出て、安日と代を争う時、天より霊剣三腰があまくだり、安日の悪逆を鎮めた。天王は戦いに勝ち、安日一族を下東国外浜へ追いやった。今いう醜蛮、これなり。この神武天王が人代百王の始めの帝である。」

(1)マタギの秘伝書『山達由来之事』(山達根元記):蝦夷(えみし)の祖を安日とする伝承を伝える。

示唆に富む資料・言葉      

(10)フィクションに対峙たいじするのはファクトという言葉であって、トゥルースではない。事実であっても真実ではない真実を告げるにはどうしても微量のフィクションが要るのではないか。だからルポルタージュ文学では、著者の責任において一歩だけ文学に近寄る。<池澤夏樹 終わりと始まり~ルポルタージュ~(朝日新聞 16.12.8)>⇒言い伝え(神話・伝承)をもとにイマジネーションを加えることで、真実・真理が見えてくる。 

(9)僕は歴史家ではないから、事実をもとにイマジネーションを加える。そこから逆に歴史の実相が見えてくるのではないか。<映画監督 原田眞人(朝日新聞 16.12.29)>⇒言い伝え(神話・伝承)をもとにイマジネーションを加えることで、真実・真理が見えてくる。

(8)・・・・・人間は言葉の動物だ。言葉によって世界を切り分け、掌握しようとする。「液体」に「水」「ジュース」「お茶」と名前を与えた瞬間、一つの存在はバラバラになっていく。言葉はあらゆるものを分化し、疎外を起動させる。人間もまた「私」と「あなた」に分断され、透明な関係から引き離される。そこに物語が加えられることで、自己同一性(アイデンティティ)が生れる。しかし、私が私であろうとする欲望は、他ならない私を苦しめる。自己であることへの執着は、世界からの疎外を加速させ、他者との切断を深化させる。・・・・・世界は言葉によって構成されている。だから、言葉を支配する者が、世界を変えてしまう。出鱈目でたらめな言葉がはびこる政治や社会に対抗するには、欲望によって構築された物語を解体する物語を手に入れなければならない・・・・・。<書評「夜は終わらない(星野智幸著)」中島岳志評(毎日新聞 14.7.13)より>

(7) 古代神話の中では、蛇はよく人を導く役を果たしている。それは世界中どこの神話でも不思議に共通していることなの。ただそれが良い方向なのか、実際に導かれてみるまでは分からない。というか多くの場合、それは善きものであると同時に、悪しきものでもあるわけ ~村上春樹「木野」より~  参考 : 物語、神話につながる.pdf

(6)反時代的密語 理想の旗を高く掲げよ

(5)子らも知る 文化の源

(4)チンパンジーとの共通の祖先から分かれて700万年、ホモ・サピエンスとして20万年、人類としての進化を考えると浮かび上がるのは「心」である。心は化石として残るものではなく知るのが難しいが、・・・・・「心は歴史の産物」であり、「人間は心によって行動する生きものである」・・・・・。アフリカから旅たつ狩猟採集時代、飛び道具を持ち世界中に広がる時代、農耕時代、都市とお金が生まれた時代の四段階・・・・・。狩猟採集の頃は、闘う者より協力し獲物を分かち合って暮らした人々が生き残ったようだ。分かち合いを喜ぶ心があったのだ。飛び道具は人類にとって有益だったが、一方で戦いや犯罪を深刻化させた。・・・・・農耕は未来を考える能力を与えたが、欲も動く。そしてお金。分かち合う心があるのに、進歩こそよしとしてお金への欲望を加速したために人々が共通の目的を持てなくなった・・・・・。

~書評『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか(NHKスぺシャル取材班著)』<毎日新聞(12.2.26)>より~

(3)映画『降りてゆく生き方』※のコンセプト

     ※(09 日/0904公開)作品紹介公式サイト(ミラー : HP作品概要ストーリーコンセプト) ○完全無農薬・無肥料の林檎栽培を確立した木村秋則さんをモデルにした映画 ○関連映像 : 新時代ファイル「降りてゆく生き方」<NHK新潟(approx.0906)>

(2)若者の心をつなぎとめる理想や物語を

(1)今も東北に生きる「ナガスネヒコの精神=愛瀰詩(エミシ)の精神」とは

   

「全国最悪」から「全国一」へ

~うたの旅人「岩手県民謡『南部牛追唄』」<朝日新聞(12.7.28)別刷り「be」>より~

 ・・・・・「南部牛追唄」に登場する旧沢内村(現岩手県西和賀町)は豪雪地帯だ。岩手県と秋田県との境に位置し、冬が厳しい東北地方の中でも、長年、とりわけ苦しい生活を強いられてきた。県道沿いの寺には、年貢の代わりに差し出された伝説の娘をまつる「お米(よね)地蔵」がある。

 ところが、その先にある沢内病院の向かいには、地蔵とは対照的な記念碑がある。「老人医療無料診療発祥の地」と記されたその碑は、村と住民が自らの手でつらく貧しい暮らしを克服した象徴だ。

 「生命村長」。住民にそう呼ぱれた深澤晟雄(ふかさわまさお)氏(1905~65)の胸像と資料館が、記念碑のそばに立つ。

 深澤氏が村長になった1957年、豪雪と多病多死と貧困は、どれも全国最悪の状況だった。積雪は3㍍、乳児死亡率は全国平均の約2倍。さらに、全世帯の1割が生活保護を受けていた。深澤氏はこの三悪の克服を村人に呼びかけた。

 まず、3年の分割払いでブルドー・ザーを買った。除雪に使い、冬季の交通を確保した。さらに、村に医師を招くため東北大学に日参した。3ヵ月の約束で派遣された若い医師は意気に燃え、2年がかりで村の医療計画をまとめ、15年にわたって村の健康作りを担う先頭に立つ。

 老人医療の無料化は、まず65歳以上を対象に60年に実施した。全国で初めての取り組みに対し、岩手県は法律違反だと指摘した。しかし、村は「憲法の生存権を実現する。国はあとからついてくる」と主張して一歩も引き下がらなかった。

 貧しい財政から費用を捻出するのは大変だったが、その後、村は無料とする年齢を60歳以上に拡大。村の自主財源は当時、1千万円に満たなかったが、約30%を医療費などの保健衛生費に充てた。

 実は、村の財政はブルドーザーの活躍で改善に向かっていた。除雪によって冬季も木炭や木材の搬出が可能となり、村人の収入は増加した。さらにブルドーザーで新田開拓などをしたため、米の政府売渡量は5年で2・5倍に伸びていた。

 全国最悪の乳児死亡率の改善には、保健師3人を採用し、取り組んだ。女性の保健師が吹雪の日も雪をかき分けて乳児のいる家を訪問し、62年、全国の自治体で初めて乳児死亡率ゼロを達成した。

 「お米」が人身御供にされたと伝わる時代から1世紀ほど後に、住民の総力で「全国最悪」から「全国一」になった。

 それから今年で、半世紀になる。今月22日、「乳児死亡ゼロ50周年の集い」が資料館で行われた。沢内病院の事務長だった米澤一男さん(69)は「節目節目で住民運動が起きて村を変えた。『命の行政』は、今も生きています」と誇る。

 ・・・・・葛巻町。ここもまた、住民の力で町の姿を大きく変えていた。

 町内の山には、乳牛や肉牛が群れる草地に、計15基の巨大な風車が立つ。風力発電だ。中学校の敷地には太陽光発電のパネルが420枚も並ぶ。牧場では牛の糞(ふん)でバイオマス発電をしていた。町のエネルギー自給率は166%を誇る。まさに「クリーンエネルギーの町」だ。

 東日本大震災で起きた東北電力福島第一原発の事故を受け、新エネルギーヘの転換が叫ばれているが、この町のクリーンエネルギー導入はそれより10年以上も前だ。きっかけは、88年ごろに持ち上がった産業廃棄物処理施設の建設計画だ。

 ふだんは寡黙な町民が「葛巻町の自然を守れ」と声を上げた。それが、ただ自然を守るだけでなく積極的に町の自然をアピールしようという動きに発展した。

 町議がデンマークの風力発電を視察した後、東京の風力発電会社と第三セクターを設立して99年、最初の風車3基を設置した。建設費は3億4千万円。半分を三セクが出し、残りは国の補助を受けた。町の出資は250万円。町はこの年、「新エネルギーの町」を宣言した。

 2003年には、畜産バイオマスプラントを稼働。05年には、新エネ大賞(資源エネルギー庁長官賞)も受賞した。

 林業対策の一環として始めた「くずまきワイン」は、今やブランドとなった。

 「JRの駅もない、温泉も出ない。何もなかったから、自分たちで何かするしかなかった」と、葛巻町農林環境エネルギー課の鈴口美知代さん(49)は言う。・・・・・。

縄文時代    

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反時代的密語 理想の旗を高く掲げよ

 ・・・・・近代文明とともに始まった環境破壊は日増しに広がり、今や人類そのものを滅ぼす大いなる危険となっている。・・・・・京都議定書は、この人類の滅亡を大幅に遅らせようとするための条約であろう・・・・・。

 近代という時代は二つの哲学によって支配されている。一つはデカルトの哲学である。それは理性をもった人間を世界の中心におき、その人間と自然することによって自然を支配し、それによって武力と経済力を獲得することを最大の善と考える思想である。もう一つの哲学は、国家の力を絶対化するホッブズの思想である。

 京都議定書の実施にもっとも熱心なのはヨーロッパ諸国であるが、近代文明を生み出したヨーロッパ諸国はその限界にも気づき始めたのではなかろうか・・・・・。しかしこの近代文明を移入し、かつて人類がもったことのないような巨大な軍事力と経済力をもつ超大国アメリカは、このような文明のもつ危険性について、ヨーロッパ諸国と比べて認識が乏しいのも当然といえば当然といえる。

 京都議定書の発効において、日本がアメリカとヨーロッパ諸国の調停を行うべく粘り強い努力をしたことは一応評価できるが、私はそれだけでは不十分であると思う。なぜなら、日本ほどこの問題において積極的に発言できる国は世界のどこにもないからである。

 この議定書が日本で、しかも京都において採択された意義は大きい。京都は、平安仏教すなわち天台仏教と真言密教を総合し、しかも浄土、禅、日蓮などの鎌倉仏教の思想的根拠を与えた天台本覚論が生まれたところである。天台本覚論は、動物ばかりか植物すら、すべての生きとし生けるものに仏の性があり、それらはやがて仏になれるという思想である。この思想こそ、約一万二千年前に農耕文明が起こる以前の狩猟・採集時代の人類の普遍的な哲学であったと思う。

 農耕文明が始まって人間を特別なものとする思想が生まれ、それが理性によって人間の他の生物に対する優越性を示すプラトンの哲学になる。この哲学はキリスト教に受け継がれ、人間の他の生物に対する支配権を主張する思想となる。キリスト教では、人間の上に神があったが、デカルト以来の近代哲学では、人間が世界の中心に座り、自然に対する絶対的支配権を行使する。

 このような近代思想に別れを告げ、人間は本来他の生きとし生けるものと同じものであり、そのような生とし生けるものと共存することを人間の使命と考える原初的人類の哲学に帰らねばならない・・・・・。

 柳田国男は、山の神すなわち森の神は田植えとともにから下りて田の神となり、そして稲刈りが終わるとまた山に帰るという。日本の神社には必ず森がある。日本人は縄文時代以来ずっと、神は森に住むと考えてきた。ところが、最初に都市文明をつくったシュメール人は、ギルガメシュ王が森の神を殺すという話で始まる「ギルガメシュ」という世界最古の叙事詩を残した。そして以後も西洋社会はこのような思想に従って森を壊して文明をつくった。しかし日本ではそのような森の神殺しは起こらず、森の神は少なくとも江戸時代の終わりまでは健在であった。西洋の近代文明の移入とともに日本の森の神も厳しい運命を迎えたが、それでも日本は先進国のなかで唯一、国土の約三分の二を占める森を有する。このような国は誇りをもって、二十一世紀以後の文明の最大の課題である環境問題において先頭に立つことができるはずである。

 戦後、日本人はエコノミックーアニマルといわれ、世界の人から羨まれつつバカにされてきた。そして現在でも日本人はいつも勝者にペコペコする、何らの定見のない民であると軽くみられている。それは残念至極なことである。私は、今こそ日本は環境立国の旗を高々と掲げ、伝統にもとづく日本の理想を世界に示すべきときであると思う。

「反時代的密語 理想の旗を高く掲げよ」(梅原猛・哲学者)<朝日新聞(05.3.1)>.pdfより~

子らも知る 文化の源

 ギリシャ・アテネのアクロポリスの美術館は、光が直接降り注いできます。大理石の彫像がバラ色に輝き、そのまま「ギリシヤ神話」の世界に誘われます。私自身、娘の懐妊を自覚したのは「デルフォイの神託」で知られるアポロン神殿で、天から授かった娘と思い、デルフィーヌと名付けました。

 ある年のバカンスで、パリからギリシャに旅立つ孫たちに「遊園地ばかりじゃなく、パルテノン神殿に連れていってもらいなさいね」といった私に、7歳になった孫息子が「それ、ゼウスの娘、アテナをまつった神殿でしょう」と即答して驚きました。フランス文化も元をたどれば、古代ギリシャに行き着きます。幼いときから古典を学び、人間のルーツに興味をもち、多くの人が教養を共有することで世界が広がり、個の力も強くなるように思います。

 いま、日本はつらく苦しく、並大抵ではない、困った立場にいます。古代アテナイに集った神々が織りなすさまざまな叡智。愛や執念、やさしさや悪さえ渦巻く、人間の底知れない力が、東北に、ひいては日本中に宿ることを、心から祈ります。

<俳優・作家 岸惠子さん>

~<「文化の扉 はじめてのギリシャ神話」朝日新聞(12.3.12)>より~

前田一武 『邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説 』 

第一部「日本書紀」から謎を解く。

一「日本書紀」の成立

 ・・・・・。

 あらかじめ「日本書紀」『巻三』「神武東征」の要点をまとめておくと、次のようになるでしょう。

 ① 東方に「美(うま)し国」があると、九州に根拠を持っていた天孫族が知ったこと。

 ② その「美し国」には名前の知られた「饒速目命」という同族が、すでに「降臨」していること。

 ③ 日向出身の四人の天孫族の兄弟が、倭の国家を支配するために、よき地を求めて、「美し国」に東征を開始したこと。

 ④ 途中、兵姑と徴兵のために、あるいは何らかの理由があって三年の歳月を吉備国、高島宮で過ごしたこと。その地を戊午の年の二月一一目に出陣したところ、河内国から敵将、「長髄彦」が、東征軍を「国を奪う侵略者」とみて、防戦を始めたこと。

 ⑤ 当初、「龍田」から侵入を試みたが、道が険しいため引き返し、中央突破を計画して生駒山麓から直接に敵陣「中洲」を攻略しようと考えたこと。

 ⑥ 緒戦、「孔舎衛坂」において激戦になり、苦戦のうえ敗退し、長兄の「五瀬彦」が負傷したこと。

 ⑦ 戦略として日の出る「東」にむかって戦うことは神意に反すると考えたこと。

 ⑧ 長兄「五瀬彦」は戦傷で死に、紀の国に埋葬したこと。

 ⑨ 東征軍はいわば敗残軍となり、結局、最も若い四番目の弟「若御毛沼」が最後まで戦うこととなったこと。

 ⑩ 河内を大きく「東」に迂回し、熊野方面から大和を目指したこと。後に神武天皇となる「若御毛沼」の上の二人の兄は、紀伊半島の大迂回中に発生した海難に嫌気がさして、「東征」から離脱したこと。

 ⑪ 紀伊半島に上陸し、歎難辛苦の末、大和の宇陀郡に潜入する東征軍は、ほとんど壊滅状態であったこと。

 ⑫ 謀略と説得によって、次第に大和の豪族を自陣に引き込んでいったこと。

 ⑬ やがて奈良盆地の「東」、三輪山を背に陣を構え、生駒山周辺の敵陣を西にすえたこと。

 ⑭ 東征軍は、敵将「長髄彦」には、戦闘では勝利できなかったこと。

 ⑮敵本陣の「中洲」は、「鳥見」と呼ばれる地域にあって、そこで最終戦があったこと。

 ⑯敵将「長髄彦」が、東征軍が仕掛けている戦闘の「正当性」を疑い、「論戦」を什掛けたこと。

 ⑰ 神武天皇は、「長髄彦」が見せる天孫支配の象徴、「天羽羽矢」と「歩靫」を「本物」だと認めたこと。

 ⑱ すなわち、「長髄彦」は単に一地域のまつろわぬ豪族ではなく、正統な王であること、つまり国家支配の正統性が「日本書紀」の作者から彼に与えられていること。

 ⑲ 「饒速日命」は「長髄彦」の妹婿であったが、天孫族であり、義兄が頑固で支配者の分際でないことを理解し、義兄を殺して東征軍に帰順し、物部氏の祖先となったこと。

 ⑳ 神武天皇はそののち、残党を平らげ、辛酉の年、橿原で即位したこと。

 以上がおおよそ「神武東征」の概略であり、また、「日本書紀」巻三の内容なのです。次章でこれを分析しながら、詳しく見て行きます。この中に「邪馬台国」の謎が隠されているに違いないのです。

 

二 神武東征

1 東の美(うま)し国へ

 ・・・・・。

 先代旧事本紀』は、この「饒速日命」が「河内国の哮峰」に降臨したと言いますが、この哮峰(いがるがのみね)は二箇所が考えられます。一つは地名に現存する奈良県生駒郡斑鳩町周辺です。もう一箇所は、大阪府交野市の「磐船神社」周辺です。「交野市」周辺には、物部氏ゆかりの小古墳が数多く存在します。いずれも、生駒山を取り囲む南北の比較的近い位置にあります。

 しかし、ここで重要なことは、本書のキーパーソンである彼が「天孫族」として、生駒山周縁に領地を保持し根付いていたということです。

 神武天皇の言う「東にある美しい国」とは、生駒山の周縁一体をさしているのです。それが「神武東征」の目的地であり、「日本書紀」の言う「東有美地 青山四周 其中亦有乗天磐船而飛降者」なのです。

 神武天皇の本格的な軍事侵攻の前に、「天孫」族が倭国の支配に深く関与していたということ、その中心地は生駒山の周縁であったということは、見逃すことができないポイントです。

 その政治形態は、「饒速日命」とその妻の兄「長髄彦」との二重支配であったことが次章で窺えます。祭祀は「天孫」族、饒速日命であり、政治権力は長髄彦でした。この権力の二重構造性は「魏志倭人伝」に描かれる卑弥呼と弟王の関係、「邪馬台国」の政治構造を想起させます。

 「美し国」とは「長髄彦」の国だったのです。

 

2我が国を奪う者

 東征軍は、途中、兵の募集や食料、兵器の調達などいわゆる兵姑のために、三年間、岡山県、吉備の国、高島宮で過ごします。三年はあるいは長く感じられるかも知れません。何らかの理由があって、攻勢に手間がかかったのです。この三年間は、出雲との連合軍編成の交渉期間ではなかったのかと推理します。「大和朝廷」と「出雲国」との、その後の深い関係を照らして考えると、この期間は「関係構築」の時間のように感じます。薩摩と長州が連合に至るのにも、それはどの「手間」がかかりました。

 そしていよいよ、戊午年の二月十一日に高島宮を出陣します。当然、河内国から「敵将・長髄彦」が、東征軍を「国を奪う侵略者」として、防戦を開始します。河内国が「美し国」の最前線であることがわかります。

 

   時長髄彦聞之曰、「夫天神子等所以来者、必将奪我國」

 

 「長髄彦」の主張を記述しているところは、「神武東征」が聖戦と言えるかという、「記紀」の著者の公平を期す配慮が見えます。「必将奪我國」という時点で、少なくとも「長髄彦」側は東征軍が侵略軍であると認識しています。国防上の正義は、「長髄彦」側にあります。

 「日本書紀」の著者は、神武天皇の東征が、国際法上「侵略戦争である」と考えられる可能性を示唆しているのです。これは相当に譲った姿勢でしょう。

 この点に関して、「古事記」の制作意図は、国内の情宜が主たる目的と考えられるゆえに、「長髄彦」の立場と東征軍との関係については、深入りをさけて、神託を受けた出来事であるとほとんど略述しているのです。従って「古事記」では「ナガスネヒコ王」は、単に「まつろわぬ」田舎の豪族でしかありません。

 「日本書紀」は、「古事記」と違って、漢文体で表現され、東アジア全域及びシルクロードの国々に、日本の歴史書として公表される『建国紀』です。倭国の事情はすでに中国史書によって知られているわけですから、当然、その歴史事情に詳しい「歴史家」も多数存在するでしょう。従って、「日本書紀」の編著者たりとも、この「長髄彦」側の「必将奪我國」の主

張を落とすわけにはゆかなかったのではないでしょうか。

 八世紀の日本の歴史家が、この「神武東征」を『侵略戦争』と見ることの出来る東アジアの視線を無視することが出来なかったというべきでしょうか。「長髄彦」は、最終決戦において、神武天皇と「統治権の正当性」を争うのです。

 「なぜ、あなたに私の国を奪う権利があるのですか」

 それは、「美し国」の王の悲痛な叫びでしょう。

 河内から望んで生駒山の西山麓の向こう側に、「長髄彦」の国の首都域、すなわち「中洲」があって、そこが侵攻軍の攻略目的地であったということは、大きな情報ですが、八世紀になっても忘れがたく残存し伝承された「国王」がそこにいて、「倭国全体の統治権」を持っていたのです。このことは、「邪馬台国」の存在を想起させます。

 しかし、「長髄彦」の統治権が「倭国全体の統治権」だったとなぜ言えるのか。それをこれから見ていきます。私たちが検証しなければならないことは、「長髄彦」が生駒山周縁の国王であったとしても、彼が王である国が「邪馬台国」であったとどうして言えるのかということです。私たちは、この点を考えなければなりません。

 国際的に認知された国家が何の理由もなく自然消滅するということは、普通は考えられない

ことです。「邪馬台国」も滅亡しましたが、それは、何らかの力が加わって滅亡したのです。

 この点を考察するために、私たちは東アジアの政治状況について、いくつかの場面ごとに検証していかなければなりません。「邪馬台国」の滅亡や「大和朝廷」の誕生は、単に国内的な問題ではなく、東アジア全域に関わる状況の下で発生しているのです。

 この「長髄彦」の国、「美し国」にもっと迫らなければならないということになってきました。

 

3 戊午(つちのえうま)とは西暦何年か。

 (略)

 

4 生駒山の向うの「中洲(うちつくに)」

 少し戻って、「東征軍」と「長髄彦」の戦闘経過を見て行きましょう。その描写は非常に具体的ですし、「邪馬台国とは何か」を考えるうえで、さらに大きなヒントを手に入れることができます。

 

   三月丁卯朔丙子 遡流而上 徑至河内國草香邑青雲白肩之津 夏四月丙申朔甲辰 皇師勒兵 歩趣龍田 而其路狭嶮 人不得並行 乃還更欲東喩謄駒山 而人中洲

 

 (戊午<つちのえうま>)三月、「丁卯(ひのとう)朔丙子(ひのえね)」は、「丁卯」の日を「朔(つきたち)」すなわち、第一日として「丙子」の日、一〇日目です。すなわち、三月一〇日ということですが、この日に難波から河内湖岸、「白肩之津」に至ります。そして四月九日、侵攻軍は龍田まで行軍しましたが、道が険しく兵隊が並んで行くことが出来ないので、いったん引き返し、生駒山を東に登り、直接、「中洲」に突入することにしました。

 ここで言う「中洲」は、生駒山を越えた東側の奈良県北西部の生駒郡から奈良市西部、すなわち富雄川一帯を指しています。そこが侵攻軍の攻略すべき「長髄彦」の国の中心地、首都城です。そこにむけて、いよいよ侵攻軍は敵本陣の直撃を試みます。

 ところが、生駒山の登り口で、犬苦戦するのです。それが「孔舎衛坂(くさえさか)」の激戦です。

 

   時長髄彦聞之曰 「夫天神子等所以来者 必将奪我國」則盡起屬兵 徼之於孔舎衛坂 與之會戰 有流矢 中五瀬命肱脛 皇師不能進戦 天皇憂之 乃運神策於冲衿日 今我是日神子孫 而向日征虜 此逆天道也

 

 緒戦、生駒山麓「孔舎衛坂」の戦いは、神武天皇の一番上の兄、「五瀬命(いつせのみこと)」が傷つき、やがて戦死するほどの激戦でした。長髄彦が「必将奪我國」と首都防衛の檄を発するほど必死の防戦だったのです。

 今、石切神社の北側、近鉄奈良線生駒トンネル付近に「日下」の地名が残っていますが、確かに、このあたりの地形が、一番生駒山を奈良方面に向かって縦断しやすいように観察できます。この戦闘の時、兄の将軍五瀬命の肱脛に流れ矢が当たり、侵攻車は前進することが出来なくなりました。

 神武天皇はこの苦戦の原因を「東」に陣を取る敵と戦ったからであると考えます。日の神の子孫である自分が日に向かって戦うのは、天の道に逆らうものであるとして、一旦退却します。その後、神武天皇はこの信念を徹底し、熊野から大和入りする大迂回路をとることになります。というのも、敵陣の「東」に自陣を据えるためには、大和にあってはその方法しがないからです。日本の戦闘では、地形・陣形と並んで、方位は重要な勝利の要因になります。太陽の光をどのように戦闘条件の中に用いるか、また、同時に季節風をどう利用して風上に立つか、などは戦略家の基本だったでしょう。それが神意でした。神意がそのように神武天皇に下ったというべきでしょうか。

 神武天皇は、信念を持って、紀伊半島を大きく迂回する艱難辛苦の道を選びます。兄を失ったこの「孔舎衛坂」の痛い経験から学んだのです。

 やがて、まさしく波乱万丈の末、大和南部の攻略に成功し、「長髄彦」との決戦にあっても、富雄川の東岸に陣を置きます。大和盆地を平定してもその東、三輪山を背後に本陣を構えることになりますが、それは、この緒戦の敗戦の教訓なのです。

 

5 鳥見の決戦

 

   十有二月癸巳朔丙申 皇師遂繋長髄 連戦不能取勝 時忽然天陰而雨冰 乃有金色靈鴟飛来 止于皇弓之弭 其鴟光曄煜 如流電 由是長髄彦軍卒 皆迷眩不復力戦 長髄是邑之本號焉 因亦以為人名 及皇軍之得瑞鵄也 時人仍號鴟邑 今云鳥見 是訛也

 

 十二月癸巳(みずのとみ)朔丙申(ひのえさる)。十二月四日(癸巳の日を朔すなわち第一日とし、丙申の日すなわちその四日目)決戦の時が来ました。「神武天皇」と「長髄彦」との決戦は、「鳥見」で行われます。有名な金色の霊鳥の飛来したところです。現在、近鉄富雄駅周辺の富雄川西岸に鳥見、東岸に三碓(みつがらす)などの地名が残っています。「鳥見」は「鴟邑(とびむら)」の訛であると伝承されてきました。

 日本の政治史上、最も重大な謎を秘めた戦いになるとは、多分、この時、誰も考えなかったでしょう。皇軍はそれまで何度も戦いましたが、長髄彦を討ち取ることができませんでした。しかし、この日は、戦場に金色の靈鴟(れいし)が飛来したのです。「長髄彦」の軍兵は、電気が流れる如く、痺(しび)れて戦う力を失ってしまいます。皇軍はめでたい鴟(を得たのですが、やはり戦闘にあってば、決定的な勝利を得ることができませんでした。

 

6 統治権は誰に

 戦闘による決着は見られず、状況は膠着します。そこで、最後の頂上会談が設定されました。

 いよいよ決定的なポイントにさしかかったのです。それは、誰がこの倭国の正当な王なのかという「統治権問題」です。そのことが、この副ト会談で明らかにされていきます。

   時長髄乃遣行人言於天皇曰「嘗有天神之子乗天磐船自天降止 號曰櫛玉饒速日命 饒速日是娶吾妹三炊屋媛亦名長髄媛亦名鳥見屋媛 遂有兒息 名曰可美真手命 可美真手 故吾以饒速日命為君而奉焉 夫天神之子 豊有兩種乎 奈何更稱天神子以奪人地乎 吾心推之未必為信」

 

 「日本書紀」『巻三』にあって、「邪馬台国」を考える上でこの部分ほど重視しなければならないところはないと思います。いまだかつて、その重要性はクローズアップされてこなかったようですが、間違いなく「邪馬台国」と「大和朝廷」を繋いでいる決定的な部分であると、私は考えます。

