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このHPは、「生駒の神話研究会」(連絡先)の公式HPです。

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書き足しを重ねています。その際、新しい記載と古い記載との齟齬は修正するように努めていますが、記事の量の増加により、それが出来ていない場合もあるかと思いますがご寛容ください。

 

必読希望記事・・・このHP各所に掲載の記事の中で、最低限お読みいただきたい記事を下に掲載いたしました。

これらの立脚点に立ち、これらの留意点を踏まえ、これらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム) に沿ってとりまとめた「生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>.pdf」

「生駒の神話の骨子」を生駒検定<全国版>の第1問の問題文としました⇒そのWEB版その文書版.pdf

)生駒の神話は、

 ①縄文から弥生への交代期のショックで発生した長髄彦伝承を基にするもの(ご参照.pdf)。

 ②縄文から弥生への移行期における里山の誕生の過程を反映したもの(ご参照.pdf )。

 戦い忌避神話であり、戦い忌避伝承である生駒伝承と符号・共鳴している。生駒の神話は、「縁起の法」の神話化であるとも考えられる<縁起の法ご参照>。

)生駒の神話の今日へのメッセージ

 ①生駒の神話と現在  非戦・避戦の精神

 ②<ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?>これが、日本神話の最大の謎であり、その答が生駒の神話の真意であり、現代・未来への最大のメッセージとなっている。 

)最低限、目を通していただきたい資料

 ①生駒の地理、古道、古蹟、地名の位置がわかる地図、地形が分かる写真

 ②生駒市誌  富雄町史  先代旧事本紀  古史古伝

 ③村井康彦『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfこの書物が画期をなす理由紹介記事

 ④嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf →右図が表紙07

   下記のような立ち位置で著されたことにより、この書物もまた記紀神話を解明する上で画期をなすものとなりました。

   立ち位置:「神話や由緒には創作や事実を脚色したものが多く、事実がそのまま記されているわけではないのですが、全くの作り話というわけでもなく、何らかの事実を元に再編したり都合よく脚色したりして創られているようですので、その中に含まれている「事実の欠片」と思われるものを拾い出し、古代の地形地域の伝承地域資料に残されている事実や世界の歴史などと照らし合わせてみると、『納得できなかった教科書の歴史』とは全く違う歴史が納得できる形で表れてくるのです。」(14.10.17のブログより)

邪馬〇国の名称・所在地論争に終止符を打つ論 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征

『新編 生駒の神話』<創作中>

)生駒の神話の舞台・・・生駒の山生駒山地矢田丘陵(平群の山)西之京丘陵(京阪名丘陵/跡見の岳)

 

 

生駒の神話のストーリー  

「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)」 に沿ってとりまとめた「生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>.pdf」

生駒の神話の骨子生駒検定<全国版>の第1問の問題文としました⇒そのWEB版その文書版.pdf

ストーリー各種

(1)石切劔箭神社の由緒 

(2)歴史街道・人物往来<神武天皇>: ①.jpg②.jpg / ③.pdf

(3)いこま歴史探訪 神話の里生駒-長髄彦伝説‐<→その一場面(左が長髄彦軍 ・ 右が神武軍)<クリックで拡大>

生駒の神話のストーリーの成立過程⇒邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征

各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に創作した『新編 生駒の神話』右のカテゴリーの02へ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『新編 生駒の神話』<創作途中> 

~『新編 生駒の神話』とは各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に、文献リテラシー(※)を用いて、これらの立脚点に立ち、これらの留意点を踏まえ、これらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)に沿って、生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>を青写真にしてとりまとめ創作したものです。~
     (※)リテラシー・・・適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現し、その真意を把握する力。

饒速日尊、葦原の中国に降臨す(『先代旧事本紀』より)・・・この部分は添削する。 

天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。

 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。

 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。

 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。

 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。

 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」

 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

 天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連(おわりのむらじ)らの祖。天鈿売命(あまのうずめのみこと)猿女君(さるめのきみ)らの祖。天太玉命(あまのふとたまのみこと)忌部首(いむべのおびと)らの祖。天児屋命(あまのこやねのみこと)中臣連(なかとみむらじ)らの祖。天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。天道根命(あまのみちねのみこと)川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。天神玉命(あまのかむたまのみこと)三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。天椹野命(あまのくぬのみこと)中跡直(なかとのあたい)らの祖。天糠戸命(あまのぬかとのみこと)鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。天明玉命(あまのあかるたまのみこと)玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。天牟良雲命(あまのむらくものみこと)度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。天背男命(あまのせおのみこと)山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。天御陰命(あまのみかげのみこと)凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。天造日女命(あまのつくりひめのみこと)阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。天世平命(あまのよむけのみこと)久我直(くがのあたい)らの祖。天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。天背斗女命(あまのせとめのみこと)尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)間人連(はしひとのむらじ)らの祖。天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。天三降命(あまのみくだりのみこと)豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。天日神命(あまのひのかみのみこと)対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。乳速日命(ちはやひのみこと)広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。八坂彦命(やさかひこのみこと)伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。伊佐布魂命(いさふたまのみこと)倭文連(しどりのむらじ)らの祖。伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。活玉命(いくたまのみこと)新田部直(にいたべのあたい)の祖。少彦根命(すくなひこねのみこと)鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。事湯彦命(ことゆつひこのみこと)取尾連(とりおのむらじ)らの祖。八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。天下春命(あまのしたはるのみこと)武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。月神命(つきのかみのみこと)壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。

 また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。

 物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。

 五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。

 二田造(ふただのみやつこ)。大庭造(おおばのみやつこ)。舎人造(とねりのみやつこ)。勇蘇造(ゆそのみやつこ)。坂戸造(さかとのみやつこ)。

 天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

 二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

 船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。

 船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)。

船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)。

 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日尊は亡くなられた。その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)に仰せになった。「私の神の御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。だから、お前は天降って復命するように」このようにご命命になった。速飄神は勅を受けて天降り、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで、天に帰りのぼって復命して申しあげた。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄の神を遣わし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれた。そして天上で葬った。

饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。

これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば味間見命(うましまみのみこと)と名づけなさい。もし女子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけなさい」産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。

 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。

 饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。

宇摩志麻治命

 天香語山命の弟、宇摩志麻治命。または味間見命といい、または可美真手命(うましまでのみこと)という。 

 天孫天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊は、天下を治めようと思われて、軍をおこして東征されたが、所々にご命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中つ国の豪族・長髄彦は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴し、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、「天神の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない」といい、ついに兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍は連戦したが、勝つ事ができなかった。

 このとき、宇摩志麻治命は伯父の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。そうして衆を率いて帰順した。

 天孫は、宇摩志麻治命に仰せになった。「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」

 そして特にほめたたえ、神剣を与えることで、その大きな勲功にお応えになった。この神剣は、韴霊(ふつのみたま)剣、またの名は布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神というのがこれである。

 また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊にお授けになった天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれて、さらに寵愛を増された。また、宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて国内を平定して復命した。

 天孫磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮殿を造られた。辛酉年の一月一日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位につかれた。この年を、天皇の治世元年とする。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。 

 宇摩志麻治命がまず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾を立てて斎き祭った。五十櫛という、または斎木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。そうして、天つしるしの瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。「殿内の近くに侍りなさい」(近く殿の内に宿せよ〈すくせよ〉)そのためこれを足尼(すくね)と名づけた。足尼という号は、ここから始まった。

 高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率い、天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。天児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申しあげた。宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾を立てて厳かでいかめしい様子をつくった。道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なことを伝えられた。

 ときに、皇子・大夫たちは、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。このように都を建てて即位され、年の初めに儀式をするのは、共にこのときから始まった。

 宇摩志麻治命は十一月一日の庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこのときに始まった。天皇は宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の亡父の饒速日尊が天から授けられてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りとせよ」いわゆる“御鎮祭”がこれである。

 およそ、その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と大きな声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことをいう。 

 治世二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」 

 この日、物部連らの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は、ともに食国の政事を行う大夫に任じられた。その天日方奇日方命は、皇后の兄である。食国の政事を行う大夫とは、今でいう大連・大臣にあたる。

 そうして宇摩志麻治命は、天つしるしの瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、石上の大神をお祀りした。詳しくは以下に述べる。

瓊々杵尊降臨(『先代旧事本紀』より)・・・この部分は添削する。  

天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)は天降って、筑紫の日向の襲の槵触二上峯にいらっしゃった。

ウガヤフキアエズノミコト誕生

 (略)彦波瀲武鸕草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、天孫・彦火々出見尊[また火折尊ともいう]の第三子である。母を豊玉姫命という。海神の上の娘である。豊玉姫命の妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)を立てて皇妃とされた。すなわち、海神の下の娘で、鸕草葺不合尊の叔母にあたる。四人の御子をお生みになった。子の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)[賊の矢にあたって亡くなった]。次に、稲飯命(いなひのみこと)[海に没して鋤持神となった]。次に、三毛野命(みけいりぬのみこと)[常世の郷に行かれた]。次に、磐余彦命(いわれひこのみこと)。

イワレヒコの東征出発(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。  

 神日本磐余彦天皇の諱(ただのみな/実名)は、彦火火出見(ホホデミ)という。鸕が草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は王依姫といい、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の二番目の娘である。天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。成長されて、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶とって妃とされた。手研耳命(たぎしのみこと)を生まれた。四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、「昔、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天照大神が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を、祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた、塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと『東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天・の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳(たいさい/12年の周期で巡行する木星の異名)の甲寅(きのえとら)である。

 その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向われた。速吸之門(はやすいなと/豊予海峡)においでになると、一人の漁人(あま)が小舟に乗ってやってきた。天皇は呼びよせてお尋ねになり、「お前は誰か」といわれた。答えて「私は土着の神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦に釣りにきており、天神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」という。また尋ねていわれる。「お前は私のために道案内をしてくれるか」と。「御案内しましょう」という。

 天皇は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差出し、つかまらせて舟の中に引き入れ、水先案内とされた。そこで特に名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直(やまとのあたい)らの先祖である。筑紫の国の宇佐についた。すると宇佐の国造の先祖で宇佐津彦(うさつひこ)・宇佐津姫(うさつひめ)という者があった。宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮か)を造っておもてなしをした。このときに宇佐津姫を侍臣(おもとまえつかみ)の天種千命(あまのたねのみこと)に娶(め)あわされた。天種子命は中臣氏の先祖である。

 十一月九日、天皇は筑紫の国の岡水門(おかのみなと)につかれた。

 十二月二十七日、安芸国について埃宮(えのみや)においでになった。翌年乙卯(きのとう)春三月六日に、吉備国に移られ、行館(かりのみや)を造っておはいりになった。これを高島宮という。三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

 戊午(つちおえうま)の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。舳艫(じくろ/船首と船尾)相つぎ、まさに難波碕(なにはのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国(なみはやのくに)とした。また浪花(なみはな)ともいう。今難波(なにわ)というのはなまったものである。

 三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

3-2邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征基づいた記述追記

草香の戦い(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

 夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。そのときに長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞き、「天神の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。流れ矢が当たって五瀬命の肘脛(ひぎはぎ)に当たった。天皇の軍は進むことができなかった。天皇はこれを憂えて、はかりごとをめぐらされた。

 「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」といわれた。皆は「そのとおりです」という。そこで軍中に告げていわれた。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。草香津(くさかのつ)に引き返し、盾をたてて雄たけびをし士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてつ)とよんだ。いま蓼津(たでつ)というのは、なまっているのである。

 初め孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。それでその木を指して、「恩は母のようだ」といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきのむら)といった。今「おものき」というのは、なまったものである。

イワレヒコ軍の迂回(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

    愛瀰詩烏(えみしを)毘人嚢利(ひだり)毛々那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

長髄彦と金鵄(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

 十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。そして歌っていわれた。

  ミツミツシ、クメノコラ(久米之子等)ガ、「カキモトニ」アハフ(粟田)ニハ、カミラ(韮)ヒトモト(一本)、ソノガモト(其根茎)、ソネメツナギテ(其根茎繋)、ウチテシヤマム(撃而止)<天皇の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう>

 また歌っていう。

  ミツミツシ、クメノコラガ、カキモト(垣下)ニ、ヴヱシハジカミ(植韮)、クチビヒク(口疼)、ワレハワスレズ(我不忘)、ウチテシヤマム<天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう>

 また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは歌った人を指して名づけたのである。

 さて長髄彦は使いを送って、天皇に言上し、「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒連日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽者でしょう」と。天皇がいわれる。「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表(しるし/しるしの物)があるだろう。それを示しなさい」と。長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢(あまのははや/蛇の呪力を負った矢)と歩靫(かちゆき/徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ/矢を入れて携行する道具)を天皇に示した。天皇はご覧になって、「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。長髄彦はその天神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。けれども兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。そして間違った考えを捨てず、改心の気持がない。饒連日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒連日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。

6-2長髄彦 とイワレヒコの戦いに基づいた記述追記

6-3ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?基づいた記述追記

イワレヒコの橿原即位(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

 辛酉(かのととり)の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。この年を天皇の元年とする。・・・・・古語にも、これを称して次のようにいう。「・・・・・始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト/始めて天下を治められた天皇)」と申し、名づけて神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイハレヒコホホデミノスメラミコト)という。

 四年春二月二十三日、詔して「わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。

 三十一年夏四月一日、天皇の御巡幸があった。腋上(わきかみ)の味間(ほほま)の丘に登られ、国のかたちを望見していわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲(あきつしま)の名ができた。昔、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)がこの国を名づけて、「日本は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていて良く整った国」といわれた。また大己貴大神(おおあなむちのおおかみ)は名づけて「玉牆の内つ国(美しい垣のような山に囲まれた国)」といわれた。

 饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「空見つ日本(やまと)の国(大空から眺めて、よい国だと選ばれた日本の国)」という。

その後の長髄彦の行方・・・文献に記された下記のことを考慮しながら記述

は定かではない。しかし、奥州では「長髄彦は兄アビヒコと共に日高見(東北地方)の地を新たな故国として移住し、先住民族と合流してアラバキ族と名乗り、日高見の国を長く治めた」と伝えられるなど、各地で長髄彦の精神(愛瀰詩えみしの心)は受け継がれている。

解 説 

新編 生駒の神話』についての解説

【1】この昔の物語の名前 

(*)昔の話の呼び方には、説話・民話・昔話・伝説・伝承・神話・俗話・寓意などがあり、それらを基にしながら創作した話は、新訳・新編・翻案・訳編などといいますが、取り敢えず、『新編 生駒の神話』といたします(今後、変更することがあるかも知れません)。 

【2】この物語を記すにあたって依拠・参考にしたもの⇒参考文献等ご参照

【3】主人公・舞台

主人公 長髄彦  饒速日

舞台 奈良(大和)湖河内(古大阪)湾  豊秋津洲とよあきつしま

      長髄彦饒速日の本拠地・・・生駒神話ゆかりの古蹟が集中している生駒四河川の源流・分水嶺地帯(生駒の地図・写真ご参照)とそ周辺

      神武東征の目的地・・・当初は長髄彦饒速日の本拠地であったが、のち、移行した(神武東征ご参照)。  

【4】物語の構成 

(1)【3】を主人公・舞台とし、できるだけ【2】の依拠・参考にしたものに記されたものから、物語を構成する上で最適な記述を選び、それらを組み合わせて筋の通った物語を構成するように努めました(このような、既述の文献に記されたものを組み合わせて神話を構成していく方法は記紀と同様のやり方です)。 

(2)その際、生駒の神話は郷土生駒の人物・神を魅力的に描かねばならないことは当然であり(それが郷土の昔の話というもの)、そのような人物・神について、魅力を減じさせるような通説・記述※は、できるだけ荒唐無稽にならないように、あるいは、異説があればそれに沿って、魅力が減じないように解釈・記述し直しました。神話というものは本来、口から耳へ、耳から口へと語り伝えられた、口頭による伝承として存在し、記録のさいに、筆録の目的、あるいは筆録者の条件によって、整理されることが多く、削除・省略があったり、逆に付加があったりもし、そこには潤色や作為が作用するものとされています(上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdfご参照)。

    ※例えば、長髄彦は性質がよくなく、義理の弟(妹の婿)である神または甥(妹の息子)に裏切られて殺されてしまうのが通説(書紀や旧事紀の記述)で、そのように通説は長髄彦やその義理の弟(妹の婿)である神や甥(妹の息子)を悪く描いています。 

(3)普遍性(多くの人が理解できる内容)を得るため、まったくの創作(【2】に記したものにまったく依拠しないもの)はできるだけ避けるように努めましたが、【5】に記された疑問点(記紀等の通説が述べていないこと、矛盾することなど)は、解明し、または筋の通るように解釈し直しました。 

(4)以上に従い、【5】に立脚し、【6】を踏まえて、この物語の枠組み(パラダイム)を設定した上で物語を構成していきます。

(*)物語の作り方/物語のでき方物語の組み立て方の参考例.pdfなど)

【5】立脚点<そのいくつかは、疑問点に対する答>

【6】留意点

生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)についての解説

【1】生駒の神話と現在 / 非戦・避戦の精神の系譜  「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」 / 生駒の神話と天皇制

戦い忌避神話である生駒神話は、戦い忌避伝承である生駒伝承と符号・共鳴している。生駒の神話は、「縁起の法」の神話化であるとも考えられる<縁起の法ご参照>。

Q&A

 Q.神武天皇はさほど高くない生駒山をなぜ越えられなかったのでしょう?