 長髄彦は伝令を遺わし天皇に直言します。彼の論理は次のようです。

 「わが国には、以前、天の磐船によって天下った『饒速日命』がいらっしゃる。そして、わが妹、三炊屋媛を娶り、子息可美真手(うましまでの)命をもうけている。『饒速日命』を我らの君主として仰ぐのは天神の子であるが故である。どうして天神の子が二人、この国にあるというのか。それとも天神を名乗り、この国の人と地を奪おうとしているのではないか。私か信じられないのはその点てある」

 この論理はまことにもっともではないでしょうか。長髄彦の主張は、自らの主権が正統な手続きを経たものであることを訴えています。「古事記」が言うように単なる地方豪族ではなく、「天神」を仰ぐいわば国際的に領有権が認められた国家の王なのです。

 しかし、また、よく考えてみると、この論理は侵攻軍にとっても都合のよい仕組みにはなっています。すなわち、「天神」一族ならば、この国の支配者になる資格かあるという暗黙の前提です。国家の統合理論が「天孫族」を軸とするものであると、「日本書紀」の著者は暗に示唆しているのです。

 八世紀の記述者が見ていた「長髄彦の国」とは、地元の一地域の狭い国家ではないことは、ここからも明白です。「古事記」が言うように長髄彦が一地方の豪族でしかないとするならば、「日本書紀」にあって、わざわざこのような統治権の正統性を争う記述は必要はないでしょう。

 長髄彦の治める国もまた、神武天皇ら侵攻軍が掲げる「神託の論理」にかなう国家であることを、ここから理解できるのです。

 その神託によって成立している四世紀以前の国家、しかも国際的に認知されている国家とは、まさしく「魏志倭人伝」に知られる「邪馬台国」だけしか存在しないのではないでしょうか。三世紀に、女王卑弥呼、台与が従えていた連合国を継ぐ長髄彦だけが、倭にあって統治権の正当性を保持していたのです。だからこそ、長髄彦を打倒することによって初めて、九州・中国連合の東征軍が、大和を平定し、邪馬台国が保持していた倭全体の統治権を継承することが出来たというわけなのです。

 四世紀以前の倭にあって、「魏志倭人伝」に記述される「邪馬台国」以外に、「日本書紀」で言う「天孫」の統合体を考えることは不可能です。

 そして、その長髄彦と侵攻軍が最終決戦を行った「時と場所」こそば、記憶され伝承されたのです。「日本書紀」の制作者にとって、国家権力の構造の正当性を内外に認知させるためには、国家誕生の「時と場所」という点だけは、明確にしなければならないし、そればかりでなく、いわば国際的な衆人環視の中で、「時と場所」だけは、御都合主義によって虚偽記載の出来ない部分なのではないでしょうか。

 私たちが確認したことは、それが「戊午(つちのえ)の年、すなわち西暦三五八年一二月、奈良県北西部、富雄川流域、鳥見の里」で発生し、そこで旧体制軍と侵攻軍が最終決戦を行ったという点なのです。

 侵攻軍はさまざまな謀殺と裏切りによって勝利し、権力を確立した、それだけは動かせない出来事として伝承されていたということです。私たちがこの事象を信頼できないとするなら、「日本書紀」そのものの価値を疑うことになりますし、「神武東征」は永遠に御伽噺のようになってしまいます。

 神武天皇は長髄彦の明快な主張に、苦しい言い訳をしています。それは「日本書紀」の制作者が、「神武東征」の明確な正当性を打ち出せないでいることを意味しています。

 神武天皇は、長髄彦に問い詰められてこう答えます。

 「天神の子は他にもいる」

 これはやはり苦しい言い逃れです。その場面をもう少し詳しく見ていきます。

 

7 本物である。

 

   「天神子亦多耳 汝所為君 是實天神之子者 必有表物 可相示之」長髄彦即取饒速日命之天羽羽矢一隻及歩靫以奉示天皇 天皇覧之日「事不虚也」還以所御天羽羽矢一隻及歩靫賜示於長髄彦

 

 天の神の子が他にいるとでも言うのかという長髄彦の問いかけに、神武天皇は、

 「他にも多くいる。お前が君主とする饒速日命が本当に天の神の子なら、必ずその証拠となるものがある。それを示すことができるのか」

 と、逆に詰問します。ここで「天孫族」である物的証拠が求められますが、長髄彦は、饒速日命が持つ「天羽羽矢」と矢を背中に収納する「歩靫」を天皇に示します。天皇はこれを見て、

 「事不虚也」

 「嘘ではない」とあっさり認めるのですが、しかし、この「四文字」ほど、重大な記述はないと私は思います。

 この「四文字」こそが、「邪馬台国」の謎の全てを解き明かす重大な鍵のように感じられるのです。

 すなわち、この時点で、「長髄彦」は「神武天皇」と同格なのです。

 「嘘ではない」とあっさり認めることは、少なくとも「統治権」の認証において、長髄彦は神武天皇と同格であるという極めて重大なポイントを示唆するのです。

 神武天皇がこのように長髄彦の言うことを嘘ではないと認めるならば、神武天皇自身がこの東征を、「聖戦」すなわち唯一の神意に基づく侵攻であることを否定したことになるばかりではありません。少なくともこの時点で、天の神の子が支配する権力が「神武東征」以前に、地上に存在していたことを「日本書紀」の制作者は認知していることにもなります。やはり、長髄彦は正統な倭の支配者だったのです。長髄彦が正統な神託に基づく支配権力者であったことを「事不虚也」の言葉から確認できます。

 つまり、大和朝廷が成立する前に、この麗しい大和の地に、天孫族が統治する国家と体制が存在したことを「日本書紀」は明示しているのですが、ここが「古事記」の記述と決定的に違うところであるのは、国際的にも周知された「邪馬台国」滅亡の事実を、しっかり「事実」として書かない限り、体裁が国際的であっても、その歴史書は日本の「正史」と認められなかったからだと、私は推理します。

 そして、両者の会談の後、統治権の根拠とでも言うべき「天羽羽矢一隻及歩靫」はそのまま長髄彦に還されます。

 そして、神武天皇は……。そのまますごすごと九州に引き上げたのでしょうか。

 もちろん、そうではありません。

 ならば、神武天皇は「統治権」をどのように引き継いだのか。

 ここにキーパーソン「饒速日命」の働きがあります。彼の使命は義兄の謀殺です。人間ドラマ風にいえば、彼は新旧のリーダーを「天秤」にかけて、義兄長髄彦を裏切り、同族の侵攻者、神武天皇に靡いたのです。そして、神武天皇の橿原での即位を「神託」として、即位の儀式の全てを取り仕切りました。そのように『先代旧事本紀』は伝えます。

 「謀殺と裏切り」は恥すべきことで「神託」を受けた軍隊のなすべきことではありません。しかし、体制の転覆や革命がそのような恥すべき行為を抜きにして成立すると考える方がかえってむつかしいのではないでしょうか。「大和朝廷」がそのような「謀殺と裏切り」の結果、ついに誕生したという事実は、なるべく迷彩されなければならないでしょう。「歴史」の制作者はそう考えるかも知れないのです。なぜなら、新しい支配者もまた、「道徳」を説かなければならないからです。この権力者の自己矛盾は、多くの政権交代の事件に見られます。

 だとすれば、彼の「報酬」は何だったのでしょうか。

 彼が義兄を殺害し、神武天皇に恭順したのは、東征軍の「大義」のためであったことは認めますが、しかし、それだけでは彼の政治的利害が看過されているような感じが残ります。「邪馬台国の滅亡」には、何か表には書き表せない驚くべき事実が裏に潜んでいるような雰囲気があります。

 謀略には個人の利害が孕んでいます。

 この場合、推理できることが二つあります。「饒速日命」に与えられる報酬の一つは、「ナガスネヒコ王の国」の遺領の継承です。

 生駒山周辺の多くの神社にあって、「饒速日命」が祭られているのは、彼が「ナガスネヒコ王の国」の中心地を継承したことを示しているのではないでしょうか。

 もう一つは軍事大権を収納し、次の大王に就任すること、生駒から入って、神武創業に恭順したご褒美として新しい大王となることです。

 八世紀の紀記制作者にとってこれは、皇統に関する重大事です。これをどうして表ざたに出来るでしょう。

 この事実をどのように隠蔽するか……。

 この二つが「邪馬台国」の滅亡と引き換えに、侵攻軍から与えられた「饒速日命」の報酬ではないかと推理します。その状況証拠は、実はいたるところから見つけることが出来るので、稿を改めて第三部で述べたいと思っています。

 もう一度重要な点を確認してまとめますが、もし、神武天皇が長髄彦の言うことを嘘ではないと認めるならば、神武天皇自身がこの東征を、唯一の神意に基づく侵攻、すなわち「聖戦」であることを自ら否定したことになるばかりではなく、その時点で天の神の子が支配する権力が「神武東征」以前に、地上に存在していたことを「日本書紀」の制作者は認知していたことにもなるわけで、長髄彦がそれまでの倭の支配者だったことを明らかにしているのです。

 そして、長髄彦が正統な神託に基づく支配権力者だったことを「事不虚也」の言葉によって示しだのは、国際的にも周知された「邪馬台国」滅亡の過去を、しっかり「事実」として書かない限り、「日本書紀」は「正史」と、国際的に認められなかったからだと推察できるのでした。

 ならば、神武天皇はどういう理由を立てて、ついには「統治権」の奪取を行ったのでしょうか。そのことを次に見ていきましょう。

 

8 「天人の際」とは何か。

 

   饒速日命本知天神 慇懃唯天孫是與 且見夫長髄彦 稟性愎佷 不可教以天人之際 乃殺之帥其衆而歸順焉 天皇素聞饒速日命是自天降者 而今果 立忠效 則褒而寵之 此物部氏之遠祖也

  (訳)

   饒速日命は、もとから、天の神が深い思いで、ただ「天孫族」だけに味方しなさるということを知っていた。かつまた、その長髄彦の稟性はねじ曲がっており、「天人の際」を教えることもできない様子を見て、それで、長髄彦を殺して、その民衆を率いて帰順した。天皇は、もとより饒速日命が天より降っている者ということをお聞きになっていて、今、まさにその忠誠を明かしたので、褒めてこれを寵愛なさった。饒遠日命は、物部氏の遠祖である。

 ここで、神武天皇が「旧政権」の国王から「統治権」を略奪する理由は、統治上の「公的問題」ではなく、ただ長髄彦の「稟性」の問題だけでしかなかったということがわかります。

 長髄彦が殺される理由は、国主、長髄彦がいわば頑固で「天人の為すべき道」を教えることもできない曲がった性質だからだと記述されますが、ここで言う「天人の為すべき道」とは一体何だったのでしょうか。そして、饒速日命の報酬を先に見てしまいましたが、彼が義兄を裏切らなければならなかった根本的理由を私たちはどう考えればいいのでしょうか。

 歴史を動かした「天人の際にあらず」という論理をもう一度検証してみなければなりません。神武天皇がどのような「大義」で権力の交代に成功し、東征を完了したのか。

 そのために、この時期の東アジアの状況を見なければなりません。今まさに「国家体制」の変換を画策しなければならない緊急的条件が東アジアにあり、それが倭国を取り巻いていました。つまり、「帯方郡炎上」です。それは東アジア全域に風雲急を告げる大変動でした。

 それにも関わらず、長髄彦は、旧体制的倭国統治法とても言うべき「地方分権的な連合体制」に固執したのではないでしょうか。

 そこに侵攻軍が、彼を誅殺しなければならない理由を見たいと思います。中央の支配者に危険な外圧を感知できない当事者能力の欠如があると、大きな被害を受けるのは、朝鮮半島に近い九州・中国地方の国々だからです。

 したがって、今、「天人の為すべき道」とは、高句麗の強大化に対抗するために、国家の骨組みを「中央集権的な軍事体制」に変えていく、そのりリーダーダシップを意味していたと考えられるのです。

 「饒速日命」は「天孫族」であるがゆえに、国家の存亡の機微が見えていました。少なくとも「日本書紀」の制作者はそう言いたいに違いありません。現に「饒速日命」の忠義は天皇に愛され、やがて大連、物部氏の遠祖となりました。

 「邪馬台国」滅亡後、倭国は大和に確立された大王を中心とする朝廷の方針で、即座に外征に転じ、朝鮮半島に出兵します。「征韓論」を掲げて朝鮮半島に出兵する明治政府の外交と同じですし、豊臣秀吉も戦国統一のエネルギーを朝鮮半島の攻略にむけました。

 「中央集権的な軍事体制」の確立を急ぐ、これが神武天皇の変革の「大義」であったのでしょう。また、「饒速日命」を動かした理由、権力交代の「論理」なのではなかったでしょうか。

 そして、「長髄彦」謀殺の個人的報酬をさらに大胆に推理してみます。

 生駒山周辺の様ざまな伝承や史跡が物語っているように、長髄彦の旧領はすべて饒速日命に譲渡されています。

 神武天皇は、「生駒王」としての待遇を約束します。生駒山を神体として祭る儀礼をも許しますが、それだけでは義兄を殺すことができないでしょう。饒速日命は、この怒涛のように、また執念深く攻撃の手を緩めない同族の力を恐れ裏切りに踏み切ったのでしょうか。それだけでもないでしょう。

 神武天皇は同じ天孫族として、ともに倭国を作り変える力として働くように、「大義」につくように、真摯に誘ったに違いありません。

 しかし、また、それだけでもないでしょう。彼の妻である鳥見姫は、兄長髄彦を慕っています。兄と共に戦火をくぐることを望みます。彼は決して兄を裏切りたくないと考えます。

 「日本書紀」『巻六』で、垂仁天皇と佐保姫の物語に代表されるように、兄妹と義弟の相克のモチーフは「記紀」において何度も繰り返されます。

 「饒速日命」は人間として悩んだのではないでしょうか。ここで義兄一族とともに、侵攻者に徹底抗戦することが倭国の民人にとって大の声なのか。九州からの侵攻軍に徹底抗戦し、「倭国大乱」を再現させるものなのか。

 しかし、敵将の使いはさらに饒速日命に伝えたものと、私は想像を巡らせます。

 「饒速日命をもってすれば、大和のみならず倭国全域が治まる。国家全体の改革は急務となっている。ここで頑迷な長髄彦だけを排除し、帰順すれば、天皇の皇太子として立てることを約束する。また一族には倭国の全軍を委ねる」

 となれば、いよいよ「饒速日命」は決断を迫られます。

 「妻から裏切り者の汚名を浴びても、兄の首一つでこの国が安らい、守られるなら……。皇太子となって国の民人を養えるなら……」

 そもそも「邪馬台国」は、倭国大乱を収めるために女性を王としてまとまったいわば「平和国家」でした。ですから「天人の際」とは、私情を捨てて、ヒトを養い守るために戦うリーダーシップのことだったのです。「長髄彦」にはそれがなかった、すなわち「邪馬台国」の国家の理念には、外圧と戦うというものがなかったのです。すくなくとも、「日本書紀」からは「邪馬台国」の盛衰をその上うに読み取ることが出来ます。

 

第二部 「魏志倭人伝」から謎を解く。

一 位置の論議

1 方向の持つ誤謬姓

 (略)

2 距離の確実性

 (略)

3 「邪馬台国」の四官

 (略)

4 「邪馬台国」の人口を考える。

 

二 女王卑弥呼

1 倭国大乱

 (略)

2 卑弥呼は、公孫氏か。

 (略)

3 「公孫氏」は司馬仲達が滅ぼした。

 (略)

4 三角縁神獣鏡の紐の穴

 (略)

5 「箸墓」は「卑弥呼の墓」だろうか。

 (略)

 

6「卑弥呼の墓」を探そう。

 「卑弥呼の墓」は、少なくとも魏の明帝より賜った「親魏倭王」の印よりは見つけやすいでしょうが、しかし、「径百余歩」のこの女王にふさわしい墓が、私たちの探索地域である生駒山周縁に存在するのでしょうか。わずかに残る考古学的物的証拠を手がかりに、この探索の旅に出かけてみましょう。

 近鉄奈良線で大阪難波から三〇分ほど、準急列車に乗ります。大阪と奈良の県境、生駒トンネルをくぐると、ほどなく富雄駅に到着します。駅から徒歩で富雄川沿いに10分ほど北に行くと、バス停「出垣内(でかいと)」があります。その横一帯の影蒼とした小高い丘の中に、戦前の学者たちが定めた「神武聖蹟」があります。神武天皇が東征の最終局面において「本陣」を張ったところと言うのです。「聖林研究所」という私有地の中に苔むした小さな石碑と小規模の墳墓があります。

 ここが「日本書紀」『巻三』における「神武東征」の最終戦争勝利の地として定められました。なるほど、地形的に見ると、「日本書紀」の記述にたいそうかなっています。

 神武天皇は生駒山の大阪寄りの地「孔舎衛坂(くさえさか)」で緒戦を行いましたが、これが激戦で、総司令官でしょうか、長兄である五瀬彦を失う大敗北となります。その敗戦に懲りて、その後の戦いは常に敵軍の東に陣取ろうとします。東に陣を取るのが神意であると考えたので奈良盆地でも東側に陣を張り、三輪山を神体とし、「纏向遺跡」あたりを神域としたのです。この富雄川岸の「神武聖蹟」も敵陣の東岸であり「日本書紀」の記述にかなっています。

 そして生駒山を背にして最後まで抵抗する敵将の長髄彦、ついに「決戦」に臨む侵攻軍。大和盆地を挟んで生駒の西軍と三輪の東軍が対峙したのです。

 「決戦」はこの地で行われたと推理する戦前の学者の慧眼に、謙虚に敬意を表したいと思います。富雄川を挟んで西側にも小高い丘があり、そこが「まつろわぬ」最後の人物、長髄彦の軍陣と見た学者たちの判断は、地形上からも非常に納得できます。饒速日命の裏切りにあって、あえない最後となった敵将、長髄彦の伝承墓地がその丘の上にありますが、彼には源義経のように北に逃亡したという伝承もあり、今後とも、長髄彦の行方は見逃せません

 攻める神武天皇軍、すなわち「大和朝廷」と、守る長髄彦軍の決戦場は、「生駒市田原」つまり近鉄学研都市線の「白庭台訳」周辺から「奈良市富雄」、近鉄奈良線「富雄駅」周辺だったのです。

「日本書紀」にいう神武天皇がついに攻略した「中洲(うちつくに)」は、広く見て、「魏志倭人伝」の「伊支馬=生駒」の中心地で、この地域が最もふさわしいのです。

 「中洲」、この奈良県北西部の地域は「水運」、「水利」、「防衛」の上で極めて有利な地形であることが畿内全体を俯瞰して見ると一目瞭然に理解できます。このあたり一帯は、私市から交野そして淀川へ下り出る北水路の天野川の水源であり、かつまた大和川から河内湖に出る南水路の始点、富雄川の水源でもあります。すなわち北出口と南出口の始発・終点の好位置であり、比較的ながらかな丘に囲まれた周辺地形を鑑みますと、「邪馬台国」首都域として絶好の地域ではないか、正しく「登美の地」は、「美し国」です。

 私は戦前の学者たちの歴史的嗅覚のようなものに敬意を表します。それは、多分、戦後世代のわれわれよりも、より切実に「戦争」を前提にして地形を考察した点で、「邪馬台国」の時代と共通するものがあると思われるからです。近世になって、平地に城が作られるようになるまで、国家防衛の基本、すなわち首都造作は、まず、水利、次に、丘陵という自然地形の盾を主眼に計画されます。その発想をもって「邪馬台国」の首都を考察することが重要だと考えます。

 「生駒市田原」から富雄川をやや南に「大和郡山市」方面に下ると、生駒山を西北に仰ぐ鬱蒼とした小高い森に「登禰神社」があります。この周辺地域も「邪馬台国」の首都城であると見ます。「登禰神社」の祭神はもちろん「饒速日命」ですが、そればかりでなく神武天皇がともに祭られています。「登禰神社」が「登美彦」といわれた「長髄彦」を祭神としているのではなく、「神武天皇」と「饒速日命」を祭神としていることは、「邪馬台国」の謎を考察する上で、きわめて意味深長なポイントであることを発見しました。包括的に「邪馬台国」を語るために、このことは記憶にとどめていただきたいと思います。

 さらに富雄川に沿って、やや南に下ると大和郡山市に「矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社」かあります

が、ここもまた「饒速日命」が祭神です。

 この周辺が「邪馬台国」であると述べられたのは、大阪教育大学の名誉教授であった故鳥越憲三郎氏です。先生は「物部氏」を探求する中から、そのように論じられましたが、惜しくも先年他界されました。

 卑弥呼の墓は「径百余歩」の形状をもって、この「中洲」のどこに存在するのでしょうか。

 「径百余歩」は相当な規模ですので、消滅することなく具体的に存在しているはずです。

 私は、今見るように「邪馬台国」の中心の首都城を富雄川流域に推定しました。それは、神武東征軍が「中洲」として攻略した地域ですし、「魏志倭人伝」の「伊支馬」地方そのものだからですが、顕著な古墳が非常に少ない地域です。しかし、それがかえって「古墳時代」の大和朝廷との断絶を感じさせます。「往馬大社」の権禰宜の方が、「この生駒山周辺は、考古学的にまったく地味な地域です」と嘆いていらっしゃいましたが、それはむしろ自然なことではないでしょうか。

 確かに、この富雄川流域は、「纏向遺跡」や伝神功皇后陵などが含まれる「佐紀古墳群」のように、考古学者にとっては、あまり魅力的な地域ではないかもしれませんが、しかし、私はいわゆる「前方後円墳」を「邪馬台国」と同時代の墳墓とする考えにはなじめないので、「卑弥呼の墓」の探索は、むしろ巨大な前方後円墳のない地域に魅力を感じるのです。

 そもそも卑弥呼のような祭祀を司る人物に、権威の象徴として、墳墓の巨大性を求めていいものでしょうか。私が「箸墓」の被葬者が卑弥呼であるという考えに同意できないのはその点で、「前方後円墳」のような巨大な墳墓がふさわしいのは、卑弥呼のような鬼道によってヒトをまとめる司祭的人物ではなく、人民を十分に駆使できる巨大権力を手中にした武人的な大王なのだというのが常識的な判断ではないでしょうか。

 卑弥呼が死んで作られたのは「径百余歩」の塚です。

 当時、魏において「単位」として利用されていた「歩」は1.4メートルでした。この数値を当てはめると、百数十メートの直径となります。しかし、卑弥呼の墓を円墳と考えると、一〇〇メートル級の円墳というのは日本最大級です。

 あるいは、普遍的な距離判断値としての「歩」すなわち成人の歩幅なのでしょうか。そしてまた、単位としての「歩」は、時代と国によって違いが見られます。日本の律令制度下では「歩」は面積単位となっており、六尺約一八〇センチ平方で、「一歩」は、すなわち「一坪」と同じです。

 また、「径百余歩」を「直径が歩いて百歩余」と、取れるかもしれません。あるいは、「余」という使い方から、陳寿に100メートル前後の「それほど巨大な」という蓋然的な意識があったのかもしれません。

 「径百余歩」の卑弥呼の墓は、奈良県内に数多く存在する大型の「前方後円墳」よりも、一四〇~八〇メートル級の円墳が求められるのではないでしょうか。それでも「前方後円墳」が発生する以前の、佐賀県「吉野ヶ里遺跡」に存在する弥生の墳丘墓が、約四〇メートルであるのに比較すると、八〇数メートルでも随分大きいのです。八〇メートル程の円墳となると近畿最大級、あるいはひょっとすると西日本最大級となるかもしれません。私たちはそれをこの「中洲」に求めなければならないのです。

 さて、私たちは大阪と奈良を結ぶ高速道路を横切り、やや南に富雄川を下ります。最初の丸山橋を矢田丘陵方面に渡って、奈良の三人梅林の一つ「追分梅林」に向かい、緩やかな坂道をのぼると、その住宅街の中に「丸山古墳」と呼ばれる小さい森が見えて来ます。

 「丸山古墳」は、昭和四七年に、近隣が「若草台住宅」として開発されることにともなって、「橿原考古学研究所」が発掘調査したところです。その調査報告書はこの周辺の伝承に結びつけて、物部氏に近い人物ではないかと考察していますが、それ以上の研究が進んでいるわけではありません。どうやら明治十二年ころに盗掘されているらしいことが分かりました。)

 この「丸山古墳」から魏の「三角縁神獣鏡」が四枚、すなわち画文(もん)帯神獣鏡、三角縁五神神獣鏡、三角縁四神神獣鏡、三角縁(ぶち)盤龍鏡(すべて天理大学蔵)が出土しています。また、装身具の管玉、碧玉製の腕飾(鍬<くわ>形石)、銅製の腕飾(銅釧<どうせん>)、その他斧頭形<ふとうけい>石製品(京都国立博物館蔵)などが多数出土しました。これらは大部分が祭祀用品や装身具であり、弥生時代の「呪術的副葬品」と言われるものです。現在、重要文化財に指定され、京都国立博物館と天理大学参考館に分かれて蔵品となっています。男性の呪術者は一般的に考えにくいのでこの「丸山古墳」は、副葬品から見て、弥生時代末期の王級の女性の墓と言えるのではないでしょうか。

 そして、この「丸山古墳」は近畿最大級八六メートルの円墳ですが、私たちが探し求めている「径百余歩」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。この円墳に「卑弥呼」が埋葬されていたと言えないでしょうか。

 私が「古事記は神話ではない」に衝撃を受けて、「邪馬台国」を研究し始めた頃、三一書房から「邪馬台国を探る」という書物が出版されました。大山峻峰先生の労作です。先生は、長く三重県の教育委員長をなされていた在野の研究者ですが、その書物で、大山先生は、この「丸山古墳」を含んで、奈良県桜井市や黄金塚古墳の存在する奈良市山町の奈良北西部を「邪馬台国」と位置づけられました。犬山先生は「三角縁神獣鏡」の出土状況を根拠になされているものです。

 ともあれ、丸山古墳が実は「卑弥呼の墓」だったのではないかと着想したときには、大きな衝撃がありました。それは、不思議と誰にも言えない発見のように感じられました。十分な確信が得られるまでは、書物にして説を立ててはならないと固く決意したことを覚えています。

 この丸山古墳から出土した「三角縁神獣鏡」はきめの細かいと言われる舶製鏡で、同じ鋳型から作られた「同範鏡」ではないオリジナルな魏鏡です。

 「三角縁神獣鏡」は、奈良県天理市の「纏向遺跡」にある「黒塚古墳」から三三面、京都府山城町の「椿井大塚山古墳」から三二面出土しましたが、いずれもその他の副葬品には「甲冑、刀剣、鉄鏃」が多く出土し、女性の被葬者が想定しにくくなっています。

 もちろん鏡が多く出土するだけで卑弥呼の墓と関連付けることは出来ませんし、一度に、あまりに多数の鏡が出土するは、むしろ「大和朝廷」の権力構造を連想させ、「邪馬台国」にふさわしくないように思います。

 「丸山古墳」の真横にはやや小ぶりの「茶臼山古墳」があって、姿は目立つけれども、現在は荒れています。現在、考古学界では、この「丸山古墳」の被葬者を「物部氏」の関係者とまでしか判断していません。

 私は「邪馬台国」の首都圏が富雄川流域だと特定しました。

 そして、「丸山古墳」が近畿地方最大の円墳であること、またその位置的な整合性、副葬品から判断して、「卑弥呼の墓」の有力な候補地ではないかと考えています。

 この「丸山古墳」から富雄川を挟んで、東真向かいに、先ほど訪れた「登禰神社」の森が見えます。そして「丸山古墳」の西の背後は、矢田丘陵、追分梅林を抜けて、「往馬大社」、そこから生駒山を越えて、大阪側の枚岡、日下、石切周辺に抜ける古代の直線峠道「暗がり峠」につながっていきます。

 また、逆方向に「丸山古墳」から、東方面すなわち奈良市内に向かうと、「イクメイリヒコイサチ」の陵、第一一代垂仁天皇陵に至ります。この垂仁天皇も「邪馬台国とは何か」を考える上で、大いに想像力の働く存在です。

 

第3部「邪馬台国」の終焉

一 謎の四世紀

1 遼東半島

 ・・・・・・。

 「神武東征」は、国家の体制を大きく変えていく重要な出来事でしたが、「饒速日命」の針の一刺しのような裏切りで起こったのは、大変興味深いところです。歴史の大きな変化が、時として当事者には見えないということは、しばしばあるのではないでしょうか。

 西暦三六一年の「大和朝廷」の成立は、緒戦以外に、たいそうな激戦があちこちで発生したとは考えにくい政変です。むしろ「邪馬台国」成立前に発生した「倭国大乱」の方が長期的であったし、かつ深刻であったに違いありません。「日本書紀」が記載する神武創業の状況は、人間的で線か細く、あっけない印象が残ります。

 逆説的に言えば、「日本書紀」の記述における表面上の印象は、「神武東征」という歴史事象があまりにも重大な意味を持っていたことの証でもあるかもしれません。つまり、この歴史事象の中で動いたのは、もちろん倭の地における人間群像ですが、しかし、時代全体を見たとき、やはりそこに今見ているような東アジア全域を動かした四世紀のダイナミズムに注目しなければならないことを示唆しています。そのダイナミズムは、「邪馬台国」を滅ぼし、「大和朝廷」を生み出した真に巨大なうねりでした。

 「若御毛沼」を「神武天皇」に押し上げたのは、彼個人の意志であると考えるのは、むしろ簡単です。

 しかし、歴史的事象のもっと根底のところでは、変革の「機運」というものが存在します。それによって、アメリカ合衆国は四七歳の黒人大統領を生み出しました。その観点で言うと、東アジア全体の「時代」が、倭人たちの意識に訴え、「政治変革の指導者」を生みだしたと言うべきでしょう。もちろん、「饒速日命」の義兄裏切りは、第一部で推理したような個人的な理由でなされたのかもしれません。「日本書紀」の作者は、彼が大いに用いられ、軍事を司る物部氏の遠祖であるとし、「朝廷」の協力者の末裔の繁栄を示しているのですが、仮に「饒速日命」が兄の「長髄彦」とともに、最後まで東往軍に抵抗していれば、歴史は大きく変わっただろうという見方も出来ます。しかし、先ほども見たように、「神武東征軍」の行動原理すなわち「大義」には、時代の変化や状況を見通す知恵が存在していたのです。

 もし、彼らが九州の豪族の支配欲・私欲で動いていたとしたら、ほとんど壊滅状態であった「東征軍」が息を吹き返したり、やがて、敵の豪族側に兄を裏切るもの、義兄を殺すものが続出し、ごく少数の軍がついに大和平定に成功するなどという奇跡的な勝利が生まれたりすることはなかったでしょう。

 支配欲・私欲に基づいた戦闘には、「正当性」が存在しないと感じるのは、普遍的なヒトの感性です。戦闘には、多くの命とそれに関わる利害が存在し、不当な利益や死は、平和を作りだすことが出来ないのです。それまた、戦闘で死ぬ「ヒト」の視点から見る歴史認識です。

 どのように、戦争の大義を組み立てて、兵を動かすのか、それが将の時代を見る先見性なのですから、たとえ「饒速日命」たちの徹底抗戦があったとしても、「神武東征」という歴史的変革は、なされるべきものであったのです。

 つまり、彼らの大義には「正義」があった、すなわち国家を正しく治める意思と知恵があったのです。これを彼らが言う「神意」と見なければなりませんし、饒速日命が義兄を裏切ってでも神武天皇のビジョンに賭けた大きな理由だと考えたいのです。

 このような知恵の源泉は、どこから来ているのか、まことに興味深いところがあります。

 

2 邪馬壹国

 (略)

 

3 「邪馬台国」の首都は、富雄川流域

 今まで見てきたように、奈良県の霊峰の一つ、生駒山周辺には多くの神社が点在します。

 往馬大社(生駒市)、磐船神社(交野市)、登禰神社(奈良市)、矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市)、磐船神社(南河内郡河南町)、石切剱箭神社(東大阪市)、弓削神社(八尾市)など、生駒山を取り巻く著名な神社が今でも生駒山麓の地に息づいています。これらの神社には、全て「饒速日命」が祭られているのです。

 もちろん生駒山周辺の神社に限らず、どこの「神社」にも必ずその成り立ちに理由があります。すなわち縁起と祭神を持っています。いずれの神社の祭神も、その時々の権力者によって、適当に据えられるものばかりではありません。

 たとえば、哲学者梅原猛先生の「法隆寺再建論」における『たたり』神への鎮魂説からは、権力者に都合のよい神様ばかりを祭るわけにいかないことを教えられます。敬愛する先生の御説を援用させていただくと、私には生駒山麓の神社の隠された本当の願いは、「邪馬台国」の鎮魂ではないかと思えるのです。

 今、遷都一三〇〇年の慶賀すべき時機なのですが、『東大寺大仏建立』の背景には、西暦七四三年の「大仏建立の詔」の数年前、七三七年に発生した大事件、藤原不比等の四子や数多くの高級官僚が『たたり』によって、わずかな間に死滅した「大惨事」への鎮魂を考えなければなりません。

 聖武天皇の狼狽たるや如何ばかりのものであったかを推量するに難くありませんが、少なくとも「神・仏」が祭られるには、単に勝者の政治的背景のみならず、人々の尊崇を継続して受けるために、歴史的時間の審判に耐えうるものとして、敗者や死者の鎮魂も含む包括的な多数のヒトの承認が必要なのです。

 その意味で、「神社」に伝承される縁起と祭神は、きわめて重要な歴史的価値を持っているわけで、「邪馬台国」の存在を明確に示す重大な遺産として、生駒山周縁に点在するこれらの神社を見なければならないのです。

 「饒速日命」は「神武天皇東征」に先立ち、高天原より「天の磐船」に乗って哮峰(いかるがのみね)に天下りました。

 卑弥呼の墓ではないかと推理する「丸山古墳」から車で10分ほど富雄川沿いに南下すると、「矢田坐久志玉比古神社」があるのですが、この神社は「饒速日命」が天磐船から降臨の際、三本の矢を射られ、二番目の矢が落ちたところだと云えていて、境内に二の矢塚があります。この周辺の「矢田」の地名はそこから来ているそうです。そして三番目の矢が落ちたところを住まいとされ、その地が「三の矢塚」として残り、地元では「宮所」呼ばれています。

 先に論じたように「邪馬台国」の首都防衛の関所とでも言うべき二つの「磐船神社」、そして河内に直面する「石切剱箭(つるぎや)神社」、地元では大変親しまれている「石切さん」も「饒速日命」と「長髄彦」の妹の子、「宇麻志麻治命」が祭神で、同じ境内のやや山手の「登美霊社」は、「饒速日命」の妃であり「宇麻志麻治命」の母、すなわち「長髄彦」の妹、「御炊屋媛」を祭るのでした。

 奈良県側の「登禰神社」の祭神は、「神武天皇」と「饒速日命」でした。

 大阪府八尾市の弓削神社には、奈良時代の法王、道鏡が物部に関連するということで、同じように「饒遠日命」が祭られています。

 このように生駒山をとりまく六つの高名な神社が、同一神「饒速日命」を祭るのは、生駒山周縁が「饒遠日命」の司祭の国、すなわち「邪馬台国」であることを如実に示しています。まさに「邪馬台国」の生きた「遺跡」なのです。

 

4「邪馬台国」の滅亡

 いよいよ滅亡の時がやってきます。「邪馬台国」の滅亡も「謎の四世紀」における出来事です。

 東アジアとの関連における一連の流れと、「日本書紀」にある「神武東征」の推移を重ねあわせて、「謎の四世紀」を明らかにしていきましょう。

 ① 邪馬台国末期、三世紀末から四世紀冒頭にかけて、晋の弱体化が始まり、同時に敵対している高句麗が強大化します。

 ② 晋の王族の内紛、「八王の乱」から傭兵異民族の「永嘉の乱」にかけて、中原が大騒乱状態に入ると、その間隙を狙って、西暦三一三年、高句麗が楽浪郡・帯方郡に侵攻し、完全支配下に組み入れます。「帯方郡の滅亡」です。

 ③ 「帯方郡の滅亡」によって、「邪馬台国」すなわち倭連合国家の宗主国の求心力が喪失し、国内の支配力が減退します。

 ④ 朝鮮半島では、高句麗の強大化に対抗するために、弥生的集落国家の馬韓から百済へ、辰韓から新羅への中央集権的軍事国家への政治変革が起こります。西暦三四〇年~三五〇年代の出来事です。

 ⑤ 東アジアのそのような状況に敏感な九州勢力、特に九州に定着した「公孫族」支流が、国家変革の大義を掲げて東上します。それは勤皇倒幕の薩長連合の大義と同様です。「日本書紀」に沿って言いますと、それが「神武東征」になります。彼らは自らを「公孫族」と同義性のある「天孫族」と名乗り、東征を「神託」と位置づけました。

 ⑥ 天孫族であった「饒速日命」がこの事件の鍵を握ります。彼は早い段階から、祭祀を司る神祇官として、「邪馬台国」に渡来していました。

 ⑦ 東征軍に「中洲」への中央突破の計画とその頓挫があります。

 ⑧ 「長髄彦」が登場しますが、彼が最後のこの地域の王です。彼は「饒遠日命」に妹を与え、生駒山東側周辺、「中洲」に居住していました。

 ⑨ 神武天皇は「長髄彦」の激しい抵抗を受けて、生駒山西側からの攻略を断念し、東に陣を取るため、熊野からの大迂回作戦をとりました。

 ⑩ 敷難辛苦の来、大和南部に潜入し、次々と謀略と知略によって、桜井、巻向を手に入れます。

 ⑪ ついに「長髄彦」の本陣、「中洲」、鳥見で決戦が行われますが、東征軍に戦闘上の勝利はありません。

 ⑫「長髄彦」は、自分の支配の正統性を主張します。それを神武天皇も認めます。つまり、「長髄彦」の治める国は、「天孫族」に公認された国家であって、この地域のみならず、倭地全域に正当な支配権を持っていると相互に認識しあっています。

 ⑬ ところが、「饒速日命」は、最後は東征軍の側に立って、義兄「長髄彦」を説得する側になり、ついには「天人の際」にあらずと殺害します。

 ⑭ 敗軍の将「長髄彦」こそが、最後の「邪馬台国」の正統な国王、すなわち卑弥呼の共立に始まり、台与に継がれ、やがて、「饒速日命」と名づけられた祭祀を司る一族を仰ぎながら、政治的には国をまとめ所有していた「邪馬台国」の最後の王でした。

 「邪馬台国」は、このように生駒山を神体と仰ぎながらその周縁地域に存在しました。その中心地が長髄彦のいた「登美」の地の「中洲」、すなわち「富雄川流域」一帯でした。

 

二 キーパーソンは誰か。

1「饒速日命」=垂仁天皇の構図

 「邪馬台国」の最期を看取った人物、「神武天皇」に政権のバトンを手渡した「饒速日命」について、さらに検証を続けます。

 「饒速日命」が生駒山周辺に数多く祭られる理由は、彼が「邪馬台国」の祭司であったというばかりでなく、「大和朝廷」に神託を与える儀式を行ったこと、「邪馬台国」の旧領をそのまま引継いだことでした。

 そればかりでなく、少し先述しましたが、第一〇代崇神天皇の次の大王、すなわち第一一代「垂仁天皇」として、大王に就任したのではないかと推理されるのでした。「饒速日命」こそが、「イクメイリヒコ」すなわち垂仁天皇ではないかと感じるのには、いくつか理由があります。

 政治権力の交代は、旧勢力の既得権の保証をする妥協策があればスムーズに運びます。まして、旧政権のナンバー2に、新体制確立の協力条件として、次のナンバー1の地位を約束すれば、たとえ義兄の政権国家であっても「裏切る」構図は考えられます。そして次の皇太子が旧体制の出身者であれば、他の諸豪族の協力も比較的すんなりと得られるのではないでしょうか。大きな政治変化は、その上うな野心を束ねることによって、道が開けることはよくあります。

 しかし、簡単にいかない一つの重要な問題が存在します。それは「ヒト」が神を祭る行為です。この「神」の問題は簡単に片付くものではないと思います。

 それまで「邪馬台国」の「神」に従っていた人々に、新しい侵攻者がもし別の祭祀すなわち信仰を強制するとすれば、それはまことに受け入れがたいものがあったでしょう。神を礼拝することは、「ヒト」の心にとって命の源泉だからです。

 ところが大和の新しい朝廷にとっては、この祭祀のシステムを変えて行かなければ、「大和朝廷」の下に人心は収まらないのです。

 そこで、「大和朝廷」は、崇神天皇と垂仁天皇の二代にわたって、従来の教義や「神々」を取り込みながら、世界の「神」の研究をし、それをまとめて、新体制の祭祀として、「日本の神」概念を確立したのではないかと推理するのです。すなわち「日本神道」の確立です。その意味で、「日本書紀」の成立は、「日本神道」の成立でもあったのです。

 まず、祭の中心を「大和」から「伊勢」に移動させることで政教分離を図りました。これが、「卑弥呼」と言わないで「天照大御神」とする女神が、伊勢に祭られるようになった起源であると考えます。その意味では、「邪馬台国」は祭祀においても「大和朝廷」に吸収されたと言えるかもしれません。

 「饒速日命」は、「邪馬台国」の旧領とともに、その祭祀を引き継ぎました。裏切り者の報酬と言っては、あまりに過酷な批評に過ぎるでしょう。なぜなら、彼の歴史的な大局観を軽視することは出来ないからです。時代は違っても、江戸幕府の人開でありながら、新時代に賭けた勝海舟、榎本武揚、徳川慶喜らの大局観を軽視する人はいないのです。

 「饒速日命」は、「先代旧事本記」に、天孫として降臨の際、天神の御祖より統治権の印として瑞宝十種を授かったとあります。

 そして「神武天皇」の即位の時には、彼の子、「宇摩志麻治」が大和統治権の印、瑞宝十種(みずのたからとくさ)を神武天皇に譲り、自らは即位式に際して神楯を立てて「天皇即位」を認めるという儀式を行ったと記されています。さらにはこの時、「天皇家」すなわち「大王家」のしきたりや即位の手順等が定められたとも記されていて、神武の天皇即位はすべて「饒速日命」の主導で行われたのです。

 「先代旧事本紀」からもまた、「饒速日命」の義兄、敗者、「長髄彦」が先代の国王たったことが明確になります。

 長髄彦こそ、倭国の大権を維持していた国王だったのです。つまり、神武天皇が創業する前の国家の正統な国王、すなわち「邪馬台国」の最後の王であると、「先代旧事本紀」も伝えているのです。

 「イコマ」あるいは「イクメ」に関して、さらにもう一つ押さえておきたいことかあります。御陵、すなわち彼の墓の位置です。第一一代「垂仁天皇」の御陵は、生駒山から奈良に向かう阪奈道路の右脇に存在しています。御陵からは、西に生駒山がほんとうにすっきりと美しく望めて、「イクメイリヒコ」と言われる彼が、ここに葬られたわけがよくわかります。

 第一〇代の「崇神天皇」と第十二代の「景行天皇」の墳墓は、奈良県天理市の纏向遺跡の中に存在するというのに、「垂仁天皇」陵だけは、ぽつんとこの奈良市尼辻西町にあります。

 私には長い間、不思議な問題でした。古墳の比定に誤りがあるのではないかと考えた時期もありましたが、しかし、「邪馬台国とは何か」を探求していく中で、この比定と伝承の確かさを教えられました。

 垂仁天皇は「イクメ・イリヒコ・イサチ」と呼ばれましたが、これは「生駒から入った王で座ったまま幸を受けた人」と意味が取れます。彼は、生駒から即位した人で、初めて国を治められた第一〇代崇神天皇の後、何かの理由で労せず大和朝廷の王位という幸福にあずかった大物であるという理解です。

 これは後世に何を伝えようとした謐号、名前なのでしょうか。

 「神武天皇」の東征に決定的な役割を果たした「饒速日命」は、生駒山を取り巻く多くの神社に祭られていますが、すると、「饒速日命」と「垂仁天皇」=「イクメイリヒコイサチ」の関係をどう推論すれば、「日本書紀」の中から、「邪馬台国」が浮かび上がるのか。

 その答を求めて「日本書紀」の巻六『垂仁天皇紀』を調べましょう。

 「日本書紀」の表記では、「活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)」で、生駒とは直接関係がないかのように書かれていますが、先ほど述べたように、「いくめ」は「往馬」、「いりひこ」は「入城した王」、「いさち」は「いながらの幸」と理解できますから、今まで見てきたように「生駒から皇室に入城していながら王となった」人物です。

 本書、巻頭の写真のように、「垂仁天皇陵」は、生駒山がしっかり全景として美しく見ることができる位置にあり、奈良盆地のいくつかの古墳群から全く孤立して、平城京の西側に存在していますが、「日本書紀」にあって父とされる第一〇代「崇神天皇陵」と「垂仁天皇」の子とされる第十二代「景行天皇陵」が「纏向古墳群」にありながら、「垂仁天皇」だけがこの位置に葬られたのは、その名が示す通り生駒から皇室に入城した大王だからでしょう。現地に立って、この陵から生駒方面を望みますと、古墳の比定かまことに的を得たものであることをご理解いただけると思います。

 私がこの「垂仁天皇」(イクメイリヒコイサチ)に着目するのは、「神武東征」に絶大な役割を果たした「饒速日命」が生駒地方と密接に関わっていて、「饒速日命」と「垂仁天皇」は同一人物であると言える可能性が大きいからなのです。同じ人物の業績を二分割したのではないかと思われるふしが多々あります。

 そして、「垂仁天皇」が「饒速日命」と同一人物であると考えるとき、「神武東征」が成功する意味や「邪馬台国」が滅亡するその状況、また、「垂仁天皇」陵が生駒山麓に存在する理由が本当にすっきりと理解できるのです。

 「国譲り」とは、軍事権と支配権の委譲を意味しますが、「饒速日命」は「神武天皇」へ国を譲りました。どうやら「崇神天皇」と「垂仁天皇」の関係も、いったん、「イコマ王」が「ミマキ王」に政権を委譲し、その後、「イコマ王」が朝廷に入って次の大王に就任したと推理されるのです。

 「垂仁天皇」は「崇神天皇」二九年一月一日に誕生しました。「夢の前兆」により皇太子に立てられ、「垂仁天皇」元年一月に即位します。

 「垂仁天皇」二年に「狭穂(さほ)姫」を立后しますが、狭穂姫の登場あたりから、がぜんリアリティが生まれて来ます。このサホヒメとのエピソードとその間に生まれた皇子の記述が「日本書紀」『巻六』の大略です。

 「垂仁天皇」三年三月、サホヒメの兄の狭徳彦(サホヒコ)が叛乱を起こします。「義兄」の「反乱」の構造です。皇后は兄に従って焼死します。

 ちなみに「サホ」は「トミ」の東隣の地名で、今でも奈良市内に「佐保」の地名を残し、やや小ぶりの「佐保川」が「富雄川」に並んで流れます。

 そして、読者の皆さんにはもうおわかりでしょうが、「神武東征」における「義兄」長髄彦の不服従を「反乱」と見ると、「饒速日命」の運命は、「垂仁天皇」の運命と見事に一致します。すなわち「佐保姫」とは、『巻三』「神武東征」の「長髄彦」の妹「鳥見屋姫」なのです。そして、サホヒコは「長髄彦」です。名前こそ違え、事件の構造はまったく同じです。すなわち「日本書紀」『巻三』の「饒速日命」の人間関係図は、『巻六』の垂仁天皇のそれとぴったり重なるのです。

 「垂仁天皇」の二五年の三月になりますと、「天照大神」の祭祀を皇女の倭姫命に託し「大和追放」を企てます。倭姫は、笠縫、菟田・近江国・美濃を経て伊勢国に至り、五十鈴川の辺に祠を建てて、「伊勢神宮」を創建しますが、先述したとおり、「祭祀」を「大和」から遠ざけるようにという「崇神天皇」の遺命あるいは、両者の盟約が感じられます。

 「古事記」では、サホヒコの反乱を相当、文学的に描写しています。天皇妃であるサホヒメと兄サホヒコが反乱を起こし、天皇との間に生まれたホムチワケは火中で出生したことが記述されています。また、後半は成長して言葉を発しなかったホムチワケが話をするようになるまでの構成になっています。

 そして、「垂仁天皇」治世の事績の一つとして、「出雲大社」を造営したということが、さらりと記述されますが、これもまた重大な問題です。

 なぜ、生駒王「イクメイリヒコ」が「出雲大社」を創建したのでしょうか。生駒から入った王がどうして出雲大社を創建したのか。

 なぜ、「崇神天皇」は、「出雲重視」を遺命として、垂仁天皇に残したのか。それを解く鍵は、実は従来からある一つの説にありました。それは次の章で見ましょう。

 先に見たように、「神武東征」のおり、吉備高島宮で、三年の年月を送りますが、それが兵姑と徴兵のためであるばかりでなく、その延長線上に考えられるのは、「出雲勢力」との連合軍形成でした。そして、その指揮権及び勝利後の体制作りの交渉です。中央集権国家への変革は急務ですし、新生の国家は、大王を中心とする軍事力の集中がなければ、国際的な状況に対応出来ないという「大義」を時間を費やして訴えたのが、「神武天皇」の「高島宮」の三年だったと推理しました。

 出雲の大国主命が国譲りの条件として、自分を祭ることと出雲に神社を建立することだったことは「日本書紀」の神代編からも知ることが出来ます。

 「饒速日命」も「神武天皇」へ国を譲りました。「饒速日命」が「義兄」を裏切った理由は、神武天皇の大義が時代を洞察していたからでした。

 そして、「垂仁天皇」=「饒速日命」の構図において、さらに具体的に「邪馬台国」の滅亡の姿が明らかになり、「大和朝廷」の成立が確かな姿をとって「謎の四世紀」が解明されるのです。

 

2 崇神天皇、「伊勢遷宮」の理由

 「饒速日命」が政治的取引によって、生駒から入って労せずして大王になったのではないか、すなわち彼は、「イクメイリヒコ」、第一一代垂仁天皇であるというのなら、「饒速日命」から国譲りをうけた「神武天皇、ハツクニシラス」はまた当然、第一〇代「崇神天皇」ということになり、「神武天皇」と「崇神天皇」は、同一人物であるという従来の説に繋がっていきます。

 従って、「垂仁天皇」=「饒速日命」から「邪馬台国の滅亡」=「神武東征」までの構図は、神武と崇神、同一人物説の傍証になります。というべきか、この同一人物説が、「垂仁天皇」=「饒速日命」から「邪馬台国の滅亡」=「神武東征」という構図の傍証になるのです。

 そこで、従来の「神武」=「崇神」、同一人物説について、「日本書紀」『巻五』を検証して、探っていきましょう。

 ・・・・・・。

 「記紀」の制作者にとって、彼らの『古代史』の最大の難関は、「邪馬台国」をどのように説明するか、そこに尽きたのではないでしょうか。「三国志」という重要な歴史書の中に、二千字にわたって記述される「邪馬台国」を全く存在しなかったかのように扱う「歴史書」など、日本の正史としてはその意味すらなかったでしょうから、迷彩、改竄とも言うべき苦心が生まれたのではないでしょうか。

 「日本書紀」は国家の事業であり、正史の魁(さきがけ)と呼ばれるものですから、「古事記」のように国内の豪族が納得すればよいという性質のものではありませんでした。皆が証明できない遥か昔のことなら、諸外国の連中も関与できないでしょうが、国際的に知られた事実に関して虚偽は許されないでしょうし、しかも、「邪馬台国」は「三国志」『魏書』を初めいくつかの正史にはっきり登場してます。

 まず、「邪馬台国」、これをどう「表記」するかということから悩みの種が始まりました。当時の「万葉仮名」使用の例にならって、同音の異字を使用して、「八島国」とすれば、思ったほどに苦労は生まれず、伝承は日本の古い話として「神話の世界」に送りこんでおけば、周囲も納得できます。

 しかし、「正史」に求められる重要な問題は、「政権交代」がどのような実情で行われたのかということで、これをどう表現するか。遼東半島で滅亡した「公孫一族」とも深い関係にあった「邪馬台国」を攻略し、その最後の王、「長髄彦」を「謀殺」して権力を奪取したとは書けばよかったのですが、いくら生駒地方の「伝承」が語ろうが、「史跡」があろうが、「物部氏」が何を言おうが、記紀の制作者にとって、「邪馬台国」は神話の世界に送り込まなければならない存在なのでした。「政権交代」の真実を語ることは、藤原不比等の目が光っている限りタブーでした。

 ならば、この「神武」と命名すべき人物が打倒した「長髄彦」は愚かで頑迷な、単なる一地方の豪族であればよいということになり、事実、「古事記」ではそのようにあっさり片付けられていますが、しかし、「日本書紀」では、上手の手から水が漏れています。それが最後の「統治権」の正統性のやり取りに思わず現れたことは、まことに興味深いことでした。

 「神武天皇」と「崇神天皇」を分断された同一人物にせざるを得なかったのは、『邪馬台国』を歴史上から消滅させるためでした。「邪馬台国滅亡」事件を相当な過去に送り込んで「神武東征」とするためでした。

 また、「日本書紀」の記述では、「神武天皇」が即位後は、畿内周辺の狭い領域のことしか出てこなくて、「崇神天皇」の代になって初めて、日本の広範囲の出来事の記述が出てくることから、「神武天皇」から第九代「開化天皇」までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではないかと考える説もありますが、私はこの説には同意出来ません。倭全体の連合政権である「邪馬台国」の統治構造を継承している限り、「畿内の地方政権」という発想は考えにくいと思います。また、四世紀の朝鮮出兵や全国に広がる前方後円墳を考えると、その上うな狭い地域の政権と見ることに無理かあるように感じます。

 「ハツクニシラススメラミコト」との称が、神武天皇は『日本書紀』では「始馭天下之天皇」と贈られており、初めて天下を治めた天皇という意味であり、「天下」という抽象的な語は、「崇神」の称号にみえる「国」という具体的な語より上位の観念であり、また、後に出来た新しい観念でもあるので、むしろ「神武」は「崇神」より後に、「帝紀」「旧辞」の編者らによって建国者として創作されたと考えられ、国をはじめて治めたのは、「崇神天皇」であると言われることがあり、この説にはかなり同意できます。「崇神天皇」の業績の一部が分割され、創作された「神武天皇」に与えられたと言えるからです。

 また和風謐号の問題は、次に重要な一件です。「崇神天皇」の和風謐号は「ミマキイリヒコ」、次の垂仁天皇の和風謐号は「イクメイリヒコ」で、共にイリヒコが共通しています。「イリヒコ」「イリヒメ」は当時の大王・王族名に現れる特定呼称ですが、「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族が実在した可能性を示していて、「崇神天皇」を始祖とする「イリ王朝」あるいは「三輪王朝」説なども提唱されています。

 「日本書紀」『巻五』には、「崇神天皇」が即位して、まもなく疫病が流行り、多くの人民が死に絶えたという記述があります。「疫病」とはなんでしょうか。戦争によって、「疫病」がはやることは、歴史上常にあります。「崇神天皇」が即位して、まもなく多くの人民が死に絶えたので「日本書紀」は、「これを鎮めるべく、従来宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した」と説明します。

 「天照大神」を当初、大和の「笠縫(かさぬい)」に移し、その後、各地を転々と移動して、ようやく、次の帝の垂仁天皇二五年に、現在の「伊勢神宮内宮」に鎮座したのです。

 皇室の「祖先神」であるはずの「天照大神」を大和から伊勢に遠ざけたわけですが、この事象をさらに考えてみます。

 「記紀」の制作者にとって、「邪馬台国」をどう表現するかという難問の次の難問は何だったのでしょうか。それは「卑弥呼」の扱いです。「卑弥呼」をどう表現するのか。「大神」として祭りながら、消去するにはどうすればよいのか。

 「崇神天皇(ミマキイリヒコ)」は外部から入って大和を治めましたが、もともとこの「大和」には、女性の大神が存在していたのです。それが「邪馬台国女王」の「卑弥呼」です。

 この征服地の「大神」=卑弥呼を、侵略者である「ミマキイリヒコ」が継続して祭祀するのは気持ちのいいことではありません。従って、「崇神天皇」の時代に「天照大御神」として、伊勢に移されたという記述は、彼が外部の侵攻者であることの傍証であろうと考えます。