  A.現代の内陸の移動手段は車ですが、車で移動する場合、陸路を走ってきて、水深1メートル程度の川にぶつかり橋がない場合、たとえその川の幅がさほど広くなく1メートル程度でも越えられません。

   古代には車はなく内陸でも移動手段は船です(入江・川・湖沼に道があった)。船で移動する場合、水上を走ってきて、高さ100メートル程度の山にぶつかり水路がない場合、たとえその山の奥行がさほど深くなく100メートル程度でも越えられません。だから神武は生駒山を超えられなかったのです。

   古代にあっては、海・川・湖沼こそが道であり遠隔地をつなぐもので、陸こそ障壁だったのです。日本列島を囲んでいた海は障壁どころか、その反対の遠隔地をつなぐものだったのです。

日本古代の謎

 

    

 

 

参考文献等  

【1】生駒市誌  富雄町史  大和志料 

【2】古事記古事記<リンク>/原文<リンク>/現代語訳<リンク>) 日本書紀日本書紀<リンク>/原文<リンク>)  先代旧事本紀  古語拾遺  万葉集(原文・訓読・仮名)<リンク>ミラー

  記紀について先代旧事本紀・古語拾遺 概要.pdf

  古事記と日本書紀はどう違うか(リンク) / 古事記と日本書紀の違い(リンク)「古事記は国内向けに天皇の正統性を訴えるもので、日本書紀は外国向けに日本という国の正統性を主張するもの」

【3】新撰姓氏録新撰姓氏録概要.pdf>  各地の風土記.pdf

【4】各地の神社伝承・民間伝承 

【5】海外の文献

【6】学者・研究者の説

(1)小林達雄「縄文人の世界」「縄文の思考」   谷川健一「白鳥伝説」 「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」「列島縦断地名逍遥」「古代史と民俗学」.pdf  古田武彦「真実の東北王朝」「古代通史」「邪馬一国への道標」.pdf「盗まれた神話 記・紀の秘密」.pdf古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち.pdf <古田武彦氏のいくつかの著作はここで読むことができます。>   喜田貞吉「本州における蝦夷の末路」   梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」「神々の流竄」   森浩一「日本神話の考古学」   鳥越憲三郎「神々と天皇の間」   井上光貞「日本国家の起源」「神話から歴史へ(日本の歴史1)」   直木孝次郎 「日本神話と古代国家」   上田正昭・鎌田純一 「日本の神々 「先代旧事本紀」の復権」   上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdf  金関恕+大阪府弥生文化博物館 「弥生文化の成立」   関裕二 諸著作   折口信夫の著作   原田常治「古代日本正史」   前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説    樋口清之「逆・日本史 3」.pdf「逆・日本史 4」.pdf「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)    竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf「日本史の謎は『地形』で解ける」3部作.pdf   武光 誠「地図で読む「古事記」「日本書紀」.pdf   長野正孝「古代史の謎は『海路』で解ける」.pdfリンク)  富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-.pdf  松木武彦「日本の歴史一 列島創世記」.pdf  中沢新一「熊から王へ」.pdf「大阪アースダイバー.pdf

(2)村井康彦『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfこの書物が画期をなす理由・この書物を読むための基礎知識.pdf紹介記事

(3)嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf →右図が表紙07

 ①下記のような立ち位置で著されたことにより、この書物もまた神話(が生まれた)時代を解明する上で画期をなすものとなりました。

   立ち位置:「神話や由緒には創作や事実を脚色したものが多く、事実がそのまま記されているわけではないのですが、全くの作り話というわけでもなく、何らかの事実を元に再編したり都合よく脚色したりして創られているようですので、その中に含まれている「事実の欠片」と思われるものを拾い出し、古代の地形地域の伝承地域資料に残されている事実や世界の歴史などと照らし合わせてみると、『納得できなかった教科書の歴史』とは全く違う歴史が納得できる形で表れてくるのです。」(14.10.17のブログより)

 ②この書物の基になり、続編たるブログが歴史探訪(09.4.13発進)

【7】在野歴史研究家の調査に基づく説、作家・小説家の小説・小論 

 松本清張「古代探求」.pdf清張通史② 空白の世紀  /司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 1」生きている出雲.pdf 「同左」長髄彦.pdf「城塞」.pdf高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」ここにも「火怨」の抜粋あり)・「炎立つ」  /畠山紘明「秋田安東氏物語」  /黒岩重吾「古代史への旅」.pdf

 原田常治「古代日本正史」・「上代日本正史」/小椋一葉「消された覇王」<これらは、神社伝承の調査に立脚し、文献重視に偏重するアカデミズムへの批判の書でもある。>

【8】昔の話を参考にしている作品

 宮崎駿「となりのトトロ」「もののけ姫」(リンク)「千と千尋の神隠し「もののけ姫」のアシタカ〔ヒコ〕はナガスネヒコ、「千と千尋の神隠し」のハク(ニギハヤミコハクヌシ)はニギハヤヒノミコトをモデルにしているともいわれています。)  手塚治「火の鳥」「ブッダ」(「火の鳥」の黎明編では騎馬民族征服王朝説が採用されているともいわれています。 

【9】古史古伝   諸文献   示唆に富む資料・言葉

【10】地図・遺跡こちら

【11】ラブリータウンいこま<09(H21)年10月15日号>テーマ : 長髄彦伝説

【12】文献比較 名称.pdf   文献比較 事件.pdf   文献比較 系図.pdf 

  

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生駒神話の小辞典 

     【神々の総称いろいろ】【日本の神の一覧(リンク)】

葦原中国(あしはらのなかつくに)

阿弖流為(アテルイ)Wikipedia高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」 /「アテルイの悲劇」については、生駒の神話と現在の(2)をご参照 不屈の英雄 アテルイ ~古代東北の底力~

天降り(あまくだり)「天」と「海」は共に「あま」という言葉で同一視されていたので、「天あま降り(降臨)」は、「海あま降り(渡来)」のこと。

天津神天津族(あまつかみ・あまつぞく)⇒神々の総称いろいろへ 「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

「生駒」の語源・由来

生駒山地(生駒連峰)

生駒山生駒山のこと 古代日本における生駒山の不思議と謎新日本風土記 生駒山万葉神事語辞典より

生駒山越の峠道

伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ).pdf

出雲勢力出雲民族・出雲族・出雲神族) 出雲に渡来した渡来人で、出雲を本貫ほんがん(出身地)とする。播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも耕作地を拡大(出雲勢力が各地に進出したルートは、日本海から丹後を通って近江、近畿へ。もう一つは吉備経由で瀬戸内海へ)。先住民(縄文人)と協力・協同、住み分けて形成した国を「出雲の国」という。記紀神話では、彼らの長はスサノオ-大国主(農耕を広めたので、農耕地の神社で祀られること多し)。なお、協力・協同した先住民(縄文人)も出雲勢力という場合も多い。「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

出雲系の神々 神々の総称いろいろ

磐座(いわくら)祭祀の対象となった巨石

磐舟(いわふね)船底に、船の重心を低くして転覆を防ぐための重石おもしにする大きな石を敷き詰めていた船。重心が低くなると浸水したら沈没してしまうので気密性が高くて浸水しにくかったと考えられる。

内つ国(うちつくに) 都のある国(大和国/倭やまと)/都に近い地方(畿内・近畿地方)/外国に対して日本の国

愛瀰詩えみし.pdf

大八洲国(おおやしまぐに) 多くの島からなる国の意で、日本の異称。略称は大八洲八島八嶋

 

河内湖かわちこ(深野池)・河内潟・河内湾

記紀リテラシー・・・古事記は国内向けに天皇の正統性を訴えるために、日本書紀は外国向けに日本という国の正統性を主張するためにつくられたものですが、説得性を持たすために、人々の間に伝えられてきた神話や伝承を記紀をつくる目的にあうように変えて取り入れています。そこで、記紀を読む際には、元の内容がどうだったのを判断するリテラシー(適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現し、その真意を把握する力)が必須です。

〇(先史・古代の)京都(瀬戸内海と日本海の陸内港)

金の鵄とび(金鵄きんし

クサカ(日下・草香・孔舎衙/草香山(饒速日山)

日下くさかの直越(の道)直越(の)道(ただごえのみち)

狗奴国(くぬこく・くなのくに・くなこく)・・・邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征    狗奴国東遷説.pdf  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

国生み神話

国津神・国津族(くにつかみ・くにつぞく)⇒神々の総称いろいろ  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照    

国譲り

降臨天降り(あまくだり)へ

 

「坂」

「殺戮」 

里山(さとやま)「(学研高山)第2工区=里山」の過去・現在・未来奈良高山里山研究会より)をご参照  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

三貴子(さんきし) 天照大神・月読命(ツクヨミノミコト)・素戔嗚尊(スサノオノミコト)の三大神のこと。

式内社(しきないしゃ) 当時「官社」とされていた全国の神社一覧である、927年成立の延喜式神名帳に記載された「官社」の地位にあった神社。なお、式内社のうち、大社に列格されているものは式内大社と呼ばれる。  

蛇神(じゃしん・へびがみ) 

縄文時代の語句⇒縄文と弥生

神武東征 

大嘗祭(だいじょうさい)⇒ 長髄彦 とイワレヒコの戦い ご参照  

高天原(たかまがはら) 天津神々のすむ天上界。天香具山で祭祀が行われ、神々は稲田をつくり、機織女たちは織殿に奉仕している。最高支配者は三貴子の一人天照大神と高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の二神で、玉座である天の磐座(あまのいわくら)に座している。「高天原」が天上にあるという考えは本居宣長が広めたと言われているが、歴史的には、渡来して九州にいた集団(神話では天津神という)の国のこと。高天原天上説は本居宣長の創作 

直越(の)道(ただごえのみち)

高見の烽(とぶひ) 

哮峰(峯)(たけるのみね/たけるがみね)⇒生駒の神話ゆかりの古蹟 ご参照

近淡海.pdf(ちかつあわうみ) 

長弓寺 

天孫・天孫族(てんそん・てんそんぞく)⇒神々の総称いろいろへ  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

常世国(とこよのくに) 海の彼方の遥か遠くにある地、または世界。ここにどのような幻想を抱くかによって常世国の性格は変化する。これが常世国がいくつもの性格を兼ね備えている理由とされる。

飛火(とぶひ)が岡 

トミ(鳥見・登美・富)・トビ・富雄トミ神社<リンク>

鳥見霊畤(とみのれいじ) 天下を平定した神武天皇が鳥見山中に設けたとされる神々を祀る場のこと。霊畤の項もご参照。ここに鳥見霊畤があったとの伝承地としては。王龍寺、鳥見旧跡、大倭神宮、(奈良市石木町の)登彌神社などがある(これらの場所等については、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照)。 

富雄丸山古墳

鳥見白庭山(とみはくていざん)⇒  饒速日 (ニギハヤヒ)へ 

豊秋津洲(とよあきつしま)

豊葦原中国(とよあしはらなかつくに) 葦原中国あしはらのなかつくにと同じ。

 

長髄彦(ナガスネヒコ)

中洲(なかつくに・なかす・ながす) 国の中心・中心の国・大和

   南北2つの鳥見とみ(登美とみ)は中洲(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね(長髄ながすね/なかすね)彦であった。 

  なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄トビ)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。

奈良湖ならこ(大和湖)

〇 饒速日 (ニギハヤヒ)

饒速日山クサカ(日下・草香・孔舎衙/草香山(饒速日山) 

西ノ京丘陵(京阪奈丘陵)

根の国(ねのくに) 高天原も異界であった根の国も元は葦原中国と水平の位置にあったのが、高天原を天上に置いたために根の国は地下にあるとされるようになった。その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂としている記述が『古事記』にあり、一般には死者の国である黄泉の国と同一視されるようになった。

 

日の本(ヒノモト)/日高見(ひだかみ)

卑弥呼.pdf(ヒミコ)

向三代(ひむかさんだい) 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨から、神武天皇を生む草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)までの三代(ホノニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアヘズ)のこと。

日向勢力日向民族・日向族) 日向に渡来した渡来人。彼らの渡来を記紀神話では、天孫降臨という。そのため、天孫族ともいう。また、天津(天つ)族、天津(天つ)民族ともいう。津(つ)は「の」の意。記紀神話では、彼らの神を天津神(天つ神)といい、彼ら以外の神を国津神(国つ神)という。また、記紀神話では彼らの長はニニギ-イワレヒコ。

非戦・避戦の精神

琵琶湖びわこ.pdf

深野池ふこうのいけ⇒河内湖(深野池)・河内潟・河内湾

平群の山(矢田丘陵)

真弓塚

〔富雄〕丸山古墳

まれびと(マレビト/稀人・客人) 尊・命(みこと) 『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ以外の神は、「命」と明確に区別している。ちなみに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は悪行を重ねたにもかかわらず「尊」である。

瑞穂(みずほ) 稲のこと 葦を指すこともあったとされる<内つ国のあった奈良盆地は、縄文時代以後、海湾→海水湖→塩分の残る湖と湿地の盆地→塩分の残る湿地にまず生い茂る葦原の湿地盆地→塩分の抜けた湿原盆地→水田(葦を刈り取った後の湿地は稲作に適した土地になった)と湿地の盆地→水田と乾地の盆地へと変化した。>  

三輪氏(みわうじ) 新撰姓氏録(P.250)には、「素佐能雄命六世孫大国主之後也(スサノオ6世孫の大国主の後裔なり)」と記されている。大三輪氏おおみわうじ・神氏みわうじ・大神氏おおみわうじとも表記する。

矢田丘陵(平群の山)

邪馬台国  邪馬〇国の名称・所在地論争に終止符を打つ論 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征  

大和政権  邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征    

ヤマト.pdf  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照   

  「日下の草香」「飛ぶ鳥の明日香」から「日下」「飛鳥」の読みができたように「倭人住む山門」から「倭」で「やまと」と読むようになった、との説あり。

大和湖やまとこ(奈良湖)

弓矢 

黄泉の国(よみのくに) 死の国。ここの竈で煮炊きされた食べ物を一口でも食べると、現世には帰れない(黄泉戸喫〈よもつへぐい〉)。これは世界各地の死の国の言い伝えと一致する。黄泉平坂で現世と分けられている。根の国と異なるという考えや同じとする考え方がある。同じとする学者が、黄泉の国は地下にあるものと考えているが、必ずしも葦原中国に対して地下にあるわけではない。

黄泉平坂(よもつひらさか) 現世と黄泉の国とのあいだにある坂の名称。以前は自由に行き来できたようだが、伊邪那岐イザナギノミコトと伊邪那美イザナミノミコトの決別のとき、伊邪那岐によって封印された。道祖神はこの境を守るために祭られたのだともいわれる。 

霊畤(れいじ)「まつりのにわ」という意味。大嘗祭(おおなめさい・だいじょうさい/新天皇が即位後最初に行なう新嘗祭)を行う場所。大嘗祭・新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)共、その年の新穀・新酒をもって先祖の神々を祀るという意味においては同じだが、大嘗祭は、皇位継承と重大な意義を持っていて、大嘗祭が行われて始めて皇位継承の名実共に備わるといわれ、一代一度の極めて重大な式典。

 

資 料      

(*)縄文と弥生  ミニ知識  アイヌ語辞典   地名由来辞典  ポリネシア語で解く日本の地名・・・  物語の作り方/物語のでき方

(32)三角縁神獣鏡国産説.jpg

(31)『世界神話学入門』

(30)「邪馬台国=富雄川流域」説

(29)Q.草の舟での3万年前の航海(与那国島→西表島)再現実験(16.7.17~16.7.18)の失敗(ご参照)の原因は? A.3万年前の海と陸が今と同じだったはずだという思い込みが原因です(ご参照)。 

(28)異国から訪れた旅人がもたらす風聞は、娯楽であり、情報でもあった

(27)「后と鶏」の生駒伝承(戦い忌避伝承)の真意は、長髄彦が堕落しないよう彼が神武天皇と戦う(殺戮する=命あるものを食べるため以外の目的で殺す)のを金の鵄(鳥)が止めたという生駒神話のそれと符合しています(生駒検定<全国版>問21 生駒伝承ご参照)。「神功皇后と鶏」の生駒伝承は「戦い忌避伝承」であり、生駒神話は「戦い忌避神話」と」いえます。

(26)J-SHIS(地震ハザードステーション)PhotoJ-SHIS Map生駒周辺.pdf<→右図(クリックで拡大)>を見ると、縄文~弥生時代に島・半島であった生駒と海であった大阪湾・奈良盆地・京都盆地との対比が明確です。

(25)海のない信州になぜ「御船祭り」があるのか⇒信州の御船祭りをご参照。

(24)ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)といえるのではないか 

(23)普遍的に人類の心をとらえる英雄物語の基本パターン(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」が明示)⇒ご参照1.pdfご参照2

(22)現代人にもプログラムされている神話的思 

(21)佐保姫と竜田姫、そして登美彦

(20)古代地名検索システム

(19)この記事によればこの地図の櫛羅くじら(海抜約122m)付近まで海だったとのこと(地図の櫛羅表記の南西にある神社が海抜145mの鴨山口神社)。

(18)創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf

(17)「山人」の「協同自助」的な生活に未来の可能性が見られる.pdf

(16)「国生み」は海洋民の伝承・「出雲」の「雲」に道教思想.jpg  考古学から神武を探る.pdf 

(15)トビ・トミ=ナガ=蛇神

(14)保津川の曳き舟再現

(13)倭人伝の国々をアイヌ語で読んでみると、「島」「森」「半島」「沼」「川」「水草」「葭あし」「谷・窪地」「河口」「滝」「港」という語が多用されていることが分かる⇒アイヌ語で読む倭の国々(リンク)ご参照(なお、ヤマタイ国は以下のよう)  

邪馬壱(邪馬臺)  やまい
(やまたい) 
yam-i(yam-tai)
      yam=栗 i=場所 tai=森 
豊かな栗の森のある国
       

(12「地名の改悪」は戦後日本の愚行.pdf  広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン

(11)富雄川と「富の小川」(リンク)  富雄駅は42(S16)年9月~53(S28)年4月に鵄邑(とびのむら)駅.jpgと改称されていた(当時の地図)。

(10)近代戦争以前の戦い : 例外だった白兵戦 戦場での負傷、大半は飛び道具.pdf

(9)『真説・古代史』補充編「神武東侵」 : Ⅳ(イワレヒコは恐らく登美毘古に勝てなかったのだ) 

(8)神武はついに長髄彦を倒せなかった 

(7)神武が来た道  神武東侵  古田史学の真髄(神武東侵について・天孫降臨について、など)

(6)アマテラスの原像.pdf   創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf.pdf

(5)日本神話に見る日本文化考  左のワード版 

(4)絵古事記(リンク)

(3)記紀・万葉は古代のムラ段階から継承してきた少数民族的伝統 : 自然と共生し節度ある欲望を生きる少数民族の文化は、自然破壊と欲望の開放という近代化の行きつく荒廃に対する最後の防波堤.pdf 

(2)戦争は、人間の本能ではなく、日本では縄文時代にはなく、弥生時代から始まった 

(1)日本服飾史資料(リンク)勾玉三部作服飾(リンク).mht

(0)参考 : 日本古語大辞典(刀江書院)  日本書紀を語る講演会ミラー>  旧版地図の入手方法(リンク)

生駒三山系の城砦 

<生駒三山系とは、生駒四河川源流・分水嶺地帯(生駒の地理ご参照)に収れんしている

生駒山地・矢田丘陵・西之京丘陵のことである。>

各城砦の位置については、生駒の地理を把握してから、右の「城砦位置地図」をご参照ください。 

74_20191228232001生駒山地の城砦<北から順に>(mは標高/比高)

 西麓の平城たる交野(私部)城(現交野市私部6丁目)リンク>、 山中山城の天王畑城(現京田辺市天王高ヶ峯)リンク>・高山城(現生駒市高山町)(217/40)Wikipedia打田城(現京田辺市打田宮前)リンク>、西麓の丘城たる岡山城(現四條畷市岡山2丁目)(40/30)リンク>、山中の小松(山)城(現ゴルフクラブ四條畷内)リンクリンク>、東麓の田原谷入口東側の八丁岩にあった田原砦(現生駒市北田原町)山中の清滝城(場所不特定)リンクリンク、西麓の山城たる茶臼山砦(現四條畷市南野6丁目)(83/30)リンク>、東麓の田原谷の山城たる北田原城(現生駒市北田原町)(196/45)リンク>、 生駒山地北西枝にある飯盛山上の山城たる飯盛山城(現四條畷市市野)(314/260)西麓の山城たる野崎城(現大東市野崎2丁目)(114/65)Wikipediaリンク> 、 東麓の田原谷の丘城たる田原城(現四條畷市上田原八の坪)(180/30)Wikipediaリンク> 、山中の竜間砦(不詳)、東麓の生駒谷の、丘城たる田原(俵)口城(現生駒市俵口町)<長福寺の裏山に所在/リンク>・丘城たる菜畑城(現生駒市西菜畑町)(155/15)リンク>・東菜畑城(生駒市壱分町)(不詳/矢田丘陵西麓の生駒谷にあったかもしれない) ・萩原城(不詳)、東麓の平群谷の、丘城たる下垣内城(現平群町字古城 平群中央公園内)リンク(78/20)・丘城たる大和西宮城(現平群町西宮 平群中央公園内)(92/30)リンク> 、東側中腹の久安寺の山城たる赤坂城(現平群町久安寺)リンク>、 山中の、山城たる高安城(現平群町久安寺) (487/-)・山城たる信貴山城(現平群町信貴畑)(433/340)、高安山と信貴山の中間部の山城たるクズレ川南城(現平群町久安寺) リンク>、朝護孫子寺境内の丘城たる南畑城現平群町信貴畑) リンク>、西麓の恩智神社近くの山城たる恩智城(現八尾市恩智中町5丁目)(44/20)リンク>、南端部分の山城たる立野城(現三郷町城山台2丁目)リンク>、があった。~野崎・長福寺・菜畑・萩原・下垣内・西宮・久安寺・高安山・信貴山・朝護孫子寺・恩智神社・立野の位置については、このページ「生駒山越の(峠)道」と「平群の山(矢田丘陵)越の(峠)道」 の地図ご参照~

(1)と(2)の参考のリンク先

城郭放浪記(地図充実) /城跡探訪 (地図あり)古城盛衰記(地図あり) 奈良の城郭(地図ありもあり) 城跡めぐり備忘録 (地図あり) / ニッポン城めぐり (地図あり) /  お城の旅日記  

矢田丘陵の城砦<北から順に>(mは標高/比高)

 東麓の鳥見谷の丘城たる春日城(現奈良市二名4丁目)リンク>、東菜畑城(生駒市壱分町)(不詳/生駒山地東麓の生駒谷にあったかもしれない)、東麓の鳥見谷の丘城たる角山城(現奈良市中町)リンク>、萩野城(現生駒市萩の台)(不詳) 、東麓の鳥見谷の 丘城たる大和田城(80/10)(現奈良市大和田町字城山)リンク)、西麓の平群谷の、丘城たる上庄北城(現平群町上庄1丁目)(110/20)Wikipediaリンク>・丘城たる上庄南城(現平群町上庄3丁目)リンク> 、矢田城(現大和郡山市矢田町)(不詳) 、西麓の平群谷の山城たる三里みさと(194/110)(現平群町三里)リンクリンク>、東麓の鳥見谷の平城たる小泉城(現大和郡山市小泉町)リンク> 、西麓の平群谷の山城たる椿井城(現平群町椿井)(318/230)リンク>(竜田川をはさみ向こう側の生駒山地東麓の平群谷には丘城たる大和西宮城あり)、があった。 ~上庄・三里・大和小泉・椿井・西宮の位置については、このページ「生駒山越の(峠)道」と「平群の山(矢田丘陵)越の(峠)道」 の地図 ご参照~

 

西ノ京丘陵の南端には大和郡山城があった。

参考・・・兵庫県には1000城、大阪府には500城、京都府には1000城以上、滋賀県には1000城、奈良県には400城、和歌山県には600城、あったという。

長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵   

(1)トミのナガスネヒコ<単に長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)または登美彦(トミヒコ/トミビコ)ともいう>について / 矢田丘陵のこと

 
(2)<生駒市誌より>矢田山脈(引用者:矢田丘陵ともいう)の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦・・・・・は、その名の示す通り、長いすねの様な形―長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰に天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところ)と推当し(引用者:白谷バス停近くに 「鳥見白庭山」の碑が建てられている)之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟(引用者:「金鵄発祥之處」の碑が建てられている)と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。/(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。

   引用者:古跡(哮峰・「鳥見白庭山」の碑・「金鵄発祥之處」の碑 )の位置については、古跡地図をご参照。

(3)「(矢田丘陵の)神武峯(峰)<引用者注>は、神武天皇が長髄彦との戦いで進入した道筋と伝えられています」(生駒の古道)とのことも、矢田丘陵と長髄彦との関係の深さを今に伝えている。 

   <引用者注>神武峰については、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照

生駒の地理、古道、古蹟、地名の位置がわかる地図、地形がわかる写真   

(いずれの図もクリックで拡大できます)

生駒の地理 

 42 生駒山が列島中心部にあることを示す地図(生駒検定<全国版><問5>不思議な旅する蝶解説より)

 

 

生駒の古道


生駒の神話ゆかりの古蹟

 

生駒三山系の城砦

 

地名の位置がわかる地図

 〇桧窪山・白谷・住吉神社・・・生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照    長弓寺・真弓塚・素盞嗚神社・・・長弓寺・真弓塚ご参照   天照山てんしょうやま旗立山はたたてやま・・・「生駒山の飛火が岡」の「高見の烽」 または生駒検定<問2>ご参照   (富雄川源流の)龍王山りゅうおうざん・・・生駒検定<問20>の解答・解説ご参照   トミ(鳥見)地域(現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域)・・・生駒検定<問20>の解答・解説ご参照  

 〇三国境・・・大和・河内・山城の三国境の謎(疑問)ご参照

 

(6)地形がわかる写真

 司馬遼太郎さんが日本のどこよりも好きだった摂河泉の大眺望・・・生駒山のことご参照

 〇生駒山上から見た大阪平野の夜景・・・生駒山のことご参照

 〇トンボの目線の高さから見た大阪の街並み ・・生駒山のことご参照

 〇作家の森見登美彦さんの故郷にある真弓塚のすぐ下から見た生駒山の遠景・・・劇場アニメ「ペンギン・ハイウェイ」の場面・美術設定等 VS その実物写真ご参照

 〇貝原益軒が「桃源郷」と讃えた(生駒検定<問18>生駒に「桃源郷」があった!ご参照)景観の面影が今も残っており優れた景観形成のモデル<となっている北田原地区の写真・・・生駒検定<問18>の解答・解説ご参照

 

参考資料

 〇日本列島をユーラシア大陸からみると : 環日本海諸国図Ⅰ ・ 環日本海諸国図Ⅱ 奈良盆地歴史地理データベース

 〇生駒の散歩道 北生駒 神話コース(リンク)/ 富雄街道の歴史.pdf

 〇遺蹟案内図(『生駒市史』より).pdf神武東征説明図(『生駒市史』より).pdf記紀神話の舞台となった富雄川流域の遺蹟とその地図(リンク)時代別生駒の遺跡

 〇東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究より⇒河内湖周辺の渡来人関連遺跡等.pdf古代の難波と住吉.pdf

 

 

 

 

饒速日(ニギハヤヒ)

wikipedia

生駒市誌は、生駒の神話の主人公のナガスネヒコ矢田丘陵(矢田山脈・矢田山系)饒速日のことを次のように記しています(一部修正して引用)。  

 矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦は、その名の示す通り、長いすねの様な形長背嶺(ながそね)をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。 / 長髄は長背嶺の転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷(現在は生駒市の白庭台住宅地になっている)を以て鳥見白庭山とみはくていざん<引用者 : 哮峰いかるがのみね(現岩船神社の少し北にあり)に天下った饒速日命長髄彦に擁立されて遷座した(移り住んだ)ところ>と推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。/生駒市上町(引用者 : この上町の一部が白庭台住宅地となった)一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。

 引用者:白谷の位置は、この地図ご参照。白谷バス停(付近一帯が白谷)・「鳥見白庭山 」の碑・哮峰・「金鵄発祥の處」の碑(「トビ山」に立つ)の位置は、このページの「古蹟地図」ご参照。

〇リンク・・・饒速日(ニギハヤヒ)とは?(まとめ)   折口信夫のニギハヤヒ 

 

平群の山越(矢田丘陵越)の道   

矢田丘陵は、記紀・万葉集では「平群の山」、また、以前は「後生駒山脈」とも

呼ばれていました。

平群の山越やまごえは、生駒山地と矢田丘陵の間を流れる竜田川流域(その上流は生駒谷、下流は平群谷という/この流域を通るのが清滝街道)と、矢田丘陵と西之京丘陵の間を流れる富雄川流域(鳥見谷)を結ぶ峠道です(生駒の地理ご参照)。