 なぜなら外部者でない限り、自身の祖先が信仰してきた神を地元から遠ざけることなどということは、到底できないと判断するからです。

 また、それは同時に九州から東征した「神武天皇」と「崇神天皇」が外部者であり、同一人物であることを示す根拠であるとも言えます。

 「日本書紀」では、この疫病が大物主命の崇りと判明したため、大物主の子孫に当たる太田田根子に託して祭らせ、三輪山を御神体とする「大神(おおみわ)神社」としたとあります。「大物主命」は出雲の国譲りをした「大国主命」と同一神とされ、そこに、「東征軍」は中国・出雲と九州の連合を見ましたが、「崇神天皇」は、古くから大和に存在した「神」を「伊勢」に遠ざけ、自陣の守り神として、新たに出雲から神を迎えました。それが「出雲国」と軍事的に連合する条件だったりでしょう。神武天皇が吉備国の高島宮で、三年閲兵姑の準備をしたのですが、それは、もちろん出雲に「大義」を説いた期間として見ることもできます。そして、神武と崇神が同一人物であるとき初めて、「大和」の神が「出雲系」であることにも納得が出来るのです。

 「日本書紀」は、「ミマキイリヒコ」の九州からの侵攻を『神武東征』という創作で『三巻』に詳述し、「伊勢神宮」の遷宮を「崇神天皇」の時代として『五巻』に記述する構成をとったのではないでしょうか。この同一人物の業績を二人の天皇に分割したという可能性は極めて高いということです。

 すると、次の一一代、「垂仁天皇」はどのような役回りをした人物なのか。「崇神天皇」と後日呼ばれるようになる人物が、「神武天皇」と同一人物なのだとすると、「垂仁天皇」とは誰なのかは、前章で見た通りで、もう言うまでもないでしょう。

 

2 実証主義と本居先生の励まし

 (略)

 

結論 邪馬台国とは何か。

一 邪馬台国の一六〇年

1 西暦一四七年~一八九年ころ。連合成立前夜

 (略)

2 「邪馬台国・前期」、卑弥呼の共立

 (略)

3 「邪馬台国・中期」、卑弥呼の死と晋の成立まで

 (略)

4 「邪馬台国・後期」、晋との関係

 (略)

5 「邪馬台国滅亡」「神武東征」まで

 ・・・・・・

 すなわち、東アジアの歴史から判断して、「神武東征」が行われた時期は、「神武天皇」の「長髄彦」の打倒の年が「戊午(つちのえうま)」の年、西暦三五八年、大和平定が翌年の「己未(つちのひつじ)」三五九年、天皇即位による「大和朝廷」の成立は「辛酉(かのととり)」三六一年、であり、それはすなわち「邪馬台国」連合の解体と「邪馬台国」の滅亡した年であると推理しました。

 つまり、「邪馬台国」は、「帯方郡」の設置される西暦二〇四年の直前に成立し、「辛酉」西暦三六一年に滅亡した「国家」でした。この地上に一六〇余年の間存在した政権国家の形態です。

 ・・・・・。

 

二 結びに

 ・・・・・。

 古代「邪馬台国」の時代にあって、生駒山は大いなる存在でした。

 生駒山は、神奈備山として、「邪馬台国」の人々の尊崇を受けていました。

 もちろん、そればかりでなく、生駒山は山上から西方の関西方面か全貌でき、首都城の富雄川流域は、生駒山からの狼煙、鏡の反射による通信連絡がもっとも送信しやすい地形になっています。生駒山は国家防衛上の見張り台であり、また「邪馬台国」の城壁でもありました。

 そして最後に「川」の存在意義を考えて、本書を終わります。奈良県北西部、富雄川流域には、今まで見てきたように、現在でも多くの神社や由緒正しい史跡が数多くありますが、最近の富雄川は、護岸が整備されて、いつも水量は一定ですし、生活排水が流れる、平凡でありふれた川でしかありません。

 しかし、私が「邪馬台国とは何か」を考察するきっかけになったのは、「富雄川」という現存して生きている遺跡でした。この「遺跡」は今も私たちにいくつかの表情をもって語りかけています。

 「川」がなければ、ヒトは生きていけません。

 一定の人口が集中して生存するためには、それ相応の水量を持つ河川の存在が絶対条件となることは自明です。「大和朝廷」が奈良県南部に拠点を築いて中央集権的な全国統一に乗り出す前、日本の弥生連合国家の盟主「邪馬台国」は生駒山周縁にあり、その中心地は奈良県北西部に存在しました。そこは富雄川流域です。

 人は川によって生かされてきました。「邪馬台国」は水道や下水のある時代にあったわけではありません。普遍的に言えば、文明の母は「川」であると言えます。

 「川」は、私たちにとって永遠の遺跡である、という結びの言葉で本書の筆を置かせていただきます。

 本当に数多くのみなさんの励ましによって、この謎に満ちた「邪馬台国」考察の長い道のりを終えること出来ました。ありがとうございました。

 

あとがき

 (略)

今も東北に生きる「ナガスネヒコの精神=愛瀰詩(エミシ)の精神」とは  。 

    *長髄彦(ナガスネヒコ)は、『記紀』、『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ/天地開闢から推古天皇までの物部氏の氏族伝承を伝える) 、『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし/古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされる)などに登場する<これらの文献については、参考文献等をご参照>。 

(8)戦乱で亡くなった人々の魂を浄土へと導く。12世紀、奥州藤原氏の初代清衡きよひら中尊寺を造営した目的だった。・・・・・平泉文化遺産センターの館長、大矢邦宣おおやくにのりさんは・・・・・「浄土」を「土を浄きよめる」と解釈した。土とは国土。つまり清衡はあの世の極楽浄土ではなく、現世に争いのない浄土を実現しようとしたのだと考えた。・・・・・「浄土の定義とは一言で表現すれば理想郷」と語っていた。同じ岩手出身の宮沢賢治は旧制中学時代に平泉を訪れている。後に自分の中の理想郷を「イーハトーブ」と名付けた。岩手には平和を願う風土があるのかもしれない。<毎日新聞「余録」(16.11.13)より>

(7)「釜石の奇跡」を牽引した釜石小学校の校歌

(6)(5)の関連:映画の広場 現在の日本より

    ◎日本の青空Ⅱ~いのちの山河~(09 日/0911 公開)作品紹介公式サイト予告編

      ◎いのちの作法(08日/08111_youtubeflv_000193694_2 公開) 作品紹介  ・公式サイト予告編1予告編2

(5)「全国最悪」から「全国一」へ

(4)いのちを守る森づくり


(3)・・・・・「やはり過剰な消費生活は慎むべきだな。自然エネルギーを利用して、『もったいない』精神で生活する。それが日本の伝統にかなう。震災で思つたのは、東北の人々が決してエゴイストではないということ。忍耐強く秩序を守る被災者に世界が驚いた。道徳精神が残っている。自然の恩恵を受け、感謝して生きる。そういう文明によって新しい日本をつくるべきです」

「再考 エネルギー」(梅原猛さん)<朝日新聞(12.1.1)>.pdfより~

(2)東京電力の社員から、こんな話を聞いた。

   原発事故のおわびのために福島県内を回っている。ある町の体育館でのこと。賠償や風評被害の問題で非難を浴びた。約3時間、頭を下げ続けた。会合が終わり、年配の女性が駆け寄って一枚のメモ紙を渡して去っていった。恐る恐る開いてみると、こう書いてあった。「一緒にがんぱりましょう」

   涙があふれ出たという。

   大事故を起こし、深刻な被害を与えている東京電力が厳しく糾弾されるのは当然だ。その社員に、がんばろうという気持ちを伝える人の優しさを、私は福島県人の一人として誇りに思う。

   これとは対照的に、ことし永田町で繰り広げられたのは空虚な政争劇だった。中でもひどかったのは、6月、自民党などが提出した菅直人内閣不信任案をめぐる騒動だ。・・・・・

~「政治考 来年こそ」(編集委員 星浩)<朝日新聞(11.12.25)>より~

(1)・・・・・津波のために両親を失った中学生の少年が「自分よりつらい思いをしている人がいます」とテレビで話しているのを見ました。彼よりつらい人なんて、いないですよ。それなのに、他人のことを思いやっている。戦国時代以来、東北人は誇りをズタズタにされ続けてきましたが、心の中には蝦夷の精神が生きているんだと元気づけられました。

急接近:高橋克彦さん 世界文化遺産「平泉」の魅力とは?.pdfより~

勝井純 『神武天皇御東遷聖蹟考』 

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              地図<草香山・日下の直越>クリックすると拡大されます。

草香山

 一名、饒速日山、草香山の最高峰を云ふ、神代の古、饒速日命のゐませし山なるが故に、此の称ありと云ってゐます。惟ふに、神代の河上の哮峯とは、此の峯を中心として、其の南北に連亘してゐる諸峯をも哮峯と総称したのではなからうか?一此の山は又、神山と称してゐます。山上に在った饒速日命を祀ってあった社を上古上ノ社と称し、現在の奈良県生駒郡富雄村鎮座の登彌神社及び大阪府中河内郡旧日下の地域に鎮座された、石切劔箭神社を何れも下ノ社と称してゐたと云はれてゐますが、上古は此の山を神體として禮拝してゐたもので、社殿等は無かったやうであります。然るに、其後、饒速日命の子孫、生駒山の東西に分布するや、各々、その根拠地に神社を造営して宇麻志麻治命を祀りこれを下ノ社と称し、山上にも神殿を造営して上ノ社と称したらしく、其後、更に、山上の饒速日命の社の御神霊を河内側の此の命の子孫は、その下ノ社に、大和側も亦、これを今の富雄村の下ノ社に奉遷し、草香山上の上ノ社は自然荒廃してしまったらしゐのであります。其の原因は、物部氏宗家の滅亡に伴ふ勢力の失墜と、社領の没収等にあったであらうと想像されます。(後略)


日下の直越を踏査して

 日下の直越路は、大字善根寺の春日神社の社務所の前を東北に向って、尊上山の中腹を斜に登ると、尊上山の頂上から東南に走ってゐる低い脊梁傳ひに通じてゐます。その道の左手には、既に発掘された第二期時代の古墳の痕跡を有し、圓筒の破片が地上に散乱してゐます。尊上山の如きも、以前は全部春日神社の社地であったに相違ないと思はれますが、現在では、南の山裾は無惨に切り崩されて、由緒ある傳説地も土砂の採掘場となり、トラックが晝夜間断なく春日神社の神域を往来してゐます。實に恐懼の極みであります。(この間省略)路は、共處から更に、東南に向って、曲折し、八幡山の頂上旧神社の鎮座地の磐座の下をめぐって、更に、此の山に続いてゐる山の脊梁を東南へウネリ、恵比須山の西、字日下部と称する地を経て、恵比須山の下をつゞら祈りに、厄山方面へ走ってゐます。字日下部の地域は相當に廣く、大草香王の御墓であると傳称してゐる古墳の北も、その地域で路を挟むで東西に平坦な場所があります。これを此の地方では大草香王の居られた處だと口碑してゐます。八幡山の頂上には、明治初年迄立派な社殿があったさうですが、其後、その社殿を大阪市の某に売却し、社地も売却してその金を分配したさうです。恵比須山から厄山に至る道路の北に渓谷を隔てゝ龍の口が見えます。厄山は、頂の平坦な山で道路の左に沿ふてゐます。其處から、此の路を三町許り下った處から、左へカープの鋭い山の背梁を、現在の大字日下の池端から登って来る嶮岨な古道があります。厄山の上方は比較的平坦で、厄山の北谷を隔てゝ近距離(約一町)に覗きばたと称する山があります。其の山は厄山の上で、直越路の脊梁地帯に連接してゐます。此等の地勢から観察いたしますと、賊軍は、厄山上方の平坦な地域に待ち構へてゐて、皇軍の急坂を喘ぎ喘ぎ登って来たところを不意に現はれてこれを攻撃し、其の激戦の最中、覗きばたに在って戦機を覘ってゐた賊軍の一部隊は、皇軍の側面に向って矢を射かけたので、皇軍は為に潰亂の歇むなき結果に蓬着し、更に猛烈な賊軍の追撃に邁ひ、山上から山下へ(前記の母の木方面に通じてゐる急坂)追い崩されたのではあるまいかとも思はれます。路は厄山から、巨岩累々たる牛石の南の山の脊梁を、雄略天皇の国見された御歌に知られてゐる国見山方面へ通じてゐます。その途中に平坦な地があつて、その北に谷を隔てゝ真近く見える山をドンバと称して居りますが、其の山の側面には多く岩窟が遺ってゐます。東方近く饒速日山を隔てて大和の山々が疉蓆を布いたやうに、低く連亘してゐます。右の方に高く聳えてゐるのは、生駒山の北に峙(そばだ)ってゐる高峯で、大和では、これを饒速日山と称し、河内では「ボタンザキ」と称してゐます。河内で云ふ饒速日山は、そのボタンザキの中腹に位置してゐます。頂上は小松の茂った低い山々が取り囲むでゐて、相当広い地域が平坦であります。其處には、太古噴火口であったであらう、「底無しの井戸」と称するものが八つあります、今では此の盆地にある耕地の灌漑に用ひられてゐます。此の盆地は、或る期間沼となってゐたであらうと想像されます。其處に、饒速日命の御殿址と口碑しつつある地があります。御東遷當時に於ける賊軍主力の根拠地ではなかったかと考察されます。何故なら、古来現在の北河内郡上田原村、同郡四條村大字龍間、中河内郡孔舎衙村、奈良県生駒郡生駒町等に通じてゐる古道及び生駒山上より南に向って生駒連峰の脊梁を走ってゐる古道は、皆悉く此の山を中心として通じて居り、何處からも其の所在を知られる憂ひのない場所であり、ボタンザキに監視の兵を配置して置けば皇軍が河内方面から前進して来る場合、何れの道よりするも、これを途中に遂撃すること容易であるからであります。北河内郡四條村大字龍間の如きも饒速日命と関係のあった土地であるらしく、此處には、饒速日命の御父に當らせられる天押穂耳尊一柱を祭紳としてゐる龍間神社と云ふ古社があります。地方の傳説に依れば、今、大和國丹波市町大字布留に鎮座される官弊大社石上神宮の御神寶であつた天璽瑞寶十種(あめのみしるしみいづたからとくさ)は、右の饒速日山に納めてあったのだと云ってゐます。哮峯の名称は、饒速日山の嶺に現存する奮噴火口等から観ても、太古は火山であったことは確実であり、其の後に於ても、、噴火したり鳴動したであらうことは想像に難くありません、即ち、イカルガ峯とは「ホヱル山」「鳴動する山」の義から號けたものだらうと思はれます。

<原田修氏『いこまかんなびの杜』より引用させていただきました。>


立脚点     

<この物語の背景> について

立脚点(1)⇒この物語の背景.pdf

  参考資料 

    ①「縄紋文化は、植物性食料の採集を基礎にし、狩猟と漁撈を組み合わせた獲得経済であった。そして・・・・・弓矢や釣針など、食料を獲得するための発明、また土器のように生活に役立てられるいくつかの発明はあったけれども、自然の働きを大幅に変革することは少なかった。そして、みずからの労働やその果実が他人に搾取されるという関係はなく、平等性の原理に貫かれた国家なき社会であった。弥生文化は水田稲作をはじめ、鉄器の鍛造(たんぞう)、青銅器・ガラスの鋳造、機織りなど、大いなる技術革新をともなったが、それらは水田造成に代表されるように、自然に働きかけ、その環境を大きく変質させていく。また首長墓の成立、環濠集落や武器の発達などに見られるように、階級分化や戦争も始まった。それらは文明社会のもっている、いわば正と負の側面でもあった。つまり文明社会の嚆矢(こうし)ともなる弥生時代は、最初から相反する二つの要素をもっていたのだ」(金関恕+大阪府弥生文化博物館 『弥生文化の成立』 

    ②「水田稲作や金属器、大陸系磨製石器や大型壷、農耕祭祀や環濠集落などは、列島で自生したものではなく、南部朝鮮から持ちこまれたものであった。これら渡来してきた要素と、甕や打製石器、あるいは竪穴住居や木器や漆器など、縄紋時代から引き継がれたたくさんの要素とが組み合わさって弥生文化が形成される。もちろん、二つの文化はそれぞれの担い手がいたのであって、いまそれを縄紋人と渡来人・外来人とよぶとすれば、北部九州とその周縁地域では、玄界灘を越えて渡来してきた人びとの数や回数とその時期によって、弥生文化の質や方向性が決定されるだろうし、瀬戸内や大阪湾沿岸の地域では、外来の人びとの故郷や持ちこまれた文化の程度によって、どのような弥生文化が誕生するかが決まってくる。もっと東方の地域では、外来の人びとが移住してきた段階、新しい文化を構成する〈ものや情報〉だけが伝わってきた段階など、いろいろなケースが考えられよう」(金関恕+大阪府弥生文化博物館 『弥生文化の成立』 

    ③「蝦夷は・・・・・和人(わじん)の入植によって混血するものもあったが、本来狩猟民であった彼らは、定住して田を耕す習俗になじめなかった。獣皮や木皮を衣服の料に当てていた彼らは、坐して糸を紡ぎ、機を織る仕事にいつまでも不熟であった。言語習慣のちがう彼らは、自由に呼吸できる天地を求めて、奥羽山脈や北上山地など、川の上流の山間や沢地に逃亡し生きのびたものがすくなくなかった」(谷川健一『白鳥伝説』 

    ④四世紀初頭の邪馬台国東遷説は、当時の社会変動もしくは文化変動を説明するためのもっとも合理的な解釈である。・・・・・私か主張するように、さきに物部氏の東遷がおこなわれ、ついで邪馬台国の東遷があったとするならば、神武東征説話は具体的な歴史の把握がいっそう可能である。(谷川健一『白鳥伝説』 

    ⑤「銅鐸祭祀のおこなわれた地方は物部王国と称すべきものがあり、蝦夷と協同した統治形態があった。・・・・・蝦夷の兵士は勇敢で敵を散々なやましたが、物部氏の主力は邪馬台国に屈服した。・・・・・蝦夷の勢力は東国への後退を余儀なくされた。一方、物部氏の傍流もまたヤマト政権の中核に参加することなく蝦夷と行動を共にし・・・・・蝦夷と共存したがいに協力しあったとみられるふしがある。・・・・・彼らはヒノモトもしくは日高見(ひたかみ)の呼称をも、東へともちはこんでいった」(谷川健一『白鳥伝説』 

    ⑥「・・・・・『日本書紀』以来、代々の日本の歴史書には、蝦夷が登場する。蝦夷は古くは蝦夷(えみし)とよばれ、後に蝦夷(えぞ)とよばれるが、それはほば同じものと考えてよいであろう。・・・・・稲作農業文明をもってきた倭人(わじん)の到来によって土着日本人は蝦夷となり、また、この渡来人たちの国家建設と、日本征服の結果、蝦夷の住処(すみか)はだんだんと少なくなり、ついに北海道の一角に追いやられた者がアイヌになったと考えて、さしつかえないのではなかろうか。」(梅原猛『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』 

    ⑦「おそらく長髄彦は、縄文土着の民であり、饒連日は弥生渡来の民であったにちがいない。おそらく弥生中期ごろまで、このような土着縄文民と渡来弥生民との協力からなる権力が、この地を治めていたのであろう。しかしこの権力は、南九州からやってきたはなはだ武力の優れた弥生民によって征服された。ここに、大和朝廷の基礎がつくられるわけである。」(梅原猛『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』 

    ⑧「古事記においてニギハヤヒノミコト、日本書紀ではクシタマニギハヤヒノミコトといわれる人間がいる。彼は天孫族であるが、(引用者:書紀によると)神武帝より早く大和へ来て、ナガスネヒコと共に大和地方を統治していた。そしてナガスネヒコの妹、ミカシキヤヒメをめとっていた」(梅原猛『神々の流竄』 

    ⑨「考古学的にみても、弥生時代には北部九州から南九州、日本海方面、瀬戸内海から近畿地方などへ、稲作の技術とか銅鏡や銅銭など、さまざまの文物が伝播する。このような伝播は一度におこなわれたのではなく、いくつもの波があった。もちろん、技術や文物の伝播と表現する陰に、人間の移住・移動があったことはいうまでもない。ニギハヤヒとイワレ彦の物語にも、このような時を隔てての広義の同族の移動がうかがえる。」(森浩一『日本神話の考古学』 

    ⑩「新しい土地への移住が行われたとき、その祖先はその土地へ降臨したという伝承で神格化され、またそこから系譜がはじまる。物部氏の大和への渡来を、祖先の饒連日命が河内国哮峰(たけるのみね)に降臨したと伝えている・・・・・。」(鳥越憲三郎『神々と天皇の間 

<この物語の枠組み(パラダイム)> について

立脚点(2)⇒この物語の枠組み(パラダイム)

<日本列島先住民族=狩猟採集民族=縄文人> について

疑問点(1)縄文人とはどのような人々か。 

 ↓ 

その答えが、立脚点(3)・(4)・(5)・(6)

立脚点(3)縄文人は、狩猟採集民族であり無駄な殺戮はしない。狩猟採集民族は、自ら食料をつくることはせず自然(神)が授けたものを受け取るのみであり、食料は他者=自然(神)のものであり、自分のものではないからである(自然から恵まれた食糧をアイヌ語で「ハル」という)。そもそも、無駄に殺戮することは、自らの生命を維持するに不可欠な食料を無駄にすることである。また、最小限の殺戮により授かった生命を食べることにより、その生命を自らの心身に取り入れる。そのことで、殺戮されたものは生き続けるのである。<殺すのは自らと他者を生かすため=(自らの心身に取り入れることのない生命は)殺さない・殺せない>これが狩猟採集民族=縄文人の本然の性である。縄文人にとって「食べるため以外のために殺す」ことは悪どころか、不可能なもの である。この本然の性が失われようとしたとき、どうなるか。それは、この物語の中で示される。守り神は本然の性が失われないように見守る神であり、<本然の性が失われる=そのものがそのものでなくなる>危機のときに立ち現れる。

  (注)戮りくにははずかしめという意があり、殺戮とは、命の尊厳を踏みにじる殺し方をいう。「食べるため以外のために殺す」ことは殺戮であり、縄文人にとってそれは不可能なものだったのである。  

立脚点(4)縄文人は、地球上の誰人(たれびと)に相対しても不屈の魂をもち、他方で、この世に生れた何人(なんびと)に対しても決して蔑視せぬ人間の魂を持つ。 

  参考資料 

  「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)・・・・・わたしは、ふかく、心に銘じた。これほどの「名品」を生み出す力、その独創のエネルギーが、ここには、かつて、実在したのだ。・・・・・地球上の誰人(たれびと)に相対しても、不屈の魂をもち、他方で、この世に生れた何人(なんびと)に対しても、決して蔑視せぬ、人間の魂。それが稀薄となった現代とは、何か異質の文化、独自の文明が、そこに存在していたこと。――その一事を、わたしはこのとき、信ぜざるをえなかったのである」(古田武彦『真実の東北王朝』 

立脚点(5)縄文人は、一人で百人に当るほど強いのみならず、敵であるイワレヒコ東征軍でさえ思わず敬意を表せざる得ないような人々だった。 

  参考資料 

    「『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。愛瀰詩烏(えみしを)毘利(ひだり)毛毛那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)〈「ひだり」は“一人”。「ももなひと」は“百(もの)な人”。岩波『日本古典文学大系』本による。二〇五ページ〉 この「愛瀰詩」は、神武の軍の相手方、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、「夷(えみし)を」という“文字”を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の“天子中心の夷蛮称呼”の文字だ。このさいの“神武たち”は、外米のインベーダー(侵入者)だ。「天子」はもちろん、「天皇」でもなかった(「神武天皇」は、後代〈八世紀末~九世紀〉に付加された称号)。第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという“差別文字”を当てていない。「愛瀰詩」という、まことに麗わしい文字が用いられている。これは、決して″軽蔑語″ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「瀰」は“水の盛なさま”。彼等は“尊敬”されているのだ。さらに、内容も、そうだ。“この「えみし」は、一人で百人に当るほど強い”といって、その武勇をはめたたえているのだ。・・・・・その・・・・・「えみし」観、それは、・・・・・「軽蔑」でなく、「敬意」なのである」(古田武彦『真実の東北王朝』

立脚点(6)縄文人は戦いを回避する人々であった。

  参考資料 

   「『古事記』には、久米部がナガスネヒコを撃破したときの歌が、幾首か載っている。その一つに、

   神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石(おひし)に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這(は)ひ廻(もとほり)り 撃ちてし止まむ

という歌がある。『古事記伝』をはじめとして、従来の解釈は、ナガスネヒコの軍隊を隙間もなくとりかこむ形容に、シタダミという貝が大きい石の上をはいまわる格好をもち出したのだ、としている。すなわちシタダミは天皇の軍のたとえとしてもち出したものと理解されている。しかし実際はそうではなく、シタダミは逃げ足の早い敵の形容と解すべきである。私は先年、能登半島に旅行したとき、七尾湾の海岸で岩をはっているシタダミをとっている老人に出会った。その老人から、シタダミは、天候に敏感で、嵐などの悪天候になりそうなときは、それを予知していちはやく岩の裏面にかくれるという話を聞いた。シタダミのこうした習性を逃げ足の早い敵になぞらえたものであることがそのとき分かった。・・・・・

 その久米歌の一つに、

   夷(えみし)を 一人(ひだり)百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たたかい)もせず

という歌かある。この歌についてはさきにも触れたが、夷は『日本書紀』の原文では、「愛瀰詩(えみし)」となっている。この歌の意は、蝦夷は一人で百人に当たることのできる強い兵士だと人は言うけれども、自分たち来目(くめ)部に対してはなんの抵抗もしない、というのである。」(谷川健一「白鳥伝説」 

   <「逃げ足の早い敵」「なんの抵抗もしない」⇒殺戮ができない人々は、弓矢が人にあたらないように有効活用しながら(「弓矢の人」ともいうべき縄文人ならそんなことはあたりまえにできた)殺戮なきゲリラ戦法殺戮とは)で相手をかく乱・消耗させ、戦意を消失させることで撃退するやり方をとった、と認識できる。

   なお、この戦法が有効であったことは、皇軍の戦いを賛美すべき日本書紀が「皇軍は戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった」と書かざるを得なかったこと、「昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた」と書きながら、天皇は長髄彦を討ったとはついに書けなかった(「饒速日命が長髄彦を殺害した」と書いた)ことで明らかである。>

 

立脚点(3)・(4)・(5)・(6)をまとめると

  縄文人は、一人で百人に当るほど強い(弓矢を使えば、「弥生人=海洋農耕民」の兵士など一人で一瞬にして100人でも倒せる)にもかかわらず、兵士になることはできない(殺戮するのは不可能である)ゆえ戦いはしない・できない人々である。


<長髄彦>
 について

疑問点(2)長髄彦は何者か。 

 ↓ 

その答えが、立脚点(7) 

立脚点(7)長髄彦は愛瀰詩(えみし/蝦夷)である。 

  参考資料 

    「邪馬台国東遷を支持する論者のなかには、その事実の反映を『記紀』の神武東征説話に求める者がすくなくない。この点についても私は賛成である。これらの論者がただ一点見逃しているのは、神武東征のさいに河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先往者がいったい何者であったか、ということである。この点を不問に付しているために、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている」(谷川健一『白鳥伝説』 

疑問点(3)長髄彦は東北へ移住したか。 

 ↓ 

その答えが、立脚点(8) 

立脚点(8)長髄彦は東北へ移住したことも考えられる。少なくとも、そのように伝える文献が少なからずある。 

  参考資料 

   ①「喜田貞吉(1871-1939/歴史学者)はつぎのように説明を行っております。“・・・・・安日をもって長髄彦の兄となすゆえんのものは、長髄彦は神武天皇に抗して大和で誅戮せられ、したがってその子孫の奥州にありとすることが実(まこと)らしからぬがために、その姓名を分かって兄弟の二人となし、もって合理的説明を下すに至ったものであろう・・・・・”」(谷川健一『隠された物部王国「日本(ひのもと)」』

   ②「夷の源流をたどれば、中央の歴史においては異族の元祖ともいうべきナガスネヒコに辿りつきます。正史の『日本書紀』にもナガスネヒコの妹は、物部氏の祖神のニギハヤヒと婚を通じたと記されています。ここに“安日”なる人物を創作して、ナガスネヒコの兄とすれば、物部氏の祖神と奥州安部氏の始祖は外戚の関係で結ばれることになります。奥州安部氏はそうした細工を施すことで、自分の地歩を有利にしようと計った。この安日なる人物は奥六郡の物部氏との接触なしに生まれ得なかったと思われます。ところが、その名前の“アビ”までは創作ではなかった。すなわち、四世紀前半にみられた物部氏と異族のナガスネヒコとの連合関係はきわめて古い伝承として、みちのくの蝦夷の中にもながく生き残ったのです。そうしたことが、安日なる人物を誕生させたのです谷川健一『隠された物部王国「日本(ひのもと)」』