 

)平群の山越(矢田丘陵越)の道の定説はありませんが、北から記すと次のようになるでしょう。

   <生駒山地と矢田丘陵の峠道はだいたいこのあたりを通っていただろうということを示す地図は生駒の古道を示す地図 ご参照 

 〇 白谷しらたに越・・・これだけは、竜田川流域と富雄川流域を結ぶ道ではなく、天野川源流域の田原谷の南部(西部が現四条畷上田原、東部が現生駒市南田原)と富雄川流域を結ぶ道。白谷(現生駒市上町・白庭台)を越える。なお、白谷は鳥見白庭山とみはくていざんに比定されており、白庭台はそれに由来するといわれている。 天野川源流域・富雄川・白谷の記載ある地図

 〇 王龍寺越・・・生駒谷の小明~王龍寺西村(長弓の近く)

 〇 椚くぬぎ越・・・生駒谷の菜畑の傍示の辻(現菜畑駅東側) ~椚峠(171m/データベース)~三碓の上鳥見かみつとみ橋(本来は中鳥見橋にすべき。富雄町史では「中鳥見庄は三碓」と明記されている)

 岩鼻いわのはな越・・・生駒谷の一分~神武峰(259m)<生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照>の北側~黒谷・中村(現奈良市中町) この道は現在、矢田丘陵遊歩道(矢田丘陵の当該記事ご参照)の途中下山ルート(西側は生駒市福祉センター方面、東側は奈良市帝塚山住宅地方面)となっています。前者を示す道標の写真.jpg後者を示す道標の写真.jpg

 〇 榁木むろのき・・・生駒谷の小瀬~榁木峠(268m)~砂茶屋の下鳥見しもつとみ

 〇 金剛山寺(矢田寺)越(矢田越)・・・平群谷の元山上口~金剛山寺(矢田寺 ~大和郡山

 〇 松尾越・・・平群谷の椿井(写真)~白石畑~松尾寺~大和小泉 

平群の山越(矢田丘陵越)の道は、生駒山越(いこまやまごえ)の(峠)道とつながっていました。

    なお、山越の道は川沿の街道に合流していましたが、竜田川の全流域(源流域から大和川に合流するまで/生駒谷・平群谷全域)に沿った街道を清滝街道または磐船街道といい、富雄川に沿った(鳥見谷の) 街道には、上津鳥見路かみつとみじ古堤ふるづつみ街道などがありました(生駒の古道を示す地図のページに記載の「生駒山 直越」と「矢田丘陵越」 の地図ご参照)。

 

(*)参考:生駒山のこと

 

谷川健一さんの説・・・「草香・日下」「日の下」「直越」「草香山(饒速日山)」

谷川健一「白鳥伝説」より引用

凡例:(上P.17)=「小学館ライブラリー版」上巻の17ページ  

文中の太字部分と小文字のふりがなは引用者による。( )内のふりがなは原文の通り。 

太陽の昇る難波、その東の日下(上P.49)

 勝井(純)は「日下の直越」を実地に踏査している(下に引用者注)。それによると、日下の直越の路は現在の東大敗市善根寺の春日神社の前を東北にむかって、尊上山の中腹を斜めにのぽり、その頂上から東南に走る低い尾根伝いの道をたどる。

 そこから八幡山の頂上である旧神社のあたりを通って、恵比須山から厄山にいたる。厄山から国見山方面に通じている道に饒速日山(引用者:ヤマレコさんによればここ)がある。それは生駒山の北にそばだっていて、その頂上には、底無しの井戸と称するものが八つある。その饒速日山から生駒市の俵口にいたる道路を、現地では直越ただごえ/じきごえと呼んでいる。

 饒速日山は一名草香山ともいわれている。先述の万葉歌の中で、草香山が重要な意味をもつのは、そこが太陽信仰の対象となっていたためである。饒速日山は神体山として礼拝されていた。もとは社殿もなかった。おそらくそれは天照御魂(あまてるみたま)神社の原型であった。つまり草香山にのばる太陽が礼拝されていたのではないか。

 勝井によれば(下に引用者注)、のちにニギハヤヒを祀る上ノ社が饒速日山の頂上にもうけられ、それに対して、奈良県生駒郡富雄村(現在生駒市上町)の長弓寺にある登弥神社と、東大阪市の石切剣箭(つるぎや)神社を下ノ社と呼んだのだという。そのあと、物部氏がほろぶと、山上のニギハヤヒの神霊はそれぞれ下ノ社に移されたのだという。

 饒速日山に源を発し、西北に流れて、善根寺の車谷を下って、春日神社の付近を通り、旧の日下池にそそぐ川を今日でも「日の川」と称している。このことは、「日の御前」という呼称とともに、そこが太陽信仰とふかい関連をもつことを如実に示している。

       (引用者注)勝井純『神武天皇御東遷聖蹟考』をご参照

谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用

 『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。・・・・・「日の下(ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるようになった。「日の下(ヒノモト)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。

谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用

 いまの東大阪市の「日下」といいますと、生駒山脈の西側にあります。

 『万葉集』の巻六には、草香山を通るときに、神社忌寸老麿(かみこそのいみきおゆまろ)という人が読んだつぎのような歌があります。

    「直越(ただごえ)のこの道にてし押し照るや難波の海と名づけけらしも」

 「直越」とは、「草香の直越」と言われていまして、大和から河内へ抜ける道です。大和から難波へ越える直越の道を草香山までのぼってみると、難波潟に日の光が照り付けているのが見える。「この道にてし」の「し」は強意で、この道でこそ、押し照る難波の海と名づけた理由がよくわかる、という歌であります。

  これだけではたんなる叙景の歌にすぎないように思われますが、それ以上の意味が含まれています。「直越」というのは『古事記』で雄略帝が「日下の直越の道より河内に幸行でましき」と歌ったその「日下の直越」のことです。大和から河内に出るのはこの道が一番近道であったので、「直越の道」と呼ばれ、その道の頂上が草香山と称せられていたのです。

  現在も、生駒山地のその山を「草香山」と申します。それは、いまの東大阪市の「日下町」の東側にありまして、「饒速日山」とも申します。その「草香」の「直越」と申すところの道にやってきてはじめて、「押し照るや難波の海」と名づけられた意味がわかったというわけです。要するに、「草香山」つまり饒速日山を過ぎるときに、その難波潟をみながら詠んだ歌なのであります。

生駒山のこと 

(地図・写真はクリックで拡大できます

生駒山と生駒全体の地形におけるその位置とそれをとりまく地理環境・・・生駒の地理ご参照

生駒山は、生駒山地(連峰/山脈)の全部または部分をいう場合、その主峰wikipedia) とその近くの峰々をいう場合、標高642mの主峰のみをいう場合、の3通りがありますが、このサイトでは、主に生駒市域の生駒山地のことについて記載します。> 

以下、<問〇〇>とあるのは、生駒検定<全国版>の問の番号です。

古来、生駒山は、膽駒山、射駒山 、伊駒山 、伊古麻山 、伊故麻山 、生馬山 、往馬山などさまざまな字があてられてきたが、語源は、縄文語(現アイヌ語)で「鹿がそこにいる」山・・・<問17>「生駒」の語源・由来ご参考

◎日本神話でイザナギ・イザナギの男女2神がつくった豊秋津洲とよあきつしまは生駒山のこと・・・<問15>神話の里(その2)~「国生み神話」の舞台~ ご参照 

◎生駒山は、生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)の舞台・・・<問1>神話の里(その1)~生駒神話(生駒を舞台とする日本神話)~  

   神日本磐余彦天皇カムヤマトイハレヒコノスメラミコト(神武天皇)「塩土の翁しおつちのおじに聞くと『東の方(引用者注 : 生駒山の向こう側)によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟いわふねに乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日にぎはやひというものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる。」(日本書紀<現代語訳> より)

05

生駒山のてっぺんから見た大阪平野の夜景(→右写真<クリックで拡大/以下同じ> )<この夜景が広がるところ、かつては海原であった>

司馬遼太郎「城塞」生駒山記述部分抜粋.pdfより

29   司馬遼太郎さんが日本のどこよりも好きだった摂河泉の大眺望(→右写真)<この平野が広がるところかつては海原であり、この写真を撮ったあたりで、生駒山に向かって進攻してくるイワレヒコ軍をナガスネヒコは睥睨へいげいしていたのではないか。>  この写真は、この阪奈道路の地図に「摂河泉の眺望」と印字したところ(その写真)で撮影(ここは車を止める場所がなく、撮影チャンスは後続車両がない一瞬ですが、徒歩道があるので、それを利用すればゆっくりと撮影できます)

76maid-in-osaka_20200108182502 ◎トンボの目線の高さから見た大阪の街並み<出典:この記事.jpg(→右図)

◎生駒山の謎・・・<問2>謎多き山「生駒山」<解説に、古代日本における生駒山の不思議と謎あり>ご参照

◎生駒山地のほぼ中央を東西に横切るのが暗越・・・<問13>歴史を見つめてきた暗峠」ご参照

生駒山地を越えて河内(現大阪府)と生駒谷・平群谷を結んでいたのが生駒山越の峠道 、そのいくつかと結ばれていたのが、矢田丘陵を越えて生駒谷・平群谷と鳥見谷を結んでいた平群の山越(矢田丘陵越)の道

◎作品中の生駒山

 ・古来、生駒山は人々から愛され、和歌や俳句に詠まれてきた・・・<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。 ご参照   うたまくら ゆかし生駒山暗がりの道の句とふみ <共に、生駒市誌より>

 ・生駒山を舞台とする小説・・・<1919(T8).1.1・1.15>「赤い鳥」(1・2月号)にて、生駒山も舞台とする、芥川龍之介作「犬と笛」が発表される・・<問23>短編小説「犬と笛」ご参照

 ・司馬遼太郎「城塞」生駒山記述部分抜粋.pdf

 ・暗峠にかかる小説や俳句については、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」ご参照

ナガスネヒコ、東征軍が河内湾に侵入したことをいち早く知ることができた。古代、生駒山には高見の烽(とぶひ)が設置されていた。生駒山には、南北朝時代に見張り場があった。 生駒山には、江戸時代から近代に至るまで「旗振山はたふりやま(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」があった。今日でも、生駒山上にはテレビ塔が林立している。⇒このように、古代より、生駒山は、遠近の情報を収集・伝達するステーションでもありました。そうであった理由は、上掲の2つの写真を見ればわかります。 

生駒出身の作家で、生駒北部のまちを舞台にした小説「ペンギン・ハイウェイ」(<問22>小説「ペンギン・ハイウェイ」 ご参照)の作者の森見登美彦さんは生駒山をこのように語っています⇒その1その2「太陽と乙女」<抜粋>より)

 森見さんは、浪人時代、大阪の予備校(難波の代々木ゼミナール)からの帰りに生駒山を歩き回ったそうです(ご参照.pdf照)。   森見さんのおすすめスポットは、古代の雰囲気が漂う生駒山と大和文華館だそうです(ご参照.pdf)<司馬遼太郎さんの「城塞」.pdfの冒頭部分を読むと、生駒山が古代の雰囲気を漂わせている理由がわかります>。

40 右の写真は、森見さんが育った場所にある真弓塚(この地図ご参照)のすぐ下から見た生駒山です(劇場アニメ「ペンギン・ハイウェイ」の場面・美術設定等 VS その実物写真より引用し、下の文を追記)。森見さんはここから見た生駒山を見るのが好きで、写真引用元にもあるように、森見さんの小説ペンギン・ハイウェイを原作とするアニメ映画「ペンギン・ハイウェイ」の舞台背景となっています。  

◎生駒山東麓に伝わる伝承・・・<問21>生駒伝承(解説に、生駒伝承「神功皇后と鶏」と「生駒の産土神の鶏追とりお)掲載 )ご参照

◎生駒山東稜ゆかりの歴史群像  

  ・蘇我入鹿は645年の乙巳の変で倒されたが、その前々々年の642年に入鹿は山背大兄王やましろのおおえのおうを攻撃し、王は生駒山中に逃げた・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(13)ご参照  

  ・行基・・・<問3>生駒を愛し今も生駒に眠る偉人ご参照

  ・忍性・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像(8)ご参照 

◎生駒山東稜の宝山寺

  ・伝承によれば、655年、役行者が、山背大兄王が逃げ込んだあたりの生駒山中を修験道場とし、ここに都史陀山大聖無動寺としださんだいしょうむどうじを建て、時が過ぎ、1678に湛海律師がこのお寺を再興して、歓喜天を祀り、寺名を宝山寺と改名した。 

  ・1918(T7)年>泉鏡花作「紫障子」発表。この作品の中で、宝山寺の浴油供よくゆくが登場・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(7)ご参照

  ・<1951(S26).9~1952(S27).11> 宇野浩二作「芥川龍之介」が「文学界」に連載された。1953(S28).5 刊行。この作品によると、芥川龍之介が、直木三十五、宇野浩二と共に宝山寺方面に遊行した・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(2)ご参照

  ・<1981(S56). 8>宝山寺も舞台とする、映画「男はつらいよ(第27作)~浪花の恋の寅次郎~」公開・・・<問10>「男はつらいよ」生駒の巻ご参照

◎生駒山には、日本初のケーブルがあり、その終点にある生駒山上遊園地には日本最古の飛行塔がある・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)-③ご参照

◎生駒山上遊園地や宝山寺はロケ地になっている・・・生駒市のロケ地ご参照

◎生駒山の自然

  ・二ホンリスが生息・・・<問6>息づく野生動物ご参照

  ・不思議な「旅する蝶」アサギマダラが、旅の途中で休息する・・・<問5>不思議な「旅する蝶」ご参照

◎<1930年代前半>ブルーノ・タウトが、生駒山嶺小都市計画を立案・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(1)ご参照

生駒山は火山か?

◎生駒山をくぐるトンネル・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古 の(1)の ⑨ ご参照

◎生駒山上遊園地(スカイランドいこま )の駐車場はかつて「生駒山滑空場」だった・・・ご参照<リンク>  

記紀(古事記・日本書紀)に記された生駒山(既述以外)

 ・夏五月一日、大空に竜に乗った者が現われ、顔かたちは唐の人に似ていた。油を塗った青い絹で作られた笠をつけ、葛城山の方から、生駒山の方角に空を馳せて隠れた。正午頃に住吉の松嶺まつのみねの上から、西に向かって馳せ去った。<日本書紀 斉明紀>

◎古書に記された生駒山

 ・「住吉大社神代記」(成立期不明)の「胆駒神南備山いこまかんなびやま本紀」・・・「(生駒山の)四至(境界)、東限胆駒イコマ川(竜田川)、竜田公田(不詳)。南限賀志支利カシキリ坂(不詳)、山門ヤマト川(大和川)、白木シラキ坂(不詳)、江比須エビス「白鳥伝説」の上巻P.210をご参照)墓。西限母木オモノキ里公田(枚岡神社恩地神社あたり)、鳥坂トサカ里(高井田)。北限饒速日山(不詳)」

 ・「続日本紀」(794年完成)・・・平城京から見て生駒山は、東の春日山、北の奈良山と共に、西の鎮めの山として「三山鎮を作」す。  

◎ご参考・・・ 生駒山の位相トポロジー.pdf <リンク> / <問26>生駒の歴史

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生駒山地のこと

「生駒山のこと」はこちら

生駒山地(連峰/山脈)生駒全体の地形におけるその位置とそれをとりまく地理環境・・・生駒の地理ご参照  

 ➀生駒山地(wikipedia)は、北端は淀川にせまる男山おとこやま丘陵(甘南備かんなび丘陵の北端をなす/主峰の男山<標高143m>山頂には石清水八幡宮あり)をなし、南端は大和川(この川で南の金剛山地と区切られる)に至る。

 ②山容は、標高642mの主峰wikipedia)付近は蓋形をなし、その北側につづく北嶺は平均320mの嶺をなし、清滝峠(247m)を経て飯盛山付近で北東に張って淀川に至り、南側につづく南嶺は、455mの暗峠で高さを減じ、522mの大原山.jpgをはさんで、鳴川峠(402m)からは平均450~430mの嶺をなし、十三峠(431m)、高安山(488m)・信貴山(437m)を経て大和川に至り、そこに亀の瀬渓谷をつくり、それをはさんだ南側の金剛山地に連なる。

 ④この画面の山岳マップから生駒山地の航空写真をみることが出来ます。

 ⑤3Dの生駒山地・・・飯盛山~信貴山ヤマレコ<18. 4.14>より)/私市~恩智峠ヤマレコ<19. 3.31>より)/信貴山~私市」ヤマレコ<11.12. 3>より) /生駒山~信貴山」ヤマレコ<18.12. 2>より)/同左ヤマレコ<18. 4. 1>より)/飯盛山~鳴川峠ヤマレコ<19. 8.12>より)

 

)古くから、生駒山地を東西に越える峠道である生駒山越の(峠)道いこまの古道ご参照)が多くつくられてきた。 

    「宝山寺の湛海さんから頼まれて、鬼取村の庄兵ヱが荒れ果てていた宝山寺から鳴川の千光寺までの道を整備した」との言い伝えが残っている庄兵ヱ道生駒南北の古道ご参照)もつくられた。

 

生駒神話ゆかりの古蹟

 北から順に、哮峰 、磐船神社饒速日山鳥見とみ旧跡 、があります(生駒山地の東側のみ)生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照> 。 

 

生駒山地の城塞・・・生駒の城塞ご参照

 

)生駒山地にまつわる話

 ①北部の山中に奈良県・大阪府・京都府の1県2府の境(大和・河内・山城の三国境みくにさかい)がありますが、その場所とされているところがなぜ2つ存在するのかの答がいまだに出ていません<大和・河内・山城の三国境の謎(疑問)ご参照)。

 ②本能寺の変が起こったとき、徳川家康は、当時滞在していた摂津・和泉の国境に位置する堺から河内の国飯盛山西麓を経て、本国三河の国岡崎城に命からがら帰還した際に三国境を越える天王道てんのうどう(現生駒市傍示~現京田辺市天王)走り抜けたとの説も有力です〔生駒検定<全国版><問14>歴史が息吹く生駒の古道の(2)ご参照〕

(6)ご参考・・・ 生駒山のハイキングマップ YAMAP ヤマレコ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

矢田丘陵(記紀・万葉集では「平群の山」)のこと

矢田丘陵地理など

 ①生駒の地理ご参照  

 ➁矢田丘陵(wikipedia)は、生駒山地(生駒山脈)と並立していることから、以前は、後生駒山脈と呼ばれることもありました。また、生駒山第1ヴァイオリン、平群の山は第2ヴァイオリンといえます。古くは、「斑鳩三十六峰」、「いかるかみねつづき」といわれました。 

 矢田丘陵を越えて生駒谷・平群谷と鳥見谷とを結んでいたのが平群の山越(矢田丘陵越)の道で、それと結ばれていたのが、生駒山地を越えて生駒谷・平群谷と河内(現大阪府)とを結んでいた生駒山越の峠道です

 ④3D矢田丘陵全山縦走路ヤマレコさん<16. 2.28>より)

  3D矢田丘陵全山縦走路一覧・・・各縦走路を3D画面に切り替えることができます。

 ⑤この画面の山岳マップから生駒山地・矢田丘陵の航空写真をみることが出来ます。

 ⑥写真地図基準点(三角点等)地図 ←画面中央の山地が矢田丘陵です。

 

)矢田丘陵も生駒山とともに、生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)の舞台

長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵

神武東征の当初の目的地は、矢田丘陵北端に位する白谷を中心とする生駒四河川源流・分水嶺地域でした(神武東征の目的地は移行したご参照)。

 

)矢田丘陵の山中や麓には生駒神話ゆかりの古蹟があります

 北から順に、「鳥見白庭山」の碑、「長髄彦本拠」の碑、ひのくぼやま<桧窪山・檜の窪山・日の窪山>、住吉神社夫婦塚王龍寺神武峰矢田坐久志玉比古神社 <これらについては、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照>

 

矢田丘陵東麓には日本最大の円墳である富雄丸山古墳もあります。

 

矢田丘陵の城・・・生駒の城塞ご参照

 

日本書紀<景行紀>に登場 

(・・・・・は省略部分)

 天皇は・・・・・子湯県こゆのあがた(現宮崎県児湯郡)においでになり・・・・・そのとき東方を望まれて、お側のものにいわれるのに、「この国は真直に日の出る方に向いているなあ」と。それでその国を名付けて日向ひむかという。この日、野中の大石にのぼって、都をしのんで歌をよまれた。

   愛しきよし 従吾わぎへの家方かたゆ 雲くもち来も   やまとは 国の真区まほらば 畳たたなづく 青垣あをがき 山やまこもれる 倭やまとし 麗うるはし   命いのちの 全またけむ人ひとは 畳たたみ 平群の山の 白しらがしを 髻華うずに挿せ※ 此子このこ

   (歌の現代文訳)なつかしいなあ、我が家の方から、雲が湧いて流れてくるよ。  大和は最もすぐれた国。青々とした山が重なって、垣のように包んでいる。大和の国は美しいなあ。  命の満ち溢れた人は、平群の山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿しなさい。この子よ。

 と、これを国しのびの歌という(以上、歌部分は修正して講談社学術文庫版より引用/太字は引用者による)

      ※命の全けむ人・・・生命の完全な(命の満ち溢れた)人の意で、(生命力の衰えた高齢者でなく)若者のこと。       

      ※愛しきよし・・・「よ」は詠嘆、「し」は強調の序詞。なつかしいの意。従吾を修飾。

      畳薦も・・・まこもの葉を編んだ敷物を「一重」「二重」と数えるので、「重」から「平群」にかけた枕詞

      髻華に挿す・・・花や青葉の枝を髪に挿すこと。簪かんざしの起源と思われる。

      ※此子・・・その場にいる者に向かって、皆の者よとよびかける語。 

 

古事記<景行記> に登場

(・・・・・は省略部分)

 倭健命やまとたけるのみこと、・・・・・能煩野のぼのに到りまししとき、国を思しのいて歌曰うたひたまはく、

   倭やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山隠やまごもれる 倭しうるはし

 また歌曰うたひたまはく、

   いのちの 全またけむ人は たたみこも 平群の山の くま白檮(かし)※が葉を うずに挿せ その子

 この歌は国思歌くにしのひうたなり。

      くま檮(かし)・・・くま(熊)は「神」に通じる接頭語で、神聖なの意を添えたもの。

 (現代語訳)倭健命・・・・・能煩野のぼの(現鈴鹿山脈の野登山ののぼりやまの麓においでになった時、故郷の大和国をしのんでお歌いになった歌は、  大和国やまとのくには国々の中で最もよい国だ。重なり合って、青い垣をめぐらしたような山々、その山々に囲まれた大和は美しい国だ。 またお歌いになった歌は、 命の完全な人は、平群の山のくま樫の葉を髪に挿して、生命を謳歌するがよい。みなの者よ。 この二首は国思歌くにしのひうたという歌である(以上、講談社学術文庫版より引用 )

 

国思歌(国しのびの歌)になぜ平群山が詠われるのか 

 (5)の景行天皇が歌った3首と(6)の倭健命が歌った2首は、国思歌です(両者はほどんど同じ小異歌)。それは故郷を偲ぶ歌で、上代歌謡の1つです。上代歌謡とは、上代(ここでは、奈良時代以前)の歌謡のことです。歌謡とは、のちに和歌として整えられていく和歌の原型といえる、作者不明の、人々に親しまれた歌で、多くは文字に記されることなく失われてしまいましたが、その1部が古事記、日本書紀 、風土記、万葉集、古語拾遺、琴歌譜、仏足跡歌碑などに収録されており、古事記と日本書紀に収録されているそれは「記紀歌謡」と呼ばれています。

 歌謡は、なんらかの集つどいの時に歌われました。(5)の3首は景行天皇が、(6)の2首はその子ヤマトタケルノミコト(古事記では倭健命、日本書紀では日本武尊)が、それぞれ皆を集めて故郷を偲んだ集いのときのものです。この親子は、故郷を偲んだときにどちらも、「倭やまとは国のまほろ(ら)ば・・・・・」の歌謡を選んで歌い、続いて、故郷の青垣をなす山々の代表・象徴と思う平群山を詠んだ歌謡である「平群の山の・・・・・ 」の歌謡を歌ったのです。この親子にとって平群山はそれほど大切な山でした。 

 平群山は国思歌に詠われるほど、また、景行天皇・倭健命親子がそれを詠う歌謡を歌うほど、なぜ大切な山だったのでしょうか。

 その答え⇒平群山を詠んだ歌には必ずといってよいほどに「樫」(白樫しらかしまたは一位樫いちいがし)がでてきます。(5)・(6)の歌、(8)の歌、(9)の(1)の①の歌、すべてそうです。樫は、堅くて強く長もちし実(どんぐり)が沢山なる常緑の生命力あふれる長寿・豊穣を象徴する吉木で、その感化を受ければ霊力や生命力を授かると尊ばれていました。現在でも、カシ類を正月の門松や墓 ・神棚の供花としたり、田の水口や畑に立てたりして、家の繁盛や豊作を祈る習俗があちこちに残っています。平群山は、かかる樫が繁茂する山でした。 また、平群山は、(9)の(1)の①の歌に「藥獵くすりがり」がでてくるように、薬草摘みや狩猟が盛んな場所でした。このように平群山は、弥生時代になっても、弥生文化(自然に働きかけて自らが生命を育てる農耕文化で、それゆえ、飢饉と裏表の、欲望に歯止めをかけるのが難しい、土地と水を取り合う争いの文化。季節が替れば生命力が失われるかのように葉を落とす落葉広葉樹林文化)でない縄文文化(自然から生命を授かる狩猟採集文化で、それゆえ、飢饉のリスクの少ない、過度の欲望が生じない、土地と水を私有する必要がないので争いの必要ない文化。季節の変動に生命力を左右されないかのような常緑広葉樹林文化)が息づく、生命力を与えてくれる山だったからです。

 また、(5)・(6)の歌謡にある「平群の山の白がしが枝を髻華に挿せ」「平群の山の白檮(かし)が葉をうずに挿せ」というのは、人に生命力を授けると考えられていた樫の青葉の枝を髪に挿すことで生命力を充足する呪術的行為のことで、平群山では、国見(山に登り自分の居住地の方向を見て息災・繁栄を願う行為)などの何らかの集いのときにはそれがおこなわれていました。(5)・(6)の歌謡は、平群山での集いで生まれ、ひろまっていったと考えることもできます。 上代の大切な集いには歌垣wikipedia>もありました。それは、若い男女が山などに集まり、共同飲食しながら相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗です(歌謡をやり取りする集団お見合い・合コンといえば分かりやすいかも知れない)。平群山も歌垣が行われていた場所であり(具体的な場所は未確定)、景行天皇・倭健命親子が、(5)・(6)の歌謡を歌ったのは、平群山での、その歌謡を求愛相手に捧げた歌垣が懐なつかしかったからでもあったのでしょう。また、集いに参集してくれた、または、故郷にいる若い者たちに「生命力の強い樫を折りとって髻華にし、ますます健すこやかであれ」と呼びかけるためでもあったと思われます。

 なお、人間がつくったものでなく自然が人間に授けてくれた特定の植物が生命力を充足してくれるという縄文的な思考・行為は、現在もなお、葵祭あおいまつりで葵や桂、春日祭かすがさい日陰ひかげの蔓かずらを参加者が身につける風習や正月七日に七草粥ななくさがゆを食べる風習などに受け継がれています。

 以上のことを踏まえると、矢田丘陵と生駒谷という樫の繁茂地を持つ生駒市が、市の木として樫を選定した(ご参照)のは最良の選択であったといえます。生駒市の「市の木」が樫であることについては、生駒検定<全国版>問28「生駒市の木」に選ばれているのは何?!もご参照。

<追記>縄文時代、東日本はクリ・ウルシを利用する文化圏、西日本はカシを利用する文化圏であった、とされています。

古事記<雄略記>に登場

 初め大后日下くさかに坐いましし時、日下の直越ただごえの道より河内に幸行いでましき・・・・・ここをもちて宮に還り上がります時、その山の坂に行き立たして歌曰(うた)ひたまはく、「日下部くさかべの 此方こちの山と 畳薦たたみこも 平群の山の 此方此方こちこちの 山の峡かひに 立ち栄さかゆる  葉広熊くまかし 本もとには いくみ竹だけ生い 末すゑには たしみ竹だけ生ひ いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしみには率寝ず 後のちもくみ寝む その思ひ妻づま あはれ」と歌ひたまひき

      いくみ竹の「い」は接頭語で、「くみ」は「組み」。たしみ竹の「た」は接頭語で、「しむ」は密集している意。

 (現代語訳)始めのころ、皇后ワカサクサカベノ王が日下におられたとき、天皇は日下へまっすぐに越える道を通って河内においでになった・・・・・こういう次第で天皇は朝倉宮にお帰りになったが、あの山の峠に通じる坂の上にお立ちになって、日下部のこちらの山※と、平群の山の、あちらとこちらの山の峡谷※に、繁茂している葉の広い樫。その木の根元には、こんもり茂って枝をさしかわした竹が生え、こずえのほうの斜面には、枝葉に密集した竹が生えているが、根元のいくみ竹のように組んでは寝もせず、こずえのたしみ竹のようにたしかには共寝もしない。が、将来はきっと組み合って寝よう。そのいとしい妻よ。ああ。(以上、講談社学術文庫版より、現代語訳は一部修正して引用/太字は引用者による )

      「日下部のこちらの山」とは、生駒山生駒山地のことで、「あちらとこちらの山の峡谷」とは、生駒山地と矢田丘陵に挟まれた峡谷で、竜田川上流域の生駒谷、同下流域の平群谷のこと(冒頭掲載の地図ご参照)。

       竜田川・・・生駒検定<全国版><問20>生駒の川は神話や伝説、伝承に彩られているご参照

 

万葉集の乞食者(ほかひびと)が鹿・蟹のために痛みを述べて作れし長歌二首

のうち鹿の歌に平群の山が詠われている

  

(10)このページを基に、

生駒検定<全国版><問2>古来、列島中央部にあってその存在感を示してきた「生駒山」、それに寄り添う「平群の山」(3)・(4)の問題を作成しました。

 

(11)資料

 平群の山(矢田丘陵)に おける松茸利用の歴史.pdf

 

(12)歩行ルート

長距離自然歩道(環境省が計画を定め、各都道府県が整備管理運営)の近畿自然歩道(同じ長距離自然歩道で先行整備された東海道自然歩道と重複しないように整備された/ルート概要)の金剛生駒ふれあいルート (本線は<北から>ポンポン山~天王山~交野山~生駒山~高安山・信貴山~二上山~葛城山~金剛山)の枝線・・・信貴山から東北の方角へ~信貴畑~竜田川駅北~椿井つばい~白石畑しらいしばた~松尾寺・松尾山~矢田寺(金剛山寺)~東明寺~子どもの森~霊山寺/これは矢田丘陵を越えるみちと呼べる>