③「この中世の日本列島の最北端に覇をとなえた安倍氏や安東氏は、こともあろうに、自分は長髄彦の血を継ぐ者と宣言していたのである」(梅原猛『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』 

<イワレヒコの東征(東遷)> について

疑問点(4)イワレヒコ軍の戦った相手が次のようにどんな民族なのかがはっきりしない。 

  ①書紀:「女賊」「県の人々」「敵」「夷」「土賊」「土蜘蛛(つちぐも)」「賊軍」「凶徒」 

  ②古事記:「賤しき奴(やっこ)」「土雲(つちぐも)」「荒ぶる神ども」「伏(まつろ)はぬ人ども」 

 ③旧事紀:「敵」「県の人々」「残党」「逆賊」「凶徒」 

  

答:彼らは、押し並べて日本列島先住民族=縄文人だったのだろう。 

疑問点(5)古事記には「言向平和(ことむけやわせ/話し合いで和平する)」との言葉があることはどう理解すべきか。 

 ↓ 

その答えが、立脚点(9) 

立脚点(9)東征軍の側にも和平を指向することがあった。 

 

<ニギハヤヒ> について

疑問点(6)旧事記では豪壮な降臨が描かれているのに、古事記ではイワレヒコ東征の最終局面に1回、書紀では同東征の開始局面と最終局面、イワレヒコ即位後にそれぞれ1回顔を出すのみなのはなぜか。

 ↓ 

その答えが、立脚点(10) 

立脚点(10)記紀は物部氏の祖であるニギハヤヒの存在を隠そうとしたが、隠し通せなかった。 

  参考資料 

   「物部王国と邪馬台国の対立の事実は、『日本書紀』の神武東征伝説に深い影を落としている。にもかかわらず、邪馬台国の東遷を神武東征にむすびつける史家が、そこに登場する二ギハヤヒの東遷について深く考えようとしないのが不審である。それではあまりに一方的であり恣意的ではないか。私は奇をてらって、物部氏の東遷を主張しているのでは毛頭ない。正史である『日本書紀』が物部氏の祖神であるニギハヤヒの降臨伝承を抹殺できなかったこと、また神武東征に先立って、ニギハヤヒが九州から大和へ移ったことを認めざるを得なかったこと、そこにはかならずや見落とせない深い仔細があるにちがいないと思い、それを物部氏と邪馬台国の二回にわたる東遷と結びつけて考えたのである。・・・・・わが国の「正史」の筆頭である『日本書紀』は「社史」のようなものである。そこでは皇祖が大和島根(引用者:日本を表す古語)の支配者であることがア・プリオリに宣せられている。つまり、ヤマト朝廷の主権が確立するまでの「前史」が欠落している。そこにはおのれの対立者を正当に扱い、対立者との葛藤を公平に叙するという姿勢は見当たらない。それにもかかわらず、抹消しそこなった部分があって、それが昼間の月のように残っている。それがニギハヤヒの東遷と、その後を追うようにしておこなわれた神武の東征であったと私は考えるのである。」谷川健一『白鳥伝説』

<東北のエミシ> について

立脚点(11)奥州藤原氏などは蝦夷の系統である。 

  参考資料 

   「これまで歴史の上に蝦夷という名称を以てはあらわされず、普通に日本人の如く思われていたほどの英雄豪傑の中にでも、その素性を調査してみたならば、立派に蝦夷の系統であることの明らかなものが甚だ多く、その関係は田村麻呂、綿麻呂の蝦夷征伐の時代から、極めてなだらかに後の時代にまで継続しているのであります。しかしそれが普通には、蝦夷として認められておらないが為に、ついそれに気がつかないでいるのでありますが、それ程にまで蝦夷と日本民族との間には、極めてなだらかな連絡が保たれて、いつとはなしに、気のつかぬ程の自然の移り変りを以て、彼らは日本人になってしまったのであります。その事実の中で最も著しいのは、前九年役の安倍氏、後三年役の清原氏、平泉で繁盛を極めた藤原氏から、遥かに時代が下って鎌倉室町時代の頃に、津軽地方に勢力を有して日の本将軍と呼ばれた安東氏などで、彼らの事蹟はこれを証明すべきものなのであります。・・・・・。藤原清衡の如きは、自ら「東夷の遠酋」と云い、「俘囚の上頭」と云い、その配下を称して「蛮陬夷落(ばんすういらく)」、「虜陣戎庭」などと称し、京都の公家衆は清衡の子基衡を呼ぶに、「匈奴」の称を以てし、その子秀衡を呼ぶに、「奥州の夷狄」の語を以てしております。俘囚とはこれをエビスと読みまして、蝦夷の日本風に化したものを呼ぶ称でありました。彼らが系図の上でいかに言われておりましても、その当時の人々がこれを蝦夷の種と認め、自分らもまたこれを認めていたことは、他にもいろいろの証拠があって、到底疑いを容れるの余地は無いのであります。しかるに後世の人々が、どうしてもこれを蝦夷の種だと認めえない程にまで、彼らはすでに日本風になっておりました。否、すでに日本民族になってしまっていたと申してよいのでありましょう。されば立派な歴史家と言われる人々の中にも、俘囚は本来日本人であったなどと、史料の誤解から起った窮説を主張してまでも、彼らの蝦夷の種たることを否認せんとしたものが、近頃までもまだ少くありませんでした。歴史の研究が進歩し、その知識の普及した今日では、もはやこれを疑わんとする人もそうありは致しますまいが、二十数年前に私がその説を「歴史地理」の誌上に発表しました時には、これを以て古英雄を侮辱するものだとして、脅喝的の書面を寄せたものすらありました。これと申すもこれらの人々が、後人をしてそれ程の感じを起させる程までに、すでに日本民族に同化していたからであります。しかしながら、彼らが蝦夷の流れであったという説を聞いて、しいてそれを信ぜざらんとし、またはこれに対して一種の反感を催おすものすらあるということは、一面には世の人々が、日本民族なり、蝦夷なりについて、十分の知識を有しないが為であります」(喜田貞吉『本州における蝦夷の末路』) 

<長髄彦とイワレヒコとの最後の決戦>について 

疑問点(7)金鵄(きんし/金色のトビ)は長髄彦(ナガスネヒコ)が率いる民族の守り神である※。しかし、敵方のイワレヒコ(神武天皇)の側に立って光を放って長髄彦軍の戦力を喪失させたのはなぜか(重要な謎)。

      ※「金色の鵄は、本来は長髄彦(また登美彦)の側のトーテム(神)ではなかったか。登美彦の登美(トミ・トビ)と、鵄(トビ)と通ずるようである。そしてこれは生駒の「山ノ神」であり、霊蛇神であったものであろう。さきの『宇佐宮託宣集』に八幡神の発現の記事としてみられた「霊蛇、化鳥」の図式すなわち「金色の蛇(トビ)→金色の鳥(トビ)」るが、まさにその原型をとどめる形でここに神武東征に明示されたものではないかと思われる」(生駒市誌より) 

 ↓ 

答えはこれ重要

疑問点(8)書紀・旧事紀によれば、金鵄の光によって長髄彦軍の戦力が喪失したのに、その後も戦いは続く。それならば、何のためにこの話があるのだろう。もっとも戦いは続くといっても、書紀では最後の決戦に迫力なく、旧事記では戦ったの一言で、古事記にいたっては「(長髄彦軍を)撃ちてしやまむ」という歌が3首も記されているものの金鵄の話を含めて戦いの記述がまったくないのは不思議である。 

 ↓ 

その答えが、立脚点(12) 

立脚点(12)東征軍と先住民とは戦い一辺倒ではなく、和平を結ぶこともあった〈立脚点(7)とあわせて考えると、金鵄の飛来ののち、東征軍と長髄彦軍は「言向平和(話し合いで和平する)」したものと思われる〉。 

  参考資料 

    「イワレ彦は、大和の南部を制圧した後、前に河内のクサカで大敗を喫したナガスネ彦と雌雄を決することになるはずである。ところが『記・紀』ともにナガスネ彦との戦いの場面よりも、他の豪族との戦いが詳しく述べられている。ウダのエウカシ、忍坂(おしさか)の大室(おおむろ)のヤソタケル(八十建)、磯城に勢力をはっていたと推定されるエシキなどとの戦いである。『記』は、トミ彦(登美毘古、ナガスネ彦の別名)を討とうとしたときにできたといわれる歌(これにも「久米の子等が」と、久米人が歌われている)は載せているけれども、トミ彦との戦いの場面はない。「紀」には、戦前よく紹介された金色のトビ(錫)があらわれ、イワレ彦の軍勢を勇気づけたという話はでてくるけれども、他の豪族との戦いに比べると、まるで臨場感がない。このように、イワレ彦の東征の物語の最後を飾るべきはずのナガスネ彦との戦いの状況があまり語られていないのは、不思議なことである。」(森浩一『日本神話の考古学』 

<長髄彦の最後> について

疑問点(9)次のように文献によってばらばらなのはなぜか(文献比較 事件.pdf参照)。 

  ①書紀:饒連日命が殺害 ②古事記:沈黙(記さず) ③旧事紀:宇摩志麻治命が殺害 ④他の複数文献:東北へ移住 

  

その答えが、立脚点(13) 

立脚点(13)長髄彦の最後は決定的な事件でありながら、書紀と旧事紀では食い違いがあり、古事記にいたってはまったく沈黙し、複数文献に東北へ移住とあるから、東北へ移住したとしても妥当性がある。 

  参考資料 

    ①「(引用者:書紀によると)ニギハヤヒノミコトが、ナガスネヒコと神武帝の戦いにおいて、戦局利あらざるを見て、ついにナガスネヒコを殺し、神武帝の下に帰順したというのである。・・・・・古事記では、何故かこのことは、はっきり書かれていない。・・・・・ここでは、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺したことははぶかれている。そして「天津瑞」を献ったというが、それが何であるか分らない。しかし、この事件が神武帝の大和政権にとって、決定的な事件であったことはたしかである・・・・・。つまり、このニギハヤヒのナガスネヒコ殺害によって、長期にわたる天孫族と出雲族との戦いは終結したのである。」(梅原猛『神々の流竄』 

    ②「・・・・・『書紀』では、饒速日命(邇芸速日命)が降伏するとき、長髄彦(登美毘古)を殺したとある。『古事記』だと、神武天皇にもっとも頑強に抵抗し、五瀬命を戦死させたほどの登美毘古の最後がはっきりしない。」(直木孝次郎 『日本神話と古代国家』 

<素盞嗚(スサノオ)> について

疑問点(10)記紀では稲作に対して乱暴狼藉を働くものとして描かれているが、全国各地の神社で稲作技術を伝来した福の神あるいは村の鎮守として祭られ、信仰を集めている(鹿畑の素盞嗚神社)のはなぜか。 

 ↓ 

その答えが、立脚点(14) 

立脚点(14)スサノオは出雲に降臨(神話用語の「降臨」は歴史用語では「渡来」という)し、各地に稲作技術を広めた。その子、ニギハヤヒも父に協力して大和に降臨し、稲作技術を広めた。彼らを第1次降臨勢力(出雲勢力)という。その後、アマテラスはニニギを日向に降臨させた。そのひ孫がイワレヒコである。彼らを第2次降臨勢力(日向勢力)という。この第2次降臨勢力の子孫は、第1次降臨勢力の業績を隠すために、「記紀」の中で、スサノオは稲作の敵対勢力であるかのように描いた。しかし、稲作技術を広めたスサノオとニギハヤヒへの人々の感謝の心を消し去ることは出来なかったのである。


総合立脚点

 縄文人が弥生人の渡来に対していかなる態度をとったか。第1次渡来人は友好的であったたため当初より平和的に受け入れた。しかし、第2次渡来人は非友好的であったため、これを撃退せんとした。縄文人は殺戮できない文化に生きてきた者であったため、撃退戦法は、戦いといっても武力行使なきゲリラ戦(弓矢が敵にあたらないように有効活用しながら相手をかく乱・翻弄させて消耗させ、戦意を消失させることで撃退、敵・味方に負傷者は出ても死者はでない)を展開した。

 この殺戮せずして勝つという戦いは有効であった。しかし、第2次渡来人の侵攻は時をおいて続いた。

 ここに至って、縄文人は殺戮できない文化を打ち捨てて弓矢を武器に転換して相手を殺戮することを決意し、敵に向かって進撃した。だが、逆に殲滅される危機におちいった。味方に犠牲者が出る前に、国土を譲るという条件で和睦した。その後、縄文人は自らの文化を保持しつつ弥生人の文化を受け入れていった。弥生の文化を受け入れたくないものは、山奥や日本列島の南北に居住・活動場所を移していった。

 これでよかったのか。よかったのである。その後を見ればわかる。

 その後、原生林(1次自然)は切り開かれ、一部は農耕のための水田・畑・畦・水路・溜池等とされ、残りは建築材・燃料・肥料・食材(野草・木の実等)などを入手するための雑木林・草原・茅原(2次自然)とされた。里山の誕生である。里山誕生の過程で、縄文人と弥生人の融合が進み、豊かで平和な日本の原風景が形成されていった。「春は花見、秋は紅葉狩り」の言葉のなかに、弥生(花=桜=水田のある里に咲く)と縄文(紅葉=山に咲く/狩り=狩猟採集)の平和的融合の姿が示されている。

 「いかなることがあっても殺戮はしない」ーこれが、未来を切り開く。生駒の神話の真意はここにある。


 生駒の神話の真意は、現代においても生きている。


(1)現代においても、自国を守る戦い方は2通りある。①武力使用の戦い(殺戮する戦い)、と②武力不使用の戦い(いかなることがあっても殺戮はしない戦い)をである。

 ①で勝つためには、相手に勝る武力を持たねばならない。日本が戦うとすれば、中国だが、この国の武力に優ろうとすれば核兵器を持たねばならない。もし、日本が核兵器を持っても使用不可能。なぜなら、日本が使えば中国も使い狭い国土の日本は全滅する。日本が中国を核兵器攻撃しても中国は広大、全滅させることはできない。核迎撃も不可能が常識。通常戦争に限定しても、中国軍が日本に上陸して原発の1つでも破壊すれば日本の戦意は喪失。日本軍が中国に上陸しても、中国は広大、致命的な打撃を与えることはとても不可能。戦前、半植民地状態にあった中国ですら12年かかっても結局屈服させることができなかったことを忘れてはならない。現在、日本政府は日本を「戦争ができる国」に変えようとしているが、それはアメリカと一緒になって戦争することが前提だから、そんな無謀なことをしようとしている。

 結局②でいくしかないのである。②とは、「相手が攻撃してこないようにする戦い」といえる。この戦いには、相手国との友好関係を維持していく知恵がいる。(続く)

(2)(1)の(続く)に代えて

   この文書.pdfの「(12)日本を守る道」と「(14)参考」をご参照ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原田常治 『古代日本正史』    

<ここの文章は、すべてWebPage平成操練所さんから引用させていただきました>

『古代日本正史』から抜粋

 この本を世に出すについて、一応皇室の立場でも考える必要があると思った。その結果が、やはりこれは絶対出さなければいけない。日本書紀、古事記のウソのままにしておくために『天照大神は弟の素佐之男の子を生んでいる』とか『七代までの天皇は実在しなかった』とか、その他、皇室に対して面白くないことが、だんだん多く言いふらされてきた。日本武尊(ヤマトタケルノミコトや神功皇后まで、歴史から抹殺されてしまうかもしれない。このまま放っておいたらどんなことになってゆくか心配である。この際、はっきりとわかったことは、発表したほうが、皇室のほうでも、モヤモヤいわれることがなくなって、すっきりするのではないかと思う。天照大神の称号にしても、昔はそうでなかったのなら、それでいいのではないか、無理にウソを押し通さないほうが、将来の皇室のためにもよいのではないか。神武天皇が、大和へ養子に来られたことも、それが事実であれば、この際はっきりさせておいたほうがよいのではないか。現実に、今でも皇居で、11月22日の夜、神武天皇の舅である歴史から消された天照国照大神饒速日尊の鎮魂祭を行っておられる。(中略)また瓊々杵尊、日子火々出見尊,鵜茅草葺不合尊等の御陵には、現在、宮内庁詰所があって、制服の役人をおいているし、西都の天照大神、豊受姫の二大古墳も、柵をし、拝殿をつくって宮内庁でキチンと管理されている。そのように現在皇室では、神話でない本当の正しい歴史で一切の行事をおやりになっていられるのだから、それを発表して悪い理由は何もないと思う。・・・・・

 日本書紀は天武天皇の時、編集長一人、編集者十二人、書記一人の十四人に命じて勅令で書かせたで、38年かかってできた。その日本書紀が応神天皇の項までを書き上げた持統天皇のときに、ウソ八百の創作の歴史を書いて、それでもどうしてもごまかしきれないところはお伽噺のような、神話形式にしてごまかした。そのウソ八百ででっち上げたもののばれることを恐れて、神社の古文書を二社取り上げ、あるいは、ほんとうのことを書いてあったと思われる系図を十六家取り上げて没収した。691年のことである。それが残っていたら自分たちの書いたウソがばれるということで、二社、十六家の系図を没収して抹殺してしまったという資料をつかんだ。・・・・・

 いまの天照大神は、もちろん古事記、日本書紀、少なくとも持統天皇以前には天照大神ではなかった。その以前の天照大神は男の人であった。素佐之男尊の五番目の子供で、天照国照大神(アマテラスクニテラスオオカミ)という諡号(おくりな)〔死後に、その行状などによっておくる名〕になっている。これが持統天皇の時までの天照大神で、いまの天照大神は九州でお生まれになって九州で亡くなられているから、日本を照らすという「天照らす」という諡号はついていなかった。これは、伊勢の皇大神宮にもどういう諡号でまつられているか、調べてみたら天照大神とは書いていなかった。それ以前のほんとうの天照国照大神を抹殺するためにつくった、それが目的でつくったと思われるほど、この人をわからなくするための細工がしてあった。(中略)特に日本書紀には、素佐之男尊が天照大神の弟のように書いてあるが、実際は素佐之男尊が122年ごろ生まれ、いまの天照大神は153年か4年頃の出生である。・・・・・

 それならなぜ、これだけ偉かった、あらゆる信仰の的だった天照国照大神を、苦心惨憺して、おとぎ話(神話)まで作って、歴史から消したのか。日本書紀、古事記を書いて、二神社、十六家の系図を没収抹殺して、日本の古代を塗り変えたのか。どこにそんな必要があったか。原因はやはり仏教の渡来にあった。宗教とは恐ろしいものである。仏教が渡来して、風の吹きまくるように広まった。その時、この饒速日大王の直系の子孫、物部氏は、この仏教に反対した。特に物部守屋は、寺をこわし、仏像を棄てさせた。一つには、日本伝来の神様信仰から仏教信仰に移り変わることに我慢ができなかったのであろう。神、仏の対立は海石榴市(ツバイチ)の善信尼の尻叩き刑で極点に達した。仏教徒はついに物部氏打倒ののろしをあげた。この情勢に便乗したのが蘇我稲目、馬子で仏教徒をせん動して、物部守屋討伐戦を起こし、これが成功して、神武天皇以来権力の座にあった物部氏に代わって、蘇我氏が天下をとることになった。そして、仏教は勢いに乗って神社を侵蝕し、大神(オオミワ)神社に大三輪寺を併せ、その他全国の主なる神社に仏教の寺院を併用して建てさせ、神仏混淆政策をとった。神様の力をうすめるためである。しかし流石に饒速日大王の宗廟、石上(イソノカミ) 神宮だけは、寺院を建てさせなかった。また、代々の天皇も仏教に帰依した。物部守屋没落後、仏教勢力が燃え上がるにつれて、天皇の祖先が、その仏教反対をした物部氏の直系の先祖であるのはどうしても具合が悪くなってきた。幸い、神武天皇は、日向の系統である。そこで出雲の系統を何とか抹殺できないかと考え、だんだんその機が熟し、とうとう日本の歴史書き替えの決心をされたのが、第四十代天武天皇の時だった。物部氏没落から約百年の後である。・・・・・

『古代日本正史』の簡単まとめ

 原田氏の『古代日本正史』は、ひとつの歴史物語として読んでも大変面白いものです。それをここに要約するのは少々無理があるんですが、しかし、不備を承知で簡単にまとめてみましょう。

 素佐之男尊は西暦122年頃、出雲国沼田郷で生まれました。現在の島根県平田市平田町です。素佐之男尊の父の名はフツ(布都)と言いました。フツというのは蒙古満州系の名前で、素佐之男尊の本名はフツシ(布都斯)といい、素佐之男は通称でした。原田氏は、出雲は北方系モンゴロイドに属し、日向は南方系モンゴロイドに属していたと言っています。ですから素佐之男尊の子や孫たちは、みな日本名とは別に蒙古満州系の名前を持っていました。(かつて話題になった江上波夫氏の『騎馬民族国家』という書物の価値を、ただ妄説にすぎないと言って切り捨てるのではなく、再び考えてみる必要があるのではないでしょうか。)

 日本建国の祖である出雲の素佐之男尊は、五男の饒速日尊(蒙古名フル)を連れて九州遠征に向かいました。日向の大日霊女貴尊(卑弥呼)らは素佐之男尊の進軍の勢いを伝え聞いていたので、むしろ進んで国を素佐之男尊らの騎馬軍団に明け渡しました。素佐之男尊は日向の占領軍指令長官として約10年間とどまり、卑弥呼との間に三人の娘を儲けます。息子の饒速日尊は九州平定の後、大和へ向かい、それまで大和を支配していた長髄彦(ナガスネヒコ)の妹の三炊屋姫(ミカシギヒメ)を娶り、長髄彦は戦わずして饒速日尊の客分として従属しました。いわゆる政略結婚による無血開城です。

 当時の西日本は、日向、出雲、大和と大まかにみて三極構造を構成していました。出雲の素佐之男尊が亡くなり、その後大和の饒速日尊も亡くなると、政治的なバランスに変化が生じました。大和の饒速日尊と三炊屋姫との間には何人かの子供が生まれましたが、当時は末子相続が慣例でしたから、いずれ大和は、末子である伊須気依姫(イスケヨリヒメ)に養子を迎えねばなりません。まさにこのような時期に、日向、出雲、大和の三つの国が次世代の支配者を巡って政治的に激突します。まず出雲が日向の軍門に下りました。日向はさらに大和地方を自分たちの勢力下に置きたいと考えます。しかし、できるなら戦争は避けたい。

 大和の相続人伊須気依姫の代理ですでに20年もの間、この地方を仕切っていた饒速日尊の長子宇摩志麻治尊(ウマシマチノミコト)は、日向側からの提案を受け入れます。すなわち解決策として大和は日向の国の大日霊女貴尊、つまり邪馬台国の女王卑弥呼の孫である伊波礼彦尊(イワレヒコノミコト)を伊須気依姫の養子としたのです。そのため、日向ですでに結婚していた伊波礼彦尊は、日向に妻子を残して大和へ旅立たねばなりませんでした。政略結婚によって、両地方は戦闘を回避したのです。ところが、伊須気依姫の伯父にあたる長髄彦は、日向との養子縁組に対して反対派に回ります。原田氏は、その長髄彦についてこのように語っています。

 「あるいは、鈴鹿山脈を越して、大和へ入り込んでいたアイヌ民族だったのかも知れない。アイヌには末子相続の習慣がなかったので、よけいにこの養子縁組が納得できなかったのかも知れない。しかしこれについては確証はない。……(神武天皇の行路について)当時はほとんどが水路交通時代だったから、大和川を上って行ったと考えるのが常識である。大和川を上り下りした古い記録はたくさんある。長髄彦としては、日向から養子を貰うことには、伯父としてあくまで反対だった。そこで伊波礼彦の一行がのこのこと上ってきたから、カッとなって追い返したのは当然である。」

 ちなみに、魏志倭人伝に「卑弥呼が亡くなった後、男王を立てたが国が乱れた。そこで卑弥呼の宗女台与(トヨ)という十三歳の娘を王として立てると国中がそれに服した」と出てくる台与とは、卑弥呼のひ孫、すなわち卑弥呼の孫たる伊波礼彦尊の娘豊受姫その人に他なりません。

『古代日本正史』にかかる解説

 原田氏が疑問を持ったのは、現在の伊勢皇大神宮は、日本書紀以前にはあまり参拝された形跡がないという事実でした。どうして天皇は大和におられるのに、皇大神宮を大和に祀らなかったのか。日本書紀以前に天皇家が参拝していたのは、大和の石神(イソノカミ)神宮、大神(オオミワ) 神社、大和(オオヤマト) 神社、それから和歌山県の熊野本宮、京都の加茂別雷(カモワケイカズチ)神社、大津の日吉神社の六つでした。そこで原田氏はこう言います。

 「この皇城の地大和を中心にした六大神社には一体、誰を祀っているあるのか。天照大神ではないもっと偉い人が居たらしい。どうも代々の天皇が参拝されるほど特別に偉い人が歴史から隠されているらしい。この人を掘り出し、探し出すことが日本歴史解明の鍵である。その手ががりがこの六大神社である。ここに誰が祀られているか、それが判明すれば、日本古代の歴史が解明できる。そういう考えで調べはじめた。」

 実際私たちが神社にいっても、その祭神名が本当は何を意味しているのか一般の人には分からないでしょう。ここでその六大神社の祭神名をあげてみます。

  1大神神社(奈良県桜井市三輪町)

    大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)

    大己貴大神(オオアナムチノオオカミ)

    少彦名神(スクナヒコナノカミ)

  2石上神社(奈良県天理市布留町)

    布都御魂大神(フツノミタマノオオカミ)

    布都斯御魂大神(フツシミタマノオオカミ)

    布留御魂大神(フルノミタマノオオカミ)

    五十瓊敷入彦大神(イニシキイリヒコノオオカミ)

    宇摩志麻治命(ウマシマチノミコト)

    白河天皇

    市川臣命(イチカワノオミノミコト)

  3大和神社(天理市新泉町)

    日本大国魂大神(ヤマトオオクニタマノオオカミ)

    八千矛大神(ヤチホコノオオカミ)

    御年大神(ミトシノオオカミ)

  4熊野本宮(和歌山県本宮町)

    家都御子大神(ケチミコノオオカ)

  5加茂別雷神社(京都市北区上加茂本山町)

    加茂別雷神(カモワケイカズチノカミ)

  6日吉神社(大津市坂本本町)

    大山咋大神(オオヤマクイノオオカミ)

    大己貴大神(オオアナムチノオオカミ)

 ご覧の通り、代々の天皇が一体誰を参拝してきたのか名前を見ただけでは分かりません。意図的な操作改変がこれらの神名のほどこされているからです。そこで原田氏は日本中の神社を調べてまわりました。この経緯については実際の本にあたっていただきたいのですが、その結果何が分かったか、もう一度六大神社の祭神名に直して載せたいと思います。

  1大神神社(奈良県桜井市三輪町)

    大物主大神=饒速日尊

    大己貴大神=大国主尊

    少彦名神

  2石上神社(奈良県天理市布留町)

    布都御魂大神=素佐之男尊の父

    布都斯御魂大神=素佐之男尊

    布留御魂大神=饒速日尊

    五十瓊敷入彦大神(イニシキイリヒコオオオカミ)

    宇摩志麻治命=饒速日尊の長男(物部氏の祖)

    白河天皇

    市川臣命

  3大和神社(天理市新泉町)

    日本大国魂大神=饒速日尊

    八千矛大神=素佐之男

    御年大神=伊須気依姫(饒速日尊の末子相続者)

  4熊野本宮(和歌山県本宮町)

    家都御子大神=饒速日尊(他に=別雷神=雷大神=大雷公)

  5加茂別雷神社(京都市北区上加茂本山町)

    加茂別雷神=饒速日尊

  6日吉神社(大津市坂本本町)

    大山咋大神=全国の日吉神社の祭神が饒速日尊と差し替えられた

    大己貴大神=大国主尊

 このように六大神社に共通して祀られていた偉大な大和の大神の祭神名が判明しました。それは饒速日尊だったのです。出雲から大和に入り、最初の大和の大王になった人です。この神様が、7、8世紀の政治的宗教的激動によって、日向の女王だった卑弥呼(大日霊女貴尊)に天照大神という名前を譲り渡すことになったのでした。

    天照大御神(アマテラスオオミカミ)=大日霊女貴尊

    天照大神(アマテラスオオカミ) =饒速日尊

 二柱の祭神名をよく見比べてみましょう。のちの時代になって「大」と「神」の間に挿入されて用いられるようになった「御(み)」の文字こそ、女性神として、饒速日尊から大日霊女貴尊を区別するために用いられるようになった符牒だったのではないでしょうか。