矢田丘陵遊歩道マップ掲載あり>(生駒市が整備管理運営)

 1)本ルート・・・(北から)生駒市総合公園(入口すぐにあすか野団地口バス停)~山中への入口~ドンデン池~展望広場~椚くぬぎ峠~神武峯(峰)下~榁木むろのき峠~小笹の辻~矢田峠

 2)下山ルート・・・ドンデン池少し南 ~小明寺垣内または図書会館付近/展望広場~東生駒1丁目/神武峯の北~福祉センター付近/神武峯の少し北~帝塚山住宅地(このルートは、奈良市側に下りるためマップでは矢田丘陵遊歩道の下山ルートになっていないが、事実上はそれである ) /榁木峠の北~きたやまスポーツ公園/榁木峠~南生駒駅(このルートは生駒市側に下りるにもかかわらずマップではなぜか矢田丘陵遊歩道の下山ルートになっていないが、事実上はそれである)/矢田峠~萩の台駅 

矢田山遊びの森ハイキングコース(奈良県が整備管理運営)・・・次の5コース(太字部分は矢田丘陵遊歩道と重複)

 1)子どもの森(横山口バス停から徒歩50分)~小笹の辻~矢田峠~松尾山・松尾寺(松尾寺口バス停まで徒歩30分)

 2)萩の台駅~矢田峠矢田寺(矢田寺前バス停まで徒歩10分)

 3)富雄駅~霊山寺~子どもの森~東明寺~矢田寺~国見台展望台~松尾山・松尾寺  

 4)竜田川駅(~椿井)または法隆寺駅(~矢田丘陵南端の法隆寺)~白石畑~松尾山・松尾寺(竜田川駅からのコースは金剛生駒ふれあいルートの枝線と重複)  

 5)椚峠~神武峯(峰)下~榁木峠~小笹の辻・・・1)と2)のコースも加味すると、結局、なぜか矢田丘陵遊歩道のうち椚峠~矢田峠~萩の台駅だけが矢田遊びの森ハイキングコースとされている(椚峠を越えて北側のコースはされていない)。  

自然散策うるおいの道(斑鳩町が整備管理運営する斑鳩町 歴史街道の1つ)・・・(矢田丘陵南端の)法隆寺発~天満池~松尾山・松尾寺~白石畑~天満池~法隆寺太字部分は矢田山遊びの森ハイキングコースと重複)

⑤非行政整備管理運営ルート・・・白谷(矢田丘陵北端)~生駒市総合公園

備考

①金剛生駒ふれあいルートの枝線には「近畿自然歩道」明示の道標、矢田丘陵遊歩道には「矢田丘陵遊歩道」明示の道標、矢田山遊びの森ハイキングコースには「矢田山遊びの森」明示の◇型看板とコース名不明示の道標、自然散策うるおいの道には「自然散策うるおいの道」明示の道標、がそれぞれ設置されています。

②非行政整備管理運営ルート(白谷~生駒市総合公園)、矢田丘陵遊歩道(生駒市総合公園~矢田峠)、矢田山遊びの森ハイキングコースのうち矢田峠~松尾山・松尾寺、矢田山遊びの森ハイキングコースまたは自然散策うるおいの道のうち松尾山・松尾寺~法隆寺、を結べば、矢田丘陵全山縦走(北端の白谷から南端の法隆寺までをたどる)コースとなります。これは、生駒の神話の主人公であるナガスネヒコが毎日のように駆け抜けた道です(長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵ご参照)。

ナガスネヒコは、矢田丘陵全山を2時間程度で駆け抜けていた!?

 狩猟採集時代のヒトの運動量はサッカー選手や長距離ランナーに匹敵していた(ご参照)ことを踏まえ、現在でも大学のワンゲル部員なら六甲山全山縦走(塩屋から宝塚の約60㎞)を約10時間程度で駆け抜けることができること、走ることが禁止されている六甲全山縦走大会ですら須磨から宝塚までの約56㎞を速い人なら約12時間程度で歩き通すことができていること、矢田丘陵全山縦走(高低を算入すれば約17㎞程度か)の標準タイムは4時間40分であること(注)、を考慮すると、ナガスネヒコに限らず縄文人は、矢田丘陵全山(北端から南端まで)を毎日のように2時間程度で駆け抜けていたと思われます。なお、長距離の主な移動手段は船で歩行ではなかった弥生人が、俊足で野山を駆け抜ける縄文人の登美彦を見て驚き、猛スピードで歩行・走行できるほどの長い髄を持つ彦(勇者)という意味で長髄彦と呼んだのが、長髄彦の名前の由来であるという説もあります。

 この記事中の「ハラにおける自然との共存共生」の表題の文には、「(縄文人の)定住的なムラ生活の日常的な行動圏、生活圏として自ずから限定された空間」は「半径約五~一〇キロメートルの面積という見当であ」り、「いわばムラを出て、日帰りか、長びいてもせいぜい一、二泊でイエに帰ることができる程度ということになる。 」とあります。 

 <追記>「ぽつんと一軒家」という番組で、片道8㎞の小学校に通学し、同じく18㎞の中学校に通学し(こちらはあまりできていなかったとのこと)、80㎏の木材を担いで山に上っていた、という人の話をやっていた、ということを聞きました。また、世界の果ての通学路という映画は、ケニアでは片道15㎞の学校へ2時間で草原地帯を徒歩(駆け足?)通学し、アルゼンチンでは片道18㎞の学校へ1時間半かけて山岳地帯を馬で通学し、モロッコでは片道22㎞の学校へ4時間かけて山岳地帯を徒歩通学する子どもがいることを知らせています。  

  (注)矢田丘陵全山縦走の標準タイム(普通のハイカーが迷うこともなく道草も食わずにスムーズに歩けた場合の実動時間の目安

    (奈良交通白谷バス停西すぐの)丘陵入口<15分>饒速日命墳墓<15分>生駒市総合公園<10分>山中への入口<15分>ドンデン池<15分>阪奈道路<20分>椚峠<30分>福祉センターへの分岐<8分>神武峯の下<17分>きたやまスポーツ公園への分岐<5分>榁木峠<15分>小笹の辻<17分>矢田山頂上<3分>頂上展望台<5分>矢田峠<5分>東山駅への分岐<15分>国見台展望台<10分>松尾山への分岐<5分>松尾山三角点<10分>松尾寺<25分>ゴルフ場との出会い<5分>白石畑への車道との出会い(毛無池のほとりの案内図)<15分>法隆寺東大門

     上記の太字地点を起終点とする4行程のそれぞれのタイム(丘陵入口<70分>阪奈道路<80分>榁木峠<75分>松尾山三角点<55分>法隆寺東大門)を合算すると⇒合計280分(4時間40分)

    上記のタイムは、南下の場合のものですが、北上の場合は、法隆寺東大門(標高55m程度)→松尾山三角点(標高315m)の行程は高低差が2百数十mあるのでタイムは何割増かになるものの、他の行程はさほど変わらないと思われます。 

 
初めて矢田丘陵を歩くとき、

 1)既述いたしました「矢田丘陵全山縦走の標準タイム」を参考にしてください。

 2)非行政整備管理運営ルート(上記の生駒市・奈良県作成のマップには記載なし)は踏み固められた道であるにもかかわらず、道標がなく迷いやすいので⇒この概念図.jpg(歩行ルートの概要を示す図)と磁石を併用して道標代わりにしてください。

 3)松尾山・白石畑とその一帯(上記の奈良県作成のマップに記載あるが不十分) は、道標があるところでもわかりにくく、道標がないところでは迷いやすいので⇒松尾山・白石畑の概念地図 北.jpg同 南.jpgこの南北2つを合わせた地図.jpg)<添付写真.pdf><矢田峠に設置の道標に記載の案内図.jpg(19.12現在、道標は倒れて横たわっている)>と磁石を併用して道標代わりにしてください。

    白石畑はユニークな村です・・・①村の中心を通って2つの町の町境が通っています。つまり、戸数20ほど(このページの情報による)の小さな村が、平群町大字白石畑と斑鳩町大字法隆寺という2つの行政区に2分されています。このことを知らないと、法隆寺から遠くはなれた白石畑に法隆寺という地名が国土地理院等の地図になぜ記されているのかが疑問となります。なお、ネット情報では、前者は、白石畑の西半分を含め40ヘクタールもある(地図)のに6世帯・15~17人、後者は、白石畑の東半分を含め430ヘクタールもある(地図)のに24世帯・157人(1世帯平均6.5人?)しか住まいしていません。②村の中心にあった安楽寺が廃寺となって公民館となっています。このことを知らないで、安楽寺がまだ載っている国土地理院等の地図を持って初めて白石畑を訪れたとき、自分がどこにいるのかがわからなくなります。③舗装車道が完備されているのに車がほとんで通っていません。それを前提としているのか、人や車が通れば警音が鳴り響く害獣よけのラインが車道沿いにまで設置されています。このことを知らないで、初めて白石畑を訪れたとき、突然に警音を浴びてびっくりしてしまいます。なお、車がほとんで通らない山中の白石畑の村を通る道路はMTBの人気コースです。④この村には、車道とよく踏み固められた良好な徒歩道という四方の遠隔地と結ばれた道が合計8つも通じています。これだけの道を通じさせるほどの力がどこにある、または、あったのでしょうか。

 ④矢田丘陵のうち、大和郡山市部分のすべてと、なぜか、奈良市部分の一部(霊山寺・追分神社) と生駒市部分の一部(小笹の辻から矢田峠、そこより萩の台への下山道)のみ、を範囲に県立矢田自然公園となっています(ただし、その範囲は、正確なものは調べた限りでは広報されていないので、この地図より推察したものです)。

 ⑤松尾湿原は、ハッチョウトンボモウセンゴケなど、貴重な動植物の生育地。ここに行く道では、春から秋にかけてはマムシがいる恐れがあるとの情報があるので、この時期に訪れるときは注意が必要です。 

 





 

「生駒山の飛火(とぶひ)が岡」の「高見の烽(とぶひ)」/ 旗振山・旗立山

(1)万葉集 巻6-1047の長歌には「射駒山いこまやま 飛火が嵬たけ」という地名が出てくる。現代文にすると、「生駒山の飛火が岡」である。

(2)710年に都が藤原京から平城京に遷されたことに伴い生駒山の飛火とぶひが岡に設置された、のろし(烽火・烽燧・狼煙)を上げる施設である烽(飛火やのろし台ともいう)が高見の烽である。飛火が岡は烽の設備のある高地のことで、射駒山(現生駒山)のそれは、暗峠(455m)の北側すぐの天照山てんしょうやま.jpg(510m)であったとされている(現在の生駒山上の旧天文台跡地にあったとの説も捨てがたいが)。現在も天照山上に残されている石組は高見の烽の遺構と考えられている。また、天照山は江戸時代から近代に至るまで、堂島米市場の米相場を東海地方に伝達する「旗振はたふり(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」であったことも、「高見の烽は天照山上にあった」との説を支持している。

(3)続日本紀の和銅五(712)年の記事に「河内の国高安の烽を廃して、はじめて高見の烽及び大倭の国春日の烽を置き、以って平城に通ぜしむ也」とあり、712年より、高見の烽が、対馬・壱岐・筑紫方面から伝達されてきたのろしを春日の烽(若草山や飛火野等が推定地)に伝達することで、平城の都に大陸・半島方面の情報を知らせることになった(これに伴い、のろしを飛鳥の都方面に伝達していた高安の烽は廃止された)。平城京と生駒山上との直線距離は約11km、途中に立ちはだかる山はない。

  烽は、663年の白村江の敗北によって高まった、飛鳥の都へ緊急の知らせを伝達せねばならないという対唐・対新羅の軍事上の必要性から664年に置かれた(日本書紀の天智紀に「この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽をおいた。」と記されている)。なお、667年には、国土を守る最前線の対馬には金田城 、瀬戸内海の制海権を守るために屋島には屋嶋城、都を守る要衝の高安山の東方には高安城(701年に廃城か)が築城されたが、その場所はいずれも飛火が岡(烽の設備のある高地)であった(ようだ)。 

(4)794年に都が平安京に遷されると、それに伴い、796年に、生駒山地北端の牡山おとこやま(現京都府八幡市男山)に烽が置かれ、そのころに高見の烽は廃止された。

(5)参考資料・・・奈良歴史漫歩 No.063 / 難波京の防衛システム  /山と旗とのろし台

(6)<参考>古代の烽

 ①烽が対馬から都に伝達されたルート.jpgこの番組の一場面)<出典元

 ②対馬→壱岐→筑紫→〇〇→〇〇→屋島→〇〇→難波(現真田山?)→高安・高見・牡山→飛鳥京藤原京<〇〇>・平城京<春日>・平安京<〇〇> 

 ③烽については「養老軍防令」(718年)に規定があり、約 20km ごとに設けられたこと。昼は煙を焚き、夜は火を放ち、伝達方向の烽(前烽)が反応しなければ、走って行って伝えるべきことなどが記されている。

(参考)生駒山地旗立山.jpg(486m)には、南北朝時代に見張り場があったとされる。  

(付記)以上のことを基に、生駒検定<全国版><問2>古来、列島中央部にあってその存在感を示してきた「生駒山」、それに寄り添う「平群山」(2)を作成いたしました。

 

 

 

 

 

 

 

(1)万葉集 巻6-1047の長歌には「射駒山いこまやま 飛火が嵬たけ」という地名が出てくる。現代文にすると、「生駒山の飛火が岡」である。

 

(2)710年に都が藤原京から平城京に遷されたことに伴い生駒山の飛火とぶひが岡に設置された、のろし(烽火・烽燧・狼煙)を上げる施設である烽(飛火やのろし台ともいう)が高見の烽である。飛火が岡は烽の設備のある高地のことで、射駒山(現生駒山)のそれは、暗峠(455m)の北側すぐの天照山てんしょうやま.jpg(510m)であったとされている(現在の生駒山上の旧天文台跡地にあったとの説も捨てがたいが)。現在も天照山上に残されている石組は高見の烽の遺構と考えられている。また、天照山は江戸時代から近代に至るまで、堂島米市場の米相場を東海地方に伝達する「旗振はたふり(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」であったことも、「高見の烽は天照山上にあった」との説を支持している。

(2)続日本紀の和銅五(712)年の記事に「河内の国高安の烽を廃して、はじめて高見の烽及び大倭の国春日の烽を置き、以って平城に通ぜしむ也」とあり、712年より、高見の烽が、対馬・壱岐・筑紫方面から伝達されてきたのろしを春日の烽(若草山や飛火野等が推定地)に伝達することで、平城の都に大陸・半島方面の情報を知らせることになった(これに伴い、のろしを飛鳥の都方面に伝達していた高安の烽は廃止された)。平城京と生駒山上との直線距離は約11km、途中に立ちはだかる山はない。

 

  烽は、663年の白村江の敗北によって高まった、飛鳥の都へ緊急の知らせを伝達せねばならないという対唐・対新羅の軍事上の必要性から664年に置かれた(日本書紀の天智紀に「この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽をおいた。」と記されている)。なお、667年には、国土を守る最前線の対馬には金田城 、瀬戸内海の制海権を守るために屋島には屋嶋城、都を守る要衝の高安山には高安城が築城されたが、その場所はいずれも飛火が岡(烽の設備のある高地)であった(ようだ)。 