若者の心をつなぎとめる理想や物語を

 「赤い毛糸にだいだいの毛糸を結びたい だいだいの毛糸にレモンいろの毛糸を レモンいろの毛糸に空いろの毛糸も結びたい この街に生きる一人一人の心を結びたいんだ」。夫・堤さん、長男・龍彦ちゃんと共に殺された坂本都子さんの詩だ▲この詩が刻まれた坂本弁護士一家殺害事件の慰霊碑が、遺体発見現場の山中から山麓(さんろく)に移設された。落石で現場が危険なためだが、その移設作業が終わったきのう、犯行に加わったオウム真理教元幹部、中川智正被告の上告が棄却され死刑が確定する見通しとなった▲「恐ろしき事なす時の我が顔を 見たはずの月 今夜も清(さや)けし」は中川被告の歌という。坂本さん一家が殺害された22年前から6年後の地下鉄サリン事件にいたるオウム真理教による一連の犯罪だ。その裁判が21日の遠藤誠一被告への最高裁の判決をもって終了する▲だが公安当局によればオウム真理教の後継教団の信者数は1000人を超え、教祖だった松本智津夫死刑囚への崇拝は続いている。そもそも事件を知らぬ若い入会者が増えていると聞けば、過ぎた年月にむなしさも覚える▲教祖の途方もない妄想はなぜ若者の心を、また幾多の人命まで現実から奪い去れたのか。裁判は終わっても、答えはなお薄明の中にとどまった。そして心配も胸を刺す。今日の現実は若者の心をつなぎとめる理想や物語を事件当時よりさらにやせ細らせてはいまいか▲いや、カルトの灰色の妄信を過大評価してはなるまい。人々が生きる色とりどりの現実を結び合わせ、彩り豊かな世界を編んでいく都子さんの夢は、きっと今の若者にも引き継がれていこう。<「余録」毎日新聞(11.11.19)>

神々の総称いろいろ  

天津神天津族(あまつかみ・あまつぞく) 天津神は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)から始まり、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が降臨する以前に、天照大神(アマテラスオオミカミ)をはじめ高天原に生まれた神々、および、天孫とともに高天原から葦原中国あしはらのなかつくにに降臨した神々のことを指す。ただし、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は高天原を追放され、出雲に降ったため、国津神となった。歴史的には、渡来して九州にいた集団のことで、天津族という。津は「の」の意。 

天神(あまつかみ・てんじん・てんしん) 天津神あまつかみのこと。

天神之御子(あまつかみのみこ) 天神の子

天神御子(あまつかみみこ) 天神である子。または、天神である天照大神(別称:天照御魂大神・大歳御祖皇大神・天照御魂大神・天照魂大神)の代理者のこと。

出雲系の神々出雲神)・出雲族出雲神族) 出雲系の神々(出雲神)とは、高天原を追放されて出雲に降った素戔嗚尊を祖先とする神々(大国主命など)のことで、歴史的には、出雲の国をつくった集団のことで、出雲族(出雲神族)という。

国津神・国津族(くにつかみ・くにつぞく) 国津神は、天津神以外の神で、素戔嗚尊大国主命をはじめとする出雲系の神々が代表格。歴史的には、天津族以外の集団のことで、津族という

皇祖(こうそ) 天照大神や神武天皇など天皇の先祖のこと。

皇祖神(こうそしん) 天皇家の祖とされる神で、一般的には、天照大神のことを指す。しかし、中には、神話の2番目に登場する高御産巣日神(タカミムスビノカミ)を指すとの指摘もあるが、天皇家の始まりを意味するという点では、使い方は同じである。更には、皇祖という言葉から捉えれば、天照大神から神武天皇まで代々の総称を指す場合もあり、神話上で語られる天皇家のもととなった神々と言い換えることができる。

皇孫(こうそん) 天照大神の孫である瓊瓊杵尊ニニギノミコトのこと。

神祖(しんそ) 天照大神の尊称。

皇神(すめかみ・すめがみ) 神を敬っていう語。または、皇祖神のこと。

皇御祖(すめみおや) 天皇の先祖、すなわち歴代の天皇やその母親。また、特に、皇祖の天照大神のこと。

地祇(ちぎ) 国津神の別表記

天神(てんじん・てんしん・あまつかみ) 天津神あまつかみのこと。

天祖(てんそ・あまつみおや) 天皇の祖先。一般には天照大神をさすが、古くは瓊瓊杵尊ニニギノミコトをさしたこともある。天照大神から神武天皇を生む草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)までをいうこともある。

天孫・天孫族(てんそん・てんそんぞく) 天孫とは、天津神の子孫のこと。天(天照大神)の孫という意味では、瓊瓊杵尊ににぎのみことのこと。歴史的には、天津族の子孫のこと。

神武天皇聖蹟調査報告(編集:文部省/1942年)  

18.鵄(とび)の邑(むら)

 神武天皇聖跡鵄の邑は、奈良県生駒郡にあって、その地域は北倭(きたやまと)村および富雄(とみお)村にわたる地方と認められる。

 「日本書紀」によれば、鵄の邑はもと邑の名を長髄(ながすね)といい、神武天皇はすでに諸族を平定し、ついに戊午年(つちのえうまのとし/即位前三年、紀元前六六三)十二月皇軍を率いて先に孔舎衛(くさえ)の坂において天皇を拒んだ長髄彦(ながすねひこ)の軍を討伐したところである。はじめ皇軍は苦戦を重ねたが、ときにたちまち天が曇って氷雨(ひさめ/雹)がふり、金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて天皇の弓の弭(はず)にとまった。その鵄の光は稲妻のように照り輝いたので、賊軍はみな目がくらんで戦うことができなくなってしまった。こうして時の人は皇軍が鵄の瑞兆を得たことにちなんで、長髄の邑の名をあらためて鵄の邑と名付けたが、後に訛って鳥見というようになったとある。

 「日本書紀」によれば、鵄の邑(鳥見邑)はもと長髄といい、長髄彦は長髄邑、すなわち後の鵄の邑に磐踞(ばんきょ)していたものであって、神武天皇はこれをその根拠地で撃ったと考えられる。

 大和国内で古く「トミ」と言われた地は、今の磯城(しき)郡と生駒郡との二カ所にある。前者は大和平野の東南隅に、後者はその西北隅に位置し、整然と対称的な位置を占めている。いま磯城郡についてみると、城島(しきしま)村大字外山(とび/旧外山村)付近は江戸時代以来鵄の邑の故地として注意されてきたが、戊午年(つちのえうまのとし)十二月長髄彦の軍討伐のさいには、天皇はすでに今の宇陀郡、吉野郡地方から磯城郡地方を平定していたのであるから、長髄邑(鵄の邑)を外山付近とする事は不当である。したがって鵄の邑は生駒郡内の「トミ」の地にこれをあてるべきであろう。またこれより先、天皇が難波の崎を経て河内の国の盾津(たてつ)に上陸し、胆駒(いこま)山をこえて中州(なかつくに)に入ろうとしたとき、長髄彦が孔舎衛の坂において阻止したことからみても、大和国の西北部、河内国に接するこの地方に鵄の邑をもとめるのは至当である。

 「万葉集注釈」に引かれた「伊勢国風土記」に、「はじめ天日別(あめのひわけ)の命は、神倭磐余彦(かむやまといわれひこ)の天皇(すめらみこと/神武天皇)が、あの西の宮からこの東の洲(くに)を征したとき、天皇にしたがって紀伊の国熊野の村にいたった。ときに金の烏(からす)の導きにしたがって中州に入り、菟田の下県(しもつあがた)にいたった。天皇は大部(おおとも)の日臣命(ひおみのみこと)に「逆賊、胆駒の長隋を早く征ちころせ」と命じた。」とあるのは、その傍証とすることができるであろう。

 生駒郡中、旧添下(そうのしも)郡の地内に属するおよそ北倭(きたやまと)村、富雄村の両村にわたる地方は、古来鳥見、登美といわれたところであって、「続日本記」和銅七年(714)十一月の条に、「大倭(やまと)の国添下郡の人、大倭忌寸果安(やまとのいみきはたやす)、添上(そうのかみ)郡の人、奈良許知麻呂(ならのこちまろ)、有智(うち)郡(宇智郡)の女、日比(四比(しひ)の誤りか)信紗(しなさ)に対し、それぞれ終身その租税負担を免除した。それによって孝行と節操を表彰したのである。果安は父母に孝行をつくし、兄弟に親しみ、もし病気や飢餓で苦しんでいる人があれば、自分で食料を用意して訪ねて行って、これらの人々を看病したり食事を与えたりした。登美(とみ)・箭田(やた)二郷の人々は、ことごとくその恩義に感じて、果安を敬愛することが親に対するようである。」とあるのをはじめとし、以後平安、鎌倉、室町、安土、桃山、江戸の各時代を通じて、鳥見庄或いは鳥見谷など、「トミ」ととなえられた証拠があり、その地内を貫流する富雄川も、もと富河または鳥見川とよばれていたのである。

 すなわちこの地方は皇軍が兇族の首長長髄彦の軍を撃破した古戦場として、由緒のきわめて深いところといわなければならない。なおこの地域の中で、金の鵄の印があらわれた地点については、近年北倭村大字上のとび山をあげるものもあるが、地名にもとづく憶測にすぎない。

 地は大和の国の西北部に位置し、東は大和平野との間に丘陵地帯が横たわっている。西は松尾山脈によって天野川、生駒川の流域の地と接している。南は郡山町付近においてわずかに大和平野につらなる。北倭村北部の山間に源を発する富雄川は両村のだいたい中央部を南へ貫流して、その流域に狭長な平地がつづき、おのずから南北に長い一境地を画している。

 古くこの域方はいつに鳥見谷ともよばれていたが、よく地形の特徴をあらわしている。そして生駒山脈は天野川、生駒川の流域の地を隔てて南北に連なり、その山容を望むことができる。生駒山脈を越えて河内の国に通ずる山路のうち「直越(ただごえ)」は古来著名である。天皇がはじめ胆駒山を越えて中洲(なかつくに)に入ろうとした意図もしかるべきことと察せられる。

備考

 つぎの地は、神武天皇聖跡鵄の邑として調査の結果、その証拠が十分でなく、聖跡の箇所と決定しがたかったものである。

一、奈良県磯城(しき)郡城島(しきしま)村

  大字外山(とび/旧外山村)付近は、古く「トミ」といわれた地であって、元禄年間に記された貝原益軒の「和州巡覧記」に「昔の名長須根(ながすね)村は、長髄彦の住んだところという」とある。また「神武巻藻塩草」などにおいて、その地名にもとづき鵄の邑に擬されたが、すでに述べたように、「日本書記」によれば、このとき天皇はすでにこの地方に拠っていた兄磯城らを誅伐しており、この地一帯は皇軍の手中にあったのであるから、鵄の邑の地となすのは適当ではない。

保存顕彰施設

 神武天皇聖跡鵄の邑の保存顕彰施設については、その実施箇所として、奈良県生駒郡北倭村において、富雄村との村境に近い大字上(かみ)字峰ノ浦にある富雄川左岸の高所を選定し、そこに顕彰碑を建設して、碑の表面には、「神武天皇聖跡鵄邑顕彰碑」  裏面には、

「神武天皇戊午年(西暦紀元前六六三)十二月皇軍ヲ率ひきヰテ長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラレタリ時ニ金鵄ノ瑞ヲ得サセ給ヒシニ因リ時人其ノ邑ヲ鵄邑ト称セリ聖跡ハ此ノ地方ナルベシ」(戊午年・つちのえうまのとし(西暦紀元前六六三)瑞・みず)と刻することとし、その意見を紀元二千六百年奉祝会に回付した。よって同会は、これにもとづきその地に西南に面して標準型顕彰碑のやや縮小したるものを建設する事を決定し、工事はその施工を同会から奈良県に委嘱し、昭和十五年(1940)十二月着工、翌十六年四月に竣工した。

(『季刊邪馬台国』82号より)

歴史倶楽部・ANNEX「饒速日尊墳墓を探して」(ご注意:クリックするとサウンドが流れます)より転載

喜田貞吉 『本州における蝦夷の末路』

                         お断り:文中の太字部分は引用者がそうしました

        全文

六 蝦夷と日本民族

 この津軽外が浜に近い頃まで残っていた蝦夷と、今の北海道のアイヌとが、同一系統の民族であったことには、いろいろの証拠があります。そしてこの外が浜の蝦夷と、歴史時代に奥羽地方に活躍していた蝦夷とが、また同一民族の引続きであったことも、十分これを連絡すべき事実があるのであります。これまで歴史の上に蝦夷という名称を以てはあらわされず、普通に日本人の如く思われていたほどの英雄豪傑の中にでも、その素性を調査してみたならば、立派に蝦夷の系統であることの明らかなものが甚だ多く、その関係は田村麻呂、綿麻呂の蝦夷征伐の時代から、極めてなだらかに後の時代にまで継続しているのであります。しかしそれが普通には、蝦夷として認められておらないが為に、ついそれに気がつかないでいるのでありますが、それ程にまで蝦夷と日本民族との間には、極めてなだらかな連絡が保たれて、いつとはなしに、気のつかぬ程の自然の移り変りを以て、彼らは日本人になってしまったのであります。

 その事実の中で最も著しいのは、前九年役の安倍氏、後三年役の清原氏、平泉で繁盛を極めた藤原氏から、遥かに時代が下って鎌倉室町時代の頃に、津軽地方に勢力を有して日の本将軍と呼ばれた安東氏などで、彼らの事蹟はこれを証明すべきものなのであります。

 安倍貞任、清原武則、藤原清衡、これらの人々の事を後世誰が蝦夷だと思うものがありましょう。系図の上から申しても、安倍氏は崇神天皇朝四道将軍の一人なる大彦命の後裔、清原氏は天武天皇の皇子舎人親王の後裔、藤原氏は申すまでもなく大織冠鎌足の子孫田原藤太秀郷の後裔ということになっているのです。彼らは日本語を使い、日本風の生活をなす。その生活の上から云っても、無論当時の上流日本人に劣らぬものであったでありましょう。さらに血の上から申しても、たびたび日本人の血を交えて、おそらく普通の日本民族とそう変ったものではなかったかもしれません。しかし当時の人々は、これを俘囚の長と云い、前九後三の役を征夷の軍と云い、源頼朝が征夷大将軍の官を頻りに希望致したのも、この征夷の官職を以て、夷狄藤原氏を討伐せん為であったと解せられます。ことに藤原清衡の如きは、自ら「東夷の遠酋」と云い、「俘囚の上頭」と云い、その配下を称して「蛮陬夷落(ばんすういらく)」、「虜陣戎庭」などと称し、京都の公家衆は清衡の子基衡を呼ぶに、「匈奴」の称を以てし、その子秀衡を呼ぶに、「奥州の夷狄」の語を以てしております。俘囚とはこれをエビスと読みまして、蝦夷の日本風に化したものを呼ぶ称でありました。彼らが系図の上でいかに言われておりましても、その当時の人々がこれを蝦夷の種と認め、自分らもまたこれを認めていたことは、他にもいろいろの証拠があって、到底疑いを容れるの余地は無いのであります。しかるに後世の人々が、どうしてもこれを蝦夷の種だと認めえない程にまで、彼らはすでに日本風になっておりました。否、すでに日本民族になってしまっていたと申してよいのでありましょう。されば立派な歴史家と言われる人々の中にも、俘囚は本来日本人であったなどと、史料の誤解から起った窮説を主張してまでも、彼らの蝦夷の種たることを否認せんとしたものが、近頃までもまだ少くありませんでした。歴史の研究が進歩し、その知識の普及した今日では、もはやこれを疑わんとする人もそうありは致しますまいが、二十数年前に私がその説を「歴史地理」の誌上に発表しました時には、これを以て古英雄を侮辱するものだとして、脅喝的の書面を寄せたものすらありました。これと申すもこれらの人々が、後人をしてそれ程の感じを起させる程までに、すでに日本民族に同化していたからであります。

 しかしながら、彼らが蝦夷の流れであったという説を聞いて、しいてそれを信ぜざらんとし、またはこれに対して一種の反感を催おすものすらあるということは、一面には世の人々が、日本民族なり、蝦夷なりについて、十分の知識を有しないが為であります。日本民族とは、前々からこの島国に居た先住の土人なり、後に海外から多数に移住して来た帰化人なりが、ことごとく天孫民族の暖い懐に抱擁せられて、完全に同化融合し、同一の国語を話し、同一の生活をなし、同一の思想を有して、ともに同一の国家を組織するところの、一つの新らしい人種であると私は解釈しております。多くの民族が融合して、その短処を遺伝したものは、自然淘汰の原則から漸次絶滅し、お互いの長所を採ったものが次第に繁延して、今日の日本民族を為しているものでありますから、この点において私は、日本民族の誇りがあるのだと信じているのであります。したがって仮りに先祖が蝦夷の流れを承けていたとしても、決して卑下してみたり、屈辱を感じたりする必要はありません。

七 日の本将軍

 この点については、さすがに日の本将軍とも言われた安東氏の態度は見上げたものです。安倍氏にしても、清原氏にしても、藤原氏にしても、皆それぞれに名家の姓を名乗っておりますが、安東氏のみはそれを致しません。彼は自ら土人の後裔たることを立派に認めております。その先祖は長髄彦(ながすねひこ)の兄安日(あび)というもので、神武天皇御東征以前の、大和の領主であったと云っております。長髄彦は神武天皇に反抗して殺されましたが、兄の安日は奥州外が浜へ流されて、子孫蝦夷の管領となったと云っております。その後裔なる秋田実季の如きは、自分の家が天地開闢以来の旧家だということを以て、家の誇りと致しているのであります。この系図は徳川時代になって、秋田実季が自身調査を重ねて編纂したもので、その安倍という本姓は、先祖の安日という名を取ったというのでありますが、しかしその説の由来はすこぶる古いもので、すでに津軽浪岡家の永禄日記十年の条に、同地岩木神社の祠官阿部氏が、やはり同様の系図を持っていた趣きに見えております。しかも一方に同じ安倍氏の流れでも、北海道松前の下国氏の伝うるところでは、先祖は安日長髄だとあって、そのアベという姓は、先祖長髄彦以来のものだという風になっております。その結果として、秋田家の方では、長髄彦の兄の子孫だと云い、松前下国(しものくに)家の方では、長髄彦その人が先祖だと云うことになり、その指すところが違って参りますが、いずれにしても長髄彦家に関係をつけ、日本最古の名家だとすることは同一であります。この系図が果して信ずべきものか否かは別問題として、奥州のこの一大豪族が、しいて名家の家柄に附会することなく、どこまでも土人の後裔を以て任じておりますことは、見上げた態度だと申さねばなりません。

 しかしながら、仮りに安東氏が土人の後裔であるとしましても、それは男系による系図の上だけの事で、血においてはつとに混淆してしまい、生活その他においても、勿論日本民族になってしまっているのであります。何人(なんぴと)かかの室町時代の大豪族たる日の本将軍安東氏を以て、仮りにも蝦夷というものがありましょう。徳川時代において三春五万六千石の大名たる秋田氏を以て、日本民族でないというものがありましょう。蝦夷と日本民族との関係の、極めてなだらかに推移して参りましたことは、この一例を以てしても思い半ばに過ぎるでありましょう。

折口信夫 『大嘗祭の本義』

 天子様は倭を治めるには、倭の魂を御身体に、お附けにならなければならない。譬へば、にぎはやひの命が、ながすね彦の方に居た間は、神武天皇は戦にお負けなされた。処が、此にぎはやひの命が、ながすね彦を放れて、神武天皇についたので、長髓彦はけもなく負けた。此話の中のにぎはやひの命は、即、倭の魂である。此魂を身に附けたものが、倭を治める資格を得た事になる。

 此大和の魂を取扱つたのは、物部氏である。ものとは、魂といふ事で、平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には、鬼の字を、ものといふ語にあてゝ居る。物部氏は、天子様の御身体に、此倭を治める魂を、附着せしむる行事をした。

金関恕+大阪府弥生文化博物館 『弥生文化の成立』

はじめに

 

 〈縄紋から弥生〉、それは日本列島における大きな歴史の変換点であった。旧石器時代も含めると、数十万年にもおよんだ狩猟採集の経済と文化が、水田稲作を中心とした生産経済に移行するとともに、首長と農民層という階級分化が生じ、やがて首長相互における政治的な統合が進行していく。そしてその先には、巨大な前方後円墳を造営した古墳時代の展開が待っている。それはまた、自然に大きく依存し、その一部として存在していた人びとが、自然の再生産サイクルに関与するという、いわば自然を人間化していく過程でもあった。いいかえれば弥生時代は自然と人間の関係、人間と人間の関係、この二重の関係性が変質していく出発点であった。そういった意味では、縄紋時代から弥生時代への変換は、日本列島の歴史における最大の画期をなす。

 縄紋文化は、植物性食料の採集を基礎にし、狩猟と漁撈を組み合わせた獲得経済であった。そしてそれをスムーズに実現させるための呪術を盛行させた。土偶や石棒などの宗教的な道具のほかに、日常生活に使用される土器にも、現代のわたくしたちには解読できない紋様や装飾がほどこされる。つまり普段の生活と宗教活動とが密接不分離であって、宗教を独立した事象として扱う弥生時代以降とは、次元がまったく違っているように思える。弓矢や釣針など、食料を獲得するための発明、また土器のように生活に役立てられるいくつかの発明はあったけれども、自然の働きを大幅に変革することは少なかった。そして、みずからの労働やその果実が他人に搾取されるという関係はなく、平等性の原理に貫かれた国家なき社会であった。

 弥生文化は水田稲作をはじめ、鉄器の鍛造(たんぞう)、青銅器・ガラスの鋳造、機織りなど、大いなる技術革新をともなったが、それらは水田造成に代表されるように、自然に働きかけ、その環境を大きく変質させていく。また首長墓の成立、環濠集落や武器の発達などに見られるように、階級分化や戦争も始まった。それらは文明社会のもっている、いわば正と負の側面でもあった。つまり文明社会の嚆矢(こうし)ともなる弥生時代は、最初から相反する二つの要素をもっていたのだ。そしてそれらが、中国や朝鮮半島など、来アジア社会の国際的ダイナミズムのなかで展開しはじめたのである。

 水田稲作や金属器、大陸系磨製石器や大型壷、農耕祭祀や環濠集落などは、列島で自生したものではなく、南部朝鮮から持ちこまれたものであった。これら渡来してきた要素と、甕や打製石器、あるいは竪穴住居や木器や漆器など、縄紋時代から引き継がれたたくさんの要素とが組み合わさって弥生文化が形成される。もちろん、二つの文化はそれぞれの担い手がいたのであって、いまそれを縄紋人と渡来人・外来人とよぶとすれば、北部九州とその周縁地域では、玄界灘を越えて渡来してきた人びとの数や回数とその時期によって、弥生文化の質や方向性が決定されるだろうし、瀬戸内や大阪湾沿岸の地域では、外来の人びとの故郷や持ちこまれた文化の程度によって、どのような弥生文化が誕生するかが決まってくる。もっと東方の地域では、外来の人びとが移住してきた段階、新しい文化を構成する〈ものや情報〉だけが伝わってきた段階など、いろいろなケースが考えられよう。

 

 縄紋から弥生への転換は、「北部九州に渡来した稲作文化が、短時日のうちに一気に西日本を席巻し、伊勢湾周辺まで到達した」といった簡単なものではないことが、ここ数年の発掘調査の成果によって明らかになってきている。そして資料が急速に増えた結果、弥生文化という概念が、その成立期において、各地でさまざまなばらつきを見せはじめているのである。ことに縄紋時代におけるコメ資料の存在が、そうした事態に拍車をかけているようだ。

 既存の人びとがまったく消滅し、それに代わった全部の人びとが他の地域から移住でもしてこないかぎり、一つの地域における歴史の進行は連続的である。新しい技術や思想が持ちこまれ、たとえ経済制度や文化が一変しても、それを担う人びとが同じ系統にある以上、旧来の要素はかならず生きつづけている。したがって、歴史の進行のなかに〈伝統と革新〉のいずれを見いだすか、そしてどこに歴史の変換を認識するかは、わたくしたちの側の問題といえよう。

 縄紋から弥生への時代の変革、それは新たな農業社会の出発点という意味で、文明史的転換であったと思う。その歴史的実態――弥生文化はどのようにして始まったのか、それはいかなるプロセスをとって伝播し、変容していったのか、そして各地での展開はどうであっだのかなどを、地域ごとの豊富な資料を駆使して分析し、それをふまえて討論し、時代の変換のイメージを提出してみたいというのが、本書の基礎となった共同研究「縄紋から弥生へ」の目的であった。・・・・・。

旧来のパラダイム

  ・・・・・これまではおもに、弥生時代でも古い時期に属する土器の分布や、弥生時代の遺跡から出土した人骨の形質人類学的な研究成果に基づいて、九州、中国、四国、近畿地方などのいわゆる西日本と、相対する東日本とでは、水田稲作農業が違った形で伝わったであろうと考えられていた。従来の考え方をごく簡単に要約するならば、次のようにまとめることができるであろう。

 北部九州や本州西部の弥生人の主流は、地域的にいくらかの形質差がありながらも、渡来系の人々であり、一方、東日本の弥生人は縄紋系の人々である。水稲耕作を主要な生業とする渡来人が、その農業文化複合をもってまず北部九州に定着し、在地の縄紋人と混血し、文化的にも影響を与えあって、弥生人と弥生文化を生み出した。彼らの子孫は海岸平野を開拓し、おそらくは人口も爆発的に増大し、新しい土地を求めながら、西日本の全域に水稲農業という新生業を伝えて広かって行った。しかしその移住の範囲は中部日本以東には及ばなかった。東日本の縄紋人たちは、やや遅れて水田稲作農業を自ら受け容れ、弥生人に変身していった。

 こうした考え方は、もちろん、それまで知られていた第Ⅰ様式、あるいは遠賀川(おんががわ)式土器を最古の弥生土器とし、その分布の調査成果とも矛盾するものではなかった。

文化の習合と伝播

 ・・・・・ある文化の系が外からの影響を受けて変化をおこす場合、二つの状況が考えられる。第一は、違った文化をもつ二つ以上の集団がある程度の期間にわたって接触し、一方または双方の文化体系に変化を生じた、いわゆる文化習合(シンクレティズム)である。第二は、ある文化に属する集団が、人の介在なしに、他の文化から一つまたは幾つかの文化要素を借用したり模倣したりして摂取し、自らの文化を変えて行くような文化の変化であり、ここでは文化人類学の定義により、これを文化伝播的な変化と呼ぶことにしよう。もちろん実際には、はっきり二つの型に分けられるようなものでないかも知れない。
 縄紋文化のような、もともとは採集経済に依拠していた社会が、弥生文化のような生産経済の社会に変わっていった場合も、これら二つの変化の型に照らして考えることができる。つまり西日本は、渡来集団の文化と在地の縄紋集団の文化が接触して、文化習合を生じた場である。この文化変容の過程で、渡来文化のような、より大きな影響力をもった文化が、いくらかの強制をともなって縄紋文化を圧倒したとしても、その後に主として精神文化の面で一種の土着化現象(リヴァイタリゼイション)が見られることは興味深い。例えば、弥生土器を飾る幾何学的な紋様の出現などは、その制作者が縄紋系土器文化の継承者であったことを暗示している。付言するならば、武器や工具の生産を鉄鍛冶があずかるようになってから、それまでの青銅製の武器が儀器化していく現象なども、弱者の反動が呪術化、宗教化して現れた普遍的な土着化現象の一例だと考えてよいかも知れない・・・・・。

新しいパラダイムの試案

  時代も、地域的な性格やさまざまな条件も、全く異なった地中海世界における農耕社会形成のモデルが、縄紋から弥生への移り変わりを説明するうえに、何ほどの参考になるか疑わしいと思われるかも知れない。しかし、地中海北岸地域でも、各地で精密な調査が行われれば行われるほど、各地区における歴史的発展の自律性をより重視しなければならないという傾向を読み取ることができる。日本列島でも、水稲農耕文化社会成立の説明について同様の考え方が強調され始めたことは興味深い。

 縄紋から弥生への移り変わりを説明する古いパラダイムに換え、最近の調査・研究成果を取り入れながら、私なりの新しいパラダイムを試作して提示してみよう。

(一)稲は、他の畑作物と共に、遅くとも縄紋時代の後期ごろには伝えられ、おそらくは陸稲として採捕生活者たちの間で永い期間栽培されていた。

(二)水田農耕文化は朝鮮半島南部から伝来したであろうが、そのころ北部九州との間には相当密接な交流があり、縄紋の人々は新しい生活を始めるに当たって、必要な文化要素を選択的に採用した。

(三)日本列島内における水稲農耕文化の広がりも、従来考えられていたような、新移住者による急速な文化移植現象ではなく、むしろ在地の縄紋人が主体的に受容したものである。しかし地域的には、弥生時代I期のおわりごろ、コロニー形成現象もみられる。その場合、縄紋人と弥生人の間に一種の住み分け的現象もあったであろう。あるいは、住居跡などを考える場合、ブライオニー・オームが引用しているイバン族の移動例のように、考古学的証跡だけではなく民族学の成果を参照すべきであるかも知れない。

(四)弥生時代以降、日本列島の住民の形質には相当大きな渡来系の人々の影響があるという。弥生時代についていうならば、最初期(先I期)ではなく、おそらくそのI期になって、海外からある程度の数の移住者を迎えたものであろう。

 水稲農耕文化の始まりが、かつて考えられていたよりもはるかにさかのぼる年代が与えられるだけに、採捕的生活から農耕生活への移り変わりについても、従来よりはより長い、そして徐々たる過程を考えなければならないことは、当然だといえないことはないであろう。

小林達雄 『縄文の思考』

人類史第二段階としての縄文文化

 ・・・・・縄文文化が第一段階の旧石器文化に続く第二段階であるという紛れもない本質的な事実をこそ、まず認める必要がある。つまり、縄文文化は、新石器文化と全く同様に人類史上の第二段階なのであり、両者がともに第二段階という点で同格であることを理解すべきなのだ。

 縄文文化も大陸側の新石器文化もともに第二段階であるということは、第二段階には本格的な農業をもつ文化と農業をもたない文化の、相異なる文化があることを物語る。換言すれば、人類史における第二段階には、少なくとも農業の有無の違いによる対照的な二つの文化があるということである。このごく当たり前の事実が等閑視されてきたのは、ひとえに新石器文化すなわち農業という図式にとらわれ、引きずられてきたせいにはかならない。ここにおいて、ようやく日本列島の縄文文化は、中国大陸やヨーロッハ地域の新石器文化とともに第二段階に正しく位置付けられることとなるのである。

ヤキモノ世界の中の縄文土器

 ・・・・・突起こそが縄文土器をらしめている必須の属性である・・・・・

 ・・・・・容器の本命が容積にあることが間違いないものとすれば、縄文土器の突起は容積を決定する形態外のものであって、疑いもなく余計な代物である。だから、土器の口縁に突起を敢えて取って付けるようなことは通常はしないのであり、古今東西のヤキモノに絶えて例をみないのは当然の成り行きであることがわかる。その突起を縄文土器は目縁に大きく立ち上がらせて泰然自若としている。ヤキモノの世界で孤立するのもけだし当然であろう。さらに、突起は容器には不要というよりも、かえってあること自体がモノの出し入れに邪魔にさえなっていることは一目瞭然ではないか。にもかかわらず、突起を前面に押し立てて毫も迷わず確信犯を装うのである。

 ・・・・・縄文土器が底から口を結ぶ器壁に文字通り不必要なほどに変化をみせるプロポーションは、もう一つの際立った特徴である。その理由は容易には理解できない。とにかく小さめの底にもかかわらず、大きく立ち上がる胴本体をのせたりするものだから、安置させるのさえ、困難を覚えるほどであり、目を離したスキに倒れんばかりである。その上、胴で一旦くびれながら、さらに思い直したように大きく口を開いたりする、重心が上方にずり上がるのはこれまた当然の成り行きで、それだけでも不安定極まりない。これではすぐに倒れて、せっかくの内容物が外にこぼれ出てしまいかねないと取り越し苦労させられてしまう。まるで容器としての本分を度外視しているのだ。

 それに輪をかけて、これでもかと言わんばかりの大仰な突起をかぶせる。なかでも中期の勝坂式や曾利(そり)式、火焔(かえん)土器の各様式はもう常軌を逸している。そうでなくても本体の重心が上方にあって不安定なのに、それを解消する思いやりを毫もみせず、堂々と身構えている。

 縄文土器は、この粘土造形の特色を最も良く発揮させ、ヤキモノとしての土器の造形において、とくに世界に冠たる独自で個性豊かな展開をみせたのだ。改めてこの事実に目をとめたのは岡本太郎であり、「ここに日本がある」と叫ばしめたのであった。それまでは、縄文土器は考古学研究上の恰好な対象にしか過ぎなかったのだったが、ついに造形あるいは美学的・芸術的分野でも高く評価され、気を吐くに至ったのである。

 つまり、器の形態全体のプロポーションの異常なまでのバラエティーも、その大仰な突起とともに、ヤキモノとしての容れ物の域を超えているのだ。古今東西のヤキモノは、たまさか過剰ともみえるほどの独特な形態を発達させることがたとえあっても、ヤキモノとしての容器の本分とは不即不離の関係を維持しているのである。

 ところがどっこい、縄文土器はそうではない。容器の使命に背を向けて、あまりに独り善がりだ。言うなれば、容器として作られ、たしかにある程度の働きをしているものの「容器放れ」した性格を矯正しようとする素振りさえ見せようともしないで平然としている。縄文土器とは、そもそもそういう性格のものなのである。しからは、何故に容器本末の使命に忠実ではなく、「容器放れ」を指向するのであろうか。

 「容器放れ」は形態だけの問題ではない。縄文土器の器面に展開する文様とも密接に関係する。その縄文土器の文様はいかにも装飾的であるというのが世間一般の評判である。しかし、装飾的とは、縄文土器文様が醸し出す効果が観る者の眼に映ずる印象なのであり、縄文土器が自ら備えた性格とは別である。実は縄文土器の文様は、縄文人の世界観を表現するものであることについて、かつて論じたことがある。いわば装飾性とは無関係に、世界観の中から紡ぎ出された物語であり、文様を構成する単位モチーフはそれぞれ特定の意味、概念に対応する記号なのである。

 一方、しばしば縄文土器と対比される弥生土器は、これまで装飾性は低いと評価されてきたが、その弥生文様こそが装飾を目的とするものであり、物語性の縄文文様と全く対極にあるのだ。弥生土器の文様は器面を飾るのであり、ちょうど我々の身辺にあるヤキモノの器面や壁を飾る壁紙と相同ではなく、相似の関係である。つまり、ともに文様の装飾的効果において外見上同様に見えるが、弥生の装飾性と縄文の物語性という二つは互いに動機を全く異にする。このことが、弥生土器や壁紙の文様が土器面や壁面から容易に剥がして分離できるのに対して、縄文土器においては文様としての独立性はなく、それが故にしばしは土器本体から分離することはできないのである。縄文土器の文様は、本体からの分離独立が適わず、文様を剥取しようとすれば、たちまち本体自体が毀れてしまうのだ。換言すれば、底から口を結ぶプロポーションそして突起は、ともに文様とは独立して存在するのではなく、一体化した存在なのである。

 この意味において、縄文文様は縄文土器本体とスクラムを組んで「容器放れ」を敢行しているのだ。容器放れというのは、容器としては非能率的であり、不便極まりない。出し入れ口にどっかと突起が居座ったりすれば、障害になるのは一目瞭然なのに取り除くこともせずに、好んで容認している。それが「容器放れ」を招いているのは承知の土だから確信犯というわけだ。例えてみれば、劇場ホールなど大勢の人が集まる建物の非常口に障害物を据え付けるようなものである。たちどころに消防署の検査にひっかかるに違いない。公共的な集会用の建物としては不合格に決まっている。だから縄文土器が「容器放れ」を続けて改善しないのは、容器としての資格に欠陥を招くこととなる理屈だ。

 ここに至って、容器としては不合格品に認定される程度の土器を作り続けて改めようとしない縄文人の責任が問われることになるのは当然である。現代の通常の思考からすれば、たしかに日常的なさまざまな場面で使用しているのに、敢えて使用するのに不便で、非能率的な形態の実現を旨とするのはまことにおかしなことではないか。そこが縄文人特有の哲学なのであり、我々とは一致しないところというわけである。端的に言えば、容器に使い勝手の良さを求めるのではなく、使い勝手を犠牲にしてまで容器にどうしても付託せねばならぬナエカがあったのだ。そのナニカが突起を呼びこんだり、ときには不安定極まりない形態をとらせたり、物語性の縄文土器文様となるのである。これこそが縄文人による縄文デザインの真骨頂なのだ。

 かくして縄文デザインは、具体的な道具なのに使い易さに背馳する。容器デザインの普遍性、現代風に言えば機能デザインと対極にあることが判る。容器であれば、容器の機能を全うするに適った形態をとらねばならぬはずなのに、そうではなかった。機能デザインの精神に則って弥生土器を生み出した弥生デザインと対極に位置づけられる理由である。縄文デザインは、世界観を表現することを第一義とするのである。言うなれば、現代人が心情を吐露する詩あるいは画家がキャンバスに描く絵に相当するものとも例えることができる。だから、縄文土器は容器であって、かつ縄文人の詩情が表現されているものなのである。

 こうして、縄文土器は古今東西のヤキモノ世界で、比類のない個性を誇り、断固とした主体性を確立した理由は、縄文デザインを体していたからであることがわかる。

煮炊き用土器の効果

 縄文土器は、飾って、眺めるために作られたのでは勿論ない。土器の内外面には、しばしば、食物の残り滓が焦げついて薄膜状に付着したり、煤の付着あるいは火熱による二次的な変色が底部にみられたりする。容器の形態をしてはいるか、単なるモノを一時的あるいは長期にわたって貯えたりしたものではなく、ほとんど全てが食物の煮炊き用に供されたことを物語っている。それ故、こうした事実を十分踏まえて縄文土器の製作、使用の実際と、それによってもたらされた歴史的意義について、考える必要がある。・・・・・

 食物は、生で食べる、焼いて食べる、そして煮て食べるの三種の調理法に区別される。これらは食物の摂取方法だけでなく、社会学的、呪術的意味の上で、重要な特色と意義がある。レヴィ=ストロース(「料理の三角形」)はこの問題について論じている。

 土器との関係で問題となるのは、煮炊き料理であり、その意義の検討が必要とされる。そもそも自然界にある食料には、火を通さずに口にすることのできるものは限られている。獣類、魚貝類の大部分は生で食され美味でもあることはよく知られている。しかし、植物性の多くは、生食には適さず火熱を通して初めて食物となるものが多い。火で柔かくなるから口にし易くなる、喉ごしが良いと説いたのは佐原真である。筆者は賛同者の一人として紹介されたが、若干の誤解がある。かねてより主張してきたのは、生のままだと人間の消化器官が受けつけない種類でも、火を通すと、嘔吐も下痢も心配なくなるのであり、モノによっては、口に馴染む美味に変わる。つまり、火熱によって植物の成分は科学的変化をおこし消化可能な物質になるのだ。決して硬軟の問題ではないのであり、この点か決定的に重要なのである。例えば、満腹するほどの生米を食べるとすれば、不味いというばかりでは済まず、たちまち下痢症状を招き、脱水症を招きかねない。消化器が受け付けようとしないのだ。しかし、加熱すると、一転してβデンプンがαデンプンに変化し、容易に消化され、美味に変わるのである。

 人間の消化器官が生理学的に受け入れない代物を火熱によって化学変化を誘発して消化可能にする作用は、さらに重要な分野に好影響をもたらした。つまり、渋みやアク抜きあるいは解毒作用にも絶大なる効果をもたらした。ドングリ類がやがて縄文人の主食の一つに格付けされ、食料事情が安定するのは、まさに土器による加熱処理のお蔭である。さらにキノコの多くには毒があるが、テングタケ、ツキョタケなどの猛毒の一部を除けば、煮て、その湯をこぼせば全く安全とは言えないまでも、生命を脅かすはどのものではなくなる。

 熱を加えさえすれば良いのであれば、焼いてもほとんど同じ効果が期待できるはずである。しかし、動物や魚貝類は別として、植物食のうち、とりわけ葉ものや茎ものは、火加減が難しく、うっかりすると炭になったり、燃料に同化して食べる前に燃え尽きてしまう懼(おそ)れがある。せっかくの食物が台なしである。ところが具を土器の中に入れて煮炊きすれば、沸騰した湯の中でたとえ形状は変化しても、溶けたり、消えて元も子もなくなるということはない。栄養分も汁の中にがっちり確保される。煮炊き料理の効用がここにあり、眼をつけた縄文人のしたたかさをみる。しかも、貝を煮れば、固く閉ざした殼を開かせるのにも容易となるなど、土器による煮炊きが食事の主座を占めるに至った理由がこれで十分合点がゆくのである。

 ところで、煮炊き料理によって、植物食のリストが大幅に増加したのは確かに重要である。動物性蛋白質の摂取に偏っていた食生活のバランスは栄養学的にも向上した。その上、植物性食料は、動物と異なって逃げ足があるわけでもないので、旬の時期を見計らい、場所さえ突きとめれば容易に採集が出来る。窮鼠猫を噛むのたとえにあるごとく、追いつめられた動物の反撃に油断は禁物、大怪我の危険性さえもある。こうした事情はイノシシ狩りなどで深傷を負ったとみられるビッコを引いていたイヌの埋葬例などにも表われている。その点植物採集は安全だ。とにかくこれまでは遺跡出土の食用植物の遺存体は六〇種ほどであり、未発見ながらきっと食していたに違いないウド、タラノメ、ワラビなどの多数を加えれるとすれば、五倍以上の三〇〇種をはるかに超える数になると思われる。因みに山芋のムカゴが発見されたのはつい最近のことである。

 こうした植物食の拡大充実は、縄文人の食生活の安定に大いに寄与するところとなった。北海道はサケやアザラシ、トドなどの海獣に恵まれた土地柄もあって動物性蛋白質の摂取量は約七割にも達するが、関東地方で貝塚を残した集団でさえ動・植物は五分五分である。中部山岳地帯にあっては長野県北村遺跡例のように、植物食が六割を超えている。このように、人骨に残された窒素や炭素同位体の比率の分析によって生前の食料事情が手に取るように判るのである。改めて狩人一辺倒としての縄文人のイメージを拭い去る必要がある。ただし、肉類の摂取を低くみてはならないし、狩人としての活動は縄文社会の中では極めて重要な位置を占めていたのだ。狩猟漁労用の弓矢の石鏃(せきぞく)や釣針、銛(もり)の発達が当時の事情をよく物語っている。さらに陥穴(おとしあな)をムラの周辺はじめあちこちに設けており、川底には棒杭を立てた獣もみつかっている。

 それにしても、植物食の開発と利用の促進によって食料事情は旧石器時代の第一段階当時とは較べものにならないほどに安定した。まさに第二段階の縄文社会が、大陸における農業を基盤とする新石器社会の連中にも負けをとることなく、堂々と肩を並べるほどの、文化の充実を保障した有力な要因は、煮炊き料理の普及にあったのである。土器の絶大なる歴史的意義は高く評価されねばならない。

ムラの生活

 この定住的生活への第一歩こそ、人類文化の第一段階から第二段階へと飛躍する、人類史における最初の歴史的大事件である。一箇所に定住することで、身体を動かすことが大幅に減った。つまり、朝目覚めるや直ちに、自分の肉体を維持するためのカロリーを摂取する食物探しにとりかかり、そのことだけにほとんど一日中費やしていた時間にとって代わって、精神を働かす方に時間を振り向けられることになったのだ。縄文人の知性がいよいよ活発な動きを開始する契機となったのである。

 ・・・・・じっくり落ち着いて考えることが出来るのには、身体を動かさないで過ごす時間が必要とされたのであり、定住生活によってその状況が整い、縄文文化の形成を約束してくれたのだ。

 定住生活はまた、遊動生活における一日刻みの単位から少なくとも数力月あるいは数年単位以上の長期にわたる滞留を意味するのである。それだけ一つの場所空間を占拠し続け、さらに快適さを確保するために邪魔物(白然的要素)を排除し、自分に好都合な空間へと整備を進めてゆくこととなった。やがて、縄文人は縄文人用のためだけに、縄文人の独自の空間=ムラを作り出すに至ったのだ。・・・・・

ハラにおける自然との共存共生

 ハラは、単なるムラを取り囲む、漠然とした自然環境のひろがり、あるいはムラに居住する縄文人が目にする単なる景観ではない。定住的なムラ生活の日常的な行動圏、生活圏として自ずから限定された空間である。世界各地の自然民族の事例によれば、半径約五~一〇キロメートルの面積という見当である。ムラの定住生活以前の六〇〇万年以上の長きにわたる遊動的生活の広範な行動圏と比べれば、ごく狭く限定され、固定的である。いわはムラを出て、日帰りか、長びいてもせいぜい一、二泊でイエに帰ることができる程度ということになる。

 つまり、ハラはムラの周囲の、限定的な狭い空間で、しかも固定的であるが故に、ムラの住人との関係はより強く定着する。

 ハラこそは、活動エネルギー源としての食料庫であり、必要とする道具のさまざまな資材庫である。狭く限定されたハラの資源を効果的に使用するために、工夫を凝らし、知恵を働かせながら関係を深めてゆく。こうして多種多様な食料資源の開発を推進する「縄文姿勢」を可能として、食料事情を安定に導いた。幾度ともなく、ハラの中を動き回りながら、石鏃や石斧などの石器作り用の石材を発見したり、弓矢や石斧の柄や木製容器用の、より適当な樹種を選び出したりして、大いに効果を促進した。

 縄文人による、ハラが内包する自然資源の開発は、生態学的な調和を崩すことなく、あくまで共存共栄の趣旨に沿うものであった(引用者:のちに弥生人が作り出す里山も同趣旨のものである)。食物の味わい一つとっても、我々現代人と同様に好き嫌いがあったに相違ないのに、多種多様な利用を旨としたのは、グルメの舌が命ずる少数の種類に集中して枯渇を招く事態を回避する戦略に適うものであった。これは高邁な自然保護的思想に基づく思いやりというのではない。好みの食物を絶滅に追い込むことなく連鎖によって次々と他の種類に波及して、やがて食料だけでなく、ひいては自然を危うくするという事態を避けることにつながる。多種多様な利用によって、巧まずしてこのことが哲学に昇華して、カミの与えてくれた自然の恵みを有り難く頂戴させていただくという「縄文姿勢方針」の思想的根拠になったとみてよい。ハラそのものを食料庫とする縄文人の知恵であり、アメリカ大陸の先住民の語り口にも同様な事情を窺い知ることができる。

 同じ人類史第二段階でも、西アジア文明に連なるヨーロッパにおいて、ハラの主体性を認めず、農地拡大の対象と見なす思想とは対立的である。つまりこのことも、一万年以上に及ぶ長期にわたる縄文の歴史に根差す日本的心における自然との共存共生の思想に対して、土地を利用し、ひいては自然を征服するというような思想に根差すヨーロッパ近代以降の合理主義の発達との、際立った対照につながってくるのではなかろうか。

 ハラを舞台として、縄文人と自然とが共存共生の絆を強めてゆくのは、自然資源利用の戦略のレベルにとどまるのではない。利用したり、利用されたりという現実的な関係を超えて、思想の次元にまで止揚されたのである。一万五〇〇〇年前に始まり、一万年以上を超える縄文の長い歴史を通じて培われ、現代日本人の自然観を形成する中核となった(引用者:のちに弥生人はこの自然観を受けついで里山を作っていく)。

 日本人の自然観、自然との関係のしかたは、縄文時代に刷り込まれて以来、文明開化や太平洋戦争後の欧米文化の波及そして今日のグローバリゼーションなどの大革新をかいくぐって、依然として日常生活をはじめ年間民俗行事などに見え隠れしている。

 筆者は、北硫黄島の発掘調査に向かう船上で、小笠原の漁師が缶ジュースを開けて口に運ぶその前に、海に気前良くドバッーと注ぎ垂らしたのを目にしたことがある。歳の若さに似合わず、そのしぐさに根強い日本人の心を垣間みる思いがした。無事に舟を浮かべさせていただいている、そのことに感謝を表わしたのだ。相手は単なる物理的存在としての海ではなく、海と一体の海の精霊(海神)なのである。・・・・・

 森には森の精霊がいる。

    『ここへ畑起してもいいかあ。』『いいぞお。』森が一斉にこたへました。みんなは又叫びました。『ここに家建ててもいいかあ。』『ようし。』森は一ペんにこたへました。みんなはまた声をそろへてたづねました。『ここで火たいてもいいかあ。』『いいぞお。』森は一ペんにこたへました。みんなはまた叫びました。『すこし木貰ってもいいかあ。』『ようし。』森は一コ斉にこたへました。(宮澤賢治「狼森と笊森、盗森」)。

 森には森の精霊がいる。縄文人がハラと共存共生するというのは、ハラにいるさまざま」な動物、虫、草本を利用するという現実的な関係にとどまるのではなく、それらと一体あるいはそこに宿るさまざまな精霊との交感を意味するのである。それはどちらかが主で、どちらかが従というのではなく、相互に認め合う関係である。だから礼を尽くし、ときには許しを乞うのだ。「草木皆もの言う」自然を人格化し、交渉を重ねることで、神ながらの道へと踏み込むのである。

 自然の人格化は、「自然を人間と対等にすることではない。自然の人格的存在は、人間以上の人格としてみなされる」(今村仁司『交易する人間』)。人間よりも大きい、超人間的人格なのである。獲物を贈与してくれたり、土器や石器や木の道具の材料を授けてくれるばかりでなく、いわば人間の生命的存在さえ与えてくれる事実に思い至るとき、神々を意識するのである。だから「すこし木貰っていいかあ」と許可を得なくてはならないのだ。軽い会釈では済ませない。神からハラの中で生存を保障されるという「負い目感情にみあう返しの行為」は、同じ価値をもつ物を返す程度で収まるものではなく、感謝の念をこめて、他にかけがえのない最上等のものでなければならない。それは「自らの生命をなくすことである。しかしこの世のなかで生き続ける限りは、自分に死を与えることは不可能であるから、代理の生命」を差し出すことになる。

 それが供儀(くぎ)である。アイヌのイオマンテにこめられた精一杯の恩返しに通ずる。遺跡から出土するイノシシなどの焼骨もそうした儀礼と関係するのかもしれない。

 人類史上の第二段階に入って、縄文人がムラの生活を軌道にのせるや、自ら周囲の自然=ハラに対する働きかけを強めることとなった。人類はそもそも自然との関係において、特徴的な二つの方向性があり、時代や地域や集団によってどちらかが選択された。一つは自然と共存共生を目指すものであり、二つは自然を従属させて、自然に対して主導権を握り、ときには積極的に征服を意識したりする。人類の流れからみれば、前者は伝統的、保守的であるのに対して、後者は革新的である。また後者が農耕を基盤とするのに対して、前者は本格的な農耕に背を向け、第一段階以来の狩猟漁労採集の三本柱を基盤とする。

 農耕民は、自然を自然のあるがままにしておくわけにはいかず、開墾に精出す農作物用の耕地を確保する方向に一途に邁進する。ムラを営むための空間を自然から切り取って、自然的要素を排除して、人工的空間を形成するにとどまらず、ムラの外に、もう一つの人工的空間としての農地すなわちノラを設けて、さらに拡大して止むことはない。そこからしばしば自然を征服する、克服するという意識と態度を鮮明にするのだ。自然を利用する効率が問題となり、投入した時間と労働力の見返りの最大効果を目論むにいたる。や産業革命を経て、ヨーロッパ流の近代合理主義発達の契機へと膨張し続け、現代の深刻な危機を演出する元凶ともなった。<引用者:ノラには、自然との対決型(西アジア文明に連なるヨーロッパ型)と自然との共存共生型(縄文世界観を受け継ぐ里山型)があり、ここでは自然との対決型について述べられている。>

 一方の縄文人の選択は、日常的生活の根拠地としてのムラの周囲=ハラを生活圏とし、自然と密接な関係を結ぶに至る。農耕民が自然を利用対象として干渉を強める姿勢をとり、容赦なく物理的侵略の挙に出るのと対照的である。縄文人は生活舞台としてのハラの自然に身勝手な干渉を加えたりして、ハラ自体の存亡に影響を与える事態を招くとすれば、縄文人白身の生活基盤の破壊につながりかねない。だからこそ共存共生共栄こそが自然の恵みを永続的に享受し得る保障につながるのである。

 こうして縄文人は、ハラの自然のさまざまなモノに対して人格を認め、主従関係というよりは、同格の同志として尊重する心をものにするにいたる。万物ことごとく、草木皆もの言うと認識するが故に、耳を傾け、聴くことができるのだ。こうして鳥虫獣魚草木の自然界にまとうカタチの奥に潜む精霊と付き合い、対話の緒は儀礼や呪いによって聞かれてゆく。縄文人が一万年以上こうした自然との関係を維持継承するなかから、縄文世界観が醸成され、次第に日本人的心の形成の基盤となったのである。

炉辺の語りから神話へ

 壁で四周を囲まれて閉じられた住居は、縄文人が創り出した縄文人独自の空間である。その性質は他のいかなるものとも画然と区別され、固有の装置によって象徴的意味をもたらした。聖性を備え、家族の身と心を安堵させるイエ観念をはっきりと意識させたのだ。

 炉は、そうした装置の一つとしての重要な役割をになったが、さらに炉と炉端から縄文哲学が次第に姿を現わした。炉は、住居の床のほぼ中心にもうけられた。正真正銘の中心というよりはむしろ、炉の場所が住居の中心であり、家の拠り所となったのだ。炉の求心性が働いて炉の周りに家族が集まり、お互いに最も顔を近づけるところとなった。家族全員が向き合って顔の動き、口や目の動きをやりとりすることで、誰一人として隠し立てすることなく、家族の心が一つになってゆく。

 火を囲んでただ座っているとお互いに息苦しくもなるから、場をなごますためにあれこれおしゃべりが口をついて出るようになり、そこから団らんというものが生じたと藤森照信も述べていた。

 さても朝から身に起こったあれこれの話を交わし、耳をそば立て、目元をのぞきこむその中心に炉がある。

 それにしても、その日現実に起こった一回だけの体験は平凡にすぎるきらいがある。だから一度だけなら、耳を傾けてくれても、二度三度の繰り返しは飽きられる。人間心理における「飽き」を克服することは到底出来るものではない。さりとて話すに足るほどの体験が毎日毎日あるわけではない。そこで実際の体験を元手に粉飾され脚色されることになる。脚色の方法には、まず第一にそれまでに耳にした他人の体験の一部を拝借して、話の内容を膨らませる。第二は、ささいな事を大袈裟にする。たとえば、あっけない勝負を長時間にわたる死闘にすり変えたり、実際の身に覚えのない死の危険をかろうじて免れたとする。第三はありもしない事をでっちあげる。たとえば、風の音にびっくりしたことが、見も知らぬ人がぬっと出てきたという話になる。とくにその得体の知れぬ怪物が異形あるいはこの世の人とは思えないとなれば、効果百倍となる。第四はあることないことを混ぜ合わせて話の辻棲を合わせて、衝撃性あるいは面白味を演出する。そのためには、起承転結、序破急といった事の顚末の流れをつくり、ヤマ場を設定する。こうして、血湧き肉躍る物語になる。

 こうして、平凡な体験談も幾度となく繰り返されるうちに、形を整え、筋書きが固定して立派な物語に仕上がってゆくのだ。同時に、その内容は自分の身に起こった具体的な体験から次第に遊離する方向をたどる。もはや自分で語りながらも、自分個人の話ではなくなる。

 こうして個人の体験やイメージを土台にして、物語が誕生する。実際に発した体験談の無生物化である。具体的内容から飛躍した架空の出来事で粉飾され、それが故に個人の死と共に消滅するのではなく、仲間内に語り継がれてゆくだけの普遍性を備えることとなる。物語の共有化、社会化である。

 やがて、個人的実体験にルーツをもつ物語はムラの中のあちこちに蓄積されてゆく。個人が経験することのできない事柄も、物語を通して仲間と共有できるのだ。物語が不断に再生産されてゆく一方で、淘汰も進み、ある一定数の許容限度がほぼ保たれてゆく。従って、ムラの中の物語は、入れ替わり、立ち替わり、新旧入り混じる。そうした物語群の中に生きる人々全員が合意する共同幻想が醸成される。共同幻想とは現実世界の具体的な事件を超えた、抽象的世界である。

 物語の大部分は、短期的で消えてゆく運命にあるが、比較的長期にわたり、あるいは世代を越えて語り継がれるものもある。大方の支持の得られた物語は、脚色に成功したものであり、共同幻想の中に組み込まれる。むしろ共同幻想そのものの象徴的存在として位置づけられる。一世代はもとより、幾世代も継承されてゆくうちに、さらなる抽象化が進み、伝説化する。しかし依然として伝説は体験談の延長線上にあり、具体的な現実世界の関係は維持されるのである。

 体験談が個人と密接に関係するのに対して、伝説は、ムラの仲間全員の共有財産であり、その財産としての伝説の保持が共同幻想と関係する。換言すれば、集団の意思が伝説の存在を規制するのである。伝説のあるものは、現実の具体的事柄から遊離の傾向を強めるほどに、現実離れした論理すなわち共同幻想によって存続を保証しなくてはならなくなる。

 現実を離れた架空の世界とは、生身の人間に替って人間の精霊が表にでてきたりする。そして、草や木や虫や動物の精霊と対話したり、交感したりしながら、自然界に自らの存在を位置付け、関係付け、組み込むのであり、「草本皆もの言う」の世界につながってきているのだ。関係づける論理は、現実的な根拠を必要とするわけでなく、現実離れした飛躍がある、思いつきの理屈を貫き通そうとする説明である。

 この伝説の暴走が行きつくところに神話の世界がある。もはや地に足のついた具体的な裏付けのない抽象的な次元だ。神話の中では、天に上ったり、降りたり、動物や植物に変身したり、まさに破天荒な所業が展開される。

 神話は、しばしば自分達人間の出自を説明する。しばしば動物植物との交流を物語る。人間と自然との有機的関係の来歴を物語る。あるいは森羅万象のあり様に解釈を与えるのである。とりわけ、目で見てそれを確認できない裏の裏まで理解しようとする姿勢が、独自の理屈をひねり出すのである。その理屈が論理性を欠くが故に、物語の中に位置付け、粉飾することになる。それが単なる日常性に根差した体験談ではなく、ただの伝説でもなく、まさに神話でなければならない理由である。そして逆に神話によって、森羅万象の存在が保障される。神話の神話たる所以がここにある。共同幻想の究極である。

縄文人、山に登る

 ・・・・・倉石忠彦は、山の存在が生活に深くかかわりながら、生活文化の形成に大きく影響を与えてきていることに視座を据えて、山の名称・呼称を分析している。ヤマ(サン・山)・タケ(嶽・岳)以外にモリ(森・盛)・マル(丸)・トウ(塔)・タイ(平)・セン(山・仙)、さらにクラ(倉・鞍・蔵)・ミネ(峯・峰)などが地域的に特色ある分布を示すことを明らかにしている。また、ヤマ・タケの先後関係は依然として不明であるけれども、モリが古く、さらにマルが、それよりもトウが古いであろうと推測している。遡って、縄文人は山をどう呼んでいたのであろうか。

山の神から田の神へ

 縄文人が仰ぎ、ときには登ることもあった山は、眼に映る単なる景観の一部ではなく、縄文人によって発見された精霊の宿る特別な山であった。この想いは縄文時代の終幕とともに忘却の彼方に押しやられたのではなく、縄文人の心から弥生人の心にも継承された。

 民問信仰にみられる田の神は、春のはじめに山から降りてきて、田畑や周辺を守ると信じられている。ネリー・ナウマン(『山の神』)の優れた研究がある。山の神は田の神であり、季節によって名称とともに性格が交替すると解釈する。現象としてはそうかもしれないが、もともと縄文人が永らく意識の中に組みこんでいた精霊の宿る山、神のおわします山から新たに開始された農耕の庇護、・育成のために勧請されたものとみられる。山の神と田の神の二神があって、単純な交替と解するのでは先後の関係があいまいになる。縄文時代以来の山の神が弥生時代以降農耕とともに二義的に田の神に分派したとみるべきと考える。本地垂迹(ほんちすいじゃく)の関係と相似するのである。つまり、山の神が本地とすれば、田の神は垂迹

に当たる、というわけである。

結びにかえて

 縄文文化の研究が進むほどに、その充実ぶりは世界的にも注目されるようになってきた。つまり、狩猟漁撈採集の三本柱を基盤とする世界各地の文化では、抜きんでて他の追随を許さないのである。

 ・・・・・近年の低湿地遺跡の発掘調査が進むにつれて、水漬け状態で運よく保存されてきた繊維工芸品や木製品などが続々と明らかになる・・・・・。

 ・・・・・改めて、縄文文化の水準と充実のほどがよくわかる。

 縄文文化が農耕と無縁でいながら、まさか、それほどの実績をあげ得るとは到底信じられない。大方の見方はそうである。だから一部研究者は、縄文人がすでに農耕に従事していたという証拠を掴もうとやっきである。その努力の甲斐あってか、ついに岡山の高橋護は、縄文晩期、後期からさらに中期の壁を突破して、瀬戸内の朝寝鼻(あさねばな)貝塚で前期のイネのプラントオパール(イネ科の葉に含まれる珪酸体)を探り出して、大々的に発表した。

 

 かたや福岡の山崎純男は縄文土器の内外面や割れ口を丹念に観察し、電子顕微鏡を駆使しながら、イネモミをはじめとする雑穀やコクゾウムシなどの圧痕を見つけ出している。

 その真摯な取り組みは、敬服に値する。しかし、私には、また別の言い分かある。つまり、イネモミ痕やコクゾウムシが、よしんば正真正銘期待通りにそうであるとしても、それをもって直ちに農耕と断じてはならないという立場をとる。

 農耕とは、ただなにかを栽培していたかどうかの事実の有無だけにかかかる問題ではない。そうした農耕的技術だけでなく、社会的経済的文化的な効果あるいはおよび農耕に関係する儀礼や世界観などの総合的なあり方が重要なのである。栽培ということであれば、縄文人も十分に心得ていた。クリ林の管理育成、ムラの周辺にはエゴマ、ヒョウタン、ソバからニワトコなどがまるで寄生するかのように群生していた光景が容易に目に浮かぶ。少年時代の田舎の家回りにも、フキノトウ、ミョウガ、シソ、ホウキ草などがいくら引っこ抜いても根絶やしできないほど我物顔にのさばっていたものである。けれどもこれを農耕と断じてはならない。

 農耕ともなれば、その程度の状況とは画然と区別される。これはと決めた二、三のごく少数の栽培作物に手間をかけ、時間をかけて育て上げ、食うに困らないだけの収穫の確保を目的とするのが農耕である。そのためには片手間ではおるか、少しの手抜きも許されない。うっかり油断して、水遣りを怠れば、作物はたちまち萎れたり、枯れたりする。期待通りの収穫を望むには、明けても暮れても作物にかかりきりとなる。だから、ゆったりと時間の流れる縄文時代に比べて、かえってゆとりもなくあくせくすることになる。換言すれば、ごく少数の限定された作物に全面的に依存し、脇目もふらずに頼りきるのだ。首尾がよければ、望み通りに、努力によっては予想以上の増収をもたらしてくれもする。

 かたや、縄文時代の狩猟漁撈採集は、文字通り山海の恵みを専ら享受する構えをとる。貝塚などに残された貝の種類三〇〇、魚類七〇、獣類六〇、鳥類三〇種ほどをそれぞれに超え、その他にカメやヘビや海獣を食料としていた。骨格や殻のない植物は残りにくいが、それでも約六〇種知られており、実際はその五倍の三〇〇以上と見積もっても大袈裟ではない。白井光太郎が『食用植物』で挙げているのは、キノコ類を除いて四五〇種に上る。地下の根茎、球根にはじまって、茎、葉、若芽、花、つぼみ、果肉、種子など多彩である。とにかく縄文人が食用とした動・植物のバラエティーは尋常ではない。この事実に感嘆してばかりいては駄目だ。ましてや、これを手当たり次第に口にしたなどと早とちりしては、縄文人の思いや精神をいつまでたっても理解できない。

 とにかく、「縄文姿勢方針」は何よりも食料事情の安定にそのままつながる理想的な戦略であった。つまり、食料を極端に少ない特定種に偏ることなく、可能な限り分散して万遍なく利用することで、いつでも、どこでも、食べるものに事欠かない状態を維持できるのだ。まさに「縄文姿勢方針」の真骨頂がここにある。

 このように好き嫌いの我儒を一切言わず、多種多様な利用を心がける「縄文姿勢方針」は、食料事情の盤石の安定を保障するにとどまらず、それがそのまま巧まずして自然との調和をいささかも乱すことなく、生態学的な調和をしっかりと維持する効果につながっているのだ。まさに、自然の秩序の中の一員として生きた縄文人の生き方の重要な意味がここにある。

 一方の農耕はごく少数の栽培作物に集中するが故に、冷害旱魅などの異常気象で不作ともなると、それに代わるべき用意がないだけに、たちまち食料不足を招き、餓死者続出ともなる。その危険を避けるために、あくなき増収を目指して、耕作用の田畑を拡大し、一方的に自然の領域を侵し続ける方針を決して曲げることなく、貫き通してきたのだ。「自然の克服」という介言葉は、やがて地下資源に手を出し、大気をも汚染し、オゾン層すら破壊しながら依然として止むところがない。しかも、この期に及んでなおかつ真剣な反省がみられない。歴史を振り返ることもなく、未来を見据えた哲学すら生まれていない現状は深刻である。

 ・・・・・それにしても「縄文姿勢方針」を貫くことは並大抵なことではない。まず第一は、食用に適さないものとの区別、場合によっては毒に当たって死さえも招きかねないものとの、正しい識別が必要とされる。あるいは、入手できる場所が種類によってまちまちであるから、ただがむしやらに犬も歩けば棒に当たるというわけにはいかないのだ。季節的にも旬があり、はずしたら一年間食いっぱぐれと相成る。

 ・・・・・実は、ここにコトバが力を発揮するのだ。

 つまり、コトバによる名づけによって、個々を区別し、食用と非食用の混同を避けるのである。それぞれにつけられた名前コトバによって、外見上の形状や大小や色具合はもとより、コトバでは言い尽くせない、可憐なとか雄々しいとか、モノの風情や雰囲気をも含んだ総体として、対象を特定するのである。こうして対象物は他と区別された固有の名前コトバによって主体性を確立し、初めて文化的要素の一つとしての存在を保障されることとなる。名前コトバがもつ最も基本的な機能である。・・・・・

 縄文人こそは、縄文語に基づく史上稀有な博物学的知識の保侍者であったのである。

 しかも、その知の体系たるや決して出来合いではなく、自然との共存共生の自らの実体験を通して構築されるものであって、何よりも自然と人間との不即不離の関係を象徴するのだ。・・・・・

 いま改めて、日本文化を遡り、自然と対話した、文字通り地に足のついた縄文日本語の知的世界に立ち戻る必要性を思うのである。

     <ご参考:縄文と弥生

小林達雄 『縄文人の世界』  

食料資源の多様な利用

 縄文の文化・社会を支えるのは、いうまでもなく生業経済である。縄文時代の生業は、狩猟と漁撈、採集の三本柱からなっていた。狩猟・漁撈・採集は、四〇〇万年以上にもわたる長い人類史の基本であったが、これは二段階に区別される。

 第一の段階は、空腹になったら食べ、満腹になったら休むというものである。旧石器時代や白人文化との接触以前の北アメリカの先住民の一部やオーストラリアのアボリジニなどの生活様式である。第二段階は、食料の確保が計画的になり、その場しのぎに空腹を満たすためだけでなく、種類によっては大量に獲得して、貯蔵しながら長期的に食料事情の安定が図られる。また生のままでは腐敗しやすいので、穴蔵などの貯蔵用施設や保存加工法が工夫されることにもなる。縄文人や北アメリカ北西海岸の先住民諸族は、この第二段階を極めた典型である。

 縄文時代が相当規模の定着的な集落を維持しえたのは、まさに狩猟・漁撈・採集経済の第二段階にあり、食料事情の計画性を背景としたからである。とくに縄文文化においては、それを可能にし、大きく前身させたのが、土器の働きである。

 縄文時代の貝塚や洞窟、低湿地の遺跡で発見される食料を数え上げていくと、哺乳動物六〇種以上、貝類三五〇種以上、魚類七〇種以上、鳥類三五種以上、植物性食料五五種以上にのぼる。とくに植物性食料は遺存しにくく、当然食べたと思われるワラビ・ゼンマイ・タラの芽・カタクリ・ウド・キノコの類の多くが出土リストから抜けているので、これも加えられねばならない。

 ・・・・・かつて白井光太郎は『救荒植物』を著し、山野に自生する可食植物を要領よくまとめ、総計四三五種について、芽・若葉・葉・茎・根・苗・花・実などの可食部分の区別とその調理法を明らかにした。これにキノコ類も加えて斟酌すると、かつて概算した三〇〇種をはるかに凌駕する五〇〇種の大台こそが縄文人の植物食の実態に近いのではないかと考えられる。ただ、食料とされたそれぞれの種類を調べあげることも重要であるが、ここではなによりも資源の多種多様な利用が注目されねばならない。

 縄文時代の生業の特色は、この多種多様な食料の利用にこそあり、これが「縄文姿勢方針」なのだ。そして、ここに次のような二つの意味を知る。

 まず第一に、多種多様な天然資源を食料としたことにより、食料事情の盤石な安定性が保障された。少数の種類に限定しないことで、季節の変化につれて常にそれなりの自然の恵みにあずかることができたのである。また、異常気象などでいくつかの種類の食料が枯渇、あるいは不作となったとしても、他のいくつかは影響を免れ、食いつなぐことができた。また不足気味の一時期を耐え忍びさえすれば、まもなく食べられる新しい食料資源の時期が必ずやってくるのである。

 多種多様な利用とは、少数のものに偏しない、集中しないということである。この縄文人と自然との関係は、おのずから自然の生態学的な安定維持につながった。これが、第二の意義である。興味深いのは、ウサギ・タヌキからオオカミ・ヤマネコ、そしてムササビ・オコジョやテン・ネズミまで狩猟の対象となっていたことだ。また多くの民族例からみても、狩猟民は自分と姿形が似ているサルは食べ物から除外するのが普通だが、縄文人は頓着しない。実際、好んで獲っている節さえ見受けられるのである。

 また、彼らは、肉のまずい動物まで獲って食べている。・・・・・哺乳動物六〇種の中には、縄文人の舌にもまずいと思えるものがあったに違いない。それでも忌避せずになんでも食べているのである。

 たしかに動物の肉、とくにシカやイノシシは美味であり、一頭仕留めさえすれば大量の肉が確保できる。もっとも山岳部ではこれがクマとカモシカになり、北海道ではイノシシがいないのでエゾシカとクマに代わる。けれどもこうした狙い目の動物ばかり獲っていたら、獲物はたちまちムラの周りから逃げて姿を見せなくなるだろう。そうなれば、しだいに狩場への距離が延びて、やがては日帰りでは間に合わないほどの遠征となり、ついにはシカやイノシシの群れを求めて、あの旧石器時代のような遊動的生活に戻らなくてはならなくなる。こうした容易に予測できる弊害は、美味で効率的であるからといってもシカやイノシシにのみ集中せず、多種多様な動物を食べることで回避されたのである。

 シカやイノシシだけにこだわらず、他の動物を食べながら頃合いを見計らってゆくこの縄文姿勢方針は、あたかも柵のない牧場経営ともいうべき巧みな仕組みとなっていたのである。

堅果が主食

 全国各地の縄文遺跡から発見される植物遺存体の中で、最も普遍的に見られるものは、クリ・クルミ・トチ・ドングリの堅果類である。

 ・・・・・縄文人が冬を越すための大切な食料だった堅果類は、地下に掘り込んだ貯蔵穴などに保存されたのだ。貯蔵穴は、長期的な食料計画のための施設である。

 ・・・・・堅果類こそが植物食の重鎮であるばかりでなく、いわば縄文人の主食を構成するものであった・・・・・。

「自然の人工化」

 ところで堅果類には、そのまま食べられるものもあるが、アクを抜かなければ食用にならないものもある。アク抜きなしで食べられるのは、ブナ・クリ・シイ・マテバシイ・イチイガシの実だ。簡単な水さらしを必要とするのは、アカガシ・アラカシ・シラカシなどの類、そして水さらしに熱処理を加えて初めて食用となるクヌギ・コナラ・ミズナラ・カシワ・トチなどの類が区別される。また、アク抜きや渋味を軽減するには、油を使用する調理も有効であり、アイヌの人びとは、そのために獣類や魚類の油を活用していた。

 なかでも、最も粒の大きなトチは、アク抜きをして食用に供するまで1ヵ月近くもかかるぐらい厄介なものである。このように、自然の野性の状態に特別な手を加えて利用しやすい性質に変化させることは重要であり、軽視してはならない。私はこれを縄文人による「自然の人工化」として評価していこうと考えているところである。

 アク抜き法の開発で、広範囲の堅果類が一挙に食料資源化したことがこれで分かるだろう。これにより、縄文人の食料事情の安定性は飛躍的に発展した。縄文文化が、狩猟採集社会としては世界でも一級の水準に達した背景は、ここにこそあったのである。・・・・・

 堅果類は、石皿と磨石を使って、砕いて製粉され、団子状にされた。それを縄文人は、魚介類や獣肉のスープの中に、スイトンのように落として食べることもあったであろう。あるいは直接火にかざしたり、灰の中に埋めたりして焼いて食べたのであろう。・・・・・

 ところで堅果類の中でも、クリは、アク抜き不要で、しかも天然の甘味を味わえるので、縄文人の関心がひときわ大きかったものかもしれない。・・・・・たしかにクリは、各地の遺跡から出土しており、早期にまでさかのぽる。また遺跡に残された炭化材には圧倒的にクリの多いことが知られている。・・・・・

 縄文人は、クリ以外の利用価値の低い樹木は伐採し、これらを薪として燃やし尽くしたため、結果的にクリの木が保護されて人工的な景観が出来上がった、という筋書きである。これが、さらに縄文人とクリの木との関係を緊密としたのだろう。

栽培という自然の人工化

 ・・・・・前述のとおり、多種多様な食料資源の利用の効果、すなわち縄文姿勢方針を真に理解する時、縄文文化には弥生時代的な農耕がなくても十分安定した力を備えていたことを知らねばならない。

 たしかに縄文時代にも、ヒョウタン・エゴマ・リョクトウなどの栽培種と考えられる種類が存在している。ソバ・ヒエ・ニワトコも利用していた可能性がある。佐々木高明は、早くからこうした栽培種にかかわる農耕の存在に注意を向けている。しかし、これを農耕とみなすのは、縄文的な狩猟・漁撈・採集経済の本質を見間違うおそれがある。いずれの栽培種も多種多様な植物性食料の利用の一環であり、農耕という次元の行為・思想・効果とは明確に区別される。これらを混同することは、歴史を観る意義の放棄につながりかねないであろう。

縄文農耕問題

 縄文人の食用をはじめそのほかのための動植物資源の開発は、こうして徹底され、さらに薬草や毒物などの弁別知識に及びながら、生態学的知識が深められていった、と思われる。このような自然の観察を通して具体的な試行錯誤を重ねていく姿勢方針、そして資源の多種多様な利用への傾斜については、前にも触れたが、特定の少数の栽培種の食料資源に収斂しようとする農耕経済とは、断固として相容れるところではなく、むしろまったく反対の極に立つものである。たとえ栽培があったとしても、それは縄文姿勢方針にのっとった多種多様な資源利用の一環であって、基本的な縄文経済の枠組みからはみ出すものではなかった。

 一定面積を区画して自然から切り離し、特定種専用の畑・水田に転換する農耕は、その土地面積が多種多様な資源を生み出す潜在的機能を否定し、破壊する。この観点からすれば、今日の自然環境に対する冒瀆と破壊は、まさに自然を積極的かつ人工的に変更することによって効率を高めようとする弥生時代の農耕経済に遠く由来するものであることが理解される。しかも自然を破壊して、自然の中に無理に割り込ませた少数種の農作物は、きわめて脆弱である。そして、だだっ子のように人の手の助けをしきりに頼み、もはや人の助けなくしてはにっちもさっちもいかなくなってしまう。ちょっとした旱魅や冷害、病害虫によっても、壊滅的な打撃を被るのである。

 毎年のようにジャーナリズムが報じる世界各国の飢饉は、農耕経済の脆さと不安定さをあらためて教えてくれているではないか。しかしその対極に立つ縄文自然経済においては、たとえ一部の食料資源に不漁・不作があったとしても――それがドングリであってもー―それを補って余りあるほどの代替物でまかなわれる巧みな仕組みを有しているのである。狩猟採集民には、飢饉は無縁なものであった。

 たかが狩猟・漁携・採集社会だと、縄文経済の力をあなどってはならない。・・・・・

 そして、さらに自然の人工化の実例として、「縄文クッキー※」と「果実酒作り」と「漆工芸技術」が注目される。・・・・・

    ※縄文クッキー材料形をつくる焼く情報処理推進機構教育用画像素材集より引用>

食料の備蓄と保存加工

 秋に縄文のムラ人が総出で採集したクルミ・クリ・トチ・ドングリなどの堅果類は、食料としての価値と重要性において別格ともいうべき存在である。女や子供でも容易に、かつ大量に採集でき、縄文人の基礎的食品となっていた。ただ別格のドングリの類といえども、豊作の年ばかり続くわけではなく、周期的に不作の年がある。そして異常気象の影響などで、凶作の年も必ず巡ってくるものであった。それでも縄文人は、多種多様な資源を利用する縄文姿勢方針のゆえに、飢え死にから免れたはずである。そこが、ごく限られた栽培種に依存した農耕民とは根本的に違うところである。そして異常気象などの影響に大打撃をこうむるのは、むしろ農耕民であったことを知るのである。

 ・・・・・縄文人は、その日の糊口を満たすばかりでなく、将来的な食料備蓄も心がけていた事実が重要である。

 すべての食料がそうした備蓄にあてられたわけではなく、それにかなう種類は限定されていた。まず第一に、短期間に、効率よく、大量に確保できるというのが、その必要条件である。その意味で、貝塚に残された二枚貝は、干潟が広く現れる時、すなわち大潮とその前後に、大量に採捕された典型的な備蓄用食料の一つになりえたのである。

 さらに秋に採集されたクリ・クルミ・ドングリ各種の堅果類も、短期間に、安全確実に大量の収穫が可能な食料である。・・・・・

 備蓄の要件の第二は、保存問題である。せっかくの食料が、後で腐敗や変質してしまっては、食べられなくなる。その防止なり、保存のための特別の加工が必要とされる。乾燥、煉製などのほか、塩漬けや発酵法などが考えられる。それに加えて、保存施設の工夫や、備蓄場所の選定が必要である。・・・・・

 かくして食料の大量確保と備蓄こそは、縄文時代の食料資源とその利用を特徴づけるものとして重要であった。そのつどの消費と長期的展望による備蓄との組み合わせが季節ごとの食料資源の過不足を調節したのであり、旧石器時代の狩猟採集経済に比べて、一段と生活を安定させ、定住的な生活を保障したのである。

縄文カレンダー

 このように縄文人が食料とした資源は、年間を通じて一定していたわけではない。日本列島の四季の変化ははっきりしたものだから、それにつれて動植物資源の種類と量も変化する。

 東京大学の赤澤威は、食用植物約二〇〇種の採集利用時期を分析した。地下茎は、少ないながらも年間を通して平均的な利用が見られ、果実と葉茎となると、季節的に大きな偏りがある。果実は、十月をピークに、九~十一月に集中し、六~八月のほかはきわめて少数種に限られる。一方の葉茎は、年間を通じてほぽ途切れなく継続的に利用されているものの、春三月から種類を増し、四~六月にピークがある。植物の季節的変化に対応した植物性食料採集の季節性が、ここにある。

 ・・・・・漁撈活動にも、このように厳然たる季節性があった。

 陸生獣の狩猟活動もまた、季節的であった。・・・・・マタギのクマやカモシカ猟などと同じく、縄文人の狩猟活動も、とくに冬季が中心であったことが判明している。動物は厳しい冬を乗り切るために、秋に十分に餌を食べて、それを皮下脂肪として蓄積している。だから冬の獲物は、脂がのって美味なのである。さらにまた、落葉した冬枯れの木立は見通しもきき、獲物の発見にも有利であった。

 このように縄文時代の多種多様な食料資源の採集獲得は、自然の変化に同調したものであった。しかしここでは、単に受動的に自然の恵みを待つだけでなく、むしろ積極的に自然の流れにのり、計画的に労働を展開していくものであった事実を、読み取らねばならない。言い換えれば、縄文時代は、食料獲得をはじめとしたすべての行動を自然の移り変わりに重ね合わせて計画的に進行させていたのである。

 この秩序こそが、縄文人と自然との共生の基礎をなすものであり、ここに、かつて私か縄文人の計画的な年間行動スケジュールとしての「縄文カレンダー」を提唱した趣旨がある。・・・・・

 なおこの縄文カレンダーに関連して土器製作についても、一言付け加えておかねばならない。どうも縄文人は決められた季節に土器作り計画を固定していたらしいのである。遺跡を掘ると、壊れた土器を丁寧に補修してとことん使い込んだ例がある一方、新品同然の土器が惜し気もなく廃棄されている例にぶつかることがある。土器作りが年間スケジュールで固定されていたとすれば、初めてこの謎にも合理的な解決が与えられるのである。

陥し穴と罠猟

 資源利用に関連して、遺跡に名残をとどめている遺構が貯蔵穴と陥し穴である。・・・・・

 貯蔵穴については、すでに述べた。陥し穴は、縄文時代の狩猟事情をうかがううえで重要である。もちろん狩猟といえば、弓矢がすぐ思い浮かぶ。いささか脱線するが、弓矢について少し触れると、矢柄の先端に石鏃を装着した矢は、縄文時代に日常的に使われた飛び道具である。石鏃の貫通力は後世の鉄鏃と比べてもけっして遜色ないどころか、かえって獣への効果が高かったのだ。

 ・・・・・陥し穴の活用は、あらかじめ計画的に設置しておきさえすれば、いちいち現場に出なくても複数地点で獲物を獲得できるという特典があり、縄文人の知恵がうかがえるのである。

 罠猟も、また同様である。・・・・・

 手持ちの武器で獲物をしとめる方法には、直接対決に際しての危険の度合いも多く、あるいは敏捷な小形獣の動きを制する困難さがあるが、陥し穴や罠猟はそうした欠点を補ってあまりあるうえに、家の寝所で高枕しながら夜行性の動物をも罠にはめることができるのである。縄文時代の狩猟用の武器の実態は、前述の弓矢以外は意外と不明瞭なままであるが、それは、手持ちの武器で直接に獲物を倒す方法よりも陥し穴・罠猟が盛んであったことの表れなのかもしれない。

 ただしこの方法をとると、幼獣や再生産をになう雌は見逃して、図体の大きな成獣や老獣、あるいは雄だけに狙いを集中するという選択ができない。縄文時代の狩猟法の解明は、さらに遺跡出土の動物遺体の年齢構成や雌雄の比率の分析などを通じて明らかにされるだろう。

狩猟儀礼と呪術

 狩猟の成功のためには、まずは適切な狩猟具や仕掛け装置の工夫と作戦の立て方が重要である。そして、それを効果的に働かせるための技量を磨く普段の訓練が必要とされる。さらにもう一つ重要なことは、狩猟の成功を確信するための儀礼・呪術である。つまり狩猟は、獲物を獲得する直接的な行動要素とその行動を保障する観念的な要素との二つの面を併せもっているのだ。言い換えれば、儀礼や呪術だけではいかなる獲物も倒せないのはもちろんだが、同時に縄文人の観念では狩猟具や仕掛けだけでもけっして十分な効果をあげえなかったのである。

 世界各地の狩猟民にも、また東日本のマタギの間でも、たとえばクマや夕力の爪などのさまざまな護符・呪符がある。縄文時代においても、イヌやオオカミ、さらにはクマ・サル・カワウソ・イルカ・ウミガメ・オオヤマネコの下顎骨や犬歯その他に穿孔した特殊製品は、単に身を飾る装飾品というよりも、むしろ狩猟呪術にかかわる可能性を考えなくてはならない。

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縄文の「ウチ」と「ソト」そして「アノ世」

 竪穴住居は、縄文人の造った、初めての恒久的な人工建造物であった。地面を掘り込んで柱を立てて屋根を葺いた住居は、これまでの仮小屋とはまったく異なり、堂々と自分の存在を主張したものであり、ここにイエの「ウチ」と「ソト」の意味が出てくる。

 イエの中には炉がつくられる。この炉によって竪穴住居のウチという特有の空間が認識される。やがて炉の縁に石棒などが立てられるが、縄文中期になると石で組んだ祭壇のようなものがつくられる。このように、自分の竪穴、イエの