 

(3)794年に都が平安京に遷されると、それに伴い、796年に牡山おとこやま(現京都府八幡市男山)の烽が置かれ、そのころに高見の烽は廃止された。

 

(4)参考資料・・・奈良歴史漫歩 No.063 / 難波京の防衛システム  /山と旗とのろし台

 

(参考)古代の烽

 

 ①烽が対馬から都に伝達されたルート.jpgこの番組の一場面)<出典元

 

 ②対馬→壱岐→筑紫→〇〇→〇〇→屋島→〇〇→難波(現真田山?)→高安・高見・牡山→飛鳥京藤原京<〇〇>・平城京<春日>・平安京<〇〇> 

 

 ③烽については「養老軍防令」(718年)に規定があり、約 20km ごとに設けられたこと。昼は煙を焚き、夜は火を放ち、伝達方向の烽(前烽)が反応しなければ、走って行って伝えるべきことなどが記されている。

 

(参考)生駒山地旗立山.jpg(486m)には、南北朝時代に見張り場があったとされる。 

 

(付記)以上のことを基に、生駒検定<全国版><問13>歴史を見つめてきた暗峠を作成いたしました。

 

 

 

 

 

 

 

(1)万葉集 巻6-1047の長歌には「射駒山いこまやま 飛火が嵬たけ」という地名が出てくる。現代文にすると、「生駒山の飛火が岡」である。

 

(2)710年に都が藤原京から平城京に遷されたことに伴い生駒山の飛火とぶひが岡に設置された、のろし(烽火・烽燧・狼煙)を上げる施設である烽(飛火やのろし台ともいう)が高見の烽である。飛火が岡は烽の設備のある高地のことで、射駒山(現生駒山)のそれは、暗峠(455m)の北側すぐの天照山てんしょうやま.jpg(510m)であったとされている(現在の生駒山上の旧天文台跡地にあったとの説も捨てがたいが)。現在も天照山上に残されている石組は高見の烽の遺構と考えられている。また、天照山は江戸時代から近代に至るまで、堂島米市場の米相場を東海地方に伝達する「旗振はたふり(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」であったことも、「高見の烽は天照山上にあった」との説を支持している。

(2)続日本紀の和銅五(712)年の記事に「河内の国高安の烽を廃して、はじめて高見の烽及び大倭の国春日の烽を置き、以って平城に通ぜしむ也」とあり、712年より、高見の烽が、対馬・壱岐・筑紫方面から伝達されてきたのろしを春日の烽(若草山や飛火野等が推定地)に伝達することで、平城の都に大陸・半島方面の情報を知らせることになった(これに伴い、のろしを飛鳥の都方面に伝達していた高安の烽は廃止された)。平城京と生駒山上との直線距離は約11km、途中に立ちはだかる山はない。

 

  烽は、663年の白村江の敗北によって高まった、飛鳥の都へ緊急の知らせを伝達せねばならないという対唐・対新羅の軍事上の必要性から664年に置かれた(日本書紀の天智紀に「この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽をおいた。」と記されている)。なお、667年には、国土を守る最前線の対馬には金田城 、瀬戸内海の制海権を守るために屋島には屋嶋城、都を守る要衝の高安山には高安城が築城されたが、その場所はいずれも飛火が岡(烽の設備のある高地)であった(ようだ)。 

 

(3)794年に都が平安京に遷されると、それに伴い、796年に牡山おとこやま(現京都府八幡市男山)の烽が置かれ、そのころに高見の烽は廃止された。

 

(4)参考資料・・・奈良歴史漫歩 No.063 / 難波京の防衛システム  /山と旗とのろし台

 

(参考)古代の烽

 

 ①烽が対馬から都に伝達されたルート.jpgこの番組の一場面)<出典元

 

 ②対馬→壱岐→筑紫→〇〇→〇〇→屋島→〇〇→難波(現真田山?)→高安・高見・牡山→飛鳥京藤原京<〇〇>・平城京<春日>・平安京<〇〇> 

 

 ③烽については「養老軍防令」(718年)に規定があり、約 20km ごとに設けられたこと。昼は煙を焚き、夜は火を放ち、伝達方向の烽(前烽)が反応しなければ、走って行って伝えるべきことなどが記されている。

 

(参考)生駒山地旗立山.jpg(486m)には、南北朝時代に見張り場があったとされる。 

 

(付記)以上のことを基に、生駒検定<全国版><問13>歴史を見つめてきた暗峠を作成いたしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生駒山越(いこまやまごえ)の峠道  

35312

(地図はクリックで拡大できます)

)「生駒山越の峠道は数多くあって、北から順にみると清滝越・中垣内越・竜(龍)間越・八丁門越・善根寺越・日下越・逗子越・暗越・鳴川越・十三越・信貴越・立石越となっている。上鳥見越(岩船越)もある。」(生駒市誌より

)生駒山越の峠道の略図  その➀<→右図> その➁<→左図> 生駒山系と歴史路の観光資源展開より) 


生駒山越の(峠)道(生駒山地を越える峠道)と平群の山越(矢田丘陵越)の道矢田丘陵(記紀では「平群の山」)を越える峠道)はだいたいこのあたりを通っていただろうということを示す地図は生駒の古道を示す地図ご参照

 なお、山越の道は川沿の街道に合流していたが、竜田川の全流域(源流域から大和川に合流するまで/生駒谷・平群谷全域)に沿った街道を清滝街道または磐船街道といい、富雄川に沿った(鳥見谷の) 街道には、上津鳥見路かみつとみじ古堤ふるづつみ街道などがあった。   

)生駒山越の峠道(生駒山地を越える峠道北から順>

河内と大和を結ぶ近道である「直越ただごえの道」は太字で示す。

それについては直越ただごえの道ご参照

 〇荒坂越・・・枚方~荒坂峠~宇治

 〇 尊延寺(普賢寺)越(田辺街道)・・・淀川(枚方)~南山城(尊延寺峠は約100m) /尊延寺越の記載ある地図.jpg資料.pdf

 〇 傍示越(峡崖かいがけ道)・・・現交野市の寺~河内側の傍示~現生駒市の(大和側の)傍示の道。中世鎌倉期には熊野詣にも利用され、江戸期には奈良参りや伊勢参りなどの道にもなった。京街道を枚方で分かれて磐船街道を南下し、途中で東高野を横切り、私市から東にとって、寺で傍示越に入り、両傍示を通って傍示越を抜けて富雄川に出て南下、現奈良市の法融寺前の月見橋東の分岐から東進して一条通りに入るか、同奈良市の砂茶屋の分岐から東進して三条通りに入るかして奈良に至り、更に伊勢へ向かう 。また、月見橋や砂茶屋で東進せずそのまま南下し、郡山を経て高野や熊野に向かうこともできた。生駒山地では、荒坂越も尊延寺越も峠の標高が低くて100m前後しかないが、この傍示越にきてやっと300mの高さになって峠らしくなる。傍示越えの記載ある地図.jpg 

 〇 磐船(岩船・岩舟)越(上鳥見かみつとみ越)・・・磐船越の記載ある地図.jpg /磐船峠(約130m)には磐船神社がある。

 〇 清滝(龍)越(清滝(龍)街道)・・・守口を発し、東進して清滝峠(247m)で生駒山地を越え、天野川源流の新茶屋に至り、そこより南下、天野川と竜田川の分水嶺(宛ノ木付近)を越えて田原谷より生駒谷に入り、そのまま竜田川沿いに南下を続け、竜田川が大和川と合流する地点(現斑鳩町龍田の龍田神社付近)で竜田越に合流(なお、新茶屋以後を磐船街道ということもある)。清滝越の記載ある地図.jpg / 

 〇 竜(龍)間(中垣内)越  八丁門(峠)越  善根寺越  日下越  辻子づし(逗子)谷越  暗越

 〇 鳴川越・・・鳴川にある千光寺(修行の岩場があり、大峰山元祖を意味する「元山上」といわれた)への参詣道である。ここでの参詣を済ませたあと、下って平群谷の清滝街道に入って、法隆寺・龍田神社、大峰、高野に向かうこともできた。  鳴川峠の記載ある地図 / 鳴川越は約300m。  

 〇 河内越(櫟原いちはら越)・・・大和側の櫟原(写真)の人が河内に行くときの道。十三峠の少し北で尾根に着き、尾根を少し南下したところで河内側に下りると、中腹で十三越に合流する。櫟原の記載ある地図

 〇 十三越(十三街道/俊徳街道/俊徳道/十三越竜田道)・・・河内側から行けば、十三峠(無名の人の塚が十三あったころからこう名づけられた/写真)で尾根を越えて東に下り、福喜畑奈良県景観資産に選ばれている/写真)・信貴畑(写真)を経て西宮(写真)に至り、そこで清滝街道に合流。河内側から法隆寺・龍田神社、初瀬寺への参詣路。聖徳太子が法隆寺から難波の四天王寺へ通った道。在原業平が里の娘を見初めて通ったとの伝説が残っている。十三峠の記載ある地図

 〇 おおと(おうと・おと・をうとう・大道)越・・・Wikipedia / 大和に向かう場合、服部川で立石越と別れ、十三峠の少し南で尾根を越え、東へ少し下ったところで十三越に合流する。服部川と十三峠の記載ある地図

 〇 立石たていし越(立石街道椹原ふしはら)・・・河内の天王寺を出て、平野・久宝寺・八尾を経て万願寺に至り、東高野街道を渡って服部川から立石峠を越え、東に下って信貴畑(写真)で十三越に合流。十三越が河内北部・中央部からの道であるのに対し、この道は河内南部の住吉や天王寺辺りからの道である。天下の台所といわれるだけあって、大坂の町の範囲が広く、それだけ人口も多かったことを物語っている。立石の由来については、貝原益軒が「扶桑記勝」で「河内の方より登る道に大なる立石あり」と記している。立石峠の記載ある地図

 〇 信貴(信貴山)越・・・現八尾市の教興寺から、平安時代に建立された信貴山(437m)南側山腹の朝護孫子寺に至る参詣道。江戸時代には、福徳海運の現世利益を願う善男善女で賑わい、そのため大坂から沢山の参詣道ができた。黒谷道・岩谷道・恩地おんじ道(恩智越)・安堂道・青谷道がそれである。うち、最古の黒谷道は、大坂の住吉や天王寺を立ち、平野・八尾を経て庄内村に入り、東進して教興寺で東高野街道を渡って 黒谷から信貴越をして朝護孫子寺に至る。そして、参詣を済ませば、東に下って勢野せや写真)に至り、そこで竜田越に合流し、龍田神社・法隆寺、奈良、長谷寺、大麻寺へも足をのばせた。Wikipedia /朝護孫子寺の記載ある地図

  恩智越・・・恩智峠の記載ある地図.jpg

 〇 竜田越(竜田越奈良街道)・・・現斑鳩町の法隆寺・龍田神社~現三郷町の立野にある龍田大社(この西にある竜田山を越えるが、この山がどれかは未確定)~現柏原市の峠八幡神社~同雁多尾畑かりんどおばたを通る。立野越ともいう。龍田大社・峠・雁多尾畑の記載ある地図 

 〇 亀瀬越・・・大和側北岸を通って河内と大和を結ぶ。これも竜田越という場合あり。大和川・亀瀬岩の明示ある地図

この項の記述にあたっては、中庄谷 直氏「関西 山越の古道」(ナカニシヤ出版)を参考・引用加筆修正

させていただきました(が、文責は記述者にあります)。

生駒山越の峠道のいくつかは、生駒山地と並立している矢田丘陵の山越の道、つまり、平群の山越(矢田丘陵越)の道(生駒の古道ご参照)と結ばれている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

邪馬台国

(1)邪馬〇国の名称・所在地論争に終止符を打つ論邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征

(2)早期(先発)渡来人(早い時期に渡来)が日本列島に渡来して以後、日本列島各地に部族連合の国(地域小国家の連合体)が形成されていきましたが、中国の史料では、そのうちのいくつかに邪馬台国・狗奴国などの名を与えています(「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)ご参照)。

(3)邪馬台国の位置がいまだに分からない理由の1つは、古代日本の地形を考慮に入れていないからです(古代日本の地形ご参照)。海面が今より60m高い時の日本列島(取り分け九州)の地形をこれSea level rise : +60m)で見てください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征 

              お断り:邪馬台国については、日本ではそれらしき記録がほんのわずかしかなく、中国の文献でも伝聞的なもの(実際に日本に来て記録したものではないようなもの)しかないので、逆に数えきれないほどの諸説がありますので、この記事も確定したものではなく、添削することがあります。

(1)邪馬台国の「台」は、この国名の出所である魏志倭人伝では「壹」(現在の漢字では「壱」)とあり、 後漢書では」とあります。これまでは、学会の主流では、「壹」 が誤りで「臺」が正しいとされ、これと「台」は別の漢字ですが、当用漢字には「台」しかないので便宜的に「台」を充てて、この国は教科書等では「邪馬台国」と表記されてきましたが、本当のことは不確定です。従って、このの本来の呼び方も不確定で、今日では「ヤマタイコク」 と呼ぶのが普通になっていますが、「ヤマイチコク」「ヤマイコク」「ヤマダイコク」「ヤマトコク」とも呼ぶことも可能です。不確定といえば、この国の所在地も不確定で、北九州と大和(奈良県)とを2大候補地として、全国にその候補地があります。

(2)(1)のように、この国について不明なことが多いのは、大和政権が701年の大宝の律令制定をもって、古代天皇制国家(律令国家=中央集権国家)を完成していくプロセスにおいて、この国と大和政権との関係を、中国に対して誤魔化す必要があったからです。その必要があったことは、国内向けに天皇の正統性を訴えるために作成された記(古事記)と外国向けに日本という国の正統性を主張するために作成された紀(日本書紀)のいずれにも、この国の名前が出てこない(これが、記紀の謎の1つ)ことでわかります。記紀にこの国のこと(名前やその位置)が記録されなかったことが、邪馬〇国名称論争・邪馬〇国位置論争が起こった理由です。今日、いまだに「天皇稜」の多くが未発掘の「謎」もこれに関係あるとの説もあります。 

(3)では、なぜ、誤魔化す必要があったのか。それを説明する説は次の様です。

 ①大和政権は、元々、半島から渡来した弥生人が日向(現在の宮崎県)に居住し、やがて、魏志倭人伝がいう狗奴国を立てた日向政権であった。

 ②日向政権(狗奴国)は、日向周辺の南九州に勢力を拡大した(球磨くまにも版図を拡大したので、中国からはクヌ国・クナ国と呼ばれたのではないか)のち、北九州の邪馬〇国と戦い、これを支配下に入れた。この戦いの際、247年に邪馬〇国は中国に支援を要請し、その約束を受けたことが、魏志倭人伝の最終部に、次のように記録されている(戦いの結果は、中国の文献でも記されていない)。

    正始八年(247年)正始六年との説もあり帯方郡の太守(長官)に王頎おうきが着任した。倭の女王の卑弥呼は、狗奴クヌ・クナ国の男王である卑弥弓呼ひみここもと(以前)より和せず、倭(邪馬台国)の載斯さいしや烏越うえつ等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史さいそうえんし(武官)の張政等を倭に派遣し、張政は詔書しょうしょ(皇帝の信書)、黄幢こうどう(魏の軍旗/黄色の吹き流し)をもたらして難升米なしめ(将軍兼総理大臣のような人物)に授け、檄文をつくり告諭こくゆした(木札を立てて兵を募集した)。

 ③ 邪馬〇国と中国は朝貢関係、つまり、中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜おんし(潤沢な文物)を与えるという関係、を結んでおり、日向政権が邪馬〇国を滅ぼしたことが分かると、中国から北九州が攻撃される恐れがあった(そこまでいかなくても、中国から文物が入手できなくなるなどの不利益をこうむる恐れは確実にあった)ので、それを誤魔化すために、日向政権は北九州を支配する国の名を狗奴国などとはせず、「ヤマイトゥコク」のような、中国に「邪馬〇国」と思わせる呼び方の国名にした。中国は、魏志倭人伝や後漢書のような歴史書を記すときでもそうだが、日本について、いちいち日本に来て調査するなどして正確を期すなどと面倒なことはせず、主に伝聞をもとに対応するので、いくらでも誤魔化すことができた。

 ④日向政権は、日向を発し、邪馬〇国を滅ぼして北九州を支配下において九州統一政権となった。そして、やがて、瀬戸内海沿岸各地を勢力下におきながら東へ進み、河内(現大阪府)に政権を建て(河内政権)、更に大和(現奈良県)に進出して政権を建てた。これが、ヤマト(大和)政権である。以上のプロセスを、神武天皇一代の物語として記紀に記したのが、いわゆる「神武東征」である。なお、西方からの弥生勢力の東方進出についての伝承が反映され、取り込まれることで「神武東征」は神話化している。これが生駒の神話である。

 政権を樹立した人物に「神」の付く諡号しごう(死後に生前の事績に基づいて贈られる名)が贈られたと考えられ、実際は、神武天皇と諡号されている人物が九州統一政権を、崇神天皇と諡号されている人物が河内政権を、応神天皇と諡号されている人物が大和政権を樹立したと思われる。

 以上の、邪馬〇国を滅ぼした日向政権が東に進んで河内政権・大和政権を建てたことで「邪馬台国東遷説」が生まれた。

 また、邪馬〇国を滅ぼした日向政権が大和政権「を建てた=に発展した」ことで「邪馬台国大和説」が生まれた。  

 ⑤大和政権は最後まで誤魔化しを貫くために、邪馬〇国について、 彼らが作成した古事記では全くふれず、日本書紀の「神功皇后」の巻の後半部に、ごくわずか、しかも、神功皇后が卑弥呼であるかのように、中国の文献ではこう書かれているとして、次のように記すのみであった。

   皇后即位して三十九年、この年の干支えとは太歳たいさい己未つちのとひつじ。ー魏志倭人伝によると、明帝の景初三年(紀元239年)景初二年との説もあり六月に、倭の女王は大夫難升米なしめらを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢みつぎをもってきた。太守(帯方郡の長官)の鄧夏とうかは役人をつき添わして、洛陽にいかせた。

   四〇年、ー魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携けんちゅうこういていけいらを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。 四三年、ー魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫の伊声者掖耶<これが1人なのか、伊声者と掖耶の2人なのか、正確にどう読むのかなど不明ら、八人を遣わして献上品を届けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」(戦い=暴力を否定する精神) 

PDF版.pdfもご参照

(1)縄文人は、「食べるため以外のために殺す」(これを殺戮という)ことは不可能な人々でした この記事の中の「<日本列島先住民族=狩猟採集民族=縄文人> について」をご参照)

(2)そのため、1万年にわたる縄文時代に、日本人には、「殺戮しない・できない精神」が形成され、列島先住民(縄文人)と半島からの渡来人(弥生人)とが出会い衝突した縄文時代から弥生時代への移行の時代に「国譲り」<注1>が行われる中で形成された日本民族にも、それは「非戦・避戦の精神」(殺戮をおこなう「戦争=武力」と、それを引き起こす「強制力=有無を言わさない無理やりの力=暴力=実力」に頼る愚劣さ、を忌避する精神) として継承され、集団的無意識注2 として今日に至るまで受け継がれてきました。

  <注1>国譲り・・・縄文人が弥生人を受け入れ、両者が共存・融合することで、里山()がひろがる日本国土が形成されていったこと

    ()里山・・・お花見に象徴される弥生的な要素と紅葉狩りに象徴される縄文的な要素とが共存・融合した生産様式・生活・文化・景観のある地域

  <注2>集団的無意識・・・集合的無意識・普遍的無意識ともいう。無意識のうち、個人を越えて、集団・民族・人類の心に普遍的に、祖先の経験した行動様式や考え方が遺伝的・本能的に受継がれてきたもの。消滅することのない基層文化異文化との接触,被征服などによる外来文化の受容や内在的な文化的発展などの変動にもかかわらず,長期にわたって持続しその地域や民族の文化の固有性の中核になっている文化と言い換えることも可能。

(3)縄文人の即自(否定されるという試練をまだ受けていない状態)として形成された非戦・避戦の精神は、縄文時代から弥生時代への移行時に、弥生人による国家(=抑圧機構)建設という対自(自己を否定されるという試練)を克服することで、縄文人と弥生人が出合うことで形成された日本人の集合的無意識(抑え込まれることはあっても消滅することなき基層文化)となりました。このような、日本人が非戦・避戦の精神を持つ民族として形成され、その精神が日本人のアイデンティティとなるために経なければならなかった試練を今に伝えているのが生駒の神話です。なお、その精神は、国家の時代(弥生時代以降)に入ると抑え込まれてきましたが、消滅することなく、後述のような系譜をたどり、他国には見られない、自民族をも絶滅に導かんとした日本国家の未曽有の殺戮(アジア太平洋戦争)を機に(つまり、非戦・避戦の精神への抑圧を許してしまったことが殺戮を招いた反省をばねに、あるいは、殺戮による死者に叱咤されて<>)、国家による殺戮を禁止する日本国憲法を成立させることになります。

     <権力への歯止め、主体は死者ご参照 

(4)非戦・避戦の精神の系譜は次の通りです。なお、文中で「説話」としているのは、記紀に記載されていることは史実であるかどうかが不明なものが多く、史実か否かにかかわらず言い伝えられてきた話か史実を基にしたつくり話なので、そのようにしました。

 ①縄文時代から弥生時代への移行期につくられた生駒の神話は非戦・避戦の精神に貫かれている・・・「生駒検定<全国版>」の <問1>の解答・解説/問題文ご参照

 ②(神武)天皇がお隱れになってから、その庶兄ままあにのタギシミミの命が、皇后のイスケヨリ姫と結婚した時に、三人の弟たちを殺そうとして謀はかったので、(略)御子たちが(略)、驚いてタギシミミを殺そうとなさいました時に、カムヌナカハミミの命が、兄君のカムヤイミミの命に、「あなたは武器を持ってはいってタギシミミをお殺しなさいませ」と申しました。そこで武器を持つて殺そうとされた時に、手足が震えて殺すことができませんでした。そこで弟のカムヌナカハミミの命が兄君の持っておられる武器を乞い取って、はいってタギシミミを殺しました。(古事記 神武記/青空文庫より引用)<カムヤイミミの命の殺戮否定説話

 ③景行天皇・ヤマトタケルノミコト(記では倭健命、紀では日本武尊)親子は、争う原因が生じた弥生時代になっても、争いの必要ない縄文文化が息づく平群の山を詠った歌謡を、故郷を偲ぶ集いで歌った<争いのない文化希求説話>・・・矢田丘陵(記紀では「平群の山」)の「(3)国思歌くにしのひうた(国しのびの歌)になぜ平群山が詠われるのか」ご参照 

 ④天皇が東国征討をしようとしたとき、日本武尊が兄弟の大碓皇子おおうすのみこを遣わすよう進言したが、皇子は驚いて草の中隠れた(日本書紀 景行紀)<大碓皇子の征討拒否説話>。

 ⑤神功じんぐう皇后に神託された(つまり、神がかりとなった神功皇后の)戦争せよということばを否定しようという動きがあったことを今に伝える記紀説話、つまり、戦争に反対した仲哀ちゅうあい天皇が急死した(日本書紀 仲哀紀/古事記 仲哀記)との仲哀天皇の非戦説話や「軍卒が集まりにくく、戦う国も見えない」(日本書紀 神功紀) との戦争否定説話が記紀に記録されている・・・「生駒検定<全国版>」の <問21>の問題文と解説の(1)ご参照 

 ➅神が神功じんぐう皇后の戦争を否定するという2つの生駒に伝承されてきた説話(神功皇后と鶏」と「生駒の産土神の鶏追とりおい) 

 ⑦天皇は舎人に猛たけきシシを射てと命じたが、舎人は恐れおののいて射ることができず、シシは直進して天皇に食いつこうとしたので、天皇は自らシシを射ち、自分を危機に陥れた舎人を斬り殺そうとしたが、皇后は天皇に味方しないで舎人のことを大事に思って天皇を諫めて「陛下がシシのことで舎人を斬られたら、陛下はオオカミに異なりません。」と進言したので、天皇は殺すのをやめ、帰る途中、「万歳よろずよ」と叫んで、「楽しいことだな。人はみな鳥や獣を獲物とするのだが、自分は狩りをして、良い言葉を獲物として帰るのだから。」といった(日本書紀 雄略紀)<雄略天皇の皇后の殺戮否定説話>。

 ⑧百済の王に仕えた倭系(日系)官僚の日羅が帰国し、「天皇が天下を治め給う政治は、必ず人民を養うことであり、にわかに兵を興して、民力を失い滅ぼすようなことをすべきではない」と天皇に進言した(日本書紀 敏達びたつ紀)<日羅の非戦説話

 ⑨山背大兄王やましろのおおえのおう戦って勝ったからといって丈夫ますらおと言えようか。おのが身を捨てて国を固められたら、また丈夫と言える 」「人民を死傷させることを欲しない。 」(日本書紀 皇極記 古代生駒も舞台とする山背大兄王の非戦説話)・・・「生駒検定<全国版>」の <問24>の(13)の問題文/解答・解説ご参照

 ⑩乙巳の変で入鹿が殺害されたとき、その現場にいた古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこは、私邸に走り帰って、人々に「心痛む」といい、寝所に入ってとざして出ようとせず、その後、即位することを勧められたが、出家して吉野へ隠退するといって断り、腰の大刀を解いて地に投げ出し、舎人(家来)らに命じて、大刀を捨てさせた(日本書紀 皇極紀/同 孝徳紀)<古人大兄皇子の殺戮否定説話 

 ⑪ある人が有間皇子ありまのみこを諫めて「武力行使は徳のない行為です。徳をつけるべきです。」といったので皇子は武力行使をしなかった(日本書紀 斉明記)との、古代生駒を舞台とする有間皇子の避戦説話・・・「生駒検定<全国版>」の <問24>の(11)の問題文/解答・解説ご参照

 ⑫万葉集の乞食者(ほかひびと)が鹿・蟹のために痛みを述べて作れし長歌二首殺戮を諌める歌 

 ⑬アテルイの悲劇アテルイは同士モレと共に、大和王権と日高見ひだかみ(現東北)の国が戦わずして講和するために敵の心臓部である京都の都まで出かけましたが、河内国杜山もりやまで無残にも斬刑に処されてしまいました。 )・・・生駒の神話と現在の(2)ご参照   アテルイについてよく知るための参考.pdf 

 ⑭対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務に携わった雨森芳洲(1668‐1755) の外交方針「互いに欺かず、争わず、真実を以もって交わること

 ⑮明治から戦前にかけての「非戦・避戦の精神」の顕現

 ⑯日本国憲法「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 」

(5)縄文時代に形成された「非戦・避戦の精神 」は、日本民族にも受け継がれましたが、弥生時代に入って、「強制力(有無を言わさない無理やりの力)=暴力=実力、この最たるものが戦争=武力」を属性とする 「国家」(人民を支配するための機構・機関)が成立し始めると、押え込まれていきました。しかし、武士(天皇・貴族のように「権威や特権に頼る」のでなく、「<自力=実力(武力)>に頼って」人民を支配するもの )の時代に入るまでは、(3)ー➀~⑤のように、その系譜は見える化されていました。鎌倉時代当初は公(朝廷=天皇・貴族)武(幕府=武士)2元体制でしたが、ほどなく武の力が公を上回るようになり戦国時代末期・江戸時代当初には武の完全支配体制が確立しました。このような武力(実力)がものをいう時代に「非戦・避戦の精神 」は、まったく押え込まれてしまいました。しかし、明治維新で武士の時代が終わると、「非戦・避戦の精神」の顕現(見える化)は盛んとなり、 薩長土肥といった旧武士勢力が作った大日本帝国がアジア太平洋戦争をおこなって多くの人々を犬死させたことで崩壊すると、「非戦・避戦の精神 」 は一気に力を回復し、その精神を柱とする日本国憲法を成立させました。この憲法は、➀平和主義・②基本的人権尊重・③人民主権を主たる内容とするものです。➀はもちろん「非戦・避戦の精神 」 に立脚するものです。最大の基本的人権侵害は戦争であり、②を保障する最大の力も「非戦・避戦の精神 」 です。そして、みんなで政治を動かすとの③は、 統治者の実力(強制力)行使によって壊される脆弱性をもっていますが、それを防ぐのが「非戦・避戦の精神(実力を頼みに事を運ぶことを許さない精神) 」です。

(6)非戦・避戦の精神の系譜の今日的到達点が、日本国憲法です。しかし、その憲法制定直後より、日本の統治者は、日本国憲法を壊す(憲法改悪)の施策をおこなってきました(鳩山一郎内閣が憲法改定を主たる政策に掲げるなど)。しかし、その目論見は、憲法公布から約75年もたった現在(2019年8月)も成功していません。その理由は、戦後日本人の戦争忌避精神は、300万人強の日本人と3000万人強の諸外国人の殺戮をもたらしたアジア太平洋戦争によってより強固となった 集団的無意識になっているからです(ご参照)。従って、 現在、日本の統治者は、憲法を改悪せんとシャカリキになっています(そんな中で、衆院議長のパージ発言も飛び出した)が、それは、返り血を浴びて不成功に終わるでしょう。万一成功しても、集団的無意識は、意識とは違って押え込むことはできても消滅させることはできませんので、自衛隊員や市民が何人か犬死した時点で、その力は復活し、統治者を粉砕することになります。しかし、それを待っていたり、何人犬死すれば統治者は粉砕されるのかを思案したりするのは不正義なことです。犠牲者がでないように、武力行使なき内戦に打ち勝つよう努めなければなりません。

(7) 権力とは「強制力(有無を言わせない無理やりの力)=暴力=実力」です。これを規制するものがなければ、非戦・避戦の精神の発揮は(3)の精神の系譜で記されているように悲劇をもたらし 、また、戦前(大日本帝国)のように権力は暴走を続け、究極は自国民に全員玉砕(自民族皆殺し)を強制するものとなってしまいます(日本型ファシズムと改憲をめぐる武力行使なき内戦ご参照)。権力を規制するものとは、大日本国憲法のような、あたかも日本が近代国家であるように見せかけるためのアクセサリー憲法ではない民主憲法たる日本国憲法です。特に日本国憲法は「非戦・避戦の精神=暴力を許さない精神」が貫く憲法であり「権力=暴力」を強力に規制・抑制する力をもっています。 しかし、現在の日本では、日本国憲法が十分に実行されていないため、戦争法・特定秘密法・共謀罪法・カジノ法といった違憲法が制定され、基本的人権侵害行為が横行しています。今、なされなければならないのは、憲法を完全に実行することであるにもかかわらず、その真反対のこと、数々の違憲法や基本的人権侵害行為が合憲となるように憲法改定をせんとする動きが進められています(改憲問題については生駒の神話と現在もご参照)